日記文学「笛猫日常茶番の劇(連載3)」

 人間は心臓と意識が動いている限り、だれもが一所懸命に生きている

 私たちの、この日常は一体、いつまで続くのか
 人の命なんて
 毎日毎日が波間に浮かぶ飛沫の如きものだ
 浮かんでは消え、消えては浮かぶ

 ああ、それなのに
 人間たちはみな、きょうも恥をさらして
 奇跡のなかを生きている
 そんな日常生活を私は人間の記憶として
 どこまでも綴りつづけていきたい

 帰宅すると、私は妻のMに向かって、こう叫ぶ
 Mよ!
 おまえは、また若くなり
 可愛く美しくなった
 まるで、妖精のようだ、と。

 それはそうと、ボクたちはそれが日課の如く
 毎日、家に帰ってくる
 どうして帰ってくるのだろう
 不思議だ

 そしてこうしてわが家の笛猫、こすも・こことシロの顔を見る
 毎晩、黙って茶の間でボクを見上げるふたり
 人間って。不思議ないきものだねっ、て
 彼女たちにこそ、ボクのなかの
 奥深くを見る心眼がある
 私はそう確信するのである。

 偏愛かもしれない

六月二十一日
 父の日。
 Mは私が一番気にしている、と決めつけるが「父の日」なんて、男の美学に反すると思っている。本当だ。
 きょうは日曜日だが、ナゴヤドームで5月度中日スポーツ月間MVP賞の表彰があり、ファンクラブを代表してプレゼンターを務める豊田市のAさん父子に付き添うため他の事務局スタッフともどもドームへ。
 MVPに輝いたブランコ選手は「またこの賞が取れるよう頑張ります」と約束。
 賞金とトロフィーを手にしたあとはカメラマンの求めに応じ、右人差し指を天に向け感謝する神さまポーズをして見せた。私はこの日、ドラゴンズミュージアムを久しぶりに訪れたが、先日、ブランコ選手がナゴヤドーム天井のスピーカーを直撃する特大ホームランを打ったバットとボールなどが展示され、そこに大勢のファンが集まっているところを目にした。
 入り口では今シーズンかぎりで現役を終える立浪選手の等身大パネルが設置され、立浪選手の声で「ゆめをもて」と直接語りかける設営に感心もし、さすがは中日ドラゴンズだな、と思うなどした。
 この日は引き続きファンサービスで2番ゲートと五階パノラマ席通路に立った公式ファンクラブのマスコット・ガブリくんにも付き合い、一方で「あなたはファンクラブ会員になり、何に感謝していますか」「何が嬉しかったですか」「何を望んでいますか」なぞと、天童荒太の小説「悼む人」ばりにドーム内を、声を枯らして取材して回ったのである。
 そして、帰路はドームから地下鉄に通じるドラゴン通りを歩きながら、きのう妙子姉さんのコンサートで彼女の実姉のОさんから「たかのぶさん、やせられたね」と言われ、少し嬉しくなったことなどを思い出していた。
 メタボでなく、病的でもない均衡の取れたからだの維持は私の美学のひとつでもある。
 何あろう、私自身が、この年になっても現役時代とさして変わらぬほどに動き回っている、その証しともいえよう。

 携帯電話の調子がどうにも悪いので、思い切ってワンセグに変えてみた。
 これから、使いなれるのに大変だ。
二十二日
 月曜日。朝、出勤すると事務局内にあるロッカー(物入れ)の位置がいつのまにか他者のものと替えられており、「なぜ、ひと言もなく替えるのだ」と私。事務局内は一瞬、冷や水をかけられたように凍りついたものとなった。私が言いたいのは「なぜ、ひと言事前に言ってくれないのだ。それに新しく備えられた別の物入れはデカ過ぎて、それこそ権威の象徴以外のなにものでもない」ということなのである。
 担当者が、ひと言も言っていなかったことをわびたので、そこはこれ以上荒だてる必要もないと判断し、それ以上追及することはやめたが、こうした権威主義はよくない。これからも是々非々で、少なくとも職場内は空気だけでも公平なものにしておくべきだ、とつくづく思う。

 事務局会議。十二日の名古屋市立大学往復分と二十一日のナゴヤドーム往復分の交通費をポータルで申請した。世の中、変わったものである。ポータルによる電子申請など、現役時代には、とても考えられなかった。
 同期で既に社を去った者たちが知ったら、驚くだろうな。
二十三日
 かつての青春歌謡歌手、舟木一夫さんを追っかけてやまない東京の上田京さん、弥富の橋爪節子さん、奈良の畑山三紀子さんの往年の美少女、三人と栄の中日ビル隣の中区役所地下一階の飲み屋さん「嘉文」で懇親。
 全員がキャリアウーマンで生活は夫の稼ぎで、自分の稼ぎは「すべて舟木さんに注ぎ込んでいます」とのこと。今回の中日劇場の公演だけでも一回に一万三千円かかる観劇を七、八回から十七、八回もしたと言い、これに交通費を加えたらと思うと、いやはやおそるべしである。
 私は私で高校時代からこれまでに至る舟木さんとの関わりを話したが、いやはや、同世代だけに、話が弾み楽しいひとときはアッという間に過ぎ去った。畑山さんは、若かりし日々、舟木さんが自殺未遂をはかった直前にツーショットで撮ったという写真を大切にしておられ、見せてくださった。
 上田さんに「一度、舟木さんが育った一宮の萩原に行ってきたら」と話すと「あす、さっそく行ってきます」の返事だった。

 この日は仕事を早く切り上げ、社から区役所まで歩いたが、たまたま社の出口で気仙沼出身の販売局の若手担当員Rくんとばったり会い、一緒に歩いた。紙の売れ行きは、の私の質問に彼いわく。
 「最近は、お客さんの方から『お金がないので取れません』と拒否されてくる場合が多く、こう言われてしまったのではなんともなりません」と。
 昔と比べ、この落差は、一体何なのだろう。

二十四日
 朝、雨の降るなか、Mとゴミ出しをした。私の車パッソは例によって『護美運搬車』と化し、それでもM自慢の緑の車体をくねらせ、集積場横の駐車場へ、と入った。車を停車させると、幾つものゴミ袋を順番に運び出してゆくMの頭上に傘を差して守るようにしたが、彼女の動きは相変わらず、パッパッといった感じで歩く動作も速過ぎる。私はそれでも雨で少しでも濡れないように、と傘を差しかけながらMの動きに合わせて走り回った。
 昨夜お会いした舟木一夫さんの追っかけ女性、上田京さんからメールが入り「萩原まで、早速行ってみたのですが歩き疲れてしまい、舟木さんのお父さんの墓参りまでは出来ませんでした」とのこと。私はなんだか悪い気がした。でも、上田さんご自身、なにがしかの意義はあったはずだ、と自らに言い聞かせた。
 帰宅後、玄関でピンポンの音がしたため、Mが出向くと川崎の長男夫妻からハタハタの一夜干しの小包が届けられたと分かった。どうやら、ひと足遅れの父の日の贈り物らしく私は嬉しくなり、電話したが、留守のため「ありがとう」とだけ礼を吹きこんでおいた。
二十五日
 夜、長男から電話。一夜干しの礼を述べ「二十八日に迫った私の父の三回忌はどうするのか」と聞くと「行くよ」の返事。時間は○○、服装は▽▽、お菓子代も、と傍らで指示するMの言うとおりに会話をして電話を切った。
 私はあす名市大の講義があるため夜遅くまで準備に追われ、午前零時を過ぎ、やっとこうしてペンを進めている。昼の職場での原稿執筆、事務作業も忙しく、このところは体を休めている暇がない。それでもMの目には「自分のことだけしかやってくれない」と映っているようだ。Mの機嫌が悪くなると、全身が心身ともに「火の女」と化すので怖い気がする。
 きょうは、私自身、疲れきって帰宅途中に丸の内の地下鉄駅構内で夕刊を読もうとした際、誤って新聞の一部を右目に突き刺してしまい、しばらく目が開けられなかった。幸い、しばらくしたら自然に治った。

 この日は三万五千年前のフルートの存在を新聞が報道していた。
二十六日
 本年度前期最終となった名市大の講義は、市川房江さんを取り上げ、戦後の女性参政権獲得秘話を中心に授業を進め、創価学会婦人部制作の「平和への願いを込めて」のDVDを上映し、広島で被爆した女性四人の証言を紹介した。
 学生一人ひとりの感想文の多くが「五回の授業で名古屋の良さ、をあらためて知ることが出来、大変楽しかった。ありがとうございました」と述べてくれており、毎回、授業に先だち、あれやこれやと準備してきたかいがあった、と嬉しく思った。
 授業のあと、担当の山田教授から来年四月入社の新聞社の採用試験に「おかげで名市大から二人が合格しました」との報告を受け、嬉しく思った。
 夜は横笛の練習で上前津のけいこ場へ。さくら、越後獅子、青葉の笛など数曲をふいてみた。
 「音は出るようになったわね。でも、まだ音楽にまでは至っていない。楽しむところまでは、ネ」とは師匠の弁。厳しい指摘ではあったが、その会話のなかにある弟子へのそこはかとない愛を感じた。

 マイケル・ジャクソンが五十歳で天に召され、世界じゅうのファンが哀しんでいる。

 木曾川の宇佐見販売店から心のこもった紅鮭が届いた。宇佐見さん、いつも本当にありがとうございます。
二十七日
 土曜日とはいえ、社へ。中日スポーツのファンクラブ通信用の会員からの受けファクスを確認するためと毎週月曜組の「ガブリの目」執筆のためである。
 土曜日のコラム「局デスク」の筆者がきょうから新しい編集局長に変わった。
 きょうは仕事の合間にMのこだわる楠正成(まさしげ)、正行(まさつら)親子のことにつき、インターネットのヤフーで調べられる範囲を調べて大切な部分のコピーをしておいた。とはいえ、Mの言う正成、正行親子の笛の別れの場面がどこにも出てこない。で、「青葉の笛」で検索したところ、平敦盛と熊谷直実の有名な下りの説明が何カ所も現れ、青葉の笛のメロディーまでが♪いちのたにの いくさやぶれ うたれし へいけの きんだちあわれ…と、悲しく流れた。

 帰りに県立図書館に寄って名市大の授業で使わせていただいた創化学会婦人部編の「平和への願いをこめてー女性たちの戦争体験―」をお返しした。
二十八日
 父の三回忌が永正寺で営まわ(削除)れた。MとH、長男夫妻で参列。大垣に住むYは来なかった。
 終わって、MがYに連絡すると「案内が来ていなかった。これから仕事に行く」とのこと。だったら、来られたのに。私の兄がうっかり出し忘れたかもしれない。それとも、どうせ来ないのだから、と案内を出さなかったのでは。両方とも嘘を言うはずがないだけに、郵便屋が届けていなかったのではーと懐疑が懐疑を呼ぶ結果となった。
 母に電話すると、いまさらゴタゴタするのは嫌だから「お兄ちゃんに電話はしないで、目をつぶった方がいいよ」というのでここは黙ったが、Yに悪い気がしてならなかった。やはり、誰も悪くなんかはない。ここは私たちが親の責任で事前に確認すべきだった、と反省している。
 きょうは、永正寺境内でMが沙羅双樹の樹を見つけたので、ふたりで携帯に写しておいた。長男の嫁、K子さんが帰り際に左腕をアブに刺され、私までが左足首を知らぬ間に捻挫し痛める、など少しばかり誰かが意地悪をしたようだ。
 きっと、天国の父のせいに違いない。
 それからK子さんといえば、きょう初めて彼女から「ユーチューブ サシミ 猫特訓用」なるものを教えてもらい、さっそくインターネットで見てみた。Mは「こすも・ここが医者に行った時みたい」と、その凶暴性に驚いていた。(凶暴性について説明が要るのでは?)
 夜、ひと息ついたところで、たまたまNHKのBS2でMと一緒に「トニー賞授賞式2009年」を見た。エルトン・ジョンがブロードウエーのステージに立ち「厳しい不況なのに、皆さん、財布と心を開いてくれてありがとう。ブロードウエーにぜひ、来てね! おやすみなさい」と呼びかける姿に感動した。
二十九日
 日曜の朝。
 出勤後、確かに空は暗く雨が降り落ちてきそうな予感はあったものの「まあ、いいや」と傘を持たないまま社へ。案の定、帰りはかなりの降りとなっていたため、本社西玄関のガードマン氏から一本を借りて帰った。

 きょうはなぜか、大変に疲れた。先日、お会いした舟木一夫さんの“おっかけ3人娘”を「ガブリの目」執筆のため、電話で追っかけるのに、かなりの精神力と気力、労力がいったのと、きのうの父の三回忌での疲れが急に出たようだ。
 夜、帰宅すると全身がふらふらで立っているのが、やっとだ。
 思わずMに向かい心のなかで「俺がこのまま死んだら、Mへのこの記を本にするか、ウエブ文学同人誌の熱砂にアップしてほしい」と、そう言い、ついでに私の部屋で静かに一緒に横たわっている、愛猫こすも・ここにも「オイッ、分かったか」と、叫んでしまった。
三十日
 六月も、とうとう終わりである。
 最近、Mがしばしば食卓に出してくれるのが、サクランボ、桜桃である。
 歯にキシリと味がしみって、これほどおいしいものはない。
 桜桃と書くと、ボクはなぜか、あの太宰治を思い出してしまふ。Mはいつもオレに向かって言う。
 「ほんとにナルシストなのだから。太宰より上よ」と。
 そうだ。その通りだ。太宰と比べられては、たまったものでない。
 太宰より、もっともっと上と叫ぶ私にとって、この世でただ一人、最高の文学者を知る真の理解者は、Mよ、おまえだけなのだ。これもまた、ナルシストと謂われる所以か。そうでなくっちゃあ。この世でこうして二人で居られるはずがないじゃないか。
 そう言えば、文学界七月号の最後のページ、鳥の眼・虫の眼「作家の業」第五十三回(相馬悠々)に、こんなことが書いてあった。
 ▼太宰は、「小説を書くというのは、日本橋のまんなかで、素っ裸で仰向けに寝るようなものなんだ」「自分をいい子に見せようなんて気持ちは捨てなくちゃ」と語っていた。ものを書くことは、それがたとえフィクションであったとしても、「鶴の恩返し」の鶴が、自らの羽根を引き抜いて織物をつくったように、わが身を苛む。モデルになった人間、その作家の周囲にいる人間の生身にも影響を与える。その文学の本質は変わらない。―と。
 同感である。
七月一日
 錦三丁目でソプラノ歌手の傍ら、張柳春さんが経営する中国料理店「湖南屋」でA旅行社のユウコさん、大手印刷会社のBさん、交通事故の怪我から立ち直ったテルヨさんの四人で暑気払いの集い。二千円にプラス飲み放題料千五百円の一人計三千五百円で楽しい夜となった。
 ユウコは相変わらず、つよかった。
 この席で私は、横笛で越後獅子や青葉の笛をふいた。
 話は前後するが「湖南家」は、日中音楽文化交流会会長でソプラノ歌手でもある美貌の張柳春さんが経営しており、張さんはじめ、スタッフ全員の仕事に没頭する姿がすてきでもあった。張さんのためにも、一度ぜひ行こう行こう、と思っていただけに、行って本当によかったと思っている。
 もう七月。月日は脱兎のごとしか。
二日
 私にとって一番大切なMへの手紙をうっかり忘れそうになり深夜遅くになって、こうして筆を進めている。
 今夜はMに叱られた。
 「じいちゃん、早く食事してくれないと、寝られないじゃない。疲れているから、はやく眠りたいの」と少しだけ私にからみついてきた。
 そういう私は、Mがわざと私を半分茶目っ気たっぷり呼ぶように「やはり、じいちゃん」なのか。Mのご機嫌ななめに「オレだって、なんだか知らないが、会議、会議の合間の取材や執筆に追われ、クタクタなのだから」と相手に届かないほどの小さな声で反論してみた。
 それでも「せめて、台所の皿洗いだけでもしてやらねば。過去何度も倒れているだけに、このままだと、彼女のからだがつぶれてしまう」と遅がけの食事を終え、台所の皿をすべて洗い、おまえの指示どおり、「洗濯が終わったよ」と報告。
 今度は洗濯物をベランダに干す仕事を手助けしたのである。

 この日、落合中日の連勝記録が八連勝で途絶えた。序盤戦の戦力不足を克服して、ここまで挽回したことに対しては、当然評価していい。

 それから、きょうは各紙とも朝刊で芥川賞と直木賞の候補作が紹介されていた。だが、相も変わらず一部名だたる文芸誌からの選考ばかりが目立ち、地方で息づく文学同人誌からの作品となると一作も見当たらなかった。これでは大手出版社の作品ばかりが目立ち、とても日本全体から選ばれた候補作とはいえまい。おそらく地方に眠る同人誌のなかには、これら候補作を上回る作品があるに違いない。ただ候補作を読んだうえでの酷評でなければ、これとて単に犬の遠吠えに過ぎないのかもしれないのだ。

 東京のHシステムズの社長ら三氏が私を訪ねてファンクラブ用グッズの売り込みに。事務局長とグッズ担当者も同席し応対したが、ネーム入りグッズなど、どれも思案の結果が分かった。ただ、ファンクラブの場合、ことしのグッズのあらかたはデザイン済みだけに、これからとなると難しく「今後は、遠慮なさらず提案してください」ということで球団のグッズ担当を紹介させていただくに留まった。
 H社長は日本ペンクラブの前事務局長秋尾暢宏さんの紹介だけに、今後も大切にしなければ、と私自身は思っている。秋尾さんが博報堂に居た当時からの友人だという。
三日
 先日の飲み会でユウコが教えてくれた落合監督を心酔しているという関東の少年・和也君について取材を進めている。和也君は現在、小学四年生だ。母親は、エールフランス日本支社に勤めるキャリアウーマンだが、このところは、息子の所属する少年野球チームの世話人を務めるなど母親までが、すっかり野球にはまってしまった、そうだ。練習試合で勝ったり、いい試合をしたりすると、決まってプロ野球チップスをごほうびに買い与えているが、少年はいつ落合さんのカードが当たるか、胸をどきどきさせているというのである。
 なかなか、よい話ではないか。
 実は恥ずかしながら、この取材を通じてプロ野球チップスなるものが、この世にあることを初めて知った。なんでも、いま関東地方の子どもたちの間ではプロ野球選手のカードが二枚入っているポテトチップス、いわゆるプロ野球チップスが大はやりだという。
 和也君は中日ドラゴンズの落合監督が大好きで「落合さんのポテトチップスがいつ当たるか」と胸をわくわくさせている、というのだ。落合さんを好きなわけは「野球図鑑や試合での監督の采配を見て好きになった、と話している。母親は「練習試合で勝った時や、負けても良いプレーをした時に買い与えることにしています。早く、落合さんのカードが当たり宝物ができるといいね、と話し合っています」とのことでした。
 ところで、Mはプロ野球チップスの名を知っているだろうか。一度聞いてみたい気がする。
四日
 土曜日とはいえ、社にいつもの時間どおりに上がり、本日付の中日スポーツファンクラブ通信を公式ファンクラブのホームページに入力、月曜組み込みのコラム「ガブリの目」を、あらあら書いたあと、地下鉄でナゴヤドームへ。きょうは、デーゲームで試合前の午後一時半から公式ファンクラブのマスコットキャラクター、ガブリが2番ゲートでお客さまのお出迎えをするためである。
 たまたま、この日は長野県伊賀良販売店主催の観戦ツアー一行が遠路訪れこともあり、こちらのお出迎えと取材にも当たった。ナゴヤ球場でのファームサービスと重なったため、私はドームの方の面倒を見た、というわけだ。
 ついでにドーム内の売店でプロ野球チップスを探したところ、五階パノラマ席にあった、あった。一人で一箱、二箱と買い占めていくお客さんもいるそうで、売れ行きは上々だ、と知った。ちなみに、このプロチップス、「一日二十箱以上が売られ、一人で二箱を買いだめしていくファンも少なくない。
 私も九十円で一袋買ってみた。
 家に帰って袋を開くと西武の岸投手ともう一人のカード二枚がついており、なんだか嬉しくなり、少しばかり感激した。Mに聞くと「昔から、あったわよ」の返事で、私自身何も知らない自分を恥じ入った。Mの言うとおり、私は何も知らない男なのである。
五日
 きょうは朝からMに半ば命じられるが如く、草引きをし、そのあとは私の日課でもある新聞整理と切り抜き、スクラップ張りをした。
 Mはなぜか朝から機嫌が悪く「あなたは、いつだって何もしてくれないのだから。一体、何をしてくれたというの」「やることがあるのでしょ」と一日じゅう、私に対して挑発的だった。
 私はご機嫌ななめの彼女をどうすることも出来ず、名古屋のN美容院へ。ここには私のお抱え美容師であるK青年がいるためで、Kさんに頭をカットしてもらい、少しだけ落ち着いた。
 もしかしたら、Mはこのところ私あてに頻繁に届く女性からのメールを盗み見し、邪推して機嫌を悪くしているのか。だとしたら、全く心配ナゾしなくてよいのに。Mはいつもは、そんなケンケンした女性ではないはずだが。
 きょうは、何かの事情で虫の居所が悪かったのかしらん。
六日
 Mは月に一度の検診で一宮市の大雄会病院へ。帰宅し、いつものように「どうだった」と心配して聞くと、「変わりないわよ」の返事だった。「血圧は?」には、70~150とのこと。月に一回とはいえ、私たち家族にとっては、心配な日なのである。担当のF先生に、我侭を言やしないか、とアレもコレも(挿入?)が気がかりなのである。
 きょうは、月曜日。朝、家を出るときは雨がかなりの降りようだった。
 おまえは朝、なぜか頬に紅を差し、少女のような装いで、なかなか美しくチャーミングな女だった。大雄会の診察のあとは一宮駅の名鉄百貨店まで行って、過去に私たちがお世話になった人に中元も送ってきてくれた。
 中元リストは、すべてMの腹ひとつ。社関係は一切なく、それよりも地方記者時代に、お世話になった地方の人々が大半である。ありがとう、M。

 東京のファンクラブ会員、原田さん夫妻からていねいな暑中見舞いが届く。
 Hシステムズさんからグッズのサンプルが私あてに届き、事務局に保管する。
 きょうは七夕を前に牛車を洗う「洗車雨」の日。だから、雨降りだったのか。
七日
 私はこのところ、毎朝、出勤前に時間をつくってはパソコンを開き、愛猫こすも・ここと一緒に「青葉の笛」と「少年時代」を聞いている。
 「青葉の笛」は、その旋律に叙情性があり、Mが何かと気にとめている曲だからだ。また「少年時代」も、言わずと知れた、Mの大好きな井上揚水さんの曲だからである。こすもは、ボクが座るデスクの向かい側の応接セットにチョコンと座り、ボクの方を見て大きな目でいちいちうなずくようにして聞いている。

 きょうは職場に出勤すると、京都のファンクラブ会員、西村幾雄さん夫妻から京の旬野菜が事務局に宅急便で届いていた。なす、きゅうり、トマトが「京の旬野菜」のシールつき袋にたくさん、たくさん入れられていた。さっそく、キュウリを折ってかぶりついてみたが、その美味しかったこと。お礼の電話をすると、あのお美しい奥様が出られ「みなさまに味わっていただければ何よりです」の返事。で、みんなで山分けにして持ち帰った。
 東京に住む落合信者の野球少年、その母親に「ガブリの目」が掲載された中日スポーツをお送りする。原田夫妻には、私からはがきの返信を出しておいた。
 きょうは帰宅すると、大垣時代にお世話になった、平野学園の理事長で同学園高校長の順ちゃんからもジュースの詰め合わせが届いていた。

 新聞報道によると、中国新疆の暴動死者は百四十人に及んでいる。
八日
 雨傘をさしての出勤。
 水曜日なのでMは私より、ひと足早く、リボンちゃんを風呂敷に包んで大切そうに胸に抱えてリサイクルショップ「ミヌエット」に出かけていった。リボンちゃんとは、本物の猫そっくりで生死こそ分からないが、それでも魂は生きて居、最近わが家の一員に加わった猫である。
 Mは、そのリボンちゃんを店先に並べ、きょうから今週のそれこそ、手間暇ばかりがかかる業務に入った(このショップは、市民から寄せられた衣類などを破格の安値で売って市民生活に役立ててもらうボランティアショップである。開業するのは、Mのからだのこともあり、毎週水、木、金、土の四日間)。

 清水義範さんの新聞連載小説「川の流れる街」のイラストに屋根神様が登場。本社デザイン課職員、安藤邦子さんの挿絵が、ここにきて冴えわたってきた。
 安藤邦子さんといえば、私の記者ルポルタージュ「町の扉―一匹記者現場に生きる」の挿絵を手がけてくださった、その女性画家である。
九日
 夜。大須の師匠邸で横笛の稽古。
 仕事のあと、疲れ切ったからだをふり絞るようにして出向いたが、玄関のイヤホン番号を間違えて押してしまい、隣近所にご迷惑をかけてしまった。
 それはそうと、師匠がふく「青葉の笛」は、何度聞いても、ふき手のからだまでが笛の音とともにしなうようで、それはそれは見事だ。
 愛知県柔道整復師会の佐久間会長から毎度ながらの丁重なお中元(水羊羹)が届いた。
いつも、ありがとう。
十日
 早朝、Mと今やゴミ運搬車と化したマイカー、緑色のパッソに乗って指定場所でゴミ出しをする。
 Mは、きのうも今日も相変わらずリサイクルショップ「ミヌエット」でのボランティアの業務に始まり、私と息子、猫ちゃんたちへの食事の用意に始まり、洗濯、その他の家事…と、病身を押してそれこそ働き通しである。
 私なりに、皿洗いなどもするのだが、彼女に言わせれば、焼け石に水かもしれない。

 こすも・ここが私の部屋であげていた汚物を誤って踏んでしまい思わず騒ぐとM曰く「それきしのことでわめかないでよ」「あわてふためくんじゃ、ねえよ」とまるでヤクザそのものの物言いだ。いつだったか、その筋から電話が入り「あんたのだんなを、これから殺しにいく」といった脅迫電話が入った際、逆に「殺せるものなら、殺してみな」とたんかを切ったM。あのころのおまえは、まだ三十そこそこ、きれいでかわいかった。

 実際、Mは本当にクールで沈着である。
 たとえ原爆が投下されても決してうろたえないだろう。
 Mに生かされている、自分の愚かさが、まっこと恥ずかしくなってきた。
 女と男の肝っ玉の大きさの違いかもしれない。そういえば、おふくろも、これまでどんなケガをしても平チャラだった。死んだオヤジは、チョットしたケガにもそのつど、うろたえていたっけ。

 このところは先にMが送ったお中元に対するお礼の電話が各地から相次ぎ寄せられ、Mはそのつど電話に出てなつかしそうだ。どの人も地方でお世話になった、かけがえのない方々だけに、Mの嬉しそうな笑顔は見ていても気持ちがよい。
十一日
 一応、休みの体制ながら、次回「ガブリの目」の事前執筆とファンクラブ通信のホームページをアップするため午後、社へ。
 久しぶりに歩いて駅まで出向く際、ミヌエットに寄ると、Mは一人、カウンターに立っていた。「愛栄通りの母」の店が閑古鳥か、と心配して聞くと「いつもどおりよ」の返事に少しばかり安心した。
 とはいえ、奉仕同然のお店に、おばちゃんたちは自分の居場所を求めて気を安めに来るのである。それだけに、Mの社会への貢献度は凄い、と思うのである。

 夜。ウエブ文学同人誌「熱砂」同人の牧さん(大正琴琴伝流弦洲会主)から電話が入る。「近々、詩を送るから熱砂にアップしてほしい」というものだった。

 年に一度の胃カメラ検診をお願いするため、社から仕事の合間に一宮の山下病院・奥平事務長に電話でお願いする。「服部理事長に話したうえで連絡します」とおっしゃってくださったが、甘えすぎはいけないと思い「私の方から、来週早々にも連絡いたします」と話し電話を切った。
 山下病院の服部先生(理事長)には、一宮主管支局長当時から、ほんとうにお世話になり通し、甘え通しである。
十二日
 日曜日。小牧の販売店さん主催の観戦ツアーが訪れるというので、ガブリとともにナゴヤドーム2番ゲートでお待ちする。
 予定より三十分も遅れて来たため、正直あわてた。というのは、ガブリが汗だくになってしまうからである。幸い、風もふくそんなに暑くはない日だったため、なんとか待ってもらい、事なきを得た。
 それよりも、そのツアー客のなかに私が小牧在任当時、空港担当記者のころに大変、お世話になった元小牧市経済環境部長、かつ元市議会議長の小島茂さん夫妻が加わっていたのには驚いた。
 直感で、もしかしたら小島さんにお会いできるかも、とは思っていたが正夢になるとは。この日一番のいい思い出となった。小島さんは八十三歳とは思えぬ若さで、近くの売店まで行って、わざわざ私のために生ビールのジョッキまで持ってきてくださった。久しぶりに共に飲むビールほどおいしいものはない。
 飲みながら人生の大先輩はボクに向かってこうアドバイスしてくれたのである。
 「ガミちゃん、いまのお勤め、ご苦労さま。定年を過ぎたからと言って絶対に自分から辞めることだけはしないように。いつまでも元気でいられる秘訣なんだよ」とも教えてくださった。
 小島茂さんといえば、市役所を退職後も市議会議員として長年、活躍され、つい最近になって引退された。人生の達人ともいえる人である。私はたまたま、持ち合わせていた招待券二枚をお渡ししたが、帰宅するや、Mに「小島さんにお会いした」ことを伝えたのは当然である。

十三日
 きょうは、生きていたら九十三歳になっていたはずの亡き父の誕生日である。
 夜、Mがポツリと言った。
 「あすは、パリ祭だね。マリーアントワネットが絞首刑に遭った日なのだ」と。

 牧さんの詩「虹」をウエブ文学同人誌「熱砂」の作品集のなかにアップ。風天の寅さん(渥美清さん)が作った虹に関する俳句にも匹敵するね、とはMの感想である。
 デ、Mのその言葉をちゃっかりと拝借し、作品紹介コーナー(WHAT ,S NEW欄)には「フウテンの寅さんこと、故渥美清さんの俳句に負けず劣らずの詩『虹』をお楽しみください」などと言ったことを書いておいた。
 ウエブ文学同人誌「熱砂」で思い出したが、編集長の碧木ニイナさん(ホワイト好子さん)が娘さんの美佳ちゃんと、あすからペナンへの旅に出るという。みな幸せな人生を過ごしておいでである。

 東京都議会選挙は、民主党の圧倒的勝利に終わった。麻生政権の末期症状は隠しようがない。
十四日
 火曜日。
 このところ土、日も出てほとんど休みなしだったこともあり、代休を取り、私が尊敬する詩人左和伸介さんの娘さんに名古屋でお会いした。
 名駅近くの割烹料理(挿入?)屋で食事後、近くの喫茶で休み、東区にある文化の道二葉館へ。ここからタクシーで鶴舞公園まで行き、公園内をふたりで歩いたあと、バスで矢場町まで行き、降りた。ここからは歩いて大須へ。
 大須の町中を流してあるく途中、大須演芸場にも立ち寄り、たまたま玄関先にお出(おいで?)だった足立席亭と雑談。席亭は先日の柳家小三亀松さんの葬儀に新聞社のトップがお忍びで参列されており、心から感動した旨、話された。
 大須ではうなぎの「やっこ」で、ひつまぶしを食べ、最後はここからタクシーで名古屋駅近くのカラオケ店へ。しばらく二人で唄ったあと、JR駅までお送りした。
 私たちは食べながら、歩きながら、歌をうたいながら左和伸介さん(ペンネーム・清水節さん)につき大いに語り合ったが、その左和さんも今はいない。娘さんからは亡き父・左和伸介さんの詩集「唖者の祈り」一冊をいただき、私からはたった一冊だけ手元に残っていた私の著作「一宮銀ながし」をお渡しした。
 「一宮銀ながし」の中には、左和伸介さんをモデルの一人として私が書き、一時期、文壇でも反響を呼んだ小説「熱波」が収められているからである。
十五日
 代休明け。結構やることは多く、バタバタと時が流れていった。

 この日は芥川賞と直木賞の発表もあった。

 午後七時半過ぎ、K販売局次長から職場に居た私に「三宅さん(公式ファンクラブ担当販売局次長)が亡くなりました。つい先ほど、六時過ぎに奥さまから夫が亡くなりました、と連絡が入りました」と電話が入る。
 帰宅途中のТ事務局長に携帯でこの旨お伝えした。しばらくして、中日ドラゴンズ球団のN代表から「高島さんからメールが入ったので驚いて電話した。詳しいことが分かったら、また教えてほしい」との電話。
 一時期の公式ファンクラブは、N事務局長を頭に三宅、そして私の三頭馬体制で運営されてきただけに、やはり僚友の死は悲しい、のひと言だ。人は、所詮、最期は悲しみの道を歩くしかない、ということなのか。それとも、これは天の配罪、神の仕業なのか。

 疲れ切って帰ると、能登半島は七尾市の笹谷憲彦、芳枝夫妻から石川県産のブドウが一箱送られてきていた。それと、きょうは、出社すると、机の上に封書一通が置かれていた。先日、中日新聞の入社試験をパスした犬山市内に住む名市大女子学生からで「私が合格したのは、山田教授の助言と伊神さんのおかげです」などといった内容で、なんだか嬉しくなってきていたのに…。

 人生とは、嬉しいことや悲しいことが交互に押し寄せてくるものなのか。
十六日
 私は朝、出勤前に笹谷憲彦さん夫妻に、おいしいブドウに対する礼状を、名市大の女子学生にも返事を書いた。このうち笹谷さん夫妻には「おいしい、おいしい。日本一おいしいブドウをありがとう。『アラッ、のりひこ。なんておいしいやねん』と天からテルさん(笹谷輝子さん)の声が降ってきそうです」といった内容だ。
 また新しく新聞記者として踏み出す女子学生には「記者になりたい、その一心、努力が実りボクまでが誇らしく思っています。おめでとう。時代を見る記者、正義の味方であり続ける記者になってほしい」などといったことを書いて返信した。

 この日。朝の出がけにMは何を思ってか、台所で体を曲線状に右、左にくねらせるストレッチ体操を繰り返しており、思いがけない彼女の体操には思わず、心がなごんだ。
十七日
 朝、豪雨のなか、自宅近くのバス停まで歩いたが、全身の三分の一ほどがびしょ濡れとなり、バスに乗り込んだ。
 雨の音を聴きながら、私は昨日亡くなった三宅さんのことを、ぼんやり思っていた。まだまだ若い三宅さんの「無念さ」が空を伝ってそのまま、地上に堕ちてくる雨のひと滴ひと滴に感じられるのだった。が、その人には、もはや声もなければ意志も何もない。
 私たちに見えない神は、なんてむごいことするのだ。
 生前、三宅さんは彼なりに仕事への情熱の糸を絶やさず、よく努力された。
 実務面で大変なご苦労をされていたことは、原稿を書きながら傍目から見ていた私にもよく分かった。時折、会計面で少し気になる点などを指摘したのだが「これは自分の仕事だ」と、とうとう私に対して相談されることはなかった。一人で多くを抱え込まれてしまったのではないか。その点が残念でならない。

 夜、黒川の葬儀場であった三宅さんの通夜に出る。通夜から帰った時は、歯の痛みもあり、かなり疲れていたのでMの傍らで横になり、そのまま寝入った。
十八日
 朝一番でマイカーを運転して一宮の山下病院へ。
 毎年、恒例の胃カメラをのむためで、やはり緊張する。毎度のことながら、服部理事長先生が心遣いをしてくださり、滝先生の手で無事終わった。
 滝先生曰く「ポリープは、いつものようにあります。でも大丈夫ですよ。食道、十二指腸はきれいです。胃が荒れているので、細胞検査をするために少し取らせていただきました。詳しい結果が分かるのは二週間後です」
 毎度ながら細い長い管を口から首、食道、胃、十二指腸…と入れられるのには苦痛を伴う。ことしは細胞の摘出がしっかり行われたようで、その分だけ、かなり苦しい胃カメラ撮影となった。
 服部理事長の診断は「いつも通り、ポリープはありましたが、おそらくは心配ないはずです。細胞摘出検査で何かが出れば電話させてもらいます。たぶんその必要はないはずですが。念のため、イガミさん、携帯の番号を教えてください」とのことだったが、検査結果が少しだけ気になることは確かである。
 山下病院の服部理事長先生には、一宮主菅支局長在任当時からお世話になり通しである。この日も朝一番で検査してくださったおかげで、十一時から黒川(名古屋)の葬儀場で行われた三宅さんの葬儀になんとか間に合った。
 
 この日、葬儀場へはバスと名鉄、地下鉄を乗り継いで行ったが、地下鉄車内で三宅さんとうりふたつと言ってよいほどの中年の紳士を見かけたが、一瞬、天から彼が降りてきたのか、不思議なことがあるものだ、と思った。
 葬儀では喪主の有子夫人があいさつで述べた、「主人は一生懸命に闘いましたが帰らぬ人となりました。さぞや無念だったことでしょう。どうか、残された私たちを守ってください」の言葉が胸に突き刺さったのである。
十九日
 日曜日。このところ、疲れも重なってか、右の歯の上の部分が痛む。が、仕事やら何やらでやることが多くて、体を休めることもままならず、このまま放置しておくと大変なことになりそうだ。
 日曜日なので診てくれるところなどないだろう、と思っていたが、Mが「アピタの中にあるから行かなきゃあ」というので、ショッピングに行くMのお伴がてら出向いた。Mが買い物をしている間に私は歯の診察を受けたが、医師、女性の歯科技工士見習いともに患者の立場にたった対応で、きょうの診察には納得した。
 案の定、膿がたまっており、部分的に膿を取りのぞいていただいたうえで、(痛くなったら飲む)必要?痛み止めの薬と、食後に飲む抗生物質の薬(必要?)をいただいて帰宅した。

 このあと、憲彦さんからいただいたおいしいブドウを携えMと母が住む(挿入?)和田に行ったが母は居なかったため、玄関先にブドウを置いて帰った。
 妹から電話が入り「大相撲を見に行ったあと、孫の嫁ぎ先である(挿入?)つちやホテルに寄り、今つちやさんところに居る。悪いね」とのこと。別に何も悪くはない。ただ「ブドウを玄関先に置いておいてきたから」と私。

 それから、きょうは先日、母からもらった、母が育てた大きなスイカを切って、みんなで食べた。切ったと言っても、切ったのはMである。あまり大きいのでMでは無理だからオレが切らなければ、と思っていたが気がついたら、Mが既に切っていてくれた。
 けさは未明に急にパラパラと雨が屋根を打って降り出したので二階のベランダに干してあった洗濯物をいったん室内に入れ、朝になり日が差してきたところで、今度は再びベランダに干した。このほか、二匹の猫ちゃんにえさを与えたーなど私なりにMの負担を少しは軽くしたつもりでいるのだが。Mは簡単には「ありがとう」と言わないので、これで良いのかどうか、が分からないのである。

 和田から帰り、長男が学会であすからブラジルに行くと聞いていたので、気をつけて行ってくるよう川崎の自宅に電話すると、妻のK子さん曰く「先ほど無事、成田に到着し今はバスに乗っているはずです」と。どうやら、出発と帰国の日を私が勝手に勘違いしていたようだ。
 まもなくして彼から電話がかかり「いま、帰ってきたから」とケロリとしたもの。長男には昔からそうしたスケールの大きいところがあり、これこそが彼のおおらかさでもある。
二十日
 海の日。本来なら休日なのだが。
 朝、八時過ぎには名鉄山王駅へ。ここから歩いてナゴヤ球場に向かった。集合時間の九時まではまだ十分にあるため、途中、球場横のちいさな公園のベンチに座って、ひと休みした。ここ三、四日前から目立つようになった蝉時雨が、それこそ、競争するように鳴いていた。
 球場に着くと、ファンクラブのお母さんで知られる安江都々子さんたちが居られ「七時から待っているのですよ」の弁。既に五、六人の人の群れができており、こうした人々のおかげがあればこそ、ドラゴンズがあるのだ、とつくづく思った。

 この日は二軍選手の室内練習場見学はじめ、キャッチボールや熱中症の予防講座、選手との記念撮影などが行われた。昨年までは、ドラゴンズ球団が球団のジュニアファンクラブ会員を対象に行われてきたが、ことしからはジュニア会員の公式ファンクラブへの統合に伴い、公式ファンクラブの主催イベントとなったのである。

 午後はナゴヤドームで二軍の六月度月間賞の福田選手にファンクラブ会員の中から選ばれたプレゼンターが表彰する場に立ち会ったが、ナゴヤ球場での夏休み特別イベントのさなかにプレゼンターにお渡しするドーム招待券を忘れていたことに気付き、江南の自宅までトンボ帰りするなどした。
二十一日
 私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の例会の件でホワイト好子編集長(ペンネーム・碧木ニイナ)にメールをする。牧さんが二十五日夜にしてほしい、と述べていた希望が、彼女のペナン行きの日程と重なるため、その調整をするのが目的だった。結局、例会は八月二日にすることになった。時間と場所も近々、決めなければならない。

 この日は、大垣に住む次男Yと大家さんに、それぞれの保管用賃借契約書一通ずつを郵便局からMが送った。契約内容は、今年の八月八日から一年間である。本音を言えば、Yには、そろそろ結婚でもしてもらい、新しい場所で住んでほしいのだが。
二十二日
 日本中が四十六年ぶりの皆既日食ということで空を見上げた。
 あいにく、職場のある本社、丸の内周辺の空は曇っており、日食は見えなかった。ただ本社のカメラマンは硫黄島沖で日食を見事にとらえ、一面に素晴らしく、かつ美しい写真を載せていた。
 インド、上海、硫黄島、トカラ列島…と連なる皆既日食帯。
 ここでは悲喜こもごもの観測風景が見られ、日の光り(太陽光)が月に妨げられ、暗くなった地上に不気味さを感じた人間や動物たちも多かったようだ。猿が背伸びをしたりし、何事かといった表情でいる様子(これは、テレビの映像で見たのだが)が、私の頭には強烈な印象として残った。無口なMが若いころから「上ばかり見ていなくたって、下(地上)を見れば分かるよ」と言っていた様子がよく理解できた。

 きょうは出社後、例のファンクラブ次長に対する一方的な肩書きはずし問題について、Т事務局長に迫り、ひと言申し上げた。
 「いやしくも、現ファンクラブ事務局次長に対し、勝手に組織図を描いて、それを本人を度外視したまま他者にしゃべるとは、なにごとか。見え見えの『Iはずし』と受け取られても仕方ない。私を事務局に送り出す際の、あの社トップの約束(いつまでも居てもらい、一年後には事務局長をやってもらう。ぜひ野戦部隊長としてファンクラブを頼む、と時の編集担当とトップから頼まれたこと、など)は、一体全体何だったのか。社の誠意の問題で私は出るところへ出て、これらのいきさつを公にしても良いのだ、と。
 結局はこの一件、話せば分かるТ事務局長の誠意もあって、私に広報編集担当という肩書きをつけていただく、ということで落着したのである。それもこれも、もし私が忍従していたとしたなら、イイワイイワで進行し、ある段階で私の堪忍袋の緒が切れ、気まずいことになったかもしれない。人間関係、やはり思いのままを話し合った方が互いの信頼関係も増すというものだ。私は事務局長・Тさんのその日の誠意ある物腰を、あらためて評価し「この人物ならば、ついていっても良い」と確信したのである。

 夜。帰宅すると、太田治子さんから横浜開港百五十周年を記念した扇子と紅茶が送られてきていた。この扇子は大切にしなければ、罰が当たると嬉しく思った。
二十三日
 けふは、太田治子さんから届いた扇子を胸にしのばせて出勤した。帰宅すると、Mが「太田治子さんと、大津の真鍋京子さん(同人誌「くうかん」主宰)に江南名物のフ菓子を送っておいたわよ」の弁。Mには、このように、いつも助けられてばかりである。

 ファンクラブ事務局も来月からは、現役の優秀な社員がさらに二人増強される。いずれも、私と同じく記者上がりだけに、心強く、いまから期待をしている。増員に伴って事務局のレイアウトもガラリとかわるので、今のデスク席が少しばかり心残りでもある。
二十四日
 夜。仕事を早めに切り上げ、上前津へ。師匠宅で横笛の稽古をするためだ。
 師匠は、稽古の合間にこんなことを話してくださった。
 「伊神さん、何事もよくすることの匙加減が大切なのだって。良くし過ぎもよくないのだって。それからねえ、不幸はうつるって。みんな、お弟子さんのRさん(女性弁護士)が教えてくれたの。彼女の言葉よ」と。
 確かに、よくしすぎて逆に反発を招くことはある。自分自身、胸に手をあてても思い当たる節がいっぱいあるのである。
 Aさんしかり、Bさんしかり、Cさん、Dさん…みなしかり、だ。
 女性に甘い私にとっては、至言でもあり、もはや手遅れのケースも思い当たるが、これからんはそれこそ、匙加減を抑えていかなければ、としみじみ思うのである。
二十五日
 朝起きてメールを開く。
 昨夜、私が送ったメールに反発するように「もう理解することが出来ません。私に会ったことはなかったこととして忘れてください。さようなら」といったメールが届いていた。昨夜の師匠の話ではないが、私は匙加減を甘くしたあげく、彼女の誤解までを誘ってしまったようだ。自業自得とは、このことか。
 私は彼女への最期のメールを次のように打った。
 「さようなら。私からあなたにメールすることは、こんご永遠にありえないでしょう。名古屋までわざわざ私に会いに来ていただいた時は本当に嬉しかった。あらためてありがとうございました。お元気で」

 きょうは午前中、県民共済への入会呼びかけのチラシを手に万一に備えた手だてをーと少しばかり県民共済の仕組みを頭に叩き込んだ。Mとも相談し早く申し込まなければ、と思っている。いまの私の立場は特別嘱託社員で現役時代と比べたら給与が格段と安いだけに、いざという備えだけはしておきたいからである。
 午後、Mの指示でクリーニングを取り出しにバローへ行くと、ちょうど仕事の合間に買い物に出てきたMとバッタリ、デ、そのまま二人で買い物をした。ついでにパン屋でパンを食べていると、窓に映る空の雲行きが急にあわただしくなってきた。私たちは、私がわが家、Mがリサイクルショップ「ミヌエット」へ、と走り、洗濯物などを室内に入れたが、私の場合は手遅れとなってしまい、ベランダの干し物には雨という雨が浸みてしまった。
 急の雨たちが止んだところで私は自宅近くのドコモショップに出向いてメール送信する際の写真添付の方法を女性スタッフから教えていただいた。元々、機械音痴の私が、写真送信の方法だけは、しっかり覚えておかなければと思ったからである。
二十六日
 相棒のMとバロー、ヘルスセンター、アピタ、いったん自宅に戻って、今度は母が待つ和田の実家、の順に車で動き回る。動き回る、とは言っても地方記者時代に一日に百?、二百?と飛び回っていたころに比べたら月とスッポンほどの違いである。
 バローでは、ウーロン茶一箱とクリーニングを終えたワイシャツ一式を車に運び、続くヘルスバンクではトイレットペーパーにティッシュペーパーの箱、猫缶、食用油、ビール一ダースなどを仕入れてアピタへ。アピタでは、私は歯医者で治療を受け、Mは買い物。きょうは歯の治療の方が早く終わったので私が食品売り場の方に出向いた。
 買い物すべてを終え、アピタをそろって出ようとしたところで、雷と風を伴った猛烈なにわか雨に見舞われ、入り口で三十分ほど立ち往生する破目に。雨が通り過ぎたところでやっと店を出た。きのうの午後もだったが、きょうも突如の雨に急襲され、人びとは皆一様に空を見上げて面食らっていた。
 そしてアピタのあとは和田へ。満八十九歳の母も大変な雨には驚いた様子だったが、裏の窓を開けると入ってくる風がさわやかで気持ちよく感じられた。私とMは亡き父の霊に手を合わせ、Mがアピタで買い込んだ白い鯛焼き二本(コ?)をふたりで話をしながら食べた。母は食べたすぐらしく「おなかが一杯なのであとで食べる」とのことで、残る鯛焼き一本は仏前に供えられた。
 きょうは、大相撲名古屋場所の千秋楽。
 たまたま相撲の話になると、母は「こないだ名古屋場所を見に、つちやさんの招きでカズヨたちと行ってきたが(砂かぶりで見ていたためか)、テレビにおかあちゃんたちが何度も映ったそうだよ。(砂…をここに挿入するのが良い?)孫のミツキちゃんを抱いたカズヨも大きくアップで映ってたよ」と嬉しそうだった。シゲルさん(カズヨのご主人)がその点は抜かりなくビデオ収録してある、とのことで一度見てみたいな、と思う。

 帰宅後は、小説「全身を音でたたかれている」の執筆を、深夜から未明にかけ延々と続けた。
二十七日
 月曜日。事務局に出社したら、室内のレイアウトが一変していた。私は淡々と自分の席に座り、仕事を始めたが、何かしらの違和感を感じないと言えば嘘になる。さっそく私と同じ特別嘱託の同僚がこう話しかけてきた。
 「○○さん。私も部長でしたが(部長以上が座る)肘掛け椅子の使用は、これを機会にやめることにしました。○○さんもやめるべきです」と。
 私は内心で「せっかく、これまでも座ってきた椅子を、わざわざ替えることもないのでは。返って非経済では。編集局では当然のように特嘱の編集委員のだれもが肘掛け椅子をつかっている。今のままで良いのでは」と、ノドまで出かけた返事を抑え「あぁ、そうですか」とだけ答えておいた。
 それにしても人間というもの、六十を過ぎると給料はじめ、座る椅子までもが価値のない『物体』として、だんだんと、だんだんと底の底まで落とされていくものなのか。そして、こうした状況を何やら見えない目が見ているやら知れぬ。
 少しばかり悲しくなってMにだだをこねるように「俺って。だんだんと人間としての価値がなくなっていっちゃうんだね」と言うと、さすがに日ごろはクールそのものの彼女も「さあー、どうかな」と首をかしげてしばらく黙りこみ、ポツリと「そんなことは、ないわよ」と俺の味方になってくれたのだった。
 そういうMを目の前に私は「負けるものか。上辺だけではない、老いれば老いるほどに、もっともっと価値ある男になってやるんだ」と自らに誓ったのである。

 群馬では、この日、竜巻が吹き荒れ、人々は、突如として多くの被害に遭った。人間たちが、皆平等にこの地上に生きていても、だ。座る椅子一つにこだわっている時間があるのだったなら、私は一作でも多く人類にしか残せない小説執筆に励んでいきたい。

 中日こども会の三宅邦夫おじさんが、私の居ない時に事務局に顔を出されたという。八月六日に迫った作家太田治子さんの講演会の件か、と思う。
二十八日
 出社したら、事務局長の方から「○○さん。イス。今までの(肘掛け椅子)を使っていただいて結構ですから」と声をかけられ、出鼻をくじかれたと言うか、見事に足払いを食らった形となり、私は「ありがとう。分かりました。そうさせていただきます」と答えるしかなかった。半面でこれが彼の優しさ、思いやり、能力なのだろう、と感心もしたのだった。
 私は昨日「人間みな一緒、肘掛けのないイスに変えられても黙って座ろう」と覚悟していただけに、なんだか不思議で妙な感覚にとらわれた。昨日、同僚氏が「○○さんも、もう嘱託なのですから。肘掛けのないイスに替えさせてもらおう、と思っています」とのたもうたばかりだ、というのに。一体、わずか一日の間に何があったというのだろう。見えざる神の手は、何を謂わん、としたのか

 それにしても、きょうも一日中の雨降りである。
 山口県防府市では水害被害が多発した。テレビのニュースキャスターは日本の気候そのものが温暖化で変わってしまった、と騒いでいるが、長い悠久の宇宙のなかで、ほんとうにそうなのだろうか、と私は思う。

 きょうは中日こども会の三宅邦夫おじさんが事務局にお出(い?)
でになり、作家の太田治子さんが蒲郡市民会館で記念講演される第四十二回全国幼年教育夏季大学について説明された。彼女が話される記念講演会の演題は、三宅おじさんのアイデアもあり「―太宰治生誕100年記念講演会―恋と子育てと女の生き方」と既に決まっている。
 太田治子ファンの私としては、夏季大学の成功をただ、祈るばかりである。

 中日旅行会の女性スタッフに、八月二十七日の対巨人戦のチケットをエールフランスの女性に渡してくれるよう、お願いする。この女性の小学生の息子さんが落合信者である、と中日スポーツの「ガブリの目」欄で紹介させていただいたから、そのお礼である。
二十九日
 水曜日。今週もMのリサイクルショップ「ミヌエット」でのボランティア奉仕が始まる。Mはいつものように片目が傷ついたままのはく製猫のリボンちゃんを大事そうに風呂敷に包んで脇に抱え、私よりも先に家を出ていった。

 けさはバス停に立っていて珍しい光景に出くわした。
 つい先日、七夕祭りが終わったばかりの一宮から持ってきたと見られる七夕飾りが、トラックの荷台に乗せられ、ひと房ひと房、道路沿いの街灯に飾られてゆく、というものだった。七夕飾りの再利用だが、それはそれで悪くはない、と思う。バスが動き出し、車内から愛栄通りを見やると、人けのない通りに、それは見事な七夕飾りだけが幾筋も下げられていた。江南の七夕祭りが三十一日と八月一、二日の三日間だということも町の看板の記載から初めて知ったのである。
 今は、すっかり寂れた町ではあるが、昔の良さを取り戻した真の愛栄通りに復活してほしい、と思うのは私だけであろうか。私が勝手に名づけた、Mの店に集う愛栄通りの母たちとて、同じ気持ちにちがいない。
 夜。帰宅途中に見た江南駅前の七夕飾り。夜風にふかれ、地方都市ならでは、の情緒をかもしていた。

 この日は大阪の詩人冨上芳秀さんから「詩遊 ?23」が届いた。
三十日
 ことしの長雨ときたら、それこそうんざりする。山口県や群馬県では豪雨や竜巻被害が深刻だが、日本中がやはり、なんだかおかしい。
 かといって私自身が空港記者として全国各地を飛び回っていたころも豪雨被害の現場取材となると、決まって七月だったことを覚えている。長崎大水害、山陰豪雨禍、嬉野豪雨、長野県の老人ホーム「松寿荘」の崩落と地附山の土石流災害も確か、このころだったような気がする。
 ただ、ここ数年を見る限り、ことしは確かに異常で気象庁も冷夏になりそうだ、と予報を流している。

 Mは、きょうポツリとこう、言った。
 「あのねえー、もう秋よ。秋なのだから」と。
 「えっ、なぜ」と答える私に彼女は続けた。
 「きのう、バローを出たところでオニヤンマが群れをなしてとんでいた」
 なるほど、毎年、八月初旬には吹く風に秋を感じている私自身も、ことしは吹く風の中に立ち、もう秋がきた、と思っていたのである。それでも七月に秋到来では、いかにも早すぎると心の内では誰にも言わなかったのだが…。Mの目は、やはり敏感である。
 Mによれば、やはり「今は、もう秋」らしい。

 ことしは日照不足による野菜への影響も深刻で北海道ではジャガイモがうまく育ってない、とテレビが報じている。
三十一日
 金曜日。夜、勤務を終え名鉄電車で江南駅まで戻ると、駅前広場で七夕祭りのカラオケ大会が行われていた。雨がポツポツと落ちるなか、浴衣の女性がステージでマイクを手に歌う姿が印象的だった。
 家に帰ると、太田治子さんからお菓子に対するお礼のはがきが届いていた。
 「娘と夢中になって食べました」の表現が面白く、Mに向かって「夢中で食べてくれたんだってさ。俺たちも、この間いただいた紅茶を夢中でのまなきゃ」と話しかけた。
八月一日
 きょうも殆ど一日中、天気が悪かった。
 ナゴヤ球場では夏休み特別イベントとして、ファーム室内練習場見学があったが、あいにくの雨降りで野球観戦の方は中止となった。イベントの方も、ドラゴンズの選手に続き阪神の選手の練習があり、キャッチボールをする時間も取れずじまいだった。それでも、大塚製薬さんの熱中症予防講座に続く選手との記念撮影会には、山井、鈴木、佐藤、清水、長嶺投手と一軍でも活躍する選手の登場で、こちらの方はファンの方々も満足されたにちがいない。

 きょうはナゴヤ球場で久しぶりにスターキャットの燃えドラスタジアムディレクター、加藤雅子さんにお会い出来、加藤さんの方から「イガミさん」と声をかけてくださったうえ、男性スタッフの桂さんまで紹介してくださった。紹介といえば、ファンクラブのお母さん、安江都々子さん(七十八歳)から、育成選手の小林高也さんの父を改めて紹介された。

 そういえば、この寂れた町、江南はただいま七夕祭りのさなかである。
 私はいったん帰宅したあとMと一緒に報光寺に「第十九回街並み新発見七夕コンサートin報光寺」を見に車で出かけた。
 一宮北高生の和太鼓、奥村陽子さんのアルパ(ハープ)演奏、シンガーソングライター・えみのジャズポップス・懐メロメドレー・オリジナル洋楽披露、そして最後にサックスジャズオーケストラによる演奏と、つづいた。なかでも私たちの印象に残ったのは、奥村陽子さんの「夏の思い出」「禁じられた遊び」「コンドルはとんでいく」の演奏だった。
 そして、底抜けに明るく、サックスを吹いているのが楽しくて仕方がない、といった表情のサックスジャズオーケストラの面々が奏でた曲のすべても最高であった。スイングスイングをしながらの世界でも稀に見るというサックスだけのジャズオーケストラが演ず(じ?)るスイングの演奏。私たち観客までがスイングスイングに合わせ手足どころか、全身でリズムを取るなどすばらしいひとときが過ぎていったのである。
 すべての演奏がステキだったが、一曲をあげろ、と言われれば私は奥村さんの「コンドルは飛んでいく」をあげるだろう。
 やはりMについていけば、良いことがある。ジャズと言えば、きのうトムの女将がMの店「ミヌエット」を訪れ「また、お越しくださいね」とあいさつをしていかれた、との由。トムもこの辺りには珍しいジャズライブのあるお店である。
二日
 Mの提案もあり、私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の例会を、わが家で初めて開いた。
 黒宮涼さん以外は全員、出席し充実した例会となった。私のパソコンを使って作品がどのようにアップされるのかーその行程を全員に確認してもらったあとは、山の杜伊吹さんが代表で三百字小説に挑み、同人も加わってわいわいガヤガヤとやりながら、作品「夕刻の神隠し」を仕上げた。
 牧すすむさんは、次男の銀行員敦くんがチリに赴任するというので上京しなければならず、奥さんのかよちゃんともども草々に引きあげた。例会のあとは、碧木ニイナ編集長(ホワイト好子さん)、山の杜さんにMも付き合って、近くの古知野神社へ。ここで、みんなで輪くぐりをして「熱砂」同人の文運長久と互いの幸せを祈ったのである。
 たまたま、境内では盆踊りが開かれており、ホワイトさん、山の杜さんともども踊りの輪に加わり、楽しそうだった。
 この日は大雨のなかを牧さん、片山浩治さん、ホワイトさん、光村伸一郎さん、姫ちゃん(山の杜さん)の順で「熱砂」の仲間たちが集まってきた。凄い、土砂降りのなかを、である。
 六人が来る前には一番若い黒宮涼さんのお母さんが会費六か月分、一万二千円を手に、わが家をわざわざ訪れて「きょうは自動車学校があるので」と欠席理由を告げに来られ、同人たちにはこの旨も報告させていただいた。
 それでも例会が始まる午後三時ごろになると、それまで土砂降りだった雨も小降りとなり、夜には嘘のように晴れ上がったのである。
 きょうは、お茶出しから暑気払いの用意までMの協力と奉仕は大変なもので、仲間たちも感激してくれ、私も心からうれしく思った。

 帰りは山の杜さん、片山さん、毛利さんが近くのバロー駐車場に置いた車で帰り、私はホワイトさんを江南駅までお見送りし、電車を待つ間、少しだけ二人でのんだ。
 片山さんは、さすがナイーブで『花霞』という土地の名前に魅かれ、いっとき姿をくらまし周辺にそれらしき花の園があるかどうか、を調べて歩かれたようだが、そんな片山さんの蒸発
劇がヒントとなり、「夕刻の神隠し」の題で姫ちゃんが代表して三百字小説に挑むことになったのも事実である。ちなみに「片山さんが、どこかに消えてしまった。どこに行ったのだろう」と最初に騒ぎだしたのは何を隠そう、姫ちゃんこと、山の杜伊吹さんである。

 ともあれ、充実した例会になったことだけは確かだ。
三日
 日曜日。ファンクラブ事務局は八月に入り、新しいスタッフ二人が加わり、これまでとはそれこそ、様変わりの陣容となった。そして、このところは、あすの運営委員会に向けての準備というか、最終打ち合わせに何度も何度も翻弄されているのである。その間隙をぬってのファンクラブ通信と月ドラのファンクラブだより、コラム「ガブリの目」の執筆も決して楽ではない。
 きのうは「熱砂」の例会。きょうは事務局での仕事と。私という人間は全く異なった世界の『とき』のなかに浮かんでいる。

 夜。帰宅する際、地下鉄に向かう私の後ろから社の幹部が歩いて私を追い越していった。それも、ことなげもない表情で、だ。彼は私という存在に気付かなかっただろうか。後ろから追い抜かれたその男性に私の方から「Aさん」と呼びかけるのも妙なもので、私は歩調をかえないまま、そのまま歩いた。
 世の中とは、こんなものだ。だれもが自分のことしか考えていないのだ。
四日
 きょうは本当に息つく暇もなかった。
 昼間は中日ドラゴンズ公式ファンクラブの運営委員会を前に、打ち合わせに次ぐ打ち合わせで本番は午後四時から、本社第二会議室で行われた。運営委員会では今月からこれまでの事務局長から新任担当となったТさんから事務局財政とグッズ、二〇一〇年度の特典説明があった。続いて、中日スポーツと東京中日スポーツで連載中の会員の紙面・ファンクラブ通信の内容については私が説明した。
 私はその中で最近、直木賞を受賞した天童荒太の小説「悼む人」と対比させながら、ファンクラブ会員に対して同じ質問を延々として繰り返してきたファンクラブ通信は、ドラゴンズが「日本一」になった時の見開き紙面やリーグ優勝時の紙面も加えたら実に三千件を軽く超し、その取材対象の一人ひとりにドラにまつわり、その人とか家族にだけしか分からないドラマがある、ですからそれを引き出そうと紹介していますーといった内容となった。同じ質問とは「あなたは、なぜドラゴンズファンなのですか」「あなたは、どの選手が好きですか。なぜ、ですか」「ドラゴンズに関する思い出話は」「ご両親もファンでしたか」「どんなファンサービスを望まれますか」などと同じことを延々と繰り返すのである。
 これは「悼む人」で主人公が事故や犯罪に巻き込まれて死んでいった人の遺族や周辺を訪ね歩いて「あなたは亡き人に生前、どんな思い出がありましたか」「どんなことでお世話になりましたか」「どんなお方でしたか」なぞと、延々と聞いてあるく姿に似ているので私は、そのように説明したのである。
 私は後になってチョットしゃべり過ぎたかな、とも思ったが、たまにはこうした私自身の仕事内容をストレートに社幹部に伝えることも、それはそれで良いのでは、と自らを納得させたのである。

 きょうは、仕事を早く切り上げ、六時半開演の劇団四季へタクシーで駆けつけた。Mと「オペラ座の怪人」を観劇するためで、たまたま入場場所で中日スポーツのドラ担キャップのN記者にバッタリ出くわしたのには驚いた。
 それにしても、この日、オペラ座の怪人を演じた誰もがすばらしい演技だった。舞台の照明効果もよく、跳び、叫び、唄う俳優たちの熱演にはあらためて脱帽した。

 この夜は十時半過ぎにMと帰宅した。
 テレビをつけると、クリントン元米国大統領が金正日(キムジョンイル)北朝鮮総書記と北朝鮮で会談したというニュースが繰り返し報じられていた。北朝鮮国営の挑戦朝鮮中央通信によれば、どうやら北朝鮮で拘束中の米女性記者二人の解放交渉のためらしい。
五日
 けさ起きて中日スポーツと中日新聞本紙を開き、黒川光弘さんの死を知った。
 このところは、なぜか新聞の死亡欄が気になり、もしかして黒川さんの名前が出て来るのでは、と正直、そのことばかりが気になっていた。
 まさか、それが現実になるだなんて。人は哀しみの道ばかりを歩くものなのか。
 黒川さんは中日新聞記者として、晩年は夕刊の夕歩道を書き続けられ、それ以前も芸能文化記者としてわが社の記者を代表する顔的存在でもあった。私がもっとも敬愛する記者のなかの一人でもある。
 いつだったか。ことしはじめ、出社時に社のエレベーターのなかでばったりお会いした際「黒川さん、夕歩道を毎日楽しみにしています」と言うと、「いがみさん、私もとうとう、これまでだよ。尽きました」といったようなことを弱々しくおっしゃった。
 今の私には、その瞬間が何度も何度も思い出されてならないのである。さぞや苦しく残念だったことだろう。
 黒川さんには能登半島の七尾で森繁久弥さん一行がクルーザーで北回り日本一周の途次、本社からの祝賀飛行のヘリに搭乗していただいたり、大垣在住の塾経営者で野鳥保護愛好家だった近藤さん(故人)が平家琵琶の検校・今井さんによる平家琵琶の会を計画された時に会場として名古屋の大須演芸場を確保していただいたりした。また、ことし二月に帰らぬ人となった柳家小三亀松師匠を囲む会を私が呼びかけた時にも、ひとつ返事で出席していただくなどした。そればかりか、社会部阿部和久記者(現北陸本社報道部長)提唱による私の定年退職後の集まりにまで出ていただき、なんと礼を申してよいのやら、随分とお世話になったのである。

 黒さん、クロさんの死を目の前に、ああ、やはり人間たちは哀しみの道を歩いてゆくのだなあっ、と思ってしまうのである。本日付夕刊「夕歩道」でも早すぎる死を悼んでいたが、黒川光弘記者は、もはや、地上の人ではないのである。

 夜。帰宅すると、大津市の眞鍋京子さんからビールと十勝産ハムが届いていた。眞鍋さんに
は、こちらから何か送らなければいけないのに…。眞鍋さん、ありがとう。
六日
 一九四五年の八月六日午前八時十五分―広島に人類初の原爆が落とされた。
 この日、広島では慰霊祭が行われ、小学六年生の男女児童が、しっかりした口調で平和宣言をした。ことしは先にオバマ米大統領の核廃絶宣言もあり、慰霊祭はいっそう盛り上がった。平和祈念のテレビを見たあとは名古屋の吹上愛昇殿に喪服姿で出向いた。黒川さんの告別式参列のためである。
 今をときめく芸能人からの花々が飾られるなか、「私も逝ったら、夕歩道を一緒に歩きたい。夫は二十四時間仕事の虫でした。幸せな人生でした」といった奥さんのあいさつが胸に響いた。

七日
 秋が立つ。立秋である。
 このところ、ファンクラブ事務局の方は十月からの二〇一〇年会員受け付け作業を前に、大変な忙しさである。
 そんな折、ナゴヤドームの守屋取締役から電話が入った。
 「十二日にYさんに本社まで(先に立て替え払いをしてもらっている)香典代を持っていってもらうから」というものだった。彼は私とは新聞社に入った同期の桜で、かつては敏腕なドラ担キャップで知る人ぞ知る、男だ。こうした電話ひとつにも彼の義理堅さには感服するのである。
 Yさんとは、はるかかなたの昔、私が小牧通信局長時代、空飛ぶ記者として事件や災害現場を飛び回っていたころに知り合った。たまたま交通安全の取材で大変、お世話になった小牧エプロン会会長の娘さんで、ドラゴンズが優勝した年なぞ二人で飲みまわった楽しい思い出がある。いわば、いまもって意思が通い合った旧知の間柄でもある。モリヤは、そこまで気配りする男でYさんが来る、というだけで、なんだか嬉しい気持ちになった。

 それにしても、わが家のボス猫、こすも・ここは本当に水をよく飲む。朝起きて私の顔を見ると同時にねだり、夜、帰宅してお風呂に入ろうとするとは、(また?)ねだってくる。私はそのつど、河村名古屋市長に言わせれば、ニッポンイチうみゃあ水道の蛇口をひねって木曽川からの水をこすもにしばらくの間、飲ませてやるのである。こすも・ここにとっての健康維持は、もしかしたら水を大量に飲むことかも知れないのだ。

 きょうは出勤すると、私のデスクの上に小荷物が置かれており、中を開くとエールフランスとKLMの名前入りおしゃれなボールペン二本と、これまたエールフランス特製のノート、そして平成二十一年度第65回横浜市戸塚区少年野球連盟春季大会と書かれたメガネをかけた野球少年の写真が入れられ「伊神様 ナゴヤドームのチケットいただきました。和也の夢へ。心よりお礼申し上げます。とり急ぎ小学校四年のくせに百六十?の和也を見てやってください 本当に有難うございました 谷口亜矢子」の文面が添えられていた。
 先日、こらむ(平仮名表記でいいのですね?)「ガブリの目」で紹介した落合信者である野球少年の母親からで、取材をとおして「ナゴヤドームへ行くのが私たちの夢です」と聞いた私が紙面化後に、お礼を兼ねてお送りしたナゴヤドームでの対巨人戦チケットに対するお礼で、なんだか心の底から嬉しく思ったのである。

 きょうは、あの女優大原麗子さんが自宅で孤独死していたとのニュースが伝えられた。六十二歳だった。
八日
 パチパチの八月八日だ。いまも滋賀県大津市の琵琶湖湖畔で続いていれば、びわ湖大花火の日である。大津支局長当時、湖畔で家族そろって見た大花火が懐かしく甦ってくる。
 ことしの夏は雨、雨、雨で、各地で花火が中止になっており、花火師にとっては受難の年のようだ。そんな折、先月一日付で北陸本社からファンクラブ事務局に転勤してきたSさんによれば、今月の第一日曜日、すなわち六日に行われた和倉温泉北陸中日花火大会が無事終わった、と聞き、かつて七尾支局長として在任中、七年の長きにわたって携わった花火だけに、安堵感が胸を走り抜けた。
 それも「ことしは空中一発と水上二発の計三発の三尺玉を打ち上げ」うまくいったようで、Sさんのパソコンに映し出された三尺玉三発の饗宴を見ながら、嬉しく思ったのである。

 エールフランスの女性スタッフからいただいたボールペンで書いている。書きやすい。これだけペン運びがスムーズだと思わず、落合信者の母子には、これまで以上の親近感を感じてしまう。ペン先の人差し指と親指をあてるところが平たくなっているせいかも知れない。

 土曜日で少しは自分のことが出来るので私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」のテーマエッセイ(テーマは「時」)の作品を出勤前にパソコンで送ろうとしたが、送受信が出来ず、面食らった。その道に通じる三男にSОSを求めると「こりゃ、だめだ。壊れているよ」と言いながらも夜、帰宅したときには元通りに直してくれていた。
 この日、社に出てからは月曜組みのこらむ「ガブリの目」に、大のドラゴンズファンだったという、あるおばあちゃんの死を書いてみる。おばあちゃんは岡崎市に住む八十五歳で七月二十日午前、自宅で老衰による旅立ちとなった。遺族の心遣いで柩には、中日新聞の日本一号外や、二〇〇六年の優勝ポスターなどが納められ、燃えドラのBGMが流されるなか、新しい世界に旅立っていった、という泣かせる話だ。ネタ元は、ファンクラブで働くルナさんである。

 ふろ上がりでMのつくった食事を食べ終わったところで、いつもの調子で彼女が「あのねえー」と語りかけてきた。
 これまたいつもの調子で私が「なんだ」と聞くと、川崎市に住む長男夫妻が「お盆休みでニューカレドニアに行ってくるんだってさ」とのこと。成田から「これから行って来るから」と電話があったという。いかにも、長男らしい。気をつけて、と言いたいところだが、既に飛び立ったあとでは、なんともしかたがないことだ。

 酒井法子が覚せい剤所持容疑で逮捕された。
九日
 日曜日。アピタ内の歯医者さんでこのところ痛みが激しかった右上の奥歯2本を抜いてもらったあと、和田の実家に久しぶりに行くと、母がとんでもないことになっていたことを知った。
 母が言うには「一週間ほど前、夜寝ていて何かに追いかけられる夢を見た。逃げようと何かをけっからかした(これは方言? このままでいいのですね?蹴飛ばした?)ら、寝室のガラス戸が割れており、気付いたときにはあたり一面ガラスの破片が散らばっており、足の裏や布団が血でべっとり赤く染まっていた」と。
 それからが大変で、足から噴きだしてくる血をなんとか止め、ガラスの破片をきれいに拭き取ったうえ、敷布や布団カバーも全部洗いなおしたのだ、という。その後は、私の妹が連日、家に来てくれ、やっと足の裏のケガが治ったところだーとのことだった。
 背筋が凍りつく出来事だったが、不幸中の幸いとは、このことか。あいにく先週の土、日は仕事でナゴヤ球場へ行ったり、熱砂の例会をわが家で初めて開くなど実家に行ってい(挿入)る暇がなく、母の夢見事件は、そのわずかの間に起きたことになる。
 今回は満八十九歳の母の身に突然降りかかった災難だったが、考えてみると人間誰だって、いつ何時、こうした思いがけない事件に巻き込まれるか、知れたものでない。こんなわけで、母と妹の両方には申し訳ないことをしてしまったな、と思いながらも大事に至らなくて良かった、と安心もした。母が私たちに注意を呼びかけてくれたものと思うことにした。
 この世の中、いつなんどき何があるか知れたものでない。
十日
 舞と朝からゴミ出し。ゴミの運び役は、愛車のパッソである。この日は私たちがゴミ当番の日でもあり、舞が自転車ではやめに出て私が車であとを追いかけた。

 このところの私はファンクラブの準会報の原稿締め切りに追われているばかりか、日々のファンクラブ通信(中日スポーツに掲載)、週一回の中日スポーツ掲載こらむ「ガブリの目」執筆、さらには私自身の小説執筆…と休む間がない。ファンクラブ事務局のスタッフがこの半年間に四人増員されはしたが、私の業務がそれによって楽になったとは、とてもいえない状態である。
十一日
 早朝、Mと床を並べて寝ていたら、グラッ、グラッ、と家が揺れた。
 息をのんで次にまたグラ、グラッときたら、それこそ大変、と二人とも顔を見合わせて「地震だ」「地震よ」と声をかけあい、そのまましばらく半身を起こしたまま、じっとしていた。
 幸い、次のゆれは来ず、少なくともこの地方はたいしたことはなさそうだ。
 ラジオからは当初「ただいま関東地方で大きな揺れがありました。海に近い方は、津波の恐れがありますので絶対に近づかないでください」と繰り返していたが、まもなくキー局が東京から静岡の方に変わったようで「ただいま静岡、伊豆方面で地震がありました。海に近い方は絶対近づかないでください」と繰り返した。

 中日新聞夕刊を開く。
一面トップ見出しは「静岡で震度6弱 早朝M6・5 87人負傷 最大60?津波観測」「東名で路肩崩落 新幹線2時間ストップ」というもので、本記は次のようだった。
―十一日午前五時七分ごろ、静岡県の焼津市や御前崎市などで震度6弱の地震があった。気象庁によると、震源地は駿河湾で、震源の深さは約二三?。マグニチュードは6・5と推定される。気象庁はマグニチュードや発生メカニズムから「東海地震ではなく、その前兆でもない」との見方を示した。

 いずれにせよ、人間であれ、なにであれ、一緒に居る瞬間は今だけだ、と思った方がよい。思わぬ自然災害で互いに裂かれ絶たれることは、いつも考えておいた方がよい。こうしてMや三男坊、こすも・ここ、シロと一緒に暮らしていられる、そのこと自体が奇跡なのだ。
 それはそうと、けさの地震発生時に、こすもも、シロもウンともスンとも言わず、別段、室内を駆け回ることもしなかった。私たちと同じように、じっとしていたようだ。
十二日
 きょうは、お昼にナゴヤドームのY子さんがわざわざ社に私を訪ねてくださり、近くのちょっとばかり雰囲気のよい小料理店で一緒に食事をした。
 その際に彼女が中日ドラゴンズの落合博満監督から、色紙の裏にサインしてもらったエピソードに触れ「落合さんは、裏を表にする監督さんで、大好きです」といった貴重な逸話をお聞きし、私は私で「作家・伊神権太は、この世で最悪、一番悪いヤツだと思っている」と自分なりの哲学も披露した。
十三日
 十二日深夜から十三日未明にかけて、天気がよければ見ら(挿入?)れるはずの「ペルセウス座流星群」。この存在はMに教えてもらったが、あいにくの天気で見られなかった。Mの残念そうな顔が何よりも気になるのである。
 ちなみに、毎日新聞の夕刊は「星降る夜に」といった見出しで、観望会が開かれた和歌山県紀美野町の「みさと天文台」でピークを迎え、糸を引いたような「ペルセウス座流星群」の美しい光跡を見事にとらえた写真を掲載していた。星降る夜に、とは。まさに流星群には、ふさわしい美しい表現である。

 小牧通信局時代に空港乗馬クラブの共通の指導員、柴田さん(故人)のお世話になり、乗馬練習で再三、ご一緒したことがある足立ふさえさんが私たち「熱砂」のブログに「作品読ませていただきました。なつかしくて」と思いがけないメールをされてきた。
 まさに、驚きもののき?(驚き桃の木山椒の木?)である。彼女も元気そうで何よりである。
 足立さんは当時、ステキに美しい女性だった。だから、いまもきっとそうに違いない。あのころ週に一度、一緒に乗馬を習いながら、「とても彼女には太刀打ちできない」と私はあこがれのようなものを彼女に感じていた。
 その足立さんが「熱砂」の作品を読んでくださっていたとは。感激したとは、こういう時の表現だろう。ありがとう。
十四日
 Mがこのところ連日の如く俳句雑誌やら、歳時記をデスクの上に置いて暇さえあれば読んでいる。あすの土曜日からは福祉センターである俳句教室に通う、ということだ。良いことで、俳句では、これまで数々の賞に輝き、NHK松山放送局からも何年か前に、出演要請があったこともあるだけに、いっそうの練磨と向上を心から願う。その方が健康維持にも役立つ気がするのである(Mはここ五、六年というもの、脳出血で倒れ入退院を繰り返す、など病弱で元々好きな俳句からも遠ざかっていた)。

 きょうは事務局に東京都調布市に住む落合信者でファンクラブ会員でもある原田禎知さん、幸子さん夫妻が突然、お菓子を手に訪ねられ、しばらく歓談、新体制になったばかりの事務局スタッフを紹介させていただいた。ご夫妻は、なぜ落合監督を大好きなのか、を和歌山の落合記念館を訪れたときの様子を例に、目を輝かせて話してくださった。

 この日は、SNSの実況掲示板で中スポ編集部作成によるガブリナイトが初めて登場。事務局の三人娘が、興味津々で中スポ報道部で見守った。
十五日
 土曜日とはいえ、本社、ナゴヤ球場、本社、ナゴヤドームと行ったり来たりだ。
 本社でファンクラブ通信を公式ファンクラブのホームページにアップ後は月曜組みのこらむ「ガブリの目」を執筆。この後は販売局次