「あたし帰った かえったわよ」
舞がお盆にやってきた/大阪が大好きだった彼女も、かつては元気はつらつ/画面の人々と同じように大阪の街を闊歩した
そして。十六日朝、舞の魂は能登半島沿いに大空へと飛び立っていった。
※ ※
☆ ☆
二〇二三年八月八日。立秋。青い空に白い雲が浮かぶ。その雲から一羽の鳥がチュチュチュ、チュと声を上げ、大空高く翼を広げて飛び立った。この鳥は、一体全体どこに行くのだろうか。近年にないのろのろ台風6号が再び沖縄から九州に向け、近づいている。そんな日の濃尾平野上空でのひとコマである。
たつ江、たつ江。舞、マイ。……
きょうも私は一日に何度、この言葉を空に向かって矢の如く放ったことだろう。これでは狂人も同然である。
グリーンの愛車・パッソのハンドルを手に、半ば放心状態となって、ただ繰り返し、呼びかける。「あのねえ~、何を言っているのよ。あたしがいるこちらの世界には、もう言葉なんて存在しないのだから。あなたに呼びかけられたって。残念ながら、わからないと思う」
そんな返事もよそに私はハンドルを手に、空高く浮かぶ雲たちに向かって何度も何度も恥も外聞もなくさらけ出し、わが妻の名前を呼びかける。さっそうと自転車に乗ったすれ違いざまの女を目の前に、そういえばたつ江の自転車に乗る姿はいつも雄々しく、どこかセクシーでゆったりとしていたな、と今さらながらに思い起こすのである。
あれから二年がたとうとしている。
私はわがいとしの妻たつ江(伊神舞子)との物語をたとえ僅かでも、真剣に読んで頂けるそんな読者一人ひとりに向かって、これからこの物語を書き進めたく思う。何千、何万の読者もいいが、私の場合は、たったひとり真剣に読んで頂け、しかも共感してくださる、そんな読者に巡り合えれば、それだけで嬉しく、たつ江の霊(静汐院美舞立詠大師)も浮かばれ、幸せなのである。おそらく、私がこの世で無限大に愛し続けた彼女だって同じに違いない。そして。その分だけ、この地上の人々がにこやかに楽しく、かつ幸せな人生を過ごすことができたのなら。私たちにとっても、それ以上に嬉しく望むことはないのである。
(序章)
二〇二三年七月十七日。海の日。
「あのね。あたし、あたい。たった今。あの世から帰ってきたのよ」「帰ったわよ」
「ほんと。ほんとなの。おかえり。でも、おまえのあの懐かしい声は、確かにどこからか。聞こえてはくるのだけれど……、おまえの姿が見えないよ。一体全体、どこにいるのだ。まさか透明人間になってしまったのではないよな」
「何を言っているのよ。あなた。あなたのすぐ隣、目の前でこうして座っているじゃない。なのに、あたいの姿が見えないの。なぜ、なぜ見えないのよ。ほらっ。内輪を手にあたいがいつも着ていたピンクの浴衣、着て座っているじゃないの。それなのに、分からないだなんて。おかしいよ。あたし、あなたとシロちゃん(愛猫)に会いたくてきたのよ。でも、すぐに帰らなきゃ。時間が決められているのよ」
「いつから、そんなシンデレラ姫みたいになってしまったのだよ。何を言っているのだ。やっと帰ってきてくれたというのに。ここにそのまま居たらいい。いつまでも。どこにもいかないで居てほしい。たとえ、オンボロロではあっても。おまえが苦労し、いろいろ考えて作った俺たちの家じゃないか。きょうは、おまえも覚えているように俺のおふくろが、百歳近くになってなお、自分でこしらえ、自ら車を運転して持ってきてくれた超特大のスイカもある。せっかくだから。たとえ少しでも食べていきなよ。その方が俺と一緒におまえの帰宅を待ち続けていた愛猫シロちゃん、オーロラレインボーも喜ぶはずだ。俺だってうれしいよ」
「うん。ありがとう。あなたの言葉、うれしいわ。おかあさんが作ってくれたスイカもむろん、良いけれど。こうしてあなたとあなたの傍らのシロちゃんの顔を見ることが出来て、声まで聴けて。それだけで大満足だよ。また来る。きっとくるからね」
わたくし。私には、おまえの気配と声は十分にわかるのだが。一体全体、どこにいるのか、が分からない(ここで、私たちは食卓に切ったままにして置いた、それは見事なスイカを、ひと切れひと切れ食べ始めたのである)。
その夜。まさか、わが妻たつ江(伊神舞子)が俺のところに帰って来てくれただなんて。一体全体誰が信じるだろうか。でも、本当なのだ。おまえがこの世を旅立ってから帰宅する日を毎日、首を長くして待ち望んでいただけに、とてもうれしい。
ホントに、おまえが目の前に現れ出るとは。夢にも思わなかった。でも、もはや命を落とし死んでしまったはずの舞がその日は、本当に翼を広げ、チュッチュッ、チュッチュッチュとかわいい小鳥になって、わが家に飛んで帰宅してくれていた。このことは、事実なのである。その日、普通では、とても信じられないことだが夢の中の私と妻の舞、シロちゃんは思ってもいなかった再会を果たしたのである。
でも。そうは言っても、だ。生前、あれほどまでに平和を願っていた舞も昨年二月二十四日のロシアのウクライナへの一方的な侵攻をはじめ、安倍晋三元首相の銃撃死も、朝ドラ「らんまん」の放映、新しいスーパーふたつのこの町への出店も。町が変わり、世の中が一変してしまった事実を何ひとつとして知らない。ただ生前、愛していたシロちゃんのことだけは、知っていた。
「シロ、シロ。シロちゃん。元気でいた? 相変わらず、お美人さんだね。肥満になってないわよね。よかった」と何度も何度も話しかけ、シロがそのつど、あげる「ニャア~ン。ニャア~ン」の甘えた声に満足そうに天下一品の声で「ハイハイ、ハイハイ。元気でいたのだね。おかあさん心配していたのだから。よかった。よかったよ」と頭をさすったりするのであった。
1.
七月十三日。海の日。外は雨。雨である。
雨が大気という大気に張りつくようにシンシンと降り注いでいる。私、わたくしの心は雨色に染まっている。私はそんな雨の一粒ひと粒に何かを訴えようとするのだが。雨は軒先をたたく音の大きさのわりには、何ひとつ応えようとはしてくれない。それでも透明で澄んだ雨粒ひとつひとつの中に、おまえ、たつ江(伊神舞子)の世界があり、おまえは生きている。舞はこの世に存在しているのだ、と。私はそう確信している。雨粒、いや雨音と時折、大気を蹴って吹き抜ける、さやかな風の流れのなかにもおまえの命は潜んでおり背後には地球、いやいや、もっともっともっと大きな限りなき宇宙のような存在がひしめいている。私は、姿を決して見せないおまえとこの世の素顔をそのように思うのである。
雨が止むと、今度はかぜたちが真正面から吹き込んで流れ、私の全身に突進してきた。かつてはいつも一緒だった私とおまえ。ふたりは、この世の中の一体全体どこにいたのだろう。もしかしたら風のなかにいたのかも知れない。ボブディランの歌のように。【風にふかれて】。私は、おまえをどこまでも抱きかかえ、待ち続ける。そうだ。生前のおまえが、いつも待ち望んでいた平和な世の中を、である。この地上でどんなに見苦しい戦争が存在しようとも、だ。私、すなわち俺も、おまえも、だ。いつも平和な社会を希求してきた。
でも、現実は違う。たつ江、すなわち舞は「あたし帰ったわよ」と言うが、幻覚に過ぎない。いま、おまえが一体全体、この広い空のどこをどのようにして魂となって泳いでいるのか、が私には分からない。この世のどこらあたりにいるのか、を知らない。この世から既に消えた地上の死者、おまえがどこにいるかは、皆目見当がつかないのである。
けれど。元気で。笑顔で居てくれさえすれば、それでよい。ところで、おまえも十分知っているように、だ。この現世でニンゲンたちが生きていくということ。そのこと自体が、大人から子どもまで、とても大変なことである。そのことは全てのニンゲンに言えることであって、それこそ一つひとつの生が、奇跡そのものなのだ。生前、俺がおまえに何度も言ったように。ニンゲンの存在そのものが、だ。無。無。無の連続である気がしてならない。このことはおまえが生きていたころ、共に自宅からリサイクルショップ「ミヌエット」まで。約300~400㍍はあろうか、おまえの店に続く。そう、その桃源ロード(私たちは、この道をふたりでいつも勝手に【幸せなマイロード】と呼んでいたのだが)を歩きながらいつも言っていた。生きていくってことは。だれだって。本当に大変だよな、と。俺たちは奇跡の海のなかを生きているようなものだナ、とも。当たり前のことではあるが、人間たちは誰だって、いつも奇跡のなかを泳いでいるのだ、と。
それでも、この星に住む地上では、そうした大変さを十分に知り尽くしているはずの女や男たちが、きょうも明日もあさっても、だ。それぞれの夢や希望、思いを胸に、どこに行くとも知れず、それぞれに定められた地球、いや宇宙の片隅を歩いている。さまよっている。大半があてのない旅を、だ。最近ではインターネット社会がますます深化し、ネット三昧で余生を過ごす人々が限りなく増えつつある、とも聞く。そんなわけで今では高齢とはいえ、ネット社会の存在が心の支えになっている人々も結構多いみたいである。
私、すなわち<わたくし>。かつてのおまえ、たつ江の夫であった相棒の私はこのところ少しだけ肥満気味とはいえ相も変わらず、腰をヨッサヨッサとゆすって堂々と歩いて見せる、あの百獣の王にも似た〝ライオン歩き〟が見事と言っていいほど十分に似合う白い貴婦人ぶりを発揮している愛猫シロ、すなわちオーロラレインボーを傍らにきょうも見えない空気、大気に向かって、こう問いかける。
「たつ江。舞よ、マイ。おまえの姿は今では俺の目には全く見えない。でも、元気でいるか。楽しい日々を過ごしているか。おまえの自慢でもあったシロちゃん。彼女は元気でいるからナ。心配しないで」と。
そして。その瞬間。見えない風がそれこそ、何かに吹かれて、だ。大気の中をそよぎ、いたずらでも楽しむように、頬をふんわりフワリとなでて通り過ぎ去っていく。私の上半身に触れて何かを楽しんでいるようにも感じられる。そこで。私は。風の中のおまえ、舞に向かってこうも付け加えた。
「オレたちのことなら何でも知っているシロ。こよなく美しい白い貴婦人、オーロラレインボーちゃんなら、元気でいるから。心配ない。安心してよいからな。彼女、きょうも雷がきたときは、しばらくどこかに姿をくらましてしまったけれど。やんだら、いつのまにか室内に出てきていた」と。彼女は、舞とベッドを共にしていたころから、雷が大嫌いでいったい全体どこに隠れていたのやら。おまえが生きていたころと同じで、それが分からない。とはいえ、雷が去れば、シロちゃんはどこからか、また、八頭身の見事な姿を現すのである。おまえが居たころと同じだ。
それはそうと、毎日毎日、何度も何度も俺と舞が一緒に歩いた桃源(トウゲン)通りに福寿(フクジュ)交差点。あのころ、舞のからだは蝕まれ、既に相当弱っていて一歩一歩あるくこと、そのこと自体が大変だったのだが(舞は、それでも毎朝自転車を杖代わりに引いて私に見守られながら、自身の足を一歩一歩前に踏み出し、ミヌエットまでの道のりを懸命に歩いたのである)。私たちふたりはこの町でも、誰が名付けたのか。とびっきりいい名前の桃源通りを歩きながら、この世には本当に夥しく多くの人たちが皆、生真面目な顔をして生きている。いや、生きていくのだなあ、と。妙につくづく感心したりもしたものである。
そして。この、ちいさな町中にあっても日々、すれ違う人々の大半がこの世でその瞬間、瞬間に初めてすれ違う、そんな未知の人たちばかりだ。一体全体、これらの人々はこれから先、この地球上のどこに吸い込まれていってしまうのだろう。などと、そんな妙なことに頭を泳がせながら「この世の中って。とても変で神秘的だよね。おかしいよな」と互いに話し合いながら、時折、笑顔で道を歩く人々に視線を注いで会釈し、この人もあの人も奇跡のめぐり逢いだな、と。そう自らに言い聞かせながら、歩いたりもしたのである。
そのこととは別に、このところ、俺が毎日風呂上がりの夕涼みでベランダに立つと、シロもどこから現れるのか。決まって私の傍に駆け込んできて、ベランダのもう一方の側に立つ。吹くかぜが、とてもからだにしなやかで、われながら気持ちがいい。おそらくシロもそのかぜがからだに合うと見える。そして。これらのかぜたちは十かぞえる間に決まって一度は私とシロの頬を撫で、いたわるようにさあ~っと傍らを吹き抜けてゆくのである。なぜか、その瞬間にあわせでもするように、決まって一羽の鳥が目の前に急に現れ、まるで「見てよ。見ていてよね」といったふうに空高く弧を描いて舞い上がり、チュッ、チュッ、チュ、チュといった声を大空高くあげ、やがて視界から消え去っていく。その姿が何とも優美かつ爽快で俺とシロは思わず大空をみあげたまま、「あぁ。すごい。すごいな」と、またしてもその鳥の行き先に視線を泳がせるのである。
風呂から出てベランダに立ち、夕涼みに立つ私。そして一緒にいつだって、さも当然のようにベランダ片隅に座って夕方の気持ちの良い風に当たる愛猫シロ。彼女、シロことオーロラレインボーもその一羽の鳥に気付いているようだ。あの鳥はおかあさんだ。おかあさんに決まっている。おかあさんに違いない。おかあさんがやってきた。おかあさんだ、と。私の方を振り返り、視線でそう訴えかけてもくる。
2.
自宅の電話が鳴る。そうかと思えば、こんどは俺のスマホがピコピコピコ、ピコピコと音を立てる。俺はそのつど、愛猫シロと一緒に両耳をそばだて、「あっ。もしかしたら。たつ江、舞、おかあさんからではないか」と思う。そして。受話器を耳に当てれば、いつだって、あの落ち着いた調子の「あのねえ」といった艶のある声が天空を破って耳元まで聴こえてくる。「あのねえ、あの」と切り出すのがたつ江の常だったのだが。このところ鳴る電話の相手は、その全てが彼女とは別のものである。
たつ江がこの世を去って、早や二年になろうとしている。
私とシロは毎日、ふろ上がりの夕方、そろって二階ベランダに一緒に立ち、風になったたつ江に会うことにしている。そんな彼女は、日によってさわやかだったり、ともすれば空高くポッカリ浮かぶ三日月の影星になったり、時には空からその部分だけが今にも落ちてきそうな、どす黒い雲であったりしたが、それでもいつの時にも鳥になってチュチュ、チュの声をあげて私とシロをいたわるように近づき、見守り続けてくれるのである。そして。こうしてベランダでシロと立ち、この初夏の季節にしてはとても心地よい夜の風が流れ、ほほをなでるなか、見えない空気、大気に向かって、こう問いかけるのである。
「たつ江。舞。マイ。元気でいるか」と。
私は、あえてそう声をかけてみる。声をかけながら「もはや、俺は生きていたところで仕方ないな」と思ったりする。すると、空気が膨らみ、どこからか、またあのチュチュチュ、チュチュといった甘い声が聞こえてくる。おまえは鳥になってしまったのか。
と、一羽の鳥が目の前を水平飛行したかと思うと大きな円を描き、どこかに飛び立った。チュ、チュ、チュ、チュ、チュと小鳥はさも嬉しそう、かつ得意げでもある。
いつのまにか、場面は一変。こんどはひとりの女性が日傘なのか。中央部分にピンクの大きなハートがあしらわれた傘をさし、わが家の前を、とぼとぼ、ヨロヨロと玄関先に懐かしそうな視線を泳がせながら、一歩一歩、足を踏みしめるようにして通り過ぎていった。それにしても、この女性は一体全体、何者なのだろう。確かに後ろ姿は、どこかで見た記憶はある。もしかしたら、たつ江、舞かも知れない。いやいや、そうであるにちがいない。
私には、なぜかその女性がつい先日まで私と共に暮らしていた舞の〝人仏(ひとぼとけ)〟すなわち亡くなりはしたが、まだまだずっと、ずっと傍で生きていてくれる妖怪のふ・ん・が・も。〝ふんがもさん〟みたいな気がしてならない。そういえば、昨年もことしも春先になると浴室ガラス窓に、あのヤモリが吸い付くようにベッタリと這いつくばっており、しばらくすると白い跡だけを浴室ガラス窓にくっきり残し、いつのまにか、どこかに消え去った、あのヤモリかも知れない。その私の愛しい彼女がこんどはヤモリから〝ふんがも〟となって住み慣れたわが家を懐かしんで家の前をトボトボと歩いていったのだろうか。
それはそうと、一昨年十月に【秋一日絨毯と飛べ我が部屋ごと】【赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり】などの俳句をはじめ、多くの短歌に1行詩、詩を遺してこの世を去って逝った、妻のたつ江(舞)。彼女は今、一体全体この宇宙のどこでどうして生きているのだろうか。私はそう思うだけで胸が熱く、涙が出てくる。長年連れ添って共に生きてきた亡き妻を自分で言うのもおかしいのだが。純情可憐、全身無垢な女とは、彼女のことをいうに違いない。
「ところで一体全体、おまえ。おまえは、どこに行っていたのだ。これまで何度も見た夢の中でも随分と日本中をあちらこちら歩き回り、捜しまわったのだが。おまえは一向に姿を見せてはくれなかった」
「あのねえ。それはひ・み・つ。秘密なの」「それより、あんた(彼女は晩年になり、なぜか夫の私に〝あんた〟と意識して呼ぶことがあった)。元気でいた? あたし。いや、あたい。あんたのことが、とても心配で。心配でたまらなかったのだから。ほんとよ」「あたいは、あんたを好きでたまらなかった。ということは、やはり、あたいはあんたを好きだった、ということなのかな」
「うん。俺はなんとか。こうして生きてはいるよ。だけど、おまえがいない世の中だなんて。どんなにおいしいものがいっぱいあったとしても、だ。面白くもなんともない。第一、せっかくのおいしいものを、おまえに食べてもらえんじゃないか。やっぱり、おまえ。おまえが居てくれてこそ、この世は面白い。生きがいがある。だから、これからもいつだって俺のそばに居てほしい。ひと言もしゃべらない。それこそ、路傍の石のような存在だったとしても、だ。傍にいてくれさえしたら、それだけで嬉しい。おまえがこの世に居ないのでは。第一、生きている気がしないよ」
「さあどうかしら。ほんとかね。路傍の石だなんて。あたいを石にしちまうの。そんなこと、とても無理だよ。あたいを喜ばせるため、そう言っているだけじゃないの。昔から女性をくどく。口説き文句は天下一品。誰よりも上手だったのだから。あたし。み~んな。知っているのだから。あんたのことは。そのことはシロ、そうオーロラレインボーちゃんだって、あたいに教えられて知っているよ。だって。あたいとシロちゃんは、女同士だもの。あたいたち、運命共同体的な存在だと言ってもいいんだから。
いずれにせよ、あたし。あたいは、もうあんたが住む世の中、あんたたちの世の中にはいないのだから。あなたって。相変わらず、口がうまいのだから。これまで一体何人の女性を騙してきたの。泣かせてきたのよ。あたい。わたしはねえ。あんたの女たち。ぜ~んぶ、知っている。知っているよ。イチ、ニィ、サン、シー……。確かに、みんな素敵な方ばかりだったわよね。あんた。それはそうと。デどう。あたいのいない世界。そろそろなれたかしら。面白い? 楽しい? あたいのこと、心配してくれてる? 今でも」「新聞記者は、殺しやサンズイ(汚職)など。どんな薄情極まる事件はむろん災害、事故現場にも遭遇するか知れたものでない。だから、誰よりもホットな半面、だれよりも非情でなければ務まらない、だなんて。名文句をそのたびに聴かされたわよね。そう言って、それこそ多くの女性を泣かせてきたことだって知っているのだから。あなたって。ほんとに悪い人よね」
彼女はそう言って、私を覗きこんできた。
「何を言っているのだよ。面白いはずなんか。あるはずないじゃないか。何度も言うが、おまえのいない世の中だなんて。面白くもなんともない。おまえが俺と一緒にいる。だからこそ、楽しくてスリルがあって面白かったのだよ」
「デ、ところで何かいい話はないの。楽しい話があったら洗いざらい教えてよ。ステキな女性が出来たとか。あたい、ホントに気になるのだから。あなたのこと。教えてよ。ネ!」
ここで彼女はあらためて首をかしげる。
そして。疑問符でもなげかけるように、いつもの調子で俺に向かって、もう一度こう言った。「ねえ。教えてよ」と。
(ここからは女と男の独り話になる)
――ところで。あたい。今になってあらためて、この世で生きている、すべての人に敬意を表したい。善とか悪とかは別に。どの人もこの人も、にです。みなさん。み~んな。だれもが、です。それこそ、花も嵐も乗り越えて。よくぞ、毎日を、けなげにも生きておいでだな、と。極端なこと言えば、どの赤ちゃんだって、よ。毎日を一生懸命に生きているのだから。そう思うの。
そういうあたいは最近、大好きだった人間社会から足を抜け、はや二年になろうとしています。デ、こちらの世界では涙とか、悲しみだとか。そういうものを知らない、あたいの晩年にあなたが言っていた通り、それこそ今は無の世界で無の存在、大気の一部となって風たちと一緒に戯れながら生きている。世は無情で、いや、もしかしたら<かぜ>そのものになってしまったかもしれない。
そして。生きていたころ、それは晩年でしたが一階ベッドからあなたのいる二階寝室にまで上がることができなくて。よく言ったわよね。「あたし、体力がなくて。階段を上がれないのよーって」。そしたらあなたったら、そのたびにこう言ったわ。『ホントに。おかしいな』だって。わたしは階段の手すりに全身を支えながら上に行こう、行こうとして一歩一歩上に歩いていきながら、そう言ったのに。あなたって。本当に冷たい人だったわ……」
「そうか。そうだったのか。今さら謝ったところで仕方ないのだが。ホントだった、だなんて。俺は迂闊な男だった。そして。俺はおまえが逝ってしまってから、おまえに会いたくて仕方ないことに改めて気がついた。でも、ほんとに良く来てくれ、心底嬉しい。いまでは、おまえが死んでしまってから、なぜ、顔はおろか、声さえ聴くことが出来なくなってしまうのか。それが、悲しくて悔しくて。残念で仕方ない。やるせないのだ。あの甘い口のなかでいつも鈴を転がして鳴らすような、そんなおまえ独特の金色に光る生の声を聴いてみたい。のに、だ。
ところで、鈴虫といえば、だ。志摩半島阿児のお寺さんに毎年夏になると、鈴虫リンリン会に一緒に行ったよな。どの鈴虫の声が一番良いかを競うコンテストで、思えばとても楽しい会だった。しかし、今の俺は、おまえのあの甘えたような声ひとつ、聴くことが出来ない。なぜ。なぜなのだと大声で叫んでみたところで、おまえの声はもはや、この地上からは消えてしまった。AI(人工知能)で復元できないものか。真剣に思う」
―私は、ハンドルを手に亡き妻の顔を何度も何度も思い浮かべ、運転席の窓を開け、大気に向かって、見苦しいほどに〝たつ江。舞。マイよ、マイ、元気でいるか〟と叫んでみる。そして、生きている。生きていくってことは、おまえの言うとおり、どの人にとっても大変なことだな、とつくづく思うのである。そして。わたくし、私は舞が発しそうなあらゆることばを駆使してこの物語をさらに進めていこう、と。そのように思う。
話は振り出しに戻る。たつ江が天界から地上に舞い戻ってきたところに戻ろう。
「あのねえ。あたし帰ってきたよ。どこからだって。家の外、外よ。天からなの。あなたが昔、取材でよく乗ったヘリコプターとか飛行機とか。何もなくたって、だよ。いったん死んで旅立った人には全員に、見えない黄金の翼が与えられるの。だから。その翼で大気を漕いで、ここまできたのよ。松本は上高地の北アルプス上空から熊野灘を見下ろす志摩半島、多くの事件、事故、災害現場を思い出させる小牧国際空港(名古屋空港)にあった新聞社の格納庫、それから志摩半島上空から能登半島、琵琶湖を見下ろす大空まで。み~んな、飛んできたわ。あなたも、あたいにとっても、懐かしいところばっかり。最後は、木曽の流れを眼下に見下ろす尾張平野。どこもかしこも忘れられないところばかりよ。もちろん、シロちゃんにも。会いたくて。こうして翼を広げて、最後はお空の空気を両手でかいて、ここまで来たのだから」
「それはそうと。おまえは今、この晴れた空の下の一体全体どこにいるのか。青い空に浮かんで漂う雲の中にいるのか。海、といえば。御座白浜海岸それとも門前の鳴き砂の浜にいるのか。志摩であれ、能登であれ、一緒によく足を運んだ半島の灯台近くにいるのか。志摩半島の安乗、波切、大王崎……、それとも能登の禄剛崎、舳倉島、能登島か。……あぁ、射光がまばゆい。でも、おまえ、たつ江が今この世界にいることだけは間違いない。俺はいつだって、そう信じている。
【また君に恋している】。おまえは坂本冬美のこの曲が大好きだった。なぜかしら、俺が好きだった石川さゆりの【天城越え】はあまり好まなかった。そうして。暇さえあれば、なぜか。パンダをみたい。パンダに会いたいので和歌山に連れてってよ。それがダメなら、福島のフラガールがいい、と言っていたよな。俺は『わかった。そのうちに必ず行くからな』と答え、その気でいた。
六、七年ほど前だったか。その気になって一緒にJR名古屋駅まで出たまではよかったが。豪雨で名古屋から和歌山行きの列車が運休になってしまい、俺たちは急きょ、次におまえが行きたがっていた映画「フラガール」の里で知られる福島県いわき市に行き先を変更し、出向いたことがある。ひと晩を温泉宿で過ごした俺たちは、その町の野口雨情記念館に寄ったあと、スパ・リゾートに向かった。
あのときの、おまえの喜びようときたら、まぶしいほどで、今もまぶたに焼き付いて離れない。行って本当によかった。俺たちはついでに俺が既にたびたび訪れていた東日本大震災で瓦礫の町と化した塩屋埼灯台直下の浜をただふたり、どこまでも黙々と歩いたのである。あの日。大震災と福島第一原発事故による放射能を経験したとみられる一匹の犬が俺たちの歩く砂浜をどこまでも、時折、尾を振りながら、トボトボとぼとぼと追っかけてきた。そして何かを訴えたい、といったそんなまなざしで俺たちのからだに交互に顔とからだを摺り寄せてきた。
俺もおまえも、どうしてよいものか、が分からない。それでも、その犬は俺とおまえの行く方向にピタリと離れないままついてきた。俺たちは立ち止まり、まだまだ若いその犬の顔を何度も何度もさすってやったが、犬はされるがまま何かを思い出すように海を眺め、顔を空に向け、キャンキャン、キャンと悲しそうな声をあげたのである。俺とおまえの目頭をほぼ同時に涙が伝う。私たちはあのとき、訳も分からないままその犬に向かって思わず「強くなろうよな。負けるなよ」とつぶやいたのである。数羽のカモメがパサパサパサッと羽音をたて、大空に飛び立ったのはまさにその時だった。
あの、けだるくカモメのことを生涯、歌い続けたおまえが大好きだった浅川マキだったら、この風景をどう歌っただろう。♪かもめ かもめ 笑っておくれ あばよ、と歌ったかもしれない。
3.
たつ江と俺の物語は、ここで晩年の一時期に大きくプレイバックする。
彼女は、なおも話しかけてくる
「あのねえ。一日にすることは、ひ・と・つ。ひとつなの。ひとつよ。いい、分かった。分かったわよね」
あの懐かしく、かつ厳しく甘い声が暑さとともにジンジンジンジンと耳の奥底から響き、聞こえてくる。
「あれもこれもなんてダ~メ。だめよ。だめだってば。もう齢なのだから。これからは、無理しないで、することはひとつだけにするの。いつまでも現役の記者なんかじゃないのよ。それから。社交ダンス。これだけは続けてよネ。せっかくピースボートに乗った時、船内のダンス教室で少しは覚えてきたのだから。いいわよね。約束よ。一日ひとつよ」
そういえば、だ。彼女は、俺が七十歳を超えてから、あれやこれやと面と向かって強く命令でもするように言うようになった。
俺はその言葉を大切に、きょうも俺なりに「一日ひとつ」を合言葉に人生の新しいページを開こうとしている。たつ江の教えに従い、一日にやることは出来るだけ、ひとつだけにしようかと思っている。一日にあれこれやってみたところで、いまさら、どうにもなるまい。俺はそのことが十分にわかっていながらなおも前に、前に、と歩いて行こうとしている。それは、この先、たつ江とともにふたりの永遠なる文学の道をそろって歩いていきたい。ただ、それだけの願いからである。
話は変わる。前にも触れたが、おまえはロシアのウクライナへの侵攻という事実を何ひとつ知らない。侵攻が、黄泉の国に旅立った翌年二月二十四日に起きたからだ。けれど、おまえはコロナ禍で人間たちが次々と命を落としていった新型コロナウイルスに人間社会が襲われ、翻弄された現実は知っている。だから、テレワークも、ワクチン接種も、テイクアウト、俺たちのオンライン会議…もだ。これらの言葉の大体は知っている。その証拠に自ら営むリサイクルショップ【ミヌエット】では、店頭に早くから消毒剤を置き、マスクを常時、顔につけ、お客さんを前に日々がんばっていた。コロナの時代、いや始まってから三年ほどは、おまえは、まだこの世の中で逞しく生きていたのである。
そして。俺とおまえは一緒に、この町の総合体育館で二度目のワクチン接種を受けたが、おまえの体調がこの接種後、急に悪化したことも忘れられない、そして消すことの出来ない事実だ。あのとき接種に当たった女医は腕に注射後、舞の腕から出血したことに対して「失敗してしまいました」とすなおに謝りはしたが、あの言葉は今も私の脳裏から離れない。女医は「アッ。でも、すぐによくなります。大丈夫。心配ないですから」とは言ったものの、その言葉とは反対に舞の大腿部の浮腫は、その後肥大化する一方で、とうとう歩けなくなり、緩和病棟に再入院したのも事実である(この注射ミスについてはその後、病院側に子宮がん悪化との因果関係を聞きはしたものの「関係ないと思います」との返事だったが、より追及する必要はあるのでは-と思っている。今さらという考えもあるだろうが、もし因果関係があれば一患者だけの問題ではすまないからである)。
そして。コロナ禍の現状を自らも体感したおまえ、たつ江は、その一方で最近、この世の中に急浮上してきた生成AI(人工知能)のこととなると、知らないまま旅立ってしまった。それと、おまえは向日葵がなぜか、あのハラリと花弁を地上に潔く落とす椿の花と同じように大好きだった。現におまえはおまえの背丈を超すほどの向日葵を俺たちふたりの畑・エデンの園で見事に育て上げ信じられないほど大きな大輪の花を咲かせるまでに育て上げた。エデンの園では、ふたりでそろって雑草を刈り、ほかに玉ねぎや茄子、ねぎなどを育て、時にはチューリップの球根を植え見事に開花させたり、スイカもまだまだ小玉ではあったが、立派に育てあげたりした。
柿の木だって、だ。山ほどなった柿をふたりで収穫し、ミヌエットの店頭で一個10円でお客さんに大安売りしたりしたよな。柿の山はいつだって、アッというまに、なくなった。どこにどう手配したのか。週に一度の野菜市も店頭で開き多くのお客さんに喜んでいただいた。あの時、俺は心底から思った。リサイクルの衣類はむろんのこと、おまえのやることひとつひとつにかける努力と情熱は、たいしたものだな、と。
今にして振り返れば、月に一回の店内でのミニ音楽会もよくぞ続けた、とあらためて感心している。そして広島原爆の日には、お客さんの応援と協力をえてみんなで折った千羽鶴を手に広島平和記念公園に出向き、白血病で12歳の若さで命を絶った佐々木禎子さんの像「原爆の子の像」に一緒に手を合わせてきたりもした。
いろいろあったが、俺は、これらのどれもこれもがおまえが生きていたからこそ、の証しだと思っている。わが妻ながら、本当によくやったな、と。つくづく頭が下がりもするのである。
いま。黄泉の国から途中下車でもするように降り立ってしまったおまえのことばが聞こえてくる。
「死んだら、終わり。でも、そうじゃない。誰だって。そうじゃないのよ。そこから、また新たな人生、虹みたいな新しい世界、旅立ちが始まるのだから。新たな扉が開くのよ。
だから、あなた。こどもたちも。シロちゃんも。みんな。みんな、よ。夢をあきらめちゃ、ダメ。たとえこの世を去ったとしても、もしかしたら、その夢が現実となって扉を開くことだって。あるかもしれない。だから。だから。何ごとも。あきらめちゃあ。ダメ、だめなの。あたし、いつだって、そう思って生きてきた。ほんとよ。ほんとなのだから。あたい。今だって、夢を持ち続けているのだから。ねえ、シロちゃん」
おまえの、あの声がズンズン、ドンドコと、どこか遠い国から聞こえてくる。
4.
ことしの風薫る五月のことだった。
リンとした懐かしいあのたつ江、舞の声が、突然、耳に迫ってきた。
妻のたつ江が、この世を去ってどれほどの月日がたつだろうか。いや、たったのか。五月の風という風はそれこそ、最初のうちは石礫の大波となって俺の肌を突き刺し、たたくが、やがて心地よい集団となって流れ、どこかいさぎよい。その分、これらは気持ちよくもある。あのとき、たつ江の魂は、いまはこの地上のどこを彷徨っているのか、とつくづく思った。
そして。俺の頭にふと、たつ江と生前、よく聞いた歌、岸恵子さんの【希望】の歌が目の前に大きく繰り返し、浮かび蘇ってきた。「希望という名のあなたを尋ねて」「私の旅は終わりのない旅」「遠い国へとまた汽車に乗る」…何度も何度も口ずさんでいたのである。
舞よ、マイ。俺にまた新しい汽車に乗れ、というのか。いやいや。乗らねばならないのか。かつて現役記者のころ、長期に及ぶ殺しやサンズイ(汚職)、災害取材など。事件がひとやま超すつどおまえの許しを得て、俺はよく旅に出た。ふと思い立つように。決まって夜行列車に飛び乗って、である。
志摩に始まり、岐阜、名古屋社会部(小牧)、能登、大垣、大津……と、決まって、だ。僅かな休みを利用し、夜行列車に飛び乗って東北へ、伊豆へ、富山へ、関西へと全国各地へのひとり旅を、よくしたものだ。それは、「おわら風の盆」の越中八尾だったり、「天城越え」の天城峠だったり、男鹿半島、花巻温泉や城崎温泉などへであった。おまえは、そのつど文句ひとつ言うことなく家庭や支局、通信局を守ってくれていた。
そして。この夏、電話がかかった。自宅電話は留守電にしてあるので、そのつど、もしかして「おまえからでは」と思い、息をのんで相手の声を待つ。もう二十年近くも前の話だが、わが家の新築に合わせ電話をファックスつき留守電にしてくれたのも、ほかならぬおまえ、たつ江の知恵であった。これまで随分と役立ってきてくれた、その電話が何度も鳴り、私の生活に役立ってくれたことも確かだ。
だが、しかしである。おまえが決まって切り出してきた甘えたような「あのねぇ」の声は、ひとつとしてなかったのである。おまえのあの声を何よりも先に聴きたいが、おまえは既にこの世にはいない。おまえだったら、まずこう話しかけてくるに違いない。「あのねえ~。シロ。シロちゃん。元気でいる。心配なの」と。
そして。その俺たちの宝物のシロはいま、外に出ている。一体全体、どこを。何を考え、彷徨いつつ歩いているのか。「何。なんだよ。シロがどうしたというのだ。シロは元気でいるから。心配ない。安心していい。それより、おまえは今どうしてる? 一体全体どうしたというのだ。もしかして。生き返ったのか」と。私はもしもだ。たつ江の肉声が耳に飛び込んできたとしたなら、受話器を耳に当てて、そう叫んだに違いない。
思えば、新聞社の通信部の電話番に始まり、無線、ポケベル、携帯と俺たちの連絡方法は、その時々で随分と様変わりしてきた。そして。晩年のおまえはデスク端末を終始、手離すことなく、俳句をつくり、短歌を詠み、一行詩や詩などもつくってきた。その姿は、けなげで可愛く、どこまでも美しかった。端末の調子がおかしいの、と言われ、何度も近くのスーパー店内にある端末修理場に一緒にいった。あのとき。俺は、端末がよくなりさえすれば、お前の俳句や短歌、1行詩の創作活動が出来るから-と早くよくなってくれることだけを、ただひたすらに願ったものだ。
端末の故障が修理され、直った時のおまえの喜びに満ちたあの笑顔ときたら、ホントに俺までがそのつど嬉しくなったものである。おまえの命の代わりといってもいい端末が故障したままでは俳句も作れなければ、歌も詠めない、詩だって作れない。俺が連日、書き続けている一匹文士そぞろ歩きを読むことも出来ないからだ(たつ江は何も言わなかったが、私の書く日々のそぞろ歩きを連日、端末で読んでくれていたようである)。
5.
「あのねえ、あたし帰ってきたよ。ホントよ。だって。あなたとシロちゃん、あなたをはじめ、こどもたちなど家のことが気になって仕方ないのだもの。帰宅したから。もう大丈夫よ。それで、どうだったの。大阪。同人誌の全国大会、よかった? ほんとを言うとね。あたしも一緒について行きたかった。大会翌日の文芸ツアーで与謝野晶子の文学館に一緒に行ってみたかったのよ。
ほかに通天閣にアベノハルカス。道頓堀にも。いつだったっけ。通天閣の近くのお店で串カツ、一緒に食べたよね。それに織田作之助さんの小説<夫婦善哉>ゆかりのお店にも。ホント言うとね。もう一度、あのお店の夫婦ぜんざいが食べたくって。それで、あちらの国(彼岸)に居てもたてもいられなくって。前世のこちらにきてしまったの。ねえ。あたい。ほんとのこと言わせてもらえば、生きていた間に、もう一度、大阪に行きたくて。行きたくって、仕方なかった。フランク永井さんの声、大好きだった。おまえに、大阪ろまん、ウーマン、公園の手品師……。ほんと。ほんとよ。どの曲も大好きだった。嘘を言ったところで何になるのよ。それから。能登で随分とお世話になった長谷川龍生さん。リュウセイさんにも出来れば、もう一度会いたかった。ところでシロちゃん、元気でいつも、お留守番していてくれるかしら」
あの口の中でリンリンと鈴を鳴らすような懐かしい、ちょっと甘えたような声が耳に大きく迫った。そして。数日前のことだった。たつ江、すなわち舞はボクの夢枕に突然現れ、こう言ったのだ。「あのねえ、あたし帰るわよ。これから。あなたたちがいる現世、あなたたちがいる社会に。だから。待っていてよ。これから行くから。もう大丈夫よ。大丈夫なのだから」
何が大丈夫なのか、はよく分からない。でも、あのときたつ江は確かに私に向かって、そう言いきったのである。夢枕に向かってこう言った彼女に向かいボクはあの時、確かにこう答えたのである。
「おまえ。たつ江。ほんとに、舞、マイなのか。おまえなのか。いつ帰ってきたのだ。玄関の鍵も締まっているのに。なぜ、家の中にいるのだ。それも俺の枕元にいるのだなんて。信じられない。でも嬉しい」
私は不思議なものでも見るように女の横顔をみた。たつ江に違いなかった。
※ ※
わが最愛の妻が天国に旅立ったのは平成二十一年十月十五日の未明だった。全てをやり尽くしたような、そんな安らかな寝顔の旅立ちだった。でも、まだまだ彼女なりにしたいことはいっぱいあったに違いない。その妻が「帰ってきた」。実を言うと、俺は彼女の死後、自分で自分を意気地なし、と思いつつ日々泣いていた。ふたりで夢見ていた希望といおうか。願いとでもいったものが全て破れ、一瞬にして瓦解してしまった、そんな気がした俺は明けても暮れても悲しさと寂しさ、に打ちひしがれる日々を過ごしていた。
女、すなわち、かわいい舞が思いがけず、わが家に帰ってきたのは、それから一年と少し経った、そんなある日のことであった。信じられない。でも、舞は確かに帰ってきてくれたのである。
女はロシアがウクライナに侵攻した戦争も、その後の安倍首相の銃撃死も、女が営んでいたリサイクルショップによく通ってくれていた園子さんの肝臓がんによる死亡、それから。この町で大勢の客で知られた喫茶店の閉店も……。その後に起きた何もかもを知らない。これらの事件、病死はその後そのまま女がいる天国にそのまま移されていたなら、それはそれで別だが。もしかしたら、もっと多くのことを知っているかも知れない。
きょう、この地上では能登半島七尾市でおまえ、すなわち女と共に暮らしていたころ、誰かは知らないが毎年バレンタインデーが訪れるとはポストに投げ入れられていた男性用の櫛とか新品のボールペンとか、サングラス、ほかに愛あふれるラブレターなど、数々の贈り物の中でも今も忘れられない岡村孝子の【夢をあきらめないで】を久しぶりに聴いた。ラジオから流れてくるあの何度も何度もくちずさんだ夢が目の前にあふれ、現実となって飛び込んできたのである。
そして。その日。目の前をスゥッと人の影のようなものが通り過ぎた。いったい全体何か。だれなのだろう。蜻蛉のようなものは、その後も何回か私の前に現れた。だが、肝心の姿が見えない。気配だけなのである。そして。気配は私に向かって確かにこう話し始めたのである。「あれからねえ。あたし」と。
あたし。今は。彼岸、いやこの世とは違うお空、宇宙にいるの。そこではあたしの大好きな星たちがいっぱいキラキラ、キラキラと輝いている。ほんとよ。ほんとだってば。あたしが生きていた時、あたしが夜空、そう星に詳しかったことはあなたが一番知っていたはずだから。もうそれ以上は、言わないけれど。
そういえば、こどものころ天いっぱいにお星さまが輝いていたころのこと、あなた覚えている? 覚えていますか。楽しかったね。夜。空を眺めると視界いっぱいに星が輝いていた。あの星たちは、その後、いったいどこに行ってしまったのだろう。
最後に俺からおまえへの手紙をここに書き残そう。
「おまえのことを。いつも思っている。おまえの好きだった坂本冬美の【能登はいらんかいね】がこの世に現れ出たのが、俺たちが能登半島の七尾にいた当時の1988年だった。なぜか、この歌を聞くと、おまえと穴水でとれたイサザの踊り食いを競ってしたあの日々が懐かしく思い出される。と同時に、美空ひばりさんの♪逢えないつらさ こらえて生きる 私と歌おう 塩屋の灯り……の1節を思い出すのである。
おまえがこの世を去り、やがて二年になる。一緒によく行ったスーパーはじめ、あのころの街も何もかもが消えたり、新しく生まれたりし、まるで寄せては返す波のようだ。スーパー三心が「大阪屋」に変わり、おまえがよく買い物に通ったバローは今や、この街を撤退し影も形もない。晩年におまえがやっとこせ歩いて通ったドラッグストアのコスモスはあるが、おまえがこの世を去って以降、俺はどうしても足を向けることが出来ないままでいる。でも、相変わらず多くの人でにぎわっているようだ。布袋駅近くにはマックスバリューが出来、いつも私の助手席に座り、おまえの見慣れた町の風景ときたら、あのころとは随分と変わってしまった。晩年になって、おまえがよく入り口で転んだ平和堂。ここでは書店が消え、靴屋さんもなくなった。どれもこれもがなくなってしまった。
(最終章・おまえに)
俺は毎日、午前中、新聞のチェックに続き俺ならでは、の一匹文士の執筆にその後も挑んでいる。そして。毎日、愛猫シロに昼食を与えると、自宅周辺のランチをやっている喫茶店または近くの食堂などを訪れ、ここでお昼を終え、その足でスーパーに出向く。スーパーで俺と息子の夕食を購入して帰るが、気が向けばカラオケ店にも顔を出す。そして歌うのは決まって、おまえとの思い出がしみついた<能登の海鳥>や<襟裳岬><星影のワルツ>をうたうのである。最近では、おまえもよくして頂いた牧すすむさん作曲による都はるみさんの<恋の犬山>も唄ったりして帰るが、よくよく考えるとおまえとは一度もカラオケには一緒に行っていなかった。
そして。昔だったら、何とも思わなかったスーパーの店内を彷徨うが如く歩くたび、ここには桃も梨も蜜柑、レモンにスイカ、キュウリ、ミニトマトも何だってあるな。おまえも一緒なら、どんなに喜んだことだろう-と、つくづく思う。店内を歩くにつれ、おまえが、この世に現れ、店内を俺と一緒に歩いたらどんなにか、胸を弾ませ、目をキラキラさせて喜んだことだろう。と。そう思うと、またしても滂沱の涙が流れ出てくるのである。そのたつ江、舞は今や、永遠のお星さまになってしまった。どんなに大声で呼ぼうとも、彼女はもはや俺のところに帰ることはないのである。
俺は、おまえが大好きだったフランスのロゼでも飲みながら、たまには共に社交ダンスでも踊りながら、こんどはどこに行こうか。どこで会えるかな、と考える。
☆ ☆
「あのね。あたしネ。まえから言っていたでしょ。あたし新潟は長岡の大花火を見てみたかった。それであなたには悪いけれど、今月(八月)二、三日とあった長岡京の長岡大花火を見てきました。あなた。あたしたち、能登の七尾にいた時、和倉温泉の三尺玉見たわよね。毎年、冬になると新聞社の七尾支局長として事業部員と三尺玉の発注にいくのだ、と言って雪に埋まった長岡に和倉のだんな衆と行ったじゃない。料亭で、加賀屋の小田さんが<おてもやん>を見事に歌い終えたところで空中三尺と水中三尺の各ひと玉の発注にサインをしてもらい、帰ってきたじゃない。
だから。あたい、あのころのこと思い出し、長岡に行って来た。長いコロナ禍を終えての大花火だっただけに、それは、それは華麗で美しかったよ。日本を代表するロス五輪の花火師、カ・セ・セ・イ・ジさんも。お元気でいらしたわよ。三尺玉、また一緒にみようよね」
俺は思わずスマホを手に握りしめ、長岡大花火の中継を見た。そこでは「復興、感謝、勇気、そして平和 どんな困難も乗り越え」といった字が浮かび、かつては見慣れたスターマイン、蝶の舞に代表される数々の芸術花火、ナイアガラ……が整然と打ち上がったかと思うと、フィナーレにあの三尺玉が水中、空中の順で空高く舞い上がったのである。
舞よ、舞。ほんとうにありがとう。たつ江。いつまでも元気でいろよな。
※ ※
この世には、おまえ、すなわちたつ江、舞が居てボク、すなわち俺がいた。俺は単純にそう思い、志摩と能登の海に思いを馳せる。彼女と俺たち家族がお世話になった全ての人々にありがとう。そして。ごめんね。たつ江。舞よ、マイ。悲しくとも元気を出して。いつまでも。生きていこうよ、な。これからも。
お盆に未知の星から帰ってきてくれて、ほんとにありがとう。 (了)