新連載・権太の地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉7月13日

 2012年7月13日。フランス革命記念日、パリ祭前日の夜、私はオーシャンドリーム号に乗り、次の寄港地であるベネズエラのラグアイラに向かっている。この日がパリ祭の前日であることは父が生前、「俺の誕生日はナ。パリ革命の前日なのだから」とよく話していた。だから私は13日を忘れない。

 嬉しそうな津江さん(右から2人目、眼鏡の人)ご夫妻=12日夜、居酒屋「波へい」にて
 
 誕生日と言えば、昨日夜、乗客の1人で、「クラブ1000推進部旅の文化カレッジ専属ディレクター」、津江慎弥さんの満73歳のバースデーパーティーが船内の居酒屋「波へい」で有志により盛大に行われ、光栄にも私も出させて頂いた。圧巻は、ダンス教室の後藤京子先生が突然、慎弥さんの手を取りジルバを踊り出したことで、これには全員が見とれた。
 ほかに滋賀県から、お出での福山俊夫、清子夫妻による“近江商人”ならではの知らぬ間の差し入れ、さらには青森県八戸市からの石藤久雄、奈保子さん夫妻からの心のこもった色紙のプレゼント=色紙は【〈つ〉み重ねた人生 〈え〉がお明るく 〈し〉あわせかみしめし〈ん〉じる心 〈や〉さしい眼差し 倖せ人生 福来る 奈保子】というもの=などがあり、会場は終始なごやかな雰囲気に。
 私も自らの記者生活の総括として数年前に出版した「町の扉 一匹(いっぴき)記者現場を生きる」を“恵存”とサインさせて頂き贈った。ほかに、村田俊一さんも南京玉すだれを披露、“どじょうすくい”の雪路さん、ダンス仲間の高井さん、ピースビート劇団の林さんらも駆け付け、座は大いに盛り上がったのである。私は、長年の間つきそわれてきた津江さんのこの夜の奥さま、美也子さん(70)の嬉しそうな顔を永遠に忘れることはないだろう。

 八木啓代さんの「みんなに知って欲しい 検察の裏話2~陸山会事件の恐るべき真相~」をきのうの午後、7階ブロードウェイで聴いた。昔、事件記者として岐阜県庁汚職事件をはじめ数々の不正を暴いてきた作家・伊神権太としては、やはり気になったためで、彼女の真剣なまなざしに私も真剣に聴かせて頂いた。
 独断と偏見に出世欲がからみ、横暴を極める一部捜査。これは検察に限らず、サツカン(警察官、特にマルボウ=暴力団=担当も含むデカが多い)だって同じだ。ただ権力集中となると、花の検事とされる東京地検を中心とした“特捜検事”と名もなき刑事(デカ)たちとでは比べものにならない。八木さんが、1人の市民としてこれだけ真正面から厳しく権力捜査を見る“目”には、頼もしささえ感じた。なかなかのタマである。

 そうは言っても私が過去、取材で接触してきた大半のデカや検事たちは、家庭を犠牲にしながら、皆さん、世のため人のために、日々足を棒にされている。正義の味方であることだけは、お忘れなく。ごくごく1部の特捜検事の存在が、日本の捜査すべてに対する不信感につながっているとしたなら、それはもはや悲しむべきことだ。刑事たちの悔しそうな、あの顔、この顔が浮かんでくるのである。

【出会い】ダンス教室の午後の部が昨日から「ペア参加に限る」ということになり、私は“Oさん”とペアを組んで出ている。先日の教室で、これからはペアが条件ということだったので、たまたま近くにいた彼女にお願いしたところ「いいわよ」と1つ返事で受けてくれ練習を始めた、というわけ。
 ところが、その彼女が大変な人物だった。というのは、この女性、今回の船旅でたまたま結婚相手を見つけ、既に同じ船室でその男性と新婚生活を始めている、というのだ。そんなこととはつゆ知らず、軽い気持ちでお願いしたらOKが得られた、というわけ。でも、ダンスはダンス。彼女は私が下手であることも承知の上で一緒に、と話してくれているので、なんとかマスターしたい。
 とはいえ、相手の男性に申し訳ない気がして少しだけ複雑な気持ちだ。いざという時に備え、ほかの女性にも緊急用にお願いしてはあるが…。いやはや、あれこれと考えさせられる。

平成二十四年七月十二日
 このところはフロリダ半島沖から、プエルトルコ沖へ、と大西洋を南下するに従って日に日に温度が高くなってきた。船内掲示の航路図には「12日 気温27度 水温30度」と記され、いつのまにか船内の人々の大半が半そで姿だ。
 もはや英国のロンドンやノルウェーのオスロ、アイスランドのレイキャビクなどで遅まきながら来ていたコートや上っ張りの類も出番はないに違いない、と判断。昨夜は、これらを1番大きい旅行鞄の中にしまった。しまいながら、早々と帰り支度を始めている錯覚にとらわれもした。

 というわけで私は昨日すべきことをした段階で、本来1番寒くて着なければいけない時に着なかったコートや上っ張りの類を旅行バッグの奥に、もはや使わないものとしてしまった。昨日は洋上大運動会とやら、で大半の乗客がそちらに行っていることもあり自室にただ1人閉じこもり、私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の8月からの一部内容切り替えに伴う新生「熱砂」誕生のあいさつ文作成やら、作品のチェック、作品アップの新しい方法が記されたマニュアルなどにつき、あれやこれやと文書を読んだうえで質問事項も含め、日本の関係者にメールする多忙な1日となった。

 そうした中、きのうは船内で本当にステキな方にお会いできた。長崎原爆の生き証人、北野久仁子さんがその方である。そういえば、イギリスに寄港した初日の6月21日夕方、カティサーク駅近くの公園で行われた「核のない世界」実現のための核廃絶集会で原爆生き証人として「この不幸を2度と繰り返すまい」と自らの被爆体験を話しながら訴えておいでだった、まさにその女性だった。
 たまたま昼食の席で「どこから、お出でですか」と私が問うと「長崎からです」と答えられ「あ~あ、坂の多いステキな町ですよね。昔、長崎大水害の取材で訪れたことがあります。一家9人のうち、8人全員が亡くなり、ただ1人残された女性の言葉〈原爆よりこわかけん〉が、いまでも頭にこびりついて離れません。あの時、私はニュース前線に『眼鏡橋は泣いていた』と書き、『長崎市民救った長崎放送』という記事を大々的に全国発信し大きな反響を呼んだことを覚えています。夏休みには家族で訪れ、わが子に“ノー・モア・原爆”の大切さを教えもしました。長崎は、本当に善い町ですよね」と話が弾んだ。

 北野さんは、横に黙って座ってお出でるだけで、なんだか全身がホンワカと温められる感じのお方で「2度と原爆のような不幸を繰り返してはいけません。そのためにも私は、生き証人として、これからの人生を語り部として生きていきます。」と話され、さらに「実はね、アタシ若いころ三重県の紡績工場で働いていたのですよ」と話は留まるところがなかった。こんなにステキな方にお会いでき私は心底嬉しく思った。

【出会い】何といっても、北野さんと偶然お会いできたばかりか、多くの話を教えて頂け、有り難く思っている。ありがとう。

平成二十四年七月十一日
 SОAW(スクール・オブ・ジ・アメリカズ・ウォッチ)運動への署名をする乗客ら。私も署名した=オーシャンドリーム号船内で。10日午後
   
 洋上運動会で選手宣誓をする若者たち=11日午前写す
 

 この船はダメだ、と断言したかと思うと、いや案外良いではないか、と言ってみたり。これまた荒らくれ記者、権太(ごんた)流である。第一、言いたいことが言えない社会では世も末だからだ。この箱舟まだまだ気に入らない。でも、きのうは良かった。これでいい。良いものは良いと、たまには、褒めなくっちゃあ。

 一昨日までは、ちょっぴり期待外れの講演や総花的ともいえる各種企画内容には、私も少しばかりご機嫌ななめだったが、きのうの女性の平和活動家リサ・サリバンさんによるお話し「非暴力的抵抗の力~SОAWの草の根運動~」の中身には、おおかたで納得した。
 内容は米国ジョージア州の米軍基地にある「スクール・オブ・ジ・アメリカズ(SОA)」閉鎖に向けての、残虐死体などむごたらしい映像を使っての体験をまじえた話。南米各国から送り込まれたSОAを卒業した兵士たちが事もあろうに、母国を中心とした南米各地で罪のない市民を大量虐殺、これに抵抗しSОAの閉鎖を求めリサさんらが始めた市民運動SОAW(スクール・オブ・ジ・アメリカズ・ウオッチ)の背景や活動についての話で、真の平和社会実現を願う者の1人として大変、参考になった。

 やはり、平和にせよ何にせよ、市民自らが声を上げ、動かなければ始まらない。
 罪のない南米市民を次々と虐殺し「暗殺者学校」とまで言われたスクール・オブ・ジ・アメリカズとは、一体何だったのか(きのうの話では、虐殺する理由がイマイチ消化不足で分からなかった。なぜ、が欠けていた)。
 立ちあがった1人の牧師、ロイ神父。ロイ神父とリサさんの情熱が、最後はベネズエラのチャベス大統領の心までをも動かし、大統領はすべてのベネズエラ軍のSОAからの撤退を約束するというストーリーは、実体験の話だけに何より説得力があった。最後に質問に立った高齢の男性が大変素朴な質問ですが、と断ったうえで「米国には、どんなに悪事を働いても、神にお祈りすれば天国に行ける」というキリストの誤った教えがあるのではないかーと疑問を呈されたが、なかなかいい視点である。
 こんなキリスト教の考えが横行していたのでは、いつまでたっても世界平和は訪れない。

 最後にSОAWへの署名集めも行われたが、私も〈IGAMIGONTA 伊神権太〉と署名させて頂いた。リサさんの言葉で頭に残ったのは「信念を持って一生懸命動いていれば、扉は開く」「平和活動家としては、油断してはいけない。用心深くしている必要がある」の2つである。

 現在、こちらは11日午後2時半過ぎ(日本は12日午前3時半過ぎ)、オーシャン・ドリーム号は米国フロリダ半島沖のバミューダ島海域を航行している。このまま進めば、ガルフストリーム(メキシコ湾流暖流)に突入するのも間近だ。幸い、朝から好天に恵まれ、きょうは洋上大運動会とやらで、9階中央プールエリアは玉入れや障害物リレー、応援合戦、綱引きなどで盛り上がり、デッキというデッキが大勢の人々であふれ返り、笑顔に満ちあふれている。よいことだ。
 
【出会い】昨日の夕食の席。名前は聞かなかったが、温厚そのもののご夫妻曰く「前に63回のピースボートで南極を訪れ、今回は北極に行けるから、と楽しみにしていたのですが。北極圏までは行けましたが、世界遺産イルリサット・アイスフィヨルドのボート遊覧は出来ず当てが外れました。でも、このピースボートは、若い人たちがいろいろ学べるから、なかなか良いですね」の弁。福岡から訪れたという傍らの女性は「看護師を辞めてきましたが、船内では1人で(場所を見つけて)ウクレレを弾いています。洋上運動会とか、も明日(きょう)あるそうですが、そちらは遠慮しました。代わりに、お子さんの面倒を見させて頂いてます」。

平成二十四年七月十日
 船はゆくゆく、どこまでも。ピースボートがいとしくさえ思われてくる=9日夜写す
 

 なんだかピースボートがどういうものか、が何となく分かってきた。以前にも書いたが、これは人生の全てを傾けるものではない。こうした世界もある、それを知っておけば良い。
 この船内では、日々あれやこれやーと催しやら講座が開かれており、ある面で“ジャンボカルチャー船”の様相を呈しているが、率直に言って企画が多すぎる。閉ざされた箱舟の中でのある種、人間たちの足掻きに映らないこともない。
 もちろん、経験ということでは意味はあるだろう。でも、皆さんがやってることを見ていると、なんだか足を取られておかしな方向に染まってしまう心配がある。もっともっと、人間としてやらねばならないことが多くあるのに。こんな時間があるのなら、1人で旅をした方がずっとずっと良い。そんな気もする。でも、そうしたことを教えてくれた点では意義がある。日本の地上に降り立ったとき、何をしたらよいか、何を書いたらよいか、が分かってきた。

 どう足掻こうが、この箱舟はピースボート以前に閉ざされた中での世界なのだ。講演にしても全体に見聞きしたものの生き写しが多くて底が浅い。そうした中で実際に体験した中での信念を話す人にたまに巡り合う、と何やらホッとする。
 昨日あった八木啓代さんの「みんなに知って欲しい 検察の裏話~陸山会事件の恐るべき真相~」は、私にとっては予想外の出来で、それなりに評価している。(ただ彼女が事前PRしていたほどドッキリするものは何もなく、修羅場を泳いできた泣く子も黙る元新聞記者伊神権太にとっては、少し期待外れ。もう一度あるそうだから、期待している)
 
 それはそうと私にとって、寄港地訪問と平和への発信、海との物言わぬ対話以外にただ一つ、中身があるのはダンス教室といえよう。美雪が「ダンスだけ覚えてこれば。それでいいの」と送り出してくれたが、彼女はすべてを見超していたのか。きのうは朝と午後の社交ダンス【中級編】に出たばかりか、夕方の初級ダンス教室にも出た。でも、やっぱりオレには才能がないのかなあ~、といった諦めの気持ちにしばしば襲われている。

 相変わらず咳き込みながらの日々が続いている。風邪は一向に治らない。あ~あ、私はひとり。【咳をしてもひとり】か。

【出会い】神戸在住の於市洋美さんに、お会いした。たまたま昼食後に、10階のオープンデッキに出て海を見ていたら、ダンス教室でちょくちょくお顔を拝見して彼女が同じように海を見ておいでだったので「お久しぶりです。最近、あまりダンス教室でお見かけしませんが」と言葉をおかけしたわけ。
 そしたら彼女曰く「もう1つの初級ダンス教室に出てるのですよ」と。「あっ、そうか。私が続けている教室は今や、中級編なのだ」。私は「これから、私も出てみます。基礎からやり直します」ということになったが、さてどうしてものか。結局出たが、初級は名ばかり。いきなりの“つなぎ”練習など、私には中級以上の高級ダンス教室に映った。それにしても皆さん、性懲りもなく、よくやっていなさる。頭が下がってしまう。

平成二十四年七月九日
 こちらは午前10時半を過ぎたところだ。時差は、さらに13時間と開き日本では午後11時半だ。船はカナダ沿岸からアメリカ合衆国沿岸へ、と大西洋を南下し次の寄港地である南米・ベネズエラをめざして進んでいる。

 昨日午後は久しぶりの快晴に恵まれ、乗客の多くがオープンデッキに立ち、海を見守っていた。夜には海と漆黒の空の間に茜色の雲海が広がり、私はデッキにただ一人立ち、私でしか書けない文学作品への構想を巡らした。日本はどんどんと遠くなってゆく。でも、その分、私のなかに住む人々の顔が紫色の水平線のかなたに大きく浮かび上がり、懐かしく思い出された。

 茜色に輝く大西洋上の雲海には、思わずため息が漏れていた=8日夜写す
 
 久しぶりに戻ってきた空。多くの雲が、あれやこれやと語りかけてくる
  

 船内で「ゴンタさん」と「ゴンちゃん」の二通りの呼ばれ方をしている。大抵は「ゴンタさん」だが、「ゴンちゃん」と呼ばれることもある。

 そんななか、昨日は四国の美容師連の親分さんこと、ドン姉さん、すなわち女王蜂の玉井千鶴子さん=美容えひめ新聞編集局長、元愛媛県美容組合理事長、花嫁着付最高講師、愛媛県今治市在住=に2度、「ゴンちゃん」と呼び止められた。
 1回目は午前中、8階後方プールエリアでの“記念写真だヨ!! 全員集合”写真を撮る際に、「ゴンちゃん、記念写真撮りに行かなきゃ」とパソコンメールをしているさなかに声をかけられ嬉しく思った。
 2回目は昼食を終え、久しぶりにさわやかに晴れ上がった空と雲と海を1人、オープンデッキで見てカメラに納め船室に帰る途中で「ゴンちゃん、知ってる? 船内エレベーターが落ちたこと」と、こちらはお怒りの“呼び止め”である。
 おかげで、全員集合写真の方は声をかけられなければ、うっかり見過ごすところを滑り込みセーフに。お怒りの方は、船内体制の在り方に至るまで、まるで私が叱られているみたいだったが、彼女が大変な情熱家かつ義侠心の持ち主であることがよく分かった。

 ドン姉さんの話は、こうである。
 けさ朝食から帰ろうとした際、7階エレベーターのところで7、8人の人が集まっているので何事か、と覗いてみると、エレベーターがドスンと抜け落ち、中に夫婦が閉じ込められているではないか。
 やがて夫婦は助け出されたが、夫は肋骨の骨を折り、妻もケガをしたもようでエレベーターの箱はドスンと落下したままで大きな穴の中に箱舟があるみたいで落とし穴に落ちたような状態だった、とのこと。(それで今日は朝から、エレベーターというエレベーターが“調整中”となっていたのだ)
 ドン姉さんは、さらに続けた。
「私が聴いたところでは、奥さんが緊急の非常ベルを鳴らしても誰も来ず、結局は落ちた箱の中に閉じ込められてしまってから、やっと助け出された。今日は診療室も休診になっているが、900人もの命を預かっている船で“診療室に休診日があること自体”が大問題。船内放送で遊覧がああだ、こうだのと言っているが、けさのエレベーターの事故について、事の顛末をアナウンスしてくれなきゃあ、みんな不安に思うじゃないの。1番知りたいことを教えてくれてないじゃないの。
 診療室だって1人では無理だから。900人のなかにはお医者さんの1人や2人ぐらいいるでしょう。そうした方に、たとえ1日だけでもピンチヒッターをお願いして休診日だけは避ける方法だってあったはずなのに。大体、900人もの命を預かる船で船医が一人しかいないこと自体が大問題だわ。」
 義侠心の強いドン姉さんは話すほどに四国弁を交えながら興奮、とうとう「ゴンちゃん、こんなことって。許されていいの。900人もの命が預けられているのです。ほかにも天井から雨が漏れたり、風邪が至るところ蔓延する、など言いたいことが山ほどある。ゴンちゃん、このぶざまな管理体制を日本の新聞に書いてくれない」とまで言い切った。

 私は事態の重要さをもう1度、しっかりと検証してみる必要があると思い、ジャパングレイス窓口を訪れ、職員に「このままだと、乗客を不安に陥れかねない。なんらかの事情説明は当然、すべきだ。責任者にこの旨伝えるように(責任者がいなかったので)」と述べる一方、船内新聞で信頼していい女性スタッフの1人にも「こうした時にこそ、簡単で良いから事実関係と今後の対応を報道しなければ。本来の新聞の使命を果たしたことにはならない。このままでは所詮、自己満足も最たる瓦版に過ぎない」と鋭く指摘させていただいた。

 夕方、各階エレベーターの入り口部分に「エレベーターについて」と題し「本日エレベーターが緊急停止したことにより、ご迷惑ご心配をおかけしました。……」なる張り紙が出されたが当然のことである。

【出会い】個人名はさし控えるが、食事の席で「この船の管理体制はどうなっているのかしら。エレベーターがドスンと落下する、だなんて信じられないこと。メインテナンスがしっかりしていない証拠よ。パナマ国籍なので法律に制約されていないのかしら。前にもエレベーターに2人閉じ込められたみたい。医師も1人だけ、というのは明らかに管理体制がしっかりしていない証拠。みんな、ステキですばらしい乗客ばかりなのに。なんていう気でいるのかしら。途中で病死者が出たり、下船者が出てますが当然ですよね」。こういった厳しい声は特に女性に多い。

平成二十四年七月八日
 きのうは、せっかく朝から乗客たちから期待されていたニューファンドランド島沖の遊覧も、1日中濃霧に閉ざされた北の海のせいで実現しなかった。というわけで、本日付船内新聞も昨日付同様「本日はニューファンドランド島沖を遊覧します」の活字が再び躍ったが、同島沖遊覧は微妙なところだ。
 現在、午前10時(日本は午後10時)を過ぎたところだ。船は一体どこをさまよっているのか。けさ早朝の段階ではまだ濃霧は続いていたが、つい先ほどから視界はよくなってきた。たった今、ジャパングレイス担当者の説明によると、どうやらニューファンドランド沖は既に通り過ぎてしまったようだ。何事もお天気次第とは、よく言ったものだ。

 きのうは、映像チームによる夜を徹しての編集作業が終わったこともあり、午後からはずっと、私が世界に向け発信している「伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/私はいま その町で〈エジプト編〉」のユーチューブへのアップにかかりっきりとなった。
 インターネットへのアクセスカード(1枚100分、3500円)を継ぎ足しながらの延々10時間以上に及ぶ作業で午前2時直前になり、やっと終わった時には「ヨシッ、やった」と思わず拳を握り、涙が出そうになった。
 これまで3回のアップの経験から、どんな状況であれ、一気にやってしまうのが1番よいので、きのうは腹をくくって新品のカード5枚を手に臨んだが、どうしても洋上からの、それも単なる写真とは違う画像という容量が重いものを相手にしての作業だけに、事態は根競べの様相に…。昔、事件記者当時に再三経験した、真っ暗な夜道や明け方の路上で、他社に気付かれないよう刑事や検事を待った“夜討ち朝駆け取材”の時のような、あの辛かった日々を思い起こしながらの孤独な作業が延々と続いた。

 そして。きょうの午前1時過ぎ。それまでカードを継ぎ足し、継ぎ足し、4枚目を使い切り99パーセントまでアップの表示が出たところで最後の4枚目のカードが時間切れとなり“セキュリティーエラー”となった時には「またか」と泣くにも泣けず、明日すべて1から出直そうーと思いながらも、もしかしたら、と通りがかりの若者男女に「もしお持ちでしたら、カードを貸してほしい。あと一歩なので」と訴えて回るありさまとなった(完了まで99パーセントまで来ての時間切れは、以前にも経験済み)。
 幸い、着物姿で通りかかった酒井友梨香さん(リッツ、福岡県)が「大変ですね。カードありますから。使ってください。いいですよ」と貸してくださったので、それでやり直すことになった。それでも、なかなかアップの目盛りが進まない(最初は3~4分に1パーセント進むぐらい)。そばにいたパソコン博士ラリオくん(長崎市)の「少しパソコンの場所を移動させてみましょう」の提案に移動させると、それまでの99パーセントまで完了の実績か、急に目盛りが動きだしアレヨアレヨと言う間にアップが完了。ホッと胸をなでおろした次第である。

 アップ作業をしながら、一時はなんだか目の前がすべて真っ暗になりそうだっただけに、「完了」の表示を目の前にした時には光がパッと差してきた、そんな錯覚にとらわれた。それにしても、傍で見守ってくれたリッツとラリオくん! 心からありがとう。
 私は決して金持ちではない。でも、お金はこうした時にこそ使うのだ。ケチったところで何になろう。これでよいのだ。東日本大震災で一瞬のうちに家や家族を失った人々に比べたら、私には誇る家族がいる。たかがカード代、など知れている。とはいうものの、名古屋人気質か。無駄遣いはしたくない。ほかに「熱砂」への作品アップなど、これまでにカード代だけでも一体、どれだけつぎこんだことか。

 部屋に戻ってからも原稿書きで時間は過ぎ、午前10時を過ぎた。またしても徹夜といっていい1日が過ぎてしまった。
          ×          ×
 きのう8階の新聞閲覧場で新聞をチェックしていたら、「エジプト大統領 ムルシ氏」「選管発表 イスラム勢力で初」(朝日、6月25日付)の1面トップ記事の見出しが飛び込んできた。
 ―「エジプト大統領選挙管理委員会は24日、穏健派イスラム団体ムスリム同胞団系列の自由公正党党首ムハンマド・ムルシ氏(60)の当選を発表した。同国で自由な大統領選挙が行われ文民が当選するのは初めて。イスラム主義の大統領も初。軍部は民政移管前に立法権などを握り直すなど、自らの権限を強化している。新憲法起草などを巡り、同胞団などとの主導権争いが続きそうだ」といった内容である。

 そして、これより溯ること1週間。6月18日付同じ朝日の天声人語では「1991年のノーベル平和賞授賞式も一昨日ようやく全式典を終えたことになろうか。自宅軟禁で出席できなかったミャンマーのアウンサンスーチー氏(66)が21年の後にノルウェーで受賞演説に立った」などと触れ、次のように記していた。
 ▼2年前には想像もできなかった軍政国家の変容である。スピーチで平和をめざす人々を「救いの星に導かれる砂漠の旅人」と語った。砂漠に例えたのは一歩一歩を黙々と歩むイメージだろうか。話し終えると拍手がなりやまなかったそうだ▼ノーベル平和賞は栄誉ながら悲痛を伴う…
 この記事によれば、アウンサンスーチーさんがオスロを訪れ、演説したのは、6月16日のこと。そして私が、オスロのピースセンターを訪れたのが、その10日後の26日だった。だから、ピースセンターにはスーチー女史の写真が掲げられていたのだ。

【出会い】なんといっても窮地を救ってくれたリッツこと、酒井友梨香さんとラリオくんに助けられた。ありがとう。私はその場でカード1枚分(3500円)では安い、と判断し自室に現金を取りに行き4千円をお礼に手渡した。それにしても、若い人たちは、それぞれにやることがあるのだろう。深夜遅くまで皆、よく頑張っている。

平成二十四年七月七日
 七夕。美雪から「ところで箱舟はいかがですか。まだ潟はオリーブの葉を持ってきてくれませんか。きょうは七夕句会があります。せっかくだからゆかた着ていきます。こちらは瀑のような雨です」といったファックスが届いた。

 このところは、北極圏のアイスランドからグリーンランド沖を経て大西洋を南下、北の海をひたすらカナダの方角に向かって航行する終日クルージングが続いている。けさほど、カナダのニューファンドランド島沖に達したようで、しばらくはこの海域を遊覧するそうだ。
 オーシャン・ドリーム号は大西洋をさらに南下。ガダルカナル島(中央真ん中の島、右上はグリーンランド)周辺の航路図
 
 霧の海を突き進む、煙突部分だけが見える=6日午後、大西洋上で
 

 きのうの朝まで最悪だった体調も次第に回復、少しは元気も戻ってきた。
 きのうは午前中、本欄〈海に抱かれて〉の作品アップの段階でインターネットへの接続がおかしくなり、接続が回復するまでに実に2時間ほどかかった。こんな時、わが家の最強ブレーンがいてくれたら、苦も無く接続してくれるはずなのに。結局、分かる人はおらず、たまたまパソコン教室中の場所に持ち込み、指導女性があれこれいじくっているうちに回復した、というわけ。(カードによるインターネット接続が直前までいきながら、なかなか最後の“SUCCESSFUL”の表示が出ないので、そこで中断したのがいけなかったようだ。もう少し待てばよかった)。

 それでも、アップできホッとし、今度は業者から海を超え、送られてきている新生「熱砂」に関する資料すべてにあらためて目を通した。

 私の悪い癖で、いつどんな時でもなんだか、やることが多すぎる。忙しい、という言葉は嫌いだが、忙し過ぎる。
 これでは、いい小説なぞ、とても書けない。でも、そこは新ジャンルの創作第一だ、と自らに言い聞かせ、気になる午後の〈~災害支援企画1~ PBV石巻活動紹介〉を除くすべての講座や催しを頭から除外。8階フリースペースの椅子に座り、海を見ながら考えを巡らせメモを取るうち、気がついたらグッスリと寝込んでしまっていた。
 船内とはいえ、室内に比べるとかなり寒かったが、一昨日フォーマルパーティーに出る際、トランクにあるのを見つけたジャンパーを着ているので結構温かく、風邪の症状も少しは治まりつつある。

 災害支援企画の石巻活動紹介の方は、炊き出しとか瓦礫の撤去、泥除け、災害援助物資の仕分け、お風呂の準備と清掃、網戸の設置、蠅退治など多岐に及ぶボランティアに黙々と励むNGОピースボートの若者たちの姿が紹介された。そして、その中でも「仮設きずな新聞」を発行し、仮設住宅の一軒一軒に新聞を配って歩き、声をかけることによって、いったんは崩壊寸前にまで陥ったコミュニティーの輪が広がったという話には感動した。
 あっ、そうそう。きょうは船内で〈まんなか発表会〉なるものが開かれ7階ブロードウエイで発表の部が、8階前方左舷通路では写真などの展示の部が、それぞれ人気を博し、大いに盛り上がったようだ。私が当初出る予定だった社交ダンスの発表会も楽しく行われ、みな華やいだ様子だったという。それにしても、みな元気である。

【出会い】昼食の席で、三重県松阪市から来た中年男性富山さんと金沢からの若い女性栗田さんと話が弾んだ。2人とも温厚な人柄で、三重や犀川、浅野川の話で瞬く間に時が過ぎていった。特に富山さんは、同じダンス教室のメンバーですごく上手なため、いつも盗み見をしていることを告白。「きょうは、これから発表会で踊られるのでしょ」と話すと「それが、です。踊る内容がクルクル変わることもあって相手の女性が離脱しちゃいました。発表会が終わったら、また練習に励むつもりでいます」とのこと。
 人間とは不思議なもので、なんだか同じ離脱者仲間の存在に急に嬉しく、親しみを感じたのである。

平成二十四年七月六日
 時差が12時間にまで開き、こちらは午前5時50分、日本では午後5時50分だ。きのうグリーンランド沖に達したオーシャン・ドリーム号は、しばらく氷山海域を遊覧、こんどは大西洋を南に向かって南下し始めた。

 北極圏ならでは、目の前の氷原と氷山には感嘆の声があがった=5日午後、グリーンランド沖にて
  
 
 
 きのうは1日中、なんども「右舷前方に氷山が見えます」などといった船内放送が流れ、そのつどオープンデッキに出て氷山や氷原を見て過ごした。体調がなかなか優れないので「一度見たのだから」とやり過ごそうとしつつも「氷山とて、ひとつ1つ顔が違うにちがいない」とデッキに出向く私。一体全体、私は何をしているのか。
 最初の船内放送は午前6時半ごろだった。
 体調最悪のなか、やっとの思いで5日付〈海に抱かれて みんなラヴ〉のアップを終えた時だった。「みなさま。おはようございます。本船は順調に航行を続けており、たった今グリーンランド南端のケープフェアウェル沖に到着しました。現在、前方にグリーンランドの大陸が見え、その手前には氷山が見えます」というアナウンスにオープンデッキは、みるみる黒山の人だかりとなった。
 私は、そうした人々の動きを見ながら、苦労してアップしたばかりの作品ブログを最初から、もう1度呼び直し最新情報の「オーシャン・ドリーム号はつい先ほどケープフェアウェル沖に到着したようだ」と新たなニュースをたたき込むようにしてアップし直し(これが、洋上の衛星回線のため結構の時間がかかる)、部屋に戻りビデオとデジカメをわしづかみとし、オープンデッキにかけつけた。

 船内放送は、その後も大きな氷山や氷原が近づくたびごとに3度、4度と繰り返された。ただでさえ体力消耗をしているのに、「もうほっといてくれ」と思いながらもそのつど放送に躍らされるようにして私はデッキに飛び出した。

 きのうは、すべての講座をパスしてしまいたいと思いつつ、それでもダンス教室だけは、と出た。あいにくきょうの中間発表会を前にペアの女性が個人的理由から突然、ペアを離脱したため、発表会には出なくてもよくはなったが。
 たとえ1人だけになっても、なんとしても練習だけは続けなければ。美雪との約束がある。途中脱落するわけにはいかない。幸い、「あなた。アタシが踊ってあげるわよ。大丈夫」と臨時のペアを進んで買って出てくださった怪女の1人とルンバの練習に挑んだが、1人で2種目には出られない、とのことで発表会には出られないことが正式に決まった(怪女はブルースに出ることになっているので)。

 本心を言えば、ホッとしている。
 それにしても離脱した彼女には一体、何があったのか。ルンバグループの男性が熱心さのあまり練習中に何度も「先生(ダンス教室の)に恥をかかせるわけにはいかない」とプレッシャーをかけてきたのが導火線になったのは間違いない。私はその時「我々は先生のためにダンスを踊っているのではない。高いお金を払って自分たちのために楽しんで踊っているのだ。少しぐらいミスしたところで、どうっちゅうことないではないか」と非を指摘したのだが。女心とは微妙なものである。男性は、その後わざわざ謝りに来てくださった。みんな、いい人ばかり。〈海に抱かれて みんなラヴ〉でいこうじゃないか。

 きのうは私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の8月からの衣替えを前にした諸メール連絡にけっこうの時間を割いた。洋上なので、返信しようとしても、時間がかかり過ぎてなかなかうまくは行かなかったが、なんとかメール送信が出来、ホッとしている。
 ただ、これからが作品チェックやらで、神経を使うことになりそうだ。せめて、同人各位には自分の作品は自らの責任でしっかりチェックしてくれるよう、はるか洋上のこの場から主宰として、お願いしておきたい。「熱砂」が日本一のウエブ文学同人誌であることを文学界に示すのは、まさに今、この時なのだ。

 昨夜はそのまま、船室内テレビで【ジョン・レノン イン ニューヨーク】を見て寝ようとしたが、咳が出てなかなか寝れない。頭も、目も、のども何もかもが痛い。こんなとき、美雪がそばに居てくれたら、いいのに(けさ久しぶりにシャワーを浴びたら、少しはよくなった)。

【出会い】昨日はフォーマルデー。あらたまった席は元来が苦手。ましてや、体調が最悪なのにトランクを開けて背広を着るなんて、なお疲れる。そう思って夕食は9階ビュッフェで1人寂しく、と決めていたところにサッちゃんから部屋に電話が入った。「きょうは、フォーマルデーなのだから。権太さん。八重ちゃんたちも来るから、あなた。一緒に食事しない。午後6時、4階のレストラン前で待っているから」ときた。
 あ~あ。もはや、逃れるわけにはいかない。私は覚悟してこれまでほとんど開いてなかったトランクを開け、上下そろいのスーツを出し、咳こみながらもフォーマルデーに出たのである。でも、楽しかった。東京都品川区からお出でになった村上義明さま夫妻とも初めて会話を交わすことが出来た。夫妻はダンス教室でよく見かけ、お2人そろって長身の美男美女だけに、ひときわ目立っていた。それどころか、いつも夫妻でパートナーを組まれ、素晴らしいご夫妻だな、と内心うらやましく思っていただけに、まさかこうした形でお話し出来た、だなんて。サッちゃんには感謝している。

平成二十四年七月五日
 今は午前6時を過ぎたところだ。時差は、さらに開き日本とは11時間、日本は午後5時を過ぎたところだ。オーシャン・ドリーム号は現在、グリーンランド沖を航行している。
 船内放送によれば、たった今グリーンランド南端のケープフェアウェル沖に到着したようだ。前方にグリーンランド大陸が、その手前には氷山が見える、とのことだ。

 きのうの午後、新生「熱砂」関連で衛星回線からの洋上メールをする一方で、着信メールをチェックしていたら、たまたま加藤幹敏さん(中日新聞社取締役兼スポーツ紙担当、元編集担当)が亡くなったーとの訃報連絡が息子から届いていた。
 なんとも悲しい。かつて主犯とみられるKを求めて、共に歩き回った名古屋の愛知医大を巡る3億円強奪事件などが思い起こされ、せきを切って涙があふれ出た。私の本「町の扉 一匹(いっぴき)記者現場を生きる」出版に当たっても、いつも気遣いをしてくれたかつての同僚である。彼が編集局長になった時は、ささやかながら名古屋市内で酒も酌み交わした。その彼がこの世に生きてはいないなんて。
 胃ガンとは聞いていた。でも、ミキちゃんのことだ。強靭な精神力で病を克服してまた元気になってくれるもの、と信じていたのに。なんと、儚き命だったのか。7日の七夕誕生日を前に62歳で逝ってしまうなどとは。かわいそすぎる。現場取材に徹したペンは彼ならでは、のものだった。もはや、言葉はない。――合掌。お安らかに。
          ×          ×
 アースデー記念の特設ブースでは石巻通心創刊号などが売られていた 
 

 きのうはアースデー。地球のことを考えて行動する1日なのだそうだ。
 ということで、船内8階前方、スターライトに脱原発や福島キャンドル、災害ボランティア、体験ブースなど各ブースが開設され多彩な催しが行われた。ブースの中にはパレスチナに“希望の光を”とパレスチナ難民に役立てる難民支援プロジェクト「サナアプロジェクト」の紹介コーナーも。災害ボランティアのブースでは、昨年3月11日に起きた東日本大震災発生をきっかけに出版された石巻通心創刊号「想いてんでんこ」(ピースボートボランティアセンター発行)などの販売もあった。
 さらにアースステージでは瞑想&ヨガコーナー開設も。体験ブースでは、リサイクルによるコサージュやエコ帽子、エコブローチづくりに関心が集まっていた。
 
 この日は体調不良ながらも午前中、八木啓代さんによる「中南米と社会を映す歌~歌は世につれ、世は歌につれ~」を聴いたが、なかなか味わい深い内容だった。なかにひと言気になる発言があった。それは、彼女がある大事件でマスコミ各社から逃げるようにして、このピースボートに乗り込んできた、ということだ。それも、私の目には、そのこと自体を楽しんでいるかの如く映ったのである。

 彼女が言うには「小沢代議士の陸山会事件がすべてデッチアゲであったことを私が暴露、日本中が大騒ぎになっている」というのだ。なんでも検事総長が刑事告発される事態にまで発展しているらしい。ただ、私の第六感から言わせてもらえば八木さん自らにも、どこか検察とか政治家のにおいがついて離れない。
 大事件に発展するときは、そちらの全容が暴露された時の方が大きいのでは。八木さんは、あと2回講演がある、と話しているのでじっくり聴かせていただこう。なぜか、毎日新聞記者西山太吉氏と当時の外務省女性秘書官による外務省機密漏えい事件を思いださせる。
 いまの世の中、女性の方がしたたかなのかもしれない。それはそうと、このところは最悪の体調が続いている。 

平成二十四年七月四日
 いまは午前6時過ぎ。時差は10時間に広がり、日本では午後4時である。日本がだんだんと遠のいてゆく。

 きょうは、かつて政財界に少なからず影響を与え真の意味での“長老”として日本の進むべき道を各界に示してくださった、あの故三鬼陽之助さんの妻たかさん=東京都渋谷区在住=の満101歳の誕生日である。
 北極圏の海から流氷を見ながら、心からおめでとうございます、とお祝い申し上げたい。

 何を隠そう。そのたかさんのお孫さんが長男正貫の伴侶、恭子さんなのだ。ふたりの結婚披露宴の、その席で陽之助さんは私の隣に座られ「この子(恭子さん)は、お茶ノ水女子大学に私の部屋から通い、最後まで一緒にいてくれ可愛くて仕方がない。その子が結婚だなんて。とても、うれしい。ここに集まって頂いた皆さま全員が健康で幸せになれることを祈って」と乾杯の音頭を取られた日のことが忘れられない。

 流氷と、流氷に囲まれた海を行くオーシャンドリーム号=3日午後写す、オープンデッキで
 
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 オーシャンドリーム号はきのうの午後、北極圏に入り、夥しい数の流氷に囲まれた海を航行。私はそうした海をただ、黙って見続けた。一角で白い線のようなものが噴き上がるので、よく見ると海面上にクジラの黒い背中が見えるではないか。これより先「みなさま。右舷前方にクジラが見えます」のアナウンスに右舷に出向いたときには、見えず「見た。見た」とはしゃぐ周囲の声になんだか自分1人だけが取り残されたような、そんな寂しい思いをしていただけに、思いがけないクジラくんには感謝したい。
 これだけ「見た」「見たよ」の会話が飛び交うと、クジラを見ることが乗客へのパスポートのような気がせぬでもない。当初は、クジラを見ようが見まいがどうってことない、と思っていたが、やはり紛れなきクジラを目にした時の感動は相当なものだった。

 昨日は朝のダンス教室に出て、オープンデッキで流氷に囲まれた海を見つめクジラを目撃したほかは、声がかすれたあげくノドが痛く、頭まで痛くなるなど体調が最悪となった。このため、ずっと船室内で寝ていた。寝すぎて夕食の時間ぎりぎりに4階ビュッフェに駆け込むと、隣の席にいた女性が、以前ご自身が船医にかかった時の薬の残りをそっくり私の部屋に届けてくださった。

【出会い】シンガポールで購入されたとみられる絵葉書に「みつかりましたので お薬をどうぞ… 5046様へ 玲子 どうぞお大事になさって下さい」と記して、風邪薬をわざわざ届けてくれた女性にはお礼のしようもない。私はお礼に、先日の船外泊で宿の手配をした際のお礼に頂いていた果物(りんごやぶどうなど)を届け、感謝の気持ちを述べた。それにしても、優しい方と出会えて良かった。早く治さなければ。

平成二十四年七月三日
 いまは、3日午前11時40分(日本時間午後8時40分)過ぎである。
 オーシャンドリーム号は、現在、大西洋のアイスランド沖を北上。まもなく正午ごろ、北緯66度33分の北極圏に入る予定だ。しばらく、その界隈を遊覧後、進路を南西に替えてカナダ沖・ニューファンドランド島沖をめざすという。長い航海が、昨夜から再び始まった。

 きのうは風邪が悪化し声がかすれて出なくなったなか、今回船旅のハイライトとも言えるオプショナルツアー、レイキャビク「自然エネルギー最先端のアイスランドから学ぶエネルギーの未来」に参加。かつてソ連のゴルバチョフと米国レーガンが核軍縮条約に調印し、東西冷戦雪解けのきっかけとなったレイキャビク会談が行われた白いちいさな建物もバスの中から、この目で見て確認できた。

 それはそうと、きょうは大変な1日になった。オプショナルツアーの途中に大切なビデオを紛失し一時はあきらめたがバス運転手=ストルトラ・マウル・ヨナソンさん=が見学コースをUターンして探し出してくださり、感激した。
 過去に何度も体験した大事件の取材経験から、私に限っては大事には風邪もひかなければ紛失もしないーとへんなところで過信していたがやはり、もう歳か。両方ともそうではなく、きのうからはさんざんな目に遭っている。でも、こうしたドラマがあればこその船旅でこれで良いと自身に言い聞かせている。

 水力発電所(左端の建物)は澄んだ川の傍らに、こじんまりとしてあった。川はサケの宝庫で知られる
 
  
 さて、オプションツアー・エネルギーの未来の方だが、最初にエットリダーシュトッドのダムと水力発電所を見学。次いで、トップスディンに足を延ばし、旧発電所が芸術家や音楽家、文学者らのために再生されたという建物の中をみて歩いた。
 私たちは引き続き、約一時間をかけクヴェラゲルディへ。ここでバナナやトマトなどを地熱で栽培しているグリーンハウス、さらには白い油煙が常時、たなびく地熱公園を見学後、近くのレストランでアースクッキングとして知られる地熱料理を食べたが、それがまたおいしかった。

 料理がおいし過ぎたせいなのか。片時も離さないでいたはずの私のビデオが忽然と、どこかに消えた事実に気付いたのは、次の見学先であるヘットリシェデイ地熱発電所を訪れ、建物の中に入って、さあ見学風景のビデオ撮影をと思った矢先。肩かけバッグ内にあるはずのビデオがいくら中を引っかき回しても「ない」のだ。
 私は焦った。クヴェラゲルディの地熱公園までは確かにビデオを手に撮影しており、レストランも含めた現場周辺に戻るほかない。急きょ、そう判断した私は念のためにバス運転手のストルトラさんに同行してもらい、それが無理ならタクシーを拾って現場にいくほかないとお願いしたところ、彼曰く「ノー、プローブラム。私が行って探してきます。あなたは見学していてくださいよ。きっと、ありますから」とだけ言い残し、気がつくとバスはストルトラさんと共にたちまちのうちに消え去った。

 約1時間後。喜色満面で戻ったストルトラさんは、大きな手につかんだビデオを私に笑顔で差し出した。私は心から礼を述べると同時に、横浜の波止場から船に乗る際、美雪から渡されたかわいい日本のハンケチを「サンキュー、ジス、マイマインド」と言って渡すと、彼は「アイ ファイン グッド、 ヨアウエルカム」と受け取ってくれた。

 ビデオが消えていたら、今後「伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/私はその町で」も頓挫しかねかなかっただけに、ストルトラさんには拝む気持ちだった。それにしても、彼は一体、あの広い場所のどこから探し出したてきてくれたのか。どうやら、落とし物としてレストランに預けられていたらしく、善意の拾い主が届け出てくれていたようだ。私は、この一件でアイスランドという国をいっぺんに好きになってしまったのである。
 事実、ストルトラさんは「この国に悪い人は1人もいません。国中が平和なのですよ」と話してくれた。

 私たちはその後、その日最大の観光の目玉であるブルーンラグーンへ。世界最大の露天ぶろとされるここで温泉体験をしたのち、約1時間をかけて港へ。帰船リミットである午後8時を少し残すだけで無事、オーシャンドリーム号に戻った。
 ビデオ消失事件や地熱を利用した〈アースクッキング〉、水着を持参しなかった関係でバスタオル1枚だけを羽織って大腿部まで浸かった地熱温泉浴など、一瞬一瞬のすべてに感動するひとときとなった。
 特に温水体験のあと、脱衣場を探すうちに、はぐれてしまい腰のバスタオル1枚でうろうろ彷徨っていたら、世界各国から訪れシャワーに当たる素裸の女性が何人もいるので、「ここは男女とも同じなんだ。へえ~、スゴイ」と勝手に思い込んでいたら、同じ素裸の日本人女性から「ここは女性の脱衣室です。早く出なきゃ」と言われたときには驚いた。
 目から火が出た、とはあのことで私はなぜか、かつて志摩半島で〈海女その世界〉の連載取材のとき、素裸の徒人(かちど)海女さんらから、はちきれそうな肉体美をこれ見よがしに、と見せつけられた日々を思い出していた。あのころは私も若かった。
 あとでバス車内で「男性仲間にエピソードとして話すと、「うらやましい。ゴンタさんはすごい。私も間違えたかった」のヤッカミが言葉の礫となって飛んできた。なんだかんだとフル回転、珍道中の1日だった。

【出会い】なんと私と同じ愛知県江南市からおいでの村瀬邦安さんとバスの席が隣同士となった。村瀬さんの名刺によれば、「元の仕事 空調・発電設備等のサービス」「好きなこと 山登り・日本100名城訪問」、住所は「愛知県江南市力長町神出10」で、今月12日が来れば、満70歳になられる。なんだか、メカにめちゃ強い感じで地熱発電のシステムについて、かなり専門的な質問をされており「スゴイお方だな」と感心したのである。当然の如く、写真を撮ったり撮られたり、食事も同じテーブル。同郷のよしみ、とはこうしたものなのだろう。 

平成二十四年七月二日
 レイキャビクは、音もなく、止まったような透明感ある町だった。白夜のなかを人々が行き交う。1日午後10時過ぎ写す
 

 半夏生―。「ずいぶん海にてこずっているみたい。答えは一つじゃないもの」といったファックスが彼女から届いた。「わたしはわたしの“海”」とも。そうだ。ボクにはボクの海がある。そのことに、私自身もここにきてやっと気づきつつある。

 さすがは、おまえだ。
 きのう、きょうと海を見て歩きながら〈海もどる〉という言葉を反芻してみた。海をみつめて、海に抱かれて、海に打たれて…も文学的な響きは確かにあるが〈海を見ている〉という表現も悪くはない。
 というのは、この船に乗った人々の大半がどこか、思いつめた感じでいつだって海を見ている。海を見ることしかないのでは、と思うほどだ。それぞれが、それぞれの海を引きづって生きているのだ。その向こう側には家庭のこととか職場のこと、恋なぞ、いろいろあるに違いない。海は、その人の〈こ・こ・ろ〉かもしれない。

 きのうの昼間、私の部屋に突然、電話が入った。例の美容師の大御所ドンさんからで「ごんちゃん。きょうレイキャビクに着いたら、どこかホテルに泊まってゆっくり休みたいのよ。ついては、ごんちゃん! どこか探してくれない。頼る人が、あなたしかいないのよ」ときた。
 さあ~、それからが大変。責任重大だ。私はレセプションのカウンターとピースボートセンターを何度も往復し、よさそうなホテル(ホテル「ボルグ」)に電話をかけ千鶴さんから頼まれたトウィンの客2カップル、計4人の宿泊を予約。作品アップをし終えたばかりのパソコンを再びインターネットにつなぎ、ホテル・ボルグのメールに『TAMAICHIZU、2twin、total「4」men』と送信しておいた。

 アイスランドのレイキャビクには昨夕、到着。外出許可が出てまもなく時間がたったところでタクシーでレイキャビク市内へ。何よりもドンさんらが無事、ホテル「ボルグ」に入っているか、が心配でそれを確かめるためだったが、元気なお顔を拝見出来、ホッとした。
 引き続き放浪詩人の如くレイキャビク市内をさまよい歩いて途中、ピザ料理店に入ってみたりしたが、空気が澄みきっている分、水がとても美味しかった。海も底知れないほどの美しさだ。町の真ん中に、ちょっと大きい池があり、そこでは琵琶湖のカイツブリに似た何十羽もの鳥たちが楽しそうに翼を休めていた。

 夜、10時を過ぎたというのに街中は明るく、多くの人々がくつろいでいる。私は、そのなかをただ1人、歩いてみたが異様な静けさも手伝い、この町独特の音が聞こえてくるような佇まいには、しばし圧倒されたのである。1日の日の出は午前3時6分、日の入りは午後11時55分となっている。私は無言で白夜の町を気が済むまで歩き続けた。

 今は2日午前5時30分を過ぎたところだ。日本とは9時間の時差だ。思えば、遠いところまできたものだ。きょうは、堅苦しい名前だが「自然エネルギー最先端のアイスランドから学ぶエネルギーの未来」なるオプションツアーに参加することになっている。午前8時半過ぎには出発する。

【出会い】レイキャビク市内に出る前の夕食の席で千葉から訪れた弁護士の藤田さん夫妻とご一緒して楽しかった。
  「私は若いころ、早稲田の政経を出て新聞記者にあこがれ試験もうまくいったのですが。肺結核を患っていまして、とうとう夢はかないませんでした。それで全然、畑違いの弁護士になったのですよ。もう71歳でして。一度こいつと来よう、と思っていましてね」と話す口ぶりからして落ち着いたステキな人だった。
 こんな方に弁護される人は、きっと幸せになれるに違いない。
 私はそう思いながら、ふと尊敬するもう1人の弁護士、兄を思い出していた。兄夫妻、そして妹の飯島夫妻にも、いつも勝手ばかりで大変世話になっている。ありがとう。

平成二十四年七月一日
 今、こちらは午前十時過ぎ。日本との時差はまた一時間延びて九時間である。
 大荒れだった天候もきのう午後には晴れ、再び快適な船旅が始まった。きょうの夕方には、いよいよ予定より少し早くアイスランドのレイキャビクに着く。
 きのうは揺られながらも朝の社交ダンスに出、午後は先にポーランドを訪れた人たちの報告会「アウシュビッツ・ツアー報告会」の様子をのぞき、夜はあす参加するレイキャビクAコースオプショナルツアーの分科会「自然エネルギー最先端のアイスランドから学ぶエネルギーの未来」の事前説明会に出たあと、洋上シネマ「戦場のピアニスト」を見た。「戦場のピアニスト」は、冷酷非道なナチスドイツに追われるピアニストを描いたもので見て良かった。

 それ以外は自室に閉じこもってずっと書き物をしていた。
 とはいえ、きょうは居酒屋「波へい」で働き、かつて海の詩(うた)公募の仕掛け人の1人だった石川県能登半島・七尾市の佐田味良章さんによく似た、“アリ”の33歳の誕生日だ。だから売店でお祝いを購入、先にノルウェーのピースセンターで購入済みのペンと一緒にお菓子をプレゼントさせて頂いたが、なんと私が一カ月誕生日を勘違いしていた。それでも、アリは大変な喜びようでプレゼントはそのままお渡しした。

 先日ポーランドへのツアーから帰った人々の報告会は皆さん熱心で頭が下がる。現在、8階左舷スペースで「アウシュビッツの感想文・写真展」が開かれている。

 船内で開かれているアウシュビッツの感想文・写真展=8階左舷

 社交ダンスの方は6日にまた中間発表会がある、ということで先の発表会でお世話になった四国の女性にお願いして今度はルンバを踊ることに。きのうの朝、姿を現さないので私が下手過ぎるので絶望したのか、と心配していたら夕食の場でバッタリお会いした。
 「朝は船酔いがひどく寝てました。どうしても気力が出ませんで。お昼の教室は出たのですが、お出でにならなかったのでお詫びに行かなければ、と思っていたところです。午後6時半からもありますが、出られますか」ときた。さすがに「予定があるのでご勘弁を」(ツアーの事前説明会と重なった)と辞した。

 船酔いではないが、船内を歩いていたら辛そうな表情の若い女性がいた。「どうかされたのですか」と聴くと「歯が痛くて」とのこと。「痛み止め、持ってきましょうか」と言うと「飲んだのですが」との返事。「必ずよくなりますよ、休まれたらどうですか。この船には歯医者がいないから」というのが精いっぱい。思い出して私も予防に飲んでおいた方がよい、と判断。部屋に戻ってから持参した薬を飲んでおいた。
 ノドも少し痛い。周りは咳をする人でいっぱいだ。イソジンで何度もうがいをしなければ。この船内では風邪が蔓延している。油断ならない。

 それはそうと、このごろ本気でこの船内では社交ダンスだけやっていればそれで十分だと、そんな気がしている。とはいえ、きょうは「権太が行く世界紀行」〈ヨーロッパ前編〉の原稿を英文、和文ともに書き上げた。乗りかかった船でピースボート映像チームのスタッフにもお世話をかけている。注目度も多いので少しぐらい遅れても続けなければ、と思っている。

【出会い】「熱砂」原稿をアップしているところに現れ出たその女性曰く、「あのね。ユーチューブで〈ダンス・ルンバ〉で検索してみたら。たくさん出てきたら、その中のルンバAを開くと勉強になるはずだよ」と。
 皆さん、ほんとに親切に教えてくださる。ただ洋上の衛星回線なので切れ切れの画像となるばかりか、アクセスのためのカード代もいるので余裕がある時に限って見て学ぶことにした。誰かさんが家で見てくれ、帰国後に足りない部分を教えてくれたら完璧なのだが。

平成二十四年六月三十日
 船全体が大海原でダンスダンスをしている。大変な揺れようだ。私たちのダンス教室の比ではない。

 きのう、きょうと、一昨日のソグネ・ネーロイフィヨルド遊覧の際の好天とは打って違い船体が朝から晩まで揺れに揺れ、大揺れだ。そのうえ視界不良とあって(不良どころか、ほとんど見えない)危険な状態が続いている。船内では、このごろ足をくじいたりして松葉杖を片手に歩く人をちょくちょく見かける。船酔いも続出し、なかには船酔い除けになる、という時計の皮バンドで急所を押さえる女性も多い。
 また、ドンドン、ドーンと凄い音を出して揺れた。地震が常時起きている感覚である。

 オープンデッキには人ひとりいない。視界不良の中、それでも進むオーシャンドリーム号

 けさは、バイキングでせっかく食べようとした朝食を大揺れで配膳ごとひっくり返してしまい、たった今も棚に置いたノートや本、ペットボトルがコロコロと音をたてて船室の床に落ちてきた。私のデスクの引き出しが揺れで開いたままになることは始終だ。今は危険が伴うためエレベーターもすべてストップしており、各階段の手すりを伝って行き来している。
 この間、レセプションからは何度も何度も船内放送で注意呼びかけがされている。素人の私に言わせれば、このまま転覆した場合、相手が大海原のため、その時は観念するほかないとも思う。自然の強さに人間がどう抗ったところで勝てっこない。そうなった場合、一番接近した情報を私はこうして流しているのだ。
 
 こんな大揺れのなか、昨夜は7階前方のブロードウェイでオスロから乗船したラテン歌手八木啓代さんのファーストライブがあり、束の間のコンサートを楽しんだ。「キサス(もしかして)・キサス・キサス」や「あなたのために」「満月の夕」「べサメ・ムーチョ」など全10曲を大揺れのなか、楽しんだが、「コンドルは飛んでゆく」は残念ながら聴くことはかなわなかった。

 いまは30日午前10時だ。つい先ほど、わが船室に届いたレイキャビク(アイスランド)寄港地情報によれば、レイキャビク港コルンガルドゥ埠頭への着岸は当初予定より1日早まり、あす7月1日午後6時ごろになりそうだ。それまでに転覆しなければ、よいのだが…(私が参加する「自然エネルギー最先端のアイスランドから学ぶエネルギーの未来」など各種オプショニングツアーは当初予定通り、7月2日に行われる)。

 写真は元気印の何でもござれ、で知られる浪花女・雪路さん

 きょうは雪路さんの話を1席。
そう、以前にも本欄で紹介させて頂いた浪花美人の〈どじょうすくい〉の名手、いや天才、関西が生んだ隠れたエンターテイナーについて、である。この雪路さん、実は〈どじょうすくい〉だけではなく、料理が大好きな女性だった。

 「先日もヨーテボリに寄港した時にオプショナルツアーの〈北欧・スウェーデンの料理体験!〉に参加しましたが、市街地のゴールデン通りに面したおしゃれな一流レストランでのひとときは、それは充実したものでした」という雪路さん。彼女ら23人の受講者は現地の男性コックさん2人の指導でマナ板や包丁を手に料理実習に挑んだが「ミートボールとブルーベリーの砂糖漬けやら、サーモンと玉ねぎ・ジャガイモの蒸し焼き…、さらには3種類のパンづくりからデザート(プリン)、ハーブティーの作り方まで大変参考になりました」という。
 むろん「自分たちでつくった料理をワインを飲みながら、試食してみましたが、それは美味しくって。口のなかがトロケそうでした」とも。

 聞けば、雪路さんのお母さんは日本女子大学食物科出身で各大学の教授として教鞭にたたれた、れっきとした、その道の大家。その親にしてこの子あり、です。雪路さんはこの船旅期間中は得意の〈どじょうすくい〉のほかにも、料理が関係したオプションなどには積極参加。世界の味を体感し、帰国したら、世界でイッチバーンいい男ですと胸を張る元船長の夫に食べてもらうそうです。なんだか、やけちゃいますよね。ネエ、雪路姉さん!

【出会い】岐阜からおいでの元小学校教師、戸田智子さんが、私がいつもの場所で「海に抱かれて みんなラヴ」の作品をアップ中、パソコンを教えてーとおっしゃるので「だったら、見ていてくださって良いですよ」とアップをする過程を見て頂いた。
 アップの後、せっかくなので私がユーチューブで発信中の「伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/私はいま その町で」の3編(厦門編、シンガポール・プーケット編、スリランカ/コロンボ編)を見ていただいたところ、「わぁ~すごい。大変、勉強になりました」とお褒めの言葉まで頂いた。

 人間とは、おかしなもの。会う時はよくお会いするもので、戸田さんとは昼食の席も一緒になり、岐阜県庁汚職事件や長良川決壊豪雨、長崎大水害、稚内の大韓機撃墜など私が現役時代に日本中を飛び回っていた事件の話などで盛り上がった。
 戸田さんは、こどものころ岐阜市内の白山小学校に通っていたと話され一層親近感を覚えた。白山小といえば、親と早く死に別れ家庭の貧しかった私の父(故人)が小使いとして初めて人生街道のスタートを切った小学校である。

 オヤジは、その後独学で国家公務員の上級職を取り、戦地だった中国・満州から引き揚げてきてからはマルサの男として活躍。名古屋国税局管内の四日市、千種両税務署長を務めたあと、監察官室長を最後に退職、税理士を務める傍ら中国残留孤児に日本語をボランティアで長年、教え続けた(後に勲四等にも輝いた)。
 その尊敬する父の話が、北欧のこの海の上でまさか出ようとは。「私、お父さまにどこかでお会いしていたような気がします。なんだか奇遇ですね」と話される彼女を前に思わず、「オヤジ、元気でいるからな」とつぶやいていた。

平成二十四年六月二十九日
 北欧航海も後半に入り、きのうは世界最大のフィヨルドのひとつであるソグネフィヨルドと、ネーロイフィヨルド=いずれも世界遺産=の遊覧航海一色の1日となった。貧乏性とは、このことか。ゆっくりデッキの椅子にでも座って、だんだんと迫力が増してくる壮大な峡谷美をじっくり、ゆったり堪能すればよいものを。
 荘厳なフィヨルド。そして透明な海には、しばしば感嘆の声があがった。人なつこい白い海鳥が出迎えてくれた=ソグネ・ネーロイフィヨルドで。28日午後


 私は現役の記者時代さながらにデジカメで写真を撮り(昔はいつもアサヒペンタックスを肩からぶら下げ、接写リングと望遠レンズを携行し地方を飛び回っていたものだ)、ビデオを回し、あげくにステキなカ所はスマートホンの動画にも収録するなど、まさにフル回転の1日となった。
 一文の得にもならない作家稼業とは知りつつ、わかっちゃいるけどやめられない。自分自身を高める自分への投資なのだから、と自身に言い聞かせる。一度見て重要だ、と思ったものを即座に判断。抑えるべきは当然ながら抑えておく、という鉄則を守っているうちに1日が過ぎ去ってしまった。船内新聞によれば、きのうは“リフレッシュデー”ということで「本日(28日)はゆっくりとフィヨルド遊覧をお楽しみください。」とあったが、私に関してはとんでもない。やることが多すぎるのである。

 「なんで。いつまでもそんなことばっかりしているの。それでは、とても“ほんたふの海”など見えっこないわ」と美雪に叱られそうだが、きょうばかりは勘弁願いたい。というわけで、きょうの〈海に抱かれて…〉は、これで終わり。

 あっ、そうそう。このほかにも、ウエブ文学同人誌「熱砂」への作品出稿締め切りが30日に迫っていたため、詩を書いてメール送稿したり、マスコミへの対応、さらには私がこの船旅で発信している『伊神権太が行く 平和へのメッセージ/私はいま その町で〈エジプト編〉』の声の吹き込みをコンちゃんとするなど、1日はあっと言う間に過ぎ去っていった。

【出会い】プーケットでシルクのスカーフを買う際、親切に教えてくださった三重県伊賀市の女性と10階デッキでばったり会った。フィヨルドの景観美と〈かぜ〉たちに打たれながら、あれやこれやと雑談した。
 彼女は来月19日からは一時離船し空路、ペルーへ。首都リマ観光や謎の空中都市・マチュプチュの遺跡を見たのち、28日にプエルトケツァルでオーシャンドリーム号に帰船し合流するのだ、という。南米のアンデスと言えば、私たちの大好きな歌〈コンドルは飛んでゆく〉の世界だけに、羨ましい。

平成二十四年六月二十八日
 筋を引き音もなく横たわるフィヨルドの海を見つめる人たち=オーシャンドリーム号船上にて=28日早朝

 「ただ今、午前5時半です。本日はゆっくり壮大なソグネフィヨルドとネーロイフィヨルドをお楽しみください」。
 ブリッジの船内放送に起こされ、船室を出て海を見た。
 なるほど両岸にこの船を挟み込むようにして島々、いや峡谷なのだろうか。そうしたものが見て取れる。まるで影法師のようだ。かなたの島々がピンクに染められ美しい。私が想像していた氷河に囲まれたものとは、少し違い迫力にこそ欠けはするが、別世界の、北極圏ならではの“うみ”が目の前に広がっていた。
 それでも一時間もすると、峡谷の大パノラマが両側、眼前に広がり時間がたつに従って迫力も増してきた。きょうは、このまま延々と入り組んでつながるノルウェーの海岸線を見ながらの遊覧が続くという。実際、この地帯は内陸に向かって数十キロ以上に切れ込んでおり、水深も1200メートルにまで達するそうだ。
          ×          ×
 オーシャンドリーム号は、当初30日に予定されたアイスランド・レイキャビクへの寄港日時を一部変更して、けさ未明から途中あえて遠回りをして立ち寄ったノルウェーのソグネフィヨルドおよびネーロイフィヨルドを遊覧航行中である。

 というのも、今回(第76回)ピースボートで〈ついに実現した北極航路! ここにしかない世界一周クルーズが始まります。ハイライトはイルリサット氷河沖の遊覧。北極圏の白夜に包まれながら地球の今を体感してください〉と売りにしてきたグリーンランドのイルリサット氷河沖・アイスフィヨルド遊覧が中止になった=当初7月5日に予定されていたが氷壁陥没など危険が伴う、として関係政府の許可が下りなかった=関係で急きょ、より安全なフィヨルド遊覧に変更、このため次の寄港地・レイキャビクには7月2日(月曜日)に着く。

 昨日は朝の社交ダンス教室に続き、午後からは私も所属するピースボートの映像チームの打ち合わせに出た。このあと、環境活動家田中優さんの話「温暖化を止める未来のエネルギー」を聴いたが風力にせよ、水力にせよ、地熱発電にせよ、自然エネルギーの技術となると、日本が抜群に優れていることを思い知らされた。
 具体的には▽日本の地熱発電の技術力は突出しており、世界の地熱発電の6割は日本の技術に負うところが多い▽九州大学が風レンズ風車を開発し、青森市民も風車を自力でたてた▽神戸大学の大学院生が浮かべるだけの波力発電を考案し話題となっているーなどと自然エネルギーの現状を紹介する数々の内容には正直、私自身も認識を新たにしたのである。

 田中さんは「私みたいな存在は、資源エネルギー庁の“お尋ね者リスト”にも入っています。でも、今こそ、社会全体を自然エネルギーに変えるべき時。日本は世界最高の技術を持ちながら宝の持ち腐れも甚だしい。日本社会はこれまで経済界はじめ、大学やマスメディアまでが“原発マフィア”に汚染されてきたが、福島原発事故を機に少しずつ変化が見られ、7月1日からは日本でも自然エネルギー買い取り法がスタート。そればかりか、2014年以降には家庭向け電力も自由化の方針が経済産業省により示されました」と結んだ。
 お尋ね者の話は、なかなかどうして中身がよかった。

【出会い】札幌からの“しんがちゃん”。私と同じ映像チームのメンバーの1人だが、私が本欄をアップしている傍らに来ると同時にパソコン画面の愛猫シロちゃんを見て「かわいい」のひと言。つい嬉しくなり、インターネットに結んでもう一人の美女こすも・ここを見せると、またまた「カワイイ。可愛過ぎる」とお褒めの言葉を頂いた。

平成二十四年六月二十七日
 オスロは空も、人の心まで、どこまでも澄みきっていた。至るところ女神や子にかたどられた妖精などの彫刻があふれ、その町の高台で私は持参した横笛を手に〈さくら さくら〉と〈酒よ〉をふいてみた。オーシャンドリーム号は次の寄港地であるアイスランド・レイキャビクに向かっている。今のこちらの時刻は午前10時である。

 きのうのオスロ。土地の人も、世界中から訪れた観光客も。人間たちはそうすることが当然かの如く集い、港一帯を家族連れやツアーのグループで歩いていた。北欧の国だというのに。なぜか、サングラスをした人々が目立った。白い優雅な海鳥が地上すれすれに何度も何度も水平飛行し、私を歓待してくれた。
 私は歩きながら「人間って。いや、この地上のすべてのものが“遊ぶ”ために、生きている」と実感した。こうして歩いていること自体が、もしかしたら地上の楽園、ユートピアかも知れない。一方で所詮は、誰もが大切な家族や友人・知人、さらには恋人たちと楽しく時を過ごすために働いて生きているのだ、とも。

 昨日も丸1日、美雪の笑顔を胸のふところに入れ、この北欧を代表する街・オスロをゆったりとあるいてみた。港を出てからは、レジスタンス・ミュージアムを横目に、ノルウェー・シティーホール、そして私にとっては、この日の1番の目的地であるノーベル・ピースセンターに足を踏み入れた。
 ピースセンターはオーシャンドリーム号が停泊する場所から歩いて十分足らず、電車通りに面したシティーホールを超え、ほんの少し歩いた一角にあった。最初、どこまで歩いてもないので「ノベル、ホエア」と道行く夫妻とみられるカップルに聞くと、後ろを振り返り「ザッツ、イエロービルディング」と教えてくれ、私はバックしてティケットを購入して館内に入った。道行くほかの人によれば、ノーベル平和賞の授与式はシティーホールで行われる、とのことだった。

 「ピース イズ マイワーク」と語ってくれたアンドレスさん(右)=ノーベル・ピースセンター館内で

 女性とこどもの彫刻が至るところを潤していた。後ろの建物がオスロ・シティーホール

 館内には2009年のノーベル平和賞に輝いたオバマ米大統領など、これまでに受賞した人物の来歴と功績、写真が展示されていたほか、戦争の愚かさを痛烈に批判する兵士や家族、女性の数々の写真も。館内正面壁画にはアウンサンスーチさんの拡大写真も常設され、無言のうちに平和の尊さを訴えかけてくる内容には胸を突かれた。ピースセンター男性職員のアンドレスさんにビデオを向けると、「ピース イズ マイワーク」「ノー、ウオア」と簡潔明瞭な答えが跳ね返り、互いに平和の尊さをかみしめあった。

 私は引き続きピースセンター横の屋外レストランでただ一人、風に吹かれ海と空をみながらオスロ自慢とされるハンバーガーを、ビールを片手に飲み食べた。この後、近くの丘や市内のあちこちを夕方まで歩き回ったが、時折、教会から流れてくるメロディーにはなぜか旅愁を感じさせられ、私は近くの高台にまで行き、持参した横笛をふいてみた。そして帰る道すがら突然、雨が降り出した。

 思いもしなかった雨に近くの建物の軒下にいったん避難。バッグから携帯用の折り畳み式傘を出したところに、女性が飛び込んできたのでずぶ濡れになりつつ傘をさしてあげた。しばらくの間、2人でそのまま降る雨を見ていたが、何だか綿帽子のような、ちいさな花びらのようなものがキラキラと輝きながら1枚1枚、(いや“ひとひらひとひら”といった方が良いのかも知れないが)落下してきた。
 よく見ると、あちらこちらで天から同じような“雨の花”が舞い降りているではないか。私たちは、しばらくうっとりと、その雨の宝石に見入っていた。小降りになったところで彼女は「サンキュー。アイム、フロム、インドニージア。イコノミッカルレイディー」とだけ言い残して私から離れていった。
 こんなにステキな雨に出会うとは。全身ずぶ濡れになり私はそう思って家路に着いた。

【出会い】けさ外出前、船内のインターネットスペースで本欄〈海に抱かれて…〉をアップするためパソコンを打っていた、その場に先日、ロンドンで長崎原爆の生き証人として証言された方が通りかかられたので挨拶した。お名前をあらためて伺うと「北野です」とのこと。名刺を持ち合わせていなかった非礼を詫びると「きょうは外出を予定していたのですが。オスロ寄港10回記念のシンポジウム【核のない世界】に出てほしい、ということなので」とのことだった。北野夫妻は休むことなくピースボートを代表する平和の使者として活躍されている。

平成二十四年六月二十六日
 オーシャンドリーム号はけさ早朝、ノルウェーのオスロ港ヴィッぺタンゲン埠頭に着岸した。午前9時を過ぎたところだ。空は快晴、陸や民家群、海面、雲、緑…など。目の前に北欧ならでは、の澄みきった世界が広がっている。
          ×          ×
 きのうの午後、ヨーテボリ市内から船に戻り記者会見の模様を見ておこう、と8階スターライトに出向いたところ、いきなり地元テレビ局のカメラマンにつかまった。
 「ピースボートに乗ったわけは」と聴いてきたので私は英語で「平和へのメッセージを世界の人々に発信したくてこの船に乗ってここまで来ました」と答えると、さらにマイクを突き出し「それで、メッセージは」と聴いてきたので私は次のように答えました。
――フランスでは小学校の上級生とみられる少年が「ピース イズ ラヴ」と、英国で会った台湾からの女子大生は「オルウェイズ ウィズマザー イズ ピース」と。そして、ここヨーテボリのショッピング街でお会いした英語教師らも含め、すべての人々が「ノー・モア・ウォー」と言っていました。

 マイクはさらに突き出され、スウェーデンに来ての印象は、とインタビューを続けてきたので私はこう言いました。
――空気が美しい。おそらく人々の心も美しいに違いありません。

          ×          × 
 どこか違う気がしていた。アンデルセンはやはりデンマークの童話作家だった。
 「スウェーデンはアンデルセンで有名です」と美雪がファックスで言ってきた=彼女はデンマークがスウェーデンの下に位置するので寄港地の管内との観点から“四捨五入して”そう教えてくれたのかもしれない=ので昨日はヨーテボリに着岸後、タクシーで出たあと中央駅前周辺のショッピング街を歩き回り、ブッキャ(本屋)を探し出し“アンデルセン、アンデルセン…”と呪文の如く唱え店員に聴いたが皆「そんな人は知りません」とつれない。
 あの偉大な童話作家の名前を知らないとは、どういうことなのだろう、と「ドゥー、ユー、ノウ、アンデルセン」と聴いてみるが誰も知らない。それでも歩くうちに、はたと「あっ、シマッタ。アンデルセンはデンマークの人だった」と思い出した。おかげで、本屋さんでは女子店員の勧めもあって今、スウェーデンで1番の売れっ子だというアストレッド・リンドレンさん作の童話「DO YOU KNOW PiPPi」など3冊を購入した。

ヨーテボリのショッピング街を1人で歩いていると、オープンデッキでたまたま日本のお寿司を食べていた女王蜂のボンさんこと、千鶴さんとベレー帽の和さんとバッタリお会し「一緒に」と誘われ、千鶴さんにごちそうになってしまった。同席していた方々とも話が弾み楽しいひとときはあっと言う間に過ぎ去っていった。待ち合わせ時間を決めて、タクシーで帰ったが、こんどは当然ながら、私がタクシー代を払わせてもらった。 

 一緒に食事。千鶴さん(正面中央、眼鏡の女性)らと楽しいひととき=ヨーテボリ市内で
 

 ヨーテボリの街あるきは、ほんの半日にも満たなかった。
それでも、美しいショッピング街や町角の至るところでバイオリンをペアで弾く若者や、ギターを抱えた女性カップル、オルガン弾き、太鼓たたきなど街中のあちこちで楽器を演奏する姿があり、私自身、横笛を持参して町角でふくべきだったと反省している。演奏者には皆、小銭を投げ入れ演奏者と聴く市民の心が、うまく融け入り調和していた。さすがはノーベル賞制定都市で、どこもかしこも芸術文化が満ち満ちていた。
バイオリンを町角で弾く少年少女

 船に戻った後は8階スターライトに臨時に備えられた記者会見場で「~核のない持続可能な未来へ フクシマからのメッセージ~」をテーマに、地元スウェーデンのマスメディアを対象としたピースボート事務局提唱の記者会見があった。主催者側からは、吉岡達也ピースボート代表とレイナ・マルノヨーテボリ市長、東日本大震災発生に伴う福島原発事故被災者のハヤカワさん、田中優環境活動専門家らが出席。なかでもハヤカワさんは、福島原発事故以降の被害の実態を説明。今後の世界が原発や自然エネルギーに対してどう向き合っていったら良いのかーなどにつき記者と主催者側の質疑応答があった。

 夜は夜で船内でスウェーデンの自然エネルギーの専門家を招いての「どうしたら原発から自然エネルギーへ転換できるのか」をテーマとしたトークセッションが午後10時過ぎまで開かれ多くを学んだが、この詳しい内容については別の機会にしたい。それにしても、船内の住民たちはタフである。多くが真剣な表情で聴き入っていた。
トークセッションの中で田中さんたちの「日本では今、大変なことが起きています。22日には大飯原発稼働に反対する4万5千人もの人々が首相官邸前に押しかけ、もしかしたら日本でも『アラブの春』現象が起きるのではないか、と世界の目が注視しています。こんなことは最近の日本ではなかったことです。フクシマが世界のエネルギー事情を変えるきっかけになることも十分に考えられます」といった言葉が頭に残った。

【出会い】何と言っても、名も知らないヨーテボリ町角のオルガン弾きや太鼓たたき、バイオリン弾きの少年少女だった。私の横笛を聴かせたかったが、あとの祭りである。

あの偉大な童話作家の名前を知らないとは、どういうことなのだろう。

平成二十四年六月二十五日
 オーシャンドリーム号はきょうの早朝、北欧最初の都市であるスウェーデンのヨーテボリ港に着岸した。ヨーテボリに着き、まず目に留まったのは風力発電に生かされている巨大な風車群、そして大気がどこまでも澄みきった透明感のある町の表情である。

 現在は10時。日本では午後5時だ。
 ピースボート事務局では、きょうの午後3時半から「~核のない持続可能な未来へ フクシマからのメッセージ~」をテーマに地元・スウェーデンのメディアに対する洋上記者会見を船内8階スターライトで開くことにしており、どんな会見になるのか。楽しみである。

 きのうは社交ダンス【アドバンス編】の朝のレッスンに寝坊してしまい出られなかった。でも、午後の教室にはなんとか出られた。習うよりなれろ、で毎日出てステップを踏めばそのうち身につくのでは、というのが私の甘い考えである。
 ただ相変わらず、講座が目白押しなので勢い、船内を西に東に、と動き回ることになる。これでは、美雪の言う“ほんたふの海”を見るなぞ、出来ないかもしれない(でも、私はみようとしている…きっと。見る)。
 7階前方には「楽器練習ひろば」まで設けられているが、なにせダンス教室と重なっているので優先順位からいっても横笛をふくことはなかなか出来ない。そろそろハーモニカと一緒にふかなければ、と思っている。

 というわけで、きのうは午前中の「3・11後の世界~厳しい現実と未来への希望~」(田中優さん)のあと、午後4時からは前日に続いて「スウェーデンのエネルギー事情」(レーナ・リンダルさん)についても学んだ。なかでリンダルさんがバイオエネルギーへの活用方法について触れた際「アメリカは2011年に、日本も2031年には新聞が絶滅するとの予測がある。これまで新聞製作に使っていた紙をバイオエネルギーに役立つ日がまもなくきます」と発言したときには、目を丸くした。本当だろうか。いや、ありうることではある。

 合間を縫って「出航曲を歌おう」の教室に出て『Freedom』を歌ってみたりもした。この『Freedom』は、チュニジアやエジプトでの革命を受けて創られた曲で、レバノン生まれのスウェーデンシンガー、Maher Zain(マヘル・ゼイン)が歌っており、私は船旅の間に社交ダンスのマスターと同時にこの曲だけは歌いこなせるようになりたい、と思っていたからだ。

【出会い】久しぶりに船内で、前にプーケットでシルクのスカーフを買う際に、あれやこれやと親切にどれを買ったらよいのか、を教えてくださった三重県伊賀上野からの女性に出会い、互いに「久しぶりですね。元気でいますか」とだけ、声を交わしそのまますれ違った。
 そういえば、昼食に行った際、私に向かって遠くのテーブルで手を振る方がいたのでよく見ると、女王蜂のドンさんこと、千鶴さんだった。最近、少し体調を崩され元気がなく「もう、帰りたい」とばかり言っているとベレー帽の和さんが心配されていたが、元気そうでホッとした。千鶴さんと和さんは、この船内では美雪が知る、たった2人の大切なお方である。2人には出航前の横浜でボクたちが大変お世話になった。

平成二十四年六月二十四日
 昨夜は深夜未明まで書いたり飲んだりしていたこともあり、朝寝坊。まだ間に合う、と朝のダンス教室に行こうとしたところ、エレベーターの前で怪女の1人から「ゴンタさん。ダンスは、たった今終わったところよ。あなた1時間、間違えているよ」と指摘され、がっくり。部屋に戻って原稿の追加をしている(午後の部もある)。

 北の海の“北海”に入ってからのオーシャンドリーム号は、ほんとによく揺れる。
 船内を歩いていても、右にフラフラ、左によろよろ。ヤバイっ。と、思ったら今度はドンと真ん中で、それも下から突き上げてくる激しさだ。手すりを握って歩かないと転んでケガをしても不思議でない。これだけ揺れに揺れて、フラダンスでもしているような航海にもかかわらず、何とかバランスを保って進む船の偉大さをあらためて感じる。デモ、海に意識があり人間どもを闇に葬ろうとすれば、その気になればイチモニモないだろう。
 僕たちはただ神に祈るばかりだ。

 というわけで、きのうは一日中大揺れでレセプションからも「現在、船が揺れています。危険ですので十分注意してください。オープンデッキに出る際には、ご注意ください。テーブルの上などに置かれた不安定なものは床に置いてくださるようお願いします。ドアを開閉するときも危険ですので指をはさまないようにしてください。……」といった船内放送が再三、流された。

 きのうは沖縄慰霊の日。船内では〈ひとつの平和を願う〉をスローガンに午前11時から8階中央アゴラで戦争体験者が『語り継ごう戦争の愚かさ』の演題で語り継いだ。正午には汽笛を鳴らし8階後方プールエリアでみんなで黙とう予定だったが、船の揺れがあまりにひどいので中止になったという。黙とうといえば、きのうは航路説明会の冒頭、リスボンに着く手前で急性心不全で亡くなられた台湾人旅行者、ヤン・ミユウさんを悼んで全員で黙とうをした。

 そして。その航路説明会だが、いよいよ北極海に向かう寄港地やフィヨルド遊覧の説明だけに興味深く聞いた。「現在は北海を航行中。ここには油田が沢山あり、船舶の航行が輻輳、船はオイルリングや浅瀬を退避しながら航行しています」とのことで「海の真ん中で油田の燃え盛る火が見えることもあります」という。
 さらに「その後はスカゲラック、カネガッテの両海峡を越えてスウェーデンのヨーテボリに着き、次の日はノルウェーのオスロ。ここからは、いよいよ現地のフィヨルドパイロットが乗船して世界遺産のソグネフィヨルドに入ります。8~9時間をかけU字谷の美しいフィヨルドを約100マイル(180~190キロ)にわたって遊覧し、引き続き流氷地域専門のアイスパイロットが乗船し、北緯66度33分のアイスランド・レイキャビクを目指します…」とも。

 あいにく当初、今回ピースボートの目玉とされた北極圏内にあるグリーンランドの世界遺産イルリサット・アイスフィヨルドでのボート遊覧こそ出来なくなったものの、これだけの遊覧ができればそれはそれで良いのでは、と思ってしまう。第76回ピースボートのクライマックスの地域に近づいていくかと思えば、誰だって胸が躍ろうというものだ。

 夜に入り、私の秘密の仲間から抗議文を出して下船した方がいるそうです。ネットでも流れているみたいだ。キーワードは第76回ピースボートです、との情報提供があった。以前、食事の席で不満を言っていた人がいたので「本当に許せないなら、抗議すべきだ。」と口を添えたが本当になってしまったのか。下船してしまうなんて。一体何があったのか。確かに調べてみる必要はある(この話は、けさ未明にかけ、ある筋から詳細を把握した。でも、下船はしない方が良かったと思う。甘いかも知れないが、みんな一生懸命生きている。悪い人なんかいない、と思わなければ…ネットには流れていないのでは)。

 昨日は、このほかにも航路説明会とは別に、持続可能なスエーデン協会理事レーナ・リンダルさんのお話「環境先進国スウェーデン」も聴いたが、男女平等と環境への取り組みがこれほど徹底した国はほかにないのでは、と実感した。そういえば、美雪から「スウェーデンはアンデルセンが有名です。」のファックスが届いた。

【出会い】東京世田谷区から独り旅できている大川千恵子さんから居酒屋「波へい」で午前1時過ぎまで大揺れの波に揺られながら、人生のいろんなことを教えてもらった。彼女は79歳だが若々しい。「私なんて、おばあちゃん。昔はそりゃ、美しかったわよ。いまじゃ、首から下はとても自信なんてない」と謙遜される。金沢大学教育学部卒業というだけあり、能登の話や犀川、亡き森繁久弥さんの話など尽きることがなかった。 

平成二十四年六月二十三日
 オーシャンドリーム号は、昨夜遅くティルベリー岸壁を離れ、現在は次の寄港地であるスウェーデンのヨーテボリに向かっている。いまは23日午前10時40分である。船は右に、左に、と木の葉のように大きく揺れている。

 21、22日とイギリスに滞在した2日間は中身の濃いものだった。
 2日目の22日には20年ほど前、私の岐阜県大垣支局長時代の部下で当時は揖斐川通信部兼務記者として活躍、今や中日新聞(東京新聞、北陸中日新聞)のヨーロッパ総局特派員(総局長)として日々、ヨーロッパ各地からの記事を報道している有賀信彦さんとグリーンパーク駅で再会できた。
 彼はギリシャのアテネ取材から帰ったばかりの多忙の身ながら地下鉄ジュビリィーラインのグリーンパーク駅まで出迎えてくれ、近くのバッキンガム宮殿一帯を案内してくれた。そればかりか、世界的に有名レストランで英国王室ご用達の紅茶で知られ世界ではここだけ、のフォートナム・アンド・メイソンまでをご馳走してくれた。さすがに、ほのかな、心までが温かくなってくる、甘やかな香りには心身ともに酔い、しびれていった。そして久しぶりに会う元同僚との会話は本当に楽しくアッという間に時が流れていった。

  「ここロンドンは街並みの空間など、どちらかと言うと大いなる名古屋に似ています」「王女は土、日曜日には、ほかの宮殿に移られます。日本の皇室でいえば、皇室の御用邸(別邸)といったところでしょうか」「あっ、近衛兵が見えます。支局長は運がいい。公式なセレモニー以外には、なかなか見られないのですよ」「赤は英国のシンボルです」「支局長は、タバコを吸われますか。葉巻も売っていますよ」……。
 バッキンガム宮殿を見ながら歩くうち雨が降り出した。「イギリスの男性は、誇り高き人間でこの程度の雨では傘はさしません。傘をさすこと自体があまりかっこよいものではないからです」と有賀記者。デ、私も彼に習い傘をささないまま歩き続けた。
 私はその言葉を聴きながら傘をささない、ということは、そういうことだったのかと思い「そういえば、彼女も少々の雨ごときでは決してささない。あれはいちいち面倒くさいこともあるかもしれないが、空に対する人間のプライド、いや畏敬を超えた“憧憬”といったような感覚も手伝ったある種の美学からだったのだ」などと勝手に解釈したりもした。

 有賀記者のアドバイスもありグリーン駅で別れたあとはジュビリィー線の次の駅、ウエストミンスター駅で降り、天を突く寺院が聳える界隈を散策。町ゆく人々に『単純に〈平和って何〉ですか』と雑談を兼ね手当たり次第に片言の英語で聞いてみた。なかに台北からお母さんと来たという女子大学生が「母親と一緒にこうして居られること」と話してくれた時には「母親っていいな」と思った。
 そう言えば、以前、中国の厦門(アモイ)でも「お母さんに毎日電話をして、いろいろ聴いてくれるので幸せです」と女性ガイドから聞いたことがあるが、あらためて母親の存在こそが平和のシンボルだと思った。
 ウエストミンスターでは世界各国から訪れた大勢が寺院を前に集っていた
 ウエストミンスターからはウエストハム駅まで出、ここから別の路線に乗り換えティルバリー駅まで戻った。ここで町中心部の飲食店に立ち寄り、ビールを飲み、あとは20数分をかけ、オーシャンドリーム号内のわが家(5046号室)まで歩いて戻った。

 かつて大垣支局時代には少年少女グループによる長良川・木曽川リンチ殺人事件、大津支局のころにも近江八幡の連れ去り少女事件などで応援の夜討ち朝駆け取材で随分と世話になった若き記者が今や、世界を駆け回り、こうしてロンドンで私を出迎えてくれた、だなんて。私はなんと幸せなのだろう。

 私は2日間を美雪が事前にそろえてくれていたヤマモトカンサイさんデザインによるチョットお洒落な白いジャケット姿で過ごした。日中も18度前後と、こ寒いほどのイギリスのロンドン。旅は道連れの、ピースボートの若者たちがティルバリーのロンドン・クルーズ・ターミナルに着岸したとき「着きましたね」「やっと、着いた」などと歓喜して異口同音に発していた言葉がなんとなく分かる。
 霧雨に煙っていたロンドン。そこには、世界中から集まった多民族が過ごす顔があり、長い歴史と文化の奥深さが見てとれた。ロンドンは堂々たる世界の都市だった。この国でまもなくオリンピックが始まる。なんと素敵なことなのだろう。

【出会い】再会になるが、有賀と会えたことが何よりうれしかった。ほかに反核交流集会の席でお会いした週刊金曜日、新社会、MDS、小民新聞の記者小野信彦さん、そしてイギリス全土の反原発団体「キック・ニュークリア・ロンドン」の女性闘士のんさんにも会え、嬉しかった。小野さんは、なぜか「信彦」と有賀と同じ名前だった。