小説「天の神様の言うとおり」前編

 大きな爆発音が、森に響いた。
 木の陰に隠れていた小鳥たちが、一斉に空に向かって飛び去っていく。
「あ……ああ……」
 青ざめた顔をしているのは、ジーナ・マクドエル。金髪ツインテールの女の子。
「まっ……ざっとこんなもんだ」
 腰に手を当てて、偉そうにしているのは、ジン・カラサワ。この爆発音を響かせた張本人だ。
「ま……っじゃないわよ! 見てみなさいよこれっ、何っで木を少し浮かせるのに、爆発するのよ! ば・く・は・つ!」
 ジーナは、爆発で焼け焦げた木を指差す。
 ジンは態度を変えることなく、言った。
「別にいいじゃん。木なんか浮かせても、何の役にも立たないし」
 ジーナは少し、確かにそうかもしれないと思ったが、ジンのペースに巻き込まれてはいけないと思い直した。
 これは、ジンのための力のコントロールの特訓なのだ。
 木に神力と呼ばれる力を注ぎ込み、コントロールして持ち上げるという、とても重要な特訓なのだ。
「……そのいい加減な性格、直した方が良いんじゃない? だから今まで一度も、見習い試験に受かってないのよ」
 ジーナは呆れた顔をした。
「十年に一度行われる神見習い試験に今まで一度も受かっていないというのは、ある意味才能だな」
 二人の様子を木の根に腰を下ろして見ていた、カイル・クランニルが、呟くように言った。
「お前らだって、今まで九回のうち二・三回しか受かってないだろ」
 ジンが、むすっとした顔で言う。
「うるさい!」
 ジーナが一言叫んで、ある紙をポケットから素早く取り出した。
「あんたさぁ……人の事いえる立場なのかにゃ?」
 ジーナの顔に、不気味な笑みが浮かんだ。
「天界の役人からお手紙を頂いたのよね? 試験は後一回、それに落ちたらあんたはもう……」
「消滅する」
 カイルがぼそっと、付け加えた。
「うっ」
 ジンの顔が歪んだ。?消滅?という言葉が、ジンに重く圧し掛かる。
「べ……別に……それでもいいし」
 ジンが強がっている事は、ジーナもカイルも気付いていた。
 消滅するということは、存在がなくなるということ。
 人が死ぬこととは違うのだ。
 それを防ぐために、ジーナは特別にジンの特訓を計画してやってくれていたというのに、この有様だ。当の本人がやる気が無いんじゃ、どうしようもない。
「……ジン、諦めるの? そんなことしたら、あたし許さないよ」
 ジーナは、ジンを真っ直ぐ見つめていたが、ジンの方は、俯いていた。
しばらくして、ジンはぼそりと言った。
「帰る」
「え?」
 ジンは、森の出口の方へ歩いていく。
「ちょっと待ちなさいよ! 神術の特訓は!?」
 ジーナは慌ててジンを追いかける。
「そんなこと、やってられっか」
 そう捨て台詞を吐いて、ジンは森の外へと消えていった。
 ジーナの足は、少しして追いかける気を無くす。
 カイルは、ゆっくりと立ち上がって、ジーナに向かってこう言った。
「ほっとけ」
 何とも冷たい一言だと、ジーナは思った。

「今から神見習いの?適正神別試験?を行う」
 火の神が、今までの試験で、火・水・土……その他の属性に合った、神見習いを、属性分けしていく。
「火の属性、カイル、エリス、アヤナ……」
 カイルの名前が呼ばれ、ジンは少し驚いた。カイルは、とてもクールなので、水の属性だと踏んでいたのだ。予想は大はずれだった。
 その上、ジーナが火の属性で名前が呼ばれると思っていたので、ジーナとカイルは本当に正反対な性質だということに、今さらながらに気が付いた。
 ジーナは水の属性に選ばれていた。
 ――ありえない……。
 ジンは心の中で思った。
 神見習い、最終試験当日、ジンは覚悟を決めていた。
 試験内容がどうであれ、自分がどの属性になるか検討も付かない。
 どう考えてもジンには、試験に受かる気がしなかった。
「天の属性、エリナ、バーケ、ジン、以上」
 最後の一言を聞いた瞬間。そこに居た神見習い全員が、自分の耳を疑った。聞き間違いじゃないのかと。
 即座に天の属性に決まった、プライドの高い、いかにも優等生なバーケ・ポルラドが、火の神に抗議した。
「火の神様、ひとつ納得が行かないのですが。何故、一度も見習い試験に受かっていない劣等生が、天の属性に、選ばれるのですか?」
 天の属性、それはすべてを司る力。
 ジンが今まで一度も試験に受かっていないことは、神見習い全員が知っていた。だからこそ、疑問に思うのだ。
 あのジンが何故、自分達より上の属性なのだと。
 エリナ・サカシタとバーケ・ポルラドが選ばれているのには、みんな納得が行っていた。
 エリナは一度、雪を降らせる試験に失敗しているが、後は全部クリアしていて、バーケときたら全試験受かっている。これは抗議のしようがなかった。
「お決めになったのは、天の神様である、汝らが口出しする権利は無い」
 火の神にそう言われては、皆納得するしかなかったが、バーケは納得が行かないらしい。不満そうな顔をしている。
 ジン本人も、信じられないといった表情をしている。
 そんなジンに向かって、火の神は言った。
「大事なのは、試験に受かった数ではない。消滅せぬように、せいぜい頑張ることだ」
「は……っはいっ」
 火の神の言葉に、ジンは我に返った。
「おい、劣等生。俺はお前なんか認めないからな。天の神様がなんと言おうと、お前みたいな奴が、天の属性のはずが無い」
 バーケはジンを睨んでいた。ジンはバーケを睨み返す。
 バーケの言葉が、気に障ったのだ。
「そんなの、お前が決めることじゃない。文句なら直接、天の神様に言えよ。僻んでんじゃねぇよ」
 しばらく、バーケとジンの、無言の戦いが続いた。
 それを破ったのは、ジーナだった。
「こら、二人とも、これから試験なんだから、ケンカしないの」
 ジーナが戦いを止めてくれたおかげで、周りがもう、それぞれの担当の神様の所へ向い始めていることに、二人は気づいた。
「フンッ、エリナ、こんな奴ほっといてさっさと行くぞ」
「あ……は……っはい」
 エリナはおどおどしながらジン達にペコリと頭を下げ、スタスタと歩くバーケの後を追って行った。
「ジン、あーゆう奴は相手にしちゃダメ! 時間の無駄よ」
 ジーナがそう言うと、ジンは溜め息を吐いた。
「別に。もう時間なんて残ってないんだから、いいだろ」
 ジンの言葉に、ジーナはすぐに勘付いた。
「……ジン……あんたまさか……消滅するつもり……?」
 ジーナは、ジンに恐る恐る聞いた。
 ジンはカイルがジーナと自分の方に歩いてくるのを、横目で見る。
「あんた馬鹿じゃないの!?」
 急にジーナが叫ぶので、周りにまだ残っていた神見習い達が、一斉にジーナの方を見る。
「何よっ。自信ないの? あんたホントは、やれば出来るんでしょ!?」
 ジーナはそう叫んで、急にその場から走り去って行った。恐らく水の神の所へ。
 そんなジーナに、ジンはなんだあいつ……と思う。
 カイルがジンの隣に、いつの間にか立っていた。
「ジーナは悔しいんだよ」
「え?」
 ジンはカイルの方を見る。
 カイルはジンを見据えていた。
「俺も悔しい。皆も悔しい。お前にはそれが分からない。当たり前だ」
 カイルは話すのが苦手なのか、言葉を一つ一つ句切って言う。
「……だが、いつか分かる時がくる。それまで消えるな」
 ジンは気付いた。いや、気付いていたのかもしれない。
 カイルとジーナは、ジンのことを心配しているのだ。
 ジンがいつも、やる気のない顔をしているから。
「……ジーナに謝っといて」
 ジンは申し訳ない気持ちで一杯だったが、そそくさとその場から立ち去って、天の神の所へ向かった。
 そんなジンの後姿を、カイルは無言で見送った。

 ジンが天の神の居る宮殿に着くと、エリナとバーケの姿はもう無かった。
 薔薇の庭園を入っていくと、一見老人の姿をした、天の神が、薔薇に埋もれているベンチの上に腕を置いて、枕代わりにして眠っていた。
 あまりにも安らかな寝顔だったので、ジンは起こしてはいけないと思い、天の神の傍に、静かに座っていた。静かに時間が流れる。
 天の神は、異様な空気を放っている。ジンは、そんな天の神を、じっと見つめていた。
「そんなにじろじろ寝顔を見るでない」
 突然、天の神が声を発した。
「……っあ、すみません」
 ジンは急なことに驚いて、急いで立ち上がる。
「……まぁ良い」
 天の神はそう言うと、目を開けた。その瞳は、綺麗な黄緑色をしていた。
 その吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に、ジンは見とれていた。
 すると天の神は、少し照れた様にして、立ち上がった。
 天の神の真っ白い髪の毛が、風の神が起こした風になびいて、キラキラ光ったように見えた。
「汝には、この姿の方が喜ぶかの?」
 そう言われて、ジンは髪の毛を見ていた目を、顔に向ける。少し声色が高くなっていた。
さっきまで老婆だった天の神の姿が、若い娘に変わっていた。ジンは驚いて腰を抜かす。声がでない。
「そういえば、試験だったな……。どれ、私に付いて来るが良い」
 天の神は急に思い出したように、ジンを手招きした。
 ジンは言われるがままにして、天の神に付いて行く。
 そこは、庭の隅にある井戸だった。
「……い……井戸……?」
 ジンが少し戸惑ったように呟くと、天の神は静かに頷いた。白くて長い髪が、風に靡く。
 若い娘になった天の神は、見れば見るほど綺麗な顔立ちをしていた。
 先程より少し高く感じた天の神の背丈は、ジンと同じぐらいになっていた。背筋が少し伸びたのだろうか。
 井戸の水を見つめる天の神の横顔に、ジンは思わず、また見とれてしまっていた。
「汝の試験は……って、聞いておるか?」
 ジンがボーっとしているようだったので、天の神は少し怒ったような素振りをする。ジンは我に返った。
「あ……っすみません」
 ジンは慌てて謝る。また見とれていた、など恥ずかしくて言えない。
「いい加減まじめに試験を受けないか……さて」
 天の神は井戸の水に、両手をかざした。
 これから何をしようと言うのだろうか。ジンは首を傾げた。
「あの……っ」
「しっ」
 ジンが、何を始めるのかと、天の神に尋ねようとしたが、天の神は真剣な眼差しで、それを制した。
 しばらくして、天の神の両手から、井戸の水から、柔らかな光が溢れ出した。
「!?」
 ジンは、目を見張った。
 天の神が両手をかざした水面に、人が映し出されている。
 天の神は、その人影が良く見えるように、己の両手を井戸の端に寄せた。
「もしかして……人間界!?」
 ジンは、信じられないといった顔をした。
 ジン達神見習いと、神々が存在している世界が天界。人間や動物達が存在している世界を、人間界と呼ぶ。天使は天界からの使い人。人間から産まれる赤ん坊にあたる。天使は母親を選び、人間界で生を受けるのだ。
 天の神は水面に、今まさに女の人の体の中へ入ろうとしている天使を捉えていた。
「ジン……見よ。生命とは、何と美しいものか……」
「……はい」
 ジンは目を細めた。昔の自分を思い出していたのだ。
 神様及び、神見習いは、元々人間である。
 しかし、すべての人間が神見習いとして生まれるのではなく、ごく一部の、特別な人間が、そうして天界で再び、人間だったときの記憶を持って生まれることが出来る。神見習いは、神になるためだけに、生まれることを許されたのだ。
 母親に思いを馳せて……ジンは水面をじっと見ていた……。
 しばらく水面を見ていると、子供達の姿が映った。
 楽しげな声まで聞こえてくる。
 これが神の力なのだと、ジンは思った。
『どっち、どっち、どちらにしようかな、天の神様の言うとおりっ』
 水面の中の、一人の女の子が、決めかねていたものを、そう言いながら、指を交互に差して決めていた。
 どうやら遊んでいて、一人人数が炙れてしまったらしい。
 その女の子は、本当にどちらの組に入っても良かったらしく、選んだ所に、顔色一つ変えずに入った。
 組の一人の女の子が、苦い顔をしているのを、ジンは見逃さなかった。
 こんなので名前を使われて、天の神様はそれで良いのかと、ジンは思った。
 頭を使えばこの方法、どちらで指が止まるのか、最初から決めて、一定の速さでやれば、何度でも同じところで止まるのだ。
「人間というものは、こうして見ていると、本当にちっぽけな存在でしか、ないのだな」
 天の神が、呟いた。
「そう……ですね」
 天の神も、ジンも、認めたくない気持ちで一杯だった。
 その後も、幾人か見ていたが、やがて天の神は、一人の少女の所で、ジンにこう言った。
「この子にしよう……。汝の試験の相手だ」
「……え?」
 試験の相手、と言われ、ジンは水面に映っている少女を、まじまじと見つめた。
「汝には、これから人間界へ行き、この少女を?助け?てもらう。それが今回の試験内容だ」
「人間界へ……って、それは本当ですか!?」
 ジンは不安を覚えた。それと同時に、少し楽しくも思えた。人間界へ行くことが。
 最後の試験が楽しいなら、もう消えても良いや。ジーナ、カイル、ごめん。さようなら。
 ジンは心の中で、そう思った。

「汝一人では心細かろう、サポートを付けてやろう」
 天の神はそう言って、井戸から離していた両手を、何かを包み込むように、胸の前で重ねた。そしてその瞬間、ぽんっという音と共に、光が飛び散った。
 天の神の両手の中には、小さなドラゴンがいた。
 ジンはそのドラゴンを、おもむろに手渡された。
「な……何これ……何でドラゴン……?」
 ジンは天の神に聞いた。天の神はそれには答えなかった。
 と、突然、ジンの手の中から、何かの声がした。
 ジンがその声の主を見てみると、さっき手渡されたドラゴンだった。
(おい! おい貴様、俺に触るな!)
 ドラゴンはジンの手の中をすり抜けると、自らの翼の力で飛び上がって、ジンの目線で動きを止め、浮遊した。
(はーん? お前かぁ、神見習いの劣等生ってのは)
 小さなドラゴンは、ジンの顔をまじまじと見た。
「ジン、この者は今回、汝のサポートをすることになっておる。好きなだけ頼るが良い。もっとも……頼れるかどうかは別だが……」
 天の神がちらっと、ドラゴンを意味ありげに見た。
「こやつは、えばっておるが、汝と同じ、龍神見習いの劣等龍……だからいつまでたっても、ちびっこいままなのだ……似た者同士、仲良くな」
 ドラゴンは、痛い所を衝かれたらしい、苦い顔をしている。
「大丈夫ですよ。頼るつもりは無いですから」
 ジンは、にっこりと笑った。
(ってめ、おい、ふざけるな! 俺はお前をサポートするのが、試験なんだよっ)
 ドラゴンは、ジンの態度に腹が立っていた。
(仕方ねぇからサポートしてやるっつってんのに、何だよ、いけ好かねぇなぁ)
「まぁ……何にしろ、汝らは一緒に行って貰わぬと困るでな、宜しく頼むよ、キバ」
 天の神は、ドラゴン……基キバに向かってそう言った。
 キバはホント仕方ないといった様子で、溜め息を吐いた。
「あの……どうやって人間界へ行けば?」
 ジンが、ふと疑問に思ったので、天の神に聞いてみた。
 天の神はふふっと笑って、井戸を指した。
「この井戸は、人間界へ繋がっておる。つまり、この中へ飛び込めば、人間界へ行けるということだ」
 ジンは、天の神が示した、井戸の中の水を見る。
 さっきの女の子が、映っていた。
「……あの、俺……泳げないんですけど?」
 ジンが、苦々しい顔をして、天の神の方を見た。
 天の神は、大丈夫とでも言いたげな顔をして、ジンの肩を、ポンと軽く叩いた。
 ジンは危うく井戸に落ちかけたが、何とか持ちこたえた。
(おい、さっさと行かないと、お前また試験落ちるぞ)
「そ……っそんなこと言ったってなぁ……っ」
 ジンの顔は引きつっていた。
 井戸に落ちるよりは、試験に落ちる方がまだましだ……っ
 ジンはそう思いながら、井戸の水を見続けていた。
 行きたいけど行けない、そんな心境だ。
(ぐだぐだ言ってねーで、行け!)
 突然、ジンは背中に軽い衝撃を受けた。
 ジンはそのまま、頭から、井戸の水の中に突っ込んで行った。大きな音を立てて、水しぶきが飛ぶ。
 キバが、ジンの背中を蹴ったのだ。
 ジンは抵抗する間も無く、水の中に沈んでいく。
(さて、俺も行くか)
 キバが、自分も井戸の中に入ろうとすると、天の神が、優しく微笑んで、言った。
「ジンを、宜しく頼むよ、キバ」
(はい)
 キバは自ら、井戸に飛び込んだ。
 小さな水しぶきが飛んだ。

 ジンは、水の中に居た。
 流れに身を任せ、頭から沈んでいく。
(おい! 馬鹿。目ぇ開けても平気だろ、息してっか?)
 どこからか声が聞こえてくる。
 目……? 息……? 馬鹿なのはそっちだろ、何言ってんだ。だってここは井戸の水の中……。
 意識がもうろうとしていたジンは、そんなことを思いながら、はっと我に返った。
「……って! 俺今、神見習いだから水の中でも平気じゃんっ俺馬鹿じゃん」
(だから言ったろ、馬鹿)
 いつの間にか、ジンと一緒になって沈んでいく、キバの姿が。
 さっきの声も、キバのものだったのだ。
 ジンは、大きく息を吸い込んだ。
「……苦しくない」
 ジンは、大きく目を見開いた。
(当たり前だ)
 キバが偉そうに、腕を組んで言った。
(お前はもう、人ではないからな)
 その言葉に、ジンは少し、悲しくなった。
 分かっていたことなのだ。そんなこと。
 でも……それでも、ジンは少し悲しかった。
 神見習いになった時点で、人間という存在では、無くなってしまったのだ。
 ジンが次に光を見たのは、頭の上だった。
「う……っ」
 眩しさで、目がくらんだ。
 水の中から出ると、そこはどこかの海だった。井戸の中のはずだったのに、普通は底があるはずだが、光の中で、空を見た気がしたジンは、思い切って、外に出たのだ。
 一面に広がる青い空、少し緑がかった青い海。
 決して、綺麗とは言えなかった。
(ここって、港か?)
「そうみたいだな」
 キバが、船を見つけて、手すりの上に乗った。
 ジンは頷いて、海の水を、手で掻き分けながら、前に歩いていく。砂浜に出た。カモメが鳴いている。
「……あの女の子は? どこだ?」
 ジンが、周りを見渡す。
(さぁなぁ……でも、ここに出たってことは、この近くに居るんだろうよ)
 ジンが、キバの居る船の方へ歩いていく。
(な……何だよ?)
 ジンが、キバをじっと見た。キバが、少し戸惑う。
「俺の肩に乗れよ。浮いてると、疲れるだろ?」
 ジンが手を、キバの目の前に差し出した。
(結構だ)
 キバは、小さな手で、ジンの大きな手を振り払った。
 ジンは少しムッとしたが、何も言わなかった。
(それより、分かってるな? 自分がやること)
 キバが、真剣な眼差しで、ジンに聞いた。
「ああ。水に映ってた、あの女の子を?助ける?んだろ?」
(そっ、どういう意味の?助ける?か、よく考えろよ。――あと、一つ忠告しといてやると、試験対象を万が一、死なせることがあったら、どうなるか……)
 ジンが、ゴクリと唾を飲み込む。
(人間殺しになる上に、失格になる。つまり、試験対象を死なせた時点で、お前も、俺も、?消滅?は免れない)
「ちょっと、何でお前まで消滅なんだよ、龍神ってのは……」
 言いかけて、ジンは止めた。よくよく考えてみたら、ジンは龍神のことについて、何も知らないことに気付いたからだ。本物の龍を見たのだって、これが初めてだ。
(キバでいい。……俺は特別なんだよ。龍神様に嫌われてるんだ。今回は、天の神様のおかげで、チャンスが頂けた。本当に感謝している)
「……そうなのか……」
 ジンが知る限り、龍神というのは、神の下で、神の手助け、サポートをしていて、神にも色々な神がいるが、龍神にも色々な龍神がいるらしい、ということだけで、本当は何をしているのか、ジンは知らない。
(じゃ、そーゆうことだから、さっさと行くぞ)
 キバがそう言って、急にジンの頭の上に乗っかった。
「え……っあ……っ」
 ジンが驚いた顔をしている。キバが、そんなジンの顔を見下げて、言った。
(てめーの肩には、死んでも乗らねー)
「……別にいいけどさ、髪くしゃくしゃにするなよ?」
 ジンは、溜め息を吐いた。
 とりあえず車道を歩いて、あの女の子を探すことにした、一人と一頭。
 車道に出る階段を探していたが、近くに岩場があり、階段を、すごく離れた所に見つけた。
「……どうする?」
(岩場登った方が、スリルがあるぞ)
「は?」
(大丈夫だって、落ちそうになったら、俺が助けてやるから)
 そう言う、キバの目が、気持ち悪いぐらい、キラキラしていた。
 ジンは、岩場を登るなど、少し気が乗らなかったが、キバがあまりにも煩く言うので、諦めて、言われた通りに、岩場を登り始めた。
 すると途中で、岩場のすぐ上の車道で、あの女の子が歩いているのを見つけた。
「あ……っあの子だっ」
 ジンが、思わず呟いた。
 キバの目も、あの女の子を捉えていた。
(名前は、矢野紗絵。年齢十六歳高一、二年前、父と弟を一緒に失っている、現在母親と二人暮らし、が、母親は水商売なので、ほとんど家にいない)
 キバが急に、そんなことを話し始めたので、ジンは驚いて、後ろに倒れそうになった。
「な……っお前何でそんなこと分かるんだよ」
(これぐらいの神術使えないなんて、お前ホントにやばいな。こりゃサポート必要だわ)
 キバは、呆れたように首を傾げた。

 紗絵は歩いていた。一歩一歩、ゆっくりと。
 紗絵は海の方へ行きたかったのか、ジンとキバの方へ歩いてくる。紗絵は車道を横切っていた。
「ん……っ」
 ジンは、力一杯岩を登った。
 最後の岩に右手を掛けたところだった。
 突然、トラックが走ってくる音がした。そのトラックは、紗絵目掛けて走ってきたのだ。
 ジンは、目を丸くした。
「――っ危ねぇ!!」
 ジンは叫んだ。左手をとっさに、トラックに気付いて、立ち竦んでいる紗絵に向けた。
 すると、紗絵は一瞬にして、その場から消えた。
 トラックの運転手は、さっき見えていた少女の影は幻かと勝手に思い、そのまま走って行った。
 紗絵がどこに消えたかというと、堤防の上だった。
「……! え!?」
 一瞬の出来事だった。紗絵がそこに立っていたのは。
「な……っ何!?」
 今一瞬、自分の身に何が起こったのか、全く分からなかった紗絵は、驚いたと同時に、堤防から足を踏み外した。紗絵は海岸の方へ落ちていく。
「あ……っ」
「くそ……っ」
 ジンは舌打ちをして、紗絵の方へ飛んだ。
 岩を蹴って跳んだので、すぐに落ちたのだが、紗絵がどうなったのかと言うと、キバがとっさに紗絵の衣服を銜えたので、浮いたまま、怪我一つしていない。
「……う……嘘っ浮いて……っ」
 紗絵は慌てた。そして混乱した。今、目の前の光景が、信じられなかった。
「あ……あ……あたしもしかして、……しっ死んだの……? そうだ……絶対そうだ、でなきゃこんなのありえないもんっ」
 街が、人が、少し小さく見えた。
(馬鹿。死んでねぇよ)
 紗絵の後方から、何かの声が聞こえた。
「え……?」
 紗絵は、恐る恐る声の主を確かめてみた。
「ひっ」
 紗絵は、自分の目を疑った。そして、急いで後ろを見ていた目を、前方へ戻した。
「嘘だ嘘だ、これは夢……? それともホントにあたし死んだの? そうだよね、だってさっき目の前にトラックが……っ」
 一瞬、トラックが自分に突っ込んでくる場面を思い出して、紗絵はゾッとした。
「やだ……っやだやだっ降りたいっ降ろして! あたし高所恐怖症なのよー!」
 紗絵は、手足をバタつかせた。恐怖で心が震えたのだ。
 紗絵があんまり暴れるものだから、キバは少しバランスを崩してしまっていた。
(……おっおいこらっ暴れんじゃねぇっ落ちるっ)
 キバは仕方なく、紗絵を地面へと、ゆっくり降ろした。
 紗絵は砂に膝を突いた。
「はぁ……っ怖かった……」
 紗絵は溜め息を吐いた。
 キバは一息吐いて、うつ伏せに倒れたままのジンを見つけて、また溜め息を吐いた。
(……何やってんだよ、お前はぁ~。おい、ジン?)
 キバが、ジンの顔を、横から覗き込んだ。
 ジンは顔を上げて、キバを見た。
「大丈夫……俺は……何とか」
 ジンが、ふと紗絵の顔を見上げてみると、彼女は何やらブツブツ呟いていた。
「何だろう……この生き物……ドラゴン? イヤそんなはずは……っ本物なわけないし……はっ……もしやロボット……? 最近の科学は進んでるらしいし……もしかしたら……きっとそうよね、そうに決まってるわ」
 勝手にキバをロボットと決め付けた紗絵は、やっと少し落ち着いたらしく、ジンの方に目を向ける。
「……だ……大丈夫ですか?」
 とてもか細い声で、ジンに向かって少女は聞いた。
「――ん……平気」
 ジンは、そんな紗絵の様子を見て、やっと起き上がる気になって、ゆっくりと立ち上がった。
「でも良かった、怪我してないみたいで……」
「え……あ……はい」
 紗絵は、ジンに言われて初めて、自分が生きていることに気付いた。そして、ジンの足元に居るキバを見た。
「あの……それ……あなたの……ですか?」
「……え?」
 ジンは、紗絵が指差している所を見た。
 どうやら、キバのことを聞いているようだったので、ジンは一応、否定はしないでおいた。
「あの……その……寒くないですか? その格好」
 紗絵は、ジンの服装が、今の時期に似つかわしくないと思っていた。何故なら、ジンは長袖のTシャツ一枚という、秋ならまだいいか、と思う格好。
 人間界の日本は今、丁度真冬だったのだ。
 見ると紗絵は、コートを羽織って、マフラー、手袋までしている。
「え……っあ……っう……っだ……っ大丈夫、俺、暑がりだから」
 ジンは、何とか誤魔化す。神見習いのジンは、体温を感じないのだ。だから、真冬の海だとも気付かずに、冷たい思いをせずに済んでいた。
「何か……ちょっと濡れてるみたいだし、あたしのマフラー貸してあげます。あ、返さなくても良いですから」
 そう言って、紗絵は、自分の首に掛けてあったマフラーを、ジンの首に巻きつける。
 ジンの方が、身長が高いので、紗絵は背伸びして、少しやりにくそうにしていたが、何とか巻いた。
「じゃあ、ありがとうございました」
 そう言って、紗絵は駆け出した。マフラーは、せめてものお礼だったらしい。
 そんな紗絵の後姿を、ボーっと見つめるジン。
(優しい子じゃねぇか。可哀相に)
 キバが、ジンに同意を求めようとした時、ジンが、急に走り出した。
(――っおい!?)
 キバが慌てて追いかける。
「……っ待って!! 紗絵ちゃん!!」
「……え?」
 ジンの叫び声に、紗絵は思わず立ち止まって、振り向く。ジンが、走って来るのが見えた。
「……っマフラー、やっぱり、俺は要らない、大丈夫だから。君が風邪引いちゃうって」
 ジンは、紗絵が巻いてくれたマフラーを、引っ張って取る。そしてそのまま、今度はジンが、紗絵の首に巻きつけた。
「あ……ありがとうございます……えと……どうして、あたしの名前を……?」
 紗絵はマフラーより、そっちの方が気になった。
 名乗ってないはずなのに、どうして……。
 紗絵は、ジンに答えを求めた。
「あ……それは……っその……えと……」
 ジンは考えた。本当のことを言っても良いものか。
 まぁ……でもどの道……。
「俺……実は、神見習いなんだよね」
「……は?」
(馬鹿やろーー!!)
 次の瞬間、紗絵は目を丸くし、キバはジンの頭に蹴りを入れた。ジンは、蹴られた部分を押さえて、その場に蹲る。結構痛いらしい。
(何、勝手に正体ばらしてんだてめー!)
「いってー」
 キバが、ものすごい勢いで、ジンに怒鳴る。
「でもさぁ……言っておかないと、色々面倒だろ……?」
(そういう問題か!)
 キバが、何度も何度も、ジンの頭を踏みつける。
「あた……っいて……っいて……っ」
(馬鹿! 楽しや良いってもんじゃねぇっ大体っ)
「……嘘だよ、そんなの」
(え……?)
 キバの怒鳴り声は、紗絵の言葉に、止められた。
 キバは、紗絵をじっと見つめた。
「頭おかしいんじゃないの……? 神とか……言っちゃって、信じてるんですか?」
 ジンは、顔をしかめて、立ち上がった。キバが、ジンの頭の上に乗ったままだ。
「信じてるも何も、会ったことあるし」
 ジンは、大真面目に言った。
 すると紗絵は、くすくすと笑い出した。
「神様なんて存在、あたし達人間が作った、ただの幻想ですよ」
 ジンは、何ともならない気持ちになった。キバは怒りを抑えるのがやっとだった。
 紗絵は、神の存在を、真っ向から否定したのだ。
 それは同時に、神見習いであるジンや、龍神見習いのキバの存在を、否定したことになる。
「……確かに……最初はそうだったのかもしれない。でも……っでも……っ」
 ――じゃぁ、俺は一体何なんだ……?
 ジンは考えていた。
(信じるも、信じないもお前の勝手だがな……あの方を否定するのだけは許さねぇぞ)
 キバは、紗絵を睨んだ。
「……何よ……ロボットのくせに……あたしに喧嘩売ってるの……?」
(ロボットじゃねぇ!)
 キバは、叫びながら、口から炎を吹いた。
「!? 火が……っ」
 紗絵は驚いて、少し後ずさりした。
「こら、人の頭の上で火を吹くな。髪が焼ける」
 ジンは、キバの頭らへんを突いた。
「い……っ」
 キバがジンに対して怒ったのか、自分を突いていたジンの指に噛み付いた。
「こ……っこら、落ち着けっ」
 ジンが、キバを宥める。
「……あたしも……最初は信じてたんですよ。神様のこと……あなたにこんなこと言うの、変ですけど」
 ジンは、紗絵の方を見た。
「でも……でも……どんなに祈ったって……助けてくれないじゃないですか……」
 キバが、ジンの指から離れた。
(お前……)
 キバから怒りは消えていた。紗絵を見る目も、少し柔らかくなった。
「本当に……神様が居るのなら……助けてくれても良いじゃないですか……答えてくれても良いじゃないですか……どうして……」
 紗絵は、泣きそうになっていた。
 父と、弟のことを思い出していたのだ。
「紗絵ちゃ……っ」
(それは、お前が選ばれた人間だからだ)
 紗絵は、キバを見上げた。
「え……?」
(お前は、普通の人間より、高貴で、特別な存在なんだ。お前の人生は、元々お前に課せられていたものなんだよ)
「……高貴……? 元々……? それって……運命ってやつ……?」
(そうだ)
 紗絵の言葉に、キバは頷いた。
 ジンは、今までの数々の疑問が、少し解けたような気がした。
「……あ……じゃぁ、天の神様がこの子を俺の試験対象に選んだのって……」
(そう、普通の人間を、あの方が選ぶわけが無いだろう。神様に、より近い存在、お前、この先の人生も、苦労するぞ)
 紗絵は、キバの言葉に不安を覚えた。
 この二人の会話を、聞けば聞くほど、信じなければいけないような、そんな気持ちになってきてしまう。
「……じゃぁ……人間だった時の俺と、似たような人種なのか……なるほどな……」
(お前みたいな人間は、そう居ないんだ。今までもこれからも、お前は試練を乗り越えていかなきゃならん)
「そんな……っじゃぁ、これからも、もっとこれ以上苦しい目に遭わなきゃいけないってことなの……?」
(そうだ)
 キバは再び、頷いた。
 ジンは、紗絵の、やるせない気持ちが、痛いほど分かった。
 ジンも以前、紗絵と同じだったのだ。
「嫌だよ……そんなの」
 紗絵は俯いていた。
「紗絵ちゃん、大丈夫、乗り越えられない試練なんて、与えるわけないんだから。俺も乗り越えて、今があるんだし……こんなだけど」
 ジンは、少し苦笑いをした。

「……あの、結局……あなた達は、あたしに何をして欲しいんですか……?」
 紗絵は、きっとそうなのだと思って、聞いた。
「あなた達の話を信じるとして、最初から、あたしに会うために、ここに来たんですよね?」
 紗絵なりに考えた結果での、質問だった。
 キバとジンは、上と下で、顔を見合わせた。
「簡単に説明すると、俺は神見習いと呼ばれる存在で、神様になるために、天界で再び命を与えられた、元は君と同じ人間だ」
(俺は龍神見習いで、龍神様になるための存在だ)
「はぁ……」
 紗絵は、間の抜けた声を出した。
 キバとジンは、紗絵に、神様が複数居ること、自分達の最終試験のことを、全て話した。
「……そこまで言われても、やっぱり半信半疑までね」
(作り話でここまでやるかよ)
 キバは、溜め息を吐いた。
 突然、地響きが聞こえてきた。それと同時に、地面が揺れ始めた。
「え……っ地震……!?」
 紗絵達は良く分からなかったが、結構大きな地震らしく、立っていられないほどであった。
「大丈夫か?」
 しばらくして、揺れは収まっていた。
「……大きかったよね、今の……家、大丈夫かな?」
 紗絵は不安を感じていた。
 紗絵達のいる位置からでは、他の家も、どうなっているのか、全く分からない。
(おい、とりあえず、ここから離れるぞ)
 キバが、ジンの頭の上から、浮きながら離れた。
「え!?」
(地震の後には津波が来る! 飲み込まれるぞっ)
 よし、逃げよう、とした時だった。
 ジンが、もう津波がこちらに向かって来ていることに気付いた。ジンは立ち止まった。
(おい、ジンどうし……っ)
 ジンが来ないので、振り返ったキバが、津波に気付いた。
 津波は、まだ少し遠くの方にあるが、すごい勢いで、ジン達の方へ向かってきていた。
「……キバ、紗絵ちゃんを頼む」
 キバは、津波と向き合っていたジンの背中を、見つめた。
(どうする気だよ……っ神術まともに使えないくせに……っ)
 紗絵は立ち止まっているジンとキバを見てから、津波に気付く。
「……っちょっと、どうしたんですか? 早く逃げないと……っ」
 紗絵が一歩、キバの方へ踏み出した。
「何とかするっいいから行け!」
 ジンが叫んだ。キバは、ジンが本気の目をしていることに気付いた。キバは、ジンに懸けてみることにした。
(よし……っこっちは任せろっ矢野紗絵っ行くぞ)
 キバは、小さな両手で、紗絵の手首を掴んで引っ張った。
「え……え……っちょっと……っあの人は!?」
 紗絵は、このまま行っても良いものか、少し戸惑った。
 ジンが、ふと紗絵達の方を振り返った。
「勘違いするな。俺は人が死ぬ所が、見たくないだけだ」
 決して、試験には関係ないと、ジンは言いたかった。
 そして、ジンはそのまま、海の中……嫌、津波のせいで海水が引いていた場所を歩いていく。津波は、ジンの目の前まで来ていた。
 ジンは右手を、津波に向けた。
 何かの呪文を唱えると、津波は、瞬く間に凍っていった。
 それを見た、紗絵の足が止まる。キバも、動けなくなっていた。思わず目を見開いていた。目に見えている限りの、津波は全て凍ってしまっていた。
 ジンは再び、何かの呪文を唱える。すると、凍った津波は次の瞬間、粉々になって砕け散った。
(な……っ)
 キバと紗絵は、今、目の前で起こった光景に、信じられない気持ちで一杯だった。
(ありえない……っあの劣等生が……っ)
「何……今の……っあれが、神術ってやつ……?」
 紗絵とキバが、ジンの傍へ戻ると、ジンも、自分が今起こしたことに、驚いているようだった。
「何これ……俺、こんなこと出来たんだ……」
 ジンは呟いた。
(やりゃー出来んじゃねぇか)
 キバの言葉に、ジンは思い出していた。
 ジーナの言葉を。
『何よっ自信ないの? あんたホントは、やれば出来るんでしょ!?』
「すごいです! すごいです! ありがとうございました!」
 紗絵がものすごい勢いで、ジンに頭を下げた。
 ジンは我に返った。
「あ……いや……その……これは、まぐれ……そう、まぐれなんだよっ」
 ジンは否定した。気恥ずかしかったのだ。
(阿呆。まぐれなわけあるか)
 キバは、紗絵の頭の上から言った。
(今まで、力を扱いきれなかっただけだろ。元々お前は、天の神様並の、神力を持ってるんだ。あるいは……それ以上の力を……)
「それ以上……?」
 ジンは、眉をひそめた。
(天の神様は、全てお見通しさ。さて、お嬢さん)
 キバは、逆さまになって、紗絵の顔を覗き込んだ。
「……はい?」
(これからしばらく、宜しくお願いしますわ)
「宜しくって……え?」
 紗絵は、キバが何を言っているのか、分からなかった。
(え? って……言っただろ? 君はジンの試験対象、君が死んだら終わりなの。何もかも。だからそうならないように、君の命を守る。これから二十四時間、君を監視させてもらうよ?)
「二十四時間って……お風呂とかトイレとか着替えも……っしばらくって、いつまで……?」
 紗絵は、顔を引きつらせた。
(さぁ?)
 キバは首を傾げた。
「さぁって……ちょっと……」
 ジンは、紗絵の困った顔を見て、キバをむんずと掴み上げた。
「おい、聞いてねぇぞ、二十四時間監視なんて」
 ジンは、少し怒っているようだった。
(うん。今俺が決めたから)
「はぁ!?」
 ジンは、キバをじっと見た。
(……色々面倒だろ……?)
 キバは、ジンを見て、にやりと怪しげに笑った。
 ジンは、キバから目を離し、引きつった顔で、紗絵を見た。
「……だそうです」
「……マジで?」
 紗絵は、さらに顔を引きつらせた。

 天界、天の神の庭……。
「ジン・カラサワが……。ようやく神力をコントロール出来始めたようですな」
 火の神が、天の神の庭園に、足を踏み入れた。
 天の神は、先程の、薔薇に埋もれたベンチで、また眠っていた。
「何とか言ったらどうです?」
 天の神は眠ったままだった。
 しばらくして、そのままの姿勢で、天の神は呟いた。
「あやつの力は、まだまだ未熟だ。常にコントロール出来るようになるまでは、何とも言えぬ」
 二人はそのまま、沈黙した。
 風が吹く。風の神が起こした、心地良い風だった。
「……あやつは、力を持ちすぎた。ゆえに使いこなせていない。しかし、使いこなそうと思えば、使いこなせるのだ。あやつが、やる気さえ出せばな……」
 ふと、天の神が口を開いた。
 相変わらず、ベンチに伏せっている。
「……どうして……ジン・カラサワの試験対象に、矢野紗絵を選んだのですか……?」
「何か、変えてくれると思ってね。互いに力になる」
「……良い方向に……転がるとお思いなのですね」
 天の神は、静かに頷いた。
「あたながそう思うのなら……そうなのでしょうね」
 火の神は納得した様子で、その場から立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まった。
「……そういえば、一つ聞き忘れていました」
 火の神は、振り返って、天の神を見た。
「質問好きな奴だな……何だ」
「龍神見習いの……キバと言ったかな。あれも行かせたのは……」
 天の神は、ゆっくりと目を開けた。
 綺麗な黄緑色の瞳が、神秘的に光る。
「良い方向に……転がると思ってね」
 天の神は、怪しげに微笑んだ。
 火の神は、少し首を傾げると、「そうですか」と言って、その場を去っていった。
 火の神が去っていった後に、天の神は、ベンチから顔を上げた。
「……本当に大変なのは、これからだ。良い方向に、仕向けるのが、天の神の、使命とも言えよう」
 天の神は、目を細めた。
 その瞳の奥に、紗絵と、ジンと、キバの姿が映っていた。
「頑張れ」
 天の神は、ぽつりとそう呟いて、またベンチに伏せた。

「全く……あいつはホント、馬鹿なんだから」
 森の中に、小さな泉がある。
 ジーナは、他の水属性の神見習い達と一緒に、そこで試験を受けていた。
 泉の水面に、ジーナの視覚の範囲内に、ジンの姿が、何故か映し出されていた。
「ジン・カラサワのことですか……?」
 ジーナが、その声に振り返ると、そこには、綺麗な水色の髪の毛がウェーブしている、水の神が清楚に立っていた。
「み……っ水の神様!」
 ジーナは口元を押さえた。今の自分の発言が、水の神に聞かれていたことを、恥じた。
「す……っすみません、私、何とはしたないことをっ」
 ジーナが、水の神に頭を下げると、水の神は、その美しい顔で、ジーナに微笑んで、言った。
「元気があって、良いではありませんか。恥じることなどありません。あなたは、あなたなのですから」
「あ……ありがとうございます!」
 ジーナはもう一度、勢い良く、水の神に頭を下げた。
「それより……驚きました」
「え?」
「あなたはとても、仲間思いなのですね。あなたには、この試験、少々荷が重いものと、思ってましたのに」
 水の神のその言葉に、ジーナはにこりと、笑ってみせた。
「あいつのためなら、何でも出来ます! だって、あたしはあいつを信じてますから!」
 そう言いきったジーナを見て、水の神は、優しく微笑んだ。
「あとは頑張れよ! お前ならきっとやれる!」
 ジーナは、泉の水面に映っているジンを見て、そう言った。
 その目はいつまでもいつまでも、変わることのない、強い目だった。

「天の神様の所に……行っておられたのですか?」
 天の神の庭園から、帰って来た火の神を見て、カイルは言った。
「そうだが。何か言いたげだな? カイル」
 火の神は、カイルを横目で見る。
「いえ……。ただ、もしかしてあなたは、あいつのことを、余り良く思っていないのかと」
「あいつ……とは、ジン・カラサワのことかね?」
 カイルは静かに頷く。
「良く思っていないわけではない。安心しろ。私はただ、あのお方に、聞きたいことがあったから、聞いてきただけだ」
 二人はずっと、お互いを見合っていた。
 心が読めない同士、どこか似通っているのだ。
「さぁ、今はそんなことはどうでもいいだろう。君は早く、試験に戻りたまえ」
 カイルは、火の神にせかされて、試験へと戻っていった。
 火の神は、カイルの後姿を見ながら、頭を掻いた。
「苦手だ……。どいつもこいつも」

 矢野紗絵はこの日、自身にとって特別な場所である、近所の海へ向かう途中であった。
 まさかこんなことになるとは、夢にも思っていなかったであろう。溜め息を吐いた。
 息が白い。紗絵は、冷えてきたなと思った。
「……ところで、何で海に?」
 ジンが、紗絵に聞いた。
(……お前、さっきのマジでまぐれ? 神力で分かんねぇの?)
「うん」
 ジンはあっさり、首を傾げた。
「何かね……さっきっからやってんだけど、全然見えないの……いつもどうり」
 ジンがそう言うと、キバは溜め息を吐いた。
(何か今日……俺溜め息吐いてばっかりだな)
 キバは、頭を掻いた。
 紗絵は、少しの間黙っていたが、やがて話し出した。
「お参り……かな? 二年前、父と弟が、二人とも大の釣り好きで、よく、この海で、船を出してたの」
 紗絵は、少しだけ、寂しそうな顔をした。
「……死体がね……見つからなかったから……まだ、どこかで生きてるんじゃないかと思って、忘れられなくて、この海に来てるの」
 紗絵は、海をじっと見つめていた。
「それって……変かな? 死んでるって分かってるのに……あたし、信じられないだけなんだけど……」
 紗絵は、少し苦笑いを、ジンに向けた。
「……いいんじゃない?君らしくて」
 ジンは、海を見た。
「え?」
「紗絵ちゃんは紗絵ちゃんだし、他の人の意見に流されることはないよ、らしく生きな」
「らしく……かぁ……」
 紗絵は、ぽつりと呟いた。
「知ってる……? 苦しみとか、悲しみってのはね、時が癒してくれるものなんだ」
(……何かっこいいこと言っちゃってんだよ)
「くしゅんっ。ん……」
 紗絵のくしゃみに、ジンが寒いことに気付いた。
「……キバ、神力使えるか?」
(有り余ってんぜ? 何?)
 ジンが気を利かせようとしたが、キバは気付かないらしい。
「紗絵ちゃんの家に飛んでくれ。寒いから」
(お? おかしいな。体温感じないはすだけど。優しいねぇジン君は)
 キバがそう言って、ジンを少しからかうと、地面に降りた。
 キバは、小さな両手を、ジンと紗絵に向けた。ジンと紗絵とキバの足元の地面が、光り始めた。
「え……っ何!?」
(動くなよっ)
 キバが、そう言った瞬間だった。
 二人と一頭の姿が、海岸から消えた。

 紗絵が次に見たのは、自分のアパートの、見慣れなた玄関だった。
「……い……今のは……もしかして」
(瞬間移動。やっぱいっぺんにやるとキツイな。ちょっと寝かせ……っ)
 キバが突然、床に倒れた。
 紗絵は驚いて、急いでキバを抱き上げた。
「大丈夫!?」
(グゥ……)
 見ると、キバは眠っていた。紗絵は、ほっと胸を撫で下ろした。
「神力の使いすぎで眠ってるだけだよ。一晩寝れば回復するから、今日はこのまま寝かせてやろう。こいつには大分、世話を掛けちまった……」
 ジンは、頭を掻いた。
「座布団と、ハンカチあるか……?」
「え? うん」
 紗絵とジンは、座布団の上に、キバを寝かせて、大きめのハンカチを、被せてやった。
「……ふっ……ふふっ変なの」
 紗絵が突然、くすくすと笑い出した。
「何……?」
「だって……ジン……さんて、全然神様って感じがしないし……何か、普通の人みたい」
 その言葉に……ジンは俯いた。
「俺は……まだ神様じゃないけど……普通の人でもないよ」
 キバが、静かな寝息をたてていた。
「天界で生まれて、天界で育って……神力っていう……変な力もあって……神様になるためだけに生まれてきた者が、普通って言える……?」
 ジンは、紗絵に問いたかった。
 自分の存在の、その意味を。紗絵が知るはずないことは、百も承知だった。それでも、問いたかったのだ。
「……俺は、どうせ生まれ変わるなら、普通の人間として、生まれ変わりたかった……っ」
 ジンは、紗絵の顔を見つめた。紗絵は、目を逸らせなかった。
 何て……縋るような目……。
 紗絵は、その目を見て、思った。
「キバだって、きっと同じだ」
 ジンはそう言うと、紗絵から目を離した。
 そして、頭を抱えた。
「俺は、人間だった時に、死んで、やっとこの世の苦しみから全て、解放される日が来たんだと思った。でも、神様は俺に、再び試練をお与えになった。神見習いとして、俺に存在しろと仰った」
「試練……」
 紗絵が、ゆっくりと呟いた。
「紗絵ちゃん、君もいずれ、俺と同じ目に遭う。だけど、辛くなったら言って? 誰かに。話を聞いて貰うと良い」
 ジンの言葉に、紗絵は下を向いた。
「話なんて……聞いてもらう相手が居ないよ。お母さんも帰ってこないし……」
「しばらくは、俺と、キバが居る」
 紗絵は顔を上げた。
「頼っていいから。一人じゃないから」
 ジンの言葉が、一言一言、紗絵の心に響いた。
「今まで……一人でご苦労様でした」
 紗絵の目から、涙がゆっくりと流れていた。
「あれ……?」
 ジンは、柔らかく笑った。
「我慢しなくても良いよ」
 そう言って、ジンは紗絵の頭を撫でた。
 紗絵の涙はもう、止められなくなっていた。
 ジンは、紗絵が泣き止むまで、ずっと頭を撫でていた。

 明け方、紗絵が目を覚ますと、ジンは窓辺で外を見ていた。
「ジンさん……?」
 紗絵が、目を擦りながら起き上がる。
「まだ寝てて良いよ。何時に起こせば良い?」
 紗絵が起きたことに気付いたジンは、紗絵に目覚まし時計を見せる。見ると確かに、まだ起きるのには早い時間帯だ。
「あー……良いですぅ。今日休みだし、昨日は……お風呂に入りそびれてしまったので……今からお湯沸かして、朝風呂にでも……入ります」
 紗絵はそう言うと、毛布から抜け出した。やはり明け方なので、いつもより冷える。
「う……さむ……っ」
 紗絵は思わず、声を漏らして、肩を震わせた。
 そんな紗絵の様子を見ていたジンは、紗絵の頭から、もう一度毛布を被せた。
「! もごっ……っちょっと、何ですかいきなり!」
 紗絵が毛布から顔を出すと、ジンが言った。
「俺が沸かしてくるから、君はそこで座ってなさい」
「え?」
 紗絵は、きょとんとした。傍らでは、キバが寝息をたてている。
 沸かし方、分かるんだろうか……。
 紗絵はそんなことを思って、浴槽に歩いていったジンを追う。寒いので、毛布を肩にかけたままだ。
 顔を覗かせると、ジンは頭から、シャワーの、しかも水を被っていた。
 紗絵は思わず噴出す。
「ぷっ」
「……っ紗絵ちゃん! あ……ははは……」
 ジンは、この失態が恥ずかしくて、頭を掻いた。
 普通の人間なら、水を被った時点で、冷たくて騒ぐだろうが、ジンは、体温を感じないので、濡れているのは、それ程気にしていなかった。
 結局……紗絵が風呂を沸かすこととなった。
「いやー、なんせ、人間の生活は百年ぶりだから。あ、でも……人間界と、天界では、時間の経ち方が違うんだっけ」
「そうなんですか?」
「多分ね」
 居間で、ジンは紗絵に、頭をドライヤーで乾かしてもらっていた。ドライヤーの使い方でさえ、ジンは知らないと言うのだ。
 紗絵は、溜め息を吐いた。
 何やってんだろ……あたし……。
「キバ、なかなか起きないね。くすぐっちゃるっ」
 ジンがそう言って、キバの脇腹をくすぐり始める。
(っふが!)
 こそばゆくて、キバは目を開く。
「お、起きたか」
(ってめー何すんだよ!)
 キバが、勢い良く飛び上がる。
 ジンは、怒っているキバを見て、笑った。
 紗絵がキバに、ドライヤーを向ける。ドライヤーの強風で、キバが吹き飛ばされて、近くの壁に激突した。
(ぶへっ)
 キバが、奇声を発する。
 それを見た紗絵とジンは、さらに笑った。
(てめぇらー! ふざけるのもいい加減に……っ)
 キバが口から炎を吹くと、紗絵とジンは、キバが本気で怒っていることに気付く。
「あ……あたし、お風呂見てくるね!」
 紗絵はそう言って、その場から逃げ出す。ジンは逃げ出す口実が見つからず、慌てた。
「お……っ俺、そうだ、トイレ! トイレに行って来る!」
(トイレに行く必要ねぇだろ、お前はよぉ。人間じゃねぇんだから。それとも何か? トイレで踏ん張ってれば、何かしら出ると思うのか? 良いだろう、俺様が内臓抉り出して調べてやろう)
「ひぃー! そんな怖いこと言わないで!」
(それとも髪の毛アフロにしてやろうか!?)
「止めてー!」
 ジンが涙目で、キバに土下座する。
「あたしお風呂入るから、覗かないでくだいね」
 紗絵が扉から顔を出す。
 その瞬間、キバが仕返しにと、目を煌かせた。
(そうだ、ジン。お前、紗絵のこと監視しなきゃいけないだろ?)
「え?」
(しなきゃいけないだろ?)
「うん」
(なら、常に見てなきゃいけないだろ?)
「……」
 一瞬の沈黙……。ジンと紗絵は、キバが言いたいことをようやく理解すると、顔を、すごい勢いで赤らめた。
「な……っななな……っお……っ俺がそんなハレンチなこと、出来るわけないだろ!」
「そ……っそそそ……っそうですよね! それに、お風呂なんかで危険な目に遭うわけ無いですし!」
(そんなこと、分かんねぇぞ。もしかしたらもしかしたで、うっかり風呂の栓を抜いて、排水溝に吸い込まれそうになったり、タイルで足を滑らせて、転んだりしたら、危ねぇだろ?)
「そんなドジするか!」
 紗絵は思わず、否定の言葉を叫んだ。
「とにかく! 心配は無用ですから、トイレとか、お風呂とか、着替えとか、絶対に覗かないで下さいね! あと、何かあったら、呼びますんで!」
 紗絵は、キバとジンに、きつく言い放った。
「はーい」
 ジンは、キバの両手を持って、右手を上げさせた。
「チッ」
 キバはこっそりと、舌打ちをした。

 その日のお昼頃のことだ。お昼ご飯の材料と、その他諸々を買いに、紗絵とジンとキバは、出かけなければならなかった。
(あんまり出かけないほうが、俺らは楽なんだけどな)
「仕方ないじゃない。このまま飢え死にしたいの?」
 紗絵が、ジンの頭の上に乗っているキバに向かって言う。
(俺らは飯食わなくても平気ですぅ。大体、人間界の飯って、すげぇ不味いって噂だぜ? そんな不味いもん食えるかってんだ)
「ただの噂でしょ? あたし、これでも料理は上手い方なのよ。あんたには、絶対美味しいって言わせてみせるわ」
(はんっ。やれるもんならやってみやがれってんだ)
 キバは紗絵を鼻で笑ったが、玄関を出ようとした少し怒り気味の紗絵が、背伸びして素早くジンの頭の上のキバを掴み、キバを無理矢理、コートのポケットに突っ込んだ。
(……っ何すんだ! いきなり!)
「しょうがないでしょ! あんたは異次元生物なんだから! 見られたら大変なことになるのよ!」
 紗絵はポケットの中のキバに叫び、ジンに笑顔を向けて、歩き出した。
 紗絵とジンは、近くのスーパーまで並んで歩いていた。
 紗絵は、何やらブツブツ一人で呟いている。
「えーと、まずはほうれん草、キュウリ、人参……弁当のおかずに冷凍食品を……」
 一つずつ右手を折っていって、買うものを数えているような紗絵を見て、ジンは少し、お母さんみたいだなぁと、思っていた。
「ん? 何ですか?」
 ジンの視線に気付いたのか、紗絵が、ジンを見る。
「あ……いや……別に」
「そうですか」
 ジンの返答に、紗絵はさほど気にしていないような素振りを見せる。
「――それより……。何か、風が強いですね。おかしくありません……?」
「え? おかしい……?」
 確かに風は、ものすごく強かった。紗絵がスカートを穿いていたら、確実に中の物は見えているだろう。その代わりに、コートがはためいていた。
 その風は、前に進むにつれて、どんどん威力を増していっていた。歩くのもおぼつかないくらい。
 キバが紗絵の言葉に、ポケットから顔を出す。
(……何かとてつもない物が、こっちに近づいてきてる……)
「とてつもない物……? それって何だ、キバ」
 ジンが、キバに聞くと、キバは首を横に振った。
(分からん……。だが……何か良くないものなのは確かだ)
「良くないものって……。な……に……」
 轟音。強風。
 次の瞬間、振り向いたジンの目に、信じられないものが飛び込んできた。
「な……っ何だ……あれ……」
「! たつ……巻き……?」
 紗絵は、目を見開いた。
 前方に、巨大な竜巻が見えた。まだ遠方にあるが、ここまでの影響力。凄まじかった。
 目の前に、畑の広がる場所があり、右側には、海が広がる場所がある。左側には、商店街が。
「このままだと……街の方に来る……っ。俺達を……紗絵ちゃんを、狙っているのか!」
(やべぇぞ! あんなのが街まで来たら……っ)
 キバは思わずポケットから出る。そして、紗絵の頭の上に飛び乗った。
「紗絵ちゃん! 君はここに居て! 危ないから!」
「え!?」
(おい、どうする気だよ! お前、昨日の津波みたく、何とかなると思ってんのか? あれはまぐれなんだろ? 確かにパワーはあるが、使いこなせないだろ! 俺も行く)
 キバが、ジンの頭の上に飛び移る。
「キバ! お前は紗絵ちゃんに付いてろ!」
(馬鹿! 力ってのは、闇雲に使ったて、さらなる危険を生み出すだけだ! 俺がお前の力を受ける。操ってみせる!)
「キバ……」
 紗絵は、言われたとおり、そこから動かなかった。だが、強風で飛ばされそうだ。
 キバは、紗絵を守るために、紗絵の周りに結界を張った。
(これで少しは持つだろう。でももし、俺らが帰って来ないうちに結界が解けるようなことがあれば……諦めろ)
「ちょっ……。頑張って下さいね」
(ああ)
「行ってくる」
 ジンとキバは、紗絵にしばしの別れを告げると、竜巻に向かって、走っていった。
 紗絵はその場で、立ち尽くしているしかなかった。

(ひょえー。これ以上、近づけねぇな。飛ばされちまう)
「あ……ああ」
 ジンが、地面に踏ん張る。キバが頭の上で、爪を立てて、ジンの頭に、しがみついている。キバの翼が、強風に煽られて、嫌でも開く。
「さぁ、始めようか」
(おお!)
 ジンは、二人でなら、この竜巻を、止められる気がしていた。体の中を巡る神力を、キバの体に送る。
(うっ。やっぱりすげぇ……すげぇよお前の力は……っ。俺に、操りきれるかな?)
「お前なら、大丈夫!」
 ジンは大きく目を見開いた。
 キバは、ジンから貰った分も含めて、全神力を、その小さな両手の平に集めた。
(うおおおおおおおおお! いっけえええええ!)
 キバの両手から、光の糸が、二本、一直線に伸びていった。その糸は竜巻全体を、巻いていく。キバは、急激に引っ張られた。
(うおっ)
「どうした!?」
(やべぇ! 飛ばされそう!)
「え!?」
 ジンが、キバの体を掴もうとしたのもつかの間。
(うわああああぁぁぁ……!)
 キバは糸ごと、竜巻に吸い込まれてしまった。
「ちょっ……! ま……マジかよ」
 ジンは、頭を掻いた。だがしかし、悠長にしている場合ではなかった。
 竜巻は、尚も移動を続けていた。
「お……俺が、何とかするしかねぇのか。やれるか……? 俺に……やるしかねぇ!」
 ジンは決心をして、まだ有り余っていた神力を使って、先程キバがやって見せたような、光の糸を、両手から出現させた。しかし、それはとても太く、キバの時の物とは、大分異なっていた。
「あれ……まぁ、良いや」
 ジンはそのことには、さほど気にせず、続けた。
 太い光の糸は、竜巻に向かって伸びていき、先程と同じように、竜巻全体を、巻いていく。ジンは、手ごたえを感じた。
「良しっ。やれる!」
 ジンは、光の糸を二本、片方ずつ握り締めた。そして、交じり合った二つの糸を、左右に引っ張る。
「いっけえええええ!」
 ジンは、力強く限界まで引っ張ると、竜巻をさらに締め付けた。糸を短くしていく。
 次第に竜巻は、風を横に分散していって、そして、消えた。
 同時に、光の糸も消えて、ジンはその場に座り込んだ。
「はぁー。良かった……」
 ジンは、一息つくと、空を見上げた。キバが、ゆっくりと、自身の翼で飛びながら、降りてくるのが見える。
(よくやったー! お前すげぇよ!)
「おう、お前のおかげだ。キバ。分かったんだよ、お前のやろうとしていたことが」
(そうか。でも、風を分散させて、竜巻を消したのはお前だ)
 キバは、ジンの頭の上に舞い降りると、ジンを立たせた。
「さて、帰ろうか。紗絵ちゃんのところに」
(ああ)
 キバは、ジンの言葉に頷いた。
 ジンは、紗絵の所まで、駆けていく。
 戻ってきたジン達に、紗絵はあんどの表情を見せる。
「良かった、無事で」
(俺は疲れた)
「紗絵ちゃんのコートで寝てろ、お前は」
(そうする。飯出来たら起こしてくれ、味見してやる)
 キバはそう言うと、いそいそと紗絵のポケットに入っていった。

 何事も無かったかのように、スーパーに行くと、近所のおばさん達が、先程の竜巻について、噂をしているのが、紗絵達の耳に入ってきた。
「何だったのかしらね、あの竜巻は」
「さぁ。でも良かったわね、こっちに来る前に消えて」
「それに、昨日の地震。津波が来るからって、津波情報がテレビでずっとやっていたけど、結局来なかったじゃない。不思議なことばかり起こるわね、最近」
 その噂話に、ジンは、ぎくりとした。
「噂になってますね、ジンさん」
「あ……ああ。無理も無いか」
 紗絵は、その噂話を、さほど気にすることも無く、手際よく、商品を、かごに入れていく。流石に手馴れている。
「お前……いつも、一人で飯食ってたのか?」
「うん。だから、休日には、買いだめするの。お金は置いてあるから、心配はないし。もし無くても……たまに通帳に振り込んであったり。バイトしてるから。ほとんど一人暮らしかな。二年前から」
 紗絵は、野菜の選び方からして、主婦だ。
「う~ん。こっちのがいいな」
 ジンは、そんな紗絵を見ながら、紗絵の持っている籠に手を出す。
「持ってやるよ。これぐらい」
「え!? 良いですよ、別に!」
 紗絵は、ジンが籠を掴んでいるのに驚いて、慌てて断る。
「持つって。俺にも少しくらい、頼ってくれてもいいと思うけど」
「え……あ……じゃぁ……。お願いします」
 ジンが怒ったような口ぶりだったので、紗絵は渋々、買い物籠をジンに渡す。
 紗絵はものすごく違和感を感じていたが、慣れれば、こちらの方が楽だった。
 会計まで終わると、ジンは、荷物も全部引き受けた。
「ごめんなさい……。持たせちゃって……」
「良いんだって。荷物運びは男の仕事」
 ジンはそう言って、紗絵に笑いかけた。
 その頃キバは、紗絵のポケットの中で、静かに寝息をたてていた。
「よいしょっと!」
「お疲れ様でした。ありがとうございます」
 アパートに無事帰ると、ジンは荷物を降ろした。
「それじゃあ、早速ですが、腕によりをかけて、昼食作っちゃいますね!」
 紗絵はそう言うと、腕まくりをした。
 ジンは、紗絵がキッチンに立つと、居間に戻った。
 居間では、キバを寝かせている。
「……つーか……俺も、疲れてんですけど」
 神見習い達は、神力の補充のためにしか眠らない。よって、人間で言う、夜の睡眠時間は、要らない。ジンは昨日の夜中、一人だけ起きていたのだ。
 しかしジンは、その底知れぬ神力のおかげで、体は疲れているが、神力補充の必要性は無い。ソファーに寝転んだ。そして、寝ているキバを抱き上げる。
「お前は良いよな。ドラゴンだし。元々なんだったのか知らないけど」
 ジンは呟く。
「人間ってさぁ……何なんだろうね」
 ジンは、キバを見ていた。
「って……寝てるから答えねーか」
 そう言って、キバを元の位置に戻そうと、体制を変えた時だった。
 ふとキバが、目を開く。
(……俺が元々、何だったか知りたいか?)
「え……」
 ジンは、キバのその瑠璃色の瞳に、吸い込まれそうになるのを感じた。
(教えてやるよ。俺に元々なんて無い……何千年も……何億年も……俺はずっと卵の中で眠っていた。そして、龍神見習いとして、卵の中から生まれたんだ)
「卵……?」
 ジンは、初めて聞くその事実に、驚いた。
「龍の卵か……?」
(そうだ。龍神見習いは、皆そうして、生まれてくる。卵から出るとき、そのときに、名前を授かる。天龍様によってな)
「天龍……? もしかして、龍神様の天の属性?」
(そうだ)
 キバは頷いた。
(龍神にも、属性があるのは、知っているようだな。お前の言うとおり、天龍様は、天の属性の龍神様だ。そして……その天龍様は、俺を嫌っている)
「前にも言ってたが……その、キバを嫌ってるってのは……どういうことだ? お前、何かしたのか?」
(それは……)
 キバは、眉をひそめた。何かを渋っているようだ。
「言えないのか?」
(……今は、言いたくない)
「そうか……言いたくないなら、良い」
 ジンはそう言って、キバをゆっくりと床に降ろした。
 キバが、ジンを見上げると、ジンは体に力が入っていないようで、腕をそのままだらんとさせているのが見える。
(どうした? ジン。早くも根を上げたか? 全くだらしない。もうちっと、しっかりしろよ!)
 キバが、呆れたように、ジンを見る。
「煩い……。静かにしろ。あんまり俺に……期待はするな」
(何でだよ?)
「嫌いなんだよ、そういうの。いいからほっといてくれ」
 それからしばらく、キバもジンも、沈黙していた。
 そして、キバが気付くと、ジンは泥のように眠っていた。
(あ……ったく……。無理したなら無理したって、言えばいいのに。そうだよな……神力には底がない変わりに、体力は……。いくら力があったって……器が付いていかないんじゃ、どうしようもねぇな)
 キバはそう言うと、溜め息を吐いた。

 それからしばらくして、ジンが目覚めたのは、夕方の頃だった。
 夕日が自分を照らしているのに気付いたジンは、ソファーから飛び起きた。
「嘘……もう、夕方……?」
 キッチンからは、いい匂いが漂ってきている。
 ジンは、キバの姿が無いことに気付いた。紗絵の所だろうと、キッチンに向かう。
「キバ……? 紗絵ちゃん……?」
 キッチンに、ジンが顔を出すと、紗絵の罵声が飛んできた。
「おっそーい! いつまで寝てるんですか!」
(そうだぞ! もう夕方だぞ! 寝ぼすけ)
「ごめん……」
 ジンは怒られて、謝る。
「あ……もう夕食……?」
「そうですよ。お昼は寂しかったんですから。キバが起こすなって言うから、起こさなかったんですけどね」
(おお、やっぱり俺の言ったとおり、不味かったぞ、こっちの飯は)
「むぅ、キバったら、ひどいですよね! ジンさん、良かったら一口だけでも、味見してくださいね。キバにはもうあげません」
(ジン、食わない方がいいぞ。神見習いのお口には合いませんよ)
「龍の味覚と一緒にするな。味見する」
 ジンはキバが止めるのも聞かずに、お皿に手を出す。
「ありがとうございます!」
 紗絵の無邪気な笑顔。
 その日の献立は、カレーライスで、紗絵の得意料理だった。
 ジンはそのカレーをスプーンを使って一口食べる。何とも言えない味だった。
 だがジンは、顔色一つ変えず、こう言った。
「うん。おいしいよ。紗絵ちゃん君、料理上手いよ」
「ありがとうございます! ありがとうございます! ほらぁ、キバ! やっぱ、あんたの味覚がおかしいだけなんだって!」
 紗絵が、満面の笑みで、キバに言う。
(ええ~。ホントか? ジン。無理してないか?)
 キバは、ジンを疑う。
「無理なんてしてませんよ。確かに、天界の神木の実に比べたら、美味とは言えないけど、それでも……愛のこもった、素敵な味のカレーだと思う」
 ジンはそう言って、紗絵に笑いかけた。
「神木の実……? そんなのが、天界にあるんですか……?」
 紗絵は、神木の実が気になるらしい。
「それって、美味しいんですか?」
 紗絵の質問に、キバが自慢げにこう言った。
(おうよ。もうすっげぇ美味いの。お前の作ったちんけな料理よりもう、断然)
「ちんけって、おい」
 キバの発言に、突っ込む紗絵。
 その突っ込みも気にせずに、キバは続ける。
(こう……何て言うのかな……口では言い表せられないくらいの、甘さと酸っぱさ、辛さの絶妙なバランス……っ。ああ、考えただけで涎が! じるっ)
 キバの幸せそうな顔に、紗絵は顔を引きつらせた。
「ふ、ふーん良いなぁ……食べてみたいな。あたしも」
(あー、無理無理。お前の口には多分合わん。てか、あれの美味しさは分からねえよ)
「どうして? 食べてみないと分からないじゃない」
 紗絵は、キバの言葉に首を傾げた。
(あれは、人間界には存在しない特別な、高級な実なんだ。神様や神見習いしか、味わえない代物なわけさ。お前がいくら高貴な人間だからって、食べられると思うか? 人間の口には合わないようになってんの。俺らの間でも、ご馳走なわけよ)
「う~」
 紗絵は、残念そうに、口を膨らませた。
「こればっかりは、仕方ないな」
(ま! お前が食べれるとしたら、ちゃんと死んだ後かな。人生を全うしてね。そしたら、神見習いになれるから。自殺は良くないぞ。魔界に行っちゃうから。人間で言う、天国が天界で、地獄が魔界だ。よーく覚えて置くように)
「ふぇ~」
 紗絵が、間の抜けた声を出す。
 キバは偉そうに、腕を組んでいる。
(あ、そうだ。ちなみにだな、魔界に行くと、悪魔になっちまう。犯罪を犯した奴らも皆悪魔に落ちるって、決まりなんだ)
「悪魔? もし落ちたら、どうなるの?」
(どうって……それは知らん。聞いた話だ)
「ふーん」
(他人事だな、おい)
 紗絵はその話には、無関心らしい。お皿を取りに行ってしまった。
「悪魔の場合は、普通の人間が落ちやすいって聞くけど……。高貴な人間も、自殺まで追い詰められて、結局悪魔に落ちるって話だ。そう考えると……あの時、自殺しなくて良かったなぁって、思うよ」
 ジンが不意に、口を開く。
(あの時ってどんな時かな? ジン君)
 キバが、興味心身に、ジンに聞く。
「言いません」
(何で? 俺は聞きたいなぁ)
「ろくな思い出じゃないから。理由はそれだけ。お前だってあっただろ、言いたくないこと。お前も俺のように、深くまで聞くな」
 ジンは、キバから目を逸らした。
 そして紗絵の後姿を、何かを懐かしむような眼差しで見ていた。

 次の日は、学校があるからと、紗絵がアパートを出て行くのを、ジンとキバが、付いて行くことになった。
「あーもうっそんな寒い格好で、出歩かないで下さいっ」
 昨日実は皆に変な目で見られてないか心配してたんです。案の定何人かひそひそしてましたよ? と、紗絵はジンに、死んだ父親の衣服を、無理矢理着せた。
「……っ良いのか? 大事な遺品なんだろ?」
「良いんです。誰かに着てもらわないと、服である必要が無くなってしまいますから」
 ジンが着せられたその衣服は、ジンの見た目の年齢にしては、少し合わなかったが、ジンは何も言わなかった。
 神術の練習にと、キバがジンに、人間には見えなくなる神術を使おうと提案したが、ジンは十秒程しか持たなかったので、キバだけ使うことになった。
 紗絵はキバが見えなくなって、最初はすごーいと喜んでいたが、次第に気持ち悪い感じがしてきたと言い出した。
 そんな紗絵の様子に、ジンは少し心配したが、とりあえず校門前で待機することになった。
「行って来るね」
「行ってらっしゃい」
 ジンは、校門前に居て、変な人に間違われないかと、冷や冷やしながら待っていた。
 紗絵は授業の間、頭の中で、キバが自分を見ていることをイメージして、真剣に先生の話を聞いた。妙な緊張感があるのだ。
 キバは、紗絵の頭の上で、授業がつまらないと思いながら、クラスメイトや、先生の思考を神術で読み取り、笑っていた。
 今日の昼食のことを考えていたり、好きな子との妄想をしていたり、それが面白いらしい。
(ホントに色んな人間が居るなぁ)
 キバは、独り言のように呟いた。
 一限目の終わりを告げる、チャイムが鳴った頃だった。
 校門前でボーっとしていたジンに、誰かが声を掛けてきた。
 ジンは、一瞬やばい、変な人に間違われたかっと思い、必死で否定しようとしたが、すぐにその必要は無いことに気付いた。
 ジンの前に現れたのは、何とあの、ジンのライバルであり、神見習いの優等生の、バーケ・ポルラドだったのだ。
「バーケ……っどうしてここに……!」
「それはこっちの台詞だ」
 言った後、バーケは溜め息を吐いた。
「そうか……お前もか……しかし、試験対象はどこへ行った。見当たらぬが……?」
 バーケが、周りを見回した。
 ジンは、バーケの後ろに隠れるようにして立っている、前髪が長い、いかにも暗そうな女の子に気付いた。
 背は恐らく紗絵よりも低く、ブレザーが少し大きめだ。手が半分隠れてしまっている。
 ジンがその少女を見ているのに気付いたのか、バーケがジンの視線に割り込んだ。
「おい、お前、ここで何をしている。試験対象をほっぽって、遊んでいるのか……?」
「そういう訳じゃないけど……それにキバが居るし……心配は無いから」
「キバ……? 誰だそれは」
 バーケが、眉をひそめた。
「ドラゴンだよ。俺のサポートをしてくれてる」
「ドラゴン……?」
 突然、バーケが笑い出した。
「ハハ……っそうか、やはり天の神様は全て分かっていらっしゃるのだな。何だ、心配して損したよ」
 それは、明らかに馬鹿にしたような笑いだった。
 ジンは、不快に思った。
「何だよっ。どういうことだっ」
 ジンは、バーケの言っていることが、何なのか分からなかった。だから余計に腹が立った。
「分からないのか? 天の神様は、お前一人だと心配だから、サポートを付けられた。つまり、お前は最初から、期待なんてされてなかったってことだよ」
 予想はしていたが、改めて言われると、少し心が痛んだ。ジンは、バーケから目を逸らした。
「それで? 君は、そのドラゴンに任せっきりでここで遊んでいたと。ジン君?」
 嫌味たっぷりに言うバーケ。
「違う! 人間に見えなくなる神術が使えないから……っ俺は……」
 ジンは、言葉を失った。睨むことも出来ない。
 悔しい……。
 ジンは初めて、そう思った。
「じゃあ、俺は忙しいんで、そろそろ行くよ。落ちこぼれ神見習い君」
 バーケは、高笑いをしながら、校内に入っていく。バーケの後ろに居た少女も、ジンに一つ頭を下げて、そそくさと校内に入っていった。
 ジンは、その場に立ち尽くすしかなかった。

「えー、マジで!? あははは」
「そうそう。それでね……」
 紗絵は、休み時間、クラスメイト達と、会話をしていた。紗絵には、ジンとキバのことを、話す気はなかった。
 誰にも信じてもらえないことが、分かりきっていたからだ。
「ねぇ、キバ……。上に居る?」
 紗絵は、クラスメイト達との会話を終えて、自分の席に戻ると、キバに小さな声で、話しかける。
「……知らないことって……罪……なのかな……」
 紗絵は、呟くように言った。
「皆……キバの存在も……ジンさんの存在も……天の……神様の存在も……知らないんだよね……。それって……今だから思うけど……何かちょっと……寂しいね」
 紗絵の言葉に、キバは、
『別に』
 と、机の上のノートに、文字を浮かび上がらせた。文字はしばらくして、勝手に消えたが、また次の文字が浮かぶ。
『こっちが知ってんだし、それで良いだろ』
 紗絵は、その字を見て、眉をひそめる。
「でも……っ」
 また文字が消え、別の文字が浮かび上がる。
『それに、俺達は所詮、この世界の監視者だ。それ以上でも、それ以下でもない』
「キバは……っキバは、それでも良いの? だって、誰にも、何にも、自分の存在を認めてもらえないようなものなんだよ?」
 紗絵は、傍から見ていると、独り言を言っているように見える。
 紗絵は気付かなかったが、周囲の何人かは、紗絵の頭がおかしくなったのかと、密かに思っていた。
『認めてくれる存在なら居るだろ。お前は、まだそうじゃないのか?』
 紗絵は、その浮かび上がった文字を見て、優しく微笑んだ。
「キバ……っ」