権太の地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉

 

 朝。午前七時半。私はいま、太平洋上にいる。平和への使者たちが乗ったオーシャンドリーム号の9階デッキ。朝食後、“うみかぜ”にふかれて書き始めた。海からのかぜが心地よい。朝のうちホンの少しだけ横殴りに降っていた冷たい雨も午後には上がった。
 あと百一日である。百一日たてば、美雪と再会できる。(2012年年5月9日・記)
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 平成二十四年五月八日
 出港初日の五月八日。午後四時の出港を前に、私は第76回ピースボート地球一周の船旅出航式さなかに、甲板上部の赤い色の煙突部分に立って岸壁で見送ってくれているはずの美雪を探した。しかし、とうとう見つからなかった。ビデオを拡大して見送る人々を一人ひとり大映しにしていったのだが。変わり身の早い彼女のこと。自分だけが私の姿を認め、自らはどこかに影をひそめて身を隠していたのかしれない。彼女には若いころから、そういうかわいらしさがある。それとも、私との別れに耐えかねてセンチメンタルジャーニーになってしまったのか。

 横浜を出港後、私は甲板最上部デッキに出て携帯(スマートフォン)から電話したが、なぜか出ない。なんど電話してもメッセージをお願いします、の声だけが冷たく鳴り響く。私は受話機を耳にあてたまま「それでは、行ってくる。行ってくるから」と声を残したが、そのあとが続かず言葉に詰まった。
 アリガトウ、美雪。と心のなかで叫び礼を言うのが、やっとだった。寂しさが全身を覆う。涙がとめどなくあふれ出てくる。さようなら。また、会える。きっと。岸壁が少しずつ遠のいてゆく。この気持ちはピースボートに乗船した他のだれとて同じだろう。少し大げさかもしれない。でも、生きて元気に帰ってくるのだ。私は悲しさをこらえて、そう誓っていた。

 「あなた。一人で行かなくっちゃあ。いい作品は書けないわよ」と美雪は私の現役の記者時代に、長年をかけ自らせっせと蓄えておいてくれていた金をポンと惜しげもなくはたいてくれたのである(Lシングル・エコノミー、220万円。これにオプションなどプラスアルファを加えれば総額300万円近い)。
 その粋な気持ちを無視するわけにはいかない。本当を言えば、米ニューヨーク同時中枢多発テロの主犯とされ、アルカイダリーダーだったウサマ・ビンラディンの残影を求めて世界各地を取材してわたり歩きたいと思っていたのだが…。ピースボートの旅をすることになったのは、ビンラディンは昨年五月にパキスタンで殺害されてしまい当面、真剣に書く目標が崩れたこと。そしてピースボートに乗船する若者たちの世界平和に対する現実の取り組みを、この目で見て確かめたかったからだ。
 むろん、昨年暮れに新聞社を勇退。作家・伊神権太としての新たな旅立ちに、というある種の決意もある。船旅の期間中に、〈平和へのメッセージ〉発信はむろん、これまでに温めてある素材をかみくだいて私ならでは、の短編小説数編も書けたら、と思っている。

 プオォ、ヴ、ウォーッ。プオーッ。汽笛の音に船上の私、そして岸壁に立つおまえ。霧のように海面に降り注ぐ雨たち。いろんなものがないまぜとなって、ある種の見えない心が互いに融け合い、かぜに流れて海面に消えた。こんなわけできょうからは伊神権太ならでは、の世界を百日間書き続けていく。これは私から読者に届ける愛歌でもある。
 出来たら、世界中の人たちと〈海を感じる心〉をこの地球一周の船旅で共有し、寄港した先々では何らかの方法で「伊神権太が行く平和へのメッセージ 〈その町で 私はいま〉」を発信していきたい。そういえば、もう何年になるのだろうか。かつて三重県志摩半島で駆け落ち逃亡記者生活を始めた二十代のころ、土地の郷土史家に教えられた言葉が補陀落浄土だった。人は海から生まれ、海に死んでゆくーという。だったら、生きている間に海の強さと優しさを、もっと、もっと知っておきたい。

 この世には、よく似た人々がいる。きょうは乗船前に現役の記者時代に能登半島でことのほか、お世話になった、今は亡きテルさん(女傑新聞販売店主)そっくりの女性と声を交わした。まさにテルさんが目の前に現れ出たようだ。四国の今治から友だちと乗船したという、その女性はチズさんと言い「なんだか存在感があって、乗船客のなかのドンみたいな感じだよね」とは見送りにきた美雪の第一印象だ。チズさんからはリポビタンの差し入れまでいただいた。
 能登半島の七尾といえば、もう一人。その町で宿を営み、〈海を感じる心〉を国内外に発信しようと、かつては私と一緒に「海の詩(うた)公募」事業の仕掛け人となった若き日のサタミさん(当時は七尾青年会議所メンバー)が突然、目の前に現れ出たのには驚いた。場所はドリームズ号9階の海に面した洋上居酒屋「波へい」で、だ。海風に吹き付けられながら、半分、少しだけ凍えながら熱燗をチビリちびりとやる。
 カウンター席に座るや注文を取りに来た若いインドネシア人・アリくんが、サタミさんそっくりだったのだ。そればかりか、バリからきて「波へい」で働くチャーミングな女性スタッフ(名前は知らない)も私たちの文学同人誌仲間によく似ていた。海は真っ暗闇。ここで出会った人々はこの広い地球上で初めての人たちばかりだ。今宵。太平洋上の海からのかぜは強い。船は紀伊半島を南下し、西へ西へと進んでいる。

平成二十四年五月九日
 午後のいっとき。私は黙ったままじっと海の一点を見つめている。人はみな、地球というこの星の船員である。泣いたり、笑ったり、悲しんだり、喜んだりする。そうした喜怒哀楽があればこそ、の人生だ。
 きょうはライトと反射板、笛の三種の神器が備わった救命胴着を手に午前中、緊急避難訓練に参加。午後は七階アロハデッキ前方のラウンジ・ブロードウェイで船内生活に関するオリエンテーションが一時間十五分にわたって行われ、さらに夜の食事(ウエルカムフォーマルパーティー)…と、“海の旅人”たちの一員として、安全確保と旅を楽しくするためにも、どうしても聞いておかなければならない行事などに追い回された。
 合間には、ピースボートの自主企画相談窓口にも顔を出し、担当女性の谷村さんに私が計画する〈平和のメッセージ言の葉流し〉の趣旨説明をするとともに賛同者を集める方法を伺ったり、船内新聞の編集局ともいえる新聞局に徳田なつき女性局長を訪ねるなどした。また洋上のためだろう。今のところ、電話はむろんインターネットもダメだというのでカウンターでたのんで美雪あてにファックス(一枚1000円)を送ってもらったが、まだ送信できない状態が続いている。
 それ以外には、合間に荷物をほどいたり、こうしてデスクに向かい〈海にふかれて〉の新しい連載ものを執筆するなどし、あとは船内をあちらに行ったり、こちらに行くなどさまよったりしていた。それでも何とか私なりの生活スタイルが少しずつ出来つつある。

 夕食後、シャワーを浴びた私は散歩がてら9階デッキにある居酒屋「波へい」へ。ここでお会いしたのが私と同じ、満州は奉天(現瀋陽)生まれで茨城県つくば市からお出でになった中島清明さん夫妻だった。奥さまの話によれば、私より十歳ほど上の清明さんはピースボートに乗船する日を何年も前から楽しみにしており、ピースボートに関するありとあらゆる資料をまとめ「あの日 あの時 あんなこと」といった本に自費出版でまとめられた、のことだった。温厚で奥さまを大切にされている様子がよく分かった。
 「波へい」からの帰り道。乗船当初岸壁に立つ美雪との目印としていた赤い煙突下のデッキまで行き、ここで今度の旅で初めて横笛を夜の海と空に向かって演奏してみた。ふいたのは「さくらさくら」と「酒よ」の二曲である。夜のシジマをどこまでも分け入ってゆくオタマジャクシたち。海面上に流れる笛の音には、そこだけにしか感じられない情緒と光があった。

【出会った人々(印象的な言葉も含む)】山田実奈海さん(所沢市)石井徳樹(さいたま市、「旅人 石井徳樹」の名刺を手に「私はピースボートのリピーターです。南極にも行き世界中を訪れています。以前、船内自主企画で血のつながらない人間同士で“船内家族”までつくっちゃいました。年に一度は日本のどこかで会うことにしてますよ」)村田俊一(東京都新宿区)小林洋子(神奈川県高座郡寒川町)小林さん母娘(女性、千葉県松戸市)、木村さん(岐阜県大野町、大学生、「お父さんが猛反対したけれど、来ちゃいました」)

平成二十四年五月十日
 朝から好天である。私はきのうの朝と同じ9階デッキ右舷テーブルの片隅にただ一人座り、海を見ている。あと100。百日たてば、みんなに会える。テーブルには『本日時差が発生します。24時になりましたら、手元の時間を1時間戻してください』との案内プレートが置かれている。

 どうやら船内生活中は、この場所が私だけの指定席になりそうだ。美雪はいないが、彼女の心はいつだって私の傍らに潜んでいる。そう思いながら海のかなた向こうに指をさしながら「アッ、クジラだ。クジラの大群が近づいてきた。みゆき、クジラが来たぞ。クジラだ」と叫んでみる。
 こんどは「何を寝ぼけたこと言ってるのよ。もう、だまされないからね」。目の前に大きく迫った彼女の笑顔を振り払う。朝食後のコーヒーを飲み新たな短編小説への構想を巡らしたあとは、あの赤い、いやオレンジに輝く煙突のところに行き、ここを出発点に船の最上部デッキをひと巡りしてわが船室5046号室に戻った。

 きょうは午前中、ブロードウェイのアロハデッキで今回クルーズディレクター・井上直さんによる出航記念トーク笑「ピースボートの魅力大航海」を、午後も同じ場所で洋上のモンテッソーリ保育園「子どもの家」のアドバイザーで知られる深津高子さんの講演「平和は子どもから始まる」をお聞きした。
 井上ディレクターの過去、現在、そして将来に至るピースボートの取り組みをお聞きするに及んで「そうか。そうだったのか」とその存在価値を痛感。深津さんの話もポルポト政権下の大虐殺に伴うカンボジア難民の悲劇にあらためて平和の有り難さとこどもたちの力を知るに及んだ。深津さんは冒頭パリの本部に掲げられているユネスコ憲章前文を引用し、「戦争は、人の心の中で始まるものだから、人の心の中にこそ平和の砦を築かなければならない。」とも訴えられ印象深く思った。

 平和と言えば、私がきのうピースボート事務局にあらためて提案させていただいた〈伊神権太がゆく世界紀行 平和へのメッセージ言の葉流し〉発信を、さっそく実現させましょう(船内映像チームリーダー・高木應=タカギアタル=さん)いうことになり、映像チームの船内チームミーティングにも初めて参加させていただいた。アタルさんら若者の情熱と理解、協力でいよいよ私の目指す〈平和へのメッセージ〉が世界の各国に発信されることになりそうだ。

【出会った人々】高木應(タカギアタル、ピースボートの映像チームリーダー、神奈川県川崎市)徳田なつき(同船内新聞の新聞局長)

平成二十四年五月十一日
 午前五時半のデッキ。朝早くから、この船上の地球村に住む多くの人々が歩いている。私は一角に隠れ家めいたところを見つけてハーモニカを取り出し、海に向かって〈菜の花畑に〉を演奏。その後〈ふるさと〉〈仰げば尊し〉〈フランク永井の、赤い日青い日〉の順でふいてみる。
 菜の花畑に…をふいてしばらくすると、偶然近くで“ナノハナバタケニイリヒウスレ…”といったコーラスが聞こえてきたのには驚かされた。まもなく傍らを通りかかった奈良から訪れたという女性板谷さんは「あぁ、あなたでしたのね。ふいていたのは。私もハーモニカ、持ってこれば良かった。それにしてもお上手ですわ。私の友だちにふける方がおいで、ちょうど習っていたさ中でした。まさかハーモニカをふける人がいただなんて」の弁。 
 しばらくすると、傍らを通り過ぎたまた別の女性が足を止め「アタシも(バイオリンを持ってきているから)弾こうかしら」「弾く場所を探してるんですよ」と言って立ち去った。

 ハーモニカをふいたあと、私は船体に大きく〈OCEAN DREAM〉と書かれたその下の椅子に座り海を見つめている。海はきょうも晴れ、白い波頭が海面のあちこちで顔をのぞかせている。私の心を攻めたてる如くサアーッ、さあーっという音たち。一瞬吹くかぜまでが一緒になって私のなかに迫ってくるのが、よく分かる。
 2羽、3羽、4羽。白いカモメが海上を上に下に、左に右にと旋回しながら水平飛行をしている。時折、トビウオたちが大きく空高くジャンプし楽しそうに飛んではしゃいで、また海に消える。「トビウオが飛んでいる。とんでいる」。船べりから海を見つめる男たちの声が迫って消えた。クァッ、クア。ヒュー、ヒューウル。白い腹に黒い翼の鳥たちは、とてもいろんな鳴き声を出す。日本で私を待っていてくれる、愛猫こすも・こことシロちゃんに聞かせてやりたい。今は現地時間午前7時40分。そろそろ朝食に出かけよう。

【出会った人々】坂ちゃん(三重県鈴鹿市、デッキでストレッチ。昨夜、24時になったら手元の時間を1時間戻すことになっていたが、ついうっかり忘れてしまっており、やり方を教えて頂いた)板谷さん(奈良市)

平成二十四年五月十二日
 午前五時半過ぎ。オーシャンドリーム号は厦門(アモイ)に入港、まもなく接岸した。
 霧に煙る厦門は高層ビルが立ち並び、横浜のベイブリッジと引けを取らない大きな橋が前方にかかっており、さすが経済特区ならでは、の大都市には圧倒された。街全体が巨大化の一途をたどっている。大国・中国の底知れないエネルギーを感じた。波止場で〈熱烈歓迎…〉の横断幕を掲げて出迎えてくれたのは、地元舞踊団による歓迎の踊り、そして横断幕を手にしていたミッキーマウスとドラエモンの縫いぐるみだった。    

 パスポートを手に入国審査を終え今回の船旅で初めて異国の土を踏んだのは、午前九時半過ぎだった。日本をたってから丸四日間、ここまで来るのが結構、長い道のりだった。でも、これからはこうして寄港地に着くたびごとに上陸し、その国々の人びとと交流することが出来ると思うと、なんとかノスタルジアも解消されるのではと思う。
 この日、私たち「家庭でお昼ごはん交流」の第2班は通訳の呉桂紅さん(23歳)の案内で一般家庭を訪れる前に、まず天王殿「千年古刹 南普陀 大乗精神利有情」という名前の寺を見学。この後に女子中学生のリンテイさん(林婷)宅を訪れたが、家ではリンテイさんのお母さんが手作りの料理とお茶、スープで私たち一行七人を待っていてくださった。餃子や炒飯、ニンジンと大根のまぜものなど、どの料理もおふくろの味そのものだった。

 私は一行がほぼ食事を終えたところでハーモニカを取り出し「菜の花畑」と「蛍の光」「仰げば尊し」をふき、一緒にお昼ごはん交流に参加した内田さんも見事な折り鶴をつくってみせてくれ、最後は私が持参した竹笛(横笛)で〈さくらさくら〉と〈酒よ〉の二曲を披露。思わぬ竹の音には、リンティさん宅に集まってくれていた3人の彼女のクラスメート(高校2年生)も大喜びだった。クラスメートは全員、アイドルの絵を描くことが大好きで話は大いに弾んだ。会話を交わすうち「私は毎日お母さんに電話します。お母さんに電話でき、聞いてくれることが一番の幸せです」「家族みんなが元気なら、それでいい」などといった言葉が相次いでいた。

 帰りには中山路に寄ったが、これまた大変な込みようで、ぶらつくうち新鮮な果物がヤマと積まれた光景には、ちょっぴり圧倒されたのだった。

【出会った人々】大分からきた高校を卒業してまもないウチダエリさん、大阪からの男性イケダさん、タイからピースボートに参加したポイさん、そして何といってもリンティさんとお母さん、クラスメート、通訳の呉さん。みんな家族を大切にする人ばかりだった。

平成二十四年五月十三日
 早朝。オレンジ色の太陽の日差しがユラユラと甲板に立つボクを射るように降り注いでくる。眩しすぎて思わず目をそらす。こんどは優しい笑顔で温かく包み込むようにして、かなたの空から胸底までとろけるような、それこそ、金粉でも散りばねたような。海面上に光の道を作ってくれている。
 かぜが心地よく、海面もシャー、サワサワと音を出している。海が「ゴンタさん」「ゴンタさん。いらっしゃい」と笑って話しかけてくる。この海のはるか向こうを思う。かぜが心地よく海面も波に揺れ、軽やかな音を出している。

 五日が過ぎた。あと九十七日だ。

 けさは午前八時から洋上カルチャースクールの社交ダンス【初級編】が始まった。これには、どうしても出なければならないので恐る恐る会場の8階プロムナードデッキ前方の、スターライトラウンジに出向いた。今回船旅に当たっての三百万円近い旅費すべてを「あなたへの投資よ。書いてきなさい」と背中を押し出してくれた、いわば私の命綱ともいえる美雪から「社交ダンスだけは覚えてきてね」と送りだされてきたから、だ。このプレッシャーは相当大きい。
 デ、初日の感想はといえば、社交ダンスにはラテン系とモダン系合わせて十数種類あるが、そのうちさぁっと踊れるものをやっていきたいーということで前半はブルース、後半はルンバの特訓を受けた。結構人気の講座で百人前後が見よう見まねのステップにいどんだが、私に限って言えば初日からなんだか自信がなくなってきた。でも誰かさんの厳命だ。というわけで、午後からも同じ社交ダンスを繰り返し学んだが、どうもステップの踏み方などがチグハグで、まだのみこめてはいない。

 日々の船内生活はこうして過ぎてゆく。
 きょう良かったのは夕方から7階アロハデッキであった「男か女? 決めるのは誰」の講座で、講師は今回クルーズの水先案内人の一人で昨日たまたま厦門の昼食交流でもご一緒した「タイ・トランスジェンダー同盟」のメンバーで人権活動家でもあるパニサラ・サクンピシャイラットさん(通称ポイさん)によるものだった。
 男か女か、は生まれた時に決まるもの? と日頃あまり思いもかけないトランスジェンダーの世界についての話は大変面白くかつ考えさせられるものだった。中でも、1億人のなかに染色体の関係で男とも女とも区別できない、いわゆるインターセックスの人が2千人も居ると教えられた事実には驚いた。ポイさんの講義は、今回海外からの水先案内人としては初めての講座だったという。

 この日はほかに、私の提唱で実現する平和の使者・ピースボートからの〈平和への発信〉、いわゆる“言の葉流し平和のメッセージ”のビデオ制作がいよいよ始まった。出港後、私が撮りためた映像を映像委員会リーダーのアタルクン(高木應さん)が編集、制作するもので、きょうはコンちゃん(映像委の女性スタッフ)による声の収録も終え、あとは冒頭の私による声の収録をするだけの段階にきている。

 夜は「波へい」でボランティアの若者中心による飲ミュニケーションが延々と続き私もつき合わされたが、若者たちの目は誰もが情熱に満ち溢れるものだった。私の目の前で「俺、この子と結婚することを今この場で決めました」と宣言する金尾クンと彼女の例まで飛び出し、ここには一種の船内コミュニティーが出来ているな、との思いを強くした。
 東北から親の援助に自らのアルバイト代を足して乗船したというAさんの場合、彼は不登校に陥り卒業証書を校長先生からもらった、その日にあの悪夢、3・11大震災が起き、彼はまさに校長室で「これから生き抜こう」と心に決め、以降、被災地でのボランティア活動と同時進行でのアルバイトを始め、親御さんの理解も得て思いきって地球一周の船に乗船したのだ、という。みんな、本当にいい子ばかりだ。
 私は「今の調子で自分の道を切り開けよな。親がどんなに喜ぶことか」と言葉を添えるのを忘れなかった。この船に乗っている若者たちは、みな自ら働いて得たお金を自分自身に投資して、それぞれの目的に向かってあがき、かつ進もうとしている。すばらしい若者たちだ。

【出会った人々】田中しの(大阪、北海道出身。お父上は北海道の業界紙のトップ)仙台から来た18歳の若者、20歳の金尾くん、コンちゃん、アディ(インドネシア人、波へい従業員)

平成二十四年五月十四日
 月曜日。早朝降っていた雨も今は止み、私たちが乗船するピースボート「オーシャンドリーム号」は穏やかな海面を一路南下、8階のプロムナードデッキに張られた海図によると、現在は海南島の上あたりの海上をシンガポールに向かって進んでいる。空を見上げると雲が流れている。海ばかりに気を取られていたが、雲だってそれなりの意識を持って流れているのだ。船内ではあるく人、講座を受ける人、コーヒーを飲む人、本を読む人、マージャンや将棋、囲碁を囲む人、卓球などのスポーツを楽しむ人、楽器を鳴らすひと……と、さまざまである。みな船内での、それぞれの生活スタイルを少しずつ整えてきている。

 それにしても、船内では未だにインターネットを使うことが出来ない(いまは14日午前11時半)。というわけで、私が船内生活を中心に書き進めているウエブ文学同人誌「熱砂」・伊神権太作品集への新連載〈海に抱かれて みんなラヴ〉のアップも出来ないままだ。電話は厦門到着時にいっとき甲板上で通じただけで、あとは船室からもかけられず、情報伝達の頼りは唯一ファックスだけという状態が続いている。
 というわけで、今現在は日本からの情報は途絶したままの状態が続いている。こんなありさまなので乗船前、ある民放ラジオ局との話し合いで持ち上がった週に一回の現地レポートも心配される洋上での回線状態の不安から止めておいて本当に良かった、とつくづく思っている(電話が通じない可能性があるので残念だが止めておこう、と最終的に中止になったいきさつがある)。

 きょうも前日に続いて朝食後の社交ダンス教室に参加。ブルースはなんとなく分かったが、ジルバの方がからだの動かし方とテンポの取り方が、どうしてもつかめない。午後も同じ教室に出てマスターしたく思ったが、〈権太が行く〉の冒頭の吹き込みの時間と重なるので、再チャレンジはあきらめた。代わりに吹き込みに英語も必要と判断、日本語と英語両方での吹き込みをなんとか終えた。既に同じ映像チームスタッフ・コンちゃんによる要所要所の吹き込みも終えており、あとはチームリーダーであるアタル君の編集・制作を待つだけのところまで辿りついた。

 この日の昼、私は吹き込み原案を誰もいない居酒屋「波へい」さんのカウンターで海風に当たりながら考え、ナレーションを終えたあとは、「波へい」スタッフのアリさんに、お礼として私の著書〈いがみの権太 大震災「笛猫人間日記」〉と「町の扉―一匹記者現場に生きる」をサイン入りで手渡し、バリ島からきてビュッフェと居酒屋の両方をかけもちで頑張る女性にも有松絞りのハンカチを渡した。アリにはご両親がいない。でも、アリは本当によく仕事をする。
 二人とも大変な喜びようで本とハンカチを贈ってよかった、と思う。横笛で〈さくらさくら〉と〈酒よ〉をふいてみせもした。日本がだんだん遠くなる。が、私の心のなかは一日一日とわが家に向かって近づいてゆくのである。愛猫のこすも・ここ、シロちゃんは元気でいるかしら。

【出会った人々】越中おわら風の盆の町・八尾からお出でになった七十代の男性(妻に先立たれ、今は八尾で一人暮らしだというこの方の弁は「いやあー、この一週間よい経験になりましたよ」だった。具体的にどんな経験をされたのか、はあえて伏せさせていただく)

 この日までに、私とコンちゃんがマイクに吹き込んだ〈平和のメッセージ〉冒頭のナレーションの内容を以下に記しておく。
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 権太がゆく世界紀行平和のメッセージ言の葉流し
 2012年5月12日早朝―高層ビル群が朝霧に浮かぶなか、私たち九百人の平和の使者たちを乗せたオーシャンドリーム号は静かにその巨体を岸壁に横たえました。「ピースボート」による第76回地球一周102日間の船旅が今月8日に横浜港を出港し丸四日間、この日最初の寄港地、厦門に着いたのです。(コンちゃん)
 私は日本ペンクラブに所属する作家伊神権太です。世界はいま貧困と飢え、病、東日本大震災に代表される災害、さらには戦争…と多くの問題を抱え、それでもこれら悪条件をはねのけて逞しく生きるこどもたちが数知れずいます。そこでピースボートに乗船したのを機会に、世界の人々は「平和」につきどう思っているか。平和な社会とは一体何なのだろうか、をピースボートの寄港する先々の人々や船内乗客の皆さまから拾っていくことにしました。題して「私はいま。世界のその町でー平和のメッセージ言の葉流し」。

 私が最初に足を踏み入れたのは、中国は厦門(アモイ)でした。厦門は経済特区だけあり高層ビルが立ち並び、中山路には人があふれ活気に満ち中国躍進のエネルギーを見る思いがしました。私は、その町でオプションツアーの「家庭でお昼ごはん交流」に参加。通訳の呉桂紅さんもまじえ、中学二年生の林さんらと母親の手料理を食べ、楽しいひとときを過ごしました。どんな時に幸せですか、と素朴な質問をぶつけると「友だちといる時」「お母さんと食事するとき」「ピースボートの皆さんが来てくれたこと」「家族と一緒で居られること」「お寝坊をすること」などの返事が跳ね返ってきました。
 そして通訳の呉さんの場合は「二年前に大学を卒業し、私は今とても幸せ。だって毎日、母と電話して話を聞いてもらっているのだもの。一番大切なのは家族です」の声が返ってきました。なるほど家族が大切なことは世界共通といっていいでしょうね。私も家族と離れているので家族のことをいつだって心配しています。
 私たちはこの日、街の中の寺「天王殿」を見学したり、中山路界隈を歩いてみたりしました。都心の至るところで、わが子の手を引いたお父さんやお母さんの姿に出会い、中には肩車までしてわが子とカッポする父と子が大勢いました。みな幸せそのもので「天王殿」の蓮池の前では生後一年の長男を寝かしていた若い母親が「何といっても、こどもの幸せは私の幸せそのものです」と語ってくれました。平和とは、を考える前に今の幸せを実感する一日となったのです。

 平成二十四年五月十五日
 朝食に九階ビュッフェに顔を出したら今治の彼女、すなわち女王蜂と一緒になった。「ゴンちゃん、こちらに来なさい」と手招きされ逃げるわけにもいかず、ちいさくなって食事した。
 同席にたまたま広島の呉からおいでの笹木夏子さん(82歳)がおいでになり、昭和20年5月3日に呉市を襲った米軍による大空襲の話をうかがった。当時、女子高校2年だった“なっちゃん”は1日中、防空壕のなかで怯え、死体の山のなかを家まで命からがら逃げた時の話をしてくださった。
 なっちゃんは家に戻ると半分、あきらめかけていたお母さんが「なんだ。生きていたのか」と抱きしめてくれた、その日のことが忘れられない、という。なっちゃんの話を聞きながら、だからなっちゃんは自らに鞭打ってこのピースボートに乗船されたのだ、と思い目頭が熱くなった。

 戦争告発といえば、シンガポール入国を前に行われた「過去の戦争を見つめ未来の平和をつくる」と題した船内セミナー(講師は、井上直ピースボートクルーズディレクター)にはいろいろ考えさせられた。1942年2月15日から1945年8月18日まで昭南島と呼ばれていたころのシンガポールでは日本兵による現地の人々に対する数限りない虐殺が行われていた事実を映像と日本兵、当時こどもで家族皆殺しに遭った現地人らの証言をまじえてひも解く内容で、私は日本人がかつてやってきた残虐な行為を決して許すわけにはいかない。
 たとえ、戦争中だったとはいえ、現地の子どもたちも含め海岸沿いに後ろ向きに座らせられ次々と銃で撃ったり剣で突き刺して殺すなど、絶対あってはならないことだ。私は、直さんのこの話を聞きシンガポール到着後のオプションを頼んでなかったこともあり、急きょフロントに出向き「『昭南島』の歴史を学ぶ」コースへの参加を申し込んだ。昭南島には、ほかに日本から船で渡った数知れない“からゆきさん”の無縁仏もある、とのことだった。

 なんだか、ちょっぴり固い話になってしまったが、美雪に免許皆伝の厳命を受けている社交ダンス教室の方も、きょうは朝、昼と続け、ブルース、ルンバともになんとなく入り口が分かってきたような気がする。これから暇さえあれば、ステップを踏み続けるようにしよう。途中で棒を折る、ことのないよう自らに言い聞かせている。

 午前中、降っていた雨も夕方には止んだ。8階海図が張られた掲示板によれば、本船のオーシャンドリーム号は、きょうの正午現在、ベトナム沖を南下、ボルネオ島とベトナムの間を一路、シンガポールに向けて近づいている。ちなみに厦門(アモイ)とシンガポール間の距離は1650マイル、約3000キロだという。

 このほか、午後4時からは7階ブロードウェイラウンジでのシンガポールへの寄港を前にあった全員参加の航路説明会に出るなど、きょうも目まぐるしい1日がアッという間に過ぎ去ろうとしている。深夜から未明にかけては〈権太が行く 平和へのメッセージ〉のナレーションに英語の添え書きをつけよう、ということになり、つい先ほどまで辞書を片手に英作文と格闘。午前1時半近い。
 相変わらず、文を書いている間にいつのまにか時間が過ぎてしまっている点では、わが家と同じことを繰り返している。インターネットも電話も通じないなか、美雪だけにはと、必要事項はファックスを流している。1枚送るのに千円、当然のことながら、お金もドンドン使うことになる。

【出会った人々】後藤京子さん(社交ダンスの先生、岐阜からお出でになった)笹木夏子(82歳、広島県呉市、戦時中に空襲に遭って命からがら逃げたことを話してくださった)
 それにダンスで初めてのお相手をしてくださった千葉の佐藤さん

平成二十四年五月十六日
 美雪から届いたファクスは「ちゃんと海と空を見ていますか。平和への発信もいいですが、もったいないですよ。対峙してください」というものだった。分かった。アリガトウ。

 午前中降っていた雨が午後には止んだ。
 きょうのトップニュースは何と言っても、きのうダンス教室でお会いしたばかりの佐藤さんに私の著書〈いがみの権太 大震災「笛猫野球日記」〉を一冊千円也、の定価でご購入していただいたことだ。船内での購読者第1号である。私はいただいた千円札を大切にして帰ったら美雪に直接手渡そう、と思う。この1枚の1000円は重い。
 それから5階レセプションでわが目に飛び込んできた言葉「旅が平和をつくり 平和が旅を可能にする」が心に残った。聞けば、ピースボートの運航業務を担当するジャパングレイスの社訓だという。なんだかホッとしたのである。

 それから、インターネットはおろか、電話も、携帯メールもダメ、と情報が閉ざされたなか、けさになり8階プロムナードデッキ一角に初めて日本のニュース(朝日新聞デジタル)が掲示された。  
 「金環日食 クライマックスは福島 郡山の仮設で観察会」「小沢氏、消費増税法案に改めて反対示す 野田政権と一線」(5月12日)「日中首脳会談 尖閣問題で応酬 野田首相『国民に刺激』」「福島の仮設住宅に花 描こう 福島の高校生20人」「白鵬連敗で3敗目 大相撲夏場所8日目」「巨人(ヤクルトに5―1で勝ち)今季初の勝率5割」「広島―中日は6―6で今季2度目の引き分け」(13日)「円小幅安、ユーロ103円台前半 東京為替市場」「(14日)などといった内容。なかに紹介されていた〈11月1日を「古典の日」にしようという「古典の日」法案を超党派議員が提出を検討している(12日)〉という話題には興味を引かれた。
 
 朝のうちは、ずっと雨。午後になり晴れた。
 きょうこそ、ゆったり〈海と空を見よう〉とは思うのだが。なかなか、船内はダンスやサルサなどの習いごとから、船専属バンドやピアニストの生演奏、洋上シネマ、語学講座、「世界遺産と私」といった講座の類、さらにはジャズの時間、オカリナサロン、ウクレレ教室などの各種催し…とイベントが花盛りで、目移りしてしまう。いつもなにかに追いたてられているようだ。それだけ、船内生活が充実していることも確かだ。

 そんななか、私は社交ダンスだけはマスターしなければ、と思い朝と午後の二度とも出た。ブルース、ジルバとステップを踏むごとになんだか楽しく心が弾んでくる。この調子なら、途中で挫折することなく、誰かさんに叱られることもなさそうだ。でも、まだまだ安心はできない。きょうはダンス教室に出なければ、の思いばかりが走って、あすのシンガポールAコース「『昭南島』の歴史を学ぶ」分科会に出ることをうっかり忘れてしまっていた。

 ダンスのあとは新聞局スタッフ・山田実奈海さんの取材を受けるはめに。マナイタのコイの心境とは、ああいうことだったのか。これまで人の取材ばかりをしてきた私としては、なんだかおかしな気持ちだ。写真は本と一緒に、とこすも・こことカメラに納まったが、さて、どんな扱いになるのやら。この後はパソコン教室にも顔を出したが、インターネットがまだ使えない状況のなかでの教室開催だけに、教える側も苦労していた。

【出会った人々】田中洋介(ピースボートスタッフ)ポール(名刺は「北海道 札幌Pセン ねこが大好きです。(シンガ)」)磯部弥一良(ピースボート事務局。滋賀県東近江町出身)

平成二十四年五月十七日
 夜明け前。シンガポール対岸の光が遠く微かに「何か」によろめくように近づいてきた。陸そのものが次第に少しずつ大きく眼前に迫り、見えない何かでボクの心を突いてくる。激しく船体を打つ雨の音。そして雷鳴、光。さらにはスコールの嵐。「もう、これは大変な観光になりますよ」とは傍らのデッキを通り過ぎた、ある女性の独り言である(あとから思うと、このスコールがあったおかげでツアーの間は時折、雨に降られたものの涼しく、むしろ快適に過ごせた)。

 午前六時。オーシャンドリーム号の全身がスコールと稲光、強風に激しく打たれ、船内八階では一部天井部分から雨が少しずつ漏れている。船内プロムナードのドアを開いて外を少しだけのぞいてみる。そこには、自然界が何かにいらついて猛り狂って私に向かって吠えたててくる姿があった。

 この日、私はかつて名古屋の航空記者クラブに所属していたころ当時東アジア航空の招きで訪れた時いらい実に三十数年ぶりにシンガポールの地に立った。あのころはチャンギ国際空港が出来たばかりで、当時の名古屋空港(小牧空港)に比べ、その規模の大きさに驚いた記憶がある。でも、チャンギ国際空港とは目と鼻の先にあるチャンギビーチを訪れたのはこれが初めてである。

 私はシンガポールA「『昭南島』の歴史を学ぶ」班の一員となって、日本人ガイド・田中早苗さんらの案内でチャンギビーチ、チャンギ博物館、戦後日本兵が人民を殺害した、いわゆる“血の罪”を負債したとされる「血債の塔(けっさいの塔)」、の順にバスで回り途中、オーチャード通りで降ろしてもらい、高島屋でタクシーを拾ってマーライオンの像と向かい合ったのち、タクシーで帰船した。
 マーライオンへは、この日朝初めて電話とメールが通じた際、オーシャンドリームズ号から、わが家に「これが日本への最初のメールです」と打ったのに対して美雪から「マーライオンはでむかえてくれましたか」の打ち返しがあったため、急きょバスを降り訪ねることにした。

 歴史を学ぶコースに参加したおかげで、昭南島の言われに始まり、日本中が歓喜した山下将軍とパーシバル将軍の停戦会談時の駆け引きと、シンガポール陥落に至るまでの歴史を詳しく知ることができ、戦争の愚かさをあらためて学ぶ一日となった。特に何も言わないチャンギビーチの波穏やかな砂浜に立ち、この浜で日本兵が多くの現地人を銃殺したり、銃剣で殺したのか、と思うと複雑な気持ちにかられた。
 博物館では、日本兵が浜に並ばせたこどもや大人に銃を向け、銃殺する直前の写真まで展示されており私は思わず戦争のむごたらしさに「なぜ」「なぜなのだ」と心の中で叫んでいた。このほか、明治のころから多くの女性が“からゆきさん”としてアジア各地を訪れた事実、「イギリス人が土木工事の技術を持ってきたのに対して日本人は料亭と女ばかりを連れてきた」といった笑えない話にも胸がつまった。

 私は道すがら、シンガポールの男性と結婚し永住権を得て今や日本よりもシンガポールの方が詳しいーというガイドの田中さんから教えられたひとこと〈FORGIVE BUT NEVER FORGET(許す でも忘れてはいけない)〉をいつも胸においておこう、と誓った。マーライオンは、わが家の愛猫こすも・ここちゃんの、あのドッシリと大河のような雰囲気によく似ていた。上半身がライオンで下半身が魚のマーライオンは、どこまでも雄々しく白い水を吐き出していた。私には、この地球上のすべての悪事を吐きだし浄化しているような、そんな気がしたのである。

【出会い】案内ガイドの田中早苗さん! 分かりやすい案内をアリガトウ。九州は宮崎から会社を早期退職してきたというデカ(刑事)タイプの技術屋金田さん(かなだと読み、かねだではないと強調)。札幌からの七十二歳の名無しの権兵衛さん(彼は元船乗り。乗客として一度乗りたいと話していたら娘たちがプレゼントしてくれた。イギリスに着いたら若いころから交流がある夫妻の家に一泊する、とのこと。利害がからまない、こうした旅は本当に楽しい。もしかしたら「毎晩、居酒屋でチビリちびりと飲んで結局やってることは同じ(権太とて同じだ)。ここは天国そのものではないか。それぞれに決断されてこの船に乗られたのでしょうが、皆さん良い顔をしていなさる。ピースボートがイギリスに停泊することは珍しいこともあって乗船した」とも話してくださった。

平成二十四年五月十八日
 きょうも社交ダンス教室に出た。これまでの四拍子のブルースから三拍子のワルツを教えていただき、引き続きルンバの基本を復讐する内容だった。音楽に乗せてのブルース、ワルツ、ルンバを踊ってステップを踏んでいると、だんだんと全身がなじんで楽しくなってくるから不思議だ。
 かつて暴れん坊記者だったボクがこうして踊っている姿をみたら、美雪はどう思うだろう。信じられない出来ごとが連日、こうして繰り返されているのである。踊るうち、なぜか彼女を思い出し「俺ばっかりが、こうしていて良いものだろうか」と目頭が熱くなった。「どうせ。期待はしていないのだから」と言うに違いない。みんなと一緒にこうしてステップを踏む俺のぶざまな姿に、信じられないと歓喜の声を上げるかもしれない。

 私は、それでも踊り続ける。続けよう。おまえのフォークダンスには負けるが社交ダンスなら、こんどは教えてやれるかも知れない。ステップを踏む人々は、皆人生の艱難辛苦を確かめるが如くにフォー、ワン、フォー、ワン。ワンツー、ワンツー…といってステップを踏んでいる。映画のどんなシーンよりも壮観である。ダンス、ダンス、ダンス(仮題)という名の人生をかみしめる短編小説が書ける気がしてきた。もしかしたら、美雪はこうした情景までを頭に描いていたのだろうか。私は彼女の手の中でダンスをさせられている。