【マボロシ日記】カゴメという店~その2

 かごめ。
 その店は、ある田舎町にあった。
 家族で行くたまの外食は、「かごめ」という店に決まっていた。いわゆる食堂で、夫婦2人で切り盛りしていた。
 ジャンルというものはなく、和も中も洋もあり、ある人に言わせればその店は「中華そば」であり、他の人に言わせれば「うどん」であり、「焼きそば」であり「カツ丼」であった。
 世代によって推しは違うものの、外食といえば店は「かごめ」と決まっていて、祖父も祖母も父も母も妹も、喜んで付いて行ったという。
 これは、夫の幼い頃の思い出だ。私が何かを作るたびに「昔、実家のそばにかごめという店があってね。そこの中華そばが旨かった。食べさせたかったなあ」と、幾度となくかごめ、かごめと連呼するので覚えてしまい、その店に興味を持った。いつかそこへ行って、中華そばを食べてみたいと思うようになった。
 20人くらい入れたという。決してきれいでもおしゃれでもない店。駐車場はなく、クルマは店に横付け。人は誰でもおふくろの味を持つが、外食に関しても、おふくろの店的な、ここだよね、という思い出深い店を持っているのではないだろうか。
 店は、20年くらい前まであったそうだが、今ではもう閉じている。私には、永久にその店ののれんをくぐる機会は訪れず、その味はマボロシとなってしまった。

 私にも家族でよく行った店があった。のれんをくぐる。食べたかったいつものコーンラーメンを食べる。あたたかい、幸せな家族の時間が流れる。
 コーンは、すぐに食べないと器の底に落ちてしまう。そうと分かっていても、麵の誘惑に勝てず、最初に少しコーンを口に入れたら、次は麺に興味が移ってしまい、最終的にコーンを探しながらスープと一緒に何回も口に運ぶ羽目になる。お腹がラーメンスープでいっぱいになる。あの頃は、スープからコーンを救い出す便利な穴付きレンゲはなかった。
 父の運転するクルマに乗って、家に帰る。道中みんな上機嫌だ。満たされたぼんやりとした頭で、さっき食べたコーンや汁や麺の味を思い浮かべる。そこには、諍いも不安も不満もなかった。
 今思えば、母が一番ご機嫌だった気がする。夕食を作らなくて良いという安堵、おいしいものを食べられた満足感。口うるさい姑抜きで外食した、その理由はさまざまだろう。
 その店は出前もしてくれて、年寄りのいた我が家ではよく利用した。汁がこぼれないように、中華そばの器はラップしてゴムで止めてあった。それを外すのは私の役目で、慎重にやってもピシッと水蒸気が周囲にかかる。店で食べるより少々伸びた麺だったが、それでも贅沢した気持ちになった。
 その店も、もうない。

 私は、主人がそんなに絶賛し、思い出深い店「かごめ」に行ってみたかった。その味を知りたかった。でも「今食べてもおいしくないかもな」と、夫は言う。
 味覚は変化していく。妊娠した時それを感じた。体に自分ではない異物を宿し、明らかに主人の影響と思われる味覚の変化があった。嫌いなジャンクフード、炭酸飲料、フルーツが無性に食べたくなるなど。出産したら、元に戻ると思っていたが、なんと味覚も体型も戻らなかった。
「今、かごめの中華そばを食べたら味が濃すぎると思う。きっとそうだ」
 味に思い出が重なって、よりおいしかったように記憶が刻まれる。実際の味以上に、いつ誰と食べたかが重要なのかも知れない。
 店がないのは寂しい。そこに一緒に集っていた家族という関係も、もはやないという事実を突きつける。いたいけな子どもという存在だった自分もいない。
 一つ屋根の下に寝起きしたある者は嫁に行き、ある者は他界し、ある者は遠方に住んでいる。二度と、あの頃家族だった人たちと思い出の店に行き、中華そばを、コーンラーメンをすすることは、もうないのだ。(了)