新連載・地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉7月30日

平成二十四年七月三十日
 船は昨夜、マンサニージョを出港し、今回76回ピースボートの最後の寄港地であるメキシコのエンセナーダに向かって進んでいる。

 8月17日の横浜帰航が日に日に近づいてきた。心がそうからなのか、デッキから見る海の流れが、なぜかしら疾風のようにも見える。そういえば、以前ある女性が私にこういった。「自分が寂しい寂しい、と思っているからよ。だから、ほかのなんでもない人までが寂しく見えるのよ」と。なんだか、よく分かる。

 きょうは一瞬どうしようか、と思った。久しぶりにファックスを出しにレセプションに出向いたところ、大切な眼鏡の右の方の枝がポロリとはずれてしまい万事休す、と思いきや。運よく眼鏡の留め金が目の前に落ちていたため、レセプションの女性に「ねじ回しアリマセンカ」とダメもとで聴くと、たまたまいつもよくしてくれているジャパングレースのインドネシア人女性スタッフのメイシさんが、どこからか、ねじ回しを探し出してきてくださり、その場で修理してくれたのである。
 一時は「このまま眼鏡のないまま、横浜まで帰らなければならないのか」とゾッとしたが幸い、メイシさんの素早い対応に助けられた。私は元々、眼鏡とか時計とか、首飾りなどからだにチャラチャラつけるものは大嫌いだ。眼鏡も嫌いだから始終、はずしたり付けたりを繰り返している。でも、眼鏡がないとなると、やはり困ってしまう。何も見えなくなったら船旅の楽しさだって半減してしまう。
 と、こんなわけで私にとっての眼鏡事件はアッと言う間に解決したのである。めでたし、とはこのことか。

 それにしても、昨夜の日本へのメール送信には苦労した。日本からの着信を確認、新規メールにしてもワッパが延々と回り続けるだけで、なかなか本文が出てこない。結局1行も読めないまま今度は新規メールのセットを繰り返し、やっとのことで日本へのメール送信を終えた時には疲労困憊。でも、いいか。なんとか送信はできたのだから。衛星回線は洋上の気分によってすんなりいく時と行かない時があるから、困り者である。

 平成二十四年七月二十九日
 オーシャン・ドリーム号はけさ、メキシコ1の商業都市・マンサニージョに着いた。
 マンサニージョは白い建物が目立つ、とても美しく落ち着いた街並みだった。時折、首筋をなでる如くふきわたってゆく〈かぜたち〉には、どこか白い民家群と吸い込まれるようなビーチのあの「透明な青」が忘れられない、地中海に浮かぶミコノス島を思い出させた。
 海岸沿いの公園にはどこから飛んできたのか、海の小鳥たちがチッ、チイッ、チィ、チッ、チイッ…と音楽のようなリズムを奏で、声をたててヨチヨチと近づいてきた。夕方には港近くで地元あげての歓迎会まで開かれ、歓迎の踊りの数々には国際交流の実を身をもって体験した。

 そして。この日私は、この町で孤児院の『小さな天使の家』訪問と子どもたち、という名のオプショナルツアーに参加。このちいさな家は親と死別したり、捨てられたり、虐待に遭ったりした逃げ場を失った子たちや、親の経済的理由などから入所した8歳から18歳までの55人が生活していた。
 なんでもアメリカ人女性が1994年に私費を投じて19人からスタートさせたのが最初で、2年後には国の認可も得て公式の孤児院としてスタート。現在は地元ロータリークラブによる資金援助(主に交通手段面からの援助)や地域社会のコミュニティーあげての応援など、温かい目に見守られながらの施設運営が続けられているという。集団で生活する住居にはパソコンや勉強机、本棚、ソファなどがあり施設内容は驚くほど完備していた。

 その『天使の家』の中庭広場で私たちは入所生によるそれは見事な踊りを見せてもらったあと入所園児や児童、生徒らとスペイン民謡である〈幸せなら手をたたこう〉を一緒に歌いながら、手をつなぎあったり、肩をたたきあったり、ワッハッハーと笑いあったり、飛び上がったりしたのである。
「とおりゃんせ」で『天使の家』の子らと交流するピースボート乗客たち、園内には青空の下、笑顔が広がった

 この交流オプションには、かつて三重県伊勢市や伊賀市で英語教師として暮らしたことがあるアイルランド生まれのサムくんが通訳ガイドとしてひと役。彼は事前の勉強と日頃の努力もあってか、バス車内でのマンサニージョや孤児院の説明が大変分かりやすかった。彼によれば、「このマンサニージョ市は交易が盛んになるのにあわせ工業団地も作られつつあります」と明快だった。

 そして、私にとってはこの日忘れられない出会いと別れがあった。ひとつは芸術家志望の18歳のリカルドくんに会ったことと、バス車内に同乗し『天使の家』まで案内してくださったばかりかメキシコについていろいろと教えてくださった施設の女性職員セラヤ・リオンさんである。
 リカルドくんには、メキシコの伝統料理ホソーレを共に食べながら私の似顔絵まで描いて頂いた。私もスキを見て彼の肖像画を描きお礼に渡すと、彼はうれしそうにうなづき私が描いた下手な似顔絵を受け取ってくれた。
 セラヤさんとは、どうしたわけか、最初から気が合い最後は抱き合うほどに別れを惜しんだ。いつの日か日本に来てください、ということも忘れなかった。彼女からは〈平和について〉どう思うか、についてもサムくんの助けを借りてお聴きすることが出来た。

平成二十四年七月二十八日
 きょうは、例によって朝の社交ダンスでジルバ、チャチャチャ、ルンバを踊って1日がスタート。社交ダンス以外の企画ものは、すべてパスし小説書きに打ち込むつもりだったが、ついつい昔の悪い新聞記者気質が出てしまい、午前中は「メキシコの人間安全保障」(パブロ・ロモさん)を、昼からは長崎から訪れた北野さんご夫妻による「広島・長崎から世界へ『ヒバク証言』~おりづるプロジェクト紹介~」を聴いた。

 現役記者時代に頭にたたきこまれた現場百回魂といえようか。やはり聞かないよりは聴いた方が自らのためにもなる。というわけで、自国の利益ばかりを追求するアメリカという巨大国家が、いかに多くの国の内政にチョッカイを出し世界の国々を苦しめているか、をあらためて思い知った。メキシコまたしかり、である。アメリカはどうしてこうまで口出しをするのか。

 きょうは少し嬉しい話がある。
 メールをチェックしていたら、学生時代の友人で中国の大学で日本語教師をしている川口譲さんから私が送った途中経過に対する返信メールが入り、厦門(アモイ)で一般家庭を訪れ交流した話題を〈平和のメッセージ〉としてユーチューブで世界に発信したことに触れ、このことを中国の学生たちに出題して平和の大切さについて講義したというのだ。私は、なんだかこれまで洋上でのユーチューブアップ作業で苦労に苦労を重ねてきたが、報われた気がしたのである。それよりも、早く川口さんと再会して酒でも飲みたいな、と思う。

平成二十四年七月二十七日
 きょうの夕食はフォーマルデーとか、だそうだ。元々そうした席は大の苦手、それに関心も全くないので最初からパスした。美しく着飾った舞がおれば別だが…。自慢の彼女がいたら、もちろん出るのだが。それよりも、きょうは滋賀県長浜市から来た村居育(しき)子さんの呼びかけで「滋賀県ゆかりの人集まれ!」といった試みが8階中央あん(フリースペース畳)で午後5時からあり、10人ほどが出席した。かつて新聞社の大津支局にいたこともあり、私も出させて頂いた。   
皆さん、琵琶湖に育まれてそだった人ばかりで和気あいあいのうちに自己紹介が進んだ。「次回は一緒に食事をする会にしましょう」(村居さん)ということで、ここでもまた新たな人との巡り合いが待っていた。

 ジャパングレース・狭間さんによる今回船旅最終の全員参加の航路説明会が7階前方のブロードウエーであった。狭間さんは、船長を長年務められた経験がおありだけに、航路説明会は毎回楽しみにしてきた。それだけに、少しばかり寂しい気がしたのも事実だ。
 それによると、私たちが29日に寄港するメキシコのマンサニージョ、そして8月2日に入港する最後の寄港地・エンセナーダの間は1800キロ離れており、実に2時間もの時差があるという。それと、これから航行するのは寒流なので結構寒いので、まだ長袖をしまってしまうことがないように、とのことだった。
 またエンセナーダを出ると横浜まで、あとは2週間に及ぶクルージングが延々と続くが、その航路は北から、北緯47度30分、同41度、同35度の3通りで、どのコースを選ぶかは、これから船内で相談して決めることになるという。今のところ、41度のコースで行くことになりそうだという。これだと、日本との距離は5047マイル(キロに換算するなら1マイルに1・85キロをかければよい。一番上、北のコースなら4888マイル。一番下なら、5171マイル)だそうだ。

平成二十四年七月二十六日
 グアテマラのプエルトケツァルの滞在2日目。私はオプショナルツアー「中米の小学校で交流」に参加。早朝の午前7時半、バスで港を出発。片道1時間半かけ、ビジャ・ヌエバ地区へ。ここのエミリオ・アレナレス・カタラン小学校を訪れ、こどもたちの踊りの披露のあと、一緒に手をつないで踊ったり、ジャンケンポン大会をしたり、「幸せなら手をたたこう」遊び、さらには、けん玉などで楽しい時間を過ごした。
 交流会場一角では、このほかにも浴衣の着付けや折り紙指導、書道などが楽しく行われ、運動場ではサッカーの練習まで開かれ、こどもたちは皆真剣そのものだった。それにしても、こどもたちは皆良い子ばかりである。別れ際には、何回も何回も握手をしてくれ恐縮してしまったのである。先生も美人ぞろいで、この日この世で初めてお会いした、オメガ、リサ、アンドレア、マイラのことを私は永遠に忘れないに違いない。
 帰りには、全校児童が学校の門のところで待っていてくれ、1人ひとりと何度も何度も握手し忘れ難い思い出となった。この日、学校側からはオプションに参加した全乗客に対してボールペン付きペン立てが贈られ、ピースボート側からは支援物資の机が届けられたのである。

 船内に帰ったら、舞からファックスが届いていた。
 例によってポイントだけ「一番感謝する人を忘れています」とあった。先日、船旅の助けになったもので忘れていた2件を〈海に抱かれて みんなラヴ〉書いたところ、どうやら、まだ重要なものを忘れているらしい。
 気になったので彼女に問い合わせると、私の頭をチラリと通り過ぎた大垣に住む次男坊だった。「あの子は何も言わない。でも、どんなにあなたのことを心配してくれているか。あなたを守ってくれているのだから。忘れてちゃあダメよ」というものだった。母の愛もまた強しか。 

平成二十四年七月二十五日
 本船、オーシャン・ドリーム号は早朝、グアテマラのプエルトケツァルトに入港した。ほどなくして日本の舞(美雪)からフアックスが届いた。それには例によって少女の如き、つたなき字で「Dear 伊神孝信さま 今までの中で一番おもしろいものをFAXします」と書かれ、毎日新聞の本日付夕刊の憂楽帳〈ツバメの巣問答〉のコピーが添えられていた。舞らしいな、と思って私は何度も読み返した。
 FAXを読んだ後、私はデッキに出て日本に電話した。こちらは朝の8時過ぎ。かの国との時差は15時間なので、日本は午後11時過ぎである。電話に出た彼女に「目は大丈夫か(先日の月曜日、スーパーの帰りに虫が目に入って目が痛く、ポンポンに腫れてしまった、というので何よりもそれが心配だったから)」と聞くと「まだ痛い。痛いよ。はれているのだから」の返事。私は「ファックス、ありがとう。それから、先日ニカラグアの首都マナグアであった歓迎のつどいで見たカラフルな民族衣装に身を包んだ現地の人々の踊りがとてもステキで、おまえにも見てほしかった。おまえが見たら、どんなにか喜ぶことかとつくづく思い横にいたなら、と心から反省した」などと話したが、元々言葉少ない彼女のこと、ただ黙って聞いてくれていた。

 昨夜は、洋上シネマでヘミングウェー原作の「老人の海」を見た。社交ダンスの方は午前、午後の部とも出たが、先日の朝、朝食中に突如として倒れ、急性心不全で亡くなられた富さんこと、富山さん(三重県松阪市)の冥福を祈って、後藤京子先生の提案もあり、みんなで黙とうを捧げた。102日間にも及ぶ、地球一周の船旅のことだ。いろんなことが降ってはわいて、消えてゆく。