特集『4000字小説』「ヴィレッジ バンガード」

 何故その話題が出たか忘れてしまったが、テレビの放映中、北野タケシが新宿にあった「ヴィレッジ バンガード」というジャズ喫茶の名前を出した。たけしは今じゃ大エンタテナーになっている。その彼がヴィレッジ バンガードでボーイのバイトをやっていたという。トイレ掃除の様子も語っていた。とにかく汚い店だった。とくにトイレは小便の汚い、大便の汚いが充満していたし、便器のまわりは幾度新聞紙を取り換えても小便でべとべとになった。その店に永山則夫がやはりアルバイトをしていたとタケシは言った。
 私も友人と数回その店へ行ったことがある。もう四十年以上も前のことだ。タケシ、則夫、そして私の接点。耳が痛くなるようなJAZZの音、ソニーロリンズ、ジョン・コルトレーン。休暇で新宿へガールハントに来ているベトナム従軍兵、それ目当ての娘達。地方出身のお上り青年。その三者が、ごちゃまぜに酒を飲んだり、踊ったりしていた。中にはトイレでセックスをするカップルもいたらしい。   
 私はこう思う。タケシは新宿で青年期を過ごしたから、気違いじみているし、則夫と同じ血の臭いがする。当時の新宿が気違いじみていたし、いつも血の臭いがしたのと同じように。
 ベトナムから持ちこまれる血の臭い、それは新宿のあらゆる所で漂っていた。処々にあるミリタリーショップではベトナムから送られて来る戦死者? からの洋服、ズボン、寝袋、が売られていた。どす黒い汚れの後は、洗っても洗ってもとれない血の跡だ。若者達はそんなことお構いなく買っては身につけていた。
 今でこそ遺体が運ばれた血塗りの寝袋に入る者などいないだろうが、則夫の感性はその時代のものであり、タケシも私の中にも同じ類のものがあった。アメリカの後方基地にいる私達は嫌おうなくベトナム従軍兵士と同じくベトナム戦争に感染されていたのだから。たった一、二日前まではベトナムで殺し合いをやっていた兵隊達。新宿中に血の臭いが充満するのは当然だ。ヴィレッジ バンガードで酔いつぶれる兵隊、ベルトに挟んだ短銃。テーブルの上にはLSD。彼等の脳裏には原色のジャングル、新鋭のプロペラマシーン、撃ちまくる。突然アオザイを着た娘が裸になり始める。なんて華奢なんだ。俺はセックスマシーンだ。兵隊が叫ぶ。プロペラのように腰を動かせ。叫べ、叫べ、ベトナム娘よ悦びの声を上げろ、死ぬ時のように、多くの戦友達が血にまみれ逝ったように。
 則夫は、そんな兵隊から短銃を奪ったのだろう。わざわざ基地まで盗みになんて行くもんか。平和な日本と新宿、そこには余りの違いがあった。MPが居たろうって、おおざっぱなアメリカ人がいちいち休暇に出る時身体検査するもんか。十九口径の短銃なんて何処でも隠せるさ。ある意見で則夫も米軍と同じようになっていった。殺すことに興味を覚え始めた。俺は戦士だ。この米兵達と同じようにさ。
 タケシの青春期、新宿ではあらゆる芸術が花開いていた。天井桟敷、暗黒舞踏、エロもグロもチェ・ゲバラのTシャツさえあった。タケシの狂暴性、異形な何か、あの時代にいたから育った。
 私の大学は目白にあった。新宿とは近い。私は新宿という魔宮に毎日のように踏み入れた。そこにはいつも何かがあったから。
 先日、友人に電話を掛けた。
 「ヴィレッジ バンガード覚えているか」
 「何んだ株の話か、ヴィレッジ バンガード今日幾らになっているか見てみるから待て」
 「違う、違う、東京時代よく行ったJAZZの店だよ、そこに北野タケシが働いていたんだって、永山則夫が働いていた店だよ」
 「なんだ、そんな話か」
 株に夢中の友人は、昔のことなどどうでもいいようだ。
 それ程に時代は変化している。私はヴィレッジ バンガードなんていうネット販売の会社等知らなかった。年間五十億円も売っているという。そんな会社がいくつでもあるのだ。
 私は完全に時代にとり残されている。友人は日本と次男のいるドイツに口座を持って二十四時間株をやっている。かと思うと朝、アメリカの株式を見た後、数時間の山登りをする。長男はブラスバンドで全米一位になり日本に一人しかいない審査員だという。三男は吉本興業から引き抜かれてナベプロに入った。友人は国際通でもある。彼と話していると勉強になる。彼の叔父さんは稲川会の副理事長だった。友人と親分の家へはよく遊びに行った。
 四十歳代に瀬戸一家と抗争事件をやった頃の親分は、色は浅黒く肩が張り目が怖く周りを威圧していた。近付くのが怖い程だ。その後、愛知県の反山口系を束ね子分三千人の大親分となった。しかしその組織が守り切れず小指を切って稲川の親分の所へ持って行った。感激した稲川の親分が友人の叔父さんを副理事長にした。
 長男が不慮の死を遂げ、数年前に見付かった肝臓ガンが悪化し、五十五歳を過ぎるとお邪魔してもまるで好々爺のようになり孫と遊んでばかりいた。その叔父さんも二年後に亡くなり私は喪式に行った。寺の境代は男衆で一杯なのに見掛けた女性は数人だった。パトカーが寺の前に止まり、献花の名前を警察官が書き取っていた。大須事件以来の侠客の死は私には淋しいものに思えた。友人にも日本人が失いかけている侠気がある。唯彼が暴力団に入らなかったのは、韓国人であることと頭が良すぎたからだと思う。それに新宿の魔力に負けなかったのも、彼の生まれがもっと大きな魔を持っていたからだろう。
 西暦1970年前後を生きた青年にとって、その時代は自由と混沌が同居した時代だった。政治的にもアメリカの半ば統治下にいるものの、毛沢東他ゲバラの影響は大きかったし、核攻撃の不安な中に常に居たし、テレビでは最初の映像がケネディの暗殺事件だった。社会党の浅沼委員長が右翼の少年、山口一夫に演説会場で刺殺されたのもテレビが見られるようになって数年後のことだ。
 団塊世代に生まれた我々の世代は、親の世代が失なった日本精神のない何もない所から出発しなければならなかった。無論、アメリカ進駐軍が与えた憲法はあった。
 逆転した社会の中でも我々の世代にとって英雄は零戦であり戦艦大和だった。本当の戦争の姿も知らずに。
 大学は七十年前後、荒れていた。浅間山荘事件までが組織的行動が可能だった学生運動の盛り上った時期で、それが終ると急速に衰え、もう四十年近く学生運動らしきものがなくなっている。学生に変ったのがオウム事件である。麻原は本格的にクーデター事件を考えていた。それから十数年経っている。もうそろそろ日本の何処かで新しい政治運動を考えている組織が出来るだろう。
 バブル崩壊以後の二十年、ますます未来がなくなってゆく日本。これ以上悪くなるとクーデターの可能性が出て来る。
 麻原は、機関銃を量産しようとし化学兵器を造り、自衛隊や警察のエリート達とも関係を持った。もう少し時間があれば日本にとってサリン事件ばかりでなく、もっと危険な状態になったろう。ただアメリカはオウムの動きを相当知っていたようだ。
 随分話しが広がってしまったが、新宿の話にもどそう。
 数年前、ある会議で東京へ行く機会があり私は早めに会議を抜け出し新宿へ行った。
 私が東京にいた頃の新宿より荒れている気がした。あの魅力に満ちた魔界、文化にあふれた、いつも何かを作ろうとしていた新宿は何処へ行ってしまったんだろう。
 ヴィレッジ バンガードも当然なくなっているだろう。見つけることは出来なかった。
 文化の崩壊と共に街も滅んでゆく。新宿は文化の街ではなくなり、金を余り持たない庶民の街になりつつある。いずれは古い小さなビルが壊され地上げされて大きなビルが立ち並ぶようになるだろう。しかし、もう新しい文化を創ってゆく力はないだろう。そして人々の記憶から忘れ去られてゆく。新宿騒乱事件のことも、喫茶店で学生運動家が密かにしゃべり合った事も、新しい演劇、舞踏、フォークソング、七十年安保闘争がアメリカの軍事体制に組み込まれる最後のチャンスだったことも。
 今世中国が日韓米の仮想敵国になり、日本はアジアの小国としてアメリカ、中国、ロシアからいつでも征服される可能性がある、そんなことあの当時考えたことがあったろうか。アメリカ、旧ソ連はまだしも、中国までも。
      (了)