小説「天の神様の言うとおり」中編

 バーケ達が去って、しばらく経ってからだった。
「ジ……ジジ……ジ……ジン君……?」
 後ろから声がした。ジンには、誰が声を掛けてきたのか、今度はすぐに分かった。
 いつも吃るしゃべり方だからだ。
 ジンはゆっくりと振り向いた。予想どうり、そこにはエリナ・サカシタが居た。
「エリナ……っ」
「……ど……ど……どど……どうしたの? こ……こんな所で……っ」
 エリナが、おどおどしながら聞いてくる。
「いや……っ」
 ジンが説明しようとした時だった。エリナの後ろから、金髪で、右耳にピアスをした少年が、出てきた。
「何こいつ。知り合い?」
 少年が、エリナに聞いた。エリナは少年が怖いのか、さらにおどおどしだした。
「え……っえと……その……っこ……この人は……私と同じ神見習いで……っジ……ジン君って言うの……っ」
 エリナの答えに、少年は、ふーんとだけ言った。
「ジ……ジ……ジ……ジン君……この子は……っその……私の……試験対象の……天枷春樹君で……す」
 エリナは、春樹の機嫌を窺いながら、ジンに紹介する。
「初めまして」
 そう言って、ジンは春樹に右手を差し出し、握手を求めたが、その手は無惨にも、振り払われた。
 ジンは少し怒りを覚えたが、必死に平静を装った。
「……エリナ……。俺、こいつ嫌い」
 春樹は、そう言ってから、学校とは、反対の方面を見て、どこかへ行こうとしていた。
「え……っちょ……っちょ……っとは……春樹君!? ど……ど……どこ行くんですかっ……が……がが……学校は!?」
「ふけるんだよ。もう、行く気無くした」
 必死で止めようとするエリナに、春樹はうんざりした様子で、溜め息を吐いた。
「ダ……ダダ……ダ……ダメですよ! は……春……っ」
 そう言って、エリナが春樹の腕を掴もうとしたが、春樹がそれを許すはずも無く、伸ばした手は、鈍い音を立てた。
「お前、うぜぇ」
 春樹の何気ない一言で、エリナは負けじと、もう一度伸ばした手を、引っ込めた。
「あ……」
 春樹の目は、エリナを睨んでいた。
 エリナは怯んだ。春樹が怖かったのだ。
「……春樹君」
「あ……?」
 今まで黙っていたジンが、呼びかけに振り向いた春樹の顔を、突然平手打ちした。
「……っな」
 春樹は即座に、ジンを睨んだ。
 エリナは慌てて、春樹の肩を掴んだ。
「あ……っあの……っジ……ジジ……ジン君、は……春樹君も……っお……おち……っ落ち着いて……下ささ……い」
「ホントはグーで殴りたかったけど……平手打ちで勘弁してやる……今の言葉、取り消せ」
「はぁ!? 何で?」
 春樹は眉をひそめた。
「今の言葉で、エリナが傷付いたから。……何より、俺自身が、すっげぇムカついたからだ」
 ジンの言葉に、エリナが、自分の胸に、先程から少し感じていた痛みに気付いた。
「?うぜぇ?って言葉はな、人に向かって言う言葉じゃない。自分に言う言葉だ」
 ジンは、すごい形相で、春樹を睨んでいた。
 春樹は目を逸らせなかった。
 ジンはただならぬ空気をかもし出していたのだ。
 取り消さないと本当に、平手打ちじゃ済まないかもと、春樹は思った。
「わ……っ分かった、分かったよ、取り消しゃいーんだろ、取り消す、取り消すから」
 ジンは、春樹のその言葉を聞くと、睨んでいた目を、今度は優しく見つめた。
 春樹は、ほっと胸を撫で下ろした。
「悪い、エリナ。試験対象に手ぇ出しちまって」
 ジンは、エリナに、両手を合わせて謝った。
 エリナは春樹の肩から手を離し、ジンに向かって、笑顔を見せる。
「な……な……何か、少し……変わった……ね」
「……え?」
 エリナの言葉に、ジンは少し、首を傾げた。
「ジ……ジン君……前は……もっと、人のことには……む……無関心って……か……感じ……だったのに。の……のんびりしてた……と言うか……何て言うか……そ……その。さっきは、びっくりし……した」
 ジンは、目を丸くした。
 エリナも、ジンのことを、見ていてくれたのだ。
 カイルと、ジーナみたいに、自分のことを、存在を、認めてくれていたのだ。
 ジンは、そのことがすごく嬉しく思えた。
「……そうだ、エリナ! お前、俺を、人間から見えなくすること、出来るか? 学校が終わるまでで良いんだ」
「え……い……いい……良いけど……私の……し……神力が持つか……わ……分からないけど……」
「あ……それは多分、大丈夫。術を掛けてくれるだけで良いんだ。もしばれた時は……言い訳でもして逃げ出してくる」
 ジンは少なからず、やる気に満ちていた。
 それはとても珍しいことだったが、ジンは、紗絵のことを考えていたのだ。
 ジンは思った。
 紗絵のような女の子は、死んではいけないと。
 自分の方が、風邪を引きそうなのに、マフラーを、気を使って、巻いてくれた紗絵。
 ちょっと……心配なんだよな……。
 エリナは、ジンに言われた通りに、人間に見えなくする、神術を掛けた。
 掛けた後、エリナは、ジンの額に押し付けていた右の手の平を、ゆっくりと離した。
 その光景を見ていた春樹は、驚いていた。
 本当に、さっきまで見えていた男……ジンが、消えていたのだ。春樹は目を、ぱちくりさせた。
「は……!? マジで消えた……っすげぇ。神見習いとか、やっぱマジ話だったわけ!?」
 春樹が、エリナの肩を掴んで、揺さぶった。
 エリナはあわあわ言いながら、小さく頷いた。

 ジンは、エリナにお礼を言うと、颯爽と走り出した。
「紗絵ちゃんは、どこだ?」
 ジンは校内に入り、紗絵の姿を探す。
 その頃、丁度、お昼休み中だったらしく、廊下には生徒がたくさん居たが、ジンの姿は、誰にも見られない。ジンはそれが嬉しくて、少し笑った。
 ジンが、誰かとぶつかっても、相手には誰とぶつかったのかが分からないのだ。
 ジンが、三階……四階の階段を登ろうとした時だった。
 女生徒が何人か、よってたかって、一人の女の子を、いじめているように思えた。
 ジンは、その女の子に、見覚えがあった。
 そして、その女の子の後ろには、あのバーケ・ポルラドが居た。
「バーケ……!? じゃあ、あの子はさっきの」
 バーケは、ジンの姿に、気付いていないようだった。
 何をするでもなく、バーケはあのちっちゃくて暗い女の子の後ろで、ぼやいていた。
 バーケも、姿を消しているようだ。
 ジンは、階段を登ろうとして、思いとどまった。
 バーケのことだ、ジンが行ったら、また何を言われるか、何をするか分からない。
 それにあの場は、バーケがどうするのか、ジンはライバルとして、見守らなければならないような、そんな気がするのだ。
 ジンがそんなことを思っていると、女生徒達の声のボリュームが、次第に大きくなっていく。
「ねぇ、だから、どこ行くのって聞いてんの! 答えなよ! は!? 聞こえねっつの。何? ノート? お前字汚いよな!」
 馬鹿にしたような笑い声。
 小さくて聞こえない少女の声。
 何もしないバーケ・ポルラド……。
 ジンの心も、次第に不安定になっていく。
 世界が、色あせる瞬間。
 落書きだらけの、ひどい言葉が連なった、恐らく少女のものと思われる、A4ノートが、ジンのところまで降ってくる。
 ジンは、それから目を離した。
 見たくなかった。忌まわしい、人間の記憶。
 そうして、しばらく、ジンは一部始終を見ていた。
 そう、少女が、女生徒達に、階段から突き落とされそうになる、まさにその時まで。
 ジンは一瞬、何が起きたのか、分からなかった。
 モップが降ってきた。
 少女が……嫌、違う、紗絵が落ちてくる。
「紗絵ーー!」
 ジンには、全てがスローモーションのように見えた。
 キバが紗絵の頭の上で、空に浮きながら、手足をバタつかせている。
(……っ! ジン!)
 キバがジンに気付いて、助け舟を出してくれとでも言いたげな目をする。
 何であの少女じゃなく、紗絵が落ちているのか、今はそんなことはどうでも良かった。
 助ける……っ
 ジンはそう思い、紗絵を力一杯受け止めた。
 と、ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
「い……たたた……って、あれ……ジンさん……?」
 紗絵は、無傷で起き上がると、ジンを見下ろしていた。
「何でここに……って……大丈夫ですか!?」
 ジンは放心していた。
 紗絵の目には、ジンが映っていた。
 そう、ジンに掛かっていた、人間に見えなくなる神術が、解けていたのだ。
「な……っあれ誰!?」
「さぁ……怪しい人じゃないの?」
「あたし先生呼んでくる」
「え……っちょと!」
 そう言って、去っていこうとした女生徒達を、キバは見逃さなかった。
 空中で即座に、彼女達に神術をかける。
(てめぇら。俺の声が聞こえるか?)
 それは、テレパシーのようなものだった。キバは、彼女達の心に、話しかけたのだ。
「い……っ今の何!? 何か聞こえなかった?」
 一人が、もう一人に聞く。
「うん。聞こえた! 何なのこれ……気持ち悪い」
「ああんた! なんかしたの!?」
 少女が、暗い女の子に向かって怒鳴る。
 女の子は必死で首を振る。
「気味が悪い」
(まぁそう、がなるなっての。お前らは何だ? あの子が嫌いか?)
「もう! しゃべんじゃねぇ!」
 女生徒の一人が、自分の胸の辺りを押さえる。
(嫌いか?)
「ああ! 嫌いだよ!」
「あたしは……そういうわけじゃ」
「あ……あたしも」
 二人の女生徒が、否定する。
「お前ら! 今何て!」
 信じられないことを聞いたらしい一人の女生徒が、他の生徒に掴みかかる。
「だ……っだって……。あたし達……あなたに脅されて……ねぇ」
 掴みかかられた生徒は、もう一人に同意を求め、その子も同意した。
「そうだよ。あたし達……別にその子が嫌いなわけじゃないし……」
「裏切る気!?」
「別に……そういうわけでもないけどさ」
「確かに……時々うざいけどさ……めちゃくちゃ嫌いってわけじゃ」
(どうやら、お前が親玉のようだな)
 キバが、一人の女の子にめぼしをつけたらしい。不適に笑う。
(こんなことでしか自分を出せないなんて……お前、寂しい奴だな。寂しくて寂しくて、あの子みたいに甘やかされて育った、気の弱い奴が、むかつくんだろ。大嫌いなんだろ。いい加減認めちまえよ。一人じゃ度胸が無いくせに。強がって、強がって、強がって。それで自我を保とうとしてたんだろ)
「煩い……」
 少女は呟く。
(哀れだよ。醜いよ。八つ当たりは最低だよ?)
「煩い煩い煩い煩い、うるさーい!」
 少女は叫ぶと、他二人の女生徒の腕を掴んで、突然歩き出した。
「行くよ! あの怪しい男、先生に言いつけなきゃ!」
「え!? ちょっと!」
「うえぇ」
 キバは、少女の後姿を見ながら、もう一度不適に笑った。
 その場にいた紗絵達は、何が起こったのか全く分からない。
 少女達の行動を、ただただ、不思議に思うしか、無かった。

女生徒達は、どこかへ行ってしまったが、あの少女は、バーケと共に、その場に立ち尽くしていた。
「ジンさん……!?」
「……っバーケ!」
ジンは起き上がった。
 紗絵を後ろに隠れさせ、キバを頭の上に乗せたジンは、階段の上のバーケを、睨みつけた。
「ちょっと、ジンさん!? 白上さん以外に、そこに誰か居るの?」
「バーケ・ポルラド! やりにくいから、姿を見せろ! こいつは俺の試験対象だ!」
 ジンにそう言われたバーケは、しばらくして、紗絵の目に映った。
「! ジンさん……ってことは、白上さんがあの人の試験対象なの……!?」
 紗絵が、驚きの声を上げる。
(……白上彩子、紗絵のクラスメイトか。……ったくよぉ、紗絵、いきなり走り出すなよ。落ちるかと思ったぞ)
「……っごめん、居ること忘れてた」
 キバは溜め息を吐き、紗絵は苦笑い。
 どうやら紗絵は、通りがかった所を、彩子を助けるために、走ってきたらしい。
 そして、自分が身代わりに、階段から落ちたのだ。
 彩子は、床に膝を突いた。
「……で……」
 彩子は、震えていた。
「……私の……せい……で……」
 必死に声を、絞り出そうとしているようだった。
 バーケは無言で、彩子を抱き上げる。
 いわゆる、お姫様抱っこをしたまま、バーケは階段を、舞い降りた。
 バーケは、ジンの目の前に来ると、ゆっくりと彩子を、床に降ろした。
「ごめ……なさい……」
 彩子は震えた声で、紗絵に謝る。
 そんな彩子に、紗絵は、優しく微笑み、そして優しく大丈夫と、声を掛けた。
「これは、あたしが勝手にやったことだもの。それより、また何かあったら、あたしに言ってね、助けてあげる」
 紗絵の言葉に、嬉しく思った彩子は、あんどの表情を見せようとしたが、それはすぐに消えた。
「甘やかすな」
 バーケの一言で、その場の空気は一瞬、凍りついた。
「これだから、人間は嫌いだ。そんな甘いことばかり言って、自分は味方だと信じ込ませて、結局は裏切るんだ」
「はぁ!? 何であたしがそんなことしなくちゃいけないんですか!?」
 紗絵が、眉をひそめて、バーケに怒鳴る。
「あたしはただ! 純粋に!」
「うるさい。そんなものは、綺麗ごとだ。」
 冷静沈着なバーケは、淡々と言った。
「バーケ……お前……。何でさっき、何もしなかったんだ」
 ジンは、ずっと気になっていた。
 先程のバーケの行動に、疑問を抱いていたのだ。
「助けようと思えば、助けられたはずだろ、それは、自分が出来なかったことに対する、僻みじゃねーのか?」
 ジンが、バーケを真っ直ぐに見つめる。
 バーケは、ジンから目を逸らせなかった。
「違うな。俺は、何もしなかったわけではない。俺は、見ていただけだ」
「見ていた……って、だから何で!」
 ジンは、さらに深く聞き出そうとした。
「本人が頑張ることだから。何も言えない。言わない、こいつ自身が悪いんだ」
「は!?」
 バーケの言葉に、ジンは激しく嫌悪感を抱いていた。
 それはキバも、紗絵も同様で、ただ彩子は、俯いてしまい、何も言わない。
「反撃でも何でもすれば良かったのさ。自分で。俺はそういうことで手助けなんかしてやらない。それが俺のやり方だ。最初から諦めて何もしない奴は、出来ないんじゃなくて、やらないんだ。逃げてるだけなんだよ」
 ジンは、バーケの言うことにも、一理あると感じたが、それでも、その言い方が気に入らなかった。
「大体……お前は人のことが言えるのか? お前だって、ずっと下から見てただけじゃないか。お前も逃げたんだろ」
 紗絵が、ジンを見た。
 それは本当かと、問いている目だった。
「違う! あれは、バーケの試験だったから……っ」
「言い訳か。見苦しい」
「……バーケ……。お前、今……何考えてる……」
 ジンは、腕を震わせた。
「別に何も?」
 バーケの含み笑いと、その言葉に、ついに我慢しきれなくなったジンは、バーケの左頬を殴った。ジンは、思いっきり殴ったのだが、バーケは平然としている。
「あれー? 痛くないよ? 馬鹿だなお前、普通に殴ったって、痛みは感じないって、知ってんだろ?」
「俺がすっきりしたんだから、別にいいだろ」
 バーケの頬は、赤くはならず、痛みも感じなかった。
 ジンの拳は、握られたままで、とても満足しているとは思えない。
 紗絵と彩子は、怯えながら、一部始終を見ていた。キバは、呆れているようだ。
 神見習いになって得したことと言えば、ジンにとっては、殴られても、痛くない、血が流れないことだった。
 神見習いは、いわば死人の魂を、特別な器に移しただけのもの。痛みや体温を、感じるはずがないのだ。
 ジンとバーケは、それからしばらく、睨みあっていた。

 四階へ登る、階段のすぐ下の廊下。お昼休み中だというのに、嘘のように誰の声も聞こえてこない。誰かが来る気配も無い。
 そんな状況下に、四人と一頭。
 先程の女生徒達が、先生を連れて来る気配もしない。どうやらそのまま逃げたようだ。
 睨みあっているバーケとジンを、紗絵と彩子は二人とも、どんなに頑張っても、それを止めさせることは出来ないと、思っていた。
 バーケの口が動く。
「お前、神見習いにダメージを与える方法、知ってるか? こうするんだよ」
 そう言った後、バーケの右手が、何かを引くような動きをした。
 次の瞬間、ジンの体に、激痛が走った。
「う……っ」
 ジンが、呻き声を上げた。
「ジンさん……!? どうしたの?」
 紗絵が心配して、ジンの腕に触れようとする。
(触るな!)
 いつの間にか、紗絵の頭の上に乗っていたキバが、驚愕な顔をして、叫んだ。
 紗絵はその声に驚いて、手を引っ込める。
(……バーケと言ったか……。貴様……もしや、その神術……古文書を読んだのか!?)
 紗絵にも、彩子にも見えない、ジンの体に巻きついた、極細の白い糸のようなものを、キバの瑠璃色の瞳は、しっかりと捉えていた。
(攻撃系の神術は禁術で、それは古文書にしか載っていないはず……っまさか……っ十年前に、突然噴出した古文書は……っまさか……っ)
 キバが、何故だか震えているのを、紗絵は頭の上の小さな振動で、感じ取った。
「キバ……?」
 心配そうに、目玉を上げる紗絵。
「そう言えば……」
 バーケが、おもむろに話し出す。
「確か古文書は……龍神見習いが厳重に、監視なんかつけて、保管してたなぁ……。間抜けな監視龍神見習いだったよ」
 バーケは、浅く含み笑いをした。
 キバは小さく、顔を歪ませる。
 バーケは、さらに話を続けた。
「龍神見習いの中でも、優秀だったみたいだが……大したことなかったよ。だってさぁ……少量の睡眠草を焼いて、煙を嗅がせただけで、まさか爆睡するとは……あの龍、あの後どうなったかなぁ。きっと、たっぷり叱られたんだろうね。龍神様に」
 バーケはわざとらしく、キバの方を見た。
 キバは目を逸らして、平常心を保とうとしていたが、動揺は隠し切れない。
「バーケ……っ黙れバーケ……っ」
 ジンが、苦々しい声を出した。
 そこに居た、誰もが気付いていた。
 バーケの言う、龍神見習いが、キバだということを。
「……を……おちょくって……っ楽しいか……っお前……最低だよ……」
 ジンは、体を抉るような痛みを、必死に堪えながら、バーケを睨んでいた。
「黙るのは、お前の方だ」
 そう言うとバーケは、右手拳に、さらに力を入れる。
 さらなる激痛が、ジンを襲う。
「く……っああ!」
「ジンさん!!」
 呻くジンを、心配する紗絵。だが触るなと言われては、何も出来ない。
 悔しくて、涙が出そうになる。
「止めて……っバーケさん!」
 紗絵の言葉を、バーケは聞き入れなかった。
「知っているか、ジン。何故、攻撃系の神術が、禁術になっているか。何故、その禁術の書かれた古文書が、龍神見習いによって、保管されていたのか。……答えは全て、古文書に書かれていたよ」
 彩子は、ずっと体の震えが、止まらなかった。
 今、目の前のこの光景が、恐ろしく思えた。
「昔々、まだ人間が、地球が生まれる前、神見習い達は、存在していた。そして、地球を創造しようとして、誰が、何の神様になるかで、揉めていたんだ」
 バーケは、ジンの呻き声に構わず、話を続ける。
「それは、次第にとても醜い、争いになっていった。……そこで彼らは、攻撃するすべを編み出した。物を創造する力は、時に凶器になる。……だが、最後に残った者は、今までの自分達の行動に、絶望したそうだ。そして、攻撃系の神術は、全て禁術として、二度と使うことの無いように、古文書に書き記し、龍神見習いに、それを守らせた」
 ジンが、痛みの中、ゆっくりと口を開く。
「お……前……みたいな奴に……悪用されないため……にか」
 ジンは、紗絵が言っていたことを、思い出していた。
『ジンさんて……全然神様って感じがしないし……何か、普通の人みたい』
 今思えば、神見習いとは、自分達が思っているよりずっと、人間に近い存在なのかもしれないな。
 ジンは、溜め息混じりの笑顔を、バーケに見せる。
「……何だ、その顔は……っ」
「……バーケ……っお前、一体何が目的なんだ……? ……そこまでして……何がしたいんだ……?」
 バーケを挑発するかのような、ジンの笑み。
 バーケは、苛立ちを隠せない。
「いいだろう、教えてやるよ!」
 そう言うと、バーケは、右手の拳を、勢いよく、前方に突き出す。
 それと同時に、ジンの体は、後方の壁に叩きつけられ、全身を殴打した。
 ジンの後方に隠れるようにして立っていた紗絵は、巻き込まれる寸前で、倒れ込むように、横へ避けた。
「キャアァァ!」
 叫ぶ紗絵。避ける瞬間、体が軽く感じたので、キバが助けてくれたのだと、紗絵は思った。
「がはっ」
 ジンは、体の中から何かを出しそうな程の痛みに、気を失いかけた。
 彩子は、歯を食いしばって、眉をひそめた。
「俺はな、どうしても、天の神になりたいんだよ。こんな姑息な真似をしてでも……っ分かってるよ、こんなことして、ただじゃ済まないことぐらい……だが……」
 ジンは何とか、バーケを見つめた。
 視界が少し、ぼやけていた。
「もう後には引けない。俺はこの世の全てを憎んでる。この、不条理な世界を、一新する。そのために……っ俺は天の神になる……!」
 バーケは、強い目をした。
 まるで、固い決心をしたような、その強い目を、ジンは、しっかりと見ていた。
「一……新……?」
 ジンは、呟く。
「そうだ。世界の一新を、俺は望む。正直言って、今の天の神のやり方には、納得が行かない。この腐った世の中を直すなど、不可能だ。今のままのやり方で、この先、何百年、何千年……ふざけた話だ」
 バーケが不気味に笑うと、キバがとうとう、口を開いた。
(貴様……っ言わせておけば……っ天の神様を悪く言うな!!)
 キバはそのまま、バーケの所まで飛んで行き、思い切り、炎を口から吐き出した。
 するとバーケは、その炎を、左手で掴んだ。
 しばらくすると、キバの炎を掴んだ、その左手の隙間から、煙が昇っていった。
(な……っ)
 キバが、驚きの声を上げる。
 バーケは左手を広げた。
「古文書に書かれてたのが、攻撃系の神術だけだと思うか?」
 バーケは広げた左手で、キバの額に、人差し指を向けた。
 キバは、何かされると思い、目を瞑った。
「キバにまで、何かするつもりなんですか!?」
 紗絵はそう言うと、キバの小さな体を、自分の方に引き寄せる。
 キバが目を開けると、紗絵の顔が、頭上にあった。
(紗絵……っ)
「……紗絵ちゃん……っ」
 紗絵はバーケを、睨みつけていた。

 バーケは、行き場の無くした左手を、降ろした。
「……何故、邪魔をする」
 紗絵の腕に拘束されているキバは、必死で、その腕から逃れようとしているが、紗絵は腕の力を抜こうとしない。
(……っこら紗絵! 離せ! 止めろ!)
 キバの叫びを、紗絵は聞こうとしなかった。
「ジンさんを離して下さい」
 紗絵は、どうにかして、ジンを助けたいと思っていた。
 だから一歩も引かなかった。
「質問に答えろ」
「誰にも、何もしないで欲しいんです」
(紗絵! そいつには、何言っても無駄だ!)
 キバは、紗絵の腕の中でもがきながら、叫んだ。
(そいつは俺達の大事な古文書を盗んで、悪用して、その上、天の神様を愚弄しやがった! 俺がこんなちっこい姿なのも、全部そいつのせいなんだ! 許さねぇ! 許されるはずねぇんだ!)
 キバは、バーケを睨んだ。
 バーケはキバに、冷たい眼差しを向けた。
(……天の神様はな……優しいお方なんだ。十年前……古文書が盗まれて、俺が龍神様に咎められて、消滅させられそうになった時、あの方は、俺を助けて下さった。そのおかげで、俺は消える代わりに、こんな姿にさせられたが、消えずに済んだこと……ものすごく感謝してるんだ。だから俺は絶対……っお前を許さない!)
 紗絵は、キバを見た。
 その瑠璃色の瞳は、真っ直ぐにバーケを捉えていた。
「……だから甘いんだよ、それが」
 バーケが、小さく呟いた。
「天の神が、今していることは、全部無駄だ。すぐ無駄になる……俺が世界を造り返る……最高の世界を造るんだよ」
 バーケは不気味に笑う。
 その笑い声を制したのは、紗絵だった。
「……あなたは……あなたは何も分かってないんですね」
 紗絵は、真っ直ぐにバーケを見つめた。
「……何……?」
 バーケも、紗絵の方を見る。
「確かに、一度全て壊して、また一から作り直すのは簡単です。……けど……苦労してでも、傷付いたものを、一つ一つ直して行くことは、とても素敵なことだと思うんです」
 ジンは、紗絵のその言葉に、不思議な気持ちを感じた。
「直した所を……また直さないといけなくなるかもしれない……そんな面倒くさいことをいちいち……って思うかも知れないですけど……でも……それをあえて選んだ、その、天の神様はきっと……最初に造ったその世界を……きっと愛していたから……愛していたから、壊せなかったんだと……あたしは思います」
 それは紗絵の、真っ直ぐな意見だった。
「……愛……だと……?」
 バーケは少し震えながら、左手を、紗絵の目線まで上げた。
「そんなもの……っ知ったことか……!!」
 バーケの左手が、広げられる瞬間だった。
(……っ紗絵!)
 キバと彩子は、目を見開いた。
「止めろバーケ!!」
 ジンが叫んだ。同時に拳に力を入れて、力一杯、呪縛から逃れようとする。
「ぐああ~~!!」
 ただならぬ激痛に、奇声を上げる。
 バーケは、ジンの奇声に、思わずそっちに気を取られた。
「無駄なことを!」
 バーケはジンの行動を、鼻で笑った。
「無駄なことなんて……っ無い……っこの世に無駄なことなんて……っ一つも無い……っ無駄にしなきゃ良いだけだあ!」
 次の瞬間、キバとバーケは、信じられないものを見た。
 ジンの体に巻きついていた白い糸が、床に落ちて、次々と消えていくではないか。
「……っそんな……っまさか!」
 バーケは、うろたえた。そして頭を抱えた。
 自分の術には、絶対に破られないという自信があったのだ。
「ジンさん……っ大丈夫!?」
 痛みから解放されて、よろけたジンに、紗絵は駆け寄った。
 キバは、やっと紗絵から解放され、ジンの頭の上に乗る。
 ジンは、何とか立ち上がると、バーケに向かって言い放った。
「……お前は、天の神様になるべきじゃない」
 バーケの中で、何かが壊れる音がした。

「うおおお~~~!!」
 バーケの叫び声は、三階の廊下に、響き渡った。
 床に膝を突いたバーケは、自分の両手を見て、さらに驚愕した。
 指先から、何か黒いものが、自分の体を、侵食していくのだ。
「……何だ……何だこれは……っ」
 バーケの全身が、震えていた。
「おい……っ大丈夫か!?」
 ジンが、バーケの肩に触れようとする。
(待て、触るな!)
 キバの静止が掛かる。
「一体……っ俺は、どうなるんだ……? 嫌だ……消えるのは嫌だ……っ」
(……闇だ……っこいつの心の中にあった闇が、とうとう、こいつ自身を飲み込み始めたんだ……こうなるともう……っ誰にも、止められない……っ)
「そんな……っ」
 バーケの体はもう、左半分が、闇に包まれていた。
 バーケは、ジンを見つめた。
「お願いだ……助けて……くれ……っ」
「バーケ……っ」
(無理だ……っジン、お前まで飲まれるぞ……っ)
 ジンも、キバも、紗絵も彩子も、バーケが闇に飲まれていくのを、ただ見ているしかなかった。
 バーケは、全身が闇に飲まれる、最後の瞬間まで、ジンに助けを求めていたが、やがて闇と共に、バーケの姿は、消えていった。
「バー……ケ……っ」
 ジンは、ショックで、放心していた。
(仕方ない……あいつの闇は、もう限界まできていたんだろうよ。そして溢れ出した)
「……闇に飲まれて……その後は……どうなるんだ……?」
 ジンは、俯いていて、表情が見えない。
(分からん……ただ……もしかしたら二度と……)
「その先を言うな!」
(……っ)
 キバは分からなかった。
 ジンが気を落としている理由が。
(自分が聞いたんだろう)
 キバは少し、機嫌を損ねたみたいだった。
「……あの……さ……助けられないの……? 助けてあげなくて良いの……!?」
 紗絵は、ジンに問いた。
 だが、ジンは何も答えない。
 代わりにキバが、首を横に振った。
(例え助けられたとしても、俺は気が乗らないな。あんな奴……自業自得なんだよ)
「……っちょっとキバ!」
 紗絵が、キバに掴みかかろうとした時だった。
 今まで、黙りこくっていた彩子が、呟くように言った。
「……助けて……助けて……あげて下さい」
 彩子の、意外な言葉に、目をぱちくりさせる、紗絵とキバ。ジンは俯いたまま、少し反応しただけだった。
「もし……可能性が、一%でも……あるんだったら……あの人を……助けてあげて……欲しいんです……お願い……します……」
 彩子はゆっくりと、頭を下げた。
(……何で……? 何であんな奴、助けたいわけ? 彩子も、紗絵も……)
 キバは、呆れた顔をした。
「あたしは……ただのお人よしかもしんない……」
 紗絵は、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
(神経図太いんじゃねーの?)
「何ー!?」
 紗絵が再びキバに掴みかかる。
「私……っあの人は、私と似てると……思うんです!」
 彩子が少し大きな声を出したので、紗絵は驚いて、動きを止める。
「……似てる……?」
 ジンが、彩子の方を見る。
「……はい……。あの人も……きっと、思ったことを……上手く口に出して……言えないんです……。私は……話すのが苦手で……上手く言えないけど……あの人はきっと……ああいう言い方しか……出来ない人なんだと……思います」
 しばらくの沈黙の後、キバが、ジンの頭の上から、階段の手すりに飛び移る。
(……ったく、仕方ねぇな……。協力してやるよ)
 キバが、呆れたように、溜め息を吐く。
「……どの道、あいつを助けられるのは、俺と、お前だけだ。……ジン、あとはお前次第だ……。お前は、どうしたい……?」
 キバは、真っ直ぐにジンを見つめる。
「はっきり言って……あいつは昔から、あんなだし……。ただ今回は……やり過ぎだ……。それが、あいつの中にあった闇のせいだとしたら……」
 ジンは、キバの瑠璃色の瞳を、見返した。
「俺は……バーケを助ける!」
 それは、固い決意の目だった。
 キバはその目を見て、呟く。
(まったく……同じ目をしやがるんだから……)
「え?」
(何でもねぇよ)
 キバは、溜め息を吐いた。
 溜め息ばっかだな……と思いながら、キバは自分の考えを、話し出した。
(彩子が、あの野郎と自分が似てると感じるってことは、天の神様が試験対象として並んだのは、それが理由なんじゃないかって、思うんだが……。もし……そうだとして……彩子の闇と、あの野郎の闇は繋がっていると考えても……良い)
「それじゃぁ……っ」
 紗絵の目が、輝いた。
 キバは頷く。
(彩子の闇からなら……あいつの闇に入れる。……入ってからどうするかは……ジン。お前に掛かってる)
「……って、俺!?」
 ジンが、驚きの声を上げる。
(俺は正直言って、あいつが嫌いだ。……それに……お前しか居ないだろう……あいつを……連れ戻して来れる奴は……)
 キバは断言した。紗絵と彩子も、キバの意見に同意する。
 ジンは少し、困惑しているようだったが、唾を飲み込み、少し落ち着いてから、頷いた。
「……でも、どうやって彩子ちゃんの闇に入るんだ?」
(俺に任せろ)
 そう言って、キバは彩子の目の前に、ジンを立たせた。
(あ……でも、もしかしたら……)
「え?」
 キバの呟きに、一斉に三人の視線が、動いた。
(あ……いや……何でもねぇ、何でもねぇ)
 三人の視線に、必死で誤魔化すキバ。
(じゅ……っ準備は良いか? 二人とも)
 ジンと彩子は、軽く頷いた。
 キバは、階段の手すりに乗ったまま、両手を思い切り叩いた。
 何かの呪文を唱えると、ジンと彩子の周りの床が光り出し、円陣になった。
 小さな風が舞踊り、彩子の少し長いスカートと、切り揃えられた漆黒の髪が揺れる。
 紗絵はもう、何を見ても驚かなかった。
 ただただ、この光景を、綺麗なものとして、見ていた。
 キバが再び両手を叩くと、光の円陣と、ジンの姿が消える。
 代わりに小さな光の粒が舞う。
 どうやら成功したらしい。
 と、次の瞬間、彩子が力なく倒れる。慌てて紗絵が抱き止めるが、意識が無い。
「ちょっと……っ白上さん!? 白上さん、大丈夫!?」
 紗絵が彩子の頬を軽く叩く。
 しばらくして、昼休み終了のチャイムが鳴った。
 彩子の意識は、戻らない。
(……やっぱりか……)
 キバの溜め息に、顔を上げる紗絵。
「え?」
 見ると、彩子の肩に、キバが乗っていた。
「やっぱりって……どういうこと?」
 紗絵が、首を傾げる。
(……さっき言いかけたことだよ。もしかしたら、彩子の意識も、一緒に飛んじまうかもしれねぇって……)
「何でそーゆーこと、先に言わないのよあんたーっ」
 紗絵が、キバの首根を掴んで、叫ぶ。
(だから、言いかけてやめたじゃねぇか!)
「止めるなよ! 最後まで言えよ!」
(つうか……っあ……やべ……っあと……は……たの……っ)
 キバの声がだんだん小さくなって、寝息に変わる。
「は!? ちょっと! 何寝てんのよー!」
 紗絵が愚痴を叫んでいたら、通りがかった先生に、
「何やってんだ。授業始まるぞ」と、見つかった。
「あ、先生。あの……ちょっと……白上さんが……倒れて……」
 紗絵は急いで、キバを制服のポケットに、忍ばせた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
 先生が、数学の教科書を小脇に抱えて、歩いてくる。
「……えっと……。何か、意識が無いみたいで……」
 紗絵は、何とか誤魔化して、彩子を保健室まで運ぶと言う先生に、付いて行った。

 そこは、闇と呼ばれるだけあって、本当に暗黒の世界だった。
 ジンは、その暗黒のせいで、前に進めないでいた。
 ただ、目を閉じただけの時とは違う。何も見えない。
「これが……闇……なのか」
 ジンは呟いた。しかし、いつまでもこうしてつっ立っているわけにもいかず、とりあえず明かりが欲しかったジンは、神術を使おうと、思いついた。
「火の神術なら……何とか……出来るはず……っ」
 ジンは呪文を唱えて、右手の人差し指に力を入れた。神力を指先一点に集中させる。
 頼む……っ成功してくれっ
 ジンは祈った。この神術は、まれに成功するので、大丈夫だとは思うのだが、やはり心配だった。
 ぼうっとした炎の光が、指先に灯った。
「お!」
 細く高い炎だったが、今はそれで十分だった。
「よっしゃー! 成功したぁ」
 ジンは、喜びに顔がほころんだ。
「……えっと……バーケは……」
 ジンは薄暗い周りを見回すが、誰かが居る気配がしない。
「もう……駄目なのかな……」
 ジンの気持ちが、少し沈みかけた時だった。
 服の裾を、微かに引っ張られる感じがした。
 ジンが後ろを見ると、小さな女の子が、服の裾を、掴んでいる。
 ジンはその女の子を、まじまじと見た。
「……もしかして……彩子ちゃん……?」
 少女はゆっくりと頷いた。
「何でそんなに小さく……っ」
 彩子は右手を真っ直ぐに上げていた。その右手は、何かを指しているようだ。
 ジンは、指先の方向を、見つめる。
 暗闇の先に、ぼうっと白く光る、小さな男の子が、うずくまって、泣いているようだった。顔は見えなかったが、何となく、あの子がバーケなのだと、ジンは思った。
「助けて……あげて……。あの人を……助けて……あげて……」
 幼い姿の彩子が、呟くように言う。
「泣いてるの……ずっと……。全然……泣き止んでくれないの……可哀想……」
 ジンは、彩子の手を取った。そして、彩子の手を取ったまま、しゃがんだ。
「分かった……。バーケは必ず、俺が助ける。……だから彩子ちゃんも……肩の荷降ろして、良いんだよ。俺は……笑顔の君を、見てみたい」
 そう言って、ジンは彩子に微笑み掛けた。
 すると彩子は、首を横に振った。
「私の……ことは良いの……。今は……あの人の苦しみや悲しみが、少しでも無くなることが、私の願い……」
「……分かった」
 ジンは頷くと、彩子の手を離して、立ち上がった。
 彩子がもう一度、ジンの上着の裾を掴んできたが、ジンは何もしなかった。
 ただゆっくりと、歩き出す。
「バーケ……?」
 ふと、ジンと彩子は立ち止まる。
 確実に、バーケとの距離は縮まっていたが、バーケの向うに、また、白くぼやけた光が、見え出したのだ。
 光は次第に、人の形になっていった。
 同時に、笑い声が聞こえてくる。両親と思われる二人に、子供が二人。
 子供の一人は、父親に、肩車をせがんでいた。
 その四人で、一家族みたいな光景を背に、バーケは泣いていた。
 ジンは必死で考えた。バーケの泣いている理由を。
「お……どうさ……っごめんなさい……っおがあさ……」
 バーケが、顔を拭うたびに、微かに聞こえる声。
 あれは、バーケの家族なのかと、ジンは思った。
 だが何故、何度も謝っているのだろう。
「ねぇ! どうしたの? 君」
 ジンが、少し離れた場所で、バーケに話しかける。
 バーケは、顔を上げて、ジンの方を見る。
「お兄さん……誰?」
 バーケは完全に、人間だった時の、幼い子供の頃のようだった。
「……俺は、ジン。君を助けに来たんだ」
 バーケは涙を、ひと拭いして、止めた。
「その人達は……君の家族かい……?」
 バーケは、ジンの問いに何も答えなかった。
 嫌、答えられなかったのかもしれない。
 バーケは、口ごもってしまった。
 ジンは、一歩一歩、バーケの所まで、歩いていく。
 彩子も後を追う。
「……バーケ! 俺を、信じろ」
 ジンは、バーケの目の前に、しゃがんだ。
 彩子は立ったまま、ジンの後ろで、二人を見ている。不安げな表情をしていた。
「……お……父さんは……お……母さんと……離婚……して……。あの人は……新しい……お父さんで……妹と……弟が……産まれたんだ……オレ……お兄ちゃんなんだ……」
 バーケは、悲しげな表情で、無理に笑顔を作った。
「そうか……おめでとう。……でも、何か悲しいんだろ? だから泣いていたんだろ?」
 ジンは、優しい声で問う。
「新しいお父さんはね……オレに、意地悪するんだ。学校でもね……皆に意地悪されるんだ……」
 ジンは、バーケの向うの、家族を見上げた。
 楽しげにしている家族。それは、バーケの記憶らしかった。
「……俺は……いつも一人だ……」
 ジンは、視線をバーケに戻した。
 その台詞は、幼い姿のバーケには、似つかわしくないぐらい、大人びていた。
「いつものけものにされて……俺は家族の中でも、クラスの中でも、浮いた存在だった……」
 バーケの様子が、さっきとは全然、違っていた。
 ズボンのポケットに手を入れ、バーケは後ろを向く。
 しばらくして、楽しげな家族の幻影が消える。
「服も、ろくに買って貰えなくて、いつも母さんが、こっそり、俺の分の服も、買って来てくれてた……」
 まだ声変わり前の、高い声。だが口ぶりは、子供ではなかった。
「それでもやっぱり……あの男との子供の方が可愛いかったんだな。俺に全然……構ってくれなくなった」
「……お前はそれが……悲しかったんだな」
 ジンの目には、バーケの背中が映っていた。
 その後姿は、あまりにも弱々しく、とてもあのバーケだとは、思えないほどだ。
「お前ら……何でこんな所まで来てんだよ。何でそこまでして……俺を……っ」
 バーケの肩が、震えていた。
「バーケ……俺は、どういう奴だ……?」
「いい加減な奴」
 ジンの問いかけに、バーケは即答した。
「……っま……その通りだな」
 ジンは、苦笑い。
「……馬鹿で……ドジで、間抜けで……その上お人よしだ。お前は……俺が知る限りで、昔からそうだったな」
「おー、ひどい言われようだねぇ……。でも、実は俺も人間の時くそ真面目な奴でさ……。何でも完璧にこなさないと。満足しないとーって……そーゆー奴だったわけさ。完璧主義」
「……お前が?」
 ジンの意外な過去に、バーケが振り返る。
「そ、ジンは真面目だねぇ~って、よく言われてさ、その上友達付き合いが、下手で下手で。よく先生が、好きな子同士で組むようにって言うけど、あれは宜しくないよねー。友達居ない奴にとっては」
 ジンが笑うたび、指先の炎が小さく揺れる。
「……とまあ、そう言う訳で、俺も色々苦労して、大人になる頃には、今の性格が、半分出来上がりつつあったんだ。もちろん、人生を全うして死んだわけだが」
「……だが、例え全うしたとして、その頃の闇が、消えるわけはないだろう?」
 バーケの問いに、ジンは頷く。
「そうだな……。だから、俺は今まで、客観的にあり続けたんだろうな……」
 ジンは、バーケの目を、真っ直ぐに見つめた。
「バーケ……俺は、ホント言うと、ずっとお前に、天の神様になって欲しかったんだ。嫌、お前がなるべきだと思っていた」
「は……?だってお前、さっき……」
 と、自分が闇に入る前に、あった出来事を思い出して、バーケは口を噤んだ。
「ああ……言ったな。?お前は、天の神様に、なるべきじゃない?って。今まで俺は、落ちこぼれ神見習いで、お前は優秀な神見習いだった。俺は真面目君に戻るのが嫌で、いい加減な奴になった。……こんなこと言うのもあれだけどな、俺は、お前が天の神様になってくれれば、自分が楽になれると思った。楽な方、楽な方へ行けば、誰も俺を、すごい奴に仕立て上げることは無い。俺は全てに興味の無いふりをしよう……。このまま大人しく、何事も無かったかのように、?消滅?しようって……。少し怖かったけど、俺はお前を尊敬してたから、そう思えた」
 バーケは、ジンの指先の炎を、指差した。
「じゃあ、お前は、何の神様にも、なる気は無かったってことなのか……?」
「……そうだよ。いつもわざと、やる気の無いふりをして、何もやらなかったから。だから神力のコントロールの仕方も分からない。この通りにね」
 ジンは、自分の指先の細い炎を見た。
 今にも消えそうなその炎は、何かを明るく照らすものでは無かった。
「……羨ましかったよ……。尊敬してたよ……。なのに、何でお前は……いつからそんな風に考えるようになっちまったんだ?」
 ジンの問いに、バーケは答える。
「神見習いとして、天界に生まれた時から、もう百年間も、ずっとだ……。ずっと、俺は人間が信じられないでいた。人間てのは……自分の都合で動く生き物だから。だから簡単に仲間を裏切る。人の言うことを、聞き入れもしない。最悪の生き物だ」
 彩子は、自分も否定されているようで、複雑な気持ちになりながら、二人の会話を、黙って聞いていた。

 保健室の薬品の臭いは、人によっては異臭と感じるのだろうなと、紗絵は思った。
 倒れた彩子を、数学教諭に、保健室へ運んでもらい、付き添いたいと、紗絵は彩子の傍に居た。
 キバは相も変わらず、紗絵のポケットの中で、静かな寝息をたてている。
 保健室のドアが、騒々しく開く。
「あれー?何だ、先生いねーの? ラッキー」
 突然の出来事に、紗絵の肩が、ぴくっと上がる。
 紗絵は、びっくりしたーと思いながら、振り向く。
「せ……っ先生なら……職員室に……。多分、しばらく……戻って来ないと……思います」
 入って来たのは、紗絵の知らない生徒だった。
 その男子生徒は、金髪で、しかも右耳にピアスをしている。不良少年と言う言葉が似合いそうだと、紗絵は思った。
「そっかそっか。……で、その子どうかしたの?」
 金髪少年は、彩子の寝ているベッドの、向かいのベッドに、腰を下ろす。
 紗絵は、ベッドとベッドの間に置かれた、背もたれの無い、回る椅子に座っていたので、目の前の不良少年に、少し怯えていた。
「あ……えと……その……。意識が無くて……別に外傷は無いんだけど……色々ありまして……」
「ふーん……あんた、付き添い?」
「はい……」
 紗絵は、頷いた。
「じゃ……俺はしばらく寝……っ」
 そう言って、少年がベッドのシーツに潜り込もうとした時だった。
「……っだ……だだ……っ駄目ですよぉ!」
 何処からともなく、その少女は現れた。音も、気配もなく。
「おわっ」
 少女は、少年が被ろうとしていたシーツを、無理矢理ひっぺがえす。
「ち……っちゃんと授業に……っで……出て下さい!」
 紗絵は驚きすぎで、声が出ない。
「ふざけんな! 俺はねみーんだ、寝かせろ!」
 少年は手探りで、シーツを引き寄せる。
「わ……っ分かりました! 眠くならなければ……っ良いのですね……っ」
 少女はそう言って、少年の目の前で、両手をぱんっと叩いた。
 そこに光の粒が舞い散るのを見ると、紗絵はあることに気が付いた。
「……もしかして……あなたは……っ」
紗絵は目を丸くした。
「……あ……あなたが……ジンくんの……試験対象さんですよね……? わ……私、エリナ・サカシタと申します……です」
 エリナの後方で、金髪少年が唸り声を出している。
「くあ~っお前今、何した?」
 エリナは、少年の問いには答えなかった。
 少年は、両目を押さえている。
「さ……っ紗絵さん、こ……っこちらは……天枷春樹君です。わ……私の……試験対象な……なんです」
「……は……はあ……」
 紗絵は、予想通りの言葉に、少し眉をひそめた。彼女は、ジンと同じ神見習いなのだ。
 だが何故、自分の前に現れたのだろう。紗絵は不思議に思った。
「……っ良いから早く、元に戻せっ」
 春樹の瞼が、苦しそうに震えていた。
 目を閉じたくても、閉じれなくなっていたのだ。
 春樹があまりにも可哀想だと、思い直したのか、エリナは再び春樹の目の前で両手を叩いて、術を解いてやる。
「す……っすみません、春樹君……っだ……だ……大丈夫……っ」
 顔を触ろうとしたエリナの片手を、春樹は迷惑そうに薙ぎ払う。
「あーもーうっとーしいっ」
「……す……すみません」
 エリナは畏まった様子で、ベッドに座り直す。
 春樹は、エリナと紗絵に、背中を向けた。
 そんな春樹を尻目に、エリナは紗絵に話しかける。
「あ……あの……紗絵さん、ポケットの中に、小さなドラゴンさんが……い……居ますよね……」
 エリナには、キバの姿が見えていたのだろうか、紗絵はギクリとした。
 そして、キバをポケットから取り出して、傍にあった台の上に、ゆっくりと乗せた。
 キバは静かに寝息をたてる。
「……わ……私、す……少し心配で……っさっき、ジンくんに、術だけかけて欲しいって……い……言われたから、かけたんだけど……それが解けたみたいだったから……で……でも今は……ジンくんの気配が、学校内に無いの……それはどうしてなのかが……少し気になって……その子も意識が無いみたいだし……い……一体……な……何があったんですか?」
 春樹は、台の上のキバを、ちら見していた。
 紗絵は、そんな春樹を横目で見やってから、エリナを、見直した。
 そして、ゆっくりと話し出す。
「……ジンさんは……闇に飲まれたバーケさんを、助けに行きました。キバが……ドラゴンの名前なんですけど……キバが、バーケさんの闇と、白上さんの闇が、繋がっているかもしれないって……」
「そ……そ……それで……ドラゴンさんが、力を、使ったんですか。彩子さんの意識も……や……闇の世界へ……行ってしまったと……言うわけですか……」
 紗絵は、ゆっくりと頷くと、眉をひそめた。
「ちゃんと……三人とも……帰って来ますよね……?」
 不安げな表情の紗絵。
 エリナは、だ……だ……大丈夫と、吃りながら笑う。
「だ……だって……。ジ……ジ……ジンくんが、居る……から。い……いい……今はただ……っ彼らをし……信じて……ま……まま……っ待つしか……ないですよ……」
「はい……」
 返事をして、紗絵は彩子の方へ目を向ける。
「早く……帰って来て……皆……」
 紗絵は、彩子の手を取り、祈った。

 闇という世界は、誰の心にも潜んでいる。
 そこは暗黒の世界。
 一度飲み込まれて、無事に帰って来た者は、ごく僅かだ。
「……バーケ、お前は言ったよな、世界の一新が目的だと。そのためなら、どんな手でも使うと。……それは?逃げ?だろ」
「違う!」
 ジンの言葉に、バーケは否定の言葉を投げる。
「俺はお前が、おもちゃ売り場で、駄々をこねてる子供にしか、見えない。……もっと現実を見ろよ。逃げて逃げて逃げて……お前はここから、出られなくなったんだ」
「黙れ!」
 バーケが、甲高い声で、叫ぶ。
「黙れ黙れ黙れ黙れ! お前に何が分かる! 俺は、俺のやり方で、この世を変えようと思っただけだ! なのに、何で否定する! 俺の何が悪い!」
 今にも泣き出しそうな顔だった。
 ジンは、バーケを引き寄せる。
 バーケは、とっさに両手で、ジンの顔を押さえた。
「止めろ! 何すんだよ!」
 ジンは負けじとこう言った。
「バーケ……俺……っ決めたんだ……っお前の変わりに、天の神様になるって……っ」
 バーケの両手から、力が抜けた。
「は……?」
 バーケは、目を丸くした。
「お前……っお前なんかに、天の神が勤まるかよ」
 ジンの目は、真剣だった。
「分かんないよ、そんなの……。だけど、絶対なってみせる……。だから、だからお前は、俺を信じろ。俺はお前を裏切らない」
「そんなの無……っ」
 ジンが、バーケを思いっきり抱きしめた。
 バーケの、その小さな体は、震えていた。
「無理じゃない。やってみなきゃ、分からねぇだろ。だからお前も、もっと前向きに考えろ。闇の中には、闇しかないじゃねぇか。暗いことは、考えるな。楽しいことだけ考えろ。例えば、ここから出た後、皆で遊ぼうぜ。近頃のゲーム機は、すごいらしいぞ」
「ゲームかよ……っ」
 バーケは、微かに笑った。
「今度、人間に生まれ変わった時にでも、楽しむよ……。ジン……」
「……ん?」
「……ありがとう……」
 バーケは、涙を流していた。
「俺に、礼なんか言うな。礼なら、彩子ちゃんに言え。この子が……この子が後押ししてくれなかったら……今頃は……」
 バーケは、ジンの服の裾を、掴んだままずっと見ていた彩子を、見つめる。
「バーケ……。お前は、一人じゃないからな」
 バーケの涙が、暗黒世界の床に、ぽたりと一粒、それは、光の粒となって、闇を照らした。
 今のジンなら……今のジンなら、俺の願いを、本当に叶えてくれそうな気がする。
 そう、バーケは思った。
「……ジン……。俺、もう苦しい思いをするのは嫌だ。信じて良いなら……信じて良いなら、言っとくけど、出来るだけ……皆が幸せに暮らせるような、そんな世界に……していって欲しい……。誰も、犠牲にならない……そんな世界が……」
「……努力する」
 そう、ジンはポツリと言った。
 彩子が、いつの間にか、バーケの右手を握っていた。それを見たジンは、彩子も引き寄せる。
「……良かった……」
 彩子が呟く。
「戻るぞ……」
 バーケが小さく、頷いた。
 ジンは、炎の灯る指先に、体の中の、神力を送った。炎は大きくなる。
 やがて、その炎はジン達を包み込むと、闇世界から、消えていった。
 そこには、何も残っていなかった。

「ん……」
 彩子の瞼が、ゆっくりと開く。
 それと同時に、紗絵達の目の前に、ジンとバーケが、弱々しく現れた。
 あまりにも突然の出来事に、紗絵は、今度こそ本当に心臓が止まるかと思った。
「ジ……ジンくん! バ……バーケくん!」
 エリナは立ち上がり、倒れそうになっていたバーケを、受け止めた。
 ジンは、よろよろと、彩子のベッドに伏せた。
「……疲れた……」
 ジンが呟く。彩子がゆっくりと起き上がった。
「……っ白上さん!」
 紗絵が思わず、彩子を抱きしめる。
「あ……」
 彩子は、目を見開いた。
 ジンが、彩子に微笑みかける。
「……心配……ありがとう……」
 彩子が呟くように言うと、紗絵は抱きしめる腕に、さらに力を入れた。
 バーケを受け止めたエリナは、目を丸くした。
「バ……っバーケくん……っ」
 あまりに騒々しかったので、思わず振り向いた、春樹の目に、信じられない光景が映った。バーケの体から、光の粒が浮かび上がり、その粒が、次々と消えていく。
 春樹は、目を見張った。
「そ……そそ……そっか……。も……もう」
「ああ……。ゲームオーバー……。試験に落ちたってことか」
 バーケは、自分の足で、しっかりと立つ。
 紗絵と彩子は、バーケの姿を見つめた。
「……安心しろ。?消滅?って呼ばれてるけど、実際、記憶は消されるが、俺の魂は消えない。俺は、天使になって、また現世に産まれてくるんだよ。……あまり気は乗らないが……。俺はもう、逃げないから」
 バーケが、ジンに向かって言う。
 ジンは、立ち上がれないくらい疲労していたので、見上げる形でゆっくりと、頷いた。
「……バーケ……最後に何か、言ってけよ。俺もお前に礼は言っておくがな。ありがとう」
 バーケは小さく頷くと、光の粒を飛び散らせながら、彩子の方へ近づいた。
 紗絵は、彩子から体を離す。
 バーケは、彩子の目の前に立つと、
「……ありがとう……」
 と言って、微笑んだ。
 彩子は、それを聞くと、少し照れた様子で、俯いた。
「皆に会えて良かった。何だかんだで、良い人生だった」
「……やっぱり……悪い人じゃ……ない……」
 彩子の呟きが、聞こえたのか、聞こえていないのか、バーケが、彩子の頬に、手を伸ばしかけた瞬間だった。
 光の粒が、弾けて、そこら中に飛び散る。
 彩子は一瞬、何が起きたのか分からなかったが、目の前に居るはずの人が居ないことに、喪失感を抱いて、涙が……目尻から、零れ落ちた。
 キバの寝息だけが、聞こえた。
 そこに居た誰もが、言葉を失っていた。

 次の日のことだ。
「おはよう! 白上さん」
 紗絵は、席に座っていた彩子に話しかけた。
「お……おはよう」
「昨日は……大変……だったね」
「うん。昨日は……家に帰ったら、疲れて制服着たまま……寝ちゃった」
「あ、あたしもー! でもそしたら、ジンさんに怒られて……っごめん」
「気に……してないから。良いよ」
「うん……」
 二人は、何だかとてもぎこちない会話をしていた。
「そうだ……あのさ、彩ちゃんって、呼んでも良い?」
 ふと、紗絵が聞く。すると彩子は、少し戸惑った様子で、頷いた。
「良いよ。私も……さ……紗絵ちゃんって、呼んで良い?」
 今度は彩子が聞く。紗絵は嬉しくなって、笑顔で頷いた。
「うん! もちろん! あたし達、仲良くなろうよ!」
「あ……私……私ね、話すの苦手だけど、良い? 頑張って、しゃべれるようになるから」
「彩ちゃん、あたしは、そんなに心の狭い人じゃありませんから。安心して。一緒に頑張ろう」
「一緒に……?」
「一緒に!」
「ありがとう……」
 彩子は、紗絵に笑顔を向けた。
 やばい……可愛い!
 紗絵は彩子の笑顔を見て、こっそりとそう思った。
「話中のところ、失礼するけど、勝手なことしないでくれる?」
 突然、いつぞやの女生徒が、話に乱入してきた。
「あんた……っまさかまた彩ちゃんに何か嫌がらせするつもり?」
 紗絵は身構えた。彩子を守らなければと思ったのだ。
「そうだって言ったら?」
「させないよ。このあたしが」
 紗絵は、女生徒を睨んだ。
「昨日はあのまま逃げちゃってごめんね。でもまさか、白上さん早退するとは思わなかったわ」
「あたしが、進めたのよ。彩ちゃんが精神的にまいってたから」
「そうなんだ」
 女生徒は、彩子を横目で見やった。彩子は怯えた。それはまるで、獲物を狙う目だった。
「ねぇ、他の二人はどうしたの?」
「逃げられたわ。ホント、根性なし。でもま、せいせいしたかも」
「そっか。友達に見捨てられるほどの底意地の悪さなんだ。納得だわ」
「な……っ何ですって?」
 女生徒は、紗絵を思い切り睨んだ。二人は睨み合う。
「だって。本当のことじゃない。あんたは、自分の意見を、他人に押し付けているだけの、ただの弱虫よ。改心して、また仲良くすれば?」
「……どいつもこいつも……人のこと、寂しいだの、弱虫だの言いやがって。あんた何様のつもりなの!?」
 女生徒は、叫んだ。教室が一瞬、静まり返る。
「別に。何様のつもりでもないけど。ただ可哀想だなって思っただけ。今後一切、彩ちゃんをいじめたりしないで。次やったら、あたしあんたを死ぬまで呪ってやるから」
 紗絵は怖い顔で、女生徒に凄んだ。
「ふ……っふん! 呪う? やれるものならやってみなさいよ。どうせ出来ないくせに」
「あんまり言うと、先生に言いつけるよ? 呪われる上に、先生に怒られるなんて、最悪だね」
「証拠も無いのに、言いつけるって」
「証拠ならあるよ。彩ちゃんのノート。筆跡鑑定に知り合いがいるから、すぐばれるね。どう? ばらされたくないんでしょ? あたしも殺されかけたし」
 しばらくの沈黙。女生徒は、溜め息を吐いた。
「あんた……恐ろしい女だね。どうせはったりだろうけど。分かった。もうしません」
「分かれば宜しい。さ、じゃあ改めて、あんたもあたしと仲良くなろう」
「は?」
 突然の申し入れに、女生徒は、眉をひそめた。
「意味わかんないんだけど、あんた」
「ならないならいいけど。友達いないんでしょ? 友達要らない? じゃ、寂しくなったら仲間に入れてあげるよ」
 紗絵の言葉の羅列に、女生徒は、もう一度溜め息を吐く。
「気が向いたらね」
 そう言って、女生徒はどこかへ去っていった。
「すごい……紗絵ちゃん」
「かなり無理のある脅しだけど、分かってくれてよかった。多分あの子も……止めるきっかけが欲しかったんだろうと思うから。これで良かったかな」
「紗絵ちゃん……本当に……色々、ありがとう」
「いーってことよ」
 紗絵はそう言って、悪戯に笑った。

「あの、駅前のCDショップに、寄っても良いですか?」
 学校帰りの道の途中、紗絵が、振り向きざまに、ジンに言う。
 バーケが?消滅?してしまってから、数日、気落ちしている暇も無く、ジンは、神見習い試験に合格するため、日々こうして、紗絵を守っていた。
 しかし、学校の校舎には、相変わらず、入ることが出来なかった。
「ん……まぁ、良いけど」
 ジンは、一日中、自分の代わりに、校内での護衛をしていてくれていた、コートのポケットで、ぐっすり眠っているキバを見た。
「あーあ、俺が神術ちゃんと使えたら、こいつにこんな苦労掛けなくて良かったのにな」
 溜め息を吐くジンを見て、紗絵は苦笑い。
「キバ、愚痴ってましたよぉ。もっとマシな奴のサポートしたかったって。でも、天の神様の頼みだから仕方ねぇかって。あいつは努力が足らねぇって、その後もねちねちと」
 紗絵は、腕を組んで、首を少し傾げる。
「……そだ、今度彩ちゃんとエリナさんと……天枷くんも。皆と一緒に、遊ぶってのはどうですか?」
 紗絵の提案に、ジンは少し、気が乗らないみたいだった。
「彩子ちゃんとエリナはともかく……あいつはなぁ……絶対喧嘩になるよ」
 ジンは歩きながら、頭を掻いた。
 駅までの道を、少し足早に歩く二人。
 もう日が沈みかけて、影が伸びていた。
「……エリナさん……何て言ってました?」
 夕焼けの光に、浮かない顔の紗絵が照らされる。
「やっとやる気を出したかって、怒られちまった。どっちが?消滅?しても……それは仕方の無いことだから、その時は、現実を受け入れるだけだって……正々堂々、勝負を挑まれた」
 ジンは、エリナの顔を思い出していた。
 とても真っ直ぐな目をしていたなぁと、ジンは思い返した。
 ついでに春樹の怖い顔も思い出してしまったジンは、慌てて話題を変える。
「そ……っそうだ、彩子ちゃんのいじめの件、どうなったんだ……?解決したのか……?」
「んー……よく分かんないけど、多分……。あたしがあの子達脅しておいたし、彩ちゃんも頑張ってるみたいで……。あたしも出来るだけ彩ちゃんと一緒に居て、しゃべってるからかな、なんかちょっと……明るくなって来たかなって……思います」
 最後だけ妙に敬語なのが、少し気になったが、ジンは良かったな、とだけ言った。
 気が付くと、駅前の人ごみの中で、ジンは、紗絵を見失わないようにと、気を使う。
 ようやくCDショップにたどり着くと、紗絵はお目当てのCDを探しに、新譜の置いてある棚に、一直線。ジンはやれやれと思いながら、紗絵が見ている棚の真後ろに並べてある古譜のCDを、何となく手に取る。
「あ、これ知ってる」
 ジンは、人間だった時の記憶を辿る。
 小学生の頃に、人気のあったミュージシャンのCDだった。昔は真面目くんだったと、バーケに言ったが、別にこういう物に、興味が無かったわけではない。
「なつかしー」
 ジンは、嬉しそうに呟いた。
 CDを棚に戻すと、ジンは目線を横にやる。
「あ……っ」
 ジンの視線が、あるCDのところで止まった。
「これ……は……」
 高鳴る鼓動をよそに、ジンはゆっくりとそのCDを、棚から引き出した。
 見ると、一人の男が、ギター片手に、まるでマイクの前で叫んでいるかのようなジャケットだった。
 それはジンにとって、さっきのCDより遥かに別格で、特別な物だった。
「ん? 何か良いものありましたか?」
 突然、後方から、紗絵が顔を出したので、ジンは驚く。だが、すぐに落ち着いて、紗絵に、そのCDを見せた。
「……欲しいんですか?」
 紗絵が首を傾げる。
「……いや……このCD、俺が人間だった頃に出した物なんだ。もう随分昔の物だけど、こうしてまだ、CDとして残っているんだなって思って、少し嬉しくなった……」
 そう言って、ジンはCDを見ながら懐かしむように、微笑んだ。
 そんなジンの顔を見た紗絵は、ジンからCDを、さっと奪う。
「あ……っ」
 ジンは思わず紗絵を見る。
 紗絵は、CDジャケットをまじまじと見た。
「ほーんとだ。ジンさんの顔にそっくり。あ、?唐沢陣?って書いてある。これ、本名ですか?」
 CDジャケットを指差した紗絵は、無邪気に笑う。
「……ああ……。神見習いとしての名前は、名字と名前が逆になっているけどな」
 余計な情報も交えつつ、ジンは頷く。
「じゃあこれは……購入決定ですね」
 そう言って、紗絵は、自分が買おうとしていたCDの上に、ジンのCDを重ねる。
「え……?何で……別に無理して買わなくても」
 ジンは、紗絵の少し意外な行動に、戸惑いを隠せなかった。
「無理してないです。これは別に、ジンさんのためとか、ジンさんの歌だからとかいう理由じゃないです。ただ純粋に、あたしは、この歌を聞いてみたいだけです。だから買うんです」
 紗絵の真っ直ぐな言葉に、ジンは優しく微笑んだ。

 会計を済ませて、外に出ると、ジン達は、また足早に歩く。
 他愛の無い会話をして、笑い合って。
 それが紗絵にとっても、ジンにとっても、とても楽しい時間だった。
 しかしそれは、アパートの扉を開くと、一気に崩れ落ちた。
「……っ母さん!」
 玄関から一直線に見える、低い丸テーブルの上に、淡いピンク色の灰皿があった。
 灰皿にタバコの灰を落とす仕草をしている女性。
 矢野早苗、紗絵の母親だった。
「……何で……居るの……」
 紗絵は動揺を隠せずに、少し後ずさりをした。
「あらぁ、ここは私の家でもあるのよ? 居ちゃ悪いかしら?」
 早苗はタバコを銜える。
 嫌な臭い……。
 ジンは眉をひそめた。
 早苗は、水商売をやっているだけあって、色気がある。タバコの煙を吐く仕草でさえ、色っぽく感じる。
「……まぁ、でも……もうすぐ私のじゃ無くなるか……」
「……え?」
「私、結婚するから、この部屋あんたにあげる」
 早苗の、突然の宣告に、紗絵は目を丸くした。
「……は? どういうこと?」
 紗絵が眉を吊り上げる。
「そのままの意味よ」
 早苗は一息吐くと、タバコを灰皿へ軽く押し付けて、指を離す。そしてゆっくりと立ち上がると、紗絵の居る玄関口へと歩いた。
「あら? 何この可愛い子」
 早苗は、ジンに気付き、目を輝かせて、ジンの頬に、両手を伸ばした。
「あ……っは……っ初めまして……っあの……っ俺」
「名乗らなくて良いわ。どうせもう、何の関係も無くなるんだから」
 早苗の言葉と態度に、腹を立てた紗絵は、早苗の肩を、思い切り後方へ引き寄せた。
 ジンの頬から両手が離れ、早苗は足をもたつかせた。
「……っちょっと何ー?」
 紗絵は、真っ直ぐに早苗を見つめる。
「ふざけてないで、ちゃんと説明してよ。結婚? 何の関係も無くなる? 勝手に決めないでよ」
 早苗は、仕方なく紗絵を見る。
「……付き合ってた彼にね、あんたのことがばれたの。当然よね、結婚しようって言われたからには、あんたのこと、いつまでも隠してられないし。……でも彼は、言ってくれたの。?それでもいい?って。あんたももう高校生だし、一緒に住まなくても大丈夫だろうって話になったから、実家には、一人暮らしさせるって言ってあるわ。あんたはもう自由よ。好きに生きなさい」
 あまりにも突然の話に、紗絵は言葉が出てこない。ようやく出た言葉には、怒りが篭っていた。
「……によ……それ……。結局……あたしが邪魔なだけじゃない。あたしが居ると都合が悪いんでしょ、あたしが……っ」
「……ええ、そうね。あんたはいつも邪魔だったわ。あんたなんか産まな……っきゃっ」
 言葉を全部言い終える前に、紗絵は目に涙を溜めながら、早苗に掴みかかる。
「あんたはもう、あたしの母親じゃない……っ」
 そう言って、紗絵は右手拳を振り上げた。
 次の瞬間、紗絵は逆に、早苗にテーブルの方へ突き飛ばされた。
「きゃ……っ」
 紗絵は、テーブルに体を打ちつけた。
 丸テーブルは、衝撃でひっくり返り、その上に乗っていた淡いピンク色の灰皿は、カーペットに転がって、タバコの吸殻が落ちた。
 紗絵は突き飛ばされた時に捻ったのか、右足首を手で押さえている。
「……っ痛……っ」
「紗絵ちゃん……っ」
 渋い顔をしている紗絵に、ジンは駆け寄ろうとしたが、早苗に肩を掴まれた。
「ちょ……っ」
「ねぇ、外でお茶しない? お姉さん奢るわ」
「は!?」
 早苗は、紗絵に向かって、不気味な笑顔を見せた。
「さようなら」
 タバコの吸殻が、カーペットを焦がしていくのを、早苗だけは見ていた。

「あっのぉ~……俺、紗絵ちゃんに付いてなくちゃいけないんですけどぉ……」
 ジンは早苗に、強引にアパートの外へと、連れ出されていた。
「いーのよ、あんなの。ほっときなさい。それより、ホントにどこか行かない?寒くて寒くて……」
 早苗は、肩を震わせてみせた。
 ジンの腕は早苗に無理矢理組まされていて、強い力で、離れられない。
 近くの公園まで連れ出されていて、ジンは困り果てた。
「……随分、冷たいんですね。心配じゃないんですか?」
「心配してどうするの?もう関係ないの。早く居なくなればいいのよ」
 早苗の、恐ろしいほどの表情。
 突然、狂ったように笑い出した。
「早く燃えちゃえばいい! 皆、皆燃えちゃえばいいのよ! ふふっ……あははっざまぁみろだわ! 散々私を邪魔をした罰よ! 楽しみ……ゆっくりゆっくり、あの子が燃えていくの……苦しみ、喚き、泣きながら……っ早く死んじゃえばいいのよ!」
 鈍い音と共に、ジンの手の平から、強い力で折られた、小さな木の枝が落ちる。
「何だって……!?」
 ジンは、目を丸くした。
 早苗は笑いながら、ジンを見る。
「気付かなかった? タバコのこと……。今頃、カーペットから火が回り始めてる所よ。足を挫いているから、逃げられないわね……。ふふっ……これで邪魔者は居なくなる……」
 早苗は、ジンに不気味な笑みを向ける。
「……あんたは……っ何て人だ……っ」
 ジンは、怒りに震えていた。
「……それでも……っそれでも、あんたはあの子の母親だろう! あんたは最低だ! あの子は、あんたの物じゃない……っあんたの玩具じゃねぇ! あの子は……っあの子は自ら、あんたを選んで産まれて来たのに……っあんまりだ! あの子だって、寂しいんだ!」
 ジンは叫ぶと、紗絵の所へ勢い良く走って行った。
「紗絵ちゃん……っ紗絵ちゃん……っ待ってろ! 今、助けに行くから……っ死ぬんじゃねぇぞ!」
 走るジンの瞳には、一粒の涙が、滲んでいた。
 早苗はその場に、立ち尽くしていた。

 カーペットから燃え移った炎は、あっという間に、部屋全体を覆いつくした。
 紗絵は、炎から出る煙で、咳き込むのを防ごうと、煙を吸わないように、コートを脱いで、口元にあてた。
「……あつい……っ」
 危険な状況にも拘らず、紗絵は驚くほど冷静だった。
 立ち上がろうとしても、足が痛む。
 先程買ったCDも、袋ごと炎の向うにあった。
「あーあ……まだ聴いてないんだけどな……っきゃ」
 激しい音と共に、燃えていた本棚が、紗絵の体に向かって倒れてきた。
「……った」
 紗絵は、本棚の下敷きになってしまっていた。
 本はほとんど燃え尽きていたが、熱さと痛さで、紗絵の意識はもうろうとしていた。
「もう……駄目か……」
 紗絵は呟くと、思った。
 別にいいよね……いつ死んでも良いって、覚悟してたんだから……。
 助けられることを、紗絵は諦めかけていた。
「あたし……あの女に、結局はめられたんだよ……。でも、怖くない……死ぬのなんて……怖くない……怖くなんて……っ」
 紗絵はコートを少し離すと、すぐに咳き込んだ。
「……っごほっ死ぬのなん……て……死ぬの……っ」
 目の前の炎を見ると紗絵は、言い表せられないほどの、恐怖を感じた。
「い……や……。嫌だ嫌だ嫌だ……っ死にたくない……っ死にたく……っ誰か……っ誰か助けて……っ誰か……っジンさんー!」
 紗絵は叫ぶと、意識が遠退くのを感じた。
「紗絵ちゃん!」
 玄関のドアを、思い切り開けて、炎の立ち上る部屋へと入ってきたのは、ジンだった。
 ジンは、煙の出ているこのアパートを見ているやじ馬達を押し退けて、入るのを止められる手を払い除けて、この部屋に入ってきたのだ。
「紗絵ちゃん大丈夫!? 紗絵ちゃん……っ」
 ジンは、体温を感じないので、普通に炎を踏みつけて、紗絵に駆け寄る。
「……ジ……ン……さん……?」
 紗絵は、まだほんの少し残っていた意識で、必死にジンの呼びかけに答えようとする。
「待ってろ! 今……っ本棚どかしてやるからっ」
 ジンはそう言って、紗絵の上に倒れていた本棚を、力一杯持ち上げて、部屋の端に横倒しにした。本棚に火が移り、燃えていく。
「……ジ……ン……さん……あたし……っ」
「紗絵ちゃん……っもう大丈夫だ。俺が居る。絶対に、死なせないから……っ」
 ジンは、ゆっくりと紗絵の体を起こし、抱きかかえた。
 紗絵は、コートを口に当てたまま、しゃべる。
「……あたしね……ジンさん……」
「ん?」
「ジンさんや……キバに会うまで……苦しいこと……ばっかりでさ……っ楽しいことなんて……数えるほどしかなくて……人生って、こんなもんなのか……ならもう……いつ死んでも良いやって……思ってた……」
「……紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の目を見る。
「……でも……っ」
 紗絵の目には、涙が溜まっていた。
 ジンの背中の後ろで、炎が音を立てている。
「……でも……っさっきね……さっき……っ一瞬……もう……十分……生きれたから……っ頑張ったから……死んでも良いやって思ってたのに……急に……っ死ぬのが……っ怖くなったの」
 紗絵は、持っていたコートで、顔全体を隠すようにして、泣いていた。
 声を必死で押し殺そうとしている。
「怖くて……怖くて、恐ろしくて……っ初めて、死にたくないって……っまだ……ジンさんや、キバ……皆……皆と……一緒に……居たいって……っそう……思った……っ誰かに……助けて欲しいって……っごめ……ごめんなさい……あたし……こんな……っわがまま」
「わがままじゃないよ」
 紗絵は、しゃくり上げて泣いていた。
 ジンが、言葉を続ける。
「……そんなの……わがままじゃない。バーケだって、消えたくないって、言ってた……俺だって……人間だった時に、死ぬのが怖いって、思った時あった。今だって……俺自身の存在が……意識が……消えるのが怖い。エリナや、他の神見習いだって……きっと同じだ。人間も……っ誰しも一度は思うんだ、死にたくないって……。皆が思うことならそれは、わがままじゃないと……思うんだ。でも……それでも紗絵ちゃんが……その感情をわがままと捉えてしまうのは……それは、あのお母さんのせい?」
 ジンは、出来るだけ優しく聞いた。
 紗絵は、しゃくり上げながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの人は……っあたしのこと……産まなきゃ良かったって……っ言ったんです。父さんも……弟も死ぬことが、分かっていたら……っ絶対に、あたしなんか、産まなかったのにって……。あたし……あたし……っ本当に、産まれてこなければ良かったのに……っそうすれば、こんなことには……ならなかったのにっ……」
「何で……っそんなこと」
 ジンは、眉をひそめた。
 紗絵が、続ける。
「だから……っずっと……っ死んでも良いって、思い続けて……っ何となくな毎日を……っ送っていたのに……。ジンさん達が現れて……っあたしのこと、助けに来たって……っ守るって……っ死ぬチャンスはいくらでも……巡ってきたのに……死なせてくれなくて……正直最初は邪魔でした……でも……っ今は……生きたいって……思わせてくれた……。これが……わがままじゃないのなら……ジンさん……あたし、あなたに……お礼が言いたいです」
「紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の言葉に、小さな感動を覚えた。
「ありが……とう……ござ……っ」
 紗絵の意識は、そこで途切れてしまった。
「紗絵ちゃん! ……気を失ってる、まずいな」
 ジンは急いで、部屋を出た。

 まだ薄暗い、明け方の空。
 鳥のさえずる音が聞こえる。
 病院の大部屋の一角で、ジンは祈るようにして、紗絵のベッド脇にある椅子に座っていた。ジンは、紗絵の力のない右手を、両手でしっかりと握っている。
「……ジン……」
 その、透き通るような綺麗な声に、ジンはゆっくりと顔を上げた。
 紗絵の寝ているベッドの向こう側に、その声の主は居た。
 窓から光が入っているわけでもないのに、その体からは、優しい光が発せられていた。
「……天の……神様……」
 ジンは、その名を呼ぶと、目を丸くした。
「どうして、ここに……」
 天の神は、ジンに優しく微笑み掛けると、言った。
「その理由は……汝自身が、良く分かっているであろう?」
 ジンは、すぐにその言葉の意味を悟った。
「合格だ。汝は、神見習い最終試験に、合格したのだ……。ご苦労だったな」
 天の神は、右手の人差し指を、くいっと上げた。ジンのポケットの中で眠っていたキバが、空中まで引き出され、天の神の手の平に収まった。
「あ……っキバ」
「よく眠っておるな……。こやつはこのまま、私が天界まで連れて行こう。汝にはまだ……やるべきことがあるのだろう……?」
 天の神は、意味ありげに、ジンを見る。
「……はい」
 ジンは、真っ直ぐに、天の神を見て、頷いた。
「待っておるぞ……ジン」
 天の神はそう言うと、ジンの前から姿を消した。
 光の粒が、名残惜しげに舞っていた。
 ジンは、静かに眠っている紗絵の顔を、見つめた。
「……お別れの時間だ……」

 時を同じく、明け方の空を窓辺で見ていたエリナに、異変が起こった。
「……は……早いな……よ……良かったね、ジン君……」
 エリナは、消え行く自分の手の平を見ながら、呟いた。
「ん……うん~」
 傍で寝ていた春樹が、唸り声を上げる。
「……さ……さようならです」
 エリナは、春樹を見つめた。
 ふと、春樹の目が開く。
「……あれ……何? 朝……?」
 春樹は起き上がったが、まだ寝ぼけているようだ。目を擦っている。
「は……っ春樹君……。起きてしまいましたか……。よ……良かったです……これで……お……お別れが言えます」
 エリナは、おもむろに泣き出した。
「は!? 何、お別れ? 何馬鹿なこと言ってんの。朝っぱらから……。あれ……何か光ってるけど」
 見間違いかと、春樹はもう一度目を擦るが、やはりエリナの体は光っているように見える。
「ジ……ジン君が……ご……合格……したんですね……お……おお……おめでたい……です」
 エリナは、涙を拭う。
 こうしてる間にも、エリナの体は着々と消えていく。
「何言ってんだ……。あの野郎っぶっ飛ばして来る!」
 春樹は、今にも駆け出しそうだ。
「ま……っまま……待って下さい!」
「あ? てめーは、消えても良いのかよ?」
「だ……だって……そ……それは、運命……でしょう?」
「は!?」
 春樹は、眉をひそめる。
 エリナは、春樹に優しく笑いかけた。
「すべては……わ……私の……ち……力不足です……。な……何の力にも、なれなくて……申し訳ないです……。でも、最後に……これだけ……言わせて下さい……」
「最後って……おい……」
「あ……あなたは……ほ……本当は……と……とても、お優しい方ですよ……。わ……私を、気遣って……くれたんですから」
 エリナの言葉に、春樹は顔を赤く染める。
「は……は!? 別に、気遣ってやった覚えはねぇけど。何か……俺のせいで、消えるみたいで……胸糞わりぃだけだっ」
 そう言って春樹は、エリナに背を向けた。
 きっと照れているのだろうと、エリナは思った。
「さ……さようなら……元気で……ま……また……いつかあなたと……形は違っても……あ……会えると……嬉しいです……」
「あっ……」
 春樹は、何かを言いたげに、エリナの方を見ようと、振り向いた。
 ――が。そこにはもう、エリナの姿はなく、代わりに柔らかな光が、周囲を優しく、照らしていた。
 春樹は、やり切れない気持ちで一杯だったが、
「……ありがとう……」
と必死の思いで呟いた。