【マボロシ日記】音の記憶

 複雑で、もやもやした気持ちが、ここ半年わが胸を支配している。18の息子が、いよいよ大学受験を迎える。
 近年大学受験はさまざまな改革が行われ、少子化もあって複雑化しており、コロナの状況で入試自体がどうなるか未知数の部分もあり、昨年も多くが一般入試に出願せず、年内に合格が決まる推薦入試を選択した。私立大学の半数以上が推薦で入学するというデータもある。
 息子は指定校推薦の校内選考に受かり、とある大学を受験するのである。
 私立大学は、最初に指定校推薦と公募総合型選抜(以前のAO入試、つまり自分で独自に出願する推薦入試)があり、その後に年明けの共通テストの成績を使う一般入試、共通テストと大学別の入試を組み合わせる入試、前期日程でダメなら後期日程、奨学金を貰うために推薦で受かっていながらわざわざ受験料を払って再度チャレンジする入試などもある。
 同じ大学でも、お金を振り込めば複数の学部、学科に同時にチャレンジできるなど、その基準、方法なども大学ごとに違っていて、パンフレットを熟読しても理解できないくらいだ。
 模試の結果を見ると、一年生の時からオープンキャンパスに出掛けていた大学には、学力が到底及ばないらしいと分かった。諦めて、次に狙いを定めた大学も無理らしいと分かった。その次の第三希望の大学(親としてはそこには行ってほしかったのだが)は、指定校推薦の校内選考の選定基準が高すぎて、諦めざるを得なくなった。
 だったら、その大学の公募型推薦にチャレンジし、それがダメなら一般入試を受けてほしいと願っていた。
 しかし、本人がまったく進学先の候補に挙がっていなかった、想定外の大学の指定校推薦を希望すると言い出した。
 指定校推薦は、大学と高校の信頼関係で成り立っており、校内選考で通れば、よほどのことがないと落ちないという。精神的にも、年内に進路が決まれば楽である。楽しいお正月になることうけあいだ。
 しかし、楽だからという理由で簡単に目標にしていた大学を諦めて、自分が行けそうな大学を選んでいいのか。ダメでも勇敢に挑戦して、散ったならどこかの大学の2次募集に引っ掛かるんじゃないのか、少子化時代なのだからこちらが選ばなければ、どこかへは行けるのではないかと思う。
 経済的に、浪人も下宿も無理なので、通える場所にあるというのが、譲れない条件だ。大学受験料は、一校3万円と仮定しても、10校受けると30万円である。指定校推薦なら、受験料は一校分で済み、入学金も一校分。それが一般入試なら、第一希望の合否判明が日程的に後だと、すべり止めで合格した大学の入学金を振り込まねば権利がなくなるので、無駄な出費になるおそれがある。入学金は何十万という大金である。
 指定校推薦は、親としては助かるのだ。高校3年間の評定がモノをいい、それは3年間頑張った証しであり、誇っていい。現に、大部分の生徒は指定校推薦を希望しても、もらえないという現実がある。けっして恥ずべきものではないのだが、そんなに簡単に大学を決めてしまってよいのか、釈然としない気持ちになっているのだ。

 息子は毎日ピアノを弾いてきた。4歳の時からほとんどずっと、欠かさず練習をしてきた。なんでも人の後ろにいたが、ピアノの才能が少しだけ人よりあった。コンクールに出たこともある。
 しかし、現実的に将来音楽でご飯を食べて行くことは難しい。音楽の仕事は限られているのだ。この点は、絵画、バレエなどの芸術とも同じだろう。
 さらに、音楽を極めようとすると、とてつもなく大きなお金がかかる。新幹線に乗って、東京の専門の先生に習いに行く費用などはとても一般家庭には捻出できない。レッスンに加えて、自宅での練習時間。勉強時間を削って、練習をしなければならない。それでも高校受験の際は音楽科も考えて、受験用のレッスンもしていた。
 音楽というものは、正解がなく、追究しても完璧な演奏は人それぞれの価値観となる。音楽科の受験では、プラスを伸ばすというより、マイナスを減らしていく。基本に忠実に作曲家の譜面通りに弾き、決まった表現力を加えることが許される。しかし、それは彼にとってとても窮屈で、楽譜通り、先生好みに曲を仕上げなければならず、音楽を楽しむレッスンではなかった。
 さらに入学後の音楽漬けの授業や、勉強との両立を考えて、最終的に普通科に進学した。
 しかし、この特技は大学受験でも役に立つのではないかと、高校でもレッスンは続けていた。この度の進路決定で、音楽と決別することになる。音楽とは関係のない分野に進学することを選んだのだ。ピアノのような芸術、芸事は、コツコツと日頃の練習が必要なので、ピアノから離れたらじきに弾けなくなるだろう。
 夕方、学校から帰宅後すぐにピアノを練習していた。その音色は、いつも私を癒やしてくれた。弾ける曲が増えて、親ばかだが感心した。時には鳥肌が立つほど感動させてくれた。
 生でこんなにいい音色を間近に聴けて、母さんは幸せよ。夕飯を作りながら、そんなことを思った。日常のいろんなことで傷ついた心を癒やし、乗り越えさせてくれた。私もピアノを習っていたけれど、ここまで上手に弾けなかった。世の中に、ベートーヴェンとかショパンを弾けるまで到達できる人はたくさんいて、まったく珍しくはない。
 しかし、多くの人はそこに至るまでに辞めてしまうという現実がある。ああいった神がかった曲を弾ける権利を与えられるのは、壁を乗り越えられた、やはり音楽の神様に選ばれた人間なのだ。
 私の大好きだったショパンの「ノクターン」は、まだ弾いてくれていない。これからも、ピアノの音をもっと聴いていたかった。でも、お別れの時が迫っている。いいようもない、悲しみ、寂しさが込み上げてくる。喜ぶべき大学合格に私の脳裏に歓喜の鐘の音は鳴らない。聞こえてくるのは、悲しみのゴォーンゴォーンという音だ。
 私は息子のピアノの第一の大ファンだった。純粋で、不器用で、迫力あるあの音色が好きだった。
 大学に合格することで、いよいよ、さようならがやってくる。(了)