連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第二章

第二章 透し視る

   1

 学校のテストの時間は、いつも憂鬱だった。頭が良いほうではなかったため、悪い点数を取ったら母親に怒られた。丸川玲奈はそれが嫌で仕方がない。事前にテストの内容がわかったらどんなに楽かと、玲奈は思う。かと言ってテスト用紙を盗んだり、テスト中にカンニングする勇気も度胸もなかった。
「はぁ」
 玲奈は、ため息を吐く。
 テストの時間にひとりきりで教室にいて、ひとりきりでテストを受けているこの状況に、すっかり慣れてしまっている自分に嫌気がさしていた。
 黒板。教壇。玲奈の座っている椅子。テスト用紙と鉛筆と消しゴムの置かれた机。この教室には、それだけしかなかった。殺風景なこの部屋は、玲奈のために特別に用意されたものであった。そうしないといけない理由が、玲奈にはあった。
「えーと。これわかんないから適当でいいや」
 そんなふうに呟きながら、玲奈はマークシートの一部を鉛筆で塗りつぶす。こうして独り言を呟いていても、部屋に誰もいないため怒られることはない。どうして先生すら立ち会わないのかは、玲奈が一番よくわかっていた。
 この教室は、監視されている。監視カメラがあるわけではないが、玲奈にはそれがわかる。何故なら玲奈と同じ能力を持った人間が、このうみほたる学園には存在しているからだ。
 一年前。玲奈は母に連れられて、この学園を訪れた。理由は透視能力の発症だった。いつからとは、具体的にはわからない。しかし、いつの間にか玲奈は物体を透視する能力を手に入れてしまっていたのだ。
 そのことに気づいた日。玲奈は恐怖と同時に喜びを感じていた。この能力があればどんなことだってできる。そう思ったからだ。
 この能力に抵抗がないわけではない。他人のカバンの中身や財布の中身を、視ようと思えば視れてしまう。視る必要のないもの。視てはいけないものまで、視えてしまうのだ。それを視てしまえば、無意識に自分が犯罪者になってしまうのも避けられないだろう。そんなことは嫌だった。まっとうに生きることを両親は願っていたし、もちろん玲奈自身もそうでありたいと思っている。
 けれど、どうしても。ひとつだけやってはいけないことが、頭の中を過ってしまう。もう怖いテストの日だって恐れる必要はなくなったのだと。この能力を使えば、カンニングをしても絶対にばれることはないのだと。そう確信したとき、玲奈は思わず笑みをこぼしていた。自分の愚かな考えに自嘲した。
 結局、実行することはなかったのだけれど。

   *

 マークシートを全て塗りつぶし終わったころだった。突然、教室の扉を叩く音がした。まだ終わりの時間でもないはずなのにと、玲奈は首を傾げた。
「失礼します」と職員室にでも入るようなかしこまった態度で、その少年は扉を開けた。玲奈は首を傾げたまま、「はい」と返事をした。鉛筆を机に置くと、玲奈は両手を膝の上に乗せた。
 眼鏡をかけた少年は教室に入ってくるなり、「テスト中に失礼します。記入は終わったと思いますが」と衝撃的なことを口にした。
「どうして」
 わかるんですかと問いかけて、玲奈は気づく。この少年の顔に見覚えがあることに。そう、玲奈は彼に会ったことがある。確か、玲奈と同じような能力で、テスト中に玲奈の監視を任されている人物。川崎竜太郎である。
「忘れてしまいましたか。僕の能力は、どんなに遠くでも見通せる能力です」
「すみません。テストが終わって気が抜けているんです。頭が回っていないと言いますか」
 玲奈はそう言いながら、右手で頭部に触れる。
「そうですよね。こんなときにすみません。でも、今の時間でないとタイミングがなかったものですから」
「今の時間?」
「はい。あなたがマークシートをすべて埋め終わった今の時間。テストの時間がまだ終わっていないこの、少しもてあます時間です」
「それは本来、見直しする時間だと思うのですが」
 テストの時によく先生が、記入し終わってもテストは時間いっぱい見直しをしましょうと言うものだ。確かに彼の言うとおり、見直しなど数分で終わるので時間をもてあますかもしれないが。
「それは失礼しました。どうぞ、見直してください」
「その間、あなたはどうしているつもりですか」
「外に出て、もう一人の子と一緒に待っていますよ」
「もうひとり?」
 尋ねると、彼は頷いた。
「はい。いるんです。教室の外に」
 玲奈の透視能力には、欠点がある。近くの対象物しか透視できないことだ。対象物に触れると精度は上がるが、逆に言えばそのぐらいの距離にいないと使えないということだ。
 だから教室の外の廊下を、玲奈は透視することが出来ない。
「では」と彼は言ってさっさと教室を出て行く。玲奈はなんなのだろうと首をかしげながら、マークシートをもう一度確認する。先ほどの彼が気になって、玲奈は集中することが出来なかった。しかたなく、滑るように視点を動かして、見直しをする。終わるのに、二分もかからなかった。

   2

 テスト用紙を再び机に置いたころだった。先ほどと同じように、川崎竜太郎は教室に入ってきた。しかしさっきと違ったのは、小柄な少女を連れているところだった。先ほど言っていたもうひとりが、彼女だと理解するのは一瞬だった。
「失礼します」と川崎が言うのに続いて、その女の子も小さなか細い声で、同じように言った。まるで親の真似をするひな鳥みたいだなと思った。
「丸川さん。紹介します。彼女は、小池燐音さんです」
 川崎が促して、小池は頭を下げた。そしてまたか細い声で、「初めまして。よろしくお願いします」と挨拶をした。
「彼女は僕の、助手ということになりますかね」
「助手? 川崎くんは、探偵か何かやっているの」
 助手と聞いて真っ先に浮かんだのがそれだった。冗談を言ったつもりはなかったが、「そうだったら良いんですけれど」と言って川崎が笑った。
 川崎も笑うことがあるのだなと、玲奈は漠然と思う。なんとなく、笑わない人だと思っていた。
「それで、川崎くんと小池さんがこの時間にここに来た理由は?」 
 玲奈は単刀直入に聞いた。気になって仕方がなかった。
「僕らがこの時間にこの教室を訪れた理由は、ただ都合がよかったからです。この時間であれば、他の誰にも邪魔をされずにあなたと話ができる。と」
 教室には玲奈と川崎と小池の三人だけだった。
「小池。あれを」
 川崎が、小池に目配せする。
 小池はそれまでずっと、何か袋のようなものを右手に持っていた。気にならなかったわけではない。玲奈自身に関係のあるものだとは思っていなかったのだ。
 白と黒のストライプ柄をしたビニール製の手提げ袋。学園内にある雑貨屋さんで貰えるものだ。雑貨屋「ライフ」可愛い文房具や小物が売っている。学園では、毎月現金で三千円の支給があるため、そのお金で好きなものが買えるのだ。しかし、種類が豊富なわけではないのでえり好みはできない。店員は年齢が二十代以上の人たちばかりで、ほとんどが能力者だった。
 袋は何か入っているのか、僅かに膨らんでいた。小池は川崎に促されて、少し慌てたように袋を開いてその中に左手を入れる。そうして彼女が取り出したのは、どこか見覚えのある小物入れだった。それは、小池の小さな手の平におさまるほどの大きさで、外装は紺色に塗られてるスチール製の箱だ。ところどころ錆びている。
「なに。それ」
 玲奈は顔をしかめながら尋ねた。
「実はあなたに、頼みたいことがあります」
 川崎は箱を小池から受け取ると、そう言った。
「頼みたいこと? その箱に関することなの」
 玲奈の中で、また疑問が生まれる。ひたすら首を傾げるしかなかった。
「ええ。一言で伝えます。この開かずの箱を、あなたに透視してほしいのです」
 真面目な顔をして、川崎が言った。
 玲奈には彼が何を言っているのか、まったくわからなかった。どうしてその必要があるのか理解できなかった。川崎の能力で玲奈と同じことが出来るはずなのに、どうして彼は自分で視ないのだろう。何か理由があるのだろうか。
「それは、川崎くんには出来ない事なの」
 玲奈は素直に疑問をぶつけてみる。
「はい。あなたではないと意味がないのです」
 そう言って川崎は頷いた。
「どういうこと。私に関係がある箱ってこと? 身に覚えがないんだけれど」
「そうですね。あなたが知らないのも当然です。これは、あなたの家族から受け取ったものですから。そして本来ならば、あなたに渡さずにあなたの卒業まで厳重に保管されるはずでした」
 川崎の言葉に、玲奈は思わず目を見開く。
 家族から。という事実に信じられない気持ちになったが、それよりも本来ならば知らされずに保管されるはずだったものを、どうして玲奈にみせたのか。彼の考えがよめない。
「この箱には、おそらくあなたに関連したものが入っていると思います。だから僕が視るわけにはいかないのです」
 怖いという感情が、玲奈の胸の奥で嵐のように吹き荒れる。右手で、左手を掴む。体が震えているような気がしてならなかった。幸いにも、そんなことはなかったのだが。
「もしそうだとしても。私には、それを視ることはできないわ」
 しばらくの間の後、玲奈は言った。
「どうして」と川崎が尋ねてくる。
「私にとって良いものが入っているとは、思えないからよ」
 玲奈の言葉に、川崎は何も返しては来なかった。困っているのかもしれないし、真面目な顔のまま、何かを考えているのかもしれなかった。玲奈には川崎が何を考えているのかわからない。けれどそれは玲奈の本音だったものだから、訂正する気はなかった。
 しばらく沈黙が流れた。それを破ったのは、意外にもずっと黙っていた小池だった。
「あの。そうとは限らないのでは、ないかと」
 言葉の最後は自信がなさそうに消えていった。彼女は玲奈と目を合わせようとしない。それを不快だとは思わないが、もっと自信を持てばいいのにと、憤りを感じた。
「どうしてそう思うの」
 強い言葉にならないように気を付けたつもりだったが、果たしてそれが彼女に伝わったかどうかはわからなかった。今にも泣き出しそうにみえるその瞳は、水面に反射する日差しのようで、今の玲奈には眩しかった。
 玲奈は、小池の返答を待っていた。小池の隣に座っている川崎も、彼女の言葉を待っている様子だった。彼女のことをみつめている。
「あなたは先ほど、身に覚えがないと言いましたが、本当はそうではない。と思います。あなたはただ怖がっているだけ、なのだと思います」
 何かに慌てたように、小池は言った。
「それは……」
 玲奈は何も言い返せなかった。確かに彼女の言うとおり、箱にまったく見覚えがないわけではない。しかしどこでみたのか、思い出せないのだ。
「思い出してください。それはきっと大切な記憶です」
 小池は勇気を振り絞るように、そう言いながら箱を玲奈の机の上にそっと置いた。繊細なものを扱うかのような手つきだった。
 それをじっとみつめていた彼。小池の隣に座っている川崎が、何かに頷いた。
「丸川さん。実は僕、もうひとつ能力を持っているのですが。今、きっとあなたの役に立つと思います」
「え?」
 唐突な川崎の言葉に、玲奈は本日何回目かわからないが、首を傾げた。
「僕は、他人の過去を視ることが出来ます。信じられないかもしれませんが」
 川崎はそう言って眉をハの字にした。
 玲奈は首を横に振る。
「信じられないものは、ここじゃ普通でしょう。だから、気にしないで。でも、その能力は本当に今、役に立ちそうね」
 ふぅっと玲奈は息を吐く。自分の過去を覗かれることに、気持ち悪さを感じないわけではない。しかしそれしかこの胸の中にあるもやをはらせないのなら、川崎の能力に頼るしかないと、玲奈は思った。
 川崎は微かに頬を緩めた。
「箱の記憶だけ、視てもいいですか」
「お願いしてもいい?」
「はい」
 川崎は頷いた。それからゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、座ったままの玲奈の前に、右手を差し出した。
「どちらの手でも構いません。触れないと視られないのです」
「わかったわ」
 玲奈は握手をするように、右手を差し出した。
 川崎がその手に触れると、両目を閉じた。彼の手は、温かかった。

   3

 玲奈の祖父が亡くなったのは、中学一年生の頃だった。
 玲奈にとっての祖父は、温厚で優しい人物であったが、それは玲奈の母にとってはそうではなかったらしい。玲奈の祖父は、母の父親でもあった。母にとっての祖父はとても厳格な人で、そんな祖父が一度だけ、母に贈り物をしたことがあるという。
 それが、紺色の小物入れの中身だった。
「私が社会人になるときにね。これを贈ってくれたのよ」
 母は嬉しそうに言った。
「でも私、鍵を失くしてしまったのよね」
 そしてそう言うと、すぐに表情を曇らせた。
 紺色の箱には鍵穴があり、鍵がないと開かないようだった。
「何が入っていたのかも、もう思い出せないわ」
 哀しそうな母の表情に、玲奈も哀しい気持ちになった。
 その話を母から聞いたのは、まだ祖父が亡くなる前だ。その頃の母は、まだ玲奈にとって優しい母親であった。
「どうして、そんなに大切な箱なのに、鍵を失くしたの」
 と玲奈が尋ねると、母は困ったようにこう言った。
「仕事の忙しさにかまけて、箱の存在を忘れていたの。それで、鍵もいつのまにかどこかへいってしまった。恥ずかしい話ね」
 どうして今になってその箱をみつけてしまったのか、母はわからないと言った。せめて中身のことを思い出せればと言う。
「探そうとはしなかったの」
 そう尋ねると、母は言った。
「探したわよ。部屋中をくまなく。でも結局、みつからなかった」
「おじいちゃんは、このことを知っているの」
「言っていないけれど、多分気づいていると思う。あんまり口をきいてくれないから」
 母はそう言うと、淋しそうに笑った。
 祖父が亡くなる直前、何があったのか玲奈は知らない。もしかしたら箱の事で喧嘩したのかもしれないと思っている。何故なら祖父の亡くなった日。玲奈が学校から帰ると母は不機嫌で、そのあとすぐに病院から電話がかかってきたのを覚えているから。

   *

「結局。箱の中身が何か、わからずじまいだったな」
 小池と共に廊下を歩きながら、竜太郎は言った。
 堀田理事長から洸生会に依頼があったのは、つい先日の事だった。丸川玲奈の母親から箱を預かった。この箱を玲奈に渡してほしいと言伝されたという。原則、卒業するまでは外部からの荷物は衣類品以外渡せない。それが学園の規則なのだから理事長も本来ならば卒業まで箱を保管、又は返却するつもりだった。しかし、洸生会の依頼にしてしまえば話は別らしい。理事長のずるさが垣間みえた。
 母親の真意はわからない。娘に渡せばこの箱の中身を彼女が知ることが出来る。それをわかっているはずだ。ただ丸川と母親の関係性を理事長から聞いていたので、簡単には箱の中身をみないだろうと竜太郎は思った。だから丸川本人に直接提案してみたのだ。箱の中身を透視してほしいと。
「うん。もう視るしかなさそう」
 小池が頷きながら言う。
「視てくれると思うか」
 竜太郎が尋ねると、小池は長い髪を揺らしながら頷いた。
「きっと、視るよ」
 小池の言葉に力強さを感じて、竜太郎は足を止めた。小池もどうしたのとでも言いたげに足を止めた。
「何で、そう言い切れるんだ」
「だって、丸川さん。お母さんの事が大好きだから」
 小池の言葉に、竜太郎は目を丸くした。
 理事長から聞いていたのは、丸川玲奈は透視能力のせいで、カンニングの疑いをかけられた。それを知った母親との関係が悪化したという事情だ。
 だからお互い嫌っている。と竜太郎が勝手に思っていたのかもしれない。
 小池は人の心をよむことが出来る能力を持っている。丸川は母親の事を嫌ってはいない。彼女が言うなら、そうなのだろう。と竜太郎は思い直し納得した。
「そうか」
 竜太郎はそう言って、また歩き出した。小池もそれに続くように、竜太郎の後ろをついてくる。
 やれるだけのことはやった。自分たちが彼女の役に立てたのか。それを知るのはもう少し後の事だろう。
 あとは丸川玲奈。彼女次第だった。

   4

 きっかけは何気ない一言だった。
「カバンの中、もうちょっと探したら。底のほうにあるよ」と、玲奈は定期券を失くしたと騒いでいたクラスメイトに対して、そう助言をしたのだ。もちろん能力を使わない限り、そんなことはわかるはずがない。でも玲奈はわかってしまったのだ。透視能力があったから。
 ただの親切心で、能力を使ったつもりだった。玲奈にもまだそんな良心が残っていたことを褒めてほしいぐらいだった。
 定期券は本当にカバンの底のほうに隠れていて、クラスメイトの彼女はそれをみつけると、すごく喜んでいた。お礼を言われたが、同時に不信感を抱かせてしまった様子で、「どうしてわかったの」と、彼女は驚いたように目を丸くしながら言った。
 玲奈は焦りを感じたが、それを必死に顔に出さないようにした。
「えっと。そうじゃないかなって。ほら、定期券て薄っぺらいでしょ。パスケースに入れていたとしても鞄の中で横になっていたら、他の物に隠れていてみつからない時ってあるじゃない」
 玲奈の言い訳に納得してくれている様子だったが彼女は終始、首を横に傾げていた。
 玲奈がしたことは普通じゃない。ありえないことに対して、疑問を持つことは真っ当だ。「ねぇ、丸川さんもしかして透視能力でも使ったの」
 彼女は冗談交じりに、笑いながら尋ねてきた。
「え?」
 玲奈は動揺が隠せなかった。
「だってさ。そうでもないとあり得ないじゃん。何だっけ。最近はやりの能力病でも発症したの」
 彼女の質問に、玲奈は必死に声の震えを抑えた。
「そ、そんなわけないじゃない。あれって社会不適合者とかがなるやつでしょ。私は普通に学校に通っているし、不登校になったわけじゃない。だからあり得ないよ」
 世間的には、社会不適合者が能力を発症する確率が高いと言われている。そのため病気と言われたりしている。そのことは、ニュースでも取り上げられているため誰でも知っている情報だった。
「それもそっか」
 そう彼女は笑って返していたが、次の日からなんだか嫌な噂が流れるようになった。このクラスに、能力者がいるという噂だ。
「まじかよ」
「ほんとだって」
 教室にいると、嫌でも会話が耳に入ってくる。
「透視能力とか、一度は夢見たやつじゃん」
「お前、あんな噂本当に信じてるのか」
「全部透けて視えるのかな。体とか骨まで視えたらもうレントゲンいらないだろ」
 クラスメイトの男子が、けらけらと笑っていた。
 視ようと思えば視えるけれど。と玲奈は口には出さずに思った。
 噂が落ち着くまでは何を言われても仕方のないことだなと諦めながら、明日から始まる憂鬱なテストのことを考えていた。
 また悪い点数を取ったら、母親に怒られる。そのことだけが頭の中を駆け巡る。もういっそのこと、透視能力を使って他の人の回答を盗み視ようか。でも変な噂が流れているこの状況で能力を使ったら、自分が能力者だと確定してしまう。
 悪い考えが、頭の中で浮かんで消えてを繰り返した。それはテストの直前まで続いた。

   *

 玲奈はテスト期間中、最後までカンニングをしなかった。
 勇気がなかった。たったそれだけの理由だ。母に怒られるのは嫌だが、落胆させるのはもっと嫌だと思ったからだ。だから真面目にやることにした。後悔するかもしれない。なんて思うが、行動してもっと嫌なことになるぐらいならやらないほうが良いと思った。それにせっかく勉強したのに、その努力を水に流すことになる。
 テストがすべて無事に終わり、帰り支度をしていた時だった。
「あーあ。透視能力でもあったらテストも楽なのにな」
 誰かが言った。テストの事で頭がいっぱいで、誰もがその噂を忘れていたと思うのに、蒸し返す者がいた。
「他の人の答え視られるじゃん。ねぇ、丸川さん」
 名指しされて、心臓が跳ね上がった。
 何も悪いことはしていないはずなのに、冷や汗を掻いている。
「え?」
 大波が玲奈のほうへと押し寄せてきているような気がした。おそるおそる声の主の方をみると、以前玲奈が透視能力を使ってなくしものを探してあげたクラスメイトの女の子だった。
 教室にいた担任の先生が、彼女の発言に反応する。
「どういうことだ。それは」
「実は……」
 そうしてクラスメイトの彼女。もう名前も思い出したくない彼女が、あることないことを説明しはじめた。
 パスケースの件は真実だが、その後のカンニングの話はすべて作り話だ。偽物だった。それをさも事実かのように彼女が話すものだから、その場にいた者たちはそうかもしれないと思ってしまったのだ。
「透視能力が、あるのか」
 と先生に問われ、玲奈は否定しなかった。良くも悪くも正直者だったのだ。嘘をつけなかった。それがよくなかった。
「でも、カンニングはしていません」
 誰も玲奈の言葉を信じてくれなかったのだ。
 本当です。信じてください。そう言っても先生は疑うのをやめなかった。玲奈のテスト用紙をすべて確認して、間違っている問題があるにも関わらず、ばれないようにわざと間違った答えを書いたのだろうと結論を出した。透視能力があるからという理由だけで、玲奈のすべてを否定した。玲奈の能力の事をよく理解もせずに、カンニングしたと決めつけた。
 そこにあるのは悪意だった。
 学校に呼び出された母はカンニングの件を聞くと、最初は「そんなことをするはずがない」と味方してくれていたが、透視能力の話を聞くと、顔を青ざめた。
「それは本当なの」と玲奈に事実を確認してきたので、玲奈は透視能力のことだけを肯定し、カンニングのことは否定した。
 母は酷く落胆したような表情をしてこう言った。
「もういいわ」
 それは呆れから発せられた言葉だったと思う。
 母さえも、玲奈の言葉を信じてはくれないのだとそのときに理解した。玲奈はもう何を言っても無駄だと思った。だからそれ以上何も言わなくなった。 
 結果を言えば、透視能力を使った証拠がないということで、自宅謹慎ということになった。その間、玲奈は母と一度も会話をしなかった。父は仕事ばかりでいつも家にいない。
 ここからは理事長から聞いた話だ。
 母から、うみほたる学園という能力者たちを集めている学園に電話があったらしい。娘が透視能力を発症したと相談を受けたという。どうしたら良いのかわからないのでそちらで引き取ってほしいと。理事長はすぐに丸川家へと向かったそうだ。
 そうして玲奈は、うみほたる学園へ入学することになった。
 これが一年前の話である。

 5

 小さな紺色の小物入れの箱が、玲奈の自室の勉強机の上に置いてある。玲奈はそれをじっとみつめて、集中していた。
 女子寮なので同室の女の子がいたが、その子は外出中だ。どこへ行ったのかは知らないが、しばらく戻っては来ないだろう。
 玲奈が箱とにらめっこをして何分経ったのかはわからない。ただ椅子に座ったままずっと透視するかどうか悩んでいたのだ。
 この箱を渡された意味を、ずっと考えている。
 川崎の過去を視る能力でこの箱の記憶を聞いて、玲奈は箱について思い出した。母の大事なものを、どうして母が私に渡そうとしたのか。理由がわからない。わからないから怖い。
 小池が指摘したとおり、玲奈はただ怖がっているだけなのだ。
「あの子。エスパーみたいな能力でも、持っているのかな」
 呟くように玲奈は言って、困ったように眉をハの字にしてひとりで笑う。
 玲奈は深く呼吸し心を落ち着かせる。それから箱の上部にゆっくりと右手の人差し指で触れた。
 能力を使うと、箱の中身が透けて視えてくる。
「これは、万年筆と、紙?」
 その紙は、カードのように小さなものだった。そこにはこう書かれている。

『就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように』

 名前は書いていなかったが、達筆なその文字をみて玲奈はすぐにそれを書いたのが祖父であると気づいた。
 玲奈は箱からゆっくりと手を離す。やはり玲奈がみて良いものではないと思った。これは母に贈られたものだ。祖父から母への愛の詰まったものだ。
 そう思いながら、玲奈は椅子から立ち上がった。
 母にこの箱を、返さなければならない。

   *

 丸川玲奈が竜太郎の所へやってきたのは、箱を渡した翌日の事だった。クラスを教えていたので、彼女は授業の合間の休憩時間に竜太郎の教室にやってきた。
 竜太郎は丸川が教室の前で立ち止まるころには、彼女の前に居た。竜太郎の持つもう一つの能力。どんなに遠くのものでも視えてしまう眼で、丸川が教室に向かってきていることを知っていた。
「びっくりした。今、呼ぼうとしていたのに」
 当然、丸川は驚いた顔で竜太郎の事をみた。
「呼ばなくても、視えるので。用があって来たのでしょう」
「そうだったわね。あなた、視えるんだった」
 丸川がそう言って頭を掻く。
 竜太郎は丸川に、廊下の端まで歩くように伝えた。二階の廊下の行き止まりには、すりガラスの窓があった。その前まで来ると、竜太郎と丸川は立ち止まる。
 本当はこの場に小池燐音も呼んで、玲奈の心をよんでほしかったが、そう都合よく彼女は居ない。斉藤寧々と一緒にどこかへ行ってしまったからだ。
「これ」
 丸川が雑貨屋の袋を竜太郎に向かって差し出す。中身は視なくてもわかっていた。丸川の母親から受け取った箱だ。どうやら彼女は、それを竜太郎に渡すために教室に来たらしい。箱の入った袋を胸に押し付けるように渡してくるので、竜太郎は仕方なく受け取る。
「視たの。中身。何が入っていたと思う?」
 丸川の問いに、竜太郎は答える。
「社会人になったときのお祝いです。それを長期で放置していたのですから、お菓子類ではないでしょうし。小さな箱に入っているので、何となくですが予想はできます。おそらくペンか何かかと」
「ほとんど正解かな。万年筆だったよ」
 丸川はそう言って微笑んだ。
 少し嬉しかったが、竜太郎は顔に出さなかった。他の事を考えていたからだ。
 洸生会への依頼は、丸川玲奈に箱を渡すことだ。透視を頼んだが、本来の目的は達成している。箱を返されても困るのだ。
「あのさ、川崎君。一つだけお願いしてもいい?」
 真剣な表情の丸川に、竜太郎は思わず「何ですか」と返す。
「あなたと小池さんが、誰に何を頼まれていたのか知らないけれど、私はこの箱を受け取れない。中身を知った今だから、なおさら思う。この箱を、持ち主に返してほしいの」
「それは」
 竜太郎は額に眉を寄せた。
 箱を母親に返すということがどういうことなのか。丸川は理解しているのだろうかと、竜太郎は思っていた。小池はどう転んでも良いと思うと言っていた。それが丸川の選択だと。だが竜太郎の考えは違った。
 丸川の母親は、鍵をなくして開かなくなった箱を娘に渡したかった。彼女に箱の中身を視てほしかったのだ。そこに何か意図があるはずだ。
 中身は万年筆だと丸川は言った。果たしてそれは本当の事だろうか。
「丸川さん。あなたのお母さんがこの箱をあなたに渡したかった理由を、理解していますか」
 竜太郎はいつになく真剣な眼差しで、丸川をみつめた。
 肩までの黒い髪の毛が、不安そうに揺れていた。
「みて見ぬふりをしていませんか」
 丸川が目を見開く。
「わかっている」と言った彼女が一歩後ずさるのを、竜太郎は見逃さなかった。
「お母さんは、ただこの箱の中身が知りたかったんでしょう。だから私にこれを渡すように頼んだ。違う? だから返すのよ。あなたに頼みたいのは、箱の返却と、中身が万年筆だったって母に伝えてほしいの。それとメッセージカードに書かれていた言葉」
 そこまで言って、丸川が口を右手で押さえる。彼女にとってそれは、余計なことまでいってしまったということだろう。
「メッセージカード」
 竜太郎は気になった単語を繰り返す。とても重要なことのような気がした。
「何と書かれていたんですか」
 竜太郎の質問に、丸川は観念したように口から手を離した。
「就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように。って。でもこれは、祖父が母に向けたメッセージで、私にはなにも関係がない」
 答えながら丸川が首を振る。
 丸川の母親が本当に伝えたかったことが、竜太郎にはなんとなく理解できる気がした。
 竜太郎は柔らかく笑う。
「本当にそうでしょうか。そのメッセージは、あなたの母親が伝えたかった言葉と同じなのではないですか。誰かに何かを贈るという行動は、良くも悪くも相手の事を想ってすることでしょう。あなたの記憶を視たところ、この箱はお祝いのために贈られたものです。あなたの母親は、あなたのことを想ってこの箱をあなたに渡してほしいと言ったと思います。ですから――」
「だとしてもよ」
 竜太郎の言葉を遮るように、丸川が声を荒げた。
「そうだとしても、私は。私たちの未来は、決して明るいものにはならない。あなただってそうでしょう。能力が使えるようになって、病気だって言われて。いつ治るかわからないって言われて。私、知っているのよ。この学園から卒業して外の世界に戻った人はほとんどいないって。つまりそれは、一生治らないかもしれないってことでしょう」
 彼女は過去に囚われたままなのかもしれない。と竜太郎は思った。確かに能力を発症する病気は、いつ治るかわからない。けれど、絶対に治せないわけではない。そのためにつくられたのが洸生会なのだ。
「それは違います」
「何が違うっていうのよ」
「一生治らないってことはないです。卒業生だってゼロではありません。ちゃんと前例はあります。明るい未来だってあります」
 竜太郎の言葉に、丸川が目を見開いた。その瞳は水面のように揺れている。
 嘘はひとつも含まれていなかった。事実、過去に何人かは卒業している。ただ彼女が知らないだけである。原因は卒業式を大々的に行わないからだろう。卒業のタイミング。つまりは能力者が能力を失うタイミングが決まっているわけではない。学園という体裁をとってはいるが、個人が重視されているため、内輪のお別れ会はあっても行事としての卒業式は行われないのである。入学式も同じだ。なので、いつの間にか入学してきていつの間にか卒業しているなんてことが、ざらにあるのだ。
 竜太郎は丸川に、悲観してほしくはないと思った。自分たちの未来を、勝手に否定してほしくなかったのだ。
「ほん、とうに?」
 かすれた声が、丸川の口から零れた。
 竜太郎は黙って頷く。それから丸川に袋を返した。
「だからそれは、受け取ってください。僕たちはあなたの母親に、あなたの手にその箱が渡ったことを伝えなければなりません」
 丸川が震えた手で、箱の入った袋を受け取る。彼女は自分の顔を隠すように袋を持ち、身体を震わせていた。泣いているところを、竜太郎にみられたくないようだった。
 丸川は嬉しくて泣いているのだと、竜太郎は勝手に思った。そうでないといけなかった。そうでないと、誰も救えないのだ。

 6

 空は気持ちのいいほど晴れていて、玲奈は前を歩く米田先生の後を歩きながら、これから会う人たちの事を考えている。
 両親が面会に来た。米田先生にそう告げられた時、玲奈は自分の耳を疑った。この一年間、一度も面会に来なかった両親が来てくれたことに信じられない気持ちになった。
 何か心境の変化があったことだけは、確かなのだろう。この右手に持った袋の中に入った箱のおかげだろうか。
 会っていない時間を埋められるとは思えないけれど、それでも今は落ち着いて話ができるような気がしていた。
 明るい未来が本当にあるのなら、それは家族と一緒のほうがいい。そうに決まっている。
 学園本部の高い建物の中に、来客用の個室がある。玲奈はその部屋に通された。そこで待っていたのは、セミロングの髪型をした母親と、恰幅の良い父親だった。二人はどこか緊張した面持ちでソファに座っていた。
「それでは、二時間ほどしたらもう一度来ます。それまでは家族の時間をゆっくりとお過ごしください」
 米田先生が言った。軽く頭を下げる。
 玲奈は頷いたが、たった二時間しか両親と話をする時間がないのか。とも思った。
 残念な気もするが、一時間も話が持たない気もしていたので、妥当な時間なのかもしれなかった。
「ひ、久しぶりだな」
 たどたどしい口調で、父が言った。
「うん。久しぶり。元気だった?」
 玲奈は少し意外に思っていた。この場に母だけではなく、父まで来た事に。
「元気だ。それより悪かったな。長いこと面会に来てやれないで。淋しかったんじゃないか」
「私の事なんか忘れちゃったんじゃないかって思っていたよ。でも大丈夫。友人もいるし、ここでの生活に慣れちゃったから」
 そこまで言って、これはただの強がりだと素直に言えばよかったと後悔した。
「そうか」
 父はそう言ってから、口を閉じてしまった。
 玲奈は父と母の向かい側のソファに座った。二つのソファの間には、木製のローテーブルがある。玲奈は自分を落ち着かせるように呼吸すると、持っていた袋から小物入れを取り出して、テーブルの上に置いた。
 今日、何故二人がここに来たのか、玲奈は理由を考えていた。川崎の言った通り、この袋の中の小物入れが関係しているのなら、玲奈はそれを確かめなければならなかった。
 父と母の視線が、テーブルの上に置かれた小物入れへと集まっている。
「今日ここに来た理由。この小物入れと関係しているの」
 玲奈は勇気を出して、父と母にそう尋ねた。
 母は静かに口を開いた。
「その箱は、自室を整理していた時に偶然みつけたのよ。とても懐かしい気持ちになってね。その後、箱の鍵を一生懸命に探したの。時間はかかってしまったけれど、やっとの思いで探し出して、中身を確認したわ。それで、これをあなたにもみせたいと思って、理事長さんに託したの。あなたがそれを持っているということは、中身を視たのよね」
 母の問いに、玲奈は素直に頷いた。
「うん」というと、母は安堵した表情をみせた。
「でも鍵があるのなら、どうして能力を使わせたの」
 素朴な疑問に、母は首を横に振った。
「それは理事長さんの提案にのらせて頂いただけよ。あなたのことだから、普通には受け取ってくれないだろうって。私も同じように思ったから承諾したの」
 理事長も母も、玲奈の性格をよく知っているようだった。だから回りくどいやり方で、玲奈に箱の中身をみせた。それを理解して、玲奈は少しだけ顔を綻ばせた。
「それからお父さんとお母さん。ちゃんと話し合って、お互いに反省したの。あなたのことを考えてあげられてなかったことに気づいたの。不思議ね。その箱に。いいえ、お父さんに気づかされたみたいだった」
 そう言う久しぶりに見る母の顔は、少しやつれていた。
 母の言葉に、玲奈は祖父の顔を思い出してみる。晩年の祖父は優しく、朗らかな表情で、玲奈の名前を呼んでくれていた覚えがある。
「あの時は、信じてあげられなくてごめんね」
 それはとても温かな言葉だった。
「それから、改めてこの言葉を送るわ。あなたの未来が、とても明るいものでありますように」
 玲奈の心の中で固まっていた氷が、母の一言で溶けていくような気がした。

(第三章へ続)