特集『4000字小説』「大蛇」

 妻アカリの脳腫瘍摘出手術から一年以上が過ぎ、季節は容赦なく駆けてゆく。
 この間、ことしの三月十一日には東日本大震災という自然の猛威が日本社会を襲いもした。そんな中、私たちは元の平穏さを取り戻し、闘病時にアカリを何かと励ましてくれた神戸のカエデさんからの便りも、その後は途絶えたままだ。カエデさんの夫が何年か前に同じ脳腫瘍で亡くなり、アカリとは1行詩仲間だった。ただ、それだけのことでカエデさんは何かと、アカリを励ましもしてくれていた。
 こんなわけで、少しずつではあるがアカリの回復で日ごろの生活が落ち着きを取り戻したのも束の間、このところは自分自身の見えない闇の大気の中からトグロを巻く蛇のような何かが、無言の音をたてて盛んに私の心を突いてくる。それが何であるのか、おおよそ察しがつく。私自身の心が蛇のような形となって一種のけじめを迫ろうとしてきているのかもしれない。見えない蛇は、皮肉にも今度は龍のような大蛇となって、私の内部のこころの海に立ちふさがった。もはや、私を掻き乱すこの得体知れずの何かを、私はどうすることもできない。

 歩きながら、いつもからだの深奥から聞こえてくるのは、あ~あヤダ、イヤダだよ。なんでオレはこんなことを、いつまでも続けていなければならないのだ、いつまでこうして職場に向かわなければならないのか、といった自分自身に対する自虐の鐘のような、我侭な感情である。サラリーマンなぞ(それでも普通のそれとは違う、ちょっとヤンチャな新聞記者稼業ではあったが)、五年前に定年を節目にもう終わったはずではなかったのか。それが、世の常とはいえ、たとえどんなに請われようが、だ。いつまでもその延長線上でいたのでは自分という存在そのものが発揮できないまま、生殺しとなって時ばかりが過ぎ去っていってしまう。あ~あ、それなのに、なぜ。なぜ俺は、こうして歩いていかなければならないのか。
 このままでは、定年になってなお、新聞社という大企業の庇護のなかに生かされ、いわゆる寄らば、大樹ではないのか。これまでもさんざん批判ばかりをしてきた、官庁の天下りと同じで、ぬくぬくと過ごしている、と言われたところで仕方あるまい。私は一歩、歩みを進めるごとに自身に言い聞かせてみる。この生活からは一日も早く脱却しなければ、自身が納得できる小説など書けっこない。自分自身に厳しく、ハングリー精神でいなければ…。与えられたポストからは、断崖絶壁から飛び下りる気持ちで一日も早く去らなければ、新しい世界は巡ってはこないのだ。
 私の傍らには既に見えない大蛇のようなトグロを巻いたものが棲みついており、おまえはこのままではダメだ、こんなことでは普通のまま人生を終えることになるだけ、ではないか。おまえは、それでいいのか。それでは、おまえの目指す、自らが納得する書き手として、本懐を遂げたとまでは、とても言えない。これからなのだよ。おまえが真に目指すものは。と、そう語りかけてくる。
 あぁ、それなのに。未だに現役時代の延長ともいえる職場にしがみついているのだなんて。了見が狭すぎる。俺は、自分自身が何ヤツなのか、が分かってはいない。要はふつうの人間で、それも一新聞社の組織という虎の威を借りた、何ひとつ能力のない、たちの悪い欲深な男に過ぎない。世の中、俺みたいな、こうした意気地のない男ばかりなのだ。

 連日、三五度を超える夏の熱射線のなかを歩いていると、無言でいても大気が地表から泡立ち陽炎のように立ち上がって何かを問いかけてきそうな、そんな気配を感じる。“気”ばかりか、木とか、道とか、路傍の草とか、畑とか、川とか、石ころとか、人間の手で作られたコンクリート路面とか、そういったものまでが何かを語りかけてくる。
 私は、能登の七尾で地方記者生活をして居たころから愛用していた、長年着なれたよれよれの薄めの黒いカーディガンを、上半身に引っかけ、心身ともに暑い大気にさらしたまま、一方で心の秘部から見えない狼煙となって帯状に立ち上がってくる叫びのようなものを胸にかかえたまま、きょうもいつもの道を歩いてゆく。だったら、オマエはなぜ生きているのだ。なぜ、なぜなのだ。なぜ、それほどまで従順に歩いてゆくのか。そんなこと、やめちまえ。もっとやらなければならないことがあるだろう。
 だが一方では「それは、わがまま過ぎるというものだ。ニンゲン皆、そんなものなのだよ」と、こんどは蔦葛の如く全身にからみついた別の何かが、耳元に息を吹きかけるようにして話しかけてくる。能登でいつも傍らにいた愛猫・てまり、が居たなら、今の俺の心境をどう、思うだろう。真一文字に結んだ口でチョコンと目の前に座り、少しだけ首をかしげて、きっと分かってくれるに違いない。
 いまでは、亡きてまりと違って姿を見せない、もう一人のボクは、いつも私の傍らにいる。夏だというのに、真っ赤に染まった人間の手のような枯れ葉が力尽きて目の前で身を横たえている。その葉の上で見えないボクそのものでもある蛇が身をくねらせているのが、私にはよく分かる。肉眼では見えない、私の心の奥に棲むボクという大蛇が、何かを訴えかけるようにモソリと動いた。大蛇はもしかしたら、てまり、の化身かもしれない。
 大蛇が、てまりか。私は、ふと思う。今度はかつて共に過ごしたことのある、てまりが大蛇となり、こうしてわざと、目の前に横たわっているのだ、と化身が何やらぶつぶつと呟いている。
「オマエは確かに生きてはいる。でも、もはや犯人をどこまでも追いかけたり、災害や事件発生現場に派遣されたり、女たちによくモテたりしたときの、あの恍惚たる、ほれぼれした、精悍で、気迫があふれていたころの記者魂は消えてしまっているのでは。(いやいや、消えてなんかはいないよ)。人生の花は、とおの昔に終わってしまったのだよ。何をじたばたしているのだ」「みな、その歳になれば、男も女も容色も衰え、人生を半ばあきらめかけて、生きているじゃないか。それが分からないのか。もっと現実に素直になれよ。オマエの歳になり、もはや、どうなるってものでもあるまい。いまさら、何をしよう、てんだよ。今のままでいいじゃないか」
 私は、この言葉を聴きながら必死でイヤイヤをしてみる。人生、時が変われば誰だって変わるのだから。そんなにジタバタしなさんな、と誰かの声が大きく耳に迫った。それでもイヤダ、イヤダ、イヤなのだよ、を繰り返し絶叫する私と大蛇のボク。どちらも、もはや周囲に聴く耳を持つものが誰一人として居ない、ことを十分に承知している。

 私は、そんなもう一人のボクを胸の中に、この世のなかのその他大勢の一人となって、それでも何かに挑戦でもするような視線を空中に這わせたまま、腕を組んであるき続ける。こんどは正面をじっと見つめて、だ。そして、もはや夢も希望もない男が背中をうなだれ、トボトボと歩いていく姿とだぶらせてみる。自慢だったあふれるほどの黒髪が、いまや禿げあがった薄くて白い頭に成り変わっている。自分で自分を見るさまが、こんなに惨めだったとは、と大きくかぶりを振る。もう一人のボクが、今度は大蛇となってカマクビを持ち上げ、ひょろりと立ち上がったかと思うと、くしゃりと大地にへたりこんだ。
 私は私で、アカリの手術後、この一年以上の間、ずっと本当の自身を突き止めようと、私のなかから、ふと湧き出た言葉の数々を克明に記してきた。メモはノート三冊分を軽く超え、メモばかりが、どんどんドンドンと増えてゆく。ざあっと、こんな具合だ。
「私はいま、昔の町を歩いている。(考えてみれば、「今」は一瞬にして消えていく。だから俺たちは、いつだって過去をあるいていることになる)」「大気のなかで、こうして平々凡々と生きているのが物足りない」「この世には、見るだけで、パッと周りが明るくなる人物がいる」「私は、一体どこに向かっているのか。少なくとも、俺はまだ、自分自身のこれからの道に向かって、まだ舵を切ってはいない。上を向いて歩いていきたい」「こ・こ・ろが、ドンドン、ドンドンと職場から離れてゆく。こ・こ・ろだけが、トンネルの中で海に浮かんで立ち往生した船のように、取り残されている」「私は眠りのなかで、こんどは見慣れた海に向かって歩いていく」「『カエデさん、海に行こうよ』と。
 そう、一年前、病に倒れたアカリを、奇跡的に精神面から助けてくれたのは、ほかならぬカエデさんだった。彼女の存在は私たちの歴史の中で重要なというか、いや欠かせない。その彼女なら私を助けてくれるかもしれない。でも、私はこれまでカエデさんにお会いしたのは一度としてない。今では、こちらから連絡するのが返って怖い気がする」
 夢も、希望も、なくしたイッピキの男が背を丸め、きょうも、うつむき加減にトボトボ、とぼとぼと、見慣れた道を歩いている。老いさらばえた男、私のメモはそれでも続く。
「(寝言のようだ。私は突然、大きな声で叫んでいた。)ウサマ・ビンラディン! ビン・ラーディン! ところで、あなたは、二〇〇一年九月十一日に起きた米中枢同時多発テロの犯人に仕立てあげられているが、犯人なんかじゃない。いや、そうに、決まっている。知らないのは得体の知れない何かに躍らされた、程度の低いマスコミの連中ばかりだ。それはそうと、あなたは今、どこで、どうしているのか。会いたい。会いたい。会いたくてしかたがない(国際テロ組織・アルカイダの指導者、ウサマ・ビンラディンはことし五月初め、パキスタン北部・アボダバードの隠れ家に居たところを米軍特殊部隊の急襲作戦により殺害された。)」
「ヤダ、ヤダ。いけない、いきたくなんかない。(新聞社内にあるプロ野球のファンクラブ事務局スタッフの一員として働く)いまの俺なんて、一番自分らしくなんかは、ないのだ。本来の姿じゃない。これでは飼い殺しも同然だ。目指すものが何も書けないではないか。でも、十一万人にも及ぶファンクラブ会員が悪いわけではない。私の努力が足りないだけのことだ。彼らはいつもドラゴンズをこよなく愛してくれており、そこにはドラマがいっぱいある。公式ファンクラブのホームページにもアップされているコラム“ガブリの目”を読んでくれたまえ。」=ガブリは、公式ファンクラブのマスコットキャラクターでスタジオジブリの宮崎駿さんが現役時代の落合選手(現・ドラゴンズ監督)をモチーフにデザイン化。名前は「敵チームをがぶりと食べてしまう」との願いをこめ公募で決まった=
「だから(これまで私が書き続けてきた)“ガブリの目”を読んでもらえば、そんな俺の会員を思う心なぞ、一目瞭然のはずだ」
 自身との葛藤ともいえる、どうにもならないメモ書きはさらに延々と続く。
「見えない台風というヤツが遠く海上にいる。夥しい風たちが海上の大気を押し出してくる。こやつらも見えない放射能に汚染されてしまうのだろうか」「きょうの雲はいい。射す光りも、だ。射す光り、私の日陰部分をいつも明るく、その光りで照らしてくれている、それがアカリであり、カエデさんだ」「列車は、瀬戸大橋を駆け抜けてゆく。海の向こうには、青筋を立てた波が立っている。障子紙を青く塗っただけのような島々。列車の通過音だけが、ブーン、ゴットン、ブーン、ゴットン、と静かな唸り声となって聞こえてくる。青筋が立つ海には無言の白い波たちがひるむようにして佇んでいる(私は、アカリが退院してまもなく、カエデさんに会おうと神戸方面に出向いたが、結局は列車に乗っただけだった)」
「私の隣には、いつのまにかやってきた気品を漂わせた一人の中年女が、腕を組んだまま白い足を組んで座っている。何も言わない。と、突然、女の顔がみるみる変わっていった。これは、どうしたわけか。だんだんと若くなっていく。気がつくと女は少女のアカリに変わった。少女は私に向かって手を出して何かおねだりをしてくるではないか。近くには石の地蔵さんが立っている。大勢のこどもたちが、お地蔵さんに甘茶をかけるなどして、わいわいガヤガヤと、なんだか知らないが楽しそうだ。何をやっているのだ。この子たちは。子らはそんな私には目もくれず、日本の風景のなかにいた。」
 メモ書きは、それからもどんどん増えていった。

 私はいま、日本のこの地に立つ自分自身が、一体何者なのか、がよく分からない。おそらく全ての人間とて同じだろう。ただ、東日本大震災発生に伴う福島第1原発事故が起き、見えない放射能漏れと汚染が拡散し始めて以降は、日本中が電力不足からの節電モードに入り町の明かりをはじめ、電車の車内も、民間会社の室内や廊下、スーパー店内、イベント会場、路上に至るまで、どこもかしこも、社会全体がひと回り暗くなってしまった気がする。そうしたなかで世の中には、回帰の気配といったようなものが生まれ、どこか人間本来が探し求めていた昔の時代に帰っていくような、そんな感じさえするのである。
 私は相変わらず自問自答しながら町を歩いている。やめる。やめる。やめる…。やめなければ、道は開かない。私はひと足進むごとに自身に問いかける呪文の如くこのことを考え、「でも、もしかしたら、最後の土壇場になってドラゴンズのリーグ連覇と完全日本一に巡り会えるかもしれない。だから、今シーズン中は、務めさせていただこうか」。そんなことを考えながら、大いなる田舎の道を、きょうもまた新聞社に向かって歩いてゆく。とうとう終わりの日が、目の前にまで近づいてきている。私は、目の前に横たわる最後の信号の青を確かめたあと、横断歩道を渡った。もういいのだ。何も思い起こすことなどはない。
 最後の一日は、ドラファンのありのままの声をスポーツ新聞の会員紹介コーナーに一本、そして長い間書き続けてきたコラムも、もう一本書いて終えることにしよう。
              
  ×         ×
 平成二十三年の暮れーすべてを終えたその日。
 アカリの「もういいの。いいのだから。このままでいい」の言葉が腹の底から湧きあがり、私の両の目から、思わず涙があふれ出た。
 チリリン。チリリン。リ、リン。チリリン。チリリン。リ、リン……。どこからか、能登で共に過ごした愛猫・てまりの亡霊が、か細い鈴の音を鳴らしながら近づいてきた。
「オトンはそれなりによくやったよ。みんな拍手を送ってくれているよ。これからこそ、が勝負なのだから。天国からじっと見守っているから。ネッ、初志貫徹だよ。名もない作家でよいから。人の心をつかむ、いつの時代にも読まれる、いい小説を書き続けてよね」。
  翌朝、目が覚めると、てまりの声が届いたのか、彼女の後を引き継いだわが家の飼い猫でアカリに言わせればポーズ猫のこすも・ここ、そしておねだり上手のシロちゃんが、神妙な顔で枕元に座っており、私とアカリをしばらく見つめたあと観念したように立ち上がり、別の間に消えていった。

「まだまだ、オトンはこれからなの。てまり姉さん、そうだよね」。どこからか、そんな声が風に乗ってとんできた。と思うまもなく、胸のなかにいつも潜んでいた大蛇がフワリと、幻となってどこかに消え去った。ありがとう、ドラゴンズファン、そして多くのみなさま。
      (了)