小説「ジョン・レノンに捧げる『ビンラディンはいずこ』」(連載3)

                            
 
 
 9.
 私の前をもう一人の「私」があるき、私の後ろからも別の「私」がついてあるいて来る。

「キョウコさん? 京子のことですか。知ってるよ。いつやったか、島の船着き場の待合所でヒゲを生やした背の高い外国人と互いに手をつないだまま黙って海をみつめてた。何やら深刻めいた表情でいたので、声をかけるのもはばかれたんやて。だからな、あのときは声かけへんかった。何年ぶりかやったけど。キョウコ、ずいぶん美しう見えたっけ、それになっ、なんだか二人は夫婦のようにも見えたしな。わたしら口をはさめんような。そんな雰囲気やったんで。そりゃあ、懐かしかったよ。そのうち、キョウコが男の背中をいたわるように後ろから抱えて二人そろってポンポン舟に乗りこんでいったんやて。二、三年前のことで最近のことや。そのキョウコとは、それきりや。あっ、そうそう。あのときゃ、首に紫色の、それは鮮やかなネッカチーフをしてた」
 思いがけず、京子の所在につき聞かされたのは、二〇〇九年も明けてまもない一月十一日夜のことだった。
 私はその日、かつて京子とウサマ・ビンラディンが暮らしていたわいね、とナゾの男が断定調に口酸っぱく言う渡鹿野島を二〇〇一年の暮れいらい、ほぼ七年ぶりに訪れた。島内にその痕跡があるような気がしたばかりか、もしかしたら、二人とも何食わぬ顔をして本当に島で暮らしているのではないか、とそんな妄想にもかられたからである。それどころか、ヒョットしたら、あのナゾの男にも島で出会えるかもしれない…。

 その夜、私は船着き場を眼下に見下ろす島の老舗旅館T館で旅装を解いた。
 宿に着いた私は、さっそく、ひと風呂浴びたがガラス越しに広がる久しぶりの的矢湾には里帰りでもしたような感覚にとらわれた。まだ時間的にも早かったせいか、浴場には誰一人として入っておらず湯舟につかって海を見る幸せを味わいもした。湯舟の傍らには大きな真円真珠を抱いた裸体の女神像が置かれ、近くに真珠養殖で知られる英虞湾を控えた志摩ならでは、の風情を漂わせていた。ワタカノは、咲恵にとっても若い日々の思い出と重なり忘れられない島だけに、一緒についてきたら良かったのに。ふと、そんなことを思ったりした。
 京子のことに話しが及んだのは、風呂から上がったあと、目の前に料理を運んでくれた仲居さんに何げなく「あのう、キョウコさんって知ってます? 昔お世話になった方なんですけれど」と聞いたときだった。仲居さんは、順子と言った。
 彼女は「ここでもう四十年になるんですよ」とまず、自身をPRしたあと「だから、島のことならなんでも知ってる」とでも言いたげに「キョウコ言われたって、あたしが知ってるだけでも三人はいたからね。でもね、うち一人はなんでも大阪に行ったみたいやけど、他の二人はどこへ行ったのやら、知らぬ間にどこかに行ってしもうて。いま現在はキョウコちゅう女は、この島にいないね。あっ、そうそう。一人の娘(こ)がいつだったか、外国の男と手をつないで島に来たことがある」とあれやこれや、と島で働く女たちのことを話し始めた
 冒頭の話は、この仲居さんが引き続き、しみじみ語ってくれたうちの一節である。
 私は牡蠣の味噌鍋やら伊勢えびのグラタンと刺身、海鼠腸、車海老の炒め物、カレイの煮付け、サザエの壷焼きなど、ひととおりの料理が順子の手で食卓に並ぺられたところで、キョウコに思い当たる女性がいたかどうか、を聞いたのだった。

 食事を終え、しばらく文庫本「ゼロの焦点」(松本清張著)の最後の部分に目をとおした私は島内を歩いてみることとした。文庫を手に携えたのは、この本のどこかに京子をたどるヒントが隠されているかもしれないと思ったからだ。今度の旅はむろん、あのウサマ・ビンラディンと京子を探す手がかりを、この島のどこかに得るのが目的である。
 島内の町中を一巡する。ところどころで順子に似た年恰好の女たちが「アニさん、まだかいね。アニさんには、外人よりは、やはり日本人の方が、よかて。いるよ、たくさん」。私はその声を耳にしながら町の佇まいを検証するように歩いてゆく。
 「笑門」「千客萬来」。
 どの民家玄関先にも決まって立派な注連縄が飾られ、この島で働く女たちの世界とは、どこかで一線が引かれているようにも感じる。私は以前、この島を訪れたときのように、だらだら坂を上ったり下ったりしながら明かりを求めて、もしかしたら目の前にヒョッコリと、ビンラディンと京子が現れ出る、といった妄想に取りつかれながら見果てぬ道を彷徨うように一歩、また一歩とあるき続けた。途中、海の見える丘に立つと、月明かりが音もなく海面を照らし、別世界のなかに自分ひとりが浮いて沈んでいるような、そんな幻想に心身ともに包み込まれた。
 時折すれ違う若者たちは、おそらく先ほど宿を出がけに順子から聞いた他県から訪れた消防団の仲間たちをはじめとした観光客に違いない。男たちは道の辻々で女に呼びとめられ、何やら会話を交わしていたかと思うと、知らぬ間に誰一人として居なくなり、どこかに消え去っていた。中華Y、喫茶スナックK、軽食T、カラオケルームL…。点在する照明の下を人がポツンポツンと女とともに入ったり出たりしている。突然、暗闇の中から女の声が飛ぶように聞こえてきた。
「アニさん。終わったかいね。まだなら、いい娘(こ)がたくさん居るよ。やはり日本人の方がよかて。あそこのカラオケスナックやったら、日本人ばかりやて。ひとつ、どう」
 私は、「うん」と頷き「分かってるよて。あとで」とその声を半分無視しながら「ところで、おばさん。居酒屋の『愛』って。確かこの辺りだと記憶してたんだけど」と答えを濁した。
 島の女たちは、案外、あっさりしたもので「あぁ~、『愛』さん探してんねん」と言うと「だったら、お客さん。そこを、そのまま下って海に出たら海岸伝いに歩けば百二、三十メートルのとこやて。ほなら、おやすみ。またね」の声を背に私はそのまま歩を進めた。まもなくして海岸線に出ると、またしても「アニさん、アニさんってば」と暗闇の中から女の枯れきった声が絞り出すようにして耳に迫った。「タイから来て、みんながんばってんだから。遊ばなくてもいいから、見るだけでも見てやってえな」
 私の足は、その声にまるで金縛りにでも遭ったようにぴたりと止まり、今度は女に誘われるまま、魔法の世界にでも引き込まれるように海添いのちいさな民家に入っていった。

 民家の応接間みたいな造りの待合所では二、三十代の女性三人が順番に「コンニチハ」と頭を下げながら、みなゆっくりとした足取りで私の前に現れた。
 全員が私の前に並べられた座椅子に整列するように座って並ぶと、島の中年女は私に向かって「どの子もはるばるタイからお金稼ぎでやってきた。みんな、いいこばかりなんだから」としみじみと話し「全員、日本語がしゃべれるよ」ともつづけた。
「ヨロシク オネガイシマス」と今度はタイから来た女性たち一人ひとりが真剣な面持ちで頭を下げた。私は一人ひとりに「今晩は」と頭を下げながら「俺は一体全体何をやろうとしているのか」と罪悪感にかられていくのだった。
 私は罪の意識を振り払おう、とでもするように「みなさん。突拍子もないことを聞くのだけれど。ウサマ・ビンラディンって男、知ってますか」と聞いてみた。うち二人は首を振って知らない、と言ったが、なかで一番目が涼やかで若く見える残りの女性が私に向かって全身で関心を示すような表情で「テレビデ、ミタリキイタリシタコトアル。ビンラディン、イマハドコニイルノ。アタシアッテミタイ」とだけ、逆に私に質問を浴びせるように答えた。
 私は真剣な表情で視線を寄せてくる三人を目の前に、「私にもわからない。セカイジュウガワカラナイ」とだけ答え、あとは沈黙する以外に方法が見つからないまましばらく、視線だけを三人に公平に移していった。
 島の女がじれったそうに、ため息まじりに全く別の目で私をせかしてきた。
 私は、それに気付くと「悪いけれど、またにする。この中から一人だけを選ぶだなんて出来ない。みんなすばらしい女性ばかりだ。また来るから」とだけ答えて室内を後にし路上に出、また海岸伝いに夜道を歩き始めた。足を進めながら「きょうは、あの居酒屋『愛』に寄って土地の人々と平凡な話さえ出来れば、それでよいのだ」と内心で思った。凍りのように張りつめた見えない冷気が一枚ずつサクサクと音をたて剥がれていくのがよく分かった。私が歩くと月光に照らされた分身がまるで挟みうちにでもするようについてきた。

 私は先ほどから、わたしの後ろをもう一人の「私」がついてくる気配を感じていた。そればかりか、前を見ると、そこにも別の男が幻となってあるいているではないか。なんだか夢芝居のなかで何人もの私が目的方向に進んでいくようだ。暗闇のなか、海からのかぜまでが笑ったようなふりをして時折、顔に突進してきた。私はいったん足を止めてとまると、コートの衿を立て両手を両方のポケットに突っ込んだまま、またあるき始めた。
 やがて前方の一角が一段と明るさを増したな、と思うと同時にあの懐かしい赤提灯が目の前に迫った。京子とは、ナゾの男の手引きもあり、ニューヨークで同時中枢テロが起きてまもない二〇〇一年暮れにここで会ったきりだ。いまは、どこで暮らしているのだろうか。相変わらず、「私」という他には見えない男が、私の後ろと前を、挟みうちしながら私を庇うようについてくる。ふと、人間たちに、いやいやこの世の中に霊というものが棲んでいたとするならば、それこそ、こうしたもう一人、いや今の場合は二人の影ではないかと思ったりした。霊は危機に陥ったりした場合に決まって、その人間の「こころのなか」に表れ出るものではないか。今度は暗闇を楽しむかのように音のない冷たいかぜが顔面を吹きさらして逝った。気がつくと、居酒屋「愛」が目の前に迫っていた。

 店の前には以前に訪れた時と同じようにこの島の人々をすべて呑み込んでしまいそうな赤提灯が赤々とぶら下げられている。夜の雲間を突っ切ったのか、いつのまにか、三日月の形をした月が頭上に輝いていた。月光が海面を照らし、どこか異界の島に来た気がする。
 私は過去に二度訪れたことのある居酒屋「愛」の前で大きく深呼吸をすると、思い切るように暖簾をくぐって店内に入った。中には楕円形をしたカウンター席があり、ちょうどカウンター内の居酒屋店主を囲むように大勢の人がいた。或る者はコップ酒をあおり、他の者はビールや焼酎を飲んだり呷ったりしていた。浴衣がけの島への客人もいれば、終わったあとと見られる男連れの女性、一般島民も居て、そこには一つの集落がまとまって出来ているような、そんな運命を共にして生きている人々の一体感を覚えた。「愛」の店主はつい最近、変わったばかりのようで、私は、すべての物事がふり出しに戻ったように感じた。なかに防寒頭巾のいでたちで道すがらに寄っただけと見られる島民も数人いた。
 店主は、キクさんと言った。
 キクさんは、まだまだ若く年は四十前後か。物静かな男で自分から話しかけることだけは決してなかった。お酒、焼酎、エビ焼き、明太子ラーメンを、といった注文が飛ぶと、このときだけは「へー―い」と威勢のいい声を出し、あとはただ黙々と客の会話に相槌を打ちながら調理に打ち込む、そんな男だった。
 こんなキクさんだけに、カウンター越しに話しを聞いてもらおうとする女たちも多い。その日も一見して都会から訪れたと見られる男女の話しに盛んにうなづいており、そんな様子を目の前に、私も何かを話しかけてみたい気持ちにとらわれていった。男女の会話を耳に、私は島の近くの安乗岬沖合いで獲れたと見られるクルマエビを肴に、熱燗を飲み続けた。
 やがてお銚子一本をのみほし、もう一本を追加したときには私の口は思った以上になめらかになっていた。みんながキクさん、キクさんと語りかけているので私も真似て、お銚子の追加を「あと一本」と頼みながら「キクさん、実は教えてほしいことがあるんやけど」と関西弁を装って話しかけていた。
「あの、この島に昔、京子って言う女性いたはずやけれど。八年ほど前にこの店の、このカウンターに並んで一緒に飲んだことがあるんやて。そのひとに聞きたいことがあって。もう一度、会いとうなって、やってきたんだけれど」
 キクさんが「キョウコさんねえ。キョウコさん言うたら、確かにそういう名前の女のひとはこの島で聞きづてに知ってるだけでも三人ほどいやはった。けど、わしがこの店やり始めたんはまだ二年前だから。この店にきてくれたかどうか、となると。いちいち客に名前聞きもせえーへんで、詳しゅうはわからんな」と申し訳なさそうに首をかしげると「あっ、そうそう。アタシ知ってる。そのキョウコさんって。つい最近のことやけれど、なんやかんやで、確か大阪に最近、慌てて行かはったと聞いてる。しっかりした女性やったんでよお覚えてます」と夫婦連れと見られる、女性の方が口ぞえしてきた。が、店内でのキョウコさんの話は、それだけで途絶えてしまった。
 それでも、《キョウコ》を出しにしてあれやこれやと話し合ううち、私は島の人々の生活の一端に触れることが出来たのだった。
 キクさんを囲んで島の人々と雑談を交わすうち、京子について口添えをしてくれた目の澄んだ、ちょっとステキな女性は三十代前半で名前を“さりさん”と言い、その夜は夫らとともに島内全域の防火パトロール隊を組んで「火の用心」と、拍子木を手に定時巡回しており、その合間に寒さしのぎと防犯を兼ね店に立ち寄っていたものだ、と知った。防火パトロール隊は火を使うことが多くなる年末から年初めの二月いっぱい編成され、それも午前二時まで毎晩続けられているという、島に息づく意外な素顔も知った。
 さりさんのご主人もまた朴訥そのもので、どうやら島では唯一のケアサービス会社を営んでいるらしい。多くの人々が笑顔を絶やさない夫妻を頼りに日々生きている現実も知ったが、さりさんが私に向かって話した「アタシ、ほんというと東京生まれなの。島の魅力に取りつかれて島育ちの夫と一緒になったの。実は二胡の演奏もしてるんですよ」と聞かされたときには、島に対するそれまでの暗いイメージが一八〇度転換する思いだった。さりさんは、さしずめ島の女神といったところか、島を夜遅くまで守り続ける人々の存在に、私はまたまた咲恵を連れてこればよかったーと悔いていた。

 居酒屋「愛」を出た私は夜道を歩きながら、このちいさな島のなかにもいろんな人々が居て、さまざまな生活があるのだな、としみじみ思った。かぜが潮の満ち引きとは反対方向に流れ、盛んに頬にあたってきた。私の後ろからは、またしても、あのもう一人の私が無言でついてきていた。顔を真正面に向けると、そこにも別の私がいた。背中から女の靴音が近づいたかと思ったら「アニさん。もう最後だよ。まけてくから」の声が大きく迫った。宿までの道すがら不思議と男の姿はカケラも見られず、女たちの姿だけが目立った。私は海から吹くかぜの寒さに、からだを震わせながら「よしっ、あすは島内を一巡するんだ」と自らに誓い、歩を前に進めた。

 翌朝は、快晴だった。
 青い空。港。
 カモメが啼いている。
 黒いロングドレスにブーツひとつ。この姿は一九六八年の初舞台から、ずっと変わりないという。
 私は突拍子もなく、その海面にアンダーグラウンドの世界でうたい続ける孤高のジャズシンガー、浅川マキを浮かべてみた。
 そして。その傍らには、そう。あなた、ウサマ・ビンラディンを、だ。あなたの心は浅川マキの歌う<カモメ>でも癒されることはないのか。
 ♪おいらが恋した女は港町のあばずれ いつもドアを開けたままで着替えして…
 私は思わず、あの黒づくめの衣装に身を包んだジャズシンガーの真似をして<カモメ>の歌詞を口ずさんでいた。

 前夜の月に代わって水平線のかなたから真っ赤な顔をのぞかせた太陽の射光が朝から島全体を眩しく照らし出し、海面高く浮かんだ白い雲がわれ先に、と急速に流れていくのが肉眼でもよく分かった。私は、いまもって行方の分からないウサマ・ビンラディンの消息につながるこれはといった情報を何ひとつ得ることなく過ごした一夜に思いをはせ、T館の三階自室から眼下の海をみつめた。
 気になるのは、この宿の仲居である順子が目撃したというキョウコが、背の高いヒゲを生やした外国人と何やら深刻な面持ちでポンポン舟で島を離れていったという事実、それに「愛」のマスター、キクちゃんの口から出た「わしが聞く限り、なんや、この島にキョウコという女は三人いたみたいだ。どんな字書くかは、知らんけどな」ということぐらいか。キョウコという女性がかつて三人居たということだけは、どうやら本当らしい。
 つい先ほど海に面した二階の湯舟にからだを沈めて身を清め、部屋に戻って朝食を終えた私はこうして志摩の海をみつめている。不思議なことに今朝もあの大きな湯舟に入っていたのは私一人だけだった。入浴時間が私だけ違っていたから、なのかもしれない。そして風呂上がりの私がこうして座る室内の畳にはガラス窓を通して映る太陽の陽が日向になったり陰になったりしている。海に面した窓側の応接部分をのぞいただけでも、十二畳はあろうか。私はその部屋に一人でいる。窓下の船着き場からはポンポン舟も含めて船という船が対岸との間を行ったり来たりしている。しばらくすれば、チェックアウトだが、帰りのお金があるかどうか、が心配だ。私にとってのこの島は、何度訪れてもどこまでも清らかで澄み切っている。島で働く女たちもそのような気がするのだ。こうして窓を開け、ただ黙って海を見ていると、かぜの音と潮騒、そして青い空、水平線にたなびく薄白いひと筋の線とすべてが融けあい同化しているさまがよく分かる。
 宿を出た私は島の周囲を充分の時間をかけて一周したあと、島の高台である「わたかの遊地」にまで足を伸ばしてみた。あるきながら、かつて咲恵とこの島を歩いた日々をどんなにか懐かしく思ったことか。遊地から望み見る海はキラキラと真珠を散りばめた如く光り、それは美しく、私のなかの「時」を、知らぬ間に反転させるほどだった。赤、黄、橙、白、紫、緑と島のあちこちに自生する草や花々は、冬の原に立つススキの穂まで残ることなく、すべてをデジカメに収め、そのつど咲恵にメール送信した。
 かつて二人で新聞社の志摩通信部に駆け落ちしてきた傷心の私たちは、海から高台に通じる未整備のままだったこの道を何度となく歩いた。女を守ってくれる島なのだから、と教えてくれた、あの年老いた海女さんの言葉を信じて私たちは取材に励み、仕事の合間や休みの日になるとは、この島を訪れた。あの日は、もう戻っては来ないが、ウサマ・ビンラディンとおぼしき男性と一緒に居たという京子を思うと、私のからだの中を強いかぜが吹き荒んでくるようで、どうにもならないのである。

 あれから何日かが過ぎた。
 アメリカではこれまでのブッシュに代わり、オバマ大統領が就任しイラクからの米兵撤退を約束し、その一方でアフガニスタンには増派する、と今後の断固たる姿勢を表明した。二〇〇一年九月十一日に米国で起き世界を震撼させた同時中枢多発テロを機に、ブッシュ大統領らが口を酸っぱく言い始めた「テロとの戦争」は、その後も解決できないままの状態でいまもって続いている。オバマ大統領の方針変更は、やはり、タリバンに代表されるテロの根源を断ち切る社会に戻ろう、というものなのか。新聞記者の世界でいうなら、現場百回ならずとも、もういちど現場に立ち世界を見回してみようーということなのか。新聞報道によれば、オバマ氏はブッシュ前政権の単独行動主義から決別し、ロシアとの関係改善を目指し、同時に国際協調も重視すべく方針転換を図ろうとしているらしい。
 かといって、アメリカの他国への必要以上の介入が続くかぎり、テロは今後も続発するに違いない。ウサマ・ビンラディンが世界に植えつけた魂のタネがまたしても発狂するやもしれぬ。いや、もし能登半島の断崖絶壁から「ジ・ハード(聖戦)」の言葉を残して飛び降り自殺をしたという場面が、実は京子の単なる作り話でビンラディンが、その後も世界のどこかで京子と連絡を取り合いながら生きているとしたなら、事と次第によっては地球を破壊し人類を破滅する手段に出てくるかもしれない。ありえないことが本当に起きてしまう。私はこんなことをふと思い、身震いし、いま一度、ビンラディンに対するわが心の動きを振り返ってみることとした。

 10
 ウサマ・ビンラディンへの病理的、いや精神異常ともいえる、あくなき思いは私にとってはそれこそ、男女間の一種の秘めごとにも似る。一部興味本位のマスコミをのぞいたら、最近ではビンラディンの活字を目にすることさえ、ほとんど皆無といっていい。ではなぜ、これほどまでに私が彼の存在にこだわるのか。そこには文学者としてはむろん、人間心理と同時に犯罪そのものを解析するうえからも無視できないものがあるからにほかならない。
 もっと分かりやすく言えば、もしも、この先になって「ニューヨークで起きた同時多発テロは、世間一般に言われているウサマ・ビンラディンではなく、私が仕組んだものだ」などといった遺書とか新証言が確たる証拠(物証)とともに出てきた場合、私たち人間は一体、どう釈明し、かつ対応したらよいのか。人間そのものの存在すら否定しかねない、根源的なものにまでかかわってくるからである。そのため物的証拠がないビンラディンを犯人に仕立てあげるには、まだまた大いなる過ちを侵しかねないという、そんな可能性がなきにしもあらず、だ。だから私は今もって彼の足跡をたどろうとしているのである。

 話は前に遡る。
 読者諸君には私が、このウエブ文学同人誌の前身でもある文庫本同人誌「熱砂」の第9号=二〇〇五年十二月二十五日発行=に発表した小説「ビンラディンへの手紙」を思い起こしてほしい。それには部分的ながら、当時の世界情勢も明記されているだけに当然、この物語の今後の展開に関わってくる。ここでは、その抜粋を掲載しておきたい。
   ×   ×
(「熱砂」9号『ビンラディンへの手紙』から抜粋)
「ところで二〇〇五年の十月ニ十四日は、国連が誕生して丸六十年だったそうです。国連が誕生したころは、あなたよりは少し年上の私も、そしてあなたも、まだこの世に生まれてはいませんでした。一九四五年六月、国連憲章がサンフランシスコで調印され、国連はその年の十月二十四日に五十一カ国が加盟して正式に発足したのだそうです。朝刊の国際面に「国連還暦 祝いのキャンドル点灯」の見出しが控えめに躍っていたのを覚えています。
 国連といえば、イランのアハマディネジャド新政権誕生に伴う核兵器開発疑惑の浮上に伴い、来月の国際原子力機関(IAEA)理事会で、制裁の前提となる国連安全保障理事会への付託を受ける可能性が高まってきた時の話です。こうした動きに発足まもない保守派新政権が反発し欧米との対決を辞さない構えである、と新聞各紙が伝えたことがあります。アハマディネジャド新大統領は前テヘラン市長でした。各紙とも元鍛冶屋の息子で、保守的な多数の貧困層が腐敗一掃への熱望を託す「清貧の人」だと報じ、むしろ好意的な論調が目立ちました。二〇〇五年八月の就任と同時に、ウラン濃縮の前段階となる「転換」を再開させ、濃縮施設の廃棄などを求める英独仏の提案を拒否し、交渉が暗礁に乗りあげたことがあります。こんな歴史的経緯があるだけに、いっとき、なんだかイランの国策は、金正日総書記が率いる北朝鮮のそれに似ているような気がしてなりませんでした。
 私たちが住む、この国がこの先、いったいどこに行くのか、は分かりません。秋も深くなり、私たち家族が住むこの木曽川河畔の静かな町でも、月日と季節だけは着実に少しずつ動き、流れていきます。紅葉も次第に赤身を帯びてきています。つい先日まで戸外から室内に侵入してきていた秋の虫たちの涼やかな、あの鳴き声もいまでは、いつのまにか、どこかに消え去ってしまいました。このニッポンも日に日に寒くなり、それだけ紅葉が野山を急速に染めつつあります。やがて全山が燃え上がるほどに赤くなることでしょう。京子さんによれば、大罪を犯したあなたが、彼女に連れられ放浪したとき、日本の赤や黄のモミジに感嘆の声を漏らした、と聞きましたが、寧ろそうした心があなたのなかに残されていたと知り、私は内心、ホッと安堵したりしたものでした。
 そして、その年、二〇〇五年の十月二十五日。夕刊には、イランのアハマディネジャド新大統領の顔写真入りで「核で強気 イラン新政権」「来月IAEA理事会 安保理付託も」「反米外交に成果、自信」といった見出しが躍っていました。新聞に掲載された、国連総会で演説する顎鬚を蓄えたア新大統領の気迫に満ちた顔写真を見て、なぜかあのとき、突拍子もないことに違いはありませんが、あなたはどこでどうしているのか、と気になったものです。
 イラク駐留米軍の死者は、その日(二十五日)で二千人に達していました。あのころ、ワシントン近郊のアーリントン墓地では、自らも息子を失った「反戦の母」、シンディー・シーハンさんらがイラク駐留部隊の即時撤退を訴える集会を開きました。世界では鳥インフルエンザがトルコ、ルーマニア、モンゴル、ロシア、カザフスタンと、ますます広がりを見せてきていました。あなたは知っていますか。欧州では、かつてスペインかぜが大流行したことがあります。一九一八~一九年にかけて、でした。数えきれないほどの人々が亡くなったそうです。あなたも気をつけてください。翻って、いまの地球とて、国際平和も、環境保全も、保健予防も、どこかで綻びが出てきていることだけは、確かなようです。いわば地上の金属疲労とでもいいましょうか。それぞれの利害や思惑が錯綜し、この先、世界のこころが一つになることは稀有といってもおかしくありません。
 日曜日。西暦二00五年、平成十七年十月三十日の朝でした。この地上の星、地球は、いったいこの先どこまでこうして生きつづけていくのでしょうか。自業自得で、自らの体内に、ときにハリケーンやら大地震、冷害やら飢饉、渇水、大雨、それどころか人間同士が憎しみあう戦争など、厄介なものばかりを宿しながら、どこに向かって歩いているのでしょう。ともあれ、きょうのところは、あなたが何度も感嘆の声を上げたニッポンの美しい光景が広がり、人間たちを喜ばせています。こうした世界こそが、極楽なのでしょうね。いや、まだ逝ったことのない浄土という天国。もしかしたら、私たちは現在、まさに天国のなかで生きているのかもしれません。が、それだって束の間のことではないでしょうか。自業自得ともいえる国際テロの暴発や突き進む環境悪化で、いまの天国が、やがて地獄に陥ることは、目に見えています。いやいや、アフリカやアフガン、イラク、マレーシア、パキスタンなどでは、既に泥沼ともいえる地獄の世が始まっている、と言っても過言ではありません。こうした数々の動きは、むしろ、人類に対する重大な警句といってもよいでしょう。
 少しかぜが強いのでは。そんなことを承知のうえで二階自室の窓ガラスをほんの少しだけ、開けてみました。かぜがひらひらとカーテンを揺らし、見えない幾重ものひと群れたちが我先に、と室内にはいってきています。肌を打つ感触とカーテンを膨らます、そうしたそよぎからも周りの微かな変化がよく分かるのです。私は、しばらくそのまま窓を開けたままにし、こうしてじっとしています。秋の空。鳥たちの囀り。時折、過ぎ行く車の音。そして時々、遠慮がちに地上から聞こえてくる隣りに住む夫婦の話し声。わが家よりは、ずっとずっと広い庭に鍬かスコップの楔を入れているのか。土を掘る音までが微かに聞こえてきます。清らかな大気。そういったものが次々と近くに忍び寄ってきているのです。
 人間たちはみな、あちらを向いたりこちらを向いたりして生きています。譬え親子、夫婦、兄弟、恋人同士であろうが、です。結局のところは、みな一人ひとりが、死への道ゆきを歩いてゆくのですね。あるときは、自分の知らないところで風水害や地震に突然、襲われながら、それでもけなげに生きてゆかねばなりません。それなのに。自身で命を絶つ自爆テロだなんて。私にはどうしても納得しかねるのです。理解できません。ウサマ・ビンラディン。あなたの名前を思い出すにつけ、そして新聞の活字に自爆テロの四文字を見るたびに、あなたの存在をこれほどまでに強く意識するのは、なぜでしょうか。
 新聞では、相変わらず「インドで連続爆発 ニューデリー・テロの可能性 30人超死亡か」「チェチェン武装勢力 『9・11』模倣計画か クレムリンなど複数標的 ロシア紙報道」「イラク議会選 スンニ派の伸長焦点」「米副大統領補佐官が辞任 ブッシュ政権 『死に体』加速? 」「求心力低下 政策処理さらに停滞」の見出しと活字が躍っています。
 三十一日。いまは午前七時を過ぎたところです。十月もことしが最後です。十一月を前に、また一段と寒くなってきたようです。終戦直後に満州の奉天(現在の瀋陽)で生まれ、ひとつ間違えば、残留孤児になっていても少しもおかしくない私は、どちらかといえば暑さよりも寒さの方が好きです。でも年のせいでしょうか。このごろは年ごとに寒さがこの身に染み入るのです。きのうの午後でした。いつものように、休日の日課でもある新聞記事のスクラップをしていて、ふと目に止まった記事があります。その記事にはこんな見出しがついていたのです。
「若きシェークスピア 実は別人?」「豪華な服着る余裕なかった」「英美術館が肖像画分析」。
 この記事を読んで、すぐに思い出したのが、あなたの、あの顎鬚を蓄えた、少しばかり神経質そうな顔でした。あなたは、新聞、テレビで報道されている、いわゆる顎鬚のビンラディンとは、およそ似つかない風貌ではないか、と。もしかしたら、日本の一般社会のなかに居て、何食わぬ顔と表情をして紛れ込んでいるのでは。そうとなれば、一大事かと思います。
 日本では北アルプスの山々が雪化粧し、朝夕の冷え込みが一段と増してきました。それこそ、秋まっただなか、美しい季節に入っています。ご存知でしょうか。飛騨地方では特産の赤かぶの収穫が最盛期に入っています。葉が青々と茂り、地中から真っ赤な球が顔をのぞかせているさまは、まさに圧巻です。四日市でもガーデニング用の冬の花として知られるミニシクラメンの出荷がピークを迎えています。赤、ピンク、紫、白など耐寒性の強い品種が温室で栽培されているのです。それから。これは、あなたがどこかで生きていたのなら、同じ星に生きる人間として共有できる話ですが、二年二カ月ごとに地球に接近する火星がつい先日、地球に大接近しました。三十日深夜には、名古屋のテレビ塔付近でも雲間に火星が見え隠れし、十一時すぎのわずかな晴れ間にはマイナス二・三等級の明るい光を放ったそうです。ある関西紙はあなたが、かつて京子さんと訪れた大阪の天保山の観覧車から撮影した夜空に輝く火星を『秋色の星』として紹介していました。
 こうしたなかでも悲劇は絶え間なく起きています。ニューデリーのテロはその後、少なくともほぼ三ヵ所で同時に爆発があり、PTI通信は五十人が死亡、七十人以上が負傷したと伝えています。

 いつのまにか、十一月に入ってしまいました。私は新聞社の仕事と私的な他の原稿書きなどに追われ、あなたに対するこの手紙からしばらく離れていました。とはいえ、頭の中には、いつだってウサマ・ビンラディン、あなたの存在があるのです。あなたは、いまいったい、どこでどうしていますか。前々から思うのですが、新聞やテレビに、これまで肉声として忘れたころに顔を出す、あなたの容貌、これは何かの作為によってわざと作られたものです。この突飛な考えは、いまも変わりません。あなたはサウジアラビアで生まれたイスラム教徒、それもシーア派とされていますが、これも違う。もしかしたら、浄土真宗かもしれない。それとも私の頭のなかだけが、狂人めいているのでしょうか。
 このところ、フランスのパリ効外では移民出身の貧困層を中心にした若者たちによる不満が噴出し、暴動が日に日に拡大しています。暴動の規模は過去十年間では最悪で西部のナントなど地方のおよそ十都市以上に広がり、四日夜だけでも逮捕者は計ニ百三人に上ったそうです。あなたは、この暴動のニュースをごぞんじですか。もしかして、あなたは今、フランス国内に密かに潜入していて、若者たちを扇動しているのではないでしょうね。何かが起きると、すべてあなたがその張本人、あなたの仕業だと考えてしまいます。これは、よくないことですが。なぜでしょうか。一連の騒動の発端は、先月ニ十七日夜。パリ北部のセーヌサンドニ県のクリシーというところで起きました。地図で確かめるとセーヌ川のほとりにある町です。警察に追われていると思って変電施設に逃げ込んだアフリカ系の少年二人が感電死したのです。これを知った仲間や移民系の若者が騒ぎ始めたとのことです。日本は七日朝です。暴動は、五日夜から六日早朝にかけてもつづき、とうとうパリ中心部にまで波及、その後も拡大の一途です。
 AFP通信は、市内では移民が多く住むレピュブリック広場に近い場所で火炎瓶により車両四台が焼け、北西部でも車六台が放火された、などと報じています。日本の新聞、テレビなどのマスメディアも、こうした暴動拡大にイスラム社会との摩擦を心配するとか、移民政策の抜本的見直しが急務だとか、シラク大統領が急きょ関係閣僚らによる国内治安対策会議を開き「治安と公共秩序の回復を最優先させる」との声明を出した、などと報じています。私の場合は、物理学博士の長男がこの夏からОECDに派遣され、単身、フランスのパリに住んでいるだけに、心配です。
 暦がめくれ、十一月十日の朝です。月日は矢の如しです。仕事がら、夜が遅くてなかなか朝早くは起きれません。あなたへの手紙は早朝の出勤前にこうして書いているのですが、このところは、日に日に寒くなり起きる際には、心のなかでエイッ、と気合を入れなければならない、ほどです。フランス全土に広がったイスラム系移民の若者らによる暴動は発生から二週間たちました。この間、七日にはパリ市内で初の死者が出ました。とうとう、政府が知事への夜間外出禁止令の発令権限を与える非常事態にまで発展しています。

 十一日の朝がきました。昨夜は仕事を早く切り上げ、私の以前からの友である中国西安出身の中国琵琶奏者・宗ティンティンのコンサートを聞きに、姪と同僚二人を伴って今池のガスホールに行ってきました。コンサートの前に社で開いた夕刊によると、フランスでは非常事態法の適用を受けたニ十五県のうち九日夜、五県に夜間外出禁止令が出されました。
 昨夜のティンティンの演奏ですか。遺跡。上海恋香。山神。赤い花白い花。楽園。竹田の子守唄。アジアの風。木蘭の涙。飛天。情熱雲南。この星を庭として。すべての音曲に透明感があり、すてきでした。コンサートでは「赤い花白い花」「竹田の子守唄」など、日本語による弾き語りも聴かせてくれました。重さ五キロもある愛用の琵琶を両腕で抱えて持ち歌う姿は、それこそ自ら生んだ可愛い赤子を抱きかかえ、歌をうたってあやしているようにも見えたのです。八年前に西安から中国琵琶ひとつを抱えて来日し、努力に努力を重ね現在に至った彼女を知っているだけに、私の胸には熱いものがこみあげてきました。 よくぞ、ここまでたどりつき、きたものだ、とも思ったのです。それに、ティンティンとともに中国琵琶との合奏で出演していたパーカッション、ギター、ピアノの男性三人も、それぞれがその道を極めつくした演奏者で、とてもすてきでした。ティンティン自らは、最近日本で脚光を浴びている中国の十六楽房を少し意識してか、演奏の合間の語りのなかで「私は独り楽房ですから」と話していました。でも、なかなかどうして、すばらしい援軍がいるんじゃないか、と心のなかで心地よい反論をしたくなるほどでした。
 コンサートの話に戻りますが、彼女がタイのペナン川で舟に乗っている時に作曲したという「アジアの風」、この曲が演奏され始めたときには、私はなぜかあなた、ウサマ・ビンラディンに、この曲を聴かせたい、いや聴いてほしい、とずっと思っていました。ティンティンが舟に乗っていると、さわやかなかぜが吹き、なんともいえない香りが漂ってきて、とても懐かしい気持ちにかられたという、そういう情景が描かれた曲です。アジアのどこの国に行ってもその香りは同じなのです。望郷の思いをかみしめて、ティンティンは、それを音楽で表現したかったのです。また「この星を庭として」は、テレビ朝日系列の愛・地球博協賛番組「森と水の旅」のテーマ曲でした。愛・地球博のテーマでもあった「自然の叡智」を歌にするため、ティンティンがあの加藤登紀子さんと日本列島縦断の旅に出て二人で作詞し、作曲をお登紀さんがしたという、いわくつきの名作なのです。
 なんだか、横道にそれてしまったような気がします。それでも私は、まだこんなことさえ思います。あなたの居場所がわかれば、そこまでティンティンを連れていき、アジアの風はじめ、ありとあらゆる曲を演奏してもらい、あなたに聴かせたい。もしかしたら、国際テロリストのあなたを矯正する手段は音楽しかない。そう思えてくるのです。
 日本では、土曜日の十ニ日です。一昨日の夜の話をもう少し、続けます。ティンティンのそれこそ、流れるような中国琵琶を楽しんだあと、私たちは彼女が下積み時代に琴を弾いていた、名古屋都心にある上海料理の店「紅蘭」を訪れ、そこで小紅酒と一緒に久しぶりの中国料理を味わい、最寄りの名鉄駅からは姪をタクシーで家まで送り届け、深夜遅く自宅に戻りました。ところが、です。いつもなら、どんなに遅くても私の帰りを待っていてくれるはずの妻の咲恵がいないのです。咲恵には甘えどおしの私は、彼女がいつもの定位置(それは一階の和室だったり、奥の居間のテレビの前の長椅子だったりするのですが)に居ないだけで、うろたえました。私の胸に急に不安が押し寄せ、私は二階の寝室を覗いたのです。
 そしたら咲恵は寝布団に仰向けになったまま「胸が痛い」と、ぽつりとただそれだけを言いました。私は心のなかで慌て、狼狽し、それまでの酔いなどは一度にふきとんでしまいました。その日は木曜日だったので彼女はいつものように、大好きなフォークダンスを楽しみに、夕方から隣町までバスで出かけました。しかし、ステップを踏んだあとの帰りがけに、急に胸が痛くなり、フォークダンス仲間のお世話になり、家まで車で送ってもらったようです。帰宅した私が咲恵に語りかけようとしても、無口で余分なことはおろか、時には大切なことでも何ひとつとして、話そうとしない彼女の習性でただ「黙ってて。何も言わないで。かえってエラく、なるんだから」と言うので、私は心配でも、あれこれ話しかけると体調が悪化しかねない、と思い、傍らで黙り込んでしまい、その夜はそのまま寝たのでした。
 翌朝になり、咲恵は少しはよくなりました。でも、自宅近くで自らボランティア同然に開いているリサイクルショップ「ミヌエット」での営業の方は休むことにしたようです。やはり、からだの調子が、まだ好くないからにちがいありません。そして出勤前には、フォークダンス仲間の女性から電話が入りました。私は電話口から聞こえてきた、その方の口により、初めて昨夜、彼女の身に突如として降りかかった重大事を知らされたのでした。
 内容は次のようなものでした。
「奥さま、大丈夫ですか。きのうの様子をみていて、とても心配で電話さしあげました。その後、おからだの方、どうですか。実はきのうの夜、フォークダンスが終わって、帰る段になって、階段のところで急に、奥さまが左胸を抑えてしゃがみ込まれて。胸が痛い、とおっしゃられ埋まってしまわれました。それで、あたしたちのフォークダンスの先生に家まで送っていただいたんですの。フォークダンスの会場は、奥さまかかりつけの病院にも近いので、ほんとうはそこへお連れした方がいい、と思ったのですけれど。家に帰るとおっしゃられて。あたし、心配で心配で。どうですか。お変わりないですか。お大事になさってください。なんでもよろしいから助けになることでしたらお申しつけください」
 咲恵は、いつだって私には何も話してはくれません。私がその後、医者へ行こう、行っておいた方がいい、と何度誘っても「いいってば」と、言うことをきかないのです。でも、ウサマ・ビンラディンさん。もし、私があなたを咲恵のところに案内し、あなたから「マイコさん(咲恵の俳人としてのペンネームが舞子)。イシャへイキナサイ。ゴシュジンがシンソコ、シンパイシテますよ」と言われたら、案外すなおに行く。そんな気がするのです。彼女は、そういう女なのです。本当に信頼できる場合に限ってだけ、言うことを聴き、動こうとするのです。とんでもないところで、あなたの名前まで出し、お許しください。妻のいっこくなところは、どこかしら、あなたに似ているのです。似ているといえば、私にはなぜか、あなたという存在が、この国のテレビの大河ドラマで放映中で、悲劇の英雄として話題となっている義経ともだぶってしかたがないのです。またまたおかしなことを言い始める奴だなっ、と世間のみんなは冷笑するにちがいありません。でも相似形を考えることは、正しい思考を進めるうえで大切なことだ、と思うのです。

 ここで戯言として聴いてほしいことがあります。私は最近、篠笛を習い始めました。なぜでしょう。それは、義経がドラマのなかで母の形見として肌身離さず持っている笛をふく姿を見るうち、私自身も真底、無性に笛をふきたくなってきたからなのです。風を切る透明な笛の音。これには、人々の心に染み入ってくる限りなき哀愁が漂います。なぜかしら、心身ともに安らぐのです。それから笛をふく、その姿に紛れもなく清らかな人としての矜持というものをさえ、感じるのです。笛といっても、俳聖の松尾芭蕉が奥の細道を歩く際に持ち歩いたとされるくひな笛から、このところ流行のオカリナ、雅楽とか祭り囃子用の笛、東南アジア各地に伝わる民俗芸能ともいえる笛の数々まで千差万別で、さまざまです。篠笛は一カ月前から二週間に一度、大須の、あるお師匠さんの家の稽古場に通っていますが、これが、なかなか思うに任せないのです。最初の二週間ほどは、笛の音を出そうとしても、息が空を切るだけで、音なぞというしろものは、全く出ませんでした。それでも師匠に言われる通り、毎日五分ずつスぅースぅーと空息を吹き込むうち、どうにか音だけは、出るようになりました。師匠は私に、こう言いました。
「自転車に乗るのと同じです。いったん、乗れるようになれば、ずっと乗れるのと同じで息を吹き込む感がつかめれば、音が出るようにきっとなります。糸のような、笛の音の道を見つけ、ひと筋だけ、澄んだかぜをそこへ吹き込むのです。その道は、一人ひとりみな違う。だから、その息の道を、なんとかして探してください。一日に五分でいい。何時間もやる必要はありません。ただし、つづけることです」と。
 私は、このアドバイスを聴いて以降というもの、毎日出勤前に居間の椅子に座って、咲恵の前で笛を少しだけ吹き込み、私の道を模索するうち、最近になり、どうにか音だけは出せる自信がつきました。

 十三日。日曜休みとはいえ、咲恵の具合が心配なので、いつものように車を運転してみたり、都心の本屋にぶらりと出向くなぞ、自分勝手にしているわけにも参りません。昼すぎには、近くのスーパーに二人で買い物に出かけました。買い物の前には、ペットボトルやアルミ缶をスーパーの指定の場所に出すこともしました。それから大須の稽古場まで行き、師匠から笛の手ほどきを受け、五時までには帰宅してこうして筆を進めています。稽古場では、初歩的な曲<さくら さくら>に挑みましたが、どうにか音が出せるようになり、師匠も「わぁー、凄い。思っていたより、ずっと上達が早い」と誉めてくれました。咲恵は午後からは洗濯もし、少しは落ち着きましたが、やはり不安です。きょうは名古屋まで名鉄と地下鉄を乗り継いで出ましたが、稽古の前には、まだ時間があったので大須界隈を、ほんの少しだけぶらついてみました。大須の町には、案の定、若者たちが溢れかえっていました。町のあちこちに「ちゃっとまわしして 大須へいこみゃあか あだにええもん あるんだわ」とか「大須はなも 歴史散策も できてまうに!」とか「大須演芸場 え~人え~町 大須であおみゃあ」と名古屋弁で書かれたジャンボ垂れ幕がぶら下がっており、熱気がこちらまで伝わってきました。
 帰りにも、いまや名古屋名物の代表格にまで育った大須の町なかをゆっくりと歩いてみました。各店の店頭には、銀だこはじめ、熱ラーメンやキムチラーメン、インドラーメンの袋が並び、キャラメルポップコーンやミルクチョコレート、ペパーミントリーフハーブティー、ピュアセイロンティーなどが割安に売られ、本日のオススメコーヒーとしてブルーマウンテンが、オススメ紅茶としてはダージリンセカンドフラッシュが、その名を連ねていました。ほかにも、タウンベストやタウンパーカー、カーゴパンツ、ジャケットと発音するだけでも口が裂けてしまいそうな、そんな若者向けの衣料品コーナーでは、「でら安い」とか「大注目アイテムです」「絶好調」「新作」「超人気」なぞの言葉がところ狭しと氾濫しており、そうしたなかでの中古パソコン店や天津甘栗店が、どこか味わい深いものにさえ見えたのです。私は歩きながら、またしても、これら数えきれない人々のなかに、もしかしてウサマ・ビンラディン、あなたが何げない顔で紛れ込んでいるのではないか、と、そんな唐突なことをボンヤリ思ったりしたのでした。

 ところでフランスの暴動とは別に、心配される国際テロの方ですが、イラクやロンドン、インドネシア、ニューデリーに限らず、今月九日には、とうとうヨルダンの首都アンマンでも外国人が多く利用する高級ホテル三軒でほぼ同時に起きました。ロイター通信は、この同時多発テロで少なくとも五十七人が死亡し、三百人以上が負傷したと報じています。そしてヨルダン国の治安当局は、犯行の手段、規模などから、国際テロ組織アルカイダが関与した犯行との見方をいっそう深めています。これでは、世界ぢゅうがテロだらけです。9・11のニューヨークテロ事件発生直後にブッシュ米大統領が「これからは、テロとの戦いに入る」と語った演説もあながち過ちではなく、笑ってばかりはおれなくなってきました。なんということなのでしょうか。ヨルダンのムアシェル副首相は米国のCNNテレビに対し、今度のテロはイラク聖戦アルカイダ組織を率いるヨルダン人テロリスト、ザルカウィ容疑者の仕業ではないか、と指摘していますが、陰であなたが暗躍しているのでは、と心配でなりません。あなたを知る京子さんによれば、日本に来ていたあなた、すなわちウサマ・ビンラディンは、少なくとも、もう人々を殺めることはしない、と約束をしていてくれたはずなのです。ジ・ハード(聖戦)など、もはや手遅れの言葉ではないでしょうか。
 ウサマ・ビンラディンというあなたの名前がマスコミを賑わすことも最近では、ほとんど、なくなりました。パキスタンの大地震が起きたときぐらいです。それも建物の下敷きになって死亡した可能性がある、というものでした。でも、私にはあなたが、この地上のどこかできっと生きている。そう信じています。あなたが、この世から去ってしまったとしたなら、私は一体、この先、何をどう信じて生きていったら良いのでしょうか。」

 ウサマ・ビンラディンへの私からの手紙は大筋以上のようなものだった。
 かといって、世の中は日々、微妙に刻々と心臓の鼓動の如く動いている。このまま月日が流れれば、これほどまでに私が意識し続けてきたビンラディンとて、歴史の川のなかにながされて逝ってしまうに違いない。

 二〇〇九年二月十一日。
 私は朝から、自室でこうしてパソコンに向かってキーをたたいて、この物語第3章(連載3)の最終場面を書いている。ウサマ・ビンラディン! あなたとこうして向かい合っている今が、不思議と一番、心の落ち着くひとときでもある。
 けさの東京(中日)新聞によれば、オバマ米大統領が九日の記者会見で、これまでブッシュ前大統領が北朝鮮、イラクとともに「悪の枢軸」の一角として敵視政策をあらわにしてきた、イランとの関係につき「相互信頼に基づく関係構築が可能だ。イランが握った拳を開くなら、手を差し伸べる」と関係正常化に向けた直接対話に強い意欲を示したという。これに対して十日に首都テヘラン市西部の自由広場で開かれたイラン革命三十周年記念式典の席で、あのアハマディネジャド大統領が米国のオバマ新政権に対し「イランは(米国の)本物の変革を歓迎する。互いに尊敬し、対等な関係で話し合う用意がある」と呼びかけたと報じている。
 また金融危機が叫ばれるなか、アラブ首長国連邦のドバイでは英国人をはじめ外国人在住者が高級自家用車を空港に乗り捨てドバイを離れる信じられない事態が急増、地元警察では、ここ数カ月で三千台以上を発見、英タイムズ紙は借金を返せなくなった「夜逃げ」同然の脱出とみられる、とも報じている。金融安定化策や公的資金の投入など各国とも抜本的な解決に向け動き始め、世界そのものが変わろうと喘いでいることも事実だ。

 二月十三日
 目を閉じると、その男は今日もまた足音もなくやってきて、あの渡鹿野島岸壁に立っていた。ただ黙って海をみつめるウサマ・ビンラディン。その横をポンポン舟がいつもと何ら変わりなく、対岸との間を平和なエンジン音を響かせて行き来している。男の傍らでは京子が影絵のように寄り添っているー
 そういえば、順子はキョウコが外国人男性と船着き場にいて、そそくさと何やら慌てるように男をうながしてポンポン舟に乗り込んでいく姿を確かに目撃した、と話していた。
 ゆめのなかの私はここで思った。
 ワタカノ。この島には、あの孤高のジャズシンガー、浅川マキが一番のお似合いだ、と。
 そしてマキを港に立たせるとよい。彼女は、けだるさ、倦怠感、逃避、情欲と無常、退廃…と、すべてこの世の「負」なるものを自らの女体のなかに包み込んだまま遠くを見つめているようにも見える。「黒」とか「負」とかそんなイメージが全身に染みている。たとえ目の前にいたとしても、彼女は気がつくとスッと地の底に消え入って逝ってしまいそうな、そうした影絵のようなナゾめいた女でもある。だから、この女性はいったいどれほどの恋を、けんかをしてきたのだろうか、と思ってしまう。なぜか、京子のあのひと筋な、つぶらな目が私のなかに入ってきた。まさか。浅川マキがキョウコということはないだろうが…。

 私はここで、またまた突拍子もなく浅川マキが岸壁に立って海風に打たれながら「越後獅子の唄」をうたう姿を思い浮かべてみた。いつからだったか、何かの雑誌で「君は浅川マキを聴いたか」というリレーエッセイが連載されており、そのエッセイの一部に「浅川マキはライブで美空ひばりの歌をうたうことがあるかどうかを問題提起する人がおり、その中で著者は「彼女のエッセイ集『こんな風に過ぎて行くのなら』のなかで、子どものころ美空ひばりの越後獅子の唄を聴いていた」との記述があったからである。
 なるほど、「越後獅子の唄」は労働のなかにある悲哀が込められている。
 私はゆめのなかで唄い始めていた。
♪笛にいぃ~うかれて 逆立ちすればぁ~
 山が見えます ふるさとの
 あたしゃあ~みなしごぉ
 街道ぐらしぃ~
 ながれぇながれてぇ~越後獅子ぃ~

 一方、現実には気になる報道も少しずつ目に入ってきた。
 話は一月十五日のAFP電にさかのぼる。
 この日、オバマ次期米大統領が十四日、国際テロ組織アルカイダとその指導者ウサマ・ビンラディン容疑者について「依然として米国の安全保障にとって一番の脅威だ」と述べたという。これに対してビンラディン容疑者も同日、八カ月ぶりに音声メッセージをインターネットのイスラム過激派のウエブサイトで公開、すべてのイスラム教徒に対してパレスチナ自治政府ガザ地区で軍事作戦を進めているイスラエルに報復を行うよう呼びかけたとも報道された。このビンラディンが本物かどうかは、やはり、はなはだ疑わしい。
 かといって、いまの世界は何もかもが混沌としていることは事実なのである。
 何が真実なのか、が分からない。

 二月十四日。
 中日新聞(東京新聞)を開く。けさもまた国際面では「イラク 自爆テロで40人死亡」の活字が3段見出しで載っている。バクダッドの南約四十キロのイスカリダヤで十三日、女が隠し持っていた爆弾を爆発させ、周りにいた四十人が死亡、六十人が負傷。バクダッドからイスラム教シーア派の聖地カルバラに向かう幹線道路で起きた、と報じている。このままだと、やがて世界が少しずつ狂人の国々に染まっていってしまうかもしない予感が私のなかを駆け巡っている。そんななか、私の頭から永遠に離れそうにはないウサマ・ビンラディン! あなたは、一体いまどこでどうしているのか。

 真実を見極めることが出来ないまま、ただ空想の世界のなかだけでここまで歩いてきた私にとってのあなた、すなわちウサマ・ビンラディンとは。いったい何奴だったのか。
 次回は、あなたのすべての姿かたちがこの世に表れ出たその時にこそ、あなたの口から出る連載を書きたく思う。そのとき、たとえ互いにどんな年齢になっていようとも、私はあなたに会いに世界の果てにまでとんで行くにちがいない。そして人間ビンラディンを後世に伝えていきたく思う。

 それとて、人間というやっかいないきものを知るひとつの道だと思うからである。

 なお、この小説の表題に「ジョン・レノンに捧げる」とあるジョン・レノンの平和感については、とうとう触れずじまいに終わってしまったが、二〇〇一年九月十一日に起きた同時多発テロ以降、世界中のラジオ局にジョン・レノンの「イマジン」を流してほしい、という声が津波の如く押し寄せたことからも察していただければ、と思う。次回、ウサマ・ビンラディン氏と直接お会いしたあとの小説でたっぷりと触れさせていただくつもりである。
【お知らせ】この連載は先に私が出版した記者短編小説集「懺悔の滴」(人間社刊)の中の<再生>を補筆、大幅に加筆し連載したものです。
                                     (完)