あゝ、能登よ 能登半島

 1.
 能登半島。私たち家族がかつて7年間、お世話になったその能登で、とてつもなく大きな地震が起きた。2024年1月1日午後4時10分ごろの不意打ちである。震源は輪島市の東北東30㌔付近で深さ16㌔。地震は逆断層型でマグニチュード(M)は7・6で震度7と推定され、国内での震度7は2018年の北海道地震以来。大津波警報が頻繁に発表されたのは、2011年に日本人が体験した東日本大震災いらいのことである。その能登半島地震は珠洲で。輪島で。穴水、志賀、中能登、七尾、羽咋で…と能登半島の至るところで多くの人々の命を奪ったのである。今も多くの人々の行方がわからないままで人々は、断水に停電、孤立、食料不足、避難生活のなかで満身創痍となり、過ごしている。

 能登半島といえば、だ。人々の心はどこまでもやさしく、かつ透明である。♪能登はやさしや土までも、の言葉で知られる優しさに満ちあふた土地で知られる。それこそ、雪片はむろんのこと、雨粒ひとつ〝雨滴〟さえもが美しく温かくキラキラと輝いて感じられる。そして。そのやさしさに包まれて生き続けてきた全ての人びとにとっては当然のことながら、愛しくて抱きしめたいほどに限りなく自慢の海と風土、豊かな人情に恵まれた土地柄でもある。
 その能登の大地と人々が今、泣いている。土地のことばで<泣かんとこ>と言ったところで、涙は限りなく大地に吸い込まれ、落ち続けるのである。ことしの元日早々に唸りを立て大揺れに揺れ、半島全域が奈落の底に落ちてしまい、人々が呻き苦しんでいる。一体全体、何があったというのか。能登の人たちが悪いことでもしたというのか。そんなはずはないのに。能登に住む人々にはどうしてよいものか、が互いに分からない。それでも人々は互いに助け合い、その地獄の底から立ち上がろうとしている。歯を食いしばって。はいあがろうとしている。このことだけは紛れなき事実である。

 わたくしは今、かつて今は亡き森繁久彌さんが地元七尾青年会議所メンバーの情熱と求めに応じて能登を訪れ、作詞し、そのご岩代浩一さんにより作曲され、世に出、いまでは多くの人々に親しまれ歌われている<能登の夢>を繰り返し口ずさんでいる。せめて、歌の心で能登の大地がたとえ、ほんの少しでも癒され、安らげばーと思うからだ。
 歌は、森繁さんの冒頭のナレーション「海の潮こそ旅人なれ……」に続き、始まる。
 こんな歌である。
♪能登はやさしや土までも
 このやさしさにつつまれて
 七尾の浦に育ちしは
 血潮のたぎる誇りぞと
  タブの葉ずれに光る海
  何故か涙のこみあげる
  ああ雲は流れ雲はゆく
  ああ波は歌ひ波は呼ぶ
♪和倉の浜に二人して
 砂に字を書き君とまた
 よしなきことを語りしは
 遠いあの日の思ひ出か
  貝に心を寄せながら
  耳にあつれば波の音
  遙か岬の春(うす)づけり
  汐風よ海原よふるさとよ
  友よ大空よ能登の夢

    ※    ※

    ☆    ☆             
 その能登だが、七尾で家族五人で七年間過ごした第二のふるさとだと言ってもいい土地だけに、忘れられない多くの思い出がある。思い出は良いことも悪いことも、だ。話し尽くせない。話はわが脳裏に泉の如く噴き出てくるのである。そこには、いつも土地の人々との温かい交流、心の通い合いがあった。
 土地の人々が同調する時と否定するときによく使う言葉に「ほやわいね」と「ほんながかいね」がある。これほど私たちの胸元にズズイッと入ってくることばはない。実際、能登滞在時に私は、和倉温泉のある七尾をはじめ輪島、門前、珠洲で。そして穴水、中能登、志賀、羽咋など行く先々で、このやさしく、かつ厳しい言葉に助けられてきたのである。それだけに、私は、これほどまでに無情な大地震の襲来を許せない。

2.
 年明け早々から最大震度7を観測、能登全域を恐怖に陥れた能登半島地震は10日、発生から10日となった。午前9時時点での死者は203人で、うち珠洲市の6人と能登町の1人について石川県は「災害関連死だ」と発表したが、あくまでどれも10日時点での死者と災害関連死の数である。
 
 被害が日に日に大きくなっていく能登半島地震の実態が目の前にさらされているからだろうか。なぜ、なのだろう。ただ歩いている。それだけなのに。道そのものが泣いているように感じる。どんどん、どんどんと涙がまるで海の滴のように、津波となってわが両の目からあふれ、涙の道をつくり続けている。まるで血しぶきみたいだ。「な~んも。おれら。悪いことなんか。なんも、しとらへんのに。だちかん。わしらを何と思っとるのじゃ。繰り返すが、わしらはなんもしとらへんのに。なんで天罰みたいなもん、わしら受けなアカンのや」といった声があちこちから。能登の人々の声が聴こえてくる。

 その能登半島だが、私にとっては七尾で今は亡き妻ら家族五人(ほかに、愛猫てまりに、ウサギのドラえもんちゃんも一緒だった)で七年間楽しく過ごした思い出の地だと言ってもいい。それだけに、当時も珠洲を中心にかなり大きな地震が発生、取材基地を半島突端の現地に設け1カ月ほど現地キャップとして滞在したことなど(あの時も液状化現象がひどかった)忘れられない多くの出来事があった。思い出は良いことも悪いことも、話し尽くせないほどある。当然のようにあんなこと、こんなことが今なお、わが脳裏に泉の如く噴き出てくるのである。
 そして。そこには、いつも能登の人々との温かい交流、心の通い合いがあった。ママさんソフトボールの仲間たちに始まり、中日写真協会七尾支部の人たち。和倉温泉の旦那衆。清美さんらミス和倉温泉に七尾青年会議所の仲間たち。ほかに着物着つけ師の山原さん、エッセイストの小林さんらそれこそ、数え知れない人びととの交流と友情があったのである。

 ところで能登の人々が日常会話でよく使う言葉に「はいだるい」「おとろしい」「おいね」「ほんながかいね」「だら」「ちょっこし」「いじくらしい」「けったくそわるい」「ごっつぉ」などがある。そこで、私、わたくしは改めて思う。大地震が揺れた時、能登の人々はどんなに恐ろしい、そう「おとろしかった」ことか、と。
 私はかつて在任中に、新聞の地方版・能登版で【支局長日記】のほかに【能登の方言】を書き続けたこともあり、能登ならでは、の独特の表現にはそれこそ、多くを教えられたのである。
 そして。これらの会話。能登方言には、ごくたまにではあるが、「ほやわいね」「あのなあ ほいでなあ」と相槌を求めながら話してくる表現もあった。その言い回しは、不思議とかつて妻ともども三重県志摩半島で大変お世話になった海女さんたちが海に潜ったあと海女小屋の火場にみんなで当たってからだを休め雑談をする時によく使う「あのなあ」とか「ほいでなあ」といった表現と、どこか不思議とその口調、イントネーションが似ていたのである。
「あのなあ」「ほいでなあ~」「おいや」表現は、能登に在任中にどうかすると三重の女性たち、中でも海女さんたちが使っていた海女言葉にとても似ていることに気付き、私と妻たつ江(伊神舞子)は後年、能登の地で感嘆するやら驚くやらした。

 というわけで、能登の人々の口から出る会話、これほどまでに私たちの胸元にズズイッと入りこんでくるやさしいことばはないのである。実際、能登滞在時に私は、和倉温泉を抱える七尾をはじめ輪島、門前、珠洲で。そしてボラ待ちやぐらで知られる穴水、中能登、志賀、羽咋など行く先々で、これらやさしい言葉に助けられてきたのである。それだけに、私は、今回起きたこれほどまでに無情で非情きわまる大地震の襲来を許せないのである。
 そして。同時に私は現在、ウクライナで、ガザで続いている人間たちの愚かで醜い戦争。これらの全てが、自然の猛威にはかなわないことを改めて確信させられた。ガザも、イスラエルも、ウクライナにロシアの戦争も、だ。一時的にせよ、自然の猛威には、これら全ての戦争が吹っ飛んでしまうことも教えられた。令和六年の元日。能登半島を襲ったマグニチュード7・6の大地震は、それこそ一瞬のうちに多くの人の命を奪い、日本中を悲しみのどん底に突き落としたのである。
 
 いずれにせよ、自然が戦争を一向にやめようとしない、浅はかで愚かな地球の人間たちに対して怒り、警告を与えてきたことだけは確かだといえよう。でも、能登の人々がウクライナを、ガザを痛めつけたというのか。そんなことはないのだ。心優しい能登の人々は、いつものように互いに励ましあいながら生きているのである。(続く)

3.
 地震が発生して間もないその日。私が最初にお見舞いの連絡をしたのは、七尾在任時に妻ともども大変お世話になった当時の新聞販売店笹谷さんの若おかみ・よしえさんだった。私は大地震発生から少し落ち着いた1月3日昼になり「能登半島地震、大丈夫でしょうか。心からお見舞い申し上げます」といったラインによるお見舞い文を遠慮がちに打ったのである。このメールに対する彼女からの返事は次のようなものであった。何よりも返事がきたのは無事である証拠でよかった、と思ったのも事実である。

 私の問いかけに彼女は夫のりさん(憲彦さん)のことに触れ「おいや。うちのは発生当時、また運が悪いことに輪島に出かけており、二日間避難しやっと今日のひる七尾の自宅につき、茫然自失とはこのことです。疲れた-しばらくほっておいてほしい。とのことです」とのことで、一瞬のうちに地獄に突き落とされてしまった現場の緊迫感のようなものがビンビンと伝わってきたのである。
 そして。しばらくたった9日午後になり、よしえさんからは私宛てに次のようなメールが届いた。
「ありがとう まだまだ続く苦しい日々でも新聞は毎日届きました。(私たちの後任の販売店主さんはじめ、店員の皆さまには)頭がさがります……。今朝本紙のコラムに伊神さんらしき人から手紙が届きましたとあったのでア~アきっとと思いました(残念ながら、私は能登の知人記者らにメールはしたが今のところ手紙は送ってはいない。郵便事情が大変でかえって迷惑をかけてしまう、と判断したからだ。だから、まずはメールでお見舞いをすることにした)」

 このメール(ライン)に私は「大変でしょうが。なんとか能登全域が元に戻ることを願っています。」と打ち返すと、よしえ夫人からは「輪島へ携帯を落としてきた(夫の)憲彦ですが。携帯を新しく買ったので直接ちからづけてやってください」との返信があった。私は即座に次のようなラインを送ったのである。
「わかりました。憲さんはすごいお方だと思いました。携帯電話こそ失くされましたが、新しい携帯電話とともに能登を生き返らせようとしておいでなのだから。復興、心の底から願っています。」とー

 わたしが遠慮がちながら大地震発生が気になり、お見舞いのラインやメールをしたのは、ほかに七尾支局の女性スタッフ奈美ちゃんはじめ。私の在職中、国内外への「海の詩(うた)」公募で大変お世話になった元七尾JCメンバーだった佐田味良章さん、靴屋の木下博安さん、そして私が七尾支局在任当時の支局員数人に、その後の支局長経験者らほんの数えるほどであった。メールがかえってわずらわしくなることがないよう-それでも能登半島のことが気になるので最大限の配慮をし、連絡をしたのであった。
 
 1月13日夜遅く。今、わたくしは目をつぶって能登半島地震の惨状についてあれやこれやと頭を巡らしてみる。ここ数日、ネットを中心に調べてみたところ、能登が世界に誇る和倉温泉街はどの旅館も大きなヒビが至るところに入ったり、肝心のお湯が出なくなってしまう-といった大被害でここしばらくは営業などとても出来そうにない。さらに、あるテレビ局の放映によれば、美湾荘さんは旅館内のあちこちがクチャクチャで、おそらく加賀屋さんなど他の老舗旅館のどこもが同じように瀕死の重体といってかまわないだろう。
 日本はおろか世界に誇る旅館街の痛手となると、これは想像を絶するものだと言っても過言でない。ほかに志賀町では、地震で熱湯を浴びた男の子、中川叶逢ちゃん、5歳が救急車の出動を断られ亡くなってしまった。また、大相撲の人気力士「遠藤」のふるさと穴水では帰省中の長男や長女、そして妻も含めた6人家族の5人が家屋の倒壊で下敷きとなって全滅。大切な家族が一瞬にして亡くなってしまうなどただ一人残された男性のことを思うと、言葉もない。皆さん地獄に落とされたみたいで、運命としか言いようがない。私は、それに比べたら、短歌に俳句に、詩に、と楽しい日々を過ごし2021年秋に旅立った舞はまだまだ幸せな人生だったかもしれない、との思いを強くしたのである。と同時にニンゲン1人ひとりに与えられた定め、運命って。一体何奴なのだろう、とも思った。

 ここで改めて立ち止まって考えてみれば、生きていればことしが年女だった、わが亡き妻たつ江(伊神舞子)はウクライナ戦争もガザの悲劇、能登半島大地震も何もかもを知らないまま旅立ってしまった。もしも知っていたなら、俳人で詩人、歌人でもあった伊神舞子はどんな俳句を、詩を、短歌を天下に向かって作っていたかと思うと、なぜかわけもわからないまま怒濤となって涙があふれ出てきたのである。(続)