掌編小説「上京」

 ホテルの一室にある、面接試験の暗い待合室の片隅で、涼子は膝の上にヴァイオリンを置いて、ひとりうなだれていた。ついさっき試験に落選した事を知ったところだった。
  「これで十二回目の落選ね・・・・・」
 やや自嘲気味な笑顔が浮かんだ。さっきから涼子の両手は強くヴァイオリンを握りしめている。遠くから楽団の演奏が聞こえていた・・・・・。
 涼子は五年前に単身で東京にやって来た。実家のある田舎暮らしは退屈で、何か物足りなさを感じる年頃になっていた。若い涼子には、都会は華やかで刺激に満ちて、飛躍できるチャンスを掴める夢のような別世界だった。
 いつの日か、華々しいステージの上で、憧れていたヴァイオリンの名演奏を響かせたい、そんな情熱で、涼子はわずかな所持金で家出した。
 しかし、東京での暮らしは、夢みていたような楽なものではなかった。安アパートを借りて、毎日、朝早くから夜遅くまで近所のコンビニの店員や、ファミリーレストランのウェイトレスのアルバイトをして、貯蓄に励んだ。
 貯蓄の為に、食事は粗末な物で我慢した。ご飯さえ食べていれば大丈夫だと贅沢はしなかった。安い豆腐に納豆、牛乳、バナナで栄養は充分だと自分に言い聞かせた。たまに、コンビニで賞味期限ぎりぎりの弁当を半値で買って食べるのが唯一の贅沢な食事だった。
 そんな貧しい生活だったが、涼子には夢があったから、がむしゃらに頑張れた。そして二年目に中古品だったが念願のヴァイオリンを手に入れた。涼子は有頂天だった。
 「やっと憧れの世界への第一歩が始まった・・・バンザーイ!!」
 涼子は、深夜の公園でヴァイオリンの練習を自己流に続けた。レッスン教室に通う費用も節約したし、実際に時間もなかった。書店で購入した練習テキストで、ひたすら懸命に独学した。
 涼子は無我夢中でヴァイオリンひとすじに若い情熱の全てを注ぎ込んだ。徐々に努力の成果は報われ実力は、確実に身についていった。
 やがてクラシック喫茶の小さな舞台で演奏する機会にも恵まれるようになった。夢の実現へと自信もふくらみ晴れの舞台用に真っ赤なドレスも新調していた。
 そして、足繁くコンサート会場の玄関やレッスン教室の掲示板を、こっそり覗いては、ヴァイオリン奏者の公募案内をメモ書きして、何度も選考会場へと足を運び、幾度となく挑戦し続けた。
 しかし、プロへの道が厳しく険しい事を、試験に落選するたびに涼子は全身で実感していった。
 「・・・・・まだ頑張らなくちゃ、涼子」
 涼子は自分に言い聞かせて、席を立った。そして長年の練習で傷んだヴァイオリンを大切にケースへと収めて、襲ってくる失望感を打ち消すように気力を振り絞って、おぼつかない足取りで待合室を出た。
 ホテルの廊下は真紅のカーペットが敷かれ、左右の壁には巨匠たちの名画が誇らしげに飾られていた。
 「ここまで、ひとりで頑張って来たんだ。涼子、自信を持って」
 自分への応援歌に、涼子の心に昂揚感が高まってきた。
 突然、近くの扉が開き、中から黒い背広姿の青年が飛び出してきた。うつむいて歩いていた涼子は彼に気づかず、二人は衝突してよろめいた。
 「ああ、ごめんなさい」と、青年は倒れかけた涼子を抱き止めて言った。そして何気なく二人は顔を見合わせた。
 「あれ、涼ちゃんじゃないか」
 「あら、純ちゃんだったの」
 とりあえず、二人は廊下の長椅子に並んで座って話した。
 「・・・・・涼ちゃんが突然家出したから、あの時、村では大騒ぎしてたんだぜ。まさか、東京にいるとは思わなかった」
 「ごめんね・・・みんなに心配かけて。一番の幼なじみの純ちゃんにも何も言わなくて。で、純ちゃんはどうしてここにいるの」
 「友人の誕生日パーティに招待されてさ。夜行列車で八時間揺られて駆けつけたんだ。で、涼ちゃんは今までどうしてた」
 そう聞きつつ純平は涼子のヴァイオリンに目をやる。
 「・・・・・そういう訳か。涼ちゃんも苦労してたんだな」
 「純ちゃんは今どうしているの」
 「相変わらずの田舎暮らしさ。最近、親父の仕事を引き継いで農地改革って奴さ。でも土いじりってのも悪くない。苦労もあるけど、その分、収穫の楽しみもあってさ。学生時代に比べて、何だか若返った気分だよ」
 涼子はまじまじと純平の顔を見つめた。そこには希望と情熱にあふれた若い男の引き締まった横顔があった。思わず、涼子は顔を赤らめて、下を向いた。
 決意したように純平は涼子に言った。
「・・・ねえ、涼ちゃん、良かったら僕と一緒に田舎暮らしをしてみないかい」
 田舎へと向かう特急列車の座席にいる純平が、隣の席にいる涼子に笑顔で声をかけた。
 「・・・・・東京の暮らしはどうだった」
 すると涼子はこっそりと純平の顔を覗きこむと、微笑んで言った。
 「・・・東京って、夢が咲く街よ。本当に素敵だわ」

         完