新連載・権太の地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ6月22日〉

 きのうの昼前、イギリスのティルベリー、ロンドン・クルーズ・ターミナルに着岸後は、あわただしい1日が過ぎ去っていった。

 午前中、船内で毎日の日課でもある本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉を執筆し、本文だけをウエブ文学同人誌「熱砂」紙上にアップ(写真の方は衛星回線の影響か、前日に続いてなかなかアップできず、時間ばかりがたってゆくので、とうとうあきらめた)。
 そして。アップを終え、この日はオプショナルツアーを取らず自由行動の日にしてあったこともあり近くのティルベリー・タウン駅へ。ここから電車でロンドンを経由してカティサーク駅へ。グリニッジ標準時(Greenwich Mean Time=GMT)で知られるグリニッジがロンドンの近くにある、と聞いていたので「グリニッジに行きたい」とターミナル案内所に聞くと電車による行き方を教えてくれたので、それに従った。

 たまたまこの日は〈核のない世界〉をスローガンに、カティサーク駅近く広場でイギリスの核軍縮や核兵器廃絶運動に取り組むNGО団体・CNDやICANと、ピースボートとの交流会も開かれた。日本からは原爆生き証人の男女2人と東日本大震災の被災地・福島からやってきた若い女性1人が「ノー、モア。ヒロシマ、ナガサキ」「ノー、モア。福島」を訴え、イギリスのNGО団体が反核の署名運動を展開、私も署名した。

 交流会で原爆の悲惨さを訴える生き証人(左端の男性)

 私は最初から最後まで、その一部始終を見る機会に恵まれた。
 「21世紀を核廃絶の世紀にしたい」。正直、ピースボートの井上直クルーズディレクターはじめ、全スタッフの核廃絶に対する並々ならぬ情熱をあらためて強く感じたのである。会場には福岡出身の日本人留学生(西ヨークシャー州ブラッドフォード市)でブラッドフォード大学で核問題と平和活動などを研究テーマとした“ピーススタディー(平和学)”を学び『核に関する論文』に挑む女性も駆け付け、熱心に見入る姿も。生き証人が体験談を話す場面では、世界中から集まった核廃絶を願う多くの人々が3重、4重の輪をつくって聴き入っていた。

 交流会のあとは、標準時で知られるGreenwich一帯をひと回り歩いてみたが夕陽が静かに落ちてゆく、テムズ川河畔から見る一帯の美しさには圧倒された。私はたまたまティルベリー・タウン駅で一緒になったボランティアスタッフと静かな佇まいが広がる町の全域や河畔通りを歩いてみた。

 夕景が広がるテムズ河畔では市民が憩っていた

 ―テムズの河畔にどこまでも広がる素晴らしい光景を、この先忘れることはないだろう。目の前に広がるユートピア、なんだか私だけが見ていて良いものか、と夢心地になりふいに美雪の姿が川面に浮かんだ。夕食を食べ、なんとか電車に間に合い、部屋に戻ったときは午前零時を過ぎていた。あれだけ歩いて足がつらないのが不思議だった(だけどいつ何時、つるか知れたものではない)。

【出会い】朝食時にデッキで食事をしていた私に寄ってきた若者。彼は長崎からきた“ラリオさん”で、一昨日フランスのル・アーブルの町中で出来なかったWIFIについて、いろいろ話すと「マルの中に女神さまがいるグリーン色のコーヒーショップに行けばいい。そこに行けば確実に出来たはずです」とあれやこれや、と親切に説明してくれた。でも、聴けばきくほど頭の中がこんがらかってしまう。ユーチューブへのアップの話に移ると「すげえじゃん」と、本気でほめてくれた。

平成二十四年六月二十一日
 午前6時を過ぎた。
 オーシャンドリーム号はいま霧雨に包まれたドーヴァー海峡を進んでいる。ここ2、3日はイギリスに近づくに従い、ぐんぐん冷え込み皆さん長袖やジャンパーを着るようになり、デッキに立つと寒いほどだ。私は相変わらず黒一色の装いだが、そろそろ着替えなければ、と思っている。
 アジアや中東に比べると、想像できない。世界は広いな、と思う。正午ごろには、イギリスのティルベリーのロンドン・クルーズ・ターミナルに着岸する。ここからロンドンまでは車で50分、電車だとティルベリー・タウン駅から40分だという。

 きのうは少しばかり焦った。私は当初、国際ネットワーク「平和市長会議」に加盟し“平和”への意識が高い平和の街(ゴンフルヴィール・ロールシェ市)まで1人で旅するつもりでいたのだが。かなわなかった。
 というのは、早朝、タクシーでル・アーブル市内のマグドナルドに出向き、ここにあるWIFIを利用し、私が発信している平和のメッセージ〈スリランカ/コロンボ編〉をユーチューブにアップしようとしたが、どうしても出来なかったからだ。円形のその場所で、持参したパソコンに映しだされる何種類ものWIFIの文字に、そのつどアクセスしようとしてみるが、どうしても出来ない。
 傍にいた親切なお年寄りも一緒になってアアダコウダと、ふたりで試みたが時間がかかるばかりなので、いったん船内に戻ることを決意。

 それからが、大変だった。「タクシーは、どこでもつかまるから」(港から市内まで送ってくれた運転手談)の言葉を信用したのが間違いで、1時間ほど重いパソコン一式を持ったままタクシーを探し求めて市内をさまよい歩いたが、なかなか見つからず発見しても乗客が乗っており最悪な時間が過ぎていった。
 思い切って、通りに面したお菓子屋さんに飛び込み「タクシー」と叫ぶと「オーケー」と呼んでくれ、やっとの思いで港へ。船内のインターネットアクセススペースに舞い戻り、そこでアクセスカード3枚を使い延々と3時間、忍耐のアップ作業に挑んだのである。

 幸い、アップには成功したものの、外出時間には限りがあるため港から定期周遊しているピースボートのシャトルバスに飛び乗り、あとは何気ない町角を歩いてみた。この町は第2次世界大戦で空爆により廃墟と化したが、その後整然とした街並みが復興、世界遺産にも登録されているという。その歴史的経緯もあって建物はすべて新しく、古いレンガ造りが目立つヨーロッパの中では、ちょっと異質でおしゃれな街並みに触れることが出来た。倉庫が再生されて誕生したというショッピングモールなど、それはステキであった。

【出会い】ショッピングモール横のバスストップで迎えのシャトルバスを待っていると、少年少女が珍しそうに近づいてきた。しばらく話し合ったあと「平和って。何だと思う」と聞くと、少年の一人がただ一言「ジスイズ・ザ・“ラブ”」と答えてくれた。“愛”だ、なんて。とても分かりやすく、すばらしい。世界の未来が輝いてみえてきたのである。

平成二十四年六月二十日
 海の絵師・ドラゴンさんによる最後のペイントショー=19日夜、8階後方プールエリアで写す

 オーシャンドリーム号は英国海峡を越え、けさフランスのル・アーブルに来た。
 きょうはたった今、午後2時までかかってユーチューブ〈伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/スリランカ・コロンボ編〉のアップになんとか成功、引き続き「熱砂」の本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉をいつものようにアップしたのち、これから町に出ようと思っている。

 昨日は太宰治が亡くなった桜桃忌で日本ではサクランボがとてもおいしい季節である。なのに、美雪からのファックスによれば、6月に愛知に上陸するのは15年ぶりという台風が最初、和歌山に上陸。愛知、静岡、東北地方を襲い、縦断していったという。「幸いこのあたりはたいした事はなかった」とのことで、ほっとした。彼女からのファックスには、〈雨風の強き台風静むるを今も昔もじっと待つ我ら〉の歌が添えられていた。

 船上の私はといえば。
 きのうは、当初7月5日に予定されていた今回地球一周の目玉だったイルリサット・アイスフィヨルド沖遊覧オプショナルツアー中止に伴う精算手続き(4万円を返却してもらう)をしたり、名刺がなくなる寸前のためピースボートセンターに出向いてコピー(20枚のコピーカード代として300円)をしてハサミで切って“にわか名刺”をつくったり、はたまた売店でデジカメのFDカードを印刷機にセットし何枚かをエアメール用に印刷しておくーなど雑用に追われた。

 そういえば、怪女のイトウさんがわが著作の〈いがみの権太 大震災「笛猫野球日記」〉の表紙のこすも・ここに魅かれ、「ぜひ読ませて。ホントにかわいい」と言って持っていかれてしまった。もう1冊しかないのでミニバッグに入れ肌身離さずにしていたのに」。こすも・ここは拉致されたのである。早く取り返さなくっちゃあ。
 
 ということで、きょうはこれでお仕舞い。それよりも美雪から「あなたは海をまだ見ていない」と厳しく指摘された、“智恵子はまだ見ていない、ホントウの海”を見なければ、と思っている。

【出会い】昨日夕食の席で大津からという女性と同席。急に琵琶湖とカイツブリを懐かしく思い出し話が弾んだ。“海”といえば、琵琶湖だって立派な湖(うみ)である。
 ♯我は湖の子さすらいの…、気がついたら、白夜(19日の日の入りは午後10時5分だった)のデッキに立ち尽くし、私は海を見ながら湖を口づさんでいた。

平成二十四年六月十九日
 写真は、いつも笑顔のサッちゃん(左)とヤエちゃん=オーシャン・ドリーム号船内で

 船内生活も一カ月以上になる。
 ここで特筆しておきたいのは、女性たちの底力である。いつも私を温かく、かつ鋭い目で見守ってくださっている知能の上(かみ)、サッちゃん・ヤエちゃんコンビをはじめ、ドジョウすくいの雪路さん、世界を漫歩するノブさん、何でもゴザレのイトウさん、原発反対の旗手・ナカムラさん、ダンス教室の先生京子さん……。
 そして横浜を出港したその日に誰よりも早くお会いしたゴッドマザー(見送りに来てくれた美雪に言わせれば、すごく包容力があるお方なので“ピースボートのドンさん”だってさ)こと千鶴さん、いつも千鶴さんに寄り添っておいでのベレー帽がよく似合う和ちゃんと、数え始めたらキリがない。

 サッちゃん・ヤエちゃんコンビからは、つい先日、船内で思いもしなかった抹茶までたてて頂きごちそうになった。またゴッドマザーの千鶴さんには、久しぶりにお会いした際「ゴンタさん、元気でいますか。(発表会で)社交ダンスを踊っていたね。ちゃんと見ていたよ。もっと前で踊らなきゃあ、よく見えないじゃないの」と叱られた。
 それにしても、あ~あ、どうして、こんなに“若い”女性たちばかりの餌食にされるのだろう。これでは、蛇に睨まれたカエルと一緒じゃないのか。でも、飽き性のボクとしては、これだから船内生活を楽しく続けられているのかも知れない。お会いしたら、そのつど何かを学べると思って接すれば怖くなんかは、ない。なんだか強面の女教師たちに囲まれ、寺子屋で何かを教えて頂いている昔の小僧のような気がしてきた。

 話はガラリと変わる。きのうオプショナルツアーに出る前、昼食時に聞き捨てならない声を耳にした。
 黙って聴いていると、マスクをした女性曰く「ここのお医者さんって、あまりにかってすぎる。風邪を引いたので薬をください、とお願いしても『風邪は自分で治すもの』と言って取りあわず、一切出してくれない。我慢できず4回目の受診の際、抗生物質を出してくれないなら海に飛び込みますーと言ったら、やっと出してくれた。これまでの経過についても、それは私に関係ありません、と冷たいったら、ありゃしない。お医者さんって。これまでの経過を聴いたうえで、『それじゃあ、こうしたらいい。処方箋を出しますから、早く良くなってくださいね』というのが当たり前でしょ。ジャパングレイスさんに抗議しても医師に任せてありますから、の1点ばり。みんな日本を遠く離れて不安に思っているのに。頼りの医師がこんな姿勢では私たち一体どうしたらいいの」というものだった。
 咳をしていた隣席の男性も「私も同じ。咳止めを出してほしい、とお願いしても『それは出来ません。私には私のやり方があります』の1点ばりで、これでは何のための船内医か知れたものでない。せっかく、楽しみにしていたオプショナルツアーも全部キャンセルしました。(医師に絶望して)下船した人も結構多いと聞いています」と言葉を足した。さらに他の女性が言うには「なんだか、新婚旅行を兼ねているみたい。夜は毎晩、カサブランカか、波へいで飲んでいて一体誰のための乗船なのかしら」とのこと。

 これらの話は、聴いてしまった以上は見逃すわけにはいかない。医師にはその人なりの信念で治療に当たって当然ではある。でも、事件記者が長かったゴンタクレの私に言わせれば、こうした話が何カ所からも出ること自体がほめられたことではない。このままでは平和の使者のはずのピースボート、すなわち“病人船”のレッテルを張られかねない。
 ただ医師の名誉のためにも付け加えておきたい。「そのお医者さん、私も診ていただいたけれど、そんなに悪い人ではないはずです。何か誤解しているのでは。若いから経験不足なのは確かで、ヒトの心理を逆なでする物言いは確かによくないですね」と弁護する声があることも付け加えさせていただく。
 とにかく、船内というちいさなムラの中での生活だ。みんな仲良く、互いの気持ちを大切にして楽しい船旅にしなければ。あまり聴きたくない話を耳に私は船室に戻り、さっそくイソジンでうがいをした。

【出会い】パソコンに詳しいテンパリーさん。きのうパソコンを操作していたら、助言をしてくださった。彼は福岡の出身で本も出しているそうだ。

平成二十四年六月十八日
 ピカソが描いた『ゲルニカ』の壁画レプリカ
 
 大勢の市民が集う平和の町・ゲルニカ市=17日午後9時写す
 

 1936年4月26日に世界最初、いや人類最初の無差別空爆を受けた悲劇の地で知られるバスク自治州ビスカイヤ県のゲルニカ市をきのうの午後、訪れた。ゲルニカ平和博物館、『ゲルニカ』の壁画レプリカ、バスク議会、ゲルニカ・ルモ市役所の順で訪れ、市役所では平和活動団体「ゲルニカ・ゴゴラツス」の代表と空爆生存者による証言を聴く機会に恵まれた。

 通訳のルーさんによると、この地方は1年の45パーセントが雨降りだ、とのこと。幸い、この日は好天で私たちは午後3時半過ぎ、悲劇から平和都市に生まれ変わったゲルニカの地に一歩を踏み入れた。この町に立った最初の印象は、まず落ち着いた美しい町だということ。次に、教会の鐘が町中に響き渡り、坂が多い町で、なんだか日本の長崎を歩いているような、そんな錯覚を覚えたことだ。
 平和博物館では日曜日にもかかわらず、女性スタッフらが私たちを温かく出迎えてくれ、その日(4月26日)一体何が起こったのか、を分かりやすく説明してくださった。平和には「協定」「内心」「環境」「日常」の平和があり、説明の結論としてマハトマ・ガンジーの言葉を引用し『平和への道はない、平和そのものが道である』と聞かされたときには、平和をいつも希求する気持ちの大切さを学んだ。

 引き続き、無差別爆撃を怒ってピカソが描いた「ゲルニカ」の壁画レプリカを見学。バスク自治州の人たちが古くから自由と人権を話し合ったという“ゲルニカの木”がある建築物(現在は地元の県議会議場として使われている)とその周辺を散策。かないごとが効くと言われる“ゲルニカの木”を前に家族の健康と無事故、そして世界平和などを祈った。
 最後にゲルニカ・ルモ市役所で、この4月にゲルニカ市が長崎市と結んだ平和協定についての説明を受けた。協定は「市民を犠牲にするいかなる爆撃、紛争を許さない」「核兵器廃絶を求める」「平和の大切さを広める」「新しい世代にも平和の大切さを継承していく」といった内容だった。引き続き、私たちは空爆生存者の男女2人による証言を聴き、意見交換して夕食を終え再びバスに乗り船に戻った時は午後11時を過ぎていた。

 「いつまでも18歳よ」という空爆生存者のイゴネ・オラエタさん。真っ赤なブラウスがよく似合う彼女は、最後まで年齢を明かさず、大きなチャーミングな目を見開いてこう語ってくれた。
「あの日、私は木の下から爆撃機を見ていました。そこには、ほかにも大勢逃げてきた人たちが数珠のような、ロザリオを手にお祈りしていました。爆撃が、ひと段落し町に行くと、そこは一変。焼夷弾などで炎上し、焼け野原と化していました。多くの人々が亡くなり、爆撃の前と後では本当に変わってしまいました。私は、これからも世界に平和が訪れるようこうした活動に力を注いでいきます」。

 別れ際、オラエタさんに「もう一度、必ず私はここにやってくるから。長生きしてください。待っていてくださいね」と話すと彼女は目に涙を浮かべて「アイ、ウエイト、ユー。アイ、ドント、ファゴット、ユー。」といつまでも、その場に立ち尽くしてくれていた。
 私はあの瞬間をいつまでも忘れないだろう。そして、私はきっと再度、このゲルニカの地を訪れるに違いない。

【出会い】夜遅いゲルニカ市での夕食の席。ワインのリオハを飲みながら話が弾んだのが、たまたま隣に座られた岐阜県可児市からの林八重子さん夫妻だった。

平成二十四年六月十七日
 現在、こちらは午前9時30分(日本時間だと午後4時30分)を過ぎたところだ。

 きのうの午後4時過ぎ。気温は21度。
 ー空を見たくて空を、雲を見たくて雲を、9階後方の居酒屋「波へい」外のデッキでメロンのかき氷を口にふくみながら仰いでみた。またしても美雪の「海ばかりでなく、空も、雲も見なくちゃあ」といった声が“かぜ”に吹かれて飛んできたからである。デ、海の上に浮かぶ、いろんな雲をカメラにおさめた。
 ちょうどデッキに立つと同じころ、それまで北上していたオーシャン・ドリーム号は航路を替え、イベリア半島をほぼ直角に曲がったところで白い鮮やかな航線が東に向かって蛇行するさまは感動的ですらあった。朝のうち小雨まじりで曇っていた天候も昼過ぎから晴れ上がりウソのような好天の下、波たちはキラキラと白く輝き、まるで戯れあっているようだ。
 私はこれら艶やかな穂波の中から、彼女の声が聞こえてくるのを感じていた。
 鮮やかな航跡を残し航路は東に。空には巨雲が浮かぶ 
 
 このときの模様を詩に表現してみよう。大空から船に覆いかぶさるような長くて白い雲。そやつは意識を持ったいきもののようで、オーシャン・ドリーム号の船体にも似、ところどころ濃淡の青い筋を引く。
 この状況を彼女なら、どんな俳句として表現するだろう。かつて新聞でも優秀作として紹介された〈秋空に未来永劫と書いて見し(俳号・伊神舞子)〉を思い出し、私は大空のキャンバスにその笑顔を映し出し、そのうえに大きく【未来永劫】とかいてみた。

 このところは各地からメールで本欄への反響が寄せられ恐縮している。なかには「(ウエブ文学同人誌「熱砂」を読んで)一番嬉しかったのは、打ち上げパーティーで……幸せそうな津江先生(の写真)を発見した時でした」(今村真喜子さん)と乗客あてに知人から直接届いたメールの例も珍しくない。
 また「美雪さまとの別れの場面から始まる〈海に抱かれて みんなラヴ〉は感動的で日々、短編の世界に吸い込まれ楽しみにしています」「ぜひ1冊の本にまとめて出版してほしい」といった声まで相次いで届き、私は「毎日の紙面を楽しみに読んでいてくださる読者のためにも、これからも書き続けよう」と心の中で誓った。

 船は、まもなく正午前後にはビルバオに入港する。

【出会い】レセプションの女性たち(池村麻里さん、玉城彩乃さんら)の配慮で、きょうは当初、自由行動にしていたが、急きょ午後2時からのオプショナルツアー・ビルバオA「バスクに平和を」(8000円)に参加できることになった。たまたま1人だけ空席が出たためでバスク自治州たるもの、ゲルニカとは何だったのか、をもう少し調べてみたい。

平成二十四年六月十六日
 昨夜は午後9時4分、今夜も10時21分の日の入りで、このところは昼なのか夜なのか、が分からない幻想的な白夜が続いている。
昼と変わらない明るさの中、デッキに立つ人々

 大西洋を北上するに従い、少しずつ外気がひんやりと涼しいものになってきた。こ寒い。けさも指定席と決めた9階吹き抜けフロア一角のテーブルで食事したが、小雨に煙る空模様もあって、さすがに数えるほどしかいなかった(みな4階メインレストランまたは9階のビュッフェレストランに流れたようだ。天気はその後、晴れてきた)。

 それにしても昨夜からけさにかけ船はよく揺れた。それこそ、波たちが本気になって押し寄せれば簡単に転覆し、そのまま押し流されても不思議でない。ダンスをしていた時も、パソコンに向かってこうして原稿を書いている時も、船はまるでサーカスでもするように右に左に、と揺られつつ平衡感覚を保っている。
 無限の波たちを相手に、この宇宙のけし粒にも当たらないオーシャン・ドリーム号はよくぞ、と思えるほどに波乗りを楽しんでいる。ダンスじゃないけれど、波と船が友だち同士の如くじゃれあっている様子を大西洋上から見てみたい。

 今は次の寄港地、スペインのビルバオに向かっている。昨日はリスボン市内の町歩きの一方で、さすがに限られた時間内での国内へのメール連絡などに追われ、そのうえ本欄執筆とアップに時間を費やした。たった今、朝のダンス教室から帰ったところだが、睡魔に襲われながらも自身への鍛錬だと自らに言い聞かせ、また書き始めた。
 そのダンス教室だが、ナチュラルスターン、リバースターン、クロスボディー、ジルバの絡み合いステップ…と、私の呑み込みがイマイチでちょっとした「壁」にぶつかった観がある。でも、何とかついていかなければ。
 
 ここまで執筆したところで、今度は「バスクに平和を」(講師はビルバオ人の平和活動家イニーゴ・アルビオルさん)を聴きに7階ブロードウェイへ。人々が、かつてその周りで自由と平等について話し合った、とされる“ゲルニカの木”で知られるバスク地方。スペインからの独立を許されなかったバスク自治州についての話だけに、聴いておかなければ、と出向いた。バスクは、分離独立を掲げる武装組織「ETA(バスク祖国と自由)」が2011年10月、40年以上に及ぶ武装闘争の終結を宣言したことでも知られる。

【出会い】リスボンの片隅で出会ったワンちゃん。インターネットカフェが開くまで、飼い主の女性とともに付き合ってくれた。ありがとう。

平成二十四年六月十五日
 現在、午前4時半。日本では午後零時半である。船は、ジブラルタル海峡を超え一路、大西洋を北上。ヴァスコ・ダ・ガマで知られるポルトガルのリスボンは目の前だ。
 昨日は船内で開かれた古今亭菊千代さんの一門による初夢亭一門会なるものを観賞させていただいた。皆さん、「わずか4日間という短時間の稽古」(菊千代さん)とは思えないほどの出来栄えで感心した。

 昨夜は、現在ユーチューブで発信中の平和へのメッセージ「伊神権太が行く世界紀行〈スリランカ編〉」の声の吹き込みを終えた。あとは、映像班による編集作業が終わるのを待ちアップする手順である(原稿の方はエジプト編を終え現在、ヨーロッパ前編を執筆中。洋上での編集、アップ作業だけに、どうしても遅れがち。ご理解を)。

 きのうの朝。午前6時過ぎに船内でちょっとしたアクシデントが起きた。確か「ノー、プローブラム」といった船内放送が叫ぶように船内全域に流れ、この声で「何ごとか」と起こされた人も多い。無用な混乱は避けるべきだが、一時は9階のプールの水があふれて水浸しに。転倒者が出て20人近くの船員が集まり、車いすで運ばれていったようだーとの、うわさがうわさを呼んだ。
 魔のジブラルタルを超えたところで浅瀬か何かに乗り上げそうになったのか。乗客には納得する、ひと言があってもよさそうなものだ、とジャパングレースの船内代表に聞くと、うわさが尾びれとなって船内を駆け廻ったことは事実だったが、昨日早朝、ペースメーカーを埋め込んで乗船していた台湾人の男性(84歳)が倒れ、医師が駆け付け蘇生の処置をしたが残念ながら亡くなり、家族がリスボンまで遺体を引き取りに来る、とのこと。船体の揺れでプールの水があふれたのとは、全く関係ない、と分かった。
  「あぁ、そういうことだったのですか。それじゃあ仕方ありませんね。乗客に伝えることでもないでしょうし…」と私。「隠しごととか、そういうものではなく何があったか聞かれたら丁寧に説明させて頂いています」の言葉に納得した。
(オーシャンドリーム号は15日朝、予定通りリスボンに着いた。)
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リスボン・サイトシーイングバスで市内を巡る観光客たち

坂の町には気品と情緒が漂う

ヤシの形をしたオリエント駅

 午後7時10分。リスボンの町を1人歩きし先ほど船室に帰宅した。午前9時半過ぎに船を出てイエローバスと言われる円天井のリスボン・サイトシーイングバスに乗り、傍らを通り過ぎるトラムを見ながら市内を巡ってみた。
 イヤホンからリズミカルな音楽とともに流れる説明によると、リスボンは古代フェニキア人の時代から港町として栄え、7つの丘からできたイスラム文化の融合した町とのこと。事実、起伏に富んだ坂道が多く両側に教会など伝統的建築物やインド洋を発見したヴァスコ・ダ・ガマの塔や橋、さらには1998年に開かれたエキスポのパビリオンなどが延々と建ち並ぶ姿は圧巻だった。
 何より印象深かったのは1756年にリスボン大地震が起き27万5千人のうち、3万人が亡くなり、破壊された町の復興に力を注いだフンバルト公爵の像が市民の間で畏敬の目で見られていたことである。力強い権力を表すためライオンを従えた、その勇姿には圧倒された。ほかにも坂の町で知られるアルファ地区や、アメリカ合衆国通り、動物園、ヤシの形をしたオリエント駅…と書き出したら止まらないので、この辺りにしておこう。
 
【出会い】リスボン市内をひと巡りしたあとは、修道院近くのレストランで食事をして近くの公園ベンチに座って横笛で〈さくらさくら〉〈風の恋盆唄〉など数曲をふいてみたが、清掃作業中の女性が強い関心を示してくれて嬉しかった。
 引き続き独りでインターネットカフェを探していたら、若い黒人女性が最後まで一緒に歩いてついて案内してくれ、店頭では犬と一緒にいた白人女性が店がオープン(午後3時半)するまで話し相手となってくれた。私はスマートフォンでわが家の愛猫を見せると女性は「ビューティフルキャッツ」と感嘆の声をあげていた。
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 昨夜の話。先日も紹介させていただいたが一時は交通事故で意識不明に陥った、車いすの奥さまともども乗船し夫婦で船内生活を過ごされている広島県廿日市市、二宮清志さん、むつみさん夫妻と夕食の席でお話しさせていただく機会に恵まれた。サッちゃんとヤエちゃんの配慮のおかげである。
 清志さんの「事故はお互いさま。私の場合、娘は亡くなり、妻も長い間意識不明に陥り私も首の骨2本を折り、一時は家族が破滅する寸前にまでなりました。でも、加害者夫婦も苦しんでいるのです。加害者を助ける気持ちで今は互いにおつきあいをしている」の言葉が印象的だった。
 聞けば、この日、2人の提案がきっかけで夫妻には船内有志手づくりの「平和のツル」が贈られた。ここに、夫妻にあてたその文面を記しておこう。
―【船にのりあわせた仲間はお二人から、たくさんの勇気と希望を頂いています 尊敬と感謝、そしてお二人の今後を祈って「平和のツル」をお届けします 6月吉日 ピースボート第76回クルーズ同船の有志より】

平成二十四年六月十四日
 昨夜、7階ブロードウェイであった洋上ダンスフェスティバルは社交ダンスはじめ、若者たちによるロックダンス、MXダンスなどそれぞれに味わいがあり、大成功に終わった。
 特に私たちが踊った社交ダンス(サルサ、ジルバ、ワルツ)は誰もが初心者からの旅立ちだっただけに、皆さん、新しい人生をかみしめるような踊りでうまい下手は別に実りあるものとなった。

 終わった後は居酒屋「波へい」で全員そろっての打ち上げ、私はパートナーと後藤京子先生(岐阜市)に心から礼を述べた。美雪が言う通り、もしかしたら私にとってのこの船旅を1行で表現すれば【ダンスがすべて】かもしれない。いまステップを踏んでいる社交ダンスの中にこそ、私の過去、現在、そして未来があるかも知れない。
 打ち上げの席では、乾杯のあと青森県八戸市からお出での石藤奈保子さん・久雄さん夫妻手づくりの心のこもった色紙が後藤先生に贈られた。笑顔満載の集いとなり〈海に抱かれて みんなラヴ〉の瞬間が、そこにはあった。
 写真は発表会のあとで楽しく交流するダンス仲間たち=中央の色紙を手にした女性が後藤さん
  

 船内8階フリースペースで黙々とボランティアで似顔絵を描いている若者がいる。
 名古屋芸術大学卒業生で愛知県北名古屋市在住の伊集院一徹さん(24歳)。伊集院さんは鹿児島県霧島市の出身だが、愛知県下の養護学校美術講師を昨年度でいったん辞め、勇躍このピースボートに乗ったという。
 色鉛筆から絵の具まで、すべて自己負担。おまけに似顔絵代も無料で、ただ献身奉公するのみーといった姿勢が船内の人々の喝采を浴びている。1人当たり10~15分をかけ、これまでに50~60人を描き上げ、喜ばれている。名古屋に住むだけあって、大のドラゴンズファンでもある。
 こんな伊集院さんの姿に似顔絵を描いてもらった北海道函館市の主婦、富山悦子さん(61歳)は「船内生活をする自分の写真をみて、このところ元気が消えているような、そんな気がしたので思い切って似顔絵をお願いしてみました。完成した自分を見て自身のイメージが、あ~ぁ、こうなんだ。そうかあー」と納得しました、の弁。「13日には61歳の誕生日のパーティーも仲間にしていただき、そのうえ似顔絵まで描いて頂けた、だなんて。良い記念になります」。
 伊集院さんは「寄港地到着日以外は、これからも毎日似顔絵は描き続けます。これはボクにとっての大いなる修行です。中高美術教師の教員資格は持っていますが、帰ったらまたどこか働く場所を探さなければ」と話している。
 ボランティアの似顔絵に打ち込む伊集院さん、左端が富山さん

 船内には、このほかにもチョットいい話がいっぱいある。きょうは、昼食を終え船室に帰る際に、本クルーズ最年長の参加者である秋本君枝さん(92歳)の姿をたまたま、食堂で見かけたので「きょうの船内新聞で紹介されていましたね」と声をおかけした。彼女は照れくさそうに会釈されたが、新聞の〈参加者紹介〉コーナーによれば、「山口県山陽小野田市からの乗船。ピースボートは3度目で、北極圏を訪れたくて参加を決めたという。『私は好奇心の塊なの』…」という。

 きのうは午後、映像チームの打ち合わせ会のあと、「なぜ隣人を殺したのか? ~旧ユーゴスラビア紛争から学ぶ~」を聴き、全員参加の航路説明会に出席。船は昨夜、霧に包まれた地中海のジブラルタル海峡を無事、通り抜け、大西洋をポルトガルのリスボンに向け北上している。

【出会い】東京都日野市から、という伊藤志津子さん。彼女は2度目のピースボート乗船。寄港した先々では1人での町歩きが大の得意技というだけあって、いつも意気揚々とした姿が、とてもさわやかだ。昨夜のダンス発表会でも華麗な演技を見せ名刺を見れば、newito@…のアドレス付きで〈安全で美しい地球を次世代へ〉の標語入り。「日々、生まれ変わって新しい女になるのがアタシのモットー。ダンスから南京玉すだれ、落語…とやることがいっぱいです。午後には“船上師匠”・古今亭菊千代さんの弟子として初夢亭一門会に出演しなければ」。ここでも女傑怪女は健在である。

平成二十四年六月十三日
 写真は大好評のムラジさん主唱の“南京玉すだれ”を学ぶ人々=船内で。12日午後

 きょうは夜、7階ブロードウェイでの発表会でワルツを踊らなければならず、なんとなく落ち着かない。お相手は年上の女性で昔、どこかでお会いした気がする。そうだ! 小学生のころ、よく岐阜から訪れた父の母のあの、ちょっと気品のある祖母の若いころにとてもよく似ておいでだ。昨夜のリハーサルでは緑のブラウスとスカートがお似合いだった。

 船内生活をするようになってからは少しだけ年上の女性ばかりに縁があり、記者当時に勇名をはせた“女性キラー”健在である。それも皆さん謙虚なお方ばかり。なかなか正体を見せない。実績もかなりある方ばかりだけに、どこか緊張する。「権太さん」「権太さん」と子ども扱いで呼ばれるとドキリとして直立不動になってしまう。

 昨日はカターニアから乗船された平和活動家、ベン・クレーマーさんの講演「核と原子力~世界が辿ってきた道のり~」、イニーゴ・アルビオルさんの「語られなかった過去(具体的には1936年から始まったスペイン内戦で勝利後、40年続いたフランコ将軍による独裁体制)」を聴き、夕食を早めにすませて、今夜のダンスフェスティバルのリハーサルに参加、相も変わらず1日がどたばたと過ぎていった。

 けさも早くからダンス教室へ。発表会を前に最後の練習に励んだあとは、実録「脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA」のビデオ映像を観て、いろいろ考えさせられた。

 船内生活も1カ月を過ぎ、私なりのペースで日々、過ごしている。いい面も悪い面も、見えてきた。でも、やはり〈時よ、駈けろ。駈けて、駈けて、かけまくれ! そしておまえのところに一刻も早く飛んで行け〉というのが本音だ。やっぱり船内よりも、わが家を拠点に変幻自在に独りであちこち飛び回った方がよい。

 愛猫こすも・ここたちの顔も見たい。時間が惜しい。それだけに、短編連作を書かなければ。私はいま。おまえに会う、その日を目指して、この船旅を続けている。みんなそうだ、と思ふ。この旅は〈海に抱かれ、地球を一周して恋しい人に再会する〉。さふいふ道行きなのである。

【出会い】夕食の席でお会いしたのが、大阪は茨木市からの松浦賢一郎さま=鋼の熱処理アドバイザー=ご夫妻。朝のダンス教室で奥さまを、お見かけすることから話が弾んだ。
 「私たちなんて。ちいさな町工場でして…」と謙遜される奥さまを横に実直そのものの賢一郎さんは「最後の恩返しですよ」と、なんだか泣けてきてしまう。そのうえ、奥さまが「アタシ、大津の出身なの」とあって、またまた話が弾み琵琶湖博物館の話などで盛り上がった(なぜかって? 17年ほど前、私は新聞社の大津主管支局長だった)。

平成二十四年六月十二日
 当地ではこのところ、日の入りが遅い。きのうも午後8時20分だ。けさも日の出が6時9分。日の入りはなんと午後9時7分である。ということは、ずっと明るい陽が続く、ということだ。
 日本ではとても考えられない。昨夜など独りデッキに立っていると、沈みつつある太陽なのに、これから昇ってくるのではとそんな錯覚すら覚えてしまった。デッキを歩き続ける人たち。その背後には黒くて長い影がどこまでも張りつき、影武者となって後ろをついてゆく。
 オーシャンドリーム号10階デッキ。とても夜とは思えない=11日午後8時写す

 シチリア島から地中海を横断して進んできたオーシャン・ドリーム号は、マルタ島沖合からアフリカ大陸をかなたに望みつつ、リビア、チュニスの北の海域を経てきょう正午過ぎにはフランスの南方マヨルカ沖合をかすめ、アルジェリア、モロッコと近づき、スペインのジブラルタル海峡に近づいている。

 13日の社交ダンスの発表会は人に言われるがまま四国(香川県)からおいでの正木さんを相手にワルツを踊ることになった。正木さんは控えめな感じの貴婦人である。

 きのうは、7階ブロードウェイでピースボート・井上直さんの話「なぜ隣人を殺したのか? ~ルワンダ虐殺と関東大震災~」を1部、NHKテレビの番組映像付きで聴いた。聴きながら1994年4月、アフリカのルワンダで大統領の暗殺をきっかけに、国営の「千の丘ラジオ」局の扇動もあって、わずか三カ月間に80万人もの人々が隣人から殺される(フツ族がツチ族を皆殺しにした。家族間でも多くの虐殺があった)という信じられない話に思いが及んだ。
 虐殺の構図は何も他人ごとではない。
 1923年9月1日に発生した関東大震災でも日本人によるデマや誤報がきっかけとなり、3000人以上(あくまで推定)の朝鮮人が殺された。その大量虐殺がナチスドイツによるユダヤ人虐殺、さらに最近ではサラエボやボスニア・フェルツゴヴィナ、アイルランド…でも起きている、という事実。虐殺の連鎖は留まるところを知らない。ニンゲンたちは、なんて愚かないきものなのであろうか。彼は「そのためにも、平和教育の大切さが望まれます」と結んだ。

【出会い】「みんな、この中では本物ですよ」と話すのは、ダンス仲間の女性Aさん。Aさん曰く「ここには、エジプト研究の権威・吉村さんから、元首相の小泉さん、鳩山由紀夫(元首相)夫人……と、それこそ有名人がいっぱいおいでです」と。
 顔を上げると、あのヒゲの姿が愛嬌たっぷりの吉村さんがニッコリ、「ヨシムラです。ボク本人」と私に向かって、うなづいてくれた。もう1人、ひじを手すりに置いてワルツに合わせて全身を揺すっている、頭髪の姿から体全体のしぐさまでそっくりの“小泉さん”も近くにおいでたのである。あ~ぁ、この世はなんて不思議なのだろうか。これ、すべて神のなせる業かも知れない。ついでながらボクも「ほんものの、かの有名な小説家・イガミのゴンタさまです」。

平成二十四年六月十一日
 地中海を一路、西へ。

  雲が流れ空も流れ/海がながれ私の心もながれてゆく/たどり着くのはたったひとつ/おまえという波止場

 オーシャンドリーム号は次の寄港地、ポルトガルのリスボンに向かって航海を始めた。102日間の船旅のなかの1カ月を過ぎ、みんな疲れてはいやしないか。現に肺炎などの病気など何らかの事情で下船した方も何人か出ているみたいだ。

 昨日は朝早く起きてシチリア島散策の前に、東京・渋谷在住の三鬼たかさんにあて、誕生日をお祝いするハガキを出した。彼女は、かつて一世を風靡した経済時評の達人で私が崇拝する故三鬼陽之助さんの妻である。7月4日がきたら、満101歳なので、それまでに着いてくれるよう、祈りを込めて船内に置かれたエアメール箱に投かんした。
 そして。もうひとかた、三重県鈴鹿市在住でこれまた、92歳の今なお意気軒高、地方文学界のトリデとなって私たちを牽引してくださっている文芸評論家・清水信さんにも現況報告を兼ねた国際エアメールを出させて頂いた。おふたりとも地球の宝である。

 ここでこのところの船内新聞の中から、読者の皆さんに少しでも知ってほしいニュースのごく一部を抜粋しておこうー
 「1990年の第10回クルーズ以来、ピースボートは27回ギリシャに寄港し、アテネ(ピレウス)の他にも、クレタ島、ミコノス島も訪問しています。2004年のアテネオリンピック開催と同時期に寄港した際には、『ピースアンバサダー(平和大使)』プロジェクトを実施。横浜~ギリシャ区間にギリシャ人の若者3人を招き、各寄港地で平和構築へ向けた啓発活動を行い、首都アテネでは世界でくり広げられている紛争の休戦を訴えるイベントを開催しました。」(8日付)

 久保さんから寄せられたメッセージ

 「ピレウスで下船された水先案内人の久保美智代さんにメッセージをいただきました。―の説明つきで、ご本人の筆で〈ピースボートは「地球遺産」 たくさんの出会いにありがとう!! 久保美智代〉」。「洋上ダンスフェスティバル参加者募集 来る13日、洋上ダンスフェスティバルを開催します。現在、船上では様々なダンスが行われていますが、日頃の練習の成果を発揮する場として参加してみませんか。」(9日付)

 「1994年以降、ピースボートが頻繁に訪れる国のひとつになっているイタリア。…第67回クルーズで訪問した際には【ヒバクシャ地球一周証言の航海(通称・おりづるプロジェクト)】に参加した10名の被爆者がバチカンの列聖のミサに参列。そのことがローマ法王の演説の中で取り上げられるという場面もありました。また(前回の)第75回クルーズでは、中東に非核地帯および非大量破壊兵器地帯を作ることを目的に、ピースボートが中心となり中東の市民活動家を呼び集めました。そして行われたのが、軍縮会議『HORIZON(ホライズン)2012』です。この会議は、イタリアのチビッタベッキアで2日間に渡って行われ、イスラエルとイランの市民が一緒に参加するという大きな成果を収めました」(10日付)

【出会い】夕食の席で、あるご夫妻がおっしゃるには「日本人がつくった世界共通語がふたつある。ひとつは“カラオケ”で、今一つは“スウドク(SU-DOKU)”なんだってサ。寄港地の本屋さんでスウドクなる本を探しているのだけれど…」。この“スウドク”とやらに関心をおぼえた。ちなみに手元の国語辞典と英文・和英辞書にも【スウドク】なんて言葉は出てこない。
 
平成二十四年六月十日
 オーシャン・ドリームは、この日朝、地中海のイオニア海を経てイタリアはシチリア島のカターニア(現地ではカターニアと発音)に着岸した。

 きのうは朝と午後の社交ダンス、フランス語入門、カターニアの映像を観る会に出た。船内を行き来する合間には船室にこもって平和へのメッセージ原稿〈エジプト編〉などを執筆、夜に入り初めて8階前方・スターライトで行われていた船専属バンド・ブルースカイ生演奏による社交ダンスのパーティー会場を恐る恐る覗いた。
 そしたらダンス教室で学んでいる人々が少しお洒落をして、チョッピリよそ行きの顔をしているわ、いるわ。その多さに驚いた。気が大きくなり、いつもニコニコ顔の一番ふところの深そうな七十歳ぐらいの女性をパートナーにお願いし、踊ってみたところナントいうことはない、上手い下手は別にして、大半は踊れたのである。
 それよりも帰宅後、美雪と踊るには何よりも曲を録音しておく必要があるーと咄嗟に思ったのである。

 古い町並みを赤い風変わりなバスが行きかっていた=イタリア・シチリア島のカターニアで 

 カターニアはイタリア南部、長靴で言えば帽子の付け根部分にあり、人口30万人のシチリア島第2の都市だ。かつてはエトナ山の噴火で多くの地域が火山灰に埋まった、という。市場とスーパー、ローマ劇場、象の像が立つドゥオーモ広場などが有名で、世界的作曲家ペッシーニでも知られる。
 私はきょう、その町を歩きに歩いた。でも、日曜のせいか大手百貨店、スーパーの類はそろってシャッターを下ろしていた。歩いている途中にインターネットカフェを見つけたので、そこに入り「IGAMI GONTA」で検索すると「伊神権太が行く世界紀行」が音声とともに鮮明に映し出され、しばらくの間、感動が全身を包み込んだ。まさに私の狙い通り、平和へのメッセージが世界の町角から現に発信されていたのである。
 私はカフェの店主に名刺を渡して英語で「このユーチューブを世界中に広めてほしい」とお願いすると、彼も感激した面持ちで親指を何度も突きたて「あなたがゴンタさんですか。オッケー。オッケエィ」と何度も答えてくれた。途中、食事をし公園で休んだ以外は町中をさまようが如くに歩きに歩き、それも港とは反対側に行ってしまうなど、とんだ珍道中となった。ここで私に最初から最後まで同行してくださった方にも心から礼を申し上げておきたい。

【出会い】埼玉の川越から独りで、というA子さん。「寂しくありませんか」との問いにも「全然。毎日が変化の連続で世界が動いている、と実感します。家族を残してきましたが日本のことなどこれっぽっちも。思いもしません」。女性って。冷たいというか、たいしたものだ。

平成二十四年六月九日
 いまは九日午前10時(日本時間は午後5時)。ピレウスからイタリアのカターニアに向かっている。船上を吹きわたるかぜは、肌にとても優しくて涼しい。
穏やかな地中海、ギリシャからイタリアへの途次。9日朝写す

 昨夜届いた美雪からのファックスによれば、「きょう(6月8日)東海地方は梅雨入りしました」とのこと。さらに今月出張でヨーロッパを訪れる長男とは、日程があわないので「やっぱり落ち合うのは無理だって。もう(彼から送られてきたメールを)見た事と思います」との文面。確かに見てはいるものの、日程が替わることもあるのではと思った次第。楽しみにしていたのに、しかたないか。

 フアックスには「社交ダンスは帰ったら教えてください」とも書かれており、自由律もいいが一度方向転換してみたらーと、〈涙目に映ゆ空と海みかん色〉(伊神舞子)なる俳句が添えられていた。

 きのうのアテネは楽しかった。でも、よいことばかりを書いているわけにもいくまい。この船旅も1カ月を過ぎた。きょうは、これまでに見聞きしたいろんな事件に触れてみよう。こうした本音の話は、とかく食事を囲んだときに自然発生的に出がちだ。
 たとえば、杖をついていたある高齢男性の場合。スリランカのコロンボで。1人で買い物途中に現地人に声をかけられ、自転車荷台に乗せられたまではよかった。しかし、それからが大変だった。自転車は猛スピードで蛇行を繰り返した挙句、振り落とされそうになった。このため恐ろしくなって途中で降ろしてもらうと、男たちが周りを取り囲み強引に土産物品を押しつけられて買わされた。
 同じスリランカで1人でいた女性も三輪タクシーに興味を引かれて乗ったところ1時間で1日分の料金を支払わせられた。別の女性はオプションツアーの間に、ほんの僅か目を離したスキを狙われ置き引きに遭い、バッグが失くなっていた。さらにきのうの夕方、アテネ市内から帰ったところで久しぶりにお会いした女性は「カメラを落としてしまい、使えなくなったのでこれから買いにピレウス市内まで出かけてきます」と悲しそうだった。みんな長旅の疲れも出てきているため、犯罪とか思わぬ事件、事故に遭いやすくなっていることも事実だ。互いに気をつけなければ。
 そういう私とて、きのうは12ユーロ―を払ってパルテノン神殿に入場する際、小脇に抱えていたビデオを路上に落とした。一瞬、ダメかとあきらめはしたものの幸い打ちどころが頑丈な部分で大事には至らず、機能は保たれた。そして、けさは起床草々からトイレの水が流れず、修理を当直さんにお願いしてきた(幸い8時前に朝食から帰ると、直っていた)。

 このほか「先日あった夏まつり開催に当たって私たちは担当スタッフに何度も招集され、そのつど指定された場所に足を運んだのに、肝心のスタッフがあっちへ行ったり、こっちへ来たりで、私たちなんてそっちのけ。どれだけ待たされたことやら。あれでは乗客優先ではなく、スタッフたちは自分たちのことだけしか思ってないのでは。“尻切れトンボ”も甚だしい。とても一般社会では通用しない」といった女性の辛口発言まで飛び出している。

 何はともあれ、いつ何が起きるか知れたものでない。みんな互いの立場を思うなら、こんなふうに批判されることもない。

【出会い】いやはや、船内生活を過ごす怪女ときたら、半端じゃない。その1人が、昨夜、お会いした東京・文京区からきた江戸っ子、ノブさんである。私よりふたつ上の女盛り。独り旅のさなかの彼女は、ピースボートへの乗船は2回目だが、これまでに旅した国となると、数え知れない。
 かつては今は亡き母と、娘さん、そしてご本人の3人で飛行機に乗って地球一周をしたこともある。最近ではイギリスのロンドンはじめオーストラリアのケアンズ、キューバ、釜山…と1カ所に1カ月から3カ月留まる滞在型に旅の内容も変わってきた。いつも独り旅で「ただ借金と貯金をするのが嫌いなだけよ。もちろん夫の理解もあるから」とのこと。
 そんなノブさん。そもそも独身のころ、20代でシベリア鉄道にあこがれ初めての海外経験でシベリアを横断したのが“旅女”になるきっかけだった。「あのころは小田実さんの“なんでも見てやろう”の時代でね。私もその気になっちゃったの」と続けた。
 「小田さんと言えば、ベ平連(ベトナム民主平和連合)の小中陽太郎さん、ご存知ですか」とお聴きすると「えっ、小中さんですか。向こうはアタシのことなんか知るわけない。でもアタシ、あの方が大好き。テレビでの、あのさわやかな話しっぷりが、とてもステキです」ときた。まさか、ここで小中さんの話が出るとは。思わず嬉しくなってきた。

 結局、ノブさんとは1時間以上、同じ時を過ごした。話はなぜか、日本のプロ野球にまで発展。「アタシ、ノムさん(元楽天監督)と落合さん(前中日監督)が大好きなの。ひとくちで言えば、すり寄っていかない、染まらない男。かっこいいですよ」と付け加えた。
「この世の中、何か悪いことがあると、人のせいにしてしまいがちだけれど。結局は、みんな自分のせいなのよ。昔〈物の見方、考え方、変え方(高橋庄治著)〉と言う本があったけれど、この本がアタシにとってのバイブルなの。自分を思い切って変えてしまったわ」。
 ノブさんの話は限りない。でも、楽しくてあきなかった。

平成二十四年六月八日
 オーシャンドリーム号はこの日朝、ギリシャのピレウス港に接岸。私は自由行動の日でもあり午前中、日本の知人らに「現在はギリシャにいます。船旅は順調ですので、ご安心ください」といった簡単なメールを打たせて頂いた。日本の友人たちの誰もが本欄「海に抱かれて みんなラヴ」を楽しみに読んでいます、とのメールをくださっており「来て良かったな」とつくづく思う。ユーチューブで発信中の「伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/私はいま その町で」も開いてくださっている、とのことで感謝している。

巨大客船のルビー・プリンセス号

 この日、ピレウスの港には10万トン以上はあろうか、とてつもなく大きな豪華客船、その名もルビー・プリンセス号がオーシャンドリーム号と並んで停泊しており圧倒された。この巨大な客船をビデオとカメラに納めた後は、ピレウスの港でタクシーをチャーターしてアテネオリンピックの際のオリンピックスタジアム、アテネ市内の町流し、小高い丘の頂上に広がるパルテノン神殿(アテネにある古代神殿)の順に訪れた。マラトンまでは1時間半かかるというので差し控えた。

威光は今も健在=パルテノン神殿で

 それにしてもパルテノンは底知れない建造物だった。人は、なぜ、これほどまでに神殿へと、それこそ草木もなびくように向かうのか。やはり、2500年前に創られたというだけあって、その威光には凄まじいものがあった。世界中から訪れた人々が古代建築の勇壮美を前に立ち止まり、言葉もなく立ち尽くし息をのんでいた。私自身、なんだか神がかり的なものを感じたのである(神殿だから当然か)。

タクシーの運転手、ディミトリスさんとギリシャ料理


 タクシーの運転手が、また良かった。名前はディミトリスさん。50歳。彼は生粋の“アテネっこ”で元銀行マンだったが、不況のあおりでタクシードライバーに転身したのだという。神殿見学のあと、アテネの下町のレストランまで案内して頂き、共に食事をしたが、さすがに元銀行マンだけあって英語も堪能で経済には敏感だった。
 彼が一番強く指摘したのは「オリンピック開催がギリシャ経済を破綻させた」というものだった。では、今後の経済立て直しには誰に期待するのか、と問うと第一にオバマさん(米国大統領)であり、次にプーティンさん(ロシア大統領)との答えがはね返ってきた。
そしてスペインとイタリアの経済もギリシャと同じであまり良くなく、フランスとドイツは大丈夫だ、などとの見解を教えてくれた。日本で知っているのは残念ながら「トウキョウ」だけだった。

 ふたりで世界をダベリ、ミトスとアムステルで一杯やりながら食べたギリシャ料理の味も最高だった。私は「ディミトリス。ふたりは、この広い宇宙の片隅できょう初めて、偶然にもこうして会うことができた。日本に来る時があれば、連絡してほしい。奥さまと2人のお子さんの幸せを願っているから」とだけ言って別れた。

【出会い】何と言ってもタクシードライバーのディミトリスさん、との出会いが忘れられない。彼はあちらこちらに動き回る私を見失わないように、と献身的なまでに尽くしてくれた。私はきのうまで彼の存在を知らないでいた。でも、きょうはオプションに参加することを控えたおかげで、思いもかけない友人ができた。世の中、こうしたものなのだ。