連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」序章

序章 心を知る

 淡いピンク色のルームウェアには、白と黄色の小さな花柄が入っている。小柄な女の子が、驚いた表情でこちらを見ていた。
 川崎竜太郎は目の前の少女に、まだ名乗ってもいないのに名前を呼ばれたような気がして、不思議に思った。彼女の視線は真っすぐに向けられている。竜太郎は、首を傾げた。彼女とは、どこかで会ったことがあるのだろうか。思い出せない。
「あなたを迎えに来ました」
 そんな二人の様子に気づいたそぶりもなく、隣にいたショートカットの髪型が似合う長身でスーツを着た女性、米田恵理子がにこやかに言った。彼女は竜太郎の通う「うみほたる学園」の先生で、竜太郎と十歳近く歳が離れている。三十路に差し掛かっている彼女だが、見た目は幼く童顔のためか実際の年齢よりも若く見られることが多い。よく竜太郎と姉弟だと間違えられることがあった。
 訳がわからないといった表情で、米田の言葉に少女は首を横に振った。声が出ないのか、小さく「いや」というかすれた言葉だけが聞こえたような気がした。
「残念ですが、あなたはもう我々が保護することが決まっています」
 米田の感情のこもっていない声が、部屋に響いた。拒否権はないのだと表情が告げている。竜太郎は少し可哀想だと感じたが、そんなことは関係ないのだとも理解していた。
「どうして」
 と少女の呟きが、竜太郎の耳に届く。
「それが、君が手に入れた力の代償です」
 竜太郎は歳の近い少女に向かって、冷たく言い放った。
 六月の、梅雨が始まったばかりのころだった。竜太郎と米田は学園の理事長に連れられて、小池燐音という名前の少女の自宅へ訪問していた。依頼者は彼女の両親で、母親のほうは泣きはらした顔を隠すように、ハンカチを両手で持っていた。
「米田くん。着替えを手伝ってあげなさい」
 竜太郎の後ろにいた年配の男性が、そう言ってから部屋を出た。彼はうみほたる学園の代表、堀田理事長だ。
 竜太郎は理事長が階段を降りようとしていたので、慌てた。彼は数年前、病気で足を悪くしたため、杖をついていた。補助をしなければ、理事長はひとりで階段を降りることが出来ない。二階に上がる際も、竜太郎が補助をしなければいけなかった。
 理事長は、燐音の両親と話がしたいと言った。部屋の中に燐音と米田を残して、彼女の両親と理事長と竜太郎は一階にある客間へ向かった。

   *

 その家は、一般家庭にしては裕福なようであった。西洋風な照明とソファを置いており、竜太郎と理事長は黒い革のソファに座るように促された。竜太郎は慣れない手つきで足の悪い理事長の補助をしてから、ソファに腰を下ろした。座った瞬間の革特有の音が、竜太郎にはどうしても蛙の鳴き声のように聞こえた。
「それで、お嬢さんの力というのは何か、あなた方は理解しているのかね」
 理事長がさっそく、本題に入る。顔つきはいつになく真剣で、落ち着いた声色をしていた。今まで何人もの能力者を見てきた彼は、鋭い針のような観察眼を持っているのだろう。小池の事を一目みただけで何かを察したようだった。
 小池の両親は、竜太郎と理事長の向かい側のソファに座っていた。母親は変わらず顔をうつむきがちにして、ハンカチを握りしめていた。父親は剣呑な目つきで理事長をみつめている。
「はい。家内が言うには、娘に。燐音に心の中が見透かされているようだと。言葉は悪いのですが、それが気持ち悪いと言うのです」
 父親は眉をひそめて言った。
「それを聞いてあなたは、どう思ったんだね」
 理事長は表情を変えずに、父親に尋ねる。
「私は。そんなこと、あるはずがないと、思いました」
 父親は辛そうな表情をした。彼の事を考えると、心が痛い。大切な娘を疑うことがどれほどの苦痛を伴うのか、竜太郎には想像がつかない。
「それで、我々に検査してほしいとのことだったか」
「はい」
 理事長の言葉に、父親は頷いた。
 依頼内容を確認した理事長は、険しい顔をしながらこう言った。
「結論から言いましょう。お嬢さんは、能力者だ」
「やっぱり」
 母親の口から、悲観の声が漏れる。
 竜太郎が視線を向けると、何かやましい気持ちがあったのか、母親は泳ぐ魚のように目を逸らした。
「彼女の部屋に入った瞬間、彼女は我々が来ることをあらかじめ知っていたかのように落ち着いていた。そのあとすぐに何らかの別の理由により驚いていた様子だったが、それは人数かもしれない。こいつが居たからな」
 理事長が竜太郎を横目でみた。流石に、小池の事をよくみている。竜太郎は口を開きかけたが、理事長はすぐに続けた。
「随分と若い奴を連れてきたのでな。あなたたちも予想していなかったことだろう」
「なるほど。すると娘は、私たちが想像していた来客を知っていたと」
 理事長の言葉に、父親が納得した。
 燐音には、今日の来客を事前に知らせてはいなかった。そして燐音に用がある客人が来る可能性などないに等しかった。彼女はここ一年ほど家に引きこもっていたからだ。彼女に友人がいたかどうかはわからないが、彼女を外に連れ出そうと思う友人はもうとっくに諦めていることだろう。なので最初に部屋に入った時、もっと驚いてもおかしくはなかったと父親は説明してくれた。
「お嬢さんは、あなたたちの心をよむことができる能力を持っている。これは確定してもいいだろう。そういう能力を持つ者は稀に存在する。扱い方はわかっているから、安心してほしい」
 理事長はそう言ってから竜太郎に目配せをしてくる。竜太郎は急いで、理事長に持たされていた黒い鞄から書類を二枚取り出した。一枚は入学案内と書かれた紙。一枚は秘密保持と書かれた契約書。それを白いレースの布が掛かったテーブルに置いた。
 これは決して悪徳な契約書ではない。理事長が代表を務め、米田が先生として働き、そして何より竜太郎が生徒として通う、うみほたる学園の入学手続きに必要な書類だ。
「よく読んで、ここにサインを。お嬢さんの安全は、我々が保証します」
 言いながら右の手のひらを使って署名の欄を示す。それから胸ポケットに忍ばせていた黒いボールペンを渡した。
 なんだか怪しげな台詞を吐いたが、竜太郎は真面目な顔を崩さないように務めた。
「何を見て何を聞いても。絶対に不機嫌な顔をしないように」
 と竜太郎は理事長からきつく言われていた。それがこの場に同席させてもらうための条件であった。
 ボールペンを手に取った父親は、少し渋っている様子だった。顔をしかめたまま、入学案内と睨み合っている。隣の母親は、入学案内と父親の顔を交互に見ている。何か焦っているようにもみえた。彼がサインすることを迷っているせいかもしれない。
「学園に入ってしまったら、しばらく娘とは会えなくなるんですか」
 父親の質問に、理事長は頷いた。
「そこに書いてあるとおり、基本的には卒業まで帰省は出来ないが、あなたたちが希望すれば面会をすることは可能だ」
「そうですか」
 複雑そうな顔を浮かべながら、父親は意を決したようにボールペンを握り直して書類にサインを書き始めた。
 父親の隣で母親がほっとしたような表情をしたことを、竜太郎は見逃さなかった。けれど何も言わないように、堪える。理事長の言うことを聞くまでもない。人の家庭の事情に首を突っ込むことが良くないことは、竜太郎もわかっている。
 書類にサインをし終わったころ。米田と小池が二階から降りてきた。彼女は笑いもせず泣きもせず、ただそこに居た。感情を押し殺しているようにもみえた。
 忘れることはないだろう。無表情という言葉が似合うその顔に、竜太郎は恐ろしさを感じていた。

   *

「何ですか。あれ」
 帰りの車内で、竜太郎はついに我慢ができなくなって理事長に尋ねた。乗っているのは運転手と理事長と竜太郎だけで、小池と米田は後続の車に乗っているので話を聞かれる心配はなかった。
「あれとは何だ」
 後部座席で隣り同士に座っている理事長と竜太郎は、顔も合わせずに会話をする。
「小池燐音の母親の態度ですよ。すごく嫌な気持ちになりました」
 竜太郎の目には、母親が娘を厄介払いしたいだけにみえたからだ。
「あんなものはまだ序の口だ。まだ直接言葉にしないだけマシなほうだ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
 竜太郎の質問を、理事長は肯定する。竜太郎は納得したくはないと思った。
「竜太郎。彼女には彼女の事情があるのだろう。そこは我々に口を挟む権利がない」
「わかっています。でも、彼女が。小池燐音が」
 竜太郎が言葉を最後まで言わないうちに、理事長が言う。
「可哀想とでも思うのか。お前は。ならば自分が何をすべきなのかもわかっているだろうな。私が今回、何故お前に付き添いを許可したのかも」
 理事長が竜太郎に顔を向けたことに気づき、竜太郎も理事長のほうをみて頷いた。
「はい」
「彼女をメンバーに加えなさい。彼女の能力はきっと役に立つ」
 何の話か、竜太郎には直接言われなくてもわかっていた。今回の同行はそのための調査でもあったからだ。
 竜太郎の所属する「洸生会」これはうみほたる学園の生徒たちを卒業へ導く手助けをするために発足された秘密組織である。現在のメンバーは代表である竜太郎を含めて二人。小池燐音は、彼女の両親から能力の検査依頼があった時点で新メンバー候補となった。すべては理事長自らが決めたことだ。
「人の心を知ることが出来る能力ですか。便利そうですね」
 あくまでも利用価値のあるものとして、竜太郎はそう言った。
 自分が何をするべきなのか。わかっている。自分が小池にしてやれることは何なのか。わかっている。彼女をメンバーに迎えたうえで、卒業まで導いてやらなければならない。
 小池燐音の能力を消失させること。それが理事長からの依頼だった。

(第一章へ続)