カトマンズの恋(終章・10)
10.
カトマンズで楽しい日々を過ごす日本人女性。手づくりの家庭料理。東日本大震災で日本に義捐金を送る運動の先頭に立ったニルマニ・ラル・シュレスタさん
二千十三年(平成二十五年)十月一日。朝から晴れ。
陽一が慣れ親しんだカトマンズとも愈々、さらばだ。去る日がきた。
旅の途次、中国広州の空港出発ロビーで見かけたカトマンズ行きの漢字表記は〝加徳満都行き〟。「カトマンズ=何百もの花束」との記述までが一緒に案内板に記されていた。〈徳〉が満にみたされ、〈花束〉に包まれている都市だなんて。たとえ字面だけにしても何とステキな名前なのだろう、と感激したことを覚えている。
実際、ここでは朝、晩のプジャの祈りのときに日々、女たちが花々を空や大地に向かって感謝の気持ちで投げ与えることもあってか、いつだって至るところ、花で満たされている。事と次第によっては、〝花の都・カトマンズ〟だといっても決して言い過ぎではない。
そして。ここには、ラブバードはじめ、野良犬、野良牛、野生猿…たちと一緒にアラン・ドロンのようなラルだって、刑事コロンボのようなスシル、ミスワールドだといっても決しておかしくはないスタイリストの日本人女性テマリだって、いる。
みんな、みんな。生きているのだ。
この街を何度も歩いて気付いたことがある。
それは「みんな〝心で生きている〟。いわゆる頭ではなく、からだと心で生きているので家族の決まりごとなど少々煩わしいことがあっても、助け合いの精神が徹底しており、いつだって安心して生活が出来るのです。みんな本当に温かい方々ばかりです」と、シャヒ奈々恵さんから教えられたことばを実感したことだ。
それはどういうことなのか。
この国では日本と違い、知人や隣人を見かけたら誰もが決まって「ごはんは食べましたか?」などと声をかける。こどもが泣いたら、みんなで駆け寄って声をかける。「どうしたの」と。バイクで転んだら周りの人がササッ、と先を競って駆け寄り「大丈夫ですか」と言って集まってくる。知らぬ存ぜぬ、などといった態度は誰一人として取らない。だから。当然、街なかでのたれ死にする人なんかはいない。日本のように殺しや強盗などがしょっちゅう起こることも無い。
実際、カトマンズのアラン・ドロンだと陽一が命名したラルなどそのお手本だといっていい。道すがら知った人を見つけるとは、そのつど駆け寄って握手を交わし雑談を交わすので百メートル歩くのにも結構な時間がかかる。だからカトマンズの人々はこうして隣人を大切にして過ごしているということが痛いほど身にしみたのである。
それどころか、ラルの場合、こどもを見るとは抱きかかえ頭を撫で、手を握り、優しく語りかける。それこそ、日本なら、こんなニンゲン見たことない―ことがカトマンズでは常識である事実を知ったのである。やはり、日本の新聞記者の世界で言う現場百回か。現場を見たからこそ、陽一はカトマンズの真に光り輝くところを自らの目で見て現体験したのである。
「ですから、ここカトマンズでは、どんなにひもじくても食いはぐれることだけはありません。そういう人がいたら誰かが、いやみんなで助けます。どこかの国のように見て見ぬふりをする人なんて一人としていません。飢えで孤独死が発見されるなど、とんでもない。とても信じられません」「お金がない人がいたら、積極的に声をかけて助け合うのです」「みんな、助け合って生きているのですよ」
でも、そんな心の聖地・カトマンズとの別れの日がとうとうきた。きょうでお別れ、か。もうこの街の人々とは会えないかもしれない…。
秋が深まって。十月半ばともなれば、日本のお正月のように街中が大祭にわくという、ここカトマンズ。旅立ちを前に、いよいよ陽一の耳のなかの風音が高鳴り始めた。この目には見えない〝かぜ〟のひとひら、ヒトヒラ。それらが今となっては、この街を去る、自身の心を揺り動かす挽歌でもあり、ことのほか愛しく感じられるのである。
わずかな期間ではあった。
滞在中はヒマラヤ山麓をふきわたる、それこそ連山からの〝気〟に全身が染められ、少女の生き神さまであるクマリ、生け贄の女神・カーリーが住むダクシンカリにも歩を進め、自らがこの世のものではない、何者かに化身してゆく不思議な感覚にもとらわれた。自分は実は自分ではない、ことも知った。
あらためて陽一は思い切ってここカトマンズの地を踏んでつくづく良かったな、と思う。そして。いつの日か今一度、別の世でこの地を踏んでみたとき、地底から聴こえてくる音は一体どんなものだろうか、と思って見たりもした。いやいや、もしかしたら自分は既に別の見知らぬ国にきて居るのかもしれない。
陽一が苦しいとき、嬉しいときに決まってふく、あの愛用の日本の横笛。きっとこの大地の〝かぜ〟を切り、大気をしなわせて聴こえてくる、あの音と共鳴するに違いない。笛の音までが化身するのか。笛の音はあのネパール特有の、どこまでも透き通ったシンギングボールの響きとともにどこまでも調和し融け合って、やがては大気のなかを這いつくばる如くに消え入ってしまうのか。
陽一は離陸前のひとときをカトマンズ空港出発ロビーの椅子に座って待つうち、知らぬ間に寝入ってしまった。帰りの機中でもただ、ひたすらに眠り続け、飛行機を降り中部国際空港から名鉄特急に乗ってまもなく近くの席に息子と瓜二つ変わらない涼やかな目をした若者が自分に寄り添うようにしていることに気付いた。
「まさか」という思いからか。どちらも声こそかけなかったが、この若者はもしかしたらカトマンズで化身して私についてきたもう一人の私、すなわち化身なのだろうか。それとも、自ら虫に急襲され、私の帰りを心配した妻久恵が夫の最後の安全を見守らせるために放った「日本からの矢」なのか。それは分からない。ただ、不思議な思いにかられ最寄り駅が近づき目を開けたときには、その若者の姿は既に影も形もなくなっていた。
ラルの若いときも、きっとあのように涼やかな目だったにちがいない。
× ×
【補筆】満足感の一方で陽一は疲れ果て帰りの機内で眠り続けた。そこで見た夢のなかには陽一がこれまで執筆してはこなかった、もう一つのドラマがあった。ここにその断片を「カトマンズの恋」回想録として簡単なメモ書きとし、物語の終わりとしたい。
〈回想その1(カトマンズの日本人)〉テマリや奈々恵さんのようにネパールの男性と結婚したり、ほかの女性のように生涯独身を貫いて生きる日本人女性がほかにも数多い。なかにはシェルパだったネパール人男性との恋に陥りこの国に永住した女性や、日本大使館のスタッフの一員として頑張る女性もいる。
たとえばネパールの有名ホテルの日本食レストランオーナーでもあるマチコさんの場合。この国独特の風習など目の前に立ちはだかった壁にぶち当たった多くの日本人女性からそのつど相談を受けてアドバイスをしてきた。彼女はタイのバンコクや日本の京都などを転々としてきたが、今は日本食レストランオーナーとして日々、日本文化の啓もう、普及に貢献。皆さんから敬われ、かつ慕われている。
彼女はいつも、こう言ってアドバイスするという。「あなたはここに住めますか」「誰と一緒なら住めますか」と―
また鹿児島県徳之島出身のポカレル・本田・明美さんのネパール国際交流協会での活躍ぶりも見逃せない。今回、彼女はたまたま日本に帰国中でもあり、残念ながら擦れ違いとなり、お会いすることはかなわなかった。でも、ネパールで三人のお子さんを育て、現在は毎週月曜日にネパールのラジオ放送でNippon Chautari(ニッポンチョウタリ)を担当し、放送を通じて日本とネパールの友好の橋渡しに大いに尽くされている、との由。その努力は大変なものだ。
学校経営もされており、現地では〝カトマンズのおしん〟とも呼ばれているそうだ。なんとなく分かる気がする。ポカレル明美さんには、この先話をお聞きして、ほかに一本を立て紹介する価値も十分あると思っている。
このほか、「桃太郎」や「東京居酒屋」、「Kタウン」、「レストラン日本の味〈ふるさと〉」など。カトマンズには、日本人による日本料理店も多い。陽一は滞在中、Kタウンにハンケチを忘れてしまったが翌日、若主人の籠谷博樹さんがわざわざテマリの会社まで届けて下さってとても嬉しかった。
〈回想その2(家族の絆)〉ネパールの人々は大家族制のなかで暮らしており、親や兄弟、兄弟の子まで誕生日のつど、家族みんなが集まり嫁たちで和気あいあい料理をつくってみんなでお祝いをするのが一般的だ。自ずと家族の絆は強く、テマリたち日本人妻たちもそのつど兄弟の嫁たちと一緒になり、食事をこしらえることがしばしばある。
当然、家庭料理も手の込んだ栄養価の高いものばかりとなる。具体的には南瓜の葉っぱで作ったサーグ、豆腐とチーズのあいのこと言っていいパニュウル、トマト煮、豆のダルスープ、カリフラワー、水牛のカレー、ヤクのチーズ、チキンカレー、ほかにリンゴやマンゴーといった果物から漬物まで。ラッシーと呼ばれるヨーグルトもおいしい。
滞在中には、ラルさんの父の76歳の誕生日にも招かれたが、ネパールでは満77歳になると人間そのものが生き神さまになるとか、でなんだか、父君の笑顔を見ていると神さまが目の前に座っておいでになる。そんな気がした。それにしてもラルさんの母君の慈愛に満ちた眼差しといったらどうだ。これではテマリもラルを好きにならざるをえない。
〈回想その3(その他のこと)〉カトマンズは周りに海がないので台風はなく、そのせいか、商店街の店先は開店中ずっと開けっぴろげで、店主が入り口に座って客を待つ。災害は少ないが、1934年に起きたマグニチュード8・4のカトマンズ大地震では八万戸以上が倒壊し、八千人もの尊い命が奪われたという。
カトマンズでは、ヒンドゥー教と仏教の寺院が多く、両者が混然一体となっている。仏さまは元々、紀元前5、6世紀ごろネパールのルンビニで生まれ、その後インドのブッダガヤで悟りを開き、サールナーで初めて仏教の説教をした―というが、このあたりの史実と真相となると対立意見もあって謎に包まれたままで、はっきりはしていない。
カトマンズの街中では世界一周旅行の途次にヒマラヤトレッキングを一人楽しむ女性にも、たまたま入った東京居酒屋でお会いし、話が弾んだ。また、ネパール文学界を代表する詩人ビスマ・アプレッティさんとネパールペンクラブ会長ラム・クマール・パンディさんの二人とも詩や俳句の話で打ち解け、いっときを共にした。この時初めてネパールには二カ月に一度、年に六つの季節があることも知った。アプレッティさんは「海」という詩集を邦訳で出版するほどの親日家で知られ、ラム・クマール・パンディ会長もかつて日本を訪れたことがあり日本の俳句には四、五十年前から馴染み、これまでに五千句以上を創作した、との話には驚かされた。
〈回想その4(番外編)〉マグニチュード9・0の東日本大震災が発生したその年、日本人女性(長谷川裕子さん、アシュトス旅行社オーナー)を妻に持つニルマ二・ラル・シュレスタさん(アシュトス旅行社マネージングディレクター兼カトマンズ日本語学院教師/理事、ロータリークラブ会員など)は、カトマンズのロータリークラブ仲間や一般市民に呼びかけ義捐金集めに奔走し、日本の新聞社である中日(東京)新聞の社会事業団を通じ被災地に善意の多額寄金を送った。カトマンズ市民の間では今も「日本の被災者を助けよう」といった声が多い。ラル・シュレスタさんはじめ、ネパールの方々にはここで日本人を代表して改めて心から礼を申し上げたい。 (完)