小説「窓の向こう、花壇の明日」

 声が聞こえたような気がした。

 教室の窓から下を覗くと、そこには花壇があった。その日も窓からは、花壇が見えていた。窓側の席からは嫌でも目に入る。
 うちの高校の園芸部は、僕が入学する前の年に潰れたらしい。だから今は用務員さんが時々せっせと花壇の手入れをしているくらいだ。もちろん一人でやっているのだから、広い花壇全部を完璧にとはいかないみたいで、ところどころ枯れた花が目立つ。
 それだけでも僕はいい気はしていないのに、その日の昼休みに事件は起きた。不意に、花壇の前に誰かがやってきたのが見えたのだ。
「千早、お昼。……何見てんの?」
 友人が話しかけてきたけれど、僕はその誰かから目が離せなかった。
 髪の長い、女の子だった。制服を着ているので間違いなく生徒だろう。それはいい。そこまではよかったのだ。いたって普通だ。普通のはずだった。
 彼女が、花壇の中に入るまでは。
「千早? どうしたんだよ」
 僕は思わず椅子から立ち上がっていた。
「あっ」
 窓から見えるその光景に、僕は驚愕していた。
 どうしたのか。それは僕が彼女に向かって言いたいことだ。
「頭が、ガンガンするっ」
 僕はそう言って、構わず教室を飛び出した。三階から一気に階段を駆け降りる。足の重さなど気にならなかった。今すぐにでも叫び出したかった。
「君、そこで何してるんだ!」
 呼吸を荒くしながら校舎から中庭に回ると、すぐにそう声をかけた。彼女は僕の声に驚いて振り向いた。
「今、自分が何をしているか分かってる? 先生に言うよ?」
 僕が言うと、彼女はにっと笑う。その足元には、既に踏み荒らされた跡があった。そう、彼女は花壇を無茶苦茶に踏み、花を所構わず引っこ抜いていたのだ。
「花壇荒らし」
 彼女はそう言い残すと、突然走りだした。
「あ、おい!」
 慌てて追いかけようとしたけれど、僕はさっき階段を一気に駆け降りてきたことを思い出して、足が重くなった。呼吸も整わないままだ。
 僕は追いかけるのを諦めるしかなかった。
「次見つけたら、問い詰めてやる……」
 苦し紛れに、僕はそう呟いた。

 例の花壇荒らしの女と偶然再会したのは、翌日の廊下でのことだった。
「あ、すみません」
 彼女とぶつかった僕はすぐに気付いたのだが、彼女は僕の顔を見るや否や慌てた様子で後退りした。
 今度こそ逃がさないぞとばかりに、僕は彼女の手を掴んだ。
「おい!待て!」
 大きな声を出すと、彼女はびくっと肩を震わせた。
「す、す、すみませんでした!」
 彼女はそう言って深々と頭を下げた。
 突然のことに、僕は面喰った。そんな風に謝られるとは思っていなかったのだ。
「昨日は、その。ちょっと。えっと、何と言ったらいいのか。あれは私であって私ではなくて」
 意味不明なことを口走る彼女に、僕は首を傾げるしかなかった。
 昨日とは正反対の反応に、別の人かと思うくらいだった。
「あの。一体どういうつもりであんなこと」
 問い詰めるつもりではあったが、拍子抜けの反応に言い方は少し柔らかくなってしまった。
「ごめんなさい。とにかく、ごめんなさい」
「理由を言ってくれないと分からないよ」
 何度も何度も謝る彼女に、僕は困り果ててしまった。これでは話が進まない。
 どうしようかと思っていると、いつの間にそこにいたのか能天気な声が迫ってきた。
「よお、杏。何してんだー?」
 その顔には見覚えがあった。朝礼で何度か見たことがある。生徒会長の夏木竜刃だ。
「竜くん。あの、これは」
 困ったようにそう言う彼女。杏という名前なのか。
「あれ、もしかして俺邪魔しちゃった? 悪いね! 杏、母さんが今日ご飯うちで食べてけって、ちゃんと伝えたからな! じゃあな!」
 嵐のように現れた会長はそう言って、嵐のように去っていった。
「えっと、会長とは仲いいの?」
 僕は唖然としながら、とりあえずそう質問していた。
 杏は頷いて、「うん。竜くんとは、幼馴染です」と言った。完全に自分のペースを崩されて、僕はそれ以上杏に何を言ったらいいのか分からなくなってしまった。
「あの、とにかく昨日はごめんなさい。信じてもらえないかもしれませんが、昨日の私は本当に私ではないんです」
「それ、どういう意味なの?」
 杏のいい分に、僕は首を傾げる。
 すると彼女は少し迷っている様子だったが、やがてこう説明してくれた。
「実は昨日、魔法使いだという子が私の目の前に現れて、私の願いを一つ何でも叶えてくれるって言って、その願いを本当に叶えてしまったんです」
 彼女の言っていることの意味は、僕にはさっぱり分からなかった。
「はぁ?」
 話しが唐突過ぎて、俄かには信じられない。
「この話、本当なんです。あの子、私がまだ何も言わないうちに突然」
「ちょ、ちょっとまって。それとこれとどう話が繋がるわけ? 君、夢でも見たんじゃないの?」
 杏の話を途中で遮り、僕はそう言った。
「夢じゃ、ないです。私は魔法使いに頼まれて花壇を踏み荒らしたんです。多分」
「多分って、あれは君がやったんでしょ?」
「私自身、あまり覚えていないんですよ。意識が乗っ取られていたのか、ぼやっとしか記憶がなくて」
 困った顔をして杏はそう言った。
 僕ももうそれ以上何を言えばいいのか分からなくて、口を噤んだ。
「あの。花、好きなんですか?」
「え?」
 彼女の突然の質問に、僕は目を丸くする。
 きっと過剰に怒っていたから、そう勘違いしてしまったのだろう。僕は首を横に振った。
「いいや。花なんか、嫌いだよ」
「嘘、ですよね?」
 杏は驚いた顔をして、そう口にした。
「本当だよ。僕は花が大嫌いだ」
 口をとがらせて僕は言う。
「じゃあ何で、こんなに怒っているんですか?」
 その疑問は当然だった。嫌いなものならいくら壊されたって普通は怒らないだろう。だけれど僕には怒るだけの特別な理由があった。
「花たちの悲鳴が聞こえるから」
 一番最初にその声を聞いたのは、いつのことだっただろうか。僕はもう覚えていない。
「すごいじゃないですか。それって、とっても素敵です」
 杏は僕の言葉を聞くや否や、笑顔でそう言った。
 僕は予想外の言葉に、少し唖然としてしまった。すごいとか、素敵とか。そんなこと言われたのは初めてだ。
「え? いや、そうかな? うるさいだけだよ。水が足りなくて死にそうだっていつも言ってるし、最近は土の質が良くないって文句言ってくるんだよ?」
 声が上ずるのは、さっきの言葉が嬉しかったせいだろうか。
「そうなんですか。じゃあもうちょっと水とかあげないと。ここの花壇、一年前はすごく綺麗に咲いていたので、最近はちょっと枯れ気味で気になってはいたんです。園芸部、なくなっちゃったんですね」
 寂しそうに杏は言って、それから掴んだままだった僕の手を逆に掴み返してきた。
「え?」
 その力がやけに強かったから、嫌な予感を覚えた。
「一つ提案があります。お詫びと言っては何ですが、作りましょう。園芸部!」
「は? はい?」
 僕は杏の言葉に信じられないという顔をした。
 魔法使いの話は何処へ行ったのやら、それからは園芸部再建の話で盛り上がることになるわけだが、どうしてこうなった?
「絶対に嫌だ」
「どうしてですか? せっかくそんなすごい力があるのに、有効に使わないなんてもったいないです」
「どうしても嫌だ。作るんだったら一人で作ってくれ」
「一人じゃ無理ですよ。部員は最低二人って、生徒手帳に書いてありますよ」
 そう言って杏が生徒手帳を胸ポケットから取り出して中を見始めたので、僕はそれを奪い取って床に投げ捨てた。
「あー! 何するんですか!」
 怒ったように叫んで、杏は生徒手帳を拾う。
「何で持ち歩いてんだよ!」と叫びたいぐらいだったが、持ち歩いている方が正しいと言われそうで僕は何も言えなかった。
「全くもう。いい案だと思ったんですけどね。これも何かの縁ですし」
「君はどこかおかしいよ。昨日初めて会った時もそうだし。普通、僕の話なんて信じないよ。普通は、気味悪がるよ」
 昔の嫌な記憶が蘇ってきて、僕は悲しい顔をしてそう言った。
 今まで誰も、僕の話は信じなかった。家族も友達も、先生も。みんな花と話をしている僕のことを好奇の目で見ていた。なのに彼女は、杏はあっさり僕の話を信じたみたいだった。それはすごく嬉しいけれど、すごくおかしい。
「確かに、私はおかしいのかもしれません。魔法使いの話も、だからきっとあなたに信じてもらえないんでしょうね。分かりました。とりあえず今日は諦めます」
「今日、は?」
 僕は杏の言葉の気になる一部を抜き取り、聞き返す。
「はい。そう言えばお名前を聞いていませんでした。私は、堀田杏と申します。あなたは?」
「ふ、藤本千早」
「千早くんですね。よろしくお願いします。では、また明日」
 一方的にそう言って、杏は僕の前から去っていった。
 荒らしというより嵐だったなと僕は思って、しばらくその場から動けなかった。

「一年B組、藤本千早。至急生徒会室にくるように。繰り返す……」
 翌日の昼休み、突然そんな放送が流れてきた。
 僕の名前が放送で呼ばれたのなんて初めてのことで、僕だけじゃなく友達まで驚いていた様子だった。
「お前、何かしたのか?」
 何て聞いてくる始末。
「いや、何も」
 と返事をしたはいいが、心当たりはないこともない。
「今の放送、例の生徒会長だよな?」
「例の、とは」
「あれ、お前会長の伝説しらないの? 入学式のとき、新入生代表演説の後、壇上からダイブしたって話しだぜ? 突然のことでけが人も出たらしいし」
「そ、それでよく生徒会長やってるな」
 若干引き気味で僕は言った。
 普通は停学か、退学になるもんじゃないか?
「まあ、噂だけどな。何せ二年も前の話だぜ。おひれ付きまくってんだろ」
「そ、そうか」
 でも実際、それに近いことをやったのだろうなと僕は思った。
「で、行かないの?」
「どうしようかな。今の話聞いたら、余計に行きたくなくなったよ」
 ため息をつきながら僕は言う。
 夏木会長の呼び出し。大体の予想は付く。
 恐らく昨日の園芸部の話が、杏から会長へ伝わったのだろう。行けばきっと杏もいる。
「行って来いよ。んで、会長に例の話が本当かどうか確かめてこいよ」
 友達はそう言うが、楽しんでる顔をしている。こっちはちっとも楽しくないのに。
「そんなに気になるなら、お前が行けばいいんじゃないか?」
「ばっか。相手はあの会長だぞ。何されるか分からないだろ?」
 友達がそう言うか言わないかの時だった。突然教室の扉が、勢いよく開いた。
「やっほー、千早くんいる? 遅いから来ちゃった!」
 お茶目な笑顔。と形容してもいいくらいの満面の笑みでそう言って、現れたのは夏木会長だった。
「いません」
 僕は思わずそう言っていた。
「う、噂をすればなんとやら」
 小声で友達がそう言ったのが聴こえた。
 会長は真っ直ぐに僕の方へ来ると、こう言った。
「いるじゃないか、ここに。よう千早くん。ちょっと話しがあるんだ。面貸せ」
 僕は座っていたので、会長に見下ろされる形になっていた。最後言い方が怖いが、僕は怯まない。心は端から決まっている。
「園芸部再建のお話なら、お断りします。堀田杏さんから何を聞いたか分かりませんが、とにかく僕は園芸部には入りません。ですから」
「何を怖がってんの? 千早くんは」
 僕の言葉を遮って、会長がそう言った。
 真剣な表情で、僕を見つめている。
「別に、怖がってなんかいません。部活に入るつもりはないんです。ましてや、園芸部何かに」
 僕は会長から目を逸らした。その目にすべてを見透かされそうな気がしたから。
「園芸部? ああ、お前よくここから花壇見てるよな。何が面白いのか。この間だって窓の外見てると思ったら突然飛び出してって」
「ちょっと、余計なこと言うなよ!」
 僕は慌てて、後ろの席に座っている友達の口をふさいだ。
 それを見て会長がにたりと笑う。
「へぇ。そうなんだ。まあ、考える時間をあげるよ。杏が珍しくやる気でね。俺も諦める気はないから」
 そう言って、会長はさっさと教室から出ていった。
 僕は二対一の勝負に、果たして勝てるのだろうかと漠然と思った。
「いいのかよ、千早」
「考えるまでもないんだ。考えるまでも」
 そうは言うものの。心の中はかき乱されていた。
 頭の中でぐるぐるぐるぐると過去のことが蘇る。みんなのささやき声。視線。それから逃れるためにこの学校を選んで、入学してからずっと普通を演じてきたのに。花の声なんか聴こえないふりを続けてきたのに。どうして今になって。
「気持ち悪い」
 考えれば考えるほど、胃の中が変になっていく。
「どうした、保健室行くか?」
「うん。行ってくる」
 僕はそう言って、口元を押さえながら教室を出た。

 薬品の匂いが鼻につんときた。保健室に先生は不在みたいで、僕はどうしようかと一人考えていた。とりあえず立っていられそうもないのでベッドを借りることにする。
 誰もいないことを祈りながらカーテンを開けると、残念なことに先客がいた。閉めようとも思ったが、その顔を見て一瞬躊躇した。
 そこで眠っていたのは堀田杏だったからだ。
 最近よく会うな。と思いながら何となくそのままそこにいた。こうして見ているとごく普通の少女に見える。
 僕は考えていた。彼女の話が本当ならば、彼女が魔法使いに願ったことは一体何だったのだろうか。あれは私であって私ではない。とはどういう意味なのだろうか。記憶が曖昧とも言っていた。ならばあれはもしかして、人格が違うとでも言いたかったのだろうか。
 そんなことをぼうっと考えていると、目の前で眠っていた杏が突然起き上った。
「おはよう。千早くん」
 あまりのことに僕は唖然としてしまって、反応が遅れた。
 ゆっくりと目を開けてそう言った杏は、昨日とはどこか雰囲気が違っている。そう、それはまるで一昨日のときと同じような感じがして。
「こっちで会うのは二回目かな」
 杏はそう言って、愉快そうに笑った。
「なるほど。それが、魔法使いの叶えた君の願いってやつなんだね」
 僕は気持ち悪いのも忘れて、彼女に向かってそう言った。
「ご名答。いいね、君のその驚愕したっていう顔。確かに千早くんの言う通り、私は堀田杏の願いで生まれた、彼女のもう一つの顔」
「一体どういう願い方をしたら、そんなことになるんだ?」
 僕は聞いてみる。まだ信じられなかった。それでも演技だと疑いたくなる。
「違う自分になりたい。それが杏の願いだよ」
 いつの間にそこにいたのか突然声がしたので振り向くと、そこには小さな男の子がいた。黒い外套に、黒いとんがり帽子。そんな恰好をしている。
 今日は驚いてばかりだ。
「な、何なんだよ」
「僕は魔法使いさ。やっと見つけたよ、千早」
「そういうことじゃなくて。何だよ、二人して僕をからかってるのか?」
 頭が混乱していた。
 堀田杏の願い事と、それを叶えた魔法使い。いっぺんに頭の中で整理できない。理解しろと言う方が無理だ。
「本当は昨日会いたかったんだけどね、杏に止められたんだ。彼は自分の話を信じていないから、まだ会わない方がいいって。でももういいよね。これで杏の話、信じたでしょ? 僕はどんな願いでも叶えられる魔法使いなんだ」
 自称魔法使いの男の子が、僕のすぐ目の前に立っていた。見上げる目は純粋なのに、言っていることはとっても電波だ。
「そんな話、信じられないよ。二人とも悪ふざけはやめて」
 僕がそう言った時だった。
「じゃあ、悪ふざけじゃないって証明したら信じてくれる?」
 男の子は言葉と共に、指を鳴らした。その瞬間地面から一気に蔦が生えてきて、僕の足に絡みついた。
「え? な、何だこれ!」
 一瞬のうちにそれは僕の腰まで伸び、一切身動きが取れなくなってしまった。
「どう? これで信じた?」
 魔法使いの言葉には、悪意が感じられた気がした。
「や、やめてください、魔法使いさん!」
 不意にさっきとは違う必死な杏の声が聞こえてきて、僕は彼女の方を見た。雰囲気が昨日に戻っていた。
「堀田、杏?」
 僕は、呟くようにその名を呼ぶ。
 額に眉を寄せて、杏は僕の方を見ていた。
「分かったよ。そんな顔しないでよ」
 魔法使いは杏の顔を見て、渋々魔法を解いてくれた。
 蔦は床へと巻き戻って行き、室内は何とも言えない空気が流れている。
 魔法使いは拗ねた顔をしていて、杏は怒っているような悲しんでいるような分からない顔をしていて。僕は一人、状況がいまいち把握できていない。
「あれー。もう終わりなの?」
 唐突に声が聞こえて、僕は何度目かの驚いた顔をする。
 残念そうにそう言って現れたのは、夏木生徒会長だった。この人もなんてこう神出鬼没なのだろうか。
「せっかく面白かったのに。でもなるほどね、最近どおりで杏の様子がおかしいと思ったら。そういうことね」
 一体いつから見ていたのだろうか、この人は。
 僕がそう思った時だった。
「竜、くん。どうしてここに? もしかしてずっと見てたの?」
 青ざめた表情で、杏がそう言った。ショックを受けているようなそんな様子で。
「千早くんが保健室に入っていったから、そこからずっと見てたよ。正直驚いたけど、俺に隠し事してることは何となく分かってたから」
 会長はそう言うと、寂しそうに笑った。
 杏は何も言わずにベッドから降りて、そのまま僕のことも魔法使いのことも、会長のことも素通りして出入り口まで行ってしまった。
「ごめん、なさい」
 一言そう呟いて、杏は保健室から出ていった。
「あ、の。追いかけなくていいんですか?」
 僕は思わず会長にそう聞いていた。
「そういう君が、追いかければいいんじゃない?」
「いえ、ここは会長でしょう」
「むー。そうかな」
 この人、ちょっと抜けたところがあるなと僕は少し苛立った。
「ねえ、竜刃の願いは何? 僕が何でも叶えてあげる」
 空気が読めないのか、魔法使いが会長にそう話しかけていた。会長は「んー」と考える仕草をしたがすぐにこう言った。
「いいや。俺の願いは、俺が叶えるから」
 かっこいいとか思ってしまったのは秘密だ。
 僕は考えてみる。違う自分になりたいと願った杏のこと。会長にそれを知られて出ていってしまったのは何故なのだろうか。
「会長。やっぱり追いかけてください。会長でないとダメです」
 僕は会長の目を真っ直ぐに見てそう言った。
「何で? 何で君はそう思うの?」
「彼女が何で、違う自分になりたいと願ったのかを考えてみてください」
 僕の言葉に会長はしばらく考える仕草をしてから、「分かった。君の言う通りにするよ」と言って保健室を出ていった。
 これでよかったのだと思った。僕に出来ることはこれぐらいしかない。
 杏はきっと、会長のために。会長と一緒にいて恥ずかしくない自分になりたかったのだと思ったから。
 僕は会長の背中を、ただ見送ることしかできなかった。その場に残されたのは、僕と魔法使い。
「つまんないなー、竜刃は。自分でどうにもできないから、僕が叶えてあげるって言ってるのに」
「会長は人の手を借りない、かっこいい人なんだよ。それより魔法使いくん。さっき、僕に会いたかったって言ってたけど。どうして? 花壇を荒らさせたのも君?」
 ずっと気になっていたことを、僕は聞いた。
 最初から彼は僕を狙っていたのだろう。花壇の件を考えると、魔法使いが僕の力のことを最初から知っていたのではないかと疑いたくなる。
「そうだよ。僕は千早に会いに、この時間軸に来たんだ」
 魔法使いの言葉に、僕は目を丸くした。
「どういう、意味?」
「この時間で言うと過去の千早から、言伝を頼まれたんだ」
「過去の、僕?」
 信じられない気持ちでいっぱいになった。それと同時に変な期待を抱いた。
 でも、過去に魔法使いに会った記憶は僕の中には残っていない。全く覚えていないのだ。
「未来の僕は、やっぱりお願い叶えてもらわないほうがよかったって思ってる?」
 その言葉に、どうしてか魔法使いの顔に、いつぞや写真で見た幼少の頃の僕の顔が重なって見えた。
「今の僕は思ってないよ。お母さんが好きだったお花だから。お母さんとお花の思い出、いっぱい聞けたから。僕はすっごく嬉しかった。だから、未来の僕も思わないで。嫌いにならないで」
 だんだんと、記憶がよみがえってくる。
 そうだ。僕は願ったんだ。同い年くらいの男の子に、聞かれたから、答えたんだ。最初はもちろん信じてなかった。戯言だと思ったんだ。だけど、本当に花の声が聞こえるようになってすごく驚いて、すごく嬉しかったんだ。
「僕、どうしてそんな大事なこと忘れてたんだろう」
 胸の奥が熱くなって、泣きそうになった。
 過去の自分も、今の自分も。全部ひっくるめて自分なんだ。
「千早、これで過去の千早からのメッセージは終わり。僕は元の時間に帰るよ」
「待って。その前に堀田杏の魔法を解いてくれないか」
 僕の言葉に、魔法使いは首を傾げた。
「どうして? あれは彼女が願ったことだ。それに僕の魔法は一度かけたら解けないんだ。君のようにね」
 僕がずっと力に苦しめられてきたように、この先ずっと杏も二つの人格を持ち続けて生きていかなければならないということらしい。
「彼女が本当に願ったことだとしても、僕はその願い自体が間違っていると思う。彼女はそれを願うべきじゃなかったんだ。会長のためにも、自分のためにも」
 杏は間違った選択をした。と言いながら僕は思う。
 今の自分も過去の自分も受け入れた僕は、彼女にそう伝えるべき資格を得たはずだ。
「魔法使い。魔法が願いの力で発動するのなら、僕の願いじゃダメか? 僕の願いはもう叶えてもらえないのか?」
 彼女の魔法が解けますように。
「別に、願いは一人一つしか叶えられないわけじゃない。けど、その願い代償があるよ? 魔法を解く魔法だからね」
「どんな、代償だ?」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「君の記憶。少し欠落するかもしれない」
 それを聞いても、特に何とも思わなかった。元々いい思い出など一つもないし、悪い思い出が消えるのならそれは逆に喜ばしいことだ。
「うん。構わないよ。僕のお願い、叶えて」
 その日、僕は堀田杏と出会った日の記憶をすべて失った。

「ねえ、僕が堀田さんと最初に出会った時、僕どうして怒ってたんだろう。どうしても思い出せないんだけど。堀田さん、覚えてる?」
 土をいじりながら、僕は杏に聞く。
 魔法使いにお願いをしたこととかもなんとなく覚えているのだけれど、その日の記憶だけすっぽりと抜けていた。恐らく代償なのだろうけど。
「お、覚えていません!」
 杏が何かを誤魔化すように土をスコップでざくざくする。
「ああ、堀田さん。花の根っこが近くにあるから気を付けて」
「え? あ、ごめんなさい!」
 杏は慌ててスコップを土から抜いた。
「結局……。あの魔法使いは僕のために来たのに、どうして堀田さんの願いを叶えたんだろう」
 素朴な疑問を口にしてみる。
 そういえば会長にも聞いていた。
「それは、多分。彼にとっては誰でもよかったのだと思います。あなたをおびき寄せるためですから」
「おびき寄せる、ね」
 いい奴だったのか悪い奴だったのか、よく分からない奴だったなぁと思いながら、僕は花の世話をする。
「それにしても、楽しいですね。園芸」
 杏の言葉に、僕は一瞬考えてからこう言った。
「まあ、悪くないんじゃない」
 花は幸せそうに笑っていた。
                  (完)