特集『4000字小説』「言の葉流し」

「消したい言葉はありませんか?」
 少女が、言った。

 ここ数日、どうも誰かにずっと見られてれているような気がしていた。その犯人を、僕はやっと捕まえた。
「お前か? 僕のことを付け回している奴は」
 少しだけ低い声色で、僕はその人物に言う。
「うひゃっ」
 背後から突然話しかけたので、驚いたのかそいつは声を上げた。
「一体どういうつもりなんだ?」
「あ、えっと」
 凄く動揺しているのが分かった。僕は逃げられないように首に巻いていた黒いマフラーを輪っかにしてそいつの首にかける。
 そいつは僕よりも一回りも二回りも小さな少女だった。色素の薄い髪の毛に、青いワンピースを着た少女。
「あの、過去に言ってしまって後悔した言葉は、消したい言葉はありませんか?」
「はい?」
 少女の突然の申し出に、僕は首を傾げるしかなかった。何を言っているのだろうか。
「何でもいいんです。何年前でも。数時間前の言葉だって消せます」
「お嬢ちゃん。頭大丈夫? 病院行こうか」
 あまりにも非現実なことを言う少女を目の前にして、僕はそう言う。
「だ、大丈夫ですー。信じないというのなら、実際にお見せします」
 少しだけ頬を膨らませて、少女が言いながら、僕の右手を握ってきた。とほぼ同時。数時間前の僕が目の前にいた。
「え? 何これ。何がどうなって」
「これが、二時間前のあなたです。食堂でカレーを注文しますよね」
「あ、うん。カレーを注文したら、売り切れてた。って、何で知ってるの。見てたのか」
 僕がそう言うと、少女はこくんと頷いた。
「今からカレーを注文するあなたの言葉を消します」
「そんなこと、本当にできるのか?」
 僕の問い掛けに、少女はもう一度頷いた。
 消しゴム。それにしか見えなかった。少女は消しゴムをポケットから取り出すと、次の言葉を消し去った。
『おばちゃん、カレーお願い』
 言葉は本当に消え去った。過去の僕は代わりに親子丼を注文している。
「な、何だこれ。すごい」
 僕はただ、目を丸くして驚くしかなかった。
 いつの間にか景色は元に戻り、僕たちはそっと握っていた手を離した。
「さあ、これで信じてもらえましたか。教えてください。あなたが一番消したい過去の言葉を」
 少女は真剣な表情で、僕を見ていた。

 3年前の光景が蘇る。僕は、あの日の海岸に佇んでいた。僕にとっては3年前で、3年前の僕にとっては今の場所。
 隣には黒いマフラーをした、青いワンピースの女の子。僕たちはしっかりと手を繋ぎ合っていた。僕たちの目線の先には黒いセーラー服を着た少女がいた。僕はその子のことを知っている。名前は千奈美。同級生だった。
「千奈美さぁ。学校にも来ないで、こんなところで何やってんの?」
 ああ、何も知らない3年前の僕が、能天気にやってきた。
「そっちこそ。学校さぼってるじゃない」
「やっぱ冷たいなー海風」
「こら、話そらすな」
 千奈美の鞄が3年前の僕の背中を攻撃する。あれ結構痛かったんだよなと今の僕は思った。
「いって。お前の鞄何入ってんの。鉛?」
「なわけあるか」
 千奈美が頬を膨らませている。
 じっと静かに千奈美と3年前の自分を見ていると、繋いでいた左手を引っ張られ、僕は我にかえる。そうだった。僕にはやらなければならないことがあったのだ。
「あたしさ、疲れちゃったんだよね」
 千奈美の言葉が重かった。
「死んだら楽になれるかな……。なんつって」
 今だった。僕は次に続く3年前の自分の言葉を消す。不思議な消しゴムで。なかったことにする。
『僕もそう思うよ』
 この言葉を消したら、せめて彼女の悲しい顔を見ないで済む。言うんじゃなかったと後悔して言い訳する自分も見なくて済む。
 だけど、これで本当に何かが変わったのだろうか。僕は隣の少女の瞳を見つめる。少女は無言のまま、僕を見つめ返してきた。帰ろう。その一言が言えなかった。ここでもっと千奈美の姿を見ていたいと僕は思っていたのだ。
「元の世界に戻るのが怖いですか?」
 手の震えが伝わってしまったのか、少女は僕にそう質問してくる。
「そうだね。すごく怖いよ。だってそこに千奈美はいないんだ」
「いるかもしれないじゃないですか。あなたは今、後悔していた自分の言葉を、消したのですよ。過去が変わったんですよ」
 少女の言葉に、僕は首を横に振った。
「きっといないよ。今消したのは僕の後悔で、千奈美の言葉じゃない。最初から分かっていた。こんなことをしても無駄だって」
「じゃあ、どうして消したんですか?」
 少女の質問に、僕は答えてやる。
「お前があまりにも、必死だったから」
 僕は薄々、彼女の正体に気付いていたのかもしれない。少女は突然僕の目の前に現れ、
「消したい言葉」を消してくれると言った。どうして僕が消したい言葉をもっているのを知っているのか。少し考えれば分かることだった。
「千奈美」
 僕が彼女の名前を呼んだ瞬間、幻想は崩れ去った。景色が居間に戻る。残ったのは僕と、黒いマフラーをした千奈美の姿だった。
「どうして、分かったの?」
 今にも泣きそうな顔をして、千奈美が言う。
「どうして僕の前に現れた?」
 僕は質問で返してやる。
「それは、あなたがいつまでもつまらないことを引きずっていたからじゃない。もうそろそろふっ切りなさい」
 いつの間にか、僕が千奈美に説教されていて、少しまいったなと思った。
「本当、いつまでもうじうじしてないで、この先の未来を、切りひらいてよ。前を見てよ。自殺しちゃったあたしの分もさ」
 どうして。どうしてこう、千奈美は死んでからもずっと人のことばかり考えているのだろうか。つらいのは自分なのに、自分のことなおざりにした結果で死んだのに。
「本当はね、何も消したくなかった。例えどんなに酷い言葉だろうと、大切な思い出だから。つまり何が言いたいかって言うと……。あなたのせいで死んだんじゃないから」
 そう言って、千奈美は僕の目を真っ直ぐに見てきた。
 それは、僕がずっと求めていた言葉だった。引きずっていることを誰にも言えずに、ただただ一人で不幸ぶってた僕の。
「たった一言が、こんなにも重いものだなんて思っていなかった。軽率な言動だった。ずっと、謝りたかった。ずっと消したかった」
「うん……。もう、いいよ? あなたはとても優しくて、あの頃と全然変わっていなくて、こうしてあたしにマフラーをかけてくれた。あたしはそれがとても嬉しかったんだ」
 彼女の言葉は優しくて、僕はこの目の前にいる幻想とずっと一緒にいたいと思ってしまっていた。そんなこと、叶うはずがないのに。だけど、もう少しだけ。あともう少しだけでいいから、この幸せな幻想を見せていてほしいと、僕は泣きながら思った。
「だからね、ありがとう。ありがとうね」
 彼女の言葉がとても優しく心に響く。
「こっちのほうこそ、ありがとう」

 幻想は消えてしまったけれど、あの時の黒いマフラーだけは、彼女が確かにここにいた証として残っていた。何だか僕は、心のしこりが取れたみたいに気分が晴れやかになっていた。
      (了)