小説「ジョン・レノンに捧げる『ビンラディンはいずこ』(連載2)

                           
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 二〇〇一年暮れ。
 ポンポン舟が渡鹿野(わたかの)島の船着き場、すなわち渡し場に着いたあと、私は漁師町の町なかを歩き再び海岸線まで下った。ここからは海の上を空高く声を上げて泣きながら泳ぐ何羽もの白いカモメを横めに、海沿いの道を一直線にしばらく歩き、さらに夕日が照らす光の粉を浴びてだんだら坂を七、八分進んだ。
 まもなくすると、前方に『愛』の暖簾が見えてきた。道の両側に面した喫茶店三、四軒から五、六十代の女たちが「まだ早いのに」と驚いた様子で店の外に飛び出し「オハヨウ。あんた、早いね。とびっきり、いい娘(こ)がいるよ。寄っていかんかね」と言って笑いながら声をかけてくる。
 オハヨウ、の物言いが芸能界みたいでなんだか島全体が、ひとつのステージのように感じられる。私は舞台を歩く俳優気取りで一人ひとりに「オハヨウ」と答えながら『愛』の店先まで近づいた。店先にはなぜか、大提灯がぶら下がっており、灯は既にともされ、その部分だけが夕日の陽射しと融けあうように幻想的な風情を醸し出していた。私は観音開きとなった入り口ドアを押すようにして開き、店内に入った。
「いらっしゃい」の声に出迎えられ顔を上げると、そこにはカウンター内で働く男と女がそれぞれ一人と、客の女一人がいた。ビールにサザエの壷焼き、それにアッパッパ(ヒオウギ貝)も、とカウンターに座るや告げると、横に座っていた客の女が私の袖を引っ張るようにし「あんた。お久しぶり。元気でいたかいね。あたいだって、ば。あたい」と上目越しに声をかけてきた。私は声に誘われ女をよく見ないまま「元気でいたわいね」と答えた。かつてどこかで聞いたことのある抑揚に懐かしさが込み上げてきた。
 訛りをそのまま声に出して返すと私はハッと思い当たり、女の顔をまじまじと見た。
 年のころは三十七、八歳ぐらい。女は私を忘れたの、と言いたげに豊かな視線を投げかけてきた。幸せそうな顔だ。
「あたい。あたいの顔。あんた、忘れたの。ほんまに。冷たい人やわ」
 この口調には確かに聞き覚えがある。と同時に、女とひと夜を過ごした島での鮮やかなひとときが思い出されてきた。それまで四十数年の人生の中でたった一晩しか会っていない女、その京子を抑揚のある話しぶりから思い出した瞬間でもあった。
 私は興奮を抑え、言葉をつないだ。

「もしかしたら、あなたはキョウコ、京子さんですか。ちょっと、この島に急に来たくなったものだから」
 女は既にかなり酒を飲んでいたらしく右手を上げ、私の言葉を制するように「いいの。いいの。いいんだよぉ~、わかってるんだから」と話し出した。
「あんた。ほんとはあたいに会いに来たんだろう。顔にそう書いてある。アリガトッ。聞いてるんだから」
 京子は何を聞いているのだろう。私は耳をそばだてた。
「あたいねぇ。あの日、あんたに約束したんだっけ。あと四年たったら遊女をやめるって。お金どっさりためて、ほんとにやめたよ。それからどうしたと思う。恐らく、あんたには想像もつかないんだろうけど。でもね。あたいが、その道を選んだきっかけは、あの夜あんたが作ってくれたんだ」
「あたいとあんたは、あの夜、とことん人間の愚かさや世の中のことについて思いのままを話しあったんだっけ。オウムが何さ。アサハラが何さ。普賢岳がどうしたっていうの。そのうちに富士山が大噴火する、って。この世の中、人も自然も、すべての生き物が公平なんだから。政治の世界も含め、権力をかさにきた、程度の低い同じヤツラばかりが得してたまるかってんだ。世界には飢えと貧困、戦争で苦しんでいる何の罪もない子どもや女たちが数え知れないほどいる。オレたちは、このままでいいのか、だってさ。あんたはあたいにそう教えてくれた」
 京子の言葉を耳に私は彼女の世界に次第に入ってゆく自分を感じ、目の前のビールをごくりと飲み干した。
京子は「サザエの壷焼き、アッパッパもおいしかったろ。車エビかて、ここのは最高なんやから。はよ、食べなよ。焼き上がったばかりやから。あったかいうちに食べんと。あっ、そうそう。あのなあ。きょうは、ほれから、海女さんのてこねずしも用意してもろといたからな」と会話を折りながら、さらに話し続け、私は彼女の口元にあらためて視線を移した。
 外の提灯が窓越しに刻々と赤くなるさまが、もうひとつの生きものとなって私たちを見守っている。そこには、もしかしたら、あのウサマ・ビンラディンの魂が宿されている。そんな感覚が一刹那、私の脳裏をかすめた。どこからかきた微かな風に、赤い提灯が揺れ人々の黒い影が行きつ戻りつしている。私はあの影の中にひとつひとつの人生がある、ふと、そんなことを思ったりした。傍らの京子は一人、自身に酔うように延々と話し続けた。
「あたい。四年後にどうしたと思う。いったん、古里の能登半島の門前ちゅうところに帰ったんや。そう。西海岸にある名所で知られる能登金剛のひとつ巌門(がんもん)近くやて。そこには、かあーか、がいて。それまであたいの仕送りで生活してたんや。そういえば、あんたはんも七尾で七年間も記者生活をしぃーはったんやてな。初めて会った時、あたいの関西訛りの能登弁にあんたはん、ほんまに驚いてはった。奇跡だ、奇跡だゆうて。能登の女にこんなところで会えただなんて。盛んに感激し興奮してはった。だったら、知ってるやろ。♪能登はやさしや土までも、ってことば。優しいとこなんやて。あそこは。でも働くとこが限られていてな。今も陸の孤島にかわりないわいね」
 今度は語りかけるようにして京子は私の目をのぞきこんできた。門前でしばらく母と娘水入らずの生活をした彼女は、まもなく七尾市の和倉温泉のB旅館で一年ほど仲居として働いたという。
「でもね。あんたと話をした時の火魂(ひだま)というか。忘れられなくって。あの燃えるような感情を抑えることが出来んかったんよ。何を思ってか。アフガンでは多くの難民が苦しんでいる、ちゅうて。そんな話を和倉に住む男友だちから聞いて、そう言えば、島でもブルカを脱いでアフガンから来ていた女たちから同じことを聞かされていた。ならっ、行っちゃおうと思って。アフガンに行ったんや。ほんと、ほんとなんだから」
 京子によれば、アフガニスタンではカブール中心部の住宅地一角にある鉄筋五階建てアパート一室の美容院に住み込みで働き、現地法人のNGО(非政府組織)にも所属した。美容院の鉄扉には看板ひとつなかったが、女性たちはクチコミで聞きつけ訪れたという。美容液やカーラーなどを市場で仕入れ、現地女性の指導でヘアカットやパーマの仕方を見よう見まねで覚えていった。非合法で店を開いていたため最初のうちはノックの音にいつも怯えていたが、そのうちにタリバン政権も暗黙の了解をしていると知ったという。
 滞在中は美容師をしながら、食料や物資の提供、医師や病院の手配などに奔走し、飢えや貧困と闘う難民の支援と救済に追われる日々だった。しかし京子はウサマ・ビンラディンについてどころか、九月十一日に米国ニューヨークの世界貿易センタービルが民間機の衝突で破壊された同時多発テロについては、ひと言も語らなかった。私はその日、京子の話すことだけに耳を傾けた。ウサマ・ビンラディンや同時テロについては、ひと言も触れず夜遅く地元漁師に直接頼んだチャーター船で島を離れたのだった。
 その夜は近鉄鵜方駅近くのビジネスホテルに泊まり翌日一宮の自宅に帰ると、まもなく携帯電話が鳴った。
「ご苦労さん、いい按配やったそうやな。そのうち、キョウコからあんたに手紙が届くはずやから」
 男は弾むような声でそれだけを言って一方的に切った。
 男はなぜ、私と京子が渡鹿野島で再会したことまで知っているのだろうか。
  男は私と京子の両方に接点がある人物に違いない。ふと、「七尾なんて、ちいちゃなとこやて。支局長が夜、どこで誰と飲んで遊んでいたということなんて、翌朝になれば、みーんなお見通しなんやから」といった支局女性の言葉を思い出していた。
 そういえば、七尾に着任してまもないころ、支局に顔を出すつど、「だから、夜ぶらぶら歩く時は気いーつけんとな。誰の目があるかしれたもんでない。なんというても支局長は名士なのだから。気をつけてくだい」と、いつもそう言ってたしなめてくれる人物がいたことを思い出した。
 確かによく似た声だが、そうとは誰が断定できるのか。

  6
 ニューヨークで同時中枢多発テロが起きたその年、ウサマ・ビンラディンの消息に対する報道は年の瀬とはいえ、相変わらず洪水のように各紙の紙面に溢れ返っていた。私は当時、特報デスク席で各紙の記事を這うような目で追い、夥しい活字の中にビンラディン(新聞によってはビンラーデン表記も)の六字を執拗に追い続けた。
 私が渡鹿野島に渡る前の十二月二十七日付Y紙は朝刊で社説の横に『どこに消えた?』と特集を組みこれより先の二十二日、中国中央テレビとの会見で、パキスタンのムシャラフ大統領が「すべての洞くつを爆撃した作戦の結果、たぶん彼は死亡した」と述べた。以来、彼の死亡説が急速に浮上したと報じる半面、「一方で、ムシャラフ大統領が死亡説を強調したのは、パキスタンへの逃亡説を打ち消すための煙幕だったのではないか」とも報じた。だとしたら、ムシャラフがビンラディンが逃亡したのか、それとも本当に死亡したのかを知る、一番近いところにいるのだろうか。彼が策士としたなら、もしかしたら大統領はすべてのことを知っている。場合によっては、ビンラディンを「死者」としたうえでどこかに匿っている…このとき私の脳裏には、とんでもない考えが浮かんで消えたのである。
 さらにY紙はパキスタンのウルドゥー語紙『ジャング』が複数の外交筋、情報筋の話として、ウサマ・ビンラディンの行方について、「十三日前後にトラボラを離れ、一般には知られていないルートでイランに脱出した」と報じているとし、イタリアの国営放送RAIもカシミール逃亡説を、このほかチェチェンに逃げたのではないかとの説もある、と一体全体どれを信じてよいのかさっぱり分からないといった紙面展開だった。
 そればかりか、ブッシュ大統領とラムズフェルド国防長官は、トラボラ地区での洞くつ捜索が「春までかかる」と長期化するとの見通しを示し、捜索部隊の大規模増強を承認した、との記述まである。特集記事は南アジアに詳しい米国の国際政治コンサルタント、マンスール・イジャーズ氏の「ビンラディンは偽装工作の名人。死んだと見せかけて第三国への逃亡の機をうかがっているだろう」とのトラボラ潜伏説で締めくくられていた。実際にあらゆるケースが考えられるため、各紙とも今後ビンラディンがどういう形で姿を現そうが、新聞社として特集を組み、打つべき手は打っておくべきだ、との意図がありありと感じられるのだった。
 私は何かに怯えて逃げをうつような紙面を前に、マスコミは、まだ誰一人として、ビンラディンが日本に来て既に死亡したなどとは思ってはいない。そうつぶやきつつ、自らに誓うように天を仰ぎウンと密かにうなづいていた。
 ウサマ・ビンラディンの動向と同時中枢多発テロ発生に関する記事は、その後少しずつ減ってきてはいるものの、正月に入ってからも相変わらず土砂降りの雨の如く各マスコミを賑わせ惑わせ続けた。「米 十五歳、故意に突入 ビンラディン氏に共感 手書きメモ『テロを支持』(M紙、7日付夕刊)「米軍 トラボラ捜索終了へ ビンラディン氏所在つかめず」(同、8日付)…といった具合だ。ここに来て、各マスコミともこれまでの「ビンラディン」を「ビンラディン氏」と妙に『氏』という敬称表現をつかっているところが気になるところだ。もしかしたら、まだ生きているビンラディンにこびて単独会見のスッパ抜きでも狙っているのか。それとも、ビンラディンが実は犯人ではなかった場合にそなえているのか。この敬称表現には、明らかにマスコミのうろたえぶりが見てとれるのである。
 これら氾濫といってよいほどの情報の中でとくに私の胸を締め付けたのが、米フロリダ州タンバ市で十五歳の少年の操縦する小型機が高層ビルに故意に衝突した自殺行為である。
 新聞各紙はこぞって「少年の衣服のポケットから遺書とみなしてよい手書きのメモが発見され、その中に同時多発テロを支持していた、との記述がある。米軍は小型機が無許可で離陸し操縦しているとの一報にF15戦闘機二機を緊急発進させたが、激突には間に合わなかった」とし、“操縦の15歳 友人少ない優等生”の見出し付きで「十五歳の少年がウサマ・ビンラディン氏に共感を抱いていたことは、米社会に衝撃を与えている。同時多発テロに刺激を受けて同じような騒ぎを起こす可能性のあることが、現実に示されたからだ」(M紙)などと解説している。
 この少年のニュースを除けば、どの紙面も大方は推定される似たり寄ったりの内容ばかりで中身のない情報ばかりが日一日と確実に積み上げられていった。ただ、そんな紙面の中で、このところは各紙とも対テロ戦争の次の標的としてソマリアをあげる声がちょくちょく見られ、米軍の方向転換がじわじわ進んでいる事実も浮かび上がっている。
 この点については、どのマスコミも「かつてのアフガニスタン同様、事実上、無政府状態にあるソマリアが、ウサマ・ビンラディン氏のテロ組織・アルカイダの拠点を依然抱え、今後アフガンを追われたアルカイダの組織再編のかなめになる可能性がある」と報道。こうしたとき、記者たるもの所詮は単なる軍部の広報機関になり下がってしまうものなのかーと思うと私には、それが悔しくてならなかった。
 そんなある日、地元夕刊紙・名古屋タイムズに二段見出しで遠慮がちに掲載されたちいさな記事が私の心を揺り動かした。見出しは「ビンラディン海路逃走か パ経由イエメンかソマリア」というものでワシントン共同発の記事の内容は次のようなものだった。
―米ABCテレビは十四日、米中央情報局(CIA)の分析結果として、米軍が追跡しているウサマ・ビンラディン氏がアフガニスタン国外に脱出したと報じた。CIAはビンラディン氏は海路で第三国に逃走した可能性が高いと分析しているという。パキスタンを経由してアルカイダとのかかわりがあるソマリア、イエメンに渡ったとの可能性が指摘されている。
 ABCによると、CIAの専門家はビンラディン氏が昨年十二月上旬までアフガン東部トラボラの潜伏先で、指揮権を部下に委譲したとまで証言しているという。
 さらに十五日からアフガンなど南アジア歴訪に出発するパウエル米国務長官は同日、ABCテレビで「ビンラディン氏の所在は分からない」と語っている。米NBCテレビも同日、ビンラディン氏はアフガン国内か同国との国境沿いのパキスタンに逃れた、と伝えている。とすると、ここにも必然的にムシャラフ大統領の影が浮かんでくるのである。

 情報は依然、錯綜し報道されればされるほど混迷の度を深めていった。各マスコミともキャッチした情報を右往左往して垂れ流している。ただ私には、海路逃走したという、その表現が胸の奥深くに激流となって残っている。海路なら、9・11事件の発生前であろうが後であろうが日本にも当然ルートは開かれていたはずだ。
 そうしている間にも日は、一日一日と流れていった。
 ウサマ・ビンラディンは能登に住むナゾの男が言うように、この日本のどこかで既に死んでいるのだろうか。いずれにせよ、ニューヨークの国際貿易センタービルへの民間機衝突などすべての多発テロを事前に仕組んだうえで日本に入ってきたのか。おそらく、こんな突拍子もないことを考えているのは、私だけかもしれない。それでも、もしかしたら、これが真実なのかもしれない。なぜなら、この世の中、毎日毎日、信じられないことばかりが次々と起こっているからだ。起きても決して不思議ではない。
 そんな想念を巡らしながら、私はただひたすらに、男と京子からの連絡を待ち続けた。

 京子から当時、私たちが住んでいた愛知県一宮市のマンション三階の自宅に一通の手紙が舞い込んだのは成人の日を過ぎたあと、一月十五日の火曜日のことだった。帰宅すると、いつものように咲恵の「手紙よ」の落ち着きはらった枯れたひと言に、せきたてられるように自室に入り、私は机に視線を注いだ。そこには女もののピンクの封筒が一通置かれ、手紙そのものが私に何かを語りかけるように鎮座していた。
 裏返すと「渡鹿野島にて 京子・2002年1月13日」とボールペンで記されていた。手紙を手に少し震えながら愛用の赤い鋏みで封を切る。私は便箋何枚にもびっしりと書かれた文面を目で追い始めた。

「前略
 あたいです。お元気でしょうか。つい先日、あなたとこの島で何年ぶりかでお会いしたあと、あたいは正月休みで能登の門前へ帰り母としばらく過ごしたあと、七日に島へ戻ってきました。あなたもご存じのとおり、日本海の荒波は太平洋に比べいっそう厳しいもので、白い波が花の飛沫となって空を染めて舞う姿は、それこそ見事でした。浜辺の砂たちが、ひと足ごとにキュッ、キュッと泣く鳴き砂の浜にも行ってまいりました。
 波の花のひとひらひとひらに、そして熱く燃える海砂の一粒にさえ、あたいらの知らない世界がある、そう思うと不思議な気持ちにかられました。愛するビン(ウサマ・ビンラディン)が、あの片言の日本語で波の中からあたいに話しかけてくる、そんな気さえするのです。
 ビンと聞けば、あなたは恐らく耳をそばだてるに違いありません。ビンのことはこれから順次、この手紙に書き留めていきたく思うのです。
 ところで、あなたは熊野灘を眼下に海女さんが一年を通じて火場(ひば)にあたるところを何度も取材した、とおっしゃっていました。あなたが志摩の砂浜をこよなく愛しておいでのように、あたいの心には、幼いころの残像としての“波の花”があり、体の芯まで聞こえてくる鳴き砂があり、そして春になると雪のなかを割って出てくる赤い雪割り草のあの逞しさがあるのです。七日といえば、ちょうどアメリカのフロリダ州タンバで十五歳の少年が小型飛行機で銀行のビルに激突していったと、テレビや新聞で騒いでいました。あたいはなぜか、この少年に悪いことをしてしまったと、そんな罪の意識にかられたのです。どうしてなのかは、これからあたいが書き綴る文面から読みとってください。いまは何よりも、もしもビンがあの同時中枢多発テロの犯人だと仮定した場合、一人の原因者の女として罪をわび、少年の魂よ安かれ、と祈らずにはおられないのです。
 あたいにとっては、渡鹿野島は第二の古里も同然です。あたいは、この島でせっせと自らの肉体を切り刻んで悲しい男たちにその肉片を売り、稼いだお金で島に家を建てわずかな土地も購入しました。以前にも話したように一週間に二日の休みはしっかり取り、自宅で愛猫の“こすも・ここ”と水入らずに過ごすのが、せめてもの慰めでした。こすも・ここは、白猫で名前は女ひとり、雌猫の一匹だって宇宙の片隅で一所懸命に生きていく、そんな密やかな願いからあたいが名付けたのです。
 あなたと初めてお会いし四年たったところで、あたいはあの日あなたに宣言したとおり、それまでの世界から足を洗うことに決め、しばらく和倉温泉のB旅館で仲居として働き、このあと一人でアフガニスタンに渡りました。先日も島でお話したとおり、アフガンでは現地のNGОに所属しながら、タリバン政権下のカブールにあるちいさな美容院に住み込みで働いていました。カブールには小さな銭湯まであり、楽しみといったら一週間に一、二度その湯につかることでした。
 旧ソ連軍の侵入と撤退、イスラム政権の成立、さらにはイスラム同士の部族間の内戦…と、過去二十年にも及ぶ終わりのない争いに、鳥が翼を根こそぎ剥がれたように傷ついた人々。あたいは、仕事の合間には地雷を踏み手や足どころか、肉親までをも失った数え知れないアフガンの人たちの食料補給や衣料援助、医療の手助けなどに努めました。これも前にお話ししたかもしれません。
 ビンに初めて会ったのは、そんなある日のことでした。
 彼はあたいの店にひょっこり整髪に訪れ、あたいに「アナタ ニホンジンデショ」と話しかけてきましたが、そのときこそ運命の一瞬となってしまったのでした。どこで覚えたのか、彼は片言の日本語が出来たのです。あとで知りましたが、大変な努力家で衛星放送などで日本語を学んでいたのでした。
 それからというもの、ビンと会ってからのあたいの人生は激変しました。
 彼は、あたいに国際情勢からイスラム文化まで何から何までを教えてくれ、気が付くとあたいたちは男女の関係を結ぶまでの間柄になっていたのです。ビンの熱い炎のような体で全身が射抜かれると、あたいの体が愉悦で逆立ち、たまらない歓喜に酔いしれたのでした。あたいは、ビンに深い性愛を感じながら人間はみな同じだ、世界のどこにいても変わらない、と男と女のほんとうの性の営みこそが美しく大切なものなのだ、とつくづく思いました。
 それから春が来て。穏やかな日和が嘘みたいな、そんなある日、ビンは声を震わせ、あたいにとうとう、こう打ちあけました。
 ワタシ、アメリカ ユルセナイ。イスラムセカイ アメリカニヨッテ ハカイサレツツアル。オオクノアメリカジン コロシテヤル。ワタシタチ ジュンキョウシャ ナッテミセル、と。
 それまでもビンの口から多くを聞いていたあたいはビンの気持ちが分かるような気持ちがしたのです。でもまさかアメリカの象徴ともいえる世界貿易センタービルに民間機を自爆衝突させ何千人もの犠牲者まで出してしまうなんて。そこまでは、とても考えてはいなかった(むろん、このことはあくまでビンが同時中枢多発テロの主犯だと過程しての話ですけれど)。ビンは、あのとき、こうも言いました。
 ボクノ タイセツナ キョウコサンハモドリナサイ。ニッポンヘカエリナサイ。ボクモキット ニッポン、ワタカノシマ アトデユクカラ サキニイッテイテクダサイ。
 信じられないでしょうが、これは本当の話なのです。あたいはビンに言われるまま島に帰り、今度は居酒屋「愛」の従業員として働き始めました。ビンは約束どおり昨年夏になり何の前触れもなく島にやってきました。ビンは何かに怯えているようで『マテバワカル ソノウチニワカル』が口癖でした。
 それからというもの、ビンはずっとあたいの家に滞在したままでテレビから流れるニュースを特に気にしていたようでした。何の意味かはわかりません。でも盛んにアルカイダ、アルカイダとよく独り言をつぶやいていました。
 そしてあの同時中枢多発テロがNHKのニュース画面に流れたとき、ビンは盛んに手をたたいていました。あまりの狂喜に気持ちが悪くなり、あたいはビンの心を落ち着かせよう、と一週間後にそれまでも苦しくなるつど足を運んでいた赤目四十八滝に彼を誘い出しました。ビンはあたいが見せた滝の写真に感動したのか、すなおについて来たのです。

 赤目の巨木や清流、赤く染まりかけた紅葉は何も言いませんでしたが、ビンの高ぶった気持ちを鎮めるのには役立ったようです。
 島を離れるその日、あたいとビンは渡鹿野島対岸の阿児町国府の岸壁に事前に待たせていた地元タクシーで近鉄鵜方駅まで出ました。近鉄列車で桑名、名張経由で赤目口まで出、ここからバスに乗り赤目四十八滝を訪れたのでした。
 四十八滝の登山道口から、くねくねと蛇行したゴロタ道を歩いていくと、まもなく滝の池だまりのような場所に着き、二人でしばらく休むことにしました。布のように長く帯を引く滝を目の前に、池をはさんだ対岸で頑丈そうな丸太で作られたベンチに仲良く座り、一景に心を寄せあいました。背後の、どす黒い樹木と巨岩を自然のカンバスに白い流れが夥しい糸となって音を立て、水底にどんどん吸い込まれてゆき、滝壷が白く泡立っているのがよく分かりました。
 宙天では葉という葉が赤く色づき、アクセントのように湖上高く浮かび、浮世絵さながらの色彩感を放ち水の音だけが、いつ果てるともしれません。あたいは耳を傾け人間どもの穢れを闇の向こうにどんどん押し流し、消し去ってくれることを心の中でただひたすらに願ったのです。あたいとビンには、こうした滝の瀬こそが薬なのだ。白いはずの水があれほど不気味に見えたことも初めてでした。白く泡立った水が滝壷で瞬時に黒く替わり、まるで墨汁そのものの海のなかに二人がのみ込まれてゆく、そんな錯覚にさえとらわれたのです。おそろしいほどの光景がそこには広がっていたのです。
 そればかりではありません。
 四十八滝では至るところ、かぜが遠慮がちに二人の頬をなぶり何かを言いたそうに無言の妖精となって消えてゆきました。どれくらい歩いたのでしょうか。空を仰ぐと、そこには薄墨色の漆黒が広がり、その下で、これから少しずつ赤く染まってゆく木々の梢や葉が、周りを照らしながらじっと静観し冬の到来を待っていました。時折、瀬音に乗り、こどもたちの声ばかりが大きく耳に迫ってきました。大人の声は、どんなに大きくとも自然界に同化しないのか、こどもの声に消されてしまっている…。と、同時にアフガンに住む子らの声なき叫びまでが、この赤目の森にまで音聴となって聞こえてくるのでした。

 やがてあたいは居ても立てもおられなくなりビンの手を取ると、一目散に走るように速足であるき始めました。何かに、誰かに追われている……。行者滝、霊蛇滝、不動滝と、あたいとビンは手をつないで順々に滝越えをしてゆきました。不動滝を過ぎ、しばらくすると赤い橋に差しかかり、あたいはここで愛用のサングラスをかけてみました。岩を落ちるせせらぎの向こう側には、どこまでも深い紅葉が見てとれ、目を凝らすと、碧だったはずの葉に黄がかぶさり、年老いて黄緑色になったのがありました。葉身はおろか葉脈にまで赤が混ざり、全身が橙や黒ずんだ焦げ茶に変色し、精も根も尽き果てた、そんな木々も見受けられました。
 秋の渓谷は日没後、急速に暗くなり危険です。早めに下山するようにー。
 女性アナウンスの声が木立ちを伝ってどこからか、繰り返し流れていました。乙女滝の横辺りに差しかかり水面に目をやると、そこにはどこまでも透き通った水が棲みついていて、その流れに身を任せるようにゆったりとくつろぐアマゴなど十数匹の魚が見えました。
 ビンの目から涙があふれ出たのは、この時でした。屏風岩、八畳岩、護摩の窟、天狗柱岩と、あたいもビンも体に纏わり憑いた何かを振り払いでもするように無心になって歩き続けました。陰陽滝まで辿り着くと、それまでのさらさらと心地よい瀬音が一変し、ゴオーッ、ゴオーッと吠えるように聞こえてきました。
 『この先、六百メートル、百畳岩に茶店あります。荷担滝迄約一・四キロ』の看板が目に入ったところで、これ以上前に進んだら漆黒の夕闇に融かされはぐれてしまう。そう思って、Uターンすることにしました。帰り道は、頂上の山の端が赤らみオレンジがかって見えたのもほんのいっときで夜ばかりが、急速な勢いでどんどんと更けてゆきました。瀬音が獣の唸り声となって、あたいとビンのからだを容赦なく射続けました。二人とも立ちくらみそうになりながらも渓谷沿いに黒い階段状の急な登山道を一歩一歩逃げるように歩いて行ったのです。ただ黙々と、ひたすらに逃げるビンの顔からは、それでも心底から何かに懺悔したい、そんな償いの表情が読み取れたのです。ビンが何か重大な過ちを冒している。あたいは、この瞬間、そう確信したのです。

 ビンとの旅は書くほどに哀しくなり、忘れるわけには参りません。
 笑ってこのまま読んでください。
 赤目四十八滝を訪れてから二週間ほどしたあと、今度はビンを復興途上の阪神大震災の被災現場に案内しました。瓦礫の山と化した同時テロの惨状も、大震災の被災現場も、どこかに似たところがある、そう思ったからです。二人はここでも手を握りあったまま歩き続けました。被災直後、一面の焼け野原になった長田区から新長田町、三宮、さらには外国人の眠る再度山(ふたたびやま)の外国人墓地…とビンはむしろ、その復興ぶりに驚きを隠し切れない様子でした。
 話は変わりますが、ビンは、あたいに連れられあちこちと回るうち自分に一番合った格好の死に場所を、あたいの故郷である能登半島と決めたようです。赤目から神戸、さらにはあたいがかつてしばらくの間、働いたことがある琵琶湖畔は大津の雄琴温泉、そして根尾村の淡墨桜(うすずみざくら)と彷徨ううち、彼はとうとう、最期の死に場所をあたいの故郷に決めたようです。
 でも、そんなことを一体、誰が信じるというのでしょうか。
 新聞、テレビはいまだにウサマ・ビンラディンの存在にこだわり、既に逃亡しただとか、アフガンのどこかに潜伏している、いや病死した、いやいや空爆に遭い戦死してしまったーなどと、かまびすしく報道しています。たったひとつ言えるのは、ビンはやはり自らの責任で自らを償ったのでは、それはどういう方法でなのか、は断定できないものの、ということなのです。
 ビンが能登半島にきてから「自死」(仮に本当に、したとしての話ですが)に至るまでの詳しい話は、もうしばらく期間をおき、世の中が落ち着いてからにしようかと思っています。遠く糸をたぐれば、あの夜、あたいの元を訪れてくれたあなたさまの存在があればこそ、あたいはその後、アフガンに渡り、一人の女性としてビンという最愛の男と知り合うことが出来ました。すべての結果は、まだどう判断してよいものか、それは分かりません。でも、ビンの犯罪―もし事実だとすればーで罪のない多くの人々とその家族が血を流し、哀しみのどん底に突き落とされたことだけは疑いようもありません。あたいは、ここにビンに代わってお詫びをしなければ、と思っています。真相はやがて明らかになるはずです。はっきりすれば、またお手紙を差し上げます。それでは、また」

 京子からの手紙を握りしめたまま、私は、ウサマ・ビンラディンと彼女との繋がりの深さをあらためて思い知ったのだった。

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 京子から届いた手紙を読んでからというもの、私は自身の体の脳天から足の爪先にまで夥しいほどのウサマ・ビンラディンの因子が蠢き回り潜んでいるかのような錯覚にとらわれた。デスク席に座り各地から送られてくる原稿をチェックする間にも、目の前のテレビでアナウンサーが「ビンラディン」のひと言を発すれば、そのつど全神経を集中させて聞き入りメモを取った。またデスク席にうずたかく積まれた各新聞とて同じで、ビンラディンの活字を追って目をさらにする日々が続いた。
 それにしても、ナゾの男はどこでどうしているのか。このところは、沈黙したままだ。男には、まだ会ったことすらない。いや実は既に何度か会ってはいるが、本人が正体を隠しているだけなのかもしれない。京子の手紙にも、男の存在を示す記述はない。ただ一人「和倉温泉に住む男」とある。それがあの「作り声のだみ男」なのだろうか。京子と男との接点は一体、どこにあるのか。私は二人のことを交互に思いだしながら日々のデスクワークに追われた。
 新聞、テレビからはビンラディンの活字や名前が少しずつ減り、代わりにニュースの内容も印パ関係や米軍により拘束されたアルカイダ兵の扱いなどに移りつつあった。あれだけ騒がれていたビンラディンのことより、いまは東京で開かれるアフガン復興会議の方がより重要だ、という各マスコミの視点が特報デスク席からは一目瞭然でわかるのだった。

 その日(正しくは一月十九日夜だが)、私の両の目に無視出来ない活字が飛び込んできた。それは終列車に近い夜遅い帰宅でJR列車に乗り、名古屋から尾張一宮に向かう途中の車内でのことだった。ふと隣の乗客が手にしていたスポーツ紙に視線を向けると、そこからは偶然にも「ビンラディン氏透析出来ず死亡か」の見出しが飛び込んできたのだった。えっ、嘘だ。そんなはずはないのだが。ともあれ、どこかで確認する必要がある。
 いずれにせよ、つい先ほどまでデスク席に座っていた編集局内の感触では、ビンラディンが死んだ、などといった緊迫した空気は全くない。本当にビンラディン死亡と捕捉のニュースが伝われば、編集局内は大騒ぎになるはずだ。ビンラディンの死が事実としたなら、これはもう号外ものである。何かの間違いだと確信めいたものはあるものの、体内を一瞬寒いものが走ったのも事実だ。私は尾張一宮駅で降りると、あわてて、駅構内の売店に駆け込み夕刊紙を手当たり次第に購入し一ページずつ慎重にチェックしていった。
「ビンラディン死亡 パ大統領が見解」「重い腎臓病 空爆で治療不十分」。
 ある地元夕刊紙にも、こんな見出しが三段扱いで躍りワシントン発の通信社電は「パキスタンのムシャラフ大統領は十八日、米CNNテレビとのインタビューで、米軍が追跡しているウサマ・ビンラディン氏が既に病死した可能性が高いとの見方を明らかにした。大統領は「彼(ビンラディン氏)は腎臓病を患っており率直に言って病死したと思う」と述べ、同氏が米軍のアフガニスタン攻撃により、十分な医療を受けていないとの見解を示したーといった内容だった。
 記事はその一方で「ビンラディン氏が死亡していなければ、またアフガン国内に潜伏しているとの見解を示した」とも補っており、ムシャラフ大統領はビンラディン氏がアフガンにふたつの人工透析装置を持ち込んでいるーとしたうえで「ひとつはビンラディン氏専用に使用されていた。テレビが放映した彼の写真ではかなり衰弱していたと語った」との記述も。最初はギクリとしたが、読んでいくうち、あくまで憶測の域を出ない報道に私は内心、胸をなで下ろした。
 だからといって、私にはビンラディンが本当に重い腎臓病だったのなら、なぜこれまでにそうした報道がなされなかったのか。ムシャラフ大統領なら、同時テロ以前から互いに少しは面識があったはずで腎臓を患っていれば知っていたはずだのに、なぜ、今になってなのか。その発言の裏には誰にも知られたくない何かが隠されている、そんな気がしてならなかった。さらにムシャラフ大統領といえば、昨年暮れに中国中央テレビとの会見で「すべての洞くつを爆撃した作戦の結果、たぶん彼は死亡した」と爆撃死亡説を唱えていた。それがなぜ、腎臓病死亡説に変わってしまったのか。
 京子から私あてに届いた手紙にもウサマ・ビンラディンが腎臓病で苦しんでいた、という表現はどこにも見当たらない。やはりムシャラフ大統領だけが、彼の居所と真相を内密に知り、世論操作で世界を牽制しようとしているのかもしれない。反タリバン勢力や北部同盟、米軍によるカブールやカンダハルの制圧後、案外、ビンラディンだけがほとぼりが覚めるまで、どこかで秘密裏に軟禁状態にされているのかもしれない。それとも米軍の矛先が別の国に移り、世論もそれとともに消え失せるまで、彼を一時、どこかに匿っているのだろうか。頭の中ばかりが、グルグルと際限もなく堂々巡りしている。自らの思考回路が靄のなかに入ってゆく自分に苛立ちさえ感じるのだった。

 その年の一月二十日。私は久しぶりに休みを取り、静かな気持ちで一読者の立場で自宅で新聞を広げ、いまではすっかり読者の間に根付いた日曜版の「世界と日本 大図解シリーズ」に目を通していた。特集は、このところの世界の動きもあり、テーマを『増え続けるイスラム』に絞って展開されていた。既に、これまでのデスクワークでも二週間前のカラー面の試刷りの段階から何度もくどいほど目にしてきた紙面でもある。
 私は、わが子に再会するほどの愛着を込めた視線であらためて読み返していった。前文は「米国がテロ行為の犯人と名指ししたアフガニスタン国内のイスラム過激派は米軍の攻撃によって壊滅状態となりましたが、事件は世界の目をイスラム社会に集めました。世界でのイスラム教徒の数は増大するばかりで、いまや十億人を超え、人口の五人に一人となっています。イスラム諸国の現状を図解するとともに、イスラム教徒膨張の背景を探ります」と言った内容だ。
 次に解説記事に目を通す。
―イスラムは、他の宗教に比べると、信徒の日々のかかわりが密といえる宗教だ。イスラムの基本的宗教行為は五つあって(五行と一般に呼ばれる)、それらは信仰告白、礼拝、喜捨(きしゃ)、断食、巡礼となっている。信仰告白は「アッラーのほかに神はない。ムハンマド(マホメット)はその使途である」と唱えることによってムスリム(イスラム教徒)は本当の神(=アッラー)は唯一で、またムハンマドは神の言葉を預かった者(預言者)であることを自覚する。礼拝は、アッラーが祀られたカーバ神殿があるアラビア半島に向かって日に五回行う。……

 気がつくと、私はいつの間にか、読者の目を離れデスク長の目で活字を追っていた。
 イスラムとは? イスラム(正しくはイスラーム)とは、「帰服する」「平和にする」というアラビア語のサリマという動詞から派生した名詞で、全宇宙を創造した神(アッラー)
に帰依することによって、心の平安を得ることを意味する。ムスリムは「神に従事する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒を意味する語として定着した。
 さらに『根はひとつ「世界三大宗教」』の説明書きは、アダムとイブに始まる人類を木の幹になぞらえ、やがてモーゼ、イエスキリスト、ムハンマドの出現により、ユダヤ、キリスト、イスラム教に枝分かれしてゆく図解入りで「キリスト教徒とユダヤ教徒は“啓典の民”と呼ばれ、本来はイスラム教徒と同じ信仰を持つとされる。イスラムでは“啓典の民”は唯一神と最期の審判の日を信じ、善行を積めば天国に行くことができると考えられている」とあった。
 この日は、あすから始まるアフガニスタン復興支援会議の前夜祭が東京都内のホテルで開かれ、テレビ画面から流れるニュースではアフガニスタン暫定行政機構のカルザイ議長(首相)の顔が何度も大写しにされ、私に迫った。カルザイ議長は記者団の質問に対して次のように答えた。
「ウサマ・ビンラディン氏が死んだか生きているかについて情報はない。彼がどこにいようと捜索は続ける」と。
 私は、その言葉を繰り返し自らに言い聞かせ、国際世論がこのままビンラディン氏の存在を闇に葬り去ってしまうことのないように、と願った。その意味ではカルザイ氏の「捜索を続ける」という言葉はまだまだ彼との接触点があるようで頼もしくも感じられた。ビンラディンが生きていればこそ、償いも出来れば世界平和への舵取りも進むのではないか。いやいや、たとえ死んだにせよ、ビンラディンの心にしっかりと根を張る火魂が生きている限り、世界の宗教や人々は緊張しながら、この世を生きてゆかねばならないだろう。ふと、そんなことを考えるうち私は自室デスクに上半身うつぶせとなり、このところの睡眠不足もあり寝息を立てている自分に気が付き、あらためて身を起こした。
 日も時も、何もかもが新しい未知の世界へ突き進んでいるようだった。ビンラディンがここにいれば、彼とて一人の人間として同じ思いをするに違いない。私は、あれやこれやと思案するうち、ビンラディンに会いたい衝動にかられ、疲れた体を横たえながらも寝入った。

 その日、再び寝入っているところを起こされたのは、鳴り止まないで続いた一本の電話だった。受話器を耳に当てると、くぐもった男の声が耳に大きく迫った。
「京子からの手紙読んだんかいね。大体は、ああいうことなんや。ただ、まだ、まだやて。支局長さん。いやデスク長さん。これからやて。あんたはんが気付いていないことがあるんやて。何かが今から分かったら、そりゃ。混乱しちゃって大変やがいね。分からんままの方がいいかて。何も追求なんかせんとき。デスク長は一線の記者あがりやから、じっと我慢するなんて嫌かしらんけど。ここんところは、じっとしとき。きっと自然にわかる日がくるんやから」
 電話の声は、むしろ弾み、これまでのような周りに対する警戒心が少しだけ和らいだ気がした。それにしても、どうして電話番号を知ったのだろう。わが家は職業柄からもマル秘扱いで登録し、電話番号簿にも載ってはいないはずなのに。それとも男の影が私に、いつもどこかで張り付いている。もしかしたら、もう一人の私が、この世の中に存在しているのだろうか。私はいつしか深い眠りに落ちていった。

  8
 平成二十年十二月三十一日。この年も暮れようとしている。
 京子から最初の手紙が届いて何年が過ぎただろう。
 人々の脳裏から、あの長身で顔に白くて長い髭を蓄えたウサマ・ビンラディンへの思いが良かれ悪しかれ薄れつつある。一方で私の頭のなかでは、あのビンラディンの存在がそれこそ、幾何級数的に際限もなく拡大していくのは、なぜだろう。
 ビンラディンのなかに私自身の魂が潜むことを望んでいることも確かだ。なぜ、だ。それがよく分からない。

 暮れに入って「イスラエル軍 ガザ空爆155人死亡 ハマス反撃宣言」(12月28日付M紙)、「ガザ空爆 200人超死亡 ハマスは抵抗表明(同日付T紙)といった記事が各紙の紙面をにぎわしている。今月十九日のイスラエルとハマスの半年間の停戦失効を受け、イスラエル軍がはやばやとイスラム原理主義組織ハマスが実効支配するパレスチ自治区のガザ各地に大規模な空爆を行ったというのである。ガザの死者数は日に日に増えており、29日付のT紙では、とうとう「ガザ空爆死者286人に イスラエル 予備役6500人招集」といった見出しが躍っており事態は深刻化の一途である。
 それにしても人間たちは、どうしてこんなに愚かなのか。
 それとも、咲恵がいつも独り言で首をかしげながら疑問符を口から振り落とすように話す「正義はひとつだけじゃないわ」ということか。イスラエルにはイスラエルの、ハマスにはハマスの『正義』があるというのなら、やはり私は首をかしげざるをえないのだ。殺戮ごっこに「正義」なんて、あるはずがないじゃないか。そんなことを思うにつけ、こんな時にもし目の前にあのウサマ・ビンラディンがいたのなら、どう言うのだろう。おそらく彼は「正義」を超越した手段を施すのではないのか…
 私は閑散とした名鉄電車車内で向かい側の席に座ったまばらな乗客に目をやりながら、そんなことをふと、思ったりしていた。ことしも間もなく暮れゆく。

 もはや聞き古された言葉かもしれない。
 それでも私は思う。
「ガザをはじめ、アフガニスタン、イラク、インドなど世界の各地で言われなきテロや戦禍に遭い、数知れない人々が苦しんでいるというのに。このところの未曾有の不景気風さえのぞけば、日本は至って平和である。特にお正月をあすに控えた、この長閑さは、もったいないほどだな」と。
 数日前までは、人々が歩き、行き交う車に、まじかに迫る新年を前に、この町のすべてが正月色に変わっていく姿を感じていたが今や、町中という町中が、いやニッポン中が正月色に染まってしまったような、そんな錯覚にさえとらわれる。それでも、このところの不景気風に職からあぶれ出した多くの人々が、この正月はインターネットカフェで寝泊まりするのだという。全国至るところで首を突然のように切られた派遣労働者や季節労働者たちが溢れかえっている。

 車内の乗客は驚くほどにまばらで、よく見ると一人ひとりが満足そうに自分たちを称えているようにも見える。時折、不意と頭をもたげ、私のなかに寄生してしまっているウサマ・ビンラディンを心に閉まったまま、私は電車に揺られてわが家を目指している。咲恵は、おせち料理をつくりながら「大みそかだ、というのに。いつまで仕事してきたら気がすむの。あなたバカじゃないのかしら」とおかんむりかもしれない。
 前の座席では、車窓越しに西日の差す「陽当たり」のなかで、どの人も満足そうな顔をし「もう、この一年はやりつくしたんだから」といった安堵の表情が見て取れる。
 「まもなく布袋です。布袋の次は江南です」と車内の男性車掌のアナウンスが聞こえてくる。やがて電車が停まりドアが開くと、こんどはドアの開閉に従って音もなく光りを帯びた陽射しまでが車内にドヤドヤといったふうに入ってきた。あぁ~、陽差しにだって意識があるんだ、と妙に感心する。ドアが閉まると薄情にも車内はまた「陽」から「陰」に暗く変わった。メガネをかけた男、ニットのかわいい帽子をかぶった若い女性、白いブーツをはいたチョットおしゃれな中年女性、腕を組み両足を広げたままの男、親に伴われた少年や少女たち…と、だれもがドアが閉まり再び暗くなった車内で無言でいる。私には、これらの人たちすべてが思い思いにことしを振り返っているように感じられた。麻生首相やマスコミは百年に一度の不景気、不景気だというが、少なくとも目の前に座る人々は誰もが幸せそうだ。
 私自身も、ことしは吉川英治の「新書太閤記」全八巻を読破し、尾張が生んだ信長と秀吉、家康の世界に浸ったりした。新書とはいえ、昭和三十三年に出版された本である。私は、これら一連の著書のなかで「克(よ)ク人ヲ休メ得ル者ハ、又克ク人ノ死力ヲ用イ得ル者也」とか「巨きな山は、山へ近づくほど巨きさが見えなくなる。山のふところへ入るとなお分からなくなるものだ。諸人の批評を聞き較べておるがよい。たいがいは山の全体を観て云っているのではない」などといった多くの言葉にうなされたりもした。
 夏には咲恵を伴い、小豆島へ。死のほとりで<眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る><咳をしても一人><をそい月が町からしめ出されて居る>など数々の自由律の俳句をうたい続けた俳人尾崎放哉の記念館を訪ね、墓碑まで足を伸ばして花を供えたりした。他の乗客と同じく十分、満足はしてる、とふと思ったりした。
 何げなく視線をあげると、列車は日本一高いとされる布袋の大仏さまを通り過ぎた。大きな顔の目の辺りに西日が当たっており、大仏さまが一瞬、心なしかニコリと笑ったような気がした。知らない間に、こんどは射光が車窓を通して私の顔を照らし出していた。名鉄江南駅で降り、わが家に向かう道すがら、鄙びた町の商店街の両側には日の丸が一定間隔を置き二本ずつ並んで私を出迎えていた。なんだか、異界に迷い込んできたようだ、私はいったいユートピアにいるのか。この世ではない、夢の国を歩いているのか、とさえ思い、自身が信じられなくなっていた。傍らでは、あの姿形のないウサマ・ビンラディンが寄り添うようにして無言のまま、どこまでもついてくる。

 二〇〇八年深夜から二〇〇九年の未明、すなわち元日にかけて。
「鐘をつきたいの。どっかでカネ、つかせてくれないかな。鐘のあるところ、ないかな」という咲恵の言葉に誘われるまま、私たちは自宅周辺を冷たく凍りつくような風にふかれて、しばらくの間、さ迷い歩いた。どこからか、ゴーン、ゴーン、も一つゴーンと荘厳な鐘の音が微かに聞こえてはくるが、どこからかーは分からないままだ。気がつくと私たちの足は、近くの古知野神社に向かっていた。ふたりとも夜道をコートの衿をたてたまま歩く。私は歩きながら、ウサマ・ビンラディンは京子とともに、こうして日本の神社や寺を巡ったのだろうか、などとも思うのだった。
 神社境内では篝火が火焔を上げるなか、予想に反した人の多さで私と咲恵は長い行列の一員となり、拝殿で年賀の初参りをすることとした。途中、手水鉢で手を洗うと、いよいよ私たちの番がやってきた。私たちは小銭を投げ入れたあと教えられるまま一礼二拝で、ことしの安泰と飛躍をお祈りし、参拝後は甘酒をふたりして篝火に手をかざしながらのんだ。咲恵の顔が生き生きと火に赤く照らされる様子を見ていると「火をつける、とは人々をあったかい心にすることなんだ」と妙に得心したりもしたのだった。咲恵は札所まで行き、破魔矢一本も購入した。帰り道にまた、私の目の前に付き添って歩いてくるビンラディンの顔が大きく浮かんで消えた。私は一晩中、寝れないまま朝を迎え、こうしてまたまた幻のあなたと向かい合っている。

 向かいあううち、私はいつか夢のなかに入り込んでいったようだ。
 波のような透明な“かぜ”たちが私の体に絡みつき、いったんはしがみつきながらも吹き抜けていった。
 私は一本の道をどこまでも歩いてゆく。冬には珍しい氷雨の中を傘もささず正面を見据えたまま足を一歩一歩前に運んでいた。
「ねえ。ウサマ・ビンラディンさん。あなたは今、一体どこでどうしているのですか」
 声にならない声に何者かは分からないが影のような存在が「まだまだ教えるわけにはいかないよ」と耳元に囁いてきたような気がする。
 私はまた口を開き、今度はどんよりと曇った空中に向かって言葉を投げるように話しかけた。
「なぜ、民間機を世界貿易センターになど衝突させたのですか。罪もない多くの人たちが亡くなりました」
「……」
「なぜなのですか」
「それは」

 氷雨は、いつのまにか小雪に変わっていた。私は見えないビンラディンに向かって半ば挑戦的な口調で続けた。
「それにジ・ハードって。一体何のことなんですか」
 息をためながら、こと切れる如くひとひらひとひら降ってくる雪の音に交じり、こんどはウサマ・ビンラディンに代わって能登弁訛りのナゾの男の声が聞こえてきた。口から出るひと言ひと言が、雪を伝って音になった。
「お宅の新聞によれば、ジ・ハードとは、本来は『神の道において努力する』という意味です。関連してイスラムのための闘争、イスラムを擁護するための戦争として『聖戦』という意味でも用いられます。この宗教義務の戦いの中で亡くなったものは『殉教者(シャヒード)』として天国に迎えられるのです。イスラム急進派の中にはジ・ハード遂行手段としてテロを正当化する勢力もいるのです」
 私は質問の内容を変えた。
「ところで、ビンさん。京子という女性をご存知ですか」
 いつのまに現れたのか、男がビンになりきって答えた。
「ウン。知ってる。最後は彼女のおかげで憧れだった日本の土も踏めた。渡鹿野島の多くの女性たちにも会えたし秋の紅葉も拝めた。島のほかにも赤目四十八滝、琵琶湖畔、大津京、根尾村……、最後に能登半島と、知らぬ間に日本の香りが全身に染み付き、オレっち、随分よくしてもろうた」
「日本には本当に来たんですか」
 一刹那、雨の中で男の眼が鋭く光り、その影が黙ってうなづいたように見えた。
 それでも男は姿を見せないまま私に向かって話し始めた。聞こえてはこない声。それは幻聴に似たもので、たぶん私の耳にだけしか届いてはいないのだろう。その口調は、知らぬ間に関西訛りに能登方言が交じりこんだものだった。
 ウサマ・ビンラディンに男が乗り移っている。
「おいね。わっしゃなあ。旧ソ連軍の侵攻や部族対立でこの二十年ちゅうもん、戦争に明け暮れ、国土の全域が地雷の海と化してしもうたアフガンを何としても再生させとうて。な。それからパレスチナでも罪のない多くの人々がイスラエルの報復という名の空爆で殺されてきた。だちゃかんて。パレスチナの人たちがやむにやまれず自爆テロの仕返しをする気持ちがよおー、わかるんやて。
 ほいでなあー、なぜこんなにかわいそうな悲劇が続くかというとな。やはり国際社会の秩序にいつもアメリカがしゃしゃり出てくる。だからだ、思うてな。わしかて戦争のない社会が好きやけ。なんもテロのことばかり思うてなんか、いやはんかて。
 イスラムでしていけないこと。あんたはんとこの新聞でも書いてあったとおり、自殺、殺人、盗み、嘘をつく、人を陥れる、人を傷つける、飲酒、姦通、ばくち、それに利子を取るのだっていけないんだ。おいらぁ、これらのこたぁーぜえーんぶ、分かってる。わこうとるがアメリカが憎うて。ムスリムの中には自分たちのやることはジ・ハードだから、ジ・ハードなんや、と自らに信じて強硬手段に出る者やて、おるわいね。ニューヨークで起きたとんでもない事件かて同じやけ。
 亡くなった多くの人々には、ほんに悪い。そう思うとる。あの同時多発テロが起きたからこそ、米国はじめ全世界がテロ組織・アルカイダの温床とされるアフガンに目を向けることになったんやけ。でもアメリカのブッシュは欧州諸国やロシア、日本にテロは許せないーと正義のツラして、とうとうアフガンへの空爆にまで踏み切ってしもうた。こんな暴挙が許されていいかいな。ほやろ。それでも救いは、アメリカの中にだって報復空爆に断固反対する人が意外と多かった、ちゅうそんな現実やった。
 それにしてもアメリカちゅう国はなぜ、何にでも介入してくるんか。そのおかげで、どれだけの人間が血底を彷徨うとるか。あんたはんかて、新聞記者だったんだから、おいらの言うこと分かるだろ。わかってくだい」
 私は黙って歩き続けた。どこをあるいているかは分からない。
 あるきながら、ウサマ・ビンラディンのアフガンでの生活はどんなものだったのだろう、とふと思ったりした。
 イスラムの一日は日の出の一時間半前から十分前までファジュルと呼ばれる早朝の礼拝で始まる。次いで昼過ぎのズフル、遅い午後のアスル、日没後のマグリブと続き、就寝前のイシャーウと一日に計五回の定時礼拝をこなして終わる。日本では考えられない信仰心の厚さだといってよい。アラビア半島生まれのウサマ・ビンラディンとて同じように日々、一日五回の礼拝を続けているに違いない。
『してはいけない』ことのほかに『食べてはいけないもの』も多い。豚肉(ハム・ベーコン、ソーセージを含む)、血を抜いていない肉、病気で死んだ動物、アルコールの含まれた料理、サラミ、ラード、酒、肉食獣、ヘビ……。ビンもこれらは一口も食べてはいないのだろうか。酒のない人生なんて。私には到底考えられないことなのだが。
 ナゾの男からの電話で私はウサマ・ビンラディンへの関心を深めれば深めるほど、イスラム社会に傾倒していった。イスラムでは姦通が禁じられている代わりに、四人までの妻帯が認められている。これは預言者ムハンマドの時代に、戦死した男性の未亡人を救済するために正当化されたという。ただ夫は複数の妻を愛情や経済支援で平等に扱わなければならない。だとしたら京子はビンラディンにとって、どんな立場の女だったのだろう。
 気がつくと、男の声は知らぬ間に風に乗って消え、私はただ一人、寂しい孤独な橋を渡るように、どこまでも続く海岸線を歩いていた。
 私は今、つくづく思う。
 あのいまわしいニューヨークとワシントンで起きた同時多発テロは、私が前任の文化芸能局から二年ぶりに古巣の編集局に舞い戻ってまもなくの出来事だった。それまでは一体誰がこれほどの事件の発生を予想したことだろう。評論家たちは、ブッシュとビンラディンの相剋を文明の戦いだとも評している。だが私にはそうは思えない。民族も含め人間一人ひとりの中に沈潜する憎しみとか争い、さらには自分だけがよければ、といった独りよがり、こうしたものがないまぜになって見えない神の手、淘汰の中で躍らされている。ただそれだけのような気がしてならない。
 そのあかしに過去を振り返るなら、人間たちは絶えず互いに殺しあってここまでの道程を歩んできた。そう言ってもいいだろう。そのうちに見えざる手が人類を滅ぼす日が来るかもしれない。私は、そんなことを思い、ふと足を止めた。遠くを見つめると、そこには霞か靄か、それとも異次元の世界なのか。水平線のかなたで何かが蠢いている。そんな気がし、今度は冬の夜空を仰いでいた。
 何千、何万、いや無限の生がそこで生きているのかも知れない。南東の空高く、ひときわ明るく輝くのが木星。ほぼ横に並んでオリオン座、その上方におうし座、そして土星が光っている。天体には知らない世界が、きっとあるだろう。そういうことからすれば、ウサマ・ビンラディンの存在など、けし粒にも足らぬ存在かもしれない。私は急にビンラディンが根尾に立つ樹齢千五百年近い淡墨桜(うすずみざくら)と対峙した時の様子を聞きたい衝動にかられ、気を取り直して男との会話を続行した。

「ブッシュもアルカイダも、罪なき人々の話もよいけれど。淡墨桜と会って、ビンラディンはどういう表情でしたか」
 男は目を細めて語り始めた。
「ウ・ス・ズミ・ザクラゆうたら、あんたはん、かつては“淡墨記者”と呼ばれたあんたはんの専売特許やんか。あんたは、あの時、県高官と業者の不正を暴こうと取材に飛び回り、とうとう暴き、権力は音をたてて崩れ去った。ほんまよーお、やったな。志摩半島から岐阜へ転勤してまもなく、長良川が安八町で決壊するなど大事件が続発したころやったが、あんたは忙しい合間に、よおぅ淡墨桜んとこに通うたもんやった。根っこの部分に民家があるから老樹の寿命を縮めてしまう、ちゅうて県文化課を通じ文化庁とかけあい民家が移転したりする“事件”もあった。 来る日も来る日も歩きまわって足を棒にするほど取材熱心だったあんたは淡墨桜の保護に命をかけた作家の宇野千代さんにも、よおぅ、かわいがられたもんやて。彼女の提言に桜の保存に情熱を捧げた元々が文人肌の平野三郎知事が岐阜県庁汚職事件で司直の手にかかった時にゃあ、『淡墨桜が泣いていた』って書き出しで。あんた自身が泣きながら新聞原稿を書き、原稿用紙の上にポタポタと涙が落ちた話は有名やて、って誰かに聞いたこともある。実際に多くの人が複雑な気持ちで泣いて記事を読んだもんやて。
 ビンには、な。京子の口からこうした話をしたそうや。お化けのような幹を張る淡墨桜はものこそ言わないけど、この世のすべてを見ている、と。宇野千代さんもおっしゃっていたそうだ。『ごんたさん、あのねえー、わたしは雨の日の、この花が大好きなの。薄墨いろの花びらは、しょぼしょぼと雨に打たれて濡れてこそ、いっそう妖艶でいとおしくなるの』と。このことは、淡墨記者だったあんたはんが一番よおーく知ってることやないか」
「それでビンは」
「ビンは黙って話に耳を傾け、桜の幹と大きな枝を眺めるばかりやった。この老樹の幹や枝から、千代さんの表現によれば<銀の小粒の涙>にも似、微かに薄墨色に染まったかれんな花が生まれてくるだなんて、とても信じられない、ちゅう顔してはった。ただ、そこに立っていると不思議に心身が落ち着き、争いのない平和な世界に誘い込まれてゆく、そんな気がすると言やはってた。京子も満足そうにうなづいていた姿をよお、覚えとる。
 ビンと京子は、それから琵琶湖畔の大津市雄琴温泉に足を延ばし、その年の十一月上旬に能登半島の七尾に入ったそうやて。なんだか、あんたはんが新聞記者として歩いてきたところばかりになってしもうた。京子は、あんたが地方記者として、どんな道を歩いてきたのか。ただそれを自分の目でも確かめたい、その一心でビンとの旅を続けた、そう思えてしかたがのうて」
 私は話を聞きながら、静かにうなづいた。
 話を聞くうちに、これまで歩いてきた海岸線が、いつの間にか、それまでの熊野灘に面した射光の眩いリアス式海岸から、波の花が舞う日本海側にと変わっていた。つい足元をみると、そこには海砂が大きく迫り、ひと足ごとにキュッキュッと哀愁を帯びた音を奏でるのだった。音愁は、若いころともにつるんで駆け落ちし志摩で咲恵と過ごした日々と重なり今度は視界がぐるりと反転し眼前に、真珠いかだが浮かぶ鏡のような穏やかな海、あの真珠のふるさと英虞湾が浮かび上がった。

 気がつくと海砂の泣く声が、あの核入れをしたあとに真珠母外(アコヤガイ)が泣くか細い音に共鳴し、悲しさばかりが胸の底から、どこまでも立ち上ってくるのだった。私は、志摩へ、能登へ、と今すぐにでも飛んで帰りたい。心のなかで火魂がはじけて叫んでいるのを確かに、そのとき聞いたのである。
 二〇〇九年元日の朝―
 何かに押し潰される。私は思わず、圧迫感をはねよけようとして何やら大きな声を二度、三度と上げていた。
 逃げまどううちに視界が拓け、そこにはいつもと変わりのない咲恵の寝顔があった。
 寝顔を覗き込むと咲恵は大きな目をパチリと開け、にこりと笑い、こう言った。
「あらあらっ、また何かあったの。あたし、寝てなんかいないんだから。もうあなたっていう人は。いつもこうなのだから。『志摩』だとか『能登』だとか、『ウ・ス・ズミ・ザクラ』だとか、途中でガバッて起きるんだもの。いったい何があったの。それに『ビンラディン』『ビン』…て。何度も叫んでいたわよ。ビンって、あなたの小説に出てくるウサマ・ビンラディンのことでしょ。もう終わった話じゃないの。彼、もうとっくにこの世になんか居ないわよ」
 私は咲恵の顔に目を近づけ「ちがうの。やつは居るんだよ」とだけ答えた。
 答えながら私は夢のなかで、こうしてウサマ・ビンラディンの足跡を辿ることがやっと出来た、と思った。ウサマ・ビンラディンの存在そのものが、未だに夢幻ではなく、現実のものに思われてしかたないのだった。
 私はいつのまにか、夢うつつの中、今度は咲恵のご機嫌とりでつい先日の休日にドライブした自宅近く木曽川堤に思いをはせていた。川の流れは、川面に怜悧な刃物そのままに青筋をたてるほどに透明なもので、冬だというのに川沿いに設けられた遊歩道を多くの人々が楽しそうに歩いていた。人間の幸せといったら、こうしたちょっとしたもののような気がしたのも事実だ。私は川と空の境界線に目をやり、相も変わらず清流と空の上に忽然と立つウサマ・ビンラディンの幻影を見てとったのである。
 同時に、ウサマ・ビンラディンには平和な日本の姿を誰よりも知ってほしい。そう、見えざる神に祈ることも忘れなかった。

 一月二日。まだ二日というのに随分の時が流れたような気がしてならない。私のなかのウサマ・ビンラディンと向き合い、朝も、昼も、夜も、夜中も、ずっと、ただ黙々とこの小説を書きつづけていたからかもしれない。
 もしかしたら、この物語の連載中にウサマ・ビンラディンその人が世界の街角から何げなく姿を現わし、私の小説に対して何か口上をたれてくれるのかもしれない。
                              (続く)
【お知らせ】この連載は先に私が出版した記者短編小説集「懺悔の滴」(人間社刊)の中の<再生>を補筆、大幅に加筆したものです