短編小説「わたし」
うっとうしい梅雨がようやく明けようかというころ、勤務している庶務課に大阪支社から出向してきた新課長が、半月ほど過ぎたあたりから、わたしに対してセクハラにおよんできた。仕事に集中できなくなったわたしはある日、ひどいミスを犯してかなりの損害を会社に与えてしまった。本を正せばあのセクハラ課長のせいなのだから、あんたが職場のみんなにあやまったらどうなのよと腹の中でまくしたてて、髪の薄いとぼけ面を毎日にらみつけていた。
まったく面倒で憂鬱な日が続いた。からりとした夏の陽射しが、もうすぐこようかというのに、これではまったく季節が戻っていくような気になってしまう。わたしの気持は晴れることがなかった。これからいつまでこの職場にいなければならないのだろうか。直接、机の課長から呼ばれると、もう覚悟しなければならない。わけのわからない書類を手にして臭い息がかかるほどに近寄られる。担当外ですと言い、その場をのがれようとすると、いやきみはどう思うかを聞きたいんだと、気味悪い目つきをして手を握ってくる。よく新しい職場にきてすぐにそんなことができるなと本当に腹立たしい。きっと同様な問題を起こして出向命令がでたのだろう。これからあのセクハラ課長が異動して行くまでじっと我慢の子でいなければならないのか。早くて一年、遅ければ三年。悪いことにわたしは我慢強い。女性がわたしだけの七人の係に相談する相手などいない。もう辞めても誰も不思議に思わない歳になっているのだし、いっそのことと考えたりする。
部署は異なるけれど、同期の女性社員がただひとりいる。三十路にあと一年という年齢になってから、なぜか仲良くなった。というより同期の女性が皆、退社してしまって、社内を見ればパートのおばちゃんと若い子がほとんどという環境になっていた。自然の成り行きというのだろう。どちらからともなく食事に誘ったりショッピングなどで時間を過ごす日が多くなっていた。そんなある日、行きつけない居酒屋で夕食をかねているとき、彼女がお酒で頬を染めて、自分には男との交際が幾度もあったのよと自慢げに話し始めた。幾度とはどれくらいのことか、はっきりとしないけれど、その男たちを飽きたからことごとく捨てたようなことを延々としゃべった。わたしは突飛なことにひどく驚いた。まさか彼女が過去のことをうちあけるとは思いもよらなかったし、そしてなにより信じがたかった。なぜなら彼女よりわたしの器量の方がずっといいと、前から確かなこととして固く思っていたから。そんなわたしでも彼女が自慢げにいうほど男性からアタックされていないのに馬鹿げたことを平気で言う。まあ話は話で聞いておこうと黙って聞いていた。そしたら急に、それであんたのほうはどうなのよと、問いつめるような口ぶりをした。わたしはどう応じていいのか困った。正直なところしゃべりたくない。だって今の今まで男との深い交際はなかったんだもの。社内で、しかもわたしより歳上ばかりの男から何度か声はかけられたけれど、はい、いいですよとは簡単に言えず、何日も待たしたあげく一度だけ喫茶店でお茶をにごして、さようならばかりだったのだから。だって考えてもみれば、顔かたち、背格好だけでどうして本当の交際ができるっていうのよ。みてくれだけに惑わされたら、あとで泣くのはこっちのほうなんだもの。どんな男でも初めは気を引こうと躍起になって、手八丁口八丁の演技をするばかりなんだから。わたしは問いにはウソをついて、彼女とほとんど同じ手で男をそでにしたことを、事実のようにしゃべった。そして、なかなかいい男はいないものよねと首をかしげてうなずき合った。そこまではよかったのだけれど口がすべってしまった。今度の課長のセクハラに、ほとほと困っていて、いつかあんたに相談をしたかったのよ、と言ってしまった。まったく軽はずみだった。そしたら彼女はあやしいものでも見るようにアゴを引いた。本当?ね、どんなことをされてるのよに始まり、みんなは知っているのかとか、それでやめてよ と声をだして抵抗しているのか、とかしつように聞いてくる。わたしはできるだけ近づかないようにしているけれど、仕事のことで呼ばれたらどうしょうもないのよと、ここは偽りなくしゃべった。そしたら下目をつかって、あんた本当はまんざらでもないの?とあけすけにものを言う。いっぺんに頭に血がのぼってくやし涙がでそうになった。こんな女とはこれからつきあっていられない。こっちは口がすべったとはいえ、困りはてていやなことを口にだしたのに女のひがみをあからさまにしてくる。わたしは席を蹴った。彼女はあわててわたしの腕をつかむと、抜けようかと思うほどに引っ張った。ごめんごめん冗談冗談、悪かった悪かったと二度づつ言葉を重ねた。わたしは本当におこっていた。彼女は冗談で言ってしまったとひたすら謝った。こんなに真剣に謝られて邪険にするのも考えてみれば大人げないと、表情をころりと変えて椅子にすわりなおした。彼女はわたしの言ったことをおよそ反復すると、その課長を告発しょうと言いだした。週明けにも総務部長に面会して、ことのあらましを聞いてもらおう。一緒に行くから大丈夫よと肩をゆすった。そんなおおげさなことをしてみんなに知れたらわたしは恥ずかしくて、もう会社になんかいられない。後悔した。何で手を握られただけでわたしは彼女に相談しようなんて思ったのだろう。わたしががまんをして時の経つのを待てば、いずれこの問題は消滅するはずなのに軽はずみもいいところだった。わたしは気を取り直そうとグラスのビールをぐいっと飲んだ。生ぬるかったけれど結構、胸がすっとした。あんたも飲みなよと勧めると彼女も同じようにグラスを傾けた。目を合わすと無理っぽく笑い合った。
なあ一緒に住まないかと突然、彼女は男言葉で言った。最近になってときどき遣う男言葉に驚きはしなかったけれど、一緒に住もうということには面食らった。独身寮を脱出してのびのびと暮らそうよ。誰に遠慮しなくてもいいし門限は気にしなくてもいいし、自由気ままに生きようよと、彼女はさばさばとして言った。もう男はこりごりだし、いつまでも寮生活もなんだし、なあ一緒に寮をでようぜとわたしを引きずりにかかってきた。彼女はわたしを自身と重ね合わせているらしい。わたしは彼女のように男と何度か深いつき合いをして、飽きたらポイをくりかえしていたと大ウソをついた。何度か交際を申し込まれたけれど、みんな断ったのが本当なのに見栄をはってしまった。その間に、十数人いた同期はいつのまにか目の前の彼女だけになっていた。わたしは彼女の言うことに耳を傾けていた。もうお互いいい歳になっているし、独身寮にいつまでいてもなんの未来も開けないような気になってきた。ずっとこのまま変化に乏しい生活が永久に続いていくのだろうかと、淋しい気持にもなってきた。わたしは彼女の誘いに乗ることにした。夏になろうとしている満月の金曜日だった。
週明けの午前に彼女と総務課へ行った。セクハラを訴えにではなく退寮の手続きをするためにだ。まだ住むアパートも決まっていないのにおかまいなし。数枚の書類を会社が引ける前に提出しようとしたら、新住所の欄が空白では駄目だと突き返された。まあ慌てることはないのだけれど、終業になるのを待ってその足でアパート探しにでかけた。社内専用の自転車に二人乗りしてバスの通る道にでると、人通りがいっぺんに多くなる。まだ陽射しの明るい町中を不動産屋を探してペダルをこいでいるとわりと早く見つかった。人の良さそうな眼鏡をかけた、ぼさぼさ頭のおじさんと、わたしたちと同じくらいの年頃の女性事務員が、書類のファイルをかたづけにかかっていた。希望より少し家賃が高かったけれど駅に近いのでそこに決める。二階の2DKが新しい生活の居場所になる。
善は急げとばかりに十年あまり住んだ独身寮の部屋からでたゴミの山を残して引っ越しをした。引っ越し屋を頼むと結構なお金がかかりそうなので、寮務員のおじさんに彼女が色目と鼻にかかった声を使ってレンタカーの小型トラックで運んでもらった。帰りにビールワンケースをお礼にしたら、本当にいいのかと目尻を下げて帰って行った。さい先がよくて万歳をしたい気分。
それがだよ。充実した新しい生活が二ヵ月も経たないあたりから彼女の様子がおかしくなった。ときどき言葉遣いをやたら女っぽくしたり、普段は手早くする化粧をわたしより長い時間をかけたり、態度が妙によそよそしくなっていた。問いかけに生返事で、ひとり外出することが多くなった。この変わりようにわたしは言いようもなく不安になった。まさか…そのまさかがわたしをパニックにさせた。男ができたという。あれほど男はこりごりだと言って、わたしと新しい生活を始めたばかりなのに、これはいったいどういうことなのよと詰め寄った。聞く耳を持たないってこういうことなのか、わたしの怒り狂う顔さえ目にはいらないとみえ、恍惚として別人女になりきっている。だましたのかだまされたのかは知らないけれど、自分をまるで見失っている。アパートに引っ越してからふた月を過ぎたころに、幸せになるからと、荷物をまとめてでていってしまった。あろうことか会社も辞めていった。わたしは途方に暮れた。アパートの家賃から電気、水道、ガス代まで全部ひとりで負わなければならない。まさか寮に戻るわけにもいかない。夜は眠れず、食事はのどが通らないし、朝、起きるのがとてもつらくて会社を一週間休んだ。そもそもなんだったのだろう、あの女とここで暮らすことになったのはと、もうどうにもならないことをとめどなく思った。男なんかに頼らず新しい生活を自由気ままに生きようなんて、夢を見るような気持にさせられてしまったことを深く悔やんだ。男に対しての見栄とウソのツケがこんなにも早く巡ってきたのだ。わたしをこんなかたちで置き去りにしていった彼女は必ず不幸になる。どこでいつ知り合ったのかは分からないけれど、おそらくこのひと月くらいのことだろう。それで結婚するなんてまったく狂っている。
有給休暇も底をつきそうなので気力を振り絞って出社した。なんということか朝いちでセクハラ課長に手招きされた。ああこんなわたしにこのうえセクハラが待っていようとは。および腰で机の前に立つと、仰天指示を受けることになる。明日から業務課へ異動だと苦虫をかみつぶしたような顔で見つめられた。にわかに信じがたかった。異動させられる理由はなんであれ、ともかくこのセクハラ課長から逃げられる。こうも早くこの日がくるなんて、女神さまありがとう、感謝、感激、感無量だよ。
業務課、配送係に転籍となって異動の理由がはっきりとした。一緒に住んでいた裏切り彼女の退職で急きょの補完なのだった。机も彼女が使っていたものらしい。気分がよくないけれどよしとしなければ。
彼女がアパートから出ていってから一ヵ月半になる。結婚式に呼ぶからねとか言っていたのに音沙汰なし。まあ、こっちも気が進まないのだから呼んでもらわないほうがいいのだけれど。
そんなことを常々思っていたらメールが来た。それも写メール。今までなんの連絡もなしでいきなりこれみよがしのツーショット。なのに、だましたのかだまされたのか知りようもない男は名無しの権兵衛。よく見ると彼女よりいくらか若い男のように見える。しかも浅黒で彫りの深いかなりのイケメン。脳みそが誰かの手でかき混ぜられて気がおかしくなりそう。目の玉だってとびだしてしまいそうになる。わたしは携帯を放り投げると食べかけのコンビニ弁当を冷蔵庫にしまい込んだ。一緒に住んでいたわたしに対して失礼にもほどがある。こんな尻軽女は絶対に幸せになれるはずがない。なにかの間違いでくっついたものはすぐに剥がれてしまうだろうよ。それにしても、犬も歩けば棒にあたるか…。
新しい仕事にも慣れて周りに目が届くようになってきた。配送票を受けにくる運送会社の人たちにも覚えられ、声をかけられるようになって結構楽しい。向い机の年増のおばさんに、ときどき口や目でいやみを言われるが、セクハラに較べれば軽い軽い。この会社にこんなに居心地のいい職場があったなんて意外もいいところ。社内の人間としかつながりのなかったわたしは、外部からの人たちと用向きをもつことがとても新鮮だった。あの裏切り女は職場でのことはまったく口にしなかった。なんの不満もなければ特別に話をすることもなかったのだろう。
職場に出入りする運送会社の男たちはみんな若い。本当にわたしよりみんな若くてはつらつとしている。言葉だっていつもはじけとんでいる。社内にも若い男たちはいるけれど、ぼそぼそと言葉を交わし、落ち着きのない目で周りに気を遣う姿は可哀想になる。
朝、出社すると係長がいつものようにパソコンで社内メールを確認していた。と、どうしたのか、おおと口をとがらせて、くいいるように見入っている。わたしはまだこの職場に異動してきてから日は浅いのだけれど、妙な興奮のしかたをする係長を目の当たりにするのは初めて。
始業前のラジオ体操が終わり業務ミーティングもすんだと思ったら、声の調子をがらりと変えてみんなに伝えた。内容は、来る十月八日は体育の日の振り替え休日であるが、当社もそれにちなんで体育行事を開催することに決めたので、全員の参加をお願いしたいと総務部長からの通達メールを紹介した。わたしはギョッとした。これって休日に出社しろということじゃないの。異様なざわめきがまわりからする。詳しい内容はのちほど各自にコピーしたものを配りますと、ミーティングと追加のお知らせを終えた。
午後からの仕事前に一枚のコピーが配られた。みんなが眉をひそめて目を通している。十月八日、午前十時より河川敷公園グラウンドにてソフトボール大会を実施するとある。チーム編成は社内から三チームと、出入りしている運送会社連合が一チーム参加となっていて、四チームのトーナメントで優勝を争う内容が記されている。冗談じゃないよと思いながらも、ひとり暮らしのわたしに特別な予定があるわけでもないし、ずっと昔、高校時代に野球部のマネージャーのお手伝いをしていたことがすこしなつかしくなった。あまり野球のことは知らなかったけれど、部員と行動を共にするうちに、わたしもいつか補欠選手の気分になっていたことを思いだす。それと運送会社の若者たちも参加すると聞いてでかけてみようかという気がわいてきた。
体育の日は比較的、晴れる日が多いと誰かが言っていたとおりになった。天気は振り替え休日でも関係ないらしい。会社から歩いて十五分余りのところにある河川敷グランドに、わたしは自転車で集合時間より早くついた。すでにお偉いさんたちが観戦するためのテントと、もうひと張り大きいのが一塁側のうしろにできていた。長机には賞品らしい物が山積みにされている。見回すとざっと五、六十人がいるようで、もうほとんどの人たちが集まっているのだろう。わたしはその中にセクハラ課長の姿を見つけた。できるだけ人陰になって近づかず、見つからないようにした。まさかこんな場所でセクハラにおよぶことはないだろうけれど用心に越したことはない。あのたれ目で見られると本当にぞっとする。
開会式が始まり、挨拶のあと進行係から組み合わせと簡単なルールの説明があった。一面のグランドで二試合が同時に行われる。業務課と庶務課の対戦はホーム側で、反対のセンター側で総務課と運送連合の試合が始まった。わたしはジャージ姿のセクハラ課長がテントの中の椅子に腰かけているのでひとまず安心した。わたしの業務課とセクハラ課長の庶務課は十六対ゼロで、五回コールドの爆勝。その最後の攻撃でツーアウトからセクハラ課長がピンチヒッターとしてでてきた。なんだおい、顔見せかよとわたしは毒づいた。くそ、ここはデッドボールだと、わたしが監督ならピッチャーにサインをだすところだ。二球を続けて空振りしたあと、三球目はバットにかすって自分のおでこにボールが激突した。さかんに目をしばたかせておでこをさすっている。わたしは周りの大笑いの中で、ザマアミロ、アホ、マヌケ、ドジとありったけの言葉をぶちまけて、手のひらを痛いほどにたたき合わせた。セクハラ課長が三振でゲームセットになると、反対側での試合も終了したみたいだった。向こう側からさかんにボールがこちらへ転がってきていたところをみると、馬力のある運送連合が勝ったのだろう。結果はその通りで総務課はまったく歯がたたなかったらしい。
優勝戦はすぐに始まった。運送連合のピッチャーはたしかY運輸の若者だ。作業服を脱ぐとわりとスリム。無駄な肉のついていないバネのある身体を想像してうっとりとしてしまう。それにしても速いボールを投げるよ。業務課のピッチャーも、まあまあ速いボールを投げながら、遅いボールで目先をかわしている。運送チームの先頭バッターが三塁の前にバントをして一塁にかけこむ。あのO運送の若者は小柄だけれど足がすごく速い。セーフと思われたのに審判はアウト。ベンチをとびだして監督が猛烈に抗議をするが、若者はすたすたとベンチに戻ってくる。勝負にまったく執着しないのは若者としてどうなのかと思ってみる。
わたしは勝ち負けはどうでもよくなって、若者たちをわくわくと目で追っていた。運送チームの守りで、平凡なフライをエラーしたライトは、さかんにうしろ頭をなでるくせのあるI急行の若者らしい。ワンアウト二塁のピンチ。次のバッターがまた振り遅れのライトフライを揚げた。ひやひやして見ていたら今度はうまくグラブに入った。ところが何を思ったか一塁方向へボールをダイナミックに投げた。ボールは一塁手のはるか頭上をびゅんと通過していった。それを見た業務課のランナーはにこにこしながらホームをかけぬけた。あの若者はまたさかんにうしろ頭をかいている。わたしはとてもほほえましかった。若者らしい思いっきりのいいプレーに気分が爽快になる。業務課の得点はこの一点だけで、試合は若さと体力に勝る運送連合が後半に点を重ね、五対一で勝った。
表彰式のあとに親睦を兼ねた昼食会がうしろの大きなテントで行われた。ほとんどの人たちはこれを期待して参加しているみたいで賑やかしい。おでんに焼きそば、串ものにおにぎり、それに飲み物がセットされ、誰かの乾杯の音頭で始まった。わたしは昼食代が浮いたとひそかに喜んだけれど、こんな所ではどさくさにまぎれてセクハラ課長の餌食にならないでもない。すでにわたしの姿を見つけて、しめたと思っているのかも。まったく男っていう生き物はしつこい。ひょっとしたらセクハラ課長はわたしが異動してから新たに入った社員に対して、また同じことにおよんでいるのかもしれない。わたしは優勝した運送チームの選手たちの輪に入って一緒に盛り上がりたかったけれど、昼食をあきらめようかと考えた。しかしこんなチャンスは滅多にない。いや二度とない。わたしは危険をおかしてでも若者たちと一緒に昼食を楽しむことに決めた。勇気をだして彼たちのテーブルに近づくと思ったとおりに声がかかった。全員が男性みたいで女性は見あたらない。これさいわいと、わたしは歳も忘れてはしゃぎまくった。それでもあんまりみっともないことはできないと、気持を引き締めることを忘れなかった。女性はずっとわたしひとりだけで、ほとんど有頂天だった。義理に何人かの社員の男が運送チームに顔をだして、よお、おめでとう強いなあなどと大げさに優勝を祝う言葉をかけていたが、女性は誰ひとりとして顔を見せることがなかった。わたしが昔、野球部のマネージャーのお手伝いをしていたことを知ると、いっそう話がはずんだ。そうこうしていると、うしろに変な気配を感じた、と同時に生温かいものを手に感じた。ひえっと身をすくめて振り向くと、セクハラ課長が、にっと歯をむきだした。こんな所にいないでみんなと一緒に楽しもうよと、握った手を引いた。わたしは懸命に振りほどくと若者たちに囲んでもらって安全を確保した。ことを察知したのか、若者たちは黙って汚いものでも見るようにセクハラ課長に視線を投げつけた。すごすごと帰って行くのを、汗のにおいでムンとする若者たちの肩越しからつま先立ちで確認すると、わたしはこれまでにない満足感で気分がどんどん舞い上がり、時の経つのも忘れていた。
堤防道路まで自転車を引いて上がりきると、今日の秋風は特別な心地がする。こんなに充実した楽しい時を過ごせたことは、今までに覚えがない。わたしがわたしらしく振る舞えたのはこれが初めてだった。余韻がいつまでも続いてわたしは十分に幸せだった。突然、激しいクラクションで我にかえる。気がつくと、わたしは道のど真ん中をゆうゆうと自転車で走っていた。運転手の罵声にもわたしは余裕があった。さてさてどこへ行こうかとハンドルを握り直すと携帯が鳴った。はて、今ごろ誰かと見れば元、同居女。わたしは裏切り女とはもう話しもしたくなかったから無視することにする。せっかく運送連合の若い男たちに囲まれてまだ夢心地になっているところに、なんでこのタイミングででてくるんだ、馬鹿女とののしる。
ふと、この間借り損なったレンタルビデオを思いだしてサドルにまたがる。店をのぞくと、今日も五本全部が返却待ちになっていて、黄色いタグが空しくぶらさがっていた。今、話題のラブストーリーの新作なので早く見たいけれども仕方がない。他を借りてみようかと手にしても今日はなんだか気が進まない。店をでて結局ショッピングセンターで時間をつぶそうと自転車を走らせる。
広い入り口の隅に、まだあどけない顔をしたアベックが、ぴったりと寄り添って背もたれしているのを見て見ぬふりをする。うらやましいけれど、なんだかあぶないアベック。左の『マック』を横目で流して正面の靴屋をのぞく。久しぶりに来たのに品揃えが変わりばえしない。アンティークショップには興味なし。婦人服売り場ではもう秋のバーゲンをやっている。なにかめぼしいものはないかと、吊された商品を片っ端から見て歩く。これはと思うものを数枚抱えて試着室に持ち込む。どれもこれも似合うので困ってしまう。わたしには時として衝動的に物を大量に買ってしまう癖がある。今日の精神状態は、危ない、危ない。本屋でファッション雑誌をめくっていると、モデルのまとうブランド品はやはり見た目で違う。試着したさっきの商品がえらく貧弱に思えて、やはり買わなくてよかったとへんに胸をなでおろす。二階に上がると液晶テレビを、これでどうだとばかりの値引き販売をしている。画像がブラウン管とはやはり違う。ああ欲しいなとつぶやく。今のテレビはまだ新しいけれど、数年後にはデジタル放送になるんだから、いずれ買わなければならない。困ったことになったと思う。今ある電化製品は、あの同居女とお金をだし合って揃えたものだからいいけれど、今度買うとしたらみんなひとりの出費になるんだ、とあらためて気が重くなる。
『スタバ』でカフェラテを飲んでいると、やけにカップルが通り過ぎて行く。中には東南アジア系の若い女を腕にしているおっさんもいる。一体どういうつもりなんだと、わけもなく腹立たしくなる。そりゃぁ自由な国だから自由な幸せに文句を言われる筋合いはないだろうけれど、ちょっとおかしくはないかいと、腹の中でぶつぶつ言う。まあわたしには関係のないことだからお好きなようにどうぞと、すぐに訪れるだろう不幸を祈って席を立つ。
河川敷公園での幸せからちょうど一週間になる。もうあんなに充実したひとときは来ないと思うと淋しい。ひどく落ち込みそうな気持がときどき訪れる。今日の夕食はインスタントラーメン。栄養のバランスなんか考えたってしょうがない。ペットボトルの水をがぶがぶ飲んで布団にもぐりこむ。これは普通の満腹とは違うなあと、腹をさすりながら眠ろうとするがなかなか眠れない。あの若者たちが自然に浮かんでくる。このところ毎日のことだ。O運送の男はあんなにすばしっこいとは思わなかった。いつもだるそうな顔でのろのろしているのに、あの足の速さは一体なになんだ。でもあんなにあきらめが早くてはなあ。Y運輸の男は背丈もあって結構マスクもいいけれど、ちょっと短気そう。I急行の男は標準的な体つきで真面目そう。こんなタイプが無難なんだろうけれど、ちょいと状況の判断がなってないよなあ。S急配の男はさすがに選手を兼ねた監督。年齢が気にかかるのと、審判への抗議がちょっとしつこいかな。でも、親睦の昼食会ではみんな親切だったし、よくしゃべってほがらかだった。若者のむせるような体臭はもうあれっきりになるのかなあ。高校時代の野球部員のつんとしたのとは、あきらかに違うあやしいにおいだった。布団の中で鼻の穴を広げ、小刻みに息をしてみるけれど、まさかよみがえるはずもない。そして若者たちの素朴さは抱きしめたいほどの愛らしさがあったし、ああ本当に若者はいいなあ。あのソフトボール大会でのことが、ひょっとして恋愛に結びつくことになりはしないだろうか。わたしは胸をふくらませてみる。やっぱりマスクのいい順に思い浮かぶ。でもスタイルの順にしたり、運動神経の順にしたり、好感の持てる順に顔を並べてみたりした。あげく、わたしが例えばこういうような態度を若者たちひとり一人にとったら、それぞれどんな反応をするのだろうか。こんなことを馬鹿みたいに考えてみる。馬鹿か…いいよ馬鹿でも。いっそのこと元、同居女みたいに夕刻から歩きまわって、男に媚びを売ってでも永遠の幸せを望んでみるか、いや永遠でなくたっていい、あのアジア系の女のように中年男の腕にぶらさがって、いっときの幸せを楽しんでみるか…ウソ!わたしにそんなことは絶対にできない。一体、何を考えているのよ。わたしには、あの女たちのようなことは絶対にできないのよ。二度とこんなことは考えては駄目、絶対駄目!。わたしは両方の頬っぺたをこれでもかとつねった。
会社での仕事は順調だったし、楽しかった。でも運送会社の若者たちを見ると、複雑な気持ちが芽生えてきて胸がせつなくなる。躍起になって押さえつけても、その魔力はするすると忍び込んできてしまう。一体わたしの心は、ほころんでなにを求め、どこへ行こうとしているのか…。
そんなある日の夕刻、携帯にメールが入った。元、同居女だ。
〈オトコトワカレテマタイッショニスミタイ〉 わたしは目を疑った。そしてむらむらと怒りがこみ上げてきて身体中が熱くなった。男はもうこりごりだから、これからは目もくれずに二人で自由、気ままな生活をずっと続けようねと、わたしを同居に誘っておきながら、何ヶ月もしないうちに男ができたからと、でて行った女の言うことか。おおかた若い結婚詐欺師にひっかかって、有り金をだまし取られ、捨てられたのに違いない。ここは冷静になって返信しなければ、わたしのなにもかもが、もう滅茶苦茶になってしまう。
わたしは返信した。
〈オトコガデキテドウセイシテイルザンネン〉
わたしは急いでサンダルをつっかけた。さあ、男の下着を買ってこなければ。