回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第五章死と別れ編

【ノリタケの森】
 梅雨の合間、六月の額紫陽花がまぶしく、そんな中、風に当りながらノリタケの森に筆者は妻に車イスを引っ張ってもらいやって来ている。ノリタケの森は十年程前に出来た。日本陶器、外国ではノリタケチャイナの工場跡である。筆者は小学生の頃夏になるとこのレンガ造りの工場群を通り児玉市民プールまでよく通った。
 西区のこの辺は明治の殖産工業で栄えた地でノリタケや豊田織機があった。いずれもレンガ造りで戦争中は爆撃を恐れコンクリートでレンガは隠されていた。ノリタケの煙突は四本だったが角度により一本だったり二本だったり四本だったりして見えた。世界遺産でも良かったろうが何故かそうはしなかった。ノリタケドームのビジョンも名古屋財界の反対で出来なかったと聞いている。名古屋駅からも十分程歩いて行け、実現すれば多方面に利用出来良かったに違いない。トヨタの産業技術館もレンガ造りでみごとな景色を与えてくれる。
 ノリタケは妻の祖父がボイラーマンをしていたり、中村の則武から仕事に行った人も多かったりと縁が深い。かつては陶器の絵付けも手書で職人も多く、女性の職工も多数居て数千人の従業員数だったようだ。私はノリタケのチーフデザイナーと友人になりよくノリタケ内にある工房に通った。チーフデザイナーは児島さんといいアメリカのノリタケでは彼の創ったディナーセットが超人気で百億円以上は売れアメリカのノリタケに貢献したと聞く。だから児島さんは特別扱いだった。ノリタケには陶芸を教える教室があり先生をしていた。教室には東京からわざわざ通う人もあり金持ちの夫人の巣でもあった。
 筆者は中日倶楽部という会に所属し栄のノリタケギャラリーへ会員十数人で作品を展示する機会があり当時書いた俳句百数十種を和紙に書き展示した所、目に留まる人があり知った中の一人が児島さんだった。その時知り合った中には山崎竹堂という俳句の師がいて、彼は山頭火百周年で一位になった人だった。彼の事は後で書くつもりでいる。ノリタケは財閥解体で伊奈製陶、日本特殊陶業等に分かれたが森村グループの中核である。やはりバブル崩壊で陶器は売れず今はコンピューターの一部分砥石で成り立っている。現在ノリタケ本社工場はイオンに建て替え中で三年後には出来、辺りは一変し交通量も増えるだろう。
 ノリタケの森内部にはいろいろな施設があり一階はレストラン二階はギャラリーになっている建物があり、筆者は三年程友人の浅野総一郎や高木文子と児島先生でええ人会という名前で四人のグループ展を開いた。児島先生は陶芸、総一郎は絵画、高木さんは布で絵画を創る千切り絵、私は戯画と陶板に俳句を、そんな自由な出品だった。入場者も連休には千五百人程来た。栄のノリタケギャラリー程ではなかったがまずまず好評で作品も良く売れた。
 ノリタケの森にはオールドノリタケの展示場、陶器の実際作る工程を知らせる棟、商品を展示販売するショールーム、喫茶、噴水、芝の広い森があり子供連れや犬連れの人も多い。ノリタケの森からほんの三分程のトヨタ産業技術記念館もやはりレンガ造りで織機の機械の展示、実際に動く姿、又トヨタ自動車の歴史や昔の車の展示を楽しく見て歩ける。こちらはやはりトヨタと言うことで外国人の客が多く喫茶やレストラン、土産コーナー等がある。

【名古屋城と寺、徳川美術館】
 西区はなんと言っても名古屋城があり見所は城を一周し外から見る姿がいい。特に北側から見る城壁の石垣はすばらしく春の桜や藤の姿が美しい。清洲櫓は信長が偲ばれ特に見事だ。将来木造に復活するかもしれないが筆者もそうなる事を望んでいる。城内部の復元された御殿も見事で見るべきだ。外堀通りから東へ行けば古い名古屋に出会える。市役所や県庁の建物も個性的で内に入れば大理石の立派な姿が見える。建物の東裏は閑静な通りで外国の要人等を迎える県や市の公館がある。入る事が出来ないが外から庭が見え雰囲気だけは味わえる。外堀の東の通りを行けば、かつての裁判所跡の市政博物館があり立派な大理石とステンドグラスが迎えてくれる。建物に趣があり中に入ると牢屋や裁判の風景が見えるようになっている。今の建築と違い遊び心のある内装で楽しむ事が出来る。裁判風景も創ってあり、かつての裁判のやり方が判って面白い。
 東区は寺が多い町でもある。一番は尾張徳川の菩提寺建中寺で春のつつじが有名だ。白壁町や葵町いずれも高級住宅地でかつての高給取りの武家屋敷が偲ばれる。二葉館では川上貞奴や福澤桃介の愛の巣が分かり立派なステンドグラスや電力王だった桃介の電気が配線として見られ興味深い。やはり徳川美術館は季節ごとに展示が変わり、行くべきだろう。牡丹の季節が最も良い。展示では信長秀吉家康の所有の品や利休の手造りの茶杓「泪」や茶器もあり能装束の多さも目立つ。刀剣の展示、源氏物語、千代姫の人形も見逃せない。
 筆者は美術館裏にあった手の入ってなかった森で遊ぶのを楽しみにしていたがやはり放っておくのはもったいなかったのであろう、徳川園という名園になり池のある景色を回遊出来るように変えられた。中にはゼットンのレストランがあり素敵なフランス料理が楽しめ、弟の娘のブライダルもした。姪は英国人と結婚したが外国人好みの庭なのだろう。徳川美術館を東へ行くと名古屋ドームがあり野球ばかりでなく各イベントを楽しめる。筆者はアムロのコンサートやK1グランプリでアンディフグを見た。
 横道へそれたがそろそろ本題へもどろう。一夫は故郷の山歩きが日課となり毎日体を鍛えていた。美代子は毎日花を活けたり押花で絵を作ったりして二人共一人娘里美の死を忘れようとしていた。だが死は残酷な現実だった。もはや会う事は出来ないのである。何度戻って来いと願っても虚空に手を伸ばすばかりでかなわぬのであった。一夫は従業員の中島にホテルは任せきりにし自分は自分の世界に閉じこもるようにしていた。美代子も同様だった。里美の息子達は順調に育っていた。長男の篤志は東大を卒業し厚生省に弟の匡志は早稲田を卒業し外資系の企業に進んだ。
 政志は姉の死が理解出来ず眠れぬ夜を過ごしビールと眠剤が離せなくなった。政志はバブル期に作った借金の金利と返済に追われ自分を見失いかけていた。一日三十万以上必要な銀行支払いは重荷で毎日それと戦わねばならず、地価の下落は銀行の信用も失い銀行からいろんな物を押しつけられるようになった。企業の主体性は奪われ言いなりに従うようになって行った。だが子供の教育費は待ったなしに必要で多い時は年に六百万は必要だった。毎日毎日が何とか金にしようともがいた。溺れた人のようにむやみに手を動かすが渦が立つばかりで虚しく沈んでしまうようにもがく毎日を送っていた。
 彼の回りに死んで行く人がいた。匠の食風という雑誌を出版する寺松氏が肝臓ガンに倒れ五十歳前に死んだ。自分の死を見てやろうとすごい執念の死だった。最期は達磨のような目を見開き絶えた。寺松氏と共通の友人だったJAZZの鈴木尚さんが胃ガンに倒れ後を追った。いずれも日本酒好きだった。鈴木尚さんはビッグバンドで市民ホールを満員にする程力のあるJAZZマンだった。彼はフリューゲルホーンの演奏者というよりも人脈があり、人と人を結びつける独特のキャラクターの持ち主だった。政志は自分のホテルの一階にあるパブシアターアバで月に一度の演奏会をお願いしていた。尚さんの胃ガンが見つかったのは偶然だった。鶴舞にある横山胃腸科で演奏会を開いた時、院長が検査をして行けと言ってそこで見つかった。
 その夜お互い行き付けの今池にあるガンドラで会った。ガンドラはがんばれドラゴンズから取った名でドラゴンズの佐藤社長の私設秘書の谷さんが経営していた。尚さんは手術すべきかどうか私に聞いて来た。私は手術しなさいと勧めた。金山の市民病院に入院したがもう手遅れだった。死ぬ前日にも覚王山のJAZZ喫茶スターアイズで演奏会をした。私も見に行き、もう休んだらと言ったら、一瞬くやしそうな顔をした。その翌日別れた奥さんや娘達に送られて旅立った。まだ六十才になったばかりの死だった。六十才と言えば俳句の山崎竹堂さんもそうだった。山崎さんとはノリタケの中日展で知り合い彼の所属する自由律俳句の会に誘われた事から始まった。私が数回出席し、会の俳句を選評し何故か山崎さんの句を選んだことから交際は深まった。句は「人の死へあっけらかんと冬花火」というものであった。彼は山頭火百周年で首席を取ったり島歌で同じく首席を取り句碑を造ってもらったり俳句の世界では著名な方だった。知り合って一年程で病に倒れ入院中句会に参加し酒を飲み一晩で死んだ。葬儀の日、雪が激しく舞い彼の生き方のようだった。
 政志は五十歳から絵を描こうと若い頃から決めていたので五十から戯画をよく描いた。文章はなかなか芽が出ず画に詩を含めた詩画が好きだった。そんな頃詩人の鈴木孝さんと知り合った。一回りも年上だったが中部地区では代表的詩人だった。彼に可愛がられ十年程過ぎた政志が六十三才の時、過労で死んでしまった。彼は半田の有名人でもあり大きな葬儀だった。政志はその頃自分を見失い酒に溺れボードレールの酔いたまえの詩ばかりを口遊んでいた。

【外国人の労働者】
宿泊業界にとって飲食税が廃止されてからの数年間はどの施設も豊かな時代だった。ほんの数年間の事だったが。消費税が始まり何かと重税感を覚えるようになるまでは。世界では中国で天安門事件がヨーロッパではベルリンの壁崩壊と様々な事件があり日本もその影響を受けた。
政志の宿では中国の就学生がアルバイトでよく来るようになり他のアジア人達も続いた。バプではフィリピンのタレントからロシアのタレントに変わり日本中のホテルでも旧共産国からタレントが入った。
 政志は旅行業者のつきあい旅行でハワイへ何度か行ったがアメリカの興業でも旧共産圏の踊り子達があふれるようになった。人が旧共産圏からヨーロッパばかりか日本にも来るようになり時給も下がり、物の値段も下がった。愛知県ではトヨタ系が臨時工としてブラジル国籍の日系を盛んに就職させた為ブラジル国籍の日系人が愛知県中に目立つようになり宿泊業にも流れて来て日本中は人でグローバル化して行った。気がつくと政志の宿も十カ国以上の人が働くようになっていた。入管もその都度法律を変え、ある時はイランイラク戦争で兵士をしていたイラン人が街で麻薬や偽のテレカを売った。名古屋の大須にもアジア人達が買い物に訪れ町を発展させた。段々外国人抜きではならなくなりつつあった。
 政志はフィリピンショーを止めロシアショーを入れる事を決め、東京のプロダクションに頼みモスクワメロディという三人娘を頼んだ。言葉は英語で通じ、感性も日本人と余り変わらなかった。ただプライドは高くすべて国で面倒見てもらっていたせいか医療費も政志が実費負担しなければならなかった。以後政志は彼等を国民健康保険に加入させた。一夫の宿もスリランカの親子が手伝うようになっていた。不況が進み稼働率が悪くなった工場はまず外国人労働者を切り、職を失った彼等はいろんな職につくようになり一夫の宿に流れて来たのである。スリランカは厳しいカースト制があり一夫の雇った親子は上流の人達で息子は教育がてら連れて来られていた。
 政志の名古屋の宿にも以前スリランカから娘がアルバイトに来たことがあった。彼女は同じ国の宝石商の愛人と一緒に来日しその後男に捨てられ流れて来ていた。多情な女で日本人の男と恋に落ち、その男の妻と殴り合いの修羅場を演じ政志は苦労したことがあった。他にも子供達の英語教育にカナダ人の女性を雇ったことがあったが彼女も恋多き女性だった。ショーに来るロシア人も年々違って来ていた。旧ソヴィエト時代に教育を受けた者はしっかりしていたがベルリンの壁が崩れて以後育った娘達には、余り節操がなかった。日本もある時期からフリーセックス化したがロシアはもっと若い頃からそのようだった。
 若くして離婚経験する者が多く、子持ちになってから子を母国に置いて日本へ仕事に来るのである。特にウクライナの娘は年収も少なく、アジアの国よりも低く百円のお金にもこだわった。チェルノブイリ事故を経験した彼女等は厳しさを知っていたようだ。現実にチェルノブイリへ父親が事故後働きに入り死んだ娘もいた。ロシアの娘の中にはウォッカの飲み過ぎで早死にする男の娘達もいた。彼女等はエジプトや中東でダンサー経験がありロシアと中東の深いつながりを感じさせた。
 国情によって各々違うが特にアジアの小さい国の娘達は家族の為に出稼ぎに出、中国や欧米から来る娘達は自分の為や日本を吸収する為に入国するが彼等の多くは人権もなく職場の保障もなくやって来る。彼等を食い物にする日本人も多い。彼等と比べ国が安定している日本に育った子供達は豊かで親の愛に守られ実に幸福だ。国が乱れるとその国の国民は遊民となり出稼ぎに行かなければならない。貧しい国の女性は性さえ売らねばならない。かっての日本のように。
 政志は入国管理局へ三カ月に一度ずつ延長手続きに興業ビザで来るタレントを連れ行かねばならなかったが初めは法務局内の狭い事務所のみだったのが年と共に外国人が増し、法務局の一フロワー全部を使うようになっていた。特に就学生留学生が増え外国人労働者がいろんな企業が求めるようになってからは本当に増えた。今後も少子化の日本は外国人が必要な事は身を持って理解出来た。しかし日本は島国で長い鎖国の歴史もあり排外的で基本的には血の交わりを望まない。ヨーロッパが難民や移民に苦しんでいる例もあり今後日本も岐路に立たされる事は政志にも認識出来た。日本はインバウンドに今喜んでいるが今後難しい問題に出会うだろう。政志は外国人のアルバイトやタレント達を扱いそう予見していた。
 天安門事件のすぐ後に政志は上海に行った事があった。まだ古い上海の気配が残っている頃で東洋のマタハリ川島芳子が関東軍と密議をした上海大厦に泊まり上海を味わったが帰国後中国人のアルバイトに三十年は遅れていると言った処、中国人のアルバイトは薄笑いを浮かべ何も答えなかった。それから二十年以上経た今政志はいつのまにか中国に追い越された日本を思い知らされるようになった。中国の発展は早く日本の二十年以上の停滞はあっという間に逆転してしまった。初めて上海へ行った三年後再び上海へ行った政志は新しい高速道路や地下鉄に出会い驚いた事があった。中国人は政志が味わった子供の頃地下鉄開通の新鮮な喜びを今度は上海っ子達が喜んでいたのである。

【愛知万博】
 政志は二千五年に開かれる愛知万博に期待していた。セントラルタワーズの中に多くの飲食店やマリオットホテルが出来、名古屋の飲食業界も随分変わり政志の宿も影響を受け宴会客が減少していた。JR東海の戦略はうまかった。セントラルタワーズに出来た飲食店には売り上げ目標を立てさせ、達成出来ないと閉店させるか場所の悪い所に移動させられた。又駅内にラーメン横丁を作ったりとかつての国鉄時代とはまるで変わった。それだけJR東海には優秀な人材が入社したのだろう。
 しかし万博の波及力は大きく万博前から名古屋は宣伝され政志の宿も一夫のホテルも宿泊客が増加し売り上げも伸び政志は少し助かった。この頃下がり続けた地価はようやく底を示し始めていた。万博で名古屋地区も見直され始めていた。だが大きな土地を持つホテルや旅館は資産が見直され不良債権が問題にされるようになり不良債権となったホテル旅館は容赦なく融資を打ち切られ競売に出された。第一ホテル系やビューホテル系も民事再生法で新しい道を探さねばならなくなった。全国のホテル旅館も次々と再生法を出した。政志が若い頃世話になった法華倶楽部も上野の店を売ってなんとか存続した。
 政志の宿も融資を受ける銀行の目が厳しくなった。まずバブル期に東海銀行から融資を受け買収したマンションが不良債権となり再審査を受ける事になった。政志は苦しいながら金利返済は滞った事がなかった。しかし東海銀行は圧力をかけて来た。追加担保を要求して来たのである。応じないと債権を売るという。小泉首相の政策もあったろう。それだけ日本経済は病んでいた。二億の借金が一億に減っていたにもかかわらず容赦なく政志の買ったマンションは債権をオリックスサービサーに売られてしまった。同時に子会社が持っていたゴルフ場の会員権も六百万の債権ごと売られてしまった。事実は東海銀行が自分の子会社のフロンティアサービサーに債権を買わせオリックスサービサーは隠れ蓑で政志を窮地に追い込んだのである。まず子会社の債権六百万は一年後が返済期限だったので政志はなけなしの金で支払いを済ませた。一億円は二年後が返済期限で万博での売り上げが見込めたのでとにかくお金を貯めねばならなかった。

【不良債権とハイエナ企業】
 銀行は仁義なき戦をしていた。小泉首相は日本経済を立ち直らせるため強い指導力で不良債権をなくそうとした為、自己資本比率の目標に達しない銀行は合併を余儀なくされ企業も身売りするか民事再生を考えねばならなくなった。政志は東海銀行の銀行員に多分お前の銀行は地元の人間を泣かせるのだから数年先にはなくなるだろうと言った。その後東海の名はなくなり次々と合併し今に至っている。政志は根本から自分の宿の経営を考え直さなければならず、とにかく借金を減らす事が先と考えねばならなかった。
 同時期、住友銀行からも一夫の背負った借金二億の返済条件に政志の保障を求められたので政志は従った。又、メインバンクの大垣共立銀行の政志の宿に対する見方も厳しくなり再審査され不良債権が三億六千万円程あると当時の中村支店長吉田氏に言われ、政志は止む無く無駄な資産を売却する事にした。
 まず椿神社の裏の土地を泉不動産の取り引き先が隣地の為欲しがっていると話があり売却する事にした。八十坪の土地一億円弱での取引である。話は進み名古屋銀行中村支店で取引が行なわれる事になった。売却先は新興企業の本洲建設でバブル崩壊以後地価が安くなった土地を買い駐車場ビジネスで急成長していた。椿神社の裏の土地も坪百万以下と最盛期の十分の一以下で地上げし日銭として駐車場は利益を上げた。こういう駐車場ビジネスで急成長は幾つもあった。泉不動産は本洲建設に入り込み機に敏なことから本洲建設よりだった。政志の土地に勝手に杭を打ち調査する等無礼な面もあり、当日も社長が政志に高く売りつけやがってと言った時、政志は腹が立ち取引を中止しようと思ったことがあった。しかしバブルで傷付いた企業と身軽に土地を買い伸びた会社の差は大きく、政志は我慢せざるを得なかった。取りあえず借金は一億減りその後も不良債権処理に急がねばならなかった。
 今、東海銀行も住友銀行も合併し東海は名さえ残っていない。大垣共立とはそのまま取引が続いている。それは厳しいながらうまく政志の会社を指導して来たからに依る。大垣共立中村支店の支店長は吉田さんから金森さんに変わった。金森支店長は吉田さんより更に厳しく政志の宿に当たって来た。東海銀行からフロンティアサービサーに債権を売られたマンションは万博以後名古屋銀行が融資してくれ事なきを得た。名古屋銀行中村支店の担当池田君は熱心に政志の宿を良い方向に導いてくれ、政志は感謝している。情のある銀行と非情な銀行の差は大きく企業生命さえ委ねなければならず、どの銀行を選ぶかが経営者にとって重要な事であると認識するように政志はなって行った。
 その後近くの親しいタオルを扱う富士さんも倒産したが社長の西川さんが後日三菱銀行に頼り過ぎた為こうなったと言っていた。中小企業は銀行が潰すつもりならどうにでもなる弱い存在で西川さんは高いリース料の機械を無理やり導入させられリース料が払えず倒産せざるを得なかったようだ。メガバンクは時に許せない事をする場合があり要注意である。その頃芦原の八木君に会ったが疲弊していると言っていた。バブル期に過剰投資した宿は日本中、病んでいた。バブル期宿は高級化路線を目差し一泊二食三万円の宿が流行した。旅行業者も点数制で宿を採点し評価を付け各旅館も競って良い旅館を目差し、同じような設計で画一的なサービスと同じ顔の宿がそこかしこに出来た。そんな旅館はバブルが崩壊すると今度は売り上げを伸ばす為に一泊二食一万円以下でも泊め、数を求めるようになった。当然やって行けるはずはなく、多くの旅館がハイエナ企業の餌食とならざるを得なかった。
 ハイエナ企業の流行する時代となり大旅館が何軒も買収されて行った。又各公共の宿も売り出され同じような目にあった。愛知県でも営業力の弱い宿を買収する企業があった。それは魚社会と同じで強い魚が弱い魚を食べ大きくなる図式と似ていた。愛知では鯱亭グループ等が代表的である。そんな一つのセラヴィグループは港区にイタリア村を造り今度は自分が倒産してしまった。鯱亭グループを率いる渡辺氏は早大の演劇出身で宿に色んな演出をするのが得意で全国的に弱った宿を援けその傘下に置いた。そんな彼にも困難な時があった。山海に源氏香をオープンさせた時である。彼は不思議なエネルギーで乗り切り今に至り大きなグループを造り東海一の宿屋のオーナーとなっている。彼の他にも愛知には個性的な宿屋の主人がいる。三河の明山荘の杉山氏と知多日間賀島の中山氏だ。杉山氏は蒲郡で一番の宿になった。彼の成功は彼の商法に依るだろう。彼は間口の広い商売をする。従業員も多人種でコンパニオンも平気でスーパーコンパニオンを呼ぶ、ひがきホテルは形に拘った為、民事再生の道を選ばざるを得なかった。
 ホテル明山荘は、形に拘らず売り上げを伸ばす営業をする。現代的でクールな戦略で成功した。日間賀の中山氏は彼の人間性そのまま島中を一つの方向に導く指導力があり篠島は漁業関係者と宿がうまく行かなかったのに日間賀は中山氏の力で結束している。タコからフグへそれも彼の力で島を豊にした。タコ饅頭タコ飯、海苔も彼の発案である。彼にも厳しい時代があった。内海の宿マニスがうまく行かなかった時だ。まだ洋式のホテルは内海には合わなかったようだ。イタリア地中海風のプルメリアもうまく行かなかった。温泉を売り物の観光地には和式の旅館が日本人には合うようだ。

【コンピューター】
横道にそれてしまったが政志の宿に話を戻そう。
政志の子供達は無事大学を卒業し二人の娘はホテルの事務所で長男は焼肉のさかいに弟は日本中央競馬協会JRAに就職し茨城県美浦のトレーニングセンターの寮に入った。一夫の古希の祝は多治見滝呂にあるフランス料理店で家族だけでやった。川沿いにあり良く流行る店で文化に飢えた地元の客が多く集った。残念なことに二年後改装した途端過大投資のせいでやって行けずオーナーが自殺し閉じてしまった。その後一般の家庭に生まれ変わっている。
 政志の宿では女中頭のテル子が定年退職、みどりが女中頭に替っていた。支配人の横井は賭博依存症が止まずとうとう問題を起こし、わたなべ旅館へ政志が考えたコンパニオンパックスポーツパックのノウハウを持ったまま数人のコンパニオンを引き抜き移って行った。政志は角抜きの将棋を打たなければならない気がし迷ったが去る者は追わずに徹しなければならず大西を支配人にした。政志の宿はテル子横井が去り、戦力は大幅に低下し房子と共に戦わねばならなくなった。
 時代はあっという間にポケベルから携帯電話にテレックスからウィンドウズの時代に替っていた。宿泊予約業務もコンピューターなしでは考えられない時代が急速にやって来た。旅行業も飲食業も急速にコンピューター化し、それに付いて行けない会社は潰れて行った。政志は早くからこれからの時代はコンピューターが主役と思い宣伝もコンピューターの画面に映像を流した。反響はすぐ表れ、知らない大会社からも予約が入るようになった。画面はサンプロセスの國井君に任せ作らせた。子会社もチケットガイドMOOと画面を流し丁度長野オリンピックもあり売り上げを伸ばし一番多い時は一億円を越えた。
 しかし時代は急速で専門知識のない政志は遅れている自分に気付かされた。二年もするとどの宿もコンピューターを取り入れ最新の画面を作り宣伝するようになり飲食業も従い、政志の宿も予約が取れなくなっていた。新しく参入した旅宿とかグルメ情報とかに頼るようになって行った。コンピューターは日本ばかりでなく外国人も直接予約が入るようになり毎年訪れる客も出来た。又外国旅行客のバイブルロンリープラネットを読んで訪れる客も次第に増して行った。その頃大きな問題は宿泊分離で一泊二食の宿泊客は減少し朝食だけや泊まりだけの客が増した事である。朝食は東海地区独特のモーニングを好み夕食は山ちゃんとか風来坊で手羽先や名古屋名物をという流れだった。一泊二食重視の日本旅館はどうしても不利で売り上げは当然下がってしまう。
 日本旅館が次第に不利になって行く中で税理士をする房子の義父が血を洗面器一杯吐いて倒れた。肝臓ガンだった。すぐに日赤に入院した。担当の医師は、あと一月か二月の命だろうと宣告した。無論家族にだけだったが。参議院に人を送り込む程力のある義父だったが病魔は深く進行していた。一週間程入院すると痛みに襲われるようになり段々強くなりモルヒネを打たねばならなくなって行った。次第にモルヒネの量は増えたが義父は十分その知識も有り拒否しようと痛みに耐えていた。ガンは進行ガンで衰えは激しく医者の言った通り二月は持たなかった。義父の好きな言葉酔生夢死そのままにルイ十三世を飲み散財の限りを尽くした人生は酔生夢死そのものだった。葬儀は親族だけのを一柳葬儀社に頼み本葬は駅前のセレモニーホールを使った。顧問先の多い事務所葬は参加者も多く政治家も沢山来た。
 政志の書いた脚本七色紙で重要な役盲目のお姿を公演してくれた増原さんが不慮の死を迎えた。アパートの部屋が燃え消そうとヤカンのお湯を浴び死んでしまったのだ。名古屋中の増原ファンや彼が育てた演劇人が集り盛大な音楽葬だった。今まで経験した事のない演出の葬儀で政志はあれ程多くの人に愛され惜しまれた死はないと増原さんを羨ましく思った。話は前後するが一夫や美代子の姉妹達も死んで行った。まず美代子の姉円頓寺の姉様が死に次に小山の富さが便所の中で倒れたまま息を引き取り、次に一夫が頼りにしていた好子に少しボケが入り肺気腫になり質屋で死んだ。一夫は宿が成長していく中でいつも相談相手の好子を失った事は支えを失ったようで痛手だった。数年して大須の花様が老衰で亡くなった。残ったのは、中村のさあ様と美代子だけとなった。美代子の姉妹達が亡くなっていく中で一夫の姉弟も亡くなっていった。川向こうの姉は母のはくと同じく七十二歳に脳溢血で死に夫の八十一は追うように肝臓ガンで死んで行った。いずれも一夫が世話になった人だった。一夫のホテルを田舎で手伝っていた弟の四郎も肝臓ガンで死んで行った。

【フランス料理】
 二〇〇五年の愛知万博に政志は期待しそれを機に借金も半減したいと考えていた。メインの大垣共立中村支店の支店長金山氏は鋭く数字を立て返済予定を迫り売上目標や原価率等も毎月具体的に政志は計画目標を立てねばならなかった。数字との闘いが日夜政志を苦しめ焼肉のさかいの東京支店に勤める長男に家にもどれと頼みに上京した。政志と房子だけではもう宿を守れないと思ったからだ。長男は仕事の関係で三重県の白子支店に移った後帰って来たが、すぐに日本料理研修の為に京都の「吉兆」に働きに行き実際にはその一年後政志の宿にやっと入社した。万博の始まる半年前になっていた。
 とにかく身軽な経営を目差し借金を減らしたかった政志にとって万博頼りだった。思った通り名古屋の宣伝もあり一年以上前から目立って名古屋に観光客や視察に訪れる客が増え、野球パック、相撲パック、コンパニオンパックいずれも良く、売り上げは好調で政志の計画目標は達成することが出来た。万博までの三年間で借金は以前の半分程に減っていた。二男の駈がJRAに就職した次の年の正月に政志の五十才の誕生日をマリオット最上階のフレンチレストラン三国で祝うことになった。三国の内装には高島屋が参加し内装工事の職人が長く政志の宿に泊まっていた御礼の意味もあった。代金は給料をもらい始めた駈が払うことになった。JRAの待遇は良く何かと付随の手当が多く恵まれていた。駈は低金利で会社の貸してくれた金でアルファロメオを買い、熱田神宮でお祓いしてもらう為、わざわざ美浦から車で来た。家族でフランス料理と高いワインを味わいながら政志の五十才を祝った。料理の最後にチーフが大きなケーキのスイーツをプレゼントしてくれた。束の間の家族で楽しい時を過ごした政志は房子と共に再び戦場という宿に戻らねばならなかった。ただ京都から帰った長男の造が会社に入り娘を含め家族一家で宿を経営することになった。

【戯画】
 五十才を過ぎてから政志は若い頃から決めていた戯画を描くようになった。経営が順調とは云えず絵を描く事は心の安定に非常に役立った。彼の絵は幼児の描くようなものそれを目差した。パウルクレーのまだ手探りをしているそんな絵画を望んだのだ。思うままに手を動かす色も和紙から浮かび上がって来るそのままに。円空が木片から浮かび上がって来る仏を彫ったように和紙に向うと何かが浮かんで来るそれを描き色も無邪気に付ければ良い。そんな風に。彼は鯱が好きだった。名古屋のシンボル、それに色んな色を付ける。鯱は金ばかりではない。季節ごとに時間に依って色を変える。日の出や夕暮れの赤に輝く時、晴れた日に青に染まる時、変幻自在だ。彼は心が定まらない時は不動を描いた。お不動さんは表情豊かで左右目が違う。髪もインドから来たのか縮れている。長毛ではない仏像は多い。政志の家系は縮れている者が多くその点では共通性があった。多分南から渡って来たのだろう。
 世界では戦争が起きた。イラク戦争である。イラクがクウェートを攻め占領するとアメリカのブッシュ大統領が怒り、アメリカがイラクを攻めたのだ。ブッシュがヒットアンドアウェイで終決したので早く片付いたがそれでは終わらず長く戦争の時代が再びやって来た。二十一世紀に突入してからも世界は逆に再び殺し合いの時代に戻っている。本当の意味での人間愛の哲学が完成してないからだろう。キリスト教もイスラム教も狭い自分達の教義に閉じこもり殺し合っている。日本でもオウムがサリン事件で沢山の人を殺した。二十一世紀の初めは二十世紀と同じく殺し合いの中で始まった。違うのは核の下で大戦には至らないことだ。

【宗春】
 政志は尾張徳川藩主宗春が好きだった。彼が宗春を知ったのは中小企業家同友会で宗春の勉強会に出席してからだ。尾関さんが中心メンバーで、まだ宗春が知られてない昭和六十年前後だった。尾張七代藩主で将軍吉宗に反撥し市場経済を開き芸処名古屋の礎を作った彼の生涯は政志を魅了した。現代でも経済を保護主義にするか開放にするかいつも問われるが宗春は温知政要という自作の書の中で忍と慈で国を治め祭や催事で民を楽しませる政事を行うのが為政者のあるべき形と説き、吉宗とまっこう対立しわずか十年足らずで藩主を追われ死ぬと墓石にまで鎖で縛られた反骨の一生を送った人である。大きせるを吹かせ名古屋の町を牛に乗り大見得切って巡ったかぶき者だった。商標の問題で南山大学の安田文吉さんや八百彦と政志は争った事もあるが今では妥協しなかった事を後悔している。商標権は宿で取ったがもっと一人歩きすればより宗春流だったろうと考えている。政志は宗春会席を板長に作らせ販売した。又宗春だけでなく信長の長篠合戦で味噌が食された故事から陣中焼という独特の赤味噌も販売した。もうすぐ名古屋城内にも土産横丁が出来るようだがそこでも販売されると良いだろう。新しい土産として。

【火事】
 政志がばたばた動いているうちに二〇〇五年の前年となり万博が近づき関連の動きが大きくなった。一夫の宿は瀬戸から近く海上の森からも三十分程で車で行け便利だった。万博の年はある程度の売り上げが見込め一夫は親類の小出家の別荘を借り期間中コンドミニアムとしてホテルの別施設として貸す事にした。一軒一泊何人泊まっても二万円という手頃な価格だった。又一夫の宿は万博期間中借りたいという話もあった。テレビプロデューサー天野氏の話である。その後その話は立ち消えとなったがかえって宿泊が高単価で売れ良かったと思う。
 万博協会は駅前のダイヤビルの中にあり房子の従兄の名鉄観光加藤氏も出向していたので入場券を政志の宿でかなり販売した。万博グッズは伊藤忠が独占していたが宿で契約し土産として月三百~四百万円は期間中売れた。万博の事はここでは省略するが政志の家族は何回でも行ける券を買い、暇があると良く行った。万博の客は政志の宿では埼玉や群馬の客が多くそれまで余り来た事のない土地の人が多かった。政志はこの年純利益を一億円と目標を立てていたが所有のゴルフ場倒産で二千万近い損金を出したもののほぼ一億近い利益を出す事が出来た。この年何故かあさくまの近藤誠治社長と知り合い時折店へ訪れた。房子は実家の死んだ父と誠治社長が面立ち白髪の似合うのに驚いた。
 徐々に借金が減り六億五千万程になっていたが苦しい時に借りた短期の借金一億円弱の返済が迫っていた。そんな冬の日寮が燃えた。一番古い従業員、以前女中頭をしていて定年後清掃に回っていた五十年勤続の八重子が鍋に火を付けたまま部屋を空け火事を出したのだ。炎が上がり近隣の人が気付き連絡を受けた支配人が消火に走ったが炎の勢が強く間に合わなかった。火は隣の家まで焦がしていた。消防車がすぐ何台もやって来て、誰も居ないかを確かめた後消火に当った。政志は寮を見た途端最悪の事が浮かび目の前が暗くなった。
 火災の事後処理は地元の消防団や近隣へのお詫びで大変な作業だったが保険はアイピーシーハマジマがやってくれ千五百万下ろしてくれた。寮は丁度以前から会計関係の会社が欲しがっており政志は売却する事にした。七千万円弱で売れ一億円の短期借入金を二千万円程の預金と保険金を崩した金等で無事返済する事が出来た。まさしく禍を転じてであった。
会計関係の会社の本社は東京にあり政志は長男の造を連れ上京し取引を済ませた。大垣共立も立ちあってくれ無事その場で一億円の借金返済も済ませた。政志は造を伴い帰りに天ぷらが有名な山の上ホテルへ行き二人で活きの良い天ぷらを食べた。山の上ホテルは二・二六事件で反乱将校が占拠した事で有名でロビーは昔さながらエレベーターも修理はなされているものの事件当時のまま残され政志は好きなホテルでもあった。天ぷらは素材が日本中の鮮度の良い物が集められ拘りがあった。政志は何回か利用していた。
 寮を売却した事を一夫は怒っていた。苦労して手に入れた思い出があり、息子を許せなかった。一夫の名古屋の宿での思い出は拡張の連続で息子の借金返済の事等考える事もなかった。それだけ順調で儲かった時代を過ごして来たのである。世代間での歴史の違いは大きかった。
一夫達戦中派世代は一途に仕事さえすれば良かった。しかし彼等の生んだ団塊世代はやみくもに仕事をするのではなくいつも新しい波を乗り越えて行かねばならなかった。世の中は新しい物を作り過ぎ団塊の世代は必ずそれを吸収し消化しなければならず、中には過食で体を壊す者もあったし毒に耐えられない者もあった。誰もが本当はこう叫びたかった「もう新しい物は生み出さないでくれ、もう何も望まないなから」だが世の流れは無常で虚無を克服するには新しい物を作り出す以外にないと進まねばならなかった。多くの者は疲れ果て荒波に沈んで行かねばならなかった。
 団塊の世代は幾つも生み出したが幾度も挫折した。戦争で皆が挫折した世代と違い団塊の世代はサーファーのように幾つも波を越える処世術が要ったのである。幾回も淘汰を経験し乗り越えた者だけが生き伸びることが出来たのである。政志はシジフォスの神話の中で繰り返される穴を掘り又穴を埋める作業を続ける拷問のように借りては返す作業を銀行との間に繰り広げ次第に疲労して行った。
 一夫や美代子は故郷に居て以前のように政志は儲けていると信じていた。だが現実はそうではなかった。一夫や美代子は里美の死以来、現実から目を背け現実から遠ざかり自分達の空間だけで生きるようにしていた。一夫は山歩きに美代子は花に。

【骨折】
 そんなある日、美代子が客にお茶とお菓子を届けようと中庭を歩いた時、小さな石に足を取られ、うっかり転んで足を折ってしまった。彼女はもう七十五歳を過ぎていた。老女にとって骨折は命取りになる場合もある。一夫は美代子を名古屋に連れて帰り中村区にある城西病院に入院させた。一夫は美代子の病室に自分もソファーに寝泊まりし生涯の伴侶である傷付いた美代子の面倒を看るようになった。入院は三カ月続いたが、それは国が骨折は三カ月の入院と決めていたからである。政志は名古屋のホテルから歩いて二十分と近く、毎朝父母に会いに出掛けた。美代子にはリハビリの時間が与えられ彼女も従っていたが復活には遠く歩くようにならなかった。
 三カ月後。美代子は城西病院を退院し一夫に連れられ田舎のホテルへ帰った。一夫は政志に手すり等を用意するように頼み、政志は友人の高橋に頼み一週間程で完了した。高橋は政志の南山時代の同級生で片方は義眼で介護用品を商っていたのである。同級生達は彼をガンチャンと呼び無類のドラゴンズファンでもあった。一夫は家政婦も頼まず一人で美代子の面倒を見るようになった。ただ週に二回の介護士だけは頼んだ。美代子は死が近付いていると感じいつまでも生きとれんと弱音を吐くようになって行った。

【中村観音と美代子の死】
 政志は目覚めが早くなり散歩するようになりその度に独学の俳句を作るようになった。散歩すると中村区でも花が多いことに気付き季節ごとに句が詠めた。彼は歩いて十五分程の中村観音別名白骨観音へ参ることが多かった。中村観音は空襲の流れ弾で焼けたが観音だけは焼け残った。女郎達の無縁仏の骨と全国から集めた女の黒髪で造った観音は黒ずんだものの焼け跡にすくっと以前のまま立っていて戦後寺は再建され観音はそのまま祀られていた。中村観音には当地で行き倒れた役者の父を忍び藤山寛美が建てた芸人塚もあり碑には芸の一文字だけがあり政志は毎朝それに水を掛け祈った。祈ると少しは心が落ちついた。
 中村観音は羽衣町という以前の遊郭の真中にあり女郎達の信仰の拠り所であった。近くには伸び盛りの鵜飼病院があり南側には名古屋銀行がある。美代子は一夫の甲斐甲斐しい看護にも拘らず段々弱って行った。人は歩けなくなると体力を失って行く。美代子は土岐市民病院に入退院を繰り返すようになった。とうとう八十二歳の師走に再入院した時には命の糸が消えかかっていた。政志が見舞いに行った木枯らしに枯葉が激しく舞う日、余りの美代子の変わり様に彼は動転してしまった。

 それから二週間経った一月の十日過ぎ美代子は旅立った。政志は家族で駆け付けたが死に目に会えなかった。すぐ様政志は一夫と相談し葬儀の用意をしなければならなかった。お通夜と葬儀は中村葬祭ですることになり、仮通夜は名古屋の自宅へ美代子の亡き骸を持って来て取り行なった。一夫は自分の時の分まで美代子の葬儀は立派なものと考えていた。政志は一夫の希望通り大きな葬儀を行ない参列者も千人を越えた。

【襟裳岬】
 美代子の死から三年程した六月に政志は戻ると次男駈の新しい赴任先北海道の浦河町へ旅行した。駈はすでに結婚していて二人してJRAの牧場のある浦河で住む事になり出掛けたのである。千歳空港へ迎えに来ていた駈の車で夕張でメロンを買い、帯広では輓曳競馬をバーベキューをしながら見て北海道で有名な菓子店六花亭へ行き浦河のホテルで泊まった。翌日は牧場のドーム二十個分はあろう広さと蝦夷鹿の跳ぶ姿に驚きながら、息子の与えられた宿舎を見て過ごし、夕方には襟裳岬へ白夜の下、向かった。
 風の強い襟裳には痩せた北狐がうろうろ歩いていて吉田拓郎の碑があった。碑には森進一が歌った襟裳岬(岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)の詩があった。碑にはこうあった「理由のわからないことで悩んでいるうち 老いぼれてしまうから 黙り通した歳月を ひろい集めて 暖めあおう」政志はまるで自分が歌われているような気がした。

 八時半過ぎ。ようやく暗くなり車で帰り襟裳市内にある寿司屋でつぶ貝を食べながら政志は再び先程の歌詞を小さく口遊んでいる時、長男の造から携帯電話に電話がかかって来た。造は「どうもホテルで食中毒が出たみたい どう対応していいか教えて欲しい」と、政志は飲んでいた日本酒も覚め現実社会にもどされて行った。

 筆者はその後政志のホテルがどう食中毒事件を乗り切ったかその後のリーマンショックに耐えたのか知らない。ただ政志が銀座通りのイタリアレストランリコッタで昼からワインを飲む姿がよく見られたという噂を聞くし一夫が入院したという話も聞いた。 (完)