短編小説「デゴイチ」

「何を描いているのだい、秀ちゃん」
 今年、小学校に入学した息子の秀夫は、小さな身体を丸め、床に置いた真っ白な画用紙の上に黒いクレパスを力一杯握り締め、無我夢中になって何やら格闘していた。
「それは新幹線が猛スピードで走っているところかな?…」
 父親の芳雄は、昼食後に飲みかけた紅茶のカップを食卓に置くと、もう一度、尋ねた。
「これはデゴイチ―――僕の一番の宝物なんだ」
 秀夫の腕は機械仕掛けのおもちゃの様に動いて、画用紙から離れず声だけが返って来た。
 芳雄は、やや同調する様に興味深げに、不思議そうに訊いた。
「へぇーすごいな…ところで運転しているのは誰だい」
「もちろん、僕だよ。―――デゴイチの運転手が僕の夢なんだ」
 その時、妻の文恵がキッチンから顔を覗かせて言った。
「この前さ、テレビの特集番組でね。蒸気機関車の展示シーンを放送してたのよ。それを観てから秀ちゃん喜んじゃって」
「テレビか……」
 二人のいる居間のテレビに昼のニュースが流れていた。
 芳雄の視線が自然とテレビへと移った。画面にはシックなグレーのス―ツを着た男性アナウンサーが神妙な面持ちで、連続児童誘拐事件の現状報告をしていた。
 キッチンから出て来た文恵が両腕を組み、テレビの前に立ちはだかってブツブツ言った。
「この事件、心配なのよね……誘拐の場所がここからそう遠くないでしょう。犯人がその辺をウロウロしていると思うと恐いわ……」
「それもそうだけど、お前は少し、気の回し過ぎだよ―――心配はないさ、秀夫はしっかりしている。大丈夫だよ」
「だったら良いんだけど……でも、やっぱりまだ子供でしょう」
 すると、突然に床から立ち上がった秀夫が、玄関に向かって駆け出した。驚いた二人が声をかけようとしたら、背中を向けたまま秀夫が大きな声で言った。
「みんなと遊んでくる。昨日、昼から遊ぶ約束してたんだ」
 慌てた文恵は後を追いかけ、階段を駆け降りる秀夫に大声で言った。
「秀ちゃん!!知らない人に連いて行っちゃ駄目よ」

「ジャンケンポン、ジャンケンポン…」
「わーい、ユキちゃんの負けだ! 鬼だよ。ユキちゃんはその木で目隠しして、ゆっくり十回数えるんだよ。僕達はみんな急いで、早く隠れようぜ」
「いーち、にーい、さーん、………」
「急げ!逃げろ!………」

 居間の掛け時計は夕方の六時を過ぎていた。
 文恵は時計を見ると溜息をついて言った。
「――秀ちゃん、遅いわね。いつも夕食には帰ってるのにね……」
 芳雄は固い表情で黙り込んだまま、ひと息にお茶を飲み込み言った。
「落ち着けよ、文恵。きっと遊びに夢中になってるんだよ。もう帰って来るさ。いつもの様にニコニコして、ただいまってさ」
「もしかしたら………」
「バカ言うんじゃないよ。考え過ぎだよ。秀夫が事件に巻き込まれるなんてありえないよ。現場もここから離れているし、ここは団地だから人の目も多いし大丈夫だよ」
「それでも大丈夫だっていう根拠はないでしょう……」
 慌てて文恵はテレビに近寄ると、チャンネルを変えてニュース番組を探した。
 目敏く探し当てた文恵はニュースに食い入る様に一心に見入ったが、やがてびっくりした顔で、芳雄に振り向き言った。
「あ、あなた、これを見てよ――」
 テレビのアナウンサーによれば、今日の午後四時半頃に、児童誘拐事件の犯人がS駅の構内で現行犯逮捕されたらしい。その駅はこの団地からすぐ近くだった。二人は顔を見合わせた。
「とにかく、団地の公園辺りを探しに行こう―――」
「そ、そうね―――」
 
「おーい、秀夫!」
「秀ちゃーん」
 二人は団地内のいくつかの公園を、あてどなく足早に探し回っていた。夜の風がひんやりと漂っていた。
 すると突然、文恵が公園の片隅にある乗り物を指差し大きな声を上げた。
「あなた!――秀ちゃんよ」
 それはコンクリートで出来た小さな赤い機関車の乗り物だった。その中の運転席に座ったまま、秀夫は静かに寝息を立てて眠り込んでいた。
「秀夫のやつ、こんなところにいたのか」
「あなた、これよ」
 その真っ赤な蒸気機関車の金属製のプレートには『D51』と描かれていた。
 芳雄が言った。
「―――きっと、今ごろ、デゴイチに乗って、走っている夢でも見ているんだろう。可愛いものだな」
「でも今ごろ、蒸気機関車なんて流行らないわよね」
「――それはないさ、過去へのタイムスリップか。男のロマンだよ」
 夜空には、いつまでも満天の星たちが輝いていた………。