「あゝ、きつの――私はお類、吉乃と申します㊦」

     6(小牧山新城と御台御殿)
 絶え間ない木曽の流れ。その川面を埋め尽くしていた川鵜が一斉に空へ、と飛び立った。いったい何が起きたのか。

 ♪ピュー、ヒューッ、ヒュルル、ピーッ
  ヒュー ヒュルヒュル ヒュール…
 風を切る音に続いて、どこからかやさしい笛の音が近づいてくる。胸に迫る。限りなき永遠のメロディーが脳裏に染みこんだ。
 何かに誘われて水面をはうように聴こえくる【青葉の笛】。泣いている。その音曲はまだ元気なころ、吉乃が好んでふいた調べで、信長はこの調べを気に入っている。

 信長も、吉乃も。ふたりは、いま木曽の流れを眼下に空を飛んでいる。
 気のなかを翔び、舞い、語り合う。川鵜たちまでも従えふたりの会話はどこまでも続く。
 〈かぜ〉に乗って、あの懐かしい恩讐も聴こえてくる。
 ♪今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは 花や今宵の歌
 信長が生涯愛した武士道きわまる一節だった。
        ×        ×

「われは吉法師どの、すなわち信長さまと共に生きるために、この世に生まれて参りました」
「そうじゃ、そのとおり。余も、お類、吉乃がおればこその人生であるぞよ。この広い宙で、ただの一人の女人なればこそ」

 気がつくと、雨が降り出してきていた。
「なれば、われが一度は愛した亡き弥平次は何のために」
「弥平次とて、余と同じ。そなたのためなればこそ」
「なれば、正室御台のお濃姫、帰蝶さまは」
「お濃とて、吉乃よ。そなたとは立場こそ違え何かと苦難の道を歩むばかりの身にて、な。弥平次と同じで、そなたと余の契りのために生を受けた。ので、はないかの」
 ここまで言うと、吉乃と信長はしばし褥の上で見つめ合ったまま時が流れた。ふたりとも、あとが続かない。突然、わっと泣き崩れる吉乃を信長はひしと抱き寄せ、吉乃の背を労るように、やさしく撫で何かに耐える面持ちでこう、静かに語るのだった。
「じゃが、のう。しかしだ。土田の弥平次は戦いで命を落としたが。お濃とて父斎藤道三に忠実に余と婚約してのち、それこそ花も嵐も乗り越えて、だ。実に七年三カ月も経て正式に父道三の命のもと、清洲の余のもとに姫として輿入れし、その苦しき気持ちや、いかばかりだったか。津島神社で盛大に催された祝宴とて、津島の武将で道三が仲人としてよこした老家臣、堀田道空の介添えと津島十一党、十五家のいわゆる津島衆一丸となっての応援がなければ実現はしなかった。津島衆がいればこその祝宴じゃった」。
 
 ここで言葉は途切れ若いふたりは何もかもを風に流そう、と激しく抱き合った。結びあったままのふたり。時は音もなく流れていく。定めにさらされる。これが戦国の世というものか。
 しばらくの沈黙を破って信長は思い切ったように口を開いた。
「これは、ここだけの話じゃが。お濃も、余のもとに輿入れしてくるまではいろいろ、人には言えぬことがあったようでな。娘盛りの身を既に相思相愛じゃった七歳上の明智十兵衛光秀なる男(後に信長は、この明智光秀が起こした本能寺の変により命を落とした)に預け、余が初めて寝屋を共にしたときには、既に男を知り尽くす体で身悶えし、あのときの余の屈辱感は今も付き纏うており、忘れようにも忘れられぬ」
 信長はさらに続けた。
「でな、この光秀なる人物、叔父が可児郡長山城主の明智光安でどうやらそこに居るらしい。お濃とは、なんでも随分前から互いに身を焦がす仲で結婚も誓いあっていたとも聴いている。であるから、余はその話を耳にしたときから、お濃とは夜の契りはしないことにしたのじゃ。
 男の存在を感じた余の叱責にお濃は短刀を手に一度は死のうとしたようだが、侍女や道空らの説得で踏みとどまった、と聞く。そなただから言えるが。最近では、そんな過去に耐える清洲のお濃、帰蝶がかわいそうで。不憫に思えてきてな」

 こんなわけで、吉乃と信長は寝屋を共にするつど、弥平次とお濃のことを互いに意識しあってここまできた。身分と立場、生まれ育った環境こそ違え弥平次とお濃はふたりにとっては、永遠の存在であったことだけは確かである。いや、弥平次、そしてお濃がいればこそ、信長と吉乃は逆に固く結ばれたのかもしれない。
 一方で奇妙丸(信忠)、茶筅丸(信雄)、五徳(徳姫)と生み、桶狭間の戦いで信長が勝利して以降の吉乃は、それまでの過労もあってか急速に体力が萎えていく自身を感じていた。それでも吉乃、いやお類は弥平次を、そして信長は濃姫を嘴に咥え、空を飛んでいるのである。
        ×        ×

 永禄六年が明け、永禄三年(一五六〇年)五月十九日の桶狭間合戦から三年近くが経とうとしていた。今はお濃の父、稲葉山城主・斎藤道三を殺した、亡き義父の敵でもあった、美濃の斎藤義龍(帰蝶とは腹違いの弟)勢を攻めるには何よりも小牧山に城を築くことだと決断した信長は、それまでの清洲から春日部郡小牧郷の地へのお城替えが必要だ、と決断。この年の二月に天下に広くお触れを出し、さっそく小牧郷の地で築城作業が始まったのである。
 当時は三河岡崎城の松平元康(のちの家康)の嫡男、竹千代(後の信康)と信長の長女徳姫(五徳)との婚約話も進むなど東方の守りがいっそう強固になったこともあり、信長はこの機を狙い築城にかかった。当然のように信長は小牧山に新城を築いたうえで、ここを拠点に小口城、犬山城、美濃鵜沼城、夕暮れ富士で知られる伊木山・伊木城の四つの城を攻め落とす東美濃攻めを目論み、頭に描いた。だが、信長の頭には築城に当たって今ひとつ、深く大きな願いがあった。それは吉乃への、ただひたすらなる思い。これを、すなわち築城という形で表わしたい、その一心でもある。
 このころになると、度重なる戦乱の世にあって信長との間に奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子をもうけた吉乃の体はかなり衰え、弱ってきており、顔からは艶が失せ、やつれが目立つようになっていた。そればかりか、布団に臥せることも多く、歩くのもやっとだった、と当時の諸文献は今に伝えている。信長は、そんな吉乃を新城建設にあわせ山麓西の一角に木の香も新しい御台御殿を建て、そこに住まわせ、少しでも回復することを、ただひたすらに願ったのである。御殿は高い土塁が続く向こうに一の御門、二の御門と続く豪壮なもので、まさに御台さまの新居としての信長の威光と決意が込められていた。
 実際、徳姫を出産してからの吉乃ときたら、それ以前の桶狭間の合戦をはじめとする戦乱に明け暮れる信長への心遣いも加わってか、それこそ、それまで全身からあふれ出るように燦然と輝いていた光りが矢折れ、刀尽きるかの如く、ひと滴ずつ、少しずつ闇夜に蓄積し、老廃として消え入っていった。まだまだ若いはずなのに。吉乃の労苦は心身ともに、人知れず、深く限りないものだったのである。
 そして信長は清洲から生駒屋敷に足を運ぶつど目に見えてやつれ、やせ細っていくそんな最愛の吉乃を見るにつけ、胸のなかは張り裂けんばかりに尋常ならざるものがあることを自身、感じていた。ヨシッ。岐阜攻めから始める天下取りの野望も確かにあるが、吉乃に喜んでもらうためにも何よりも先に早く新御殿を建てここで吉乃を奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子(文献などによれば、三人は出産後、信長の正妻で清洲に住むお濃=帰蝶姫、斎藤道三の娘=への配慮と遠慮もあってか、生駒屋敷に近い岩倉の井上城で須古や育、侍女らにそだてられたという)とともに住まわせ、衰える一方の体力をたとえ少しでも回復させ、命を永らえさせなければ。信長の熱き思いは、前々からの眼目である京へ、と上る踏み台としての新城建設への野望がそのまま愛する吉乃復活への願いとも重なったのである。

 こんなわけで城替えのおふれが出た小牧山では丹羽五郎左衛門長秀が築城奉行に任命され、小牧山全域での木々の伐採に始まり、土や岩を掘り起こすなど長秀自らが陣頭に立っての小牧山新城の建設が始まった。新城築城は、今まさに尾張平野に梅の花が咲き、桜たちの蕾という蕾がふくらみ、やがては桃も花々を咲かせる、まさにそうした春らんまんの季節に建設が始まり急ピッチで進み、まもなく城の全容を表したのである。
 そして犬山、美濃はむろん、遠く三河までも見渡せる新城完成にあわせて、それまで生駒屋敷内にあった二の丸館は装いもあらたに小牧山の山麓の御台御殿に移された。こうして信長の天下取りへの野望と吉乃の病の回復、こんな両方の願いを込めての築城作業は着工して九十余日の速さでこの年の七月には無事落成にこぎつけた。信長は完成した小牧山の新城を目の前に「この城は吉乃、お類がこの世にいて余との間にかわいい三人の子を成してくれた。だからこそ、出来上がった。であるから、吉乃がいたればこそ、の城じゃ。そなた、そちの城、吉乃城なのじゃ」と内心で、つくづく思うのだった。

 その年の八月初旬。すなわち小牧山新城と吉乃が住む御台御殿が完成してまもないある日。吉乃が小折村から小牧山山麓に誕生した御台御殿に居を移す数日前の話だ。信長は近習の者ばかり五、六騎を伴って新しい城と吉乃の新居誕生を告げるため生駒屋敷に足を運んだ。
 信長が生駒屋敷二の丸館に着いてまもなく、信長を伴った生駒家当主、家長と妹須古が吉乃の居室を静かに開けた。と、そこには髪を梳き、紅の小袖に身を包んだ往時を彷彿させる吉乃が姿勢を正して笑顔を浮かべて座っており「殿、お待ちしていました。こたびは小牧山新城の誕生、心からおめでとうございます」と両手をつき頭を下げた。
 いつもの、どこまでも透き通った両の瞳には涙が光っている。信長はそのとき、なぜか再会したあの日のことを思い出し、目を瞠った。
「吉乃よ。前にも申したが、余はとうとう小牧にそなたの屋敷、すなわち御台御殿を誕生させた。ついては、からだのあんばいとも十分に相談し、住み処を御台屋敷に移してほしく思う。このことは、そなたの兄上、家長どのにもお願い済みだ。余がかねがね、思い描いていたことじゃ。新しい城と御台屋敷の建築は、余の生涯の夢で、その願いがまもなく叶うのじゃ。そなたには、どおしても小牧に来てほしい。そして三人のわが子ともども、一緒に暮らすがよい」
 信長は気丈にも病床から身を起こしたまま聴き入る吉乃の上半身を両の腕でやさしく包み込むように抱きかかえると、曲がりなりにもたどり着いたひとつの道の成就と帰結を耳元に囁くように告げるのだった。

「吉法師どの。いや、信長さま。上様。そうまでして頂けお類、いや吉乃はこのうえなき幸せにござりまする。なぜ、わらわ、わたくしごときものに」
「うん、そうじゃのう。おまえは苦しいさなかにも身をはって余を支え、守ってくれたではないか。そればかりか、かわいい奇妙と茶筅、そしてお徳を産んでくれた。浮野や稲生、岩倉の戦いや桶狭間の合戦など天下を揺るがす合戦のつど、忍びの育らとともに余をどれだけ陰になり、日向となって助けてくれたことか。ひとにはあまり言えぬことじゃが、吹き矢や指笛などで間者を蹴散らし、命を救ってくれたこととて数え知れぬ。あらためて礼を言うぞ。そなたには、どれだけ感謝しても、し足りぬ。せめて、新しい城と御台御殿に満足してくれれば、それだけで余は満足じゃ。このうえは、ぜひ小牧へ来てほしい。体調の良い日を申し付けてくれれば輿を差し向ける。よいか、分かったな」
 吉乃は、ただ頷くばかりであった。

     7(わかれ)
 永禄六年(一五六三年)の八月十七日朝。吉乃が小折村の生駒屋敷二の丸館から小牧の御台御殿に移る引っ越しの日がきた。
 この日は、さわやかな秋晴れで花模様の小袖に正装した吉乃は住み慣れた八龍社東側の生駒屋敷に隣接する二の丸館を、きらびやかに飾られた信長差し回しの塗輿(駕籠)に乗せられ、多くの家臣団を従えて出発。標高八六㍍の小牧山に典型的な平山城として築城された新城と併せて出来た山麓、信長の居館より巽(東南)の方角にある御台御殿を目指した。
 昼過ぎには三ツ渕村(現小牧市三ツ渕)の中山左伝二の中山屋敷に到着。村びとたちの温かな出迎えにしばしの休憩を取ったが、このころの吉乃は自力で歩くことすら出来ないほどに体力が衰えていたという。それでも、この日の吉乃の表情には久しぶりに明るさと生気がみなぎり、輿に乗っても「こまきはまだか。まだなのか」としばしばお付きのものに聞くこともためらわなかった。まもなく再び出発した一行は、やがて小木縄手(小牧市小木)に到着。ここでも市橋九郎右衛門長利、佐久間右衛門尉信盛らの出迎えのなか、いよいよ小牧山山麓巽がたに新築されたばかりのご新殿に入ったのである。
 御殿に入り終えたところで小雨が降り出し、上方に望楼をそなえた新しい城を仰ぎ見た一行は誰もが胸をなでおろし感嘆の声を漏らしたという。

 翌日。永禄六年(一五六三年)八月十八日の朝。夜来の雨が嘘の如く上がり、新居庭の樹々たちにも光りと、そこはかとなき力が宿している。樹々の葉という葉には露が浮かび朝の陽に輝いている。さっそく侍女の束ね役を務めることになった、おちゃあが須古と共に吉乃の居間に足を踏み入れた。
「御台さま。おはようございます。われは、吉乃さまが本日この日をお迎えすることが出来、このうえなき幸せ者にござりまする」と頭を下げると、いつもの快活な調子で「わたくし、きょうから御台さま付きを命じられました。名も改め、一条と申しまする」と続けた。
「あらっ、おちゃあ。いや、一条どの。これからもよろしく頼みますね」と応える吉乃。おちゃあといえば、生駒屋敷当時からずっと互いに、すいもからいも知り尽くす一番頼りになる侍女でもあった。それだけに、吉乃は信長のその配慮に感服したのである。
 そして。この日の午後、信長は重臣二十人ほどを小牧山新城近くの居館書院に召し出した。家臣が左右に居並ぶ中央正面上段には肩衣に身を包み、長袴をはいた信長が、これまた正装した吉乃と三人の子を伴って座った。向かって右から信長、奇妙丸、茶筅丸、五徳、そして御台の吉乃の順だ。

 やがて
「ただ今より、わが上様とご家族の方々に拝謁を賜りまする。それがし僭越ながら、これからお一人、お一人順次、紹介申し上げまする」と信長の乳母子(めのとご)に当たり信長より二歳下の池田信輝が肩を張って言上。「まずは上様のお隣にござらっしゃる御方こそ、御年七歳ながら既に麒麟児の頭角を現しつつござる御嫡男、奇妙丸さまにござります」と続けた。
 これには居並ぶ家臣全員が「へへ。へぇ~え」と正面を向いて平伏したが、このあとがまた圧巻のひとコマとなった。紺地に揚羽蝶の家紋が染め抜かれた帷子衣に、守り刀を手挟んだ正装の奇妙丸。彼は心持ち緊張した面持ちではあるが、家臣団全員をゆくりと見回したあと、正面を見据え「奇妙丸である。皆の者、よしなに」と言ってのけた。
 拝謁の儀はそのまま進み、「続いて奇妙丸さまのお隣に侍らっしゃる御方はご次男の茶筅丸様にて候」と信輝がことばを添えると「お茶筅じゃ。よしなにのう」と今度は茶筅丸がにこやかな表情で一同を前に、こう声をかけたのである。拝謁の儀はこうして進み次に「それではご家族の花と言っていい姫君・五徳さまを紹介申し上げまする」と三人の子の最後の紹介となったが、ここで信輝は「〈五徳〉の名は、炭火の上に置きまする、あの五徳で実は上様ご自身が御下名あそばされました。ご一同、これは奇妙丸さま、茶筅丸さまお二人の御脚に今一脚強力な御脚を、との願いを込め、お付けになられたのです。その幼き姫さまが、こたびは織田家と松平家康(後の徳川家康)との同盟によって、東国の脅威に対しての一大防波堤となるべく家康殿のご嫡男、竹千代君(後の信康)とご婚約なされたのであります。そして本日この席にてご幼名より五、を除かれて徳の御一字、徳姫と新たに命名されたこともこの場にて披露させていただきます」とも口を添えた。
 この間、じっと腕を組み満足そうにうなづく信長。こんどは正装した五徳が胸を張り、心持ち前に進み出るような姿勢で幼い口を開いた。

「われの名は五徳じゃ。五徳とは温、良、恭、倹、譲の五つの徳を言いまする。また兵家では知、信、仁、勇、厳の五つの徳を五徳と申しまする。われは、父上様からいただきましたこの名で、父上の申されます所へなら、どこにでも参ります」とはっきりと言い切った。
 最後に葡萄唐草と黄色に貝づくしの小袖と白地に金銀泥と墨で梅鉢唐草の模様を描いた裾よけをまとった正装の吉乃が頭を深く丁寧に下げ、家臣団に向かってこう述べた。
「きょうは皆さま、お疲れでございました。われ、わたくしを上様御台所として、こうして晴れがましい席で、かつ温かくお迎えくだされ、心から御礼を申し上げまする。この先も上様への相変わりませぬご忠義のほど、御台吉乃として、くれぐれもよろしくお願いします」
 気丈に述べる吉乃の言葉を受け、こんどは信長の「一同大儀であった」との締めの言葉が居館書院に響き渡った。この日信長は、重臣たちを前にしての謁見の場で、それまでの吉乃の労苦を心ゆくまで披露し、同時に吉乃を正式の正室として迎え入れたことを公に発表したのである。

 時はながれ。永禄九年(一五六六年)の秋。あの晴れがましかった謁見の日から、三年余がたった。吉乃のからだは相変わらず一進一退のままで時は過ぎていった。その日は、小牧新城頭上にかかる夕映えがことのほか美しく感じられた。風もさわやかで、小牧山ならでは、か。甘い〈かぜ〉たちが頬にやさしく通り抜けていった。
 吉乃はこの日相変わらず、小牧山麓一角に建つ御台御殿の居室寝間に身を横たえたまま、西方の空に目をやっていた。
「あらっ、なんと美しや」
 真っ赤な錦秋を描いた太陽の日がお城の背後に遠望され、いままさに赤い玉が大地に沈んでいこうとしていた。
「すこ。おちゃあ、いや一条。いくはどこか」
 虹のようにとろけた赤い光線が音もなく、地平線に消え入ってゆこうとしている。吉乃は傍らに座る須古らに手を伸ばし、皆の介添えでやっとの思いで身を起こした。と同時に、吉乃はアッ、と微かにつぶやくと、こんどは「ヒケ、ヒケ、ヒケッ。のぶながさま」とちいさく声を上げた。

 その日から、どれほどの時が過ぎたであろう。
 小牧山の紅葉も赤く染まり始めていた。永禄九年(一五六六年)の九月十三日(新暦十一月四日)。桶狭間の合戦から六年余が過ぎていたこの日、吉乃はいつものように床に臥し天井を仰いだままだ。傍らには奇妙丸、茶筅丸、徳姫の三人の子が時折、顔を覗き込んで座り、心配顔でいる。
「きみょうでござる」「ちゃせんでござる」「母上。おとく、おとくだよ」「死んではなりませぬ」「生きてたもれ」の声が時折、聞こえ、そのつど笑顔でうなづく吉乃。御台は、思い返すように三人の子を順番に見回したあと、声もかすれかすれに、息絶え絶えに静かにこう、口を開いた。
「みんな。母のことばを聴いておくれ。われ、わたくしは度重なる戦乱の世の不幸もありましたけれど本当に幸せな生涯でした。信長さまとの間におまえたち三人の立派な子までを賜り、これ以上何を望むことがありましょうぞ。わたくしにとっての信長さまは少女のころからのお方、天下の申し子、あこがれでした。まさかその信長さまと前夫、弥平次の死で再会でき、こうして一緒になれただなんて。何が幸いするかわかりません。幸せでした。殿はむろん、おまえたちのことは永遠に忘れません。家臣団のみなさま、ご家族の方々もみんな、ほんとうにようやってくれました」
 そう言うと吉乃は最期の言葉を絞り出すように、こう言ったのである。
「きみょう。ちゃせん。おとく。みな、げんきでな。お殿さま、お父上を大切にするのだよ。よろしくお願いします。み・ん・な、好きだったよ。あ・り・が・と・う………」
「らあぃ、せいも。あ、 い 、た 、い。いっしょに」
 吉乃はこう言ってくちびるを動かしたかと思うと、眼をつむり息を引き取った。
 ときに永禄九年九月十三日。亥の刻(午後十時)のことである。

        ×        ×
「信長さまは、ご無事でありましょうか」
 寝ても覚めても良人のことを心配してやまなかった吉乃。その吉乃も、小牧山山麓の御台御殿に居を移してからというものは、それまでの緊張感から解き放たれたこともあってか。張り詰めていた積み木がまるで積木崩しにでも遭う如く、そのからだは急な加速度で日に日に衰えていった。
 かすれた、力のない声。それどころか、時々聴こえくる息遣いも乱れにみだれ、吉乃のからだは悪化の一途をたどっていった。そして。いまの暦でいえば十一月四日のこの日、小牧山の全山が紅葉で赤く染まるころ、吉乃は永眠。波乱に富んだ一生を終えたのである。
 時に三十九歳。この齢が事実なら、信長より六歳上の姉さん女房の見事なほどの本懐がそこにはあった(註 吉乃の没年齢については二十九歳説もあるが、これが正しいとなると信長より四歳年下となる)。
 帰らぬ人となった吉乃。二日後の十五日の夕刻。川向うの墨俣の一夜城から飛んで戻った信長は吉乃の遺体にとりすがって一晩中、人目もはばからず、泣き明かした。そして、その後もひとり、城の望楼に立ち尽くし吉乃が葬られた小折の墓地の方向に向かい涙する日々が続いたという
 かくして吉乃は一五六三年(永禄六年)の夏から一五六六年(永禄九年)の秋まで三年余の間、小牧山の山麓西一角にある、いわゆる御台御殿で晩年を過ごしたのである。新居での生活が始まったとき、信忠は六歳、信雄五歳、徳姫は四歳になっていた。そして小牧山に移ってからしばらくというものは、信長の吉乃に対する配慮もあってか、それまでのように戦乱につぐ戦乱に翻弄されることなく、吉乃が信長を気遣うことも次第に少なくなり、比較的平穏な日々が過ぎていったという。
 いや、むしろ吉乃を思う信長が極力、戦乱の話を避けようとしたからかもしれない。

 実は、吉乃が命を閉じたその夜、岐阜の長良川(当時は奈賀良川と呼ばれていたらしい)の中州・墨俣では信長の命のもと、木下藤吉郎秀吉による世に言う一夜城が、忽然と姿を現し、以降の信長の破竹の天下取りへの布石が打たれたのである。信長は小牧に残した吉乃の体を心配しつつも川の対岸に立ち、闇に建ちつつある墨俣城の勇姿に心躍らせ、誕生したばかりの墨俣城に入城。小牧山城に戻ったのは二日後だった。吉乃の悲報には「きつの、きつの、なぜ死んだのだ」とひと目も構わず、大声で叫び、泣き続けたという。
 ここから先の戦乱のドラマは機会があれば、と思っている。

     8(あとがきと信長のその後)
 信長の岩倉城攻略後の桶狭間奇襲による大勝以降の犬山城や東美濃全域の制圧、一夜で築いた墨俣城、稲葉山の占拠とその後の天下びとに至る道の背後に松倉城(現在の各務原市川島)と尾張北部を拠点とした蜂須賀党や前野党など多くの支えがあったことは、誰もが認める。ただ、忘れがちなことは、天下びとへの執念を燃やし続けた信長の胸の内には、いつも吉乃の存在があったことだけは疑いのない事実であり、このことは知る人ぞ知る。
 吉乃の死後、信長は一五六八年(永禄十一年)に将軍足利義昭を奉じて京の町に入京。その後は比叡山延暦寺の焼き討ちに続き、一五七三年には足利義昭を京から追放した。一五七九年(天正七年)に浅井、朝倉氏を滅ぼすと、こんどは伊勢長島の一向宗徒に撃ちかかり、実に二万人余の男女を焼き殺すという非道な道を歩んだ。重臣荒木村重が逃亡すると、荒木の妻子は磔刑にされたのもこのころだ。
 吉乃に対してはあれほどまでに優しかった信長がなぜ、どうして、これほどまでに時代と人に酷い仕打ちを、と思う人々は多いに違いない。ただ言えることは、もし吉乃の体力が回復し元気で永らえていたとしたなら信長はそれだけで満足し天下統一などという野望は起こさず、長男信忠か誰かに後継を任せ、小牧山城で静かに暮らしたかもしれない、ということだ。
 吉乃がその心情を思い、夫(私はここで敢えて「夫」と表現する)に語った天下統一の夢を愛する〈妻〉の死後、心の精神的支柱を失い自暴自棄となった信長が本気で果たそうとした。そこに吉乃をうしなった信長の大きな誤算があったのである。事実、桶狭間の戦いから凱旋した信長に吉乃が一度だけ語ったことばは次のようなものだった。
「あなた。天下を統一して今の清洲城下のように戦乱の世を平和で満たし、安らぎある社会にしてくださいな」と。

 信長は吉乃の喚起に触れたのかもしれない。
 この小説を書き終えるに当たって、ただひとつ言えること、それは吉乃の存在があればこそ信長は天下統一を果たし日本に秀吉、家康と続く三英傑の時代が生まれた、その事実である。
 そして私は最後に作者として物語のなかにキリスト教に関わる吉乃についてもどうしても描きたく思ったが、この点についてはまだまだ取材不足で作者である私自身がこの先、納得するキリスト教との関わりを突き止めたときにこそ新たな作品を、と思っている。というのは、吉乃の死後になり信長のキリスト教に対するこだわりは異常なほどに膨れ上がり、実際にこの小説の冒頭に触れたポルトガル人宣教師フロイスらとの交流もあった。事実、小折近く斉藤村(現江南市)石枕の共同墓地には隠れ切支丹を弔った供養碑=碑面には「三界萬霊」と刻まれ、寛文七未年(一六三〇)十二月五日の銘がある=までが現存している。

 いずれにせよ、吉乃がもしも、この世に生まれていなかったとしたなら。徳川時代も、その後の明治、大正、昭和、さらには平成の御世も存在しなかったに違いない。尾張名古屋、そしてその祖先である吉野奈良地方、すなわち尾張名古屋と大和路の女は、しなやかで強いのである。吉乃は身をもって日本の歴史を作った女性のひとりだったといっても過言でない。 
 ※一八六五年、久昌寺=生駒家の菩提寺で正しくは嫩桂山(どんけいざん)久昌寺、当初の名前は龍徳寺だった。吉乃の法諱は久庵桂昌大禅定尼と号す=で吉乃の三百回忌が行われ、この日は織田信長の次男信雄の子孫ら大勢から香典が届けられたという。そればかりか、この寺にはそれより前の二百五十回忌、二百回忌に寄せられた現場の数々の香典が今に残されている。その後、明治維新や世界大戦など時代の流れのなかに埋没してしまい、回忌法要は行われてはいないという。  (完)