カトマンズの恋(1~5)

  プジャの祈りで毎日、感謝の気持ちを込め空に向かって投げられるマリーゴールド。カラフルな街角の花屋さん
 
 1.
 歩く。歩く。歩く。
 色白でどこかフランスの名優アラン・ドロンの若いころを彷彿させる男、ラル。彼は信号はむろん舗装道路ひとつなく、喧騒のただなかにあるカトマンズ市内のデコボコ道を前に向かってあるきに、あるき続けた。テマリと待ち合わせたダルバール広場(旧王宮広場)まであとわずか、だ。涙を流しながら「テマリと一緒になりたい。国籍の違いなぞは関係ない。ボクがテマリの方に先に行って手を差しのべなければ…。あれほどまでに互いに愛を誓った彼女は一体どうなってしまうのか。もはや、時間はない。」
 旅行会社の日本人ガイドとして活躍するテマリと知り合ってから、三年が過ぎていた。
        ×        ×

 何もかもが一見してゴチャゴチャに見えるヒマラヤ連山直下に広がるネパールのカトマンズ盆地。そのカトマンズは秩序がないようでいて実は秩序のある都市だった。日本人観光客の陽一はこの地に足を踏みいれるや、民族のパワーの如きものを感じ、テマリの住むカトマンズに底知れない魅力を感じた。
 実際、この土地を行き交う人々の目は、皆、ピュアできらきらと輝いている。褒めすぎだと思われる方は思えばいい。でも、陽一にはそこにはユートピア(理想郷)が広がり、同じ人間とは言え、清浄な地で化身した人々が住む楽園にも思われたのである。四方をヒマラヤの連山に囲まれ海こそないが、人々にとっては、見上げる空こそが海だった。

 陽一がカトマンズから日本に帰国したその日は期せずして伊勢神宮の式年遷宮、それもクライマックスで内宮でのご遷御祭さなかだった。全身がカトマンズの自然に融かされるが如く魂を抜き取られた陽一は運命的な何かを感じたのである。
 十月二日午後八時四十分。機は中部国際空港に着陸。伊勢神宮の内宮には若い日のあのころと同じように神さまと化した月に神宮一円が照らされているのだろうか。陽一は空港に降り立ち空を仰ぎ見たが、そこにはきれいな月の一部が見て取れた。
 あの日。新聞社の地方記者だった陽一は人間の生け贄たちを、玉砂利に座らせ神さまに奉納する供奉員(ぐぶいん)を担当。当時、日本を席巻する作曲家や製鉄会社トップが白装束に身を包んで神の前で手を合わせ恭しく頭を下げていた、あの光景を忘れることは出来ない。神さまの原風景に立ち会ったことも彼にとっては、日本人ならでは、の誇り高き何かを感じていたのである。
 そして四十年後。陽一は自身がカトマンズの生け贄となって帰国したような、そんな錯覚にとらわれ、わが身に清浄な何かを感じとったのである。

 (帰国途中の広州から乗り継ぎ地である上海行き機内。)
 カトマンズを発ち、広州で乗り継いだ翼はまだ上空に浮かんでいる。上海が目の前に迫っていた。青い空には普通の白い雲が筋を引いて一つひとつが達成感を示している。飛行機は高度をグンと下げ着陸態勢に入った。時計の針は十月二日午後三時半過ぎを示している。
 そして。真っ白な雲海のなかにまるで自爆でもするかのように機はその只なかに突入していく。陽一はその光景を見ながら、無鉄砲な恋を選んでカトマンズの花嫁となったテマリのことを考えていた。

 2.
 テマリがカトマンズの男性ラルの元に嫁いで丸二年半近い。
 ネパールは家族同士がとても大切にし合う大家族制なので男兄弟はそろって両親の住む同じ屋敷内に住むことが古くからの伝統となっている。テマリの場合、ラルは三人いる男兄弟の次男なので当然のように部屋こそ違うが、他の男兄弟家族、そして両親と同じ建物内での同居生活に甘んじている。
 そんなテマリにとって、何よりの慰めとなっているのが毎朝、窓の外から聴こえてくる小鳥たちの囀りだ。チュッ、チュッ、チユ。チュッ、チュッ、チュッ。チュッ…。白と黒、二色のかわいいスズメに似た小鳥が体毛を小刻みに震わせ、大気までもしなわせながら、こ気味よい音を出して鳴くのである。
 囀りに目覚めたテマリが窓を開けると、今度は何羽もの小鳥たちが待っていたかのように、一列縦隊となって彼女の家の周りを朝の祝福でもするように低空飛行しビルの軒下を掠めて大空に向かって飛んでゆく。ナンダカ、こうした雄々しい光景を見ていると、心から異国での生活を励まされるのである。
 これが、この国、カトマンズでの「おはよう」の挨拶なのだ。
 あ~ぁ、何と優しく美しい鳥たちなのだろう。物言わぬ鳥たちの姿にテマリはあらためて日本を捨て、ラルだけをたよってこの地に来た自分の選択に間違いなかったことを感じるのだった。核家族化が進む一方の日本では、とても考えられない小鳥たちとの語らい、平和で心安らぐひとときである。テマリは、何げないそぶりではあるものの、いつも何かと気を遣ってくれるラルの両親をはじめとした家族全員の温かさはむろん、こうした小鳥たちに代表される自然の営みにも心が魅かれていったのである。

「そういえば、きょう=二千十三年(平成二十五年)九月二十六日=の夜は日本の新聞社で同僚だった年上の男性(陽一)がはるばる、私を訪ねてカトマンズまで来てくれる日だったっけ…」。
 昭和五十五年五月五日と〝5並びの日〟に愛知県稲沢市で生まれたテマリ。彼女は満三十歳になったのを機に、それまで勤めていた日本の新聞社の旅行部門をひと思いに退職し、ラルを追ってネパールまで来てしまった。そんなテマリが今ではカトマンズの旅行会社スタッフとして働いていることもあり、かつての新聞社仲間が激励を兼ねてやってくる、というのだ。
 テマリはぐっすり寝込んだままの夫ラルを横目に、布団をはねのけるや、今度は朝のプジャへ、と義母のいる居間に向かった。居間ではさっそくお参り堂に手を合わせチリン、チリン、チリリン…と鐘を鳴らし、大地や空に向かってオレンジもまばゆいマリーゴールドの花々や米粒を投げ与えた。このお参りが一日の始まりである。プジャは夕方にも、もう一度感謝の気持ちを兼ねて行われる。いわば、日常生活の一コマでもある。
 このプジャ。文化的に便利になり物事に鈍感になる一方の人間社会への警鐘を込めたネパールならでは、の日常セレモニーといえなくもない。いわば五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を絶えず鋭ぎ澄ますのが狙いだという。具体的には、プジャの祈りを通じてチリンチリンと鳴らす鐘の音を聴き、ちいさなバターランプの火を見、線香の匂いをかぎ、マリーゴールドの鮮やかな花びらを天や地に向かって感謝の気持ちを込めばらまく。これを朝と夜に毎日、欠かさず続ける。

 このほかネパールの場合、ヒンドゥー教のカーストによっては、たとえばシャヒのような王族だと、夫を呼ぶにも「ラジャ(キング)」と呼ばなくてはならず、日常生活でも朝起きたらお母さんの足に跪くことが日常化している(これがお母さんも動いているのでチャンスをうかがうのが、なかなか難しい)。でも、テマリの場合は、普通の家でそこまでする必要もないのが何よりの救いでもあった。

 3.
 平成二十五年九月二十六日夜、カトマンズのトリブバン国際空港―。
 ネパールへの入国ビザ申請と取得に続く入国審査をやっとの思いで終えた陽一が国際線到着ロビーに姿を現したとき、ロビーの時計は現地時間の午後十時四十五分(日本時間は翌日の午前二時)を刻んでいた。
「やっと着いた」。衣類や本、土産物類を入れた大きな旅行バッグを左手で押し、右手に中バッグを持ちいつもの取材用ショルダーバッグを肩にした陽一は何はともあれ正面入り口部分まで歩を進めた。そして空港玄関口にまで辿り着いたところで、一体何事が起きたのか、と思うほどの出迎えの多さにたじろいだ。いや、これは出迎えというよりも、群衆といった表現の方がふさわしいのかも知れない、それとも日本人である私を歓迎する何かの霊たちなのか。詰めかけた人々のパワーに圧倒されたが、みな笑顔でほほ笑んでいるのが無気味にさえ映る。

 空港玄関口を囲むようにした広場では明かりひとつない暗闇のなかで、つい先ほどまで群衆と化していた人々の多くがモゾモゾと動き出し、一人、ふたり、三人、四人…と、どこやらに消えていく。陽一は、そんな得体の知れない妖怪のような顔という顔を、慌てて一人ずつ追いかける。ただ、黒山の弾丸といってもいい人の流れに圧倒されながら、だ。
 それにしてもラルとテマリは一体全体、この人波の中のどこに居るのか、となると皆目分からない。ラルは。テマリは。どこにいるのか―との思いとともに、今度は不安が心身を駆けあがってきた。
 異国で言い知れない不安が胸を横切った瞬間、「ヨウイチ」「ヨウイチ、さん」と優しく呼びかける声が耳に迫り、振り返るとそこには、ラルとテマリが笑顔で立っていたのである。二人とも穏やかな表情で満面に笑みをたたえ、陽一が振り向くや、ショルダーバッグだけを残して大小のバッグはアッという間に二人の手で出迎えの車のトランクに収容された。「ようこそ。私たちのカトマンズへおいでくださいました。お待ちしていました。さぞや、お疲れになられたことかと存じます」とラルが礼儀正しく言った。

 ラルはカトマンズの国立トリブバン大学を優秀な成績で卒業後、旅行業の傍らカトマンズ日本語学院で日本語教師としてもネパール人に日本語を教えているだけに、全てに配慮が効いており陽一はホッとして車体にTOYOTAと書かれた迎えの車に乗り込んだのである。後部座席に座ると、あらためて運転席と助手席のラルとテマリに「こんなに夜遅くわざわざ、お出迎えありがとう」と礼を述べた。
 ラルの運転する車は、そのまま人っ子一人通らない、幽霊の町と化した未舗装のデコボコ道を延々と走り続けたが、陽一にはなぜか月面着陸した直後の宇宙船がデコボコ道をバンザイを叫びながら走っているような、そんな不思議な感慨にとらわれた。中古のトヨタ車、コロナはまもなくカトマンズ市のど真ん中にあるカトマンズリゾートホテルに到着。その夜、陽一は死んだ如くに眠り込んだ。

 4.
 ネパールペンクラブ会長のラム・クマ―ル・パンディ夫妻(左端の2人)=夫妻の自宅で
 

「ニホンと、ここカトマンドゥの決定的な違いは子が親を思うかどうか、ですよ。その何よりの証拠が〝あなたは会社と親のどちらの言うことを聴きますか〟というアンケートに対する答えです。会社と答えるニホンの若者が圧倒的に多かったのに対し、この国の場合は間違いなく全員がイの一番に親です、と答えます。ここでは、親は絶対的存在なのです。」
 歩くしぐさから、首の振り方、身ぶり手ぶりよろしく表現する話し方、思いつめた額の皺…。何から何まで、かつて刑事コロンボ役を務め日本にもなじみのファンが多いピーター・フォークの生まれ変わりと言ってもいい、色白で理知的なツアーガイド、スシルだ。彼は歩きながら陽一に向かって延々と話し続けた。

 スシルは、四十歳ぐらいだろうか。カトマンズを代表する働き盛りの日本でいうインテリジェンスとでもいえようか。そのスシルとカトマンズのデコボコ道を並んで歩きながら、陽一はこの国に残された大切なモノの存在を痛いほどまでに感じていた。
 デコボコ道には至るところ埃が立ち、そのなかをマスクをした女性や通学途中の子どもたちが忙しげにそれでも黙々と歩き、そんな人波をかき分けるようにしてバイクや女性の乗るスクータが我先に、と通りすぎてゆく。人波の中に夥しいバイクや車が絶えず警笛をならし前から、後ろから、左右から、とそれこそ重層となって折り重なって走っている。そんな感じである。
 それにしても、よくぞ事故が起きないものだ、と感心してしまう。みな軽業師さながらに、綱渡り同然の運転だが不思議と事故はない。

 そして。道路という道路は未舗装のデコボコ道で、平らというよりは大半が上り下りのどこまでも坂道であり蛇行が続く、といった按配だ。日本に住む普通の人間なら、しばらくこの轟音まじりの喧騒のなかに立つだけで神経という神経が逆巻き、気が遠くなってもおかしくないのに。カトマンズの人にとっては、これが普通の生活スタイルなのだ。一人ひとりが、とても逞しい。

 陽一は、そんなゴチャゴチャ道を歩きながら、自信に満ちたスシルの矢継ぎ早な物言いを耳に「いや、日本の若者たちだって親か会社かどちらの意見をきくか、と聞かれたら、本心では大半が親だと思っているに違いない。ただ、世間体というか、社交辞令のようなものがあって会社と答えるだけ、なのでは。会社と答えるのは何も親の意見はダメというのではなく、日本人特有の謙譲の美徳からなのだ。そのまま受け取ってもらっては困る」と心のなかで反論。「そうでしょうか。私は、そうは思いません。日本の若者たちだって、親のことを真剣に思っているはずです。」と言い「ただ日本の若者の場合、どちらの意見を聞くと問われたら会社、と答えはするが親を大切にする気持ちはまだまだ残っていますよ。そう決めつけられても…」と言葉をつないだ。

 でも、スシルは気に入らない。
「ヨウイチさん。そうでしょうか。私はそうは思いません。日本の若者たちの心は今や、親から離れていきつつあります。私自身、ニホンのチバケンで半年ほど留学し日本語を学びました。あのときのニホンの若者たちの様子からして、そうはとても思えませんでした。むろん、人間である以上、だれもが親や妻、兄弟を大切にしなければならないことは世界共通、いや、人類共通です。でも、ニホンの若者の場合、カトマンズに比べ行動が伴ってはいないのです。親をおろそかに扱っています」
 スシルは何を思ったのか、喧騒のなかで立ち止まって陽一を振り返るとジェスチュアたっぷりに自信満々の表情でこう言ってのけたのである。
「やはりスシルの言う通りかもしれない。言っていることが、俺より正しい。ニホンの若者たちの心は確かに親から離れつつある…」
 陽一は天を仰いだまま、まるで敗北者のように自身に「ウン」と頷いていた。

 傍らを後ろに女性を乗せた男たちのバイクが轟音をがなり立て砂埃をまき散らしながら我が物顔に走り去っていった。カトマンズでは、夫婦がどこへ行くのにもこうして一緒にバイクで行動する場合が多い。後ろで夫の腰に抱きついている女の方が危険なはずなのに、なぜか、運転する男だけがヘルメットで重装備をし、女は無防備のままだ。
 再び歩き始めると、いつのまに来たのか。傍らのテマリが「ヨウイチさん。でも、この国の若者たちって。好いところばかりじゃなく、悪いところもいっぱいよ」と口を開いた。
「たとえば仕事。きょう命じられた仕事を日本のようにその日の間にすることは、めったにないのだから。一日たって痺れを切らして催促すると、やっと始めるというパターンがふつうです。怒ったところで馬耳東風で、知らんぷり。だから、根気よく早く仕事をするよう諭すほかないのです。」
「その点、ラルやスシルは日本人よりもテキパキと仕事をこなしてくれるので助かっています」と付け加えることも忘れなかった。

「ウンウン、そう言うことはあるネ。僕たちニホンジンのよいところ、ミナラッテいるのです」とスシル。
 ダルハール広場まで来たところでテマリは「あたしは、仕事があるので。スシルさん、あとはヨウイチさん。お願いね」とだけ言い残し、小路の雑踏のなかに消えていった。陽一は、そのまま日本語に秀でたスシルの案内で、国際ペンクラブ会員でこの国を代表する詩人の一人、ビスマ・アプレッティさんと事前に約束しておいたレストランへと向かった。
 この日は引き続き、夜はテマリも加わってネパールペンクラブ会長、ラム・クマ―ル・パンディさんを郊外の自宅にまで訪ね、思ってもいない歓迎を受けた。陽一にとっては、二年前に東京で開かれた国際ペン大会いらいの再会で日本とネパール両国の、互いの文学観について話は延々と続き、留まるところがなかったのである。
 陽一は、つくづく思い切って、このカトマンズに来てよかったと思うのだった。
 
 5.
 陽一がカトマンズに来て三日が過ぎていた。
 いつもフロントに陣取るハンサムな支配人と女性スタッフはじめ、朝のバイキングをセットする食堂の若い陽気な男性スタッフたち、カラフルな民族衣装に身を包んだハウスキーパーのチャーミングな何人かとは、もうスッカリ顔なじみである。

 陽気な男性スタッフたちと、陽一が毎朝口にしたバイキング料理。とてもおいしいヨーグルト(残念ながらコップの中)も

 カトマンズリゾートホテル4階の自室「フィッシュ・ティル」。
 陽一はいま、ここの深々としたソファに身を預け、半分これまでの疲れを癒やして瞼を閉じ、ただ一人過ぎし日々のことを振り返っていた。
 かつて編集局の一人のデスクとして日本の新聞社に在職中、旅の取材手配はじめ、仕事とは別に彼自らが主宰して始めた文庫本同人誌「熱砂」の同人仲間としても何かと助けられてきたテマリ。そんな彼女がある日突然、自分の前から姿を消したことにある狼狽を覚えた日々のことを思い出していた。
 あれは確か二千七年秋、中日ドラゴンズがプロ野球のセ・リーグ2位でCS(クライマックス)戦を勝ち抜き、続く日本シリーズでは実に五十三年ぶりの日本一に輝いた、守り勝つ【落合博満竜】が火を噴き、ナゴヤドームが沸きにわいた、そんな年だった。それまで同人誌の集まりとか、取材の件などで何かと連絡を取り合っていたテマリからの音信がピタリと途絶えたのだった。
 テマリの身に一体何が起きたのか。心配で眠れない日々が続いた。

 それだけに、昨年の正月になり思いがけず、日本から遠く離れたカトマンズから届いた一通の賀状には仰天した。何か、日本で気に入らないことがあって海外に逃亡していたのか。それとも新しい目標ができたのか。猪突猛進的な面があるテマリなら、何かのきっかけがあれば、それに触発され行動に移しても決しておかしくはない、やりそうなことである…と思うと同時に、陽一はふと安堵の気持ちになった日のことを忘れない。

「いまは彼とカトマンズで旅行業に従事しています。元気でいます。ご安心ください」
 ヒマラヤ連山とネパールの王宮をバックにしたカラーの絵葉書。その葉書には、テマリ独特のあの丸々とした字体で遠慮がちに、それだけが書かれていた。陽一は、あの日それまでたまっていた胸のモヤモヤが一瞬のうちに消え去り、天から新たな光りが射してくるのを実感として覚え、喜びをかみしめた。

 でも、ここカトマンズにきてテマリが最愛のラルと、この数年の間にいかに壮絶かつピュアで、難解な恋におちていたか、をそれこそ感覚的に知ったのである。それは壮絶を通り越し彼女ならでは、の逞しい精神力と行動力、そしてラルを思う熱愛、つかんだら離さないロマンスだったのかもしれない。
 ふたりの愛の結晶、いや魂はこの地で見たラルのしぐさ一つひとつからも伺われた。ラルの両の目から放たれる強い光り、からだのしなやかなこなし、フランスの名優アラン・ドロンをしのぐ端正なマスク、いつも前向きで控えめな姿勢、相手の立場を見極め最優先させる丁寧な受け答え、家族愛、さらには周りを明るくさせるユーモアと笑顔といったら半端じゃない。

 実際、最初はテマリがラルに惚れラルがテマリに吸い寄せられたのか。いやいや、逆でラルがテマリに惚れテマリがラルに夢中になっていったのか。真相のところは二人にしか分からない。もしかしたら、全部が当てはまるかもしれない。
 こちらにきて以降、ふたりとは町角のレストランとかカフェショップとか、日本料理の店とか、時には大家族一緒に暮らす夫妻の自宅にまで招かれた室内で…。雑談がてらカトマンズの詩や俳句をはじめとした文学論や新聞、放送のこと、日本の話などをあれやこれやと話し合った。

 あるときテマリが陽一に向かって「私、実は何人かの日本の男性に求婚されました。皆さん、ステキな方ばかりでしたが、どうしても一歩、踏み込めないところがあって」と告白調に言うと、ラルも負けてはいない。「ヨウイチさん、ボクなんかテマリが〝オヨメサンになってください〟と求められた男性の数に比べたら、三倍ほどの女性に言い寄られました。みな、とてもよい方ばかりでしたが、ボクの方もテマリと同じで惜しいことにハヤマッテ、ぜ~んぶお断わりしてしまいました」と笑ってみせるなどした。

 こんな二人を目の前に、陽一は雑談の中で交わされる断片のひとひらひとひらを貴重な二人の歴史だと思い、そうした言の葉の数々を自ずと拾い集めている自分自身を感じていた。
―ヨガの旅のガイドとして、ある日突然、ヒマラヤ連山直下のカトマンズでテマリの前に現れ出たラリ。ラリは日本人観光客に対してはむろん、テマリに対してもとても親切で底抜けに明るく陽気だ。同じ旅行業界に従事し、そんな彼にテマリの心が次第に魅かれ以降、テマリの頭から〝カ・ト・マ・ン・ズ〟の五文字と〝ラ・ル〟の二文字が離れなくなっていったのも事実のようだ。恐らく、陽一にはとても知り得ない環境のなか、その後も力を合わせ幾多の困難を乗り越えてきたからこそ、ふたりの「今」があるに違いない。

 陽一は二人がここまで辿り着いた奇跡について敢えてそれ以上にくどくどと聴くことは差し控えた。聴くよりも、むしろ自然体の会話や動作のなかで二人の歩んだ道を頭に留めておこう、と単純に思った。

 朝の出勤時。テマリはラルの腰を抱きかかえるようにしてしがみつき、バイクの後ろに飛び乗って共に仲良く出勤する。ヘルメット姿のレーサーさながらの男の背中には、グリーンのワンピースと真っ赤なスカーフがとてもよく似合い、髪を靡かせて愛する男、ラルとともに出勤するテマリの姿があった。その光景は当初、とても違和感をもって陽一の胸に迫ったが、陽一自身、ラル夫妻の自宅から街中までをスシルの運転するバイク後部座席にしがみついて体験した時、この国の気性というか、そうしたものがなんとなく分かる気がしたのも事実だ。
 イイ歳を重ね、バイクの後ろに乗せられ疾走していると、ナンダカ英雄になったようで陽一自身、この国の気風に心身とも染まり、同化してゆくような、そんな不思議な気持ちにかられゆく自分を痛いほど感じた。
 かといって、疾走する目の前はどこまでも延々と危ないデコボコ道が横たわっているのだ。その危険な道こそがテマリとラルにとっては、さらなる前進、より幸せな門に通じているのかもしれない。デコボコ道の波動が二人の胸に調和し、無言の音を奏でて応援してくれているのだ。   (続く)