短編小説「十リットルの女」

 夢うつつから覚めるのと同時に電子音が鳴った。男は目覚しを押さえ込んで布団の温もりを惜しむが、いつまでもそうはしていられないと這い出す。脱ぎっ放しのジャージを手早く着て、その上にジャンバーをはおる。暗いままの部屋から出入り口のノブをひねり、古いアパートの階段を確かめながら下りる。午後九時三十分。自転車を無灯火のままで走らせる。四月になったというのにまだ震えるほどの寒さだ。いつものようにコンビニで、夜食のおにぎりとカップラーメンを買って仕事先へ向かう。男は高校を出て企業の社員として働いていたが、人間つながりのわずらわしさに息苦しくなって二年で辞めている。その後は気ままに派遣社員や、アルバイトを繰り返すこと三年。今はセルフのガソリンスタンドでのアルバイトだ。このバイトをはじめて半年は昼中の勤務で、それからは欠員が生じた夜を勤めることになった。
 夜の十時から朝の六時までだ。これまでとは違って、夜が更けてから朝日が顔を出すまでの時間を働くというのは、男にとって初めてのことで、あの日中の騒がしさが嘘のようになくなる仕事場は人間の匂いも薄く、気持ちが無闇に左右されることや騒ぎ出すこともなく、静かなというか穏やかなものだと、まずは満足していた。案外こんな環境での仕事が合っているのかもしれないと、男にしてはめずらしく、小さな不満などは我慢をしていくつもりになっていた。
 国道と交差する幹線道路沿いにあるこのセルフスタンドは、給油設備が三基あって夜間は退屈しない程度の客が利用する。男にとっては、何かのことがない限り詰所から出なくていいのだからまるで楽ちんなものだ。思いのほかこのバイトは長続きするかもしれないと、本気に感じ取っていた。それには何らかの大きな落ち度やトラブルに巻き込まれ、スタンドに損失を与えてしまうようなことにならなければいいのだが、と思っていたその矢先に理解のしようのないでき事が発生して、男には不安が芽生えている。
 月初めの月曜日のこと。客足がなくなる午前三時頃にガソリンを補給にきた女がいた。それはいいのだが乗り入れてから十分ほど経つのに、いっこうにスタンドから出て行かず不審に思っていたら、
「ガソリンが出ない」
 と、黒っぽいジャケットのフードを被ったままのジーンズ姿がドアを引いてぬっと現れたのだ。一瞬身を退いて顔を見れば間違いなく女だが、深いフードで輪郭ははっきりしない。ただ目だけを光らせている。抑えた口ぶりと容姿の薄気味悪さでぞくりとした。穏やかならぬ空気を感じて、護身用の警棒をベルトのうしろに差し込んで女のあとを忍び足で付いて行くと、給油レバーが車の給油口に差し込んだままになっている。車はメルセデスベンツだ。同乗者がいるのかと用心深く目を向けるが、濃いスモークで視線が通らない。辺りを警戒しながら給油メーターに目をやると、カウンターはゼロのままだ。あらためてノズルに変わりはないかと抜いてみる。どこにも異常らしきところはない。これは一体どうしたことかと、レバーを給油口に差し込み、軽く握ると放出の手ごたえがズンと伝わるではないか。
 辺りを見回すと「あら」と、うしろで立っていた女が喉の奥で不思議だと言わんばかりの言い草をした。これはかかわってはまずいと、女を無視して給油を続けたがつかの間だった。カチリと音がして給油が停止した。驚いて振り向きカウンターを見ると十リットルだ。目を剥きそうになったが動揺を悟られないように、落ち着き払ってレシートを回収すると精算機に通した。硬貨が受け皿に落ちたところで、人待ち顔をしている女に指さして知らせ、背を向けた。無言のままで戻っていくと、妙にうしろからの強い視線を感じた。そのまま詰所のドアに手をかけるが黒っぽいベンツのエンジンは音を立てない。
 ガラス戸越しにさりげなく監視していると、女はまだ精算機の前にいてじっとこちらを見ているようだ。慌ててパイプ椅子に腰を下ろして身を隠すと、ほどなくベンツのドアの閉まる重い音が聞こえた。椅子から腰を浮かせて様子をうかがうが、依然として出る気配がない。そうしているうちに思い出したかのようにエンジンがかかり、いきなり無灯のままでスタンドから国道方面へ飛び出して行った。立ち上がって胸をなでおろすと同時に、首を何度もひねるしかなかった。
 そんな訳の分からない事があって、ちょうど一週間が経つ。日付が変わるまでは、およそいつも通りの客数だが、午前一時を過ぎるとちらほらとなる。客の途絶える午前三時を回ると黒っぽい大型乗用車が入ってきた。ひょっとしてあの時のベンツではないだろうかと男は息を呑んだ。先週も確かこんな時間だったと緊張が走る。だとすれば夜勤になって半年になるが、ベンツが給油に入ったのは先週と目の前の今だけだ。

 まさかと思い中腰になって様子をうかがっていると、車はライトを落としたままでドアが開かない。目を凝らすとやはりベンツだ。男の胸が騒ぐ。いつになったら運転手は姿を現すのだろうかと、いらいらするがここから出て行く勇気はまったくない。もしかしてこちらから現れるのを待っているのかもしれない。そう思っても不安が大きくて男は動けない。一一〇番─そう思った時にドアがゆっくりと開いた。ジーンズをはいた足にはハイヒールらしい履物だ。女だ。まずあの女に違いない。男がそう確信するとコマ送りのように女は全身を現した。
 だがコートのフードを被った女はこの間の女よりは背丈があるような気がする。別人か。いやそれはハイヒールをはいているせいだと男は思いなおした。だが先週は何をはいていたかなどはまるで覚えていない。女からは見えない位置で動きに目をやっていると、給油端末の画面に慣れた手つきでタッチしている。料金を投入したらしく、給油レバーをぎこちなく両手で抱えるようにして持ち上げている。そのまま身体の向きを変えて給油口にノズルを差し込むと、腕組みをして何事かを考えているのだろうか、身動きもしない。数十秒のことだろうか、恐れていたことになった。姿勢を正すとこちらへ向かって歩きはじめるではないか。
 何の注文を付けにくるのだろうか。男は素早く定位置の椅子に腰を下ろして素知らぬ風を装った。こつこつとハイヒールの足音がいやでも耳に入り、それが近づいてくる。足音が止まってガラスドアが押し開かれた。やはりあの女だ。フードの被り具合が浅いのか先週よりもよく見える。わりと彫りの深いまとまった顔で、理解に苦しむような行動をする女には、似合わない目鼻立ちの上品さが見え隠れする。焦点の定まった目をこの前よりも光らせていて、男は思わずこぶしを握りしめた。
「ガソリンが出ない」
 女はこの前と同じようにくちびるに隙間を作って同じことを言った。警棒は要るまいと、男は黙って半開きのガラスドアを引いて女の脇を通った。香水の匂いが鼻につく。いやな匂いではないが、何か危うさを含んだ匂いを感じる。男は給油機に向かいながら、何の不具合も見て取れなかったのにおかしなことが起きた先週のことを思っていた。今度も同様なことが起きるのだろうかと近づき、モニターと給油カウンターを確認して給油レバーを抜き、ノズルを覗いた。まったくおかしな所は見当たらない。  
 男は女の視線を背中で感じながらノズルを給油口に差し込み引き金を絞った。ドッとガソリンが流れ込む。男はこの女しか知りえないトラブルをどう受け止めればいいのか判断のしようがなかった。そう思う間もなく給油レバーはカチリと音を立てて手ごたえを失う。カウンターは先週と同じく十リットルだ。男はレバーを戻し、打ち出されたレシートを精算機に投入してお釣りの出るのを見届けると、それを指さして女に背を向けた。疑いを持ちながら歩くとやはり強い視線を感じてしまう。詰所に戻って女の視界から消える場所に立ったまま監視する。
 だが車に乗り込もうとせず、じっとこちらの方に顔を向けたままだ。あの女は何が面白くて、いや何が目的でこの真夜中にガソリン十リットルばかりを補給しにくるのだと思うと、男は理解しようのない不自然さに何度も首を傾げた。間違っても言葉は交わさない方がいい。何かを感じたのだろうか、女は辺りをひと通り見回すとドアに手をかけて乗り込んだ。間髪を容れずエンジンをかけると、ライトを点すなり国道方面へと出て行く。男は大きなため息をつくと、定位置の椅子に腰を下ろしてさかんに瞬いた。このトラブルとはいえそうにないでき事を、引き継ぎの先輩作業者に伝えるべきかを男は考え込んだ。内容が信じがたい馬鹿げたことだけに、笑い飛ばされるのがおちだと、少しでも不安をぬぐい取りたかった男はくちびるを噛んだ。
 何事もなく週が巡った。雨が降り続いている。男は何とも気が重かった。給料日までまだ十日もあるというのに持ち金が底をつきはじめたし、それにまたあの女が夜中の三時にやってくるのではないかと思うと、仕事を休んでしまおうかと考えてしまう。急用ができた、熱が出た、腹をこわした、親戚が死んだ。ここへくる前の会社や派遣先でこんな嘘を並べては仕事を休んでいたことを思うと、今度の仕事はきっとうまくいきそうだという目論見が崩壊してしまう。
 こんなことで悩んでいては客相手の仕事など勤まらない。お客が自分で必要な量のガソリンを入れていくのを監視しているだけのことなんだ。まれにあの女のように訳の分からない客がきても、こちらで処理すればそれですむことなのだ。何も踏み倒されたり危害を受けたりすることはないのだし、万が一強盗にでも踏みこまれたら黙って両手をあげていれば、我が身は無傷できりぬけられるはずなのだ。男は沈みそうな気持をふるい立たせると傘を持ってアパートを出た。今夜はコンビニでカップラーメン一個だけにして先を急ぐ。
 午前二時が過ぎると男は詰所のガラス越しで頻繁に暗い外を眺める。濡れ光る幹線道路を行きかう車のライトはトラックがほとんどで、スピードを上げて抜き去る乗用車の数は少ない。はたしてあのベンツはくるのだろうか。くるとしたら一体どちらからなのか、国道方面からかそれとも市街地からなのか。この場所にあるスタンドからでは判りようもないのに、男にはそんなことを知りたい気持ちが起きていた。
 スタンドに入ってくる車がほとんどない時間帯になってきている。雨は夜を通して降る気配だ。分離帯の向こう側車線を、いきなりスピードを上げて行く大型乗用車が男の目に映った。あれはと思わず身体を乗り出すがベンツだという確信はない。突かれた胸を押さえ、身体を引いて掛け時計を見ると同時に車のライトが目に入った。こんな時間に客がきたと男は立ったまま眺める。車がライトを落とすとベンツのように映るではないか。まさかあの通り過ぎた大型乗用車が、この先の交差点でUターンしてきたのではないかと目を疑った。間違いない。ボンネットの先に乗っているエンブレムが見てとれる。
 男は息をつめた。運転手はすぐに出てこようとしない。車の中で動いているようにも見えるが定かでない。数分経っただろうか、ドアが重そうに開くと黒っぽいブーツにロングスカートがまず見えた。男はおやっと思った。あれは違う女ではないのかと全身が現れるのを待った。やはりフード付きのジャケットで女は現れた。間違い無いと男はスカート姿をじっと見つめる。給油端末に手をのばして紙幣を投入している。そして給油口を開けると、レバーを両手で抱えるように持ち、狙いを定めてノズルを差し込んだ。そうすると安心したかのように両手をジャケットのポケットに入れて眺めている。男はくると思った。きたらどうしよう、ガソリンが出ないと言ったらどう応じようか。でも言葉は交わしたくない。かかわりたくない。男が考えている間に女がこちらへ向かってくる。雨の中を傘もささずにうつむいたまま真っ直ぐこちらへ歩いてくる。男の目は落ち着きなく動いた。
「ガソリンが出ない」
 フードを被った女は、ガラスドアを両手で頭が入るだけ引くとやはりそう言った。男はすっと立ち上がると黙ってドアを押し開け、傘立てから傘を引き抜き、足を速めてベンツに向かう。給油カウンターのゼロを横目にして、差し込んだままのレバーの取っ手を握りしめる。確かな手ごたえが重く伝わり、間もなくカチリと音がして給油が停止する。カウンターは思った通りの一〇だ。レシートを精算機に投入して釣り銭が出ると、今度も同じように指をさして傘を開き、詰所へ向かおうとする。と、「ちょっと」と女が思いもよらず声をかけた。言葉を交わさないという男の意思は瞬間ぐらつき、振り向くと女は手が届きそうな位置にいた。
 なんのつもりか手にしていた白いレジ袋を、男のさしている傘の柄に素早く掛けた。あっという間の早業だった。言葉にならない声が男ののどから短く漏れた。女は翻ると足早にベンツへ乗り込み、ライトを点し国道方面へ急発進した。呆然と見送る男は固まっていた。瞬きがよみがえるにはどれほどかかっただろうか。傘の柄にぶら下がっているずしりとしたレジ袋に目をやる。中身の想像がつくはずもなく、男はそのまま歩きながら、ぶらぶらするレジ袋を覗き見るだけだった。傘を閉じてレジ袋を外し、こわごわと手にしながらドアを引く。
 机に載せて両手で開くとうなぎのかば焼き弁当があって、わきには缶ビールとペットボトルのお茶があった。重いはずだ。男は疑いの目でしばらく見つめるが、そういった類の物品ではない。念のため弁当を裏返しにして賞味期限を確かめたり、ペットボトルの栓を軽くひねってみたり、缶ビールをゆすってみたりするが何の変哲もない。しかし、訳もなくこういうものを差し入れてくることに素直になれるはずがない。これはどういうことなのだと、男はレジ袋を前にして腕を組んだ。食べ物をゴミ箱に放り込むには抵抗を感じるし、かといってありがたくいただくには理由もない。保留だ。男はとりあえずレジ袋をロッカーの奥に押し込んだ。
 夜明けが近くなると雨も遠のいたらしく空は白みはじめている。次の勤務者に仕事を引き継ぐと男は着替えを済ませ、何食わぬ顔でロッカーからレジ袋を取り出して詰所のドアを押した。自転車の前かごに入れて、まだ人通りの少ない濡れた歩道をアパートへと走る。レジ袋を朝までロッカーに置いたことで男の気持ちは変っていた。訳はどうあれ自分がもらったものだから、あの女の意思には関係なくこれは自分の自由にする。
 冷たい空気を裂きながら男はペダルを強く踏んだ。有り難い差し入れだった。うなぎのかば焼きを食べたのは、遠い昔の友人におごってもらった覚えがあるだけだ。缶ビールも外気にさらされてほどがよい。食べたあとのお茶も控えていて言うことなしだ。厳しい財布の中を思うと、とんでもない御馳走にありつけた男は、複雑であっても頬は素直に緩んでいだ。
 次の月曜日。女はきっとくるのだろうと、男は時間が近づくにつれてそわそわとしはじめた。やはりベンツは三時をまわると乗り入れてきた。まだある不安の中にも半端で妙な気持ちが混じっていた男は、慌てて椅子に腰を下ろした。例の如くなかなか車から出てこず、男がやきもきしていると、見計らったようにドアがゆっくりと開く。フードを被って膝下までの黒っぽいコートを身に着けている。ひと通り辺りを見回すと、これまでと変わらぬ手順でノズルを差し込む。 さあこれでよしとばかりに両手をポケットに入れて、あとは任せるばかりの女は身動き一つしようとしない。今日は黙っていても出てくる俺を待っているのだと、男はそんな気がしてならなかった。女にしてみればそのために差し入れをしたとでも言いたいのだろうか。そうであればこれは根競べになると男は女の姿から目を離した。だが女が大股で詰所に向かってくるのは意外と早かった。
「ガソリンが出ない」
 フードの中から落ち着いた同じ声だった。男はここで弁当のお礼を言うべきかと一瞬思ったが、のどが言葉を通さなかった。今度も黙って女の香水を鼻先でとらえながら横をすり抜けると、ベンツに向かって真っすぐ歩いた。カウンターゼロを見て給油レバーを握る。手ごたえがすぐに弛んで十リットルだ。レシートを精算機に投入して男は指さすと向きを変えて詰所に歩きはじめるが、うしろの女は声はおろか物音ひとつ立てなかった。
 心の中にあるあの釈然としないレジ袋は、好意の差し入れでもなんでもなく、貰いものか余りものであれっきりだったのだったと思うと、幸いというべきか悲しむべきか分からぬままにドアを引いて目を剥いた。なんとレジ袋が机の上に載っている。これはいつの間にと振り返ればベンツは早、国道方面へと走り去っていた。二度目だ。これも前のものと同じように考えればよいのか、それにしても続けてレジ袋を置いて行くということには、何かしらの意味が含まれているように思えて、男はどう受け止めればよいのかまるで分からなかった。
 あの女の不可解な行動は月初めから四度目だ。これからも続くのだろうか。なんの目的があるのか、トラブルメーカーの匂いがする女には、いくら客であってもかかわりたくないという気持ちが男には強くあった。せっかくうまくいきかけている仕事が、面倒なことに巻き込まれて失うのはまっぴら御免だ。しかし目の前のレジ袋は利用させてもらうことに躊躇はなかった。
 五週目の月曜日。雨で寒い月末だった。スタンドは日付が変わっても客足は遠のくことがなかった。このままで夜が明けてくれれば、おそらくあの女もベンツを乗り入れてくるのには二の足を踏むだろうと、男は定位置の椅子から外を眺めていた。しかし期待通りに事は運ばなかった。午前二時を回ると給油に入る車はぱたりと絶えた。幹線道路を流れる車もわずかばかりで、濡れ光る路面の雨水を切り裂く音が静寂な闇に吸い込まれて行く。
 男の胸に湿気混じりの重い空気が押し入ってくると同時に、女の姿が浮かんでくる。椅子に背を持たせて幹線道路から目を離さずにいると、大型乗用車が向こう側車線を通って行く。男は目をこらした。スピードを落として走る車に、あれはベンツだという見極めができた。まもなく次の交差点でUターンをしてくるだろうと、男は立ち上がって身構えた。しかし身構えてどうにかなるものではないと気が付き、腰を下ろして腕を組む。やがてベンツはゆっくりと、しかも男の目には堂々とスタンドに乗り入れてきたように映った。
 エンジンが切れる前にライトが落ちる。男は瞬きもせずにドアの開くのを微妙な思いで今かと待つ。膝上までのフード付きコートでドアを開ける姿は、男にとってはもう見慣れた女になっていた。一人で現れ十リットルのガソリンを補給しょうとする動作はどこも何も変わらない。変えようとしないのだ。男は詰所にやってくる女を緊張した面持ちで待つ。
「ガソリンが出ない」
 訴える抑揚のない声。男は目を伏せたまま女のコートに触れそうな狭い間を、背を向けてすり抜けると傘立てに手を伸ばした。何も考えては駄目だと言い聞かせて、毎度の作業を淡々とこなしベンツから離れた。これまでの緊張感はうすれ、うしろにいるであろう女の目もあまり気にならなかった。詰所の灯りの中へ戻り、一件落着と腰を下ろそうとして仰天した。なんということか女がこちらへ向かってきているではないか。傘もささずにレジ袋を右手にぶらさげて、急ぐでもなく自分の住みかにでも帰ってくるように。
 男はおろおろした。しかし懸命に落ち着こうと息を整えている間に、女は黙ってドアを押し開いて入ってきた。男が唖然としているのをしり目に、女は椅子のうしろを回り込んで、届くところにあるパイプ椅子を引き寄せ、レジ袋を机の上に載せた。一呼吸置くと女はさらに椅子を引きずって腰を下ろすと、窓の外を向いたままの男の横顔に声をかけた。
「あなた独身でしょ、私んとこへこない?」
 男は言葉がのみこめず、姿勢を保ったまま目の玉を泳がせた。
「こっちを向いてみて」
 女の言葉は優しく強制的だった。
 男は素直に回転イスを左に向けてうつむいた。
「顔を上げてみてよ」
 いくらか口調に余裕をもたせた女は、膝が触れ合おうとするところまで椅子を引くと長い足を組んだ。男はショートコートからあらわになった、太腿を包む紫のレギンスに目が眩んで思わず顔を上げた。フードの中で妖しく力強い眼の光が、容赦なく男の表情を捉える。男は女の顔を見る気力などあるはずもなかった。重い沈黙の中で香水の匂いだけが浮遊する。何を思ったのか女はコートのポケットから携帯を取り出すと、いきなり男の顔写真を撮った。男は魔法にでもかかったように言葉も動きも忘れてしまっていた。
「携帯見せてよ」
 言われて気が戻った男が抵抗することなく携帯を差し出すと、女は自分に向けてシャッターを切って何やら文字を打ち込んでいる。男があっけにとられていると、用向きがすんだのか携帯を返しながら、
「アドレスに連絡して」
 と、一方的に事を済まして立ち上がると、笑みを含ませドアを押し開け、土砂降りになった雨の中を出て行った。男はまるで夢の中に置き去りにされたようだった。ベンツが消え去り雨音が耳に戻ってくると握りしめている携帯にはっとした。たった今あの見馴れてしまった女が勝手にメル友にしてしまった。いや、しようとしていることに、男はただならない方へ事が進んでいることを覚った。この事をどこの誰に打ち明けられるわけでもなく、ただ一人悶々としなければならないのだろうかと思うと、目の前のレジ袋が限りなく恨めしかった。
 アパートに帰ると男はレジ袋の朝飯に黙々と箸をつけた。缶ビールをのどに通していると、ふと携帯のことを思い出して開いてみる。確かに言った通りのメールアドレスが入っている。そして見たくもない写真を開いて息を呑んだ。なんと女はその時だけフードを外していたのだ。まるで別人がにこやかに自分を見つめているではないか。色は白く頬からあごにかけての丸みは女の色香を濃く含んでいた。セミロングの艶やかな前髪は額の前でまっすぐに揃えられ、フードの中を一見しただけだった目鼻立ちとくちびるは、どれもが女のあるべき柔らかい曲線で備わっていた。あの刺すような眼差しがこの柔和な目でもあったことに、男は驚きを隠せなかった。男は眠れなかった。眠れるはずがなかった。想像だにしなかったでき事が今、身にかかわろうとしている。男は淡い真綿が、不意に身体を包みはじめているような錯覚に陥った。
 翌日からのアルバイトは、仕事中のほとんどを居眠りか漫画で過ごしていたのがそれどころではなくなった。あの女のことだけで頭が破裂しそうだった。何をどうしようということは考えもつかず、ただあの女が次の月曜日にもやってきて今度は何をするのだろうか。やはりまずはガソリンが出ないからはじまって、自分は詰所の椅子に悠悠として携帯でも開くのだろうか。そういえばと男はメールのことがあるのを思い出した。
 あのアドレスはどう考えればいいのだろう。もしかして女は何かしらのメールを送ってくるつもりなのか。はたして内容はどんなことなのだろう。そうなればやはり返信をしなければならないだろうが、文章は漫画本レベルでまるで苦手だ。それとも今度からはレジ袋を持ってこずにそのまま帰るのではないだろうか。いやこれからは突然、他の日に現れるかもしれない。そんなことを際限なく頭の中で巡らせていた。
 男は思う。女は化けものと言うらしいが、あのフードの中の顔と、携帯の中の写真では月と太陽ほどの違いがある。どちらにしても信用していいのか、そうでないのか分かるはずもない。フードの中で見る目は人を危めてしまうような光が見えるし、携帯の中にあるものは穏やかで包み込むような優しさがある。どちらも自分を見つめている眼だ。男は頭をかきむしった。
 他の日には現れず月曜がきた。男はアパートを出るのをためらった。このままアルバイトを辞めてしまおうかと頭をよぎった。バイト代の手持ちがまだあるうちに次のアルバイトを探せば、この降ってわいた異常なかかわりから逃れることができる。辞めることに傾いた男はジャージを脱ぎ棄てると、布団にもぐりこんでバイト先のスタンドへ電話を入れようと携帯を開いた。と、どこを触れたのか、画面には女のまばゆい大写しが現れ、男の目を捕えていた。思わず携帯を放り出した男は頭から布団を被ってうめいた。
 暗い階段をかけ下りて自転車にまたがると男は全力でペダルを踏んだ。もう遅刻は分かっているはずなのにコンビニにも寄らず懸命に漕いだ。引き継ぎの先輩作業者に怒鳴られるのははっきりしていたが、そんなことよりも早くスタンドへ行かなければとの気持ちが、あとからあとから怒涛のように湧きあがっていた。日付が変わっても空腹は感じず、ただ水道の水だけを何度も飲んだ。一時になると呼吸が深くなり二時になると胸が騒ぎだした。
 三時。男が火照り出した顔で、暗い道路を走る下り車線の車に注目していると、確認できなかったベンツがいきなり乗り込んできた。男は思わず上半身を伏せた。おそるおそる顔を上げて確かめる。いつもの位置に停めるとライトを落としてやはり出てこない。頬を熱くしてドアを見つめていると突然、弾かれたように開いた。姿を見せたのは間違いなくあの女で、黒っぽいショートコートのフードをかぶって、はっきりと目的のあるような足取りでやってくる。男は両肘をついたまま手のひらで頬を挟んで目をそらした。ハイヒールの足音が止まり、ガラスドアが押し開けられる。いつもの言葉を投げることなく男のうしろを平然と回り込み、パイプ椅子を引き寄せると女はすぐ横で腰を下ろした。
「こっち向いて」
 口調がきつい。
 椅子を直角にまでに回すと、男は目を落としたまま膝をそろえる。
「顔上げて」
 言われるがままにする。
「どうしたのよ」
 女はフードの中でアゴをあげた。
 男はそう聞かれて首をかしげた。
「携帯は?」
 女は赤いマニキュアをした長い五本の指を開いた。
 男はまた写真を撮るのだろうかと、ポケットから出して渡すと女はその携帯を開いた。
「アドレスは入っているのよ」
 そう言うと事務机の上に放った。
 男はメールのことだと気が付いた。そう言われても何をメールしていいのか見当もつかず、黙っているより他なかった。苛立っている様子がありありの女が自分の携帯を取り出して開くと、紫のレギンスに包んだ長い足を組んで操作をはじめた。ずいぶん多くの文字を打っているように思えた。その指先は信じがたい速さだった。打ち終わったのか、女が携帯を閉じると同時に男の携帯の着信が鳴った。
「ちゃんと読んで返信するのよ」
 女は人が変わったように、今までにない優しさで言い残すとドアを押し開け、足早で真っ直ぐベンツに向かった。ドアの閉まる音がしてエンジン音が響く。男はただテールランプを見送るだけだった。
 女の言葉通りにするには、まずメールを開かなければならなかった。不安ばかりが先立って、なかなか携帯に手を触れられない。想像もつかないようなことに挑む勇気がすぐに湧くはずもなく、男は机の上にある携帯をポケットに入れると突っ伏した。
 重い足取りでアパートに帰ると、男はコンビニ弁当を開けるが食欲など湧くはずもない。強引に胃袋へ缶ビールと一緒に流し込むと、早々に敷きっ放しの布団へもぐり込んだ。メール、メール、メール、メールー、頭の中は女のメールで溢れ、破れそうになる。「ちゃんと読んで必ず返信するのよ」と、諭すような言葉づかいを残して背を向けた女の姿を思い浮かべると、このもしかして爆弾かもしれないメールは、どうしたって開かなければ何も解決しない。男は腹の底でようやく決めると、布団の脇に脱ぎ捨ててあるジャージを引き寄せポケットをまさぐる。指先に触れる固形物に得体の知れない不安を感じて心臓の鼓動が速くなる。男は携帯を強く握りしめて再び布団にもぐりこむと、仰向けになって瞼を大きく広げる。

私は決してあやしいものではないのよ
私はこのスタンドから五キロ以内にいます
私の行動はおたがいの幸せのためなの
私の所へくれば部屋と食事はだいじょうぶよ
仕事は今のまま続けてもいいのよ
かわりたければ仕事は紹介するから
したくなければそれでもいいのよ
お金が必要であれば言ってね
その他に欲しいものがあればそろえるから
きっと満足できる生活をさせてあげるからね

 私はあなたのうしろ姿をひと目見た時から好きになってしまったのよ。よい返事を待っているからね

 男は面喰った。ひと目見た時から好きになったとある。この俺のことか? この俺のうしろ姿のどこがいいのか。会社勤めもまともに出来ない半端で、十人並み以下の顔立ちのうしろ姿のどこがいいのか。それにしてもいつどこで見られていたのだろう。画面をスクロールさせて読み返す。五キロ以内に住んでいる怪しくない女でこの俺のためにスタンドへ通った。大きな家かマンションかの一室と飯を保証する。仕事は自由にしてお金に困ったらあげる。その他に欲しいものがあれば買ってあげます。うーむ、こんなことって本当にあるのか。男の玉の輿か。男はそして最後の、「好きになった」から目をいつまでも離さなかった。
 失恋経験は一度だけある。会社の通路ですれちがおうとする同期の女の前に立ちはだかり、交際を申し込んであっさり「ごめんね」と言われたこと。それだけだ。それ以来、女に対して臆病になってしまい、自ら機会を遠ざけた。それが、ここでどんな女からであっても、「好きになった」などと言われれば赤面するどころか面喰うのが当たり前で、本当に本当かと疑いたくなってしまう。
 凍りついていた氷山のような心が急速に溶けてくる。男は携帯画面をあの女のひとの顔に切り替えて見る。今にも微笑んで言葉をかけてきそうな柔らかい眼差しが目の前にある。男の胸に温かいものがこみ上げてきて頬に熱が帯びてくる。気持ちのゆらぎに思わず目を閉じて携帯を手から離す。こんな気持ちになったことはいまだかつてなく、男は仰向けのまま両手の指を組み合わせて、舞い上がろうとする自分を今までの自分に取り戻さなければと、懸命になって気持ちを入れ替えようとするが、どうもがいてもままならない。
 眠れぬままに昼も過ぎると男は部屋を出た。漫画喫茶で時間をつぶそうと自転車のペダルに足をかけるが、空は一面の春霞みで気持ちもいまひとつすぐれない。漫画に集中しようとページをめくるが、まるで上滑りするだけで頭の中はあの女のひとのことばかり。いったい何歳くらいなのだろうかと思ってみる。いくつも年上であることは間違いないのだが、年齢のことは自分の妨げにならない。でも知っておきたいのが本当のところだ。それにしても腑に落ちないのは「一目で好きになった」という部分だ。外見だけで好意を持ってスタンドへきて、その上に顔や身体つきや対応の動作を確かめるために、十リットルのガソリンをわざわざ補給させていたのだろうか。
 そのどれをとっても人並み以下である男を好きになるとは不思議な女のひとだ。男にとっては迷惑この上ない客でしかなかった関係の中で突然、一緒に生活をしようよというそのひとの誘いだ。しかもまるで男の玉の輿だ。男は漫画本を何度もめくり返して迷いに迷った。たとえ一度でもデートとかをしてみたあとでならば、いくらか気持の整理や都合もできようが、このままで返事をするのは、清水の舞台から飛び下りるようなものだ。だがそんな考えを深めていても、男のゆれる気持の中にはすでにあのひとに対する好意が、むっくりと頭を見せた筍のように節を大きく伸ばしつつあった。   
 心を決めてメールを送ろうかと何度も思って早、週末になってしまった。戸惑いがあった大きな理由は文字を打つことだった。友人のいない男はメールに不慣れだった。ましてや女性に対してはまるで知識、経験がなく要領を得なかった。最初にどう打つべきか、あいさつを入れるべきか、としたらその文句はどうするか、そのあとはお願いしますとかよろしくとか、そういったものでよいのだろうか。
 いや、やはり端から自分の正直な気持ちを入れた方が良いのか。であれば言葉の組み合わせはどうしたらうまくいくのだろうか。まさかひらがなばかりで打つわけにはいかないだろうし、間違った漢字が混じったりすれば大恥をかくことになる。到底解決できないことばかりをずっと考え続けて四日間が過ぎてしまった。もうメールは無理だと、男は直接返事をすることに決め、ただ現れる月曜を待つことにする。男は安アパートから脱出してセレブな女のひとと同居かと思うと、夢ではないかと頬を形通りにつねってみる。
 ああこれなんだと、男は納得してひとり含み笑いする。しかしあんなに魅力あるひとと同居していても、性別を忘れて住まなければならないのだろうか。いやそんな不健全なことはあるはずがない。年齢差はあっても男と女だ。どうしたって寝所を一緒にすることもあるだろう。風俗とは違うのだ。うしろから腕を絡められるように抱いてもらえるのだろうかと思うと、男の妄想は捕えられたうなぎのようにくねくねと躍った。
 あのひとからメールの催促はなく、とうとう月曜日になった。男は落ち着けなかった。メールを送ることなく今日まで過ぎた事に、あのひとは果たしてどんな顔を見せるのだろうか。この間のように乱暴な言葉遣いで眉を上げるのだろうか。そうしたことになったら正直に訳は話そう。それで頭を下げて許してもらい、あなたの言われるようにしますのでよろしくお願いしますと、もう一度頭を深く下げて言葉を待つことにしよう。それでだめならあきらめるよりしかたないと、男はアパートの暗い階段を数えるように下りた。
 いつもの時間が過ぎても女のひとは現れなかった。メールを送らなかったことに腹を立てて、わざと遅れてくるつもりなのかもしれない。まだ時間は残っている。壁の掛け時計は四時になろうとしている。秒針を見ているとなんとなく速さを増しているように思える。五時を回ったその時、車のライトが入ってきた。男が反射的に立ち上がると、灯りを落とした車はベンツではなかった。しかし車を替えてきたということも考えられる。目を凝らしていると、ドアを開いて現れたのはずんぐりむっくりの中年風の男だった。
 落胆した男はへなへなと腰を下ろして頭を抱えた。現れぬまま勤務が終わるとは思ってもみなかった男は、頭を垂れてスタンドから出た。コンビニに立ち寄る気にもなれずアパートに帰ると倒れ込む。放心状態から戻ると、男はごろりと仰向けになって考えた。ひょっとして何か急な用ができたのかもしれないし、何かのトラブルがあったのかもしれない。そうであればうなずけるし、致し方ないことだ。いやそうであってほしいと男は強く願った。
 それからの一日一日は長かった。今日は、今日こそはと思いつつ姿を待つが、メルセデスベンツは現れぬまま一週間が過ぎてしまった。食事もろくにのどが通らず、月曜日をむかえてやつれた男の願いは神頼みに向かっていた。スタンドに入るやバケツに水を汲み、給油機周りの汚れをふき取り、端末機の画面を慎重になでる。ゴミを拾って詰所に戻ると室内の清掃にかかる。今までやったことのないことを夢中でこなしていると、気持ちが洗われてくるのか男の表情が生きてくる。今日はくる必ずくる。これだけのことをやって迎えようとしているのだから必ずくると男は言い聞かせる。
 午前二時。緊張が盛り上がって男はたまらず外に出て、ラジオ体操で身体をほぐす。気持ちがおさまると詰所に戻り定位置につく。まもなく三時になろうとしている。男はじっと入ってくるはずのベンツを待った。幹線道路を行きかう車はいつもの流れだ。その中の一台がやがて入ってくるのだ。こない、こないまだこない。これだけ待ち焦がれているのにどうしてこない。今日も用ができたのか、トラブルがおきたのか、ここへくることより、よほど大事なことが今日も起きたっていうことか。三時はとうに過ぎてしまった。男は目を落とした。
 自業自得かとつぶやくと男はため息をついた。できそこないの俺にはやはり女は無縁なのかと、携帯を開いてあのひとをしみじみ見つめる。こんな俺に向かって何を語ろうとしているのか、今にも結んでいるくちびるから白い歯が覗きそうだ。男は顔を近づけくちびるを寄せる。このひと月は春の夢だったのだろうか。これまでも、これからもないだろうひとときの幸せをくれた、あのひとの顔写真を指先で触れた。
 次の日から仕事についても男は、もうあのベンツは現れないのだと思うと魂が抜けたように無気力だった。しかし午前三時が近づくと目は自然に幹線道路の方を向いてしまう。それも日にちが過ぎゆくにつれて気持ちが薄れ、ただ漫画本をめくり、眠くなれば目を閉じ、ひたすら時間に身をまかせるようになった。これでいいのだ。俺はこうして静かに生きて行ければそれでいい─。
 メールの着信が耳に入ったのは日曜の午前三時。机に伏せていた男は跳ね起きた。これは、このメールはもうあきらめていたあのひとからだ。携帯を持つ男の手が震えた。

これなかったのね
男を見つけた
ちゃらいやつよ
わたしにはこんな野郎ばかり
だまってみなすませてくれる
あんたの背肩にひかれたけれど
ほんのすこしのあいだでも
いちど暮らしてみたかった
でももうおしまいなのよ
あしたの月曜午前三時
見ててねわたしの旅立ちを
きらめく夜空のまたたきは
おなじあんたと
あゆんだ日かげ
さよならグッバイ
いつかまた

 これは…理解できない言葉並びの中には、俺を見捨てて、ちゃらい男と旅立つとあるのだろうか。明日の夜中の三時だ。今、どこで何を考えどこへ行こうとしているのだろうか。男はくちびるを噛みしめた。もうこれで不得手でもメールを送れる立場にはない。やはり見限られていた。分かっていたことなのにどうしようもない淋しさが胸を熱く焦がした。
またたくまに翌日はきた。アパートを出ると夜空の  雲の切れ間には、所どころで名も知らぬ星がきらめいている。自転車でスタンドへ向かうペダルは重かった。狭い歩道をすれ違う自転車や歩行者をかわしながら男は思う。仰ぐ空の午前三時は耐えられない淋しさが襲うのだろうか。幹線道路に沿って立つスタンドが明かるく浮いている。そこへ行くことに迷いが生じる。近づいてくると男は自分自身を失いそうになる。
 午後の勤務者から仕事を引き継ぐ時に顔色を指される。今日という日をお前になんかに分かってたまるかと、歯をむき出して吠えたくなる。
日付が変わっても車の通る量は目立って減らない。眺めていると、もうそこを通ることのないベンツに思いが走る。向こう側を狂ったように飛ばしてはUターンしてきたり、スタンドへは控えめに、ある時は堂々とまたある日は知らぬ間に入ってくる、あのベンツはもうこない。
 男は道路から視線を離して時計に目をやる。そろそろ三時になる。俺はただ夜空を仰いで見てやることだ。男はドアを押すと空の開けている北へ回り込んだ。闇夜の空にじっと目をやる。何等星か知るべくもないが雲の合間からいくつか望める。もう旅に出たのだろうかと、あのひとを思うと同時にひと粒の星が震えたように見えた。ああ、あの星がそうかもしれない。男は何度もまばたいてはその星を見つめ続けた─。
 ゆっくりと雲がかかりはじめたようだ。辺りからきらめきが次第に消えていく。ちゃらい男と幸せになればいいよ。男はつぶやくと、虚ろになった目を空から戻した。
 つらい夜の仕事を終えてアパートに帰り、おにぎりとカップラーメンをすすりながら、ここでのバイトを続けるべきかを、ぼんやりと考えながらテレビに目をやっていると、事故のニュースが流れはじめて男はぎくりとした。
─今日午前三時ごろ乗用車同士の正面衝突があり、男女あわせて四人全員が死亡。どちらかがセンターラインを越えて激突した模様で車両は大破。警察では死亡した四人の身元の確認を急いでいます。現場はインターチェンジに近い片側一車線の平坦な直線道路で事故原因についても調べを進めています─
 男は食い入るように見つめた。この幹線道路から国道に出て四十五キロ先のインターチェンジだ。まさか、まさか旅立つというあのひとが、あの事故にかかわっているのだろうか。いやそんなことはありえない。考えたくもない。あの優しい眼差しを思うと無謀な運転で事故を起こしたり、巻き添えになるようなひとではない。男はそう固く信じるとリモコンを手に取った。
 味のない食事を終えると男は冷たい布団にもぐり込む。しかしインターチェンジの近くで、午前三時というニュースが、心の中に食い込んできてどうにもならない。ありえない。あるはずがない。いくら言い聞かせても胸に重い何かがせまってくる。男はたまらず起き上がると布団を壁際に引きずり寄せた。なぜか壁の向こうに、「いつかまた」って言った、あの十リットルのひとがきているような気がしてならなかった。男は横たわって壁に背中をあずけると、目を深く閉じた。