「あゝ きつの――私はお類、吉乃と申します㊤」

【時代背景】
 キリスト教がまだ江戸幕府によって弾圧される前、種子島に欧州の鉄砲が初めて伝来したとされる天文一二年八月二五日=一五四三年八月二五日(新暦九月二三日)=から約二十年後、日欧文化比較論でも知られイエズス会宣教師だったポルトガル人のルイス・フロイスが日本での布教を始めている。時あたかも信長は戦乱に次ぐ戦乱のただなかにあった。信長がこの世に生を受けたのが一五三四年五月一二日(新暦六月六日)。日本で三五年に及ぶ布教生活ののち長崎を終の棲家に生涯を終えたフロイスは信長よりも二年早く生まれている。同じころ、ふたりは日本にいて天下統一とキリスト教伝導の使命に燃え、それぞれ生きていたのである。

        ★        ★
 信長は夜陰に光る滝の流れのような火の粉を全身に浴びながら
 ♪人間五十年/化轉のうちを較ぶれば/夢まぼろしの如くなり/ひと度、生をうけて/滅せぬものゝあるべきか 滅せぬものゝあるべきか
 ♪死なうは一定/夢の世なれば/婆どのおじゃれ/姉さも下され/夏の夜/短し……
 と愛用の扇を手に、生涯離さなかった天女の能面をかぶり、来し日々を思い、幸若舞や敵の目をくらますため若いころ、生駒屋敷で遊び呆けて舞った踊り唄「上総唄」などを無心になって舞い、踊り続けた。
 肩から胸にかけては大数珠が斜めにかけられている。手を合わせ「きつの、きつの。余はまもなくそちのところに参るからな」
 そう言って火焔のなかに飛び込むようにして消えた。
        ★        ★

 だがしかし、信長の死体がその後発見されたとの証拠はない。もしかしたらその魂は、ありし日々にきつの(吉乃)と共に過ごした木曽川河畔や伊木山、小牧山を含む尾張一円を今なおさまよっているのかも知れない。信長は一体どこへいったのだろう。
 それとも突拍子もない、と笑われるに違いないが。時の流れとともに、この地方では伝説の狐で尾張一円の狐の大親分として知られる、あの〝小牧山吉五郎〟とその妻〝お梅〟といったような物の怪に化身してしまったのか。桜の花々や川の流れ、〈気〉となって、今も吉乃とともにここいら辺りの田園地帯に魂となって浮かんでいるかもしれない。
 作者の私には、そんな気がしてならないのだ。

 話は今から四百三十五年前、戦乱の世に遡る。フロイスが永禄五年(一五六二年)にパードレとして日本を訪れキリスト教伝導を始めた二〇年後の一五八二年(天正一〇年)六月二日、織田信長は明智光秀による本能寺の変で命を落とした、と伝えられる。これより先、一五八一年(天正九年)にはフロイスは通詞として京都で信長に初めて謁見したという。
 一方、信長にとっての最愛の女性、吉乃の墓は観音像とともに、ここ尾張の地、旧尾張之国小折村(現愛知県江南市小折)の田代墓地に立つ。若き日の信長と吉乃の物語、世紀のラブロマンス、日本の武将が奏でた〈ある愛の詩(うた)〉は今、ここから始まる。
  ※

 吉乃の墓碑は観音像とともに信長のかつての居城小牧城(愛知県小牧市)を仰ぎ見るが如く尾張の地に立つ。若き日の信長と吉乃の心を虹の橋で結ぶようにつないでいる。
 天文三年。一五三四年五月一二日(新暦六月六日)。信長は古渡城主でもあった織田信秀の嫡男として当時、信秀が居城していた現愛知県愛西市にあった勝幡(しょばた)城で生まれた。
 そして。それから数年後。尾張之国小折村の土豪生駒屋敷では幼少時の信長、吉法師と生駒家の娘、お類との間でこんなやりとりが交わされていた。冗談ではなく本当にあったとの言い伝えがある。
 それは信長が七、八歳のころ、幼少名で吉法師と呼ばれていた頃の話だ。
「おるい、そなたはワシのおなご。よめじゃ。よいか、わかったな。よめじゃ、よめじゃぞ」
 吉法師が幼少ながら大人びた表情で語りかけてきた日のことを、六つ年上だったお類は今も忘れない。
――吉乃の物語は信長に愛され周りの人たちからも慕われ、木曽川河畔に広がる濃尾平野に代表される田園地帯はむろん、後の世にも愛され続けた尾張名古屋が産んだ一人の女性の波乱に富んだ生涯である。その一生はどこまでも信長に寄り添い、生き、戦いぬきながらも若くして夭折したはかなく悲しい話ではある。
 とはいえ信長と吉乃の純愛は、時代を先取りした歴史のひとコマにも映り、後の世に特筆され、語り継がれてしかるべきだろう。戦国の世にあってなお、これほどの愛は現代の社会に通じるひとつの道、愛のかたちを切り開いたといっても過言ではない。
 歴史に詳しい地元郷土史家や「武功夜話」など各文献の記述によれば、女性は幼少期には生まれ育った生駒家でお類、お類と呼ばれ、後に吉乃の呼び名が定着して一般的になったとされている。時代が下るにつれお類が吉乃と言われるようになったわけは、土豪生駒家がその昔、吉野桜で名高い奈良から尾張の地にきたことと、何かにつけ生駒家が〈吉〉に恵まれた縁起のいい家系だったからかも知れない。それよりも何よりも、お類と再会した信長自身の口から飛び出した呼び名が〈吉乃〉であったらしい。
 ともあれ、種子島に欧州から火縄銃(鉄砲)が伝わりキリスト教文化までが今まさに世の中に広がろうとしていた、その風雲急を告げる時に、日本では吉乃という戦乱の時代を駆け抜けた一人の女性が、木曽川河畔のこの地で生きていたのである。
 私はあえて言う。もしも幼少の信長がお類、いや吉乃に出会っていなかったとしたなら、信長、秀吉、家康といった三英傑主導の戦国の世は全く変わったものになっていた。いや、それどころか、信長という存在そのものが歴史の舞台から弾き飛ばされ、秀吉、家康も後世にその名を残すことはなかったに違いない。日本そのものが、変わった、いびつなものになっていたかもしれない、と。 (以上、ものがたりを始めるに当たって)

     1(出戻り、お類)
 敦盛の、牛若丸の、あの武士たちの悲哀をかもした哀愁をおびた笛の音が〈かぜ〉に乗って流れくる。
 春。桜の花弁のひとひら、ひとひらが泣き、歌い、笑っている。ひとひらの中に人知れないドラマが隠されている。そんな気がしてならない。
 尾張之国丹羽郡小折村(愛知県江南市小折)の墓地に立つ吉乃(きつの)桜のことである。

 奈良。吉野山。その山を彩る吉野桜にも似てかわいらしく、かつ優雅さと気品をたたえた吉乃(きつの)。彼女の生まれ育った尾張之国の土豪生駒家がその昔、吉野桜で名高い奈良から尾張の地にきた、そして何かにつけそんな〈吉〉に富んだ、藤原家の血を受け継いだ家柄だったこともあって、信長らにこう呼ばれるようになったのかもしれない。実際、吉乃は生まれながらの器量に恵まれてもいた。
 ここ尾張の大地に風が吹いても、雨が降っても。そして雪や氷たちが襲いきても吉乃は、どんなときにでも、トレードマークとも言える少し控えめな八重歯を光らせ、艶やかな長めの黒髪に身を包むようにし時にえくぼを光らせ、顔をなごませてもいた。

 吉野桜といえば、♪春の眺めは吉野山/峰も谷間もらんまんと/ひと目千本二千本/花が取り持つ縁かいな、と爪弾きの三味の音に合わせて男衆たちがよく謡う小唄〈縁かいな〉のなかでも唄われている。
 その吉野の血が流れる彼女が歩んだ人生、女の道とは一体どんなものだったのか。話は弘治三年、一五五六年の秋。尾張之国の小折村に遡る。

 濃尾平野には一面きらきら光る稲穂が垂れ、田頭は黄金色で波打っている。近くでは五条の川の流れがサヤサヤと音を立て、陽の光りを呼吸でもするようにのみこむ。黄や白の蝶たちも気持ちよさそうに羽を広げ、草花のうえを飛んでいる。トンボが1団となって飛んでゆく。その光景が、このところ傷ついていたお類の心までを大胆なものにしている。お類は思う。どうせ、われ、アタイの命なぞ、いちどは死んだもの、吹っ飛んだはずなのだから。それにアタイもそれなりに年を重ねた。われの身は夫・弥平次の死で一度は死んだはずのものなのだから、と。  
 そう割り切ったお類は実家近くの物言わぬ野菜畑に出て腰を折り、夏の間伸び放題となっていた雑草を妹の須古や侍女のおちゃあ、お亀らと引き、時折、顔をあげ、まぶしく陽が注ぐ太陽に目を細めるのだった。赤い曼珠沙華が目の前で棒のような花の房を揺らせている。お類は秋風にゆれる穂先を目の前に、思わず♪マンジュシャゲ 人恋ふごとに 朱ふかく―と口遊んでいた。近ごろ、お類には気になる若者がしばしば生駒家を訪れ、そのつど何とはなしに身を焦がす自身に気がついていたのである。
 年のころなら二十二、三歳ぐらいか。きりりとした唇に、妥協を許さない人を射るような鋭く光りを放つ目。中肉中背。その男こそが、若き日の信長だった。何が不満なのか。亡き父の葬儀の席で線香が立てられていた燭台をエイッ、とひっくり返してしまうなど、少し前までは周りから尾張一の大うつけ者だと陰口をたたかれていたこの若者は幼少時から、吉法師とも呼ばれていた。実際、十八、九歳のころまでこの少年は袖を外した湯帷子(ゆかたびら)一枚に半袴、髪は紐で後頭部で結んだ茶筅髷という姿で町内を気ままに歩き、柿や瓜に丸ごとかぶりついたり、立ったまま餅をほおばるなど、とても領主の嫡男とは思えないひどいありさまだったという(この記述は「信長公記」による)。

 そして。お類はといえば、今でいうなら傷ついた出戻り女だった。
 というのは彼女はこれより前、一五五四年(弘治元年)に標高一七〇㍍の山城、明智長山城(可児市瀬田)の明智一族の一人、土田弥平次に嫁いだものの二年後の一五五六年九月、明智長山城が長井隼人率いる軍勢三千七百人に攻め立てられ、明智一族八百九十人が籠城、ついには城を明け渡した際、弥平次も共に討ち死にしてしまい、お類は泣く泣く両親(父は三代目生駒家元)や兄、生駒八右衛門家長らの住む尾張之国小折村の実家に戻り、傷心の日々を過ごしていたのである。
 実家に戻ったお類は、七人兄弟の長女として育ち、幼いころからそうだったように皆から以前と同じく大切にされた。なかでも父家元や兄家長の気遣いようときたら大変なもので次第に元気を取り戻していった。生駒屋敷内の二の丸館に住み、侍女おちゃあらと近くの龍神社や神社隣の森、田畑、馬飼い場、雨壺池などに出向き、草引きに打ち込んだり、馬にえさを与えるなどし神社境内では掃除にも励み、時には近くの子らと言葉を交わしたりして気を紛らす日々を過ごしていた。
 なかでも神社前にあるちいさな池は、雨壺池と呼ばれ、旱ばつになると水を替え出し雨乞いをするとアラ不思議や、神社上空にたちまち龍雲が現れ、恵みの雨が降り出す―という真如の言い伝えがあり、吉乃は近所の子らに好んでこのありがたい〈恵みの雨〉の話しを何度も繰り返し聞かせ、このところは「お姉ちゃん。あまごいの話。聞かせて」と懇願されることもしばしばだった。
 秋はトンボの数が多くなるに従い、日一日と深まっていったが、そんなお類の前に何の因果か、このころ馬上姿もりりしい若武者、信長が数日を置かず、足しげく生駒家を訪れるようになった。信長はいつもお類を見つけては彼女の近くに馬を寄せ、馬上から「余はかつては吉法師、今は信長じゃ。デ、そなた、お類。いや吉乃どのは、元気でおいでかな」と声をかけてくる。「なぜ、信長さまがアタイのことを吉乃と呼ぶのか」。そのわけが当初、お類には理解できず、分からなかった。でも話を重ねるうち、信長の口から「そちの実家の出は奈良・吉野と聞くが、そちは〝吉野桜〟にも似て、いつだって初々しく美しい。だから、お類。そちのことは吉乃と呼ばせていただくことにしたのじゃ。周りの者どもも皆〈吉乃の方さま〉〈吉乃のお方〉と、そう呼び親しんでもいるからじゃ」との言葉を聴くに及んだのだった。
 吉野桜だなんて。吉乃は、その桜を見たこともない。それどころか、思いもしないこと、なんて嬉しく光栄なことだろう。そう思ったお類は、それからというもの【吉乃】に成り代わり生まれ変わった女に、と心密かに誓いもしたのだった。「少なくとも信長さまにお会いする時は、いつも笑顔を絶やすことなく、悲しい顔などしないでおこう。吉野桜のように」と。それからというもの、吉乃は信長から声をかけられるつど「ハイ、おかげさまで。われはなんとか元気でいます」と笑顔で答え、信長はそのつど「ウンウン、そうか。そうか。よかった、よかった」とうなづき「ならば良いが。からだを大切にな。気を落とすことのなきよう。そのうち、きっと良いことが降って湧くからな」と妙に大人びた口調でそれだけ言うと、手綱を引く手も軽やかに今来た道を清洲の方へ、と戻っていくのだった。
 そして。半刻ほどもすると、こんどは決まって信長の従者とみられる少し赤ら顔をしたいかにも田舎侍といった一人の足軽若衆が、こちらは地下足袋姿で歩いて吉乃に走り寄り、ヤァーヤァー、ヤア~ッと手を上げたが早いか「気ィ、落とさんでおこな。そのうちええことがたんと、きっと起こるわいね。拙者が保証する」などと吉乃の肩を気安くポンポンポンと、それも労るようにして叩き、ひと言ふた言、声をかけると「じゃあな。ハヨ元気になりぁ~せよ。世の中、みんな苦しんどるんだから、な」とだけ言って帰っていくのである。
 こうしたことの繰り返しがしばらく続くと、こんどは吉乃の気持ちまでが魔法にでもかけられた如く得も知れず揺れ動き、お侍さんたちがいつ現れるのか、と胸騒ぎまで起こしておかしくなってくる。いつの間にか、そこには信長とその家来とみられる男が訪れるのを心待ちにする自身がいることに気がついてもいた。信長について、主君はむろん吉乃にもピタリとついて離れない猿にも似た、どこかひょうきんな感じのするこの男。その男の名は木下藤吉郎といった。
 名古屋の中村生まれの藤吉郎は、元はと言えば諸国を転々としたあげく、生駒家に出入りする川並衆の親方、蜂須賀小六の手下になったが、まもなく生駒八右衛門らにも取り入って信長の家臣となってまもないころで、後の豊臣秀吉である。

 弥平次の亡霊は、お類が実家に戻って以降も日々、枕辺にたった。
 同時に、お類の耳には明智長山城が落ちる寸前、戦場で果てゆく運命を知った弥平次が残したことば「るいや。明智長山城もこれまでじゃ。わしのことは良いからそちは実家へ戻って、誰よりも幸せになるのじゃ。」が頭をよぎり、胸がキリキリと痛むのだった。そしてお類は、夫の言葉に従って生後一年と二年になる幼子ふたりを弥平次の母方の土田家に残し、自身は身ひとつで小折の実家である生駒家に戻ってきたのである。
 そんななか、お類が生駒家に戻ってからというものは、若武者はまるで宝物でも追い求めるように昼の日なかに現れることもあれば、早朝だったり、夕方日が落ちるころに突然、現れたりした。

 空には白い雲が浮かんでいる。
〈かぜ〉がさやさやと微かな音をたてて通り過ぎてゆく。
 お類、いや吉乃の胸の血もリズミカルに音を奏でるようだ。夫弥平次の死後、お類が馬上姿もりりしい若武者が実は若き日の清洲城主、信長であると改めて強く認識したのは、それからまもなくしてからだった。
 というのは、信長の母である土田御前が土田弥平次と同郷で土田一族の出身であり、こうしたことなどもあって信長は幼い頃から、母の土田御前に手を引かれ、かつて何度も生駒屋敷を訪れたことがあり実を言うと幼少のころから互いに子ども同士、そこはかとなく意識しあっていたのだ。
 吉乃は何度も会ううちに「そう言えば、あの時のやんちゃな若さま、吉法師さま、この若武者は、信長さまだ」と気づいたのである。実家の生駒家そのものが隣村の尾張之国丹羽郡前野村(江南市前野)の前野一族を後ろ盾に油や灰などを売る馬借(運送業)として財を成し、地方の豪商として知られていた。当然のように常日頃から清洲城主との絆もふかく馬借という、戦国大名にとっては有事への備えに切っても切れない間柄もあって、皆それぞれに深い縁で結ばれていたのである。こんな周囲の状況も手伝って生駒家の存在は、当時の戦国武将ともなれば、必要欠くべからざる存在だったと言っていい。
 この時機。すなわち明智長山城で合戦があったころ。清州城では信長の実弟信行による反乱があり、信長は明智長山城へ救援の兵を後ろ盾に出せないままでいた。信長軍の援軍に恵まれないためもあってか、長山城は落ち、お類の夫・弥平次も田の浦合戦で敵方の長屋勘兵衛と槍を合わせ、討ち死にし、命を断ったのである。こうした背景もあって、繊細で幼少のころから少し齢の離れていた姉同然のお類になついていた信長は夫を亡くしたばかりで気落ちしているお類を何とかして励まし慰めようと、当時足軽組隊長だった、まだ召し抱えられてまもない従者、藤吉郎を伴い事あるごとに生駒家にお類を訪ねるようになっていたのである。
 若き城主で誇らしげでたのもしく映る信長。かつての吉法師、いや信長が生駒家に顔を出せば決まって生みの母から湯茶の接待をするよう勧められたお類、いや吉乃。出戻りの女にとっては当初、気の重い大役ではあったが言葉を交わすうち次第にうちとけ、心ばかりか、いつしか体までも許すほどに互いの愛は深まっていった。

 ところで一五五六年(弘治二年)九月二十五日。明智長山城が落ちた年、信長は二十二歳になっていた。実は信長はこれより先の一五四八年(天文一七年)、十四歳のころ、当時清洲城主だった父信秀と美濃の斎藤道三の政略もあって一歳年下の道三の娘、濃姫と婚約させられ、濃姫自身が正妻として清洲の城に迎えられたいきさつがある。濃姫とは、単純に「美濃之国の姫」だから、こう名付けられたと伝えられている。濃姫は別名〈帰蝶〉とも呼ばれていたことは知る人ぞ、知る。
 だが、しかし。せっかく息子が正妻を迎えたというのに信秀は翌年の天文一八年、一五四九年三月三日に四十三歳の若さで急死。なぜ死んだのかについての記録は乏しいが、信秀は気性が激しく生前、辛いものを好んで食べていたこともあって、今で言う脳梗塞による病死と見られている。信長は十五歳であった。
 有能な猛将信秀の突然の死に、尾張の安定を図るため三年間喪に服し天文二〇年に葬儀が行われた際、これは前にも少し触れたが、葬儀の場で父親に負けず劣らず短気で勝ち気な信長は祭壇に飾られた線香台を引っくり返し、抹香を仏前に投げつける行状に及んだ話しは世に余りにも有名だ。そんなわけで、傷心に打ちひしがれていた信長が幼少時から知るお類を〈吉乃〉という新たな女性として認め、ただひたすら純愛に走ったのは、それから数年後のことであった。まだ若かったとはいえ、波乱に富んだ人生の行く手に明るいランプ、ひとつの光りがつくような形で、かつてのお類が信長の前に現れ出たのである。吉法師とお類双方にとって、それは昏く、長いトンネル同然の日々からの新たな旅立ちだったといってよい。
 出戻りのお類にとっての吉法師、そして逆に吉法師にとってのお類は、もはや互いに消すことの出来ない大切な〈糸〉も同然の存在となっていった。吉乃にとって信長がわがままな弟も同然なら信長にとってのお類は血を分け合った弟の謀反や何かにつけ傍若無人なふるまいが目立った信長だけを差別扱いする生みの母、土田御前の目に余る依怙贔屓など孤独な自分にとって、いつも温かく接してくれる貴重な存在でもあった。  
 皮肉なもので、その母、土田御前こそが、幼きころ吉法師の手を引き、生駒家をしばしば訪れ、お類とわが子を引き合わせるきっかけを作ったのである。吉法師もお類も幼少にありながら何か目には見えない運命的な赤い縁で互いに結ばれている、子ども心にそんなことに気づいていた、ともいえる。

 あれから、どれほどの月日がたったことだろう。このころになると、生駒屋敷内、二の丸館で過ごす吉乃に会うことが信長にとっては唯一、精神的な逃避を兼ねた安らぎの場にもなっていた。
 翌春のある日のことだった。
 木曽川の滔々とした川の流れを眼下に信長と吉乃はふたりで川面を見ていた。堤には黄色いタンポポが咲いている。レンゲも目にまばゆい。その川には草井の渡し場があり、風よけの麦わら帽をアゴひもで結び、目深にかぶった大勢の人たちが小舟で美濃と尾張の国を行き来している。皆、わらぞうりに素足である。そんな人々を見ながら土手の堤に腰を下ろした信長はこう、口を開いた。
「実を言うと、弥平次のことじゃが。とても残念に思ふとる。お類、いや吉乃。そなた、その後、悲しさ、心の傷は癒えたかな。」
 吉乃の胸がピクリと動いた。かぜのながれが頬に心地よいばかりか、清流の音までがぴちゃぴちゃ…と新たに生まれ出る心を打ち、なんとも気持ちがよい。フナが二匹、三匹、四匹と水面に跳ねて飛んだ。ドジョウたちも次々に顔を出し、泥を掻き分け、水のなかに消えていく。目には見えない、一陣の風がふわりと流れて消えた。
 これより先、自ら手綱を取った馬の鞍台から、まるで大事な傷ついた宝物でも扱うように着物姿の吉乃を抱きかかえて土手に下ろした信長は、手綱を近くの木に結わえ付けると堤の上にゴロリと仰向けになり、秋の空を見ながらお類を手招きして傍らに引き寄せた。
 流れる雲が下からはっきりと見てとれる。
 信長は吉乃を傍らにそのまま黙ったまま、白い雲の行方を追っていた。

 しばらくそのまま間を置いた信長はこんどは身を起こし、傍らで神妙な面持ちで座り直した袷せ着に身を包んだ吉乃に向かってこうつぶやくように話しかけた。
「ワシも、父の突然の死や弟の裏切りに遭うなどいろいろあったが。のう、今はおまえとこうして会うことが出来、とても嬉しい。そちのおかげでワシは戦乱の世にありながら、こうして日々心安らかにしていることができる。まっこと感謝しているぞよ」と。
 信長のひと言ひと言になぜだか、無性に涙がこぼれ落ちてしまう吉乃。泣きながら吉乃は途切れ途切れに「アタイ。いや、われとて。吉法師さまとかふして日々、お会いでき、これ以上に何を望むことがありましょうぞ。いまだから申し上げます。実を言いますと、アタイは土田御前さまに手を引かれ、生駒の私の家にちょくちょくおいでになられたころの吉法師さま、あなたさまの幼少時代をよくお見かけしました。よく、知っています。あなたさまの何ごとにかけても一途な、まっすぐな心と強く光りを放つ目はあのころから何ひとつ変わりませなんだ。いつもキリリとしておいででした。いちど、こんなことがありました。
――アタイがまだ七、八歳だったあなたさまを母に言われてあやさせていただいた時のことです。吉法師さま、あなたさまはアタイに向かって突然こう、おっしゃられたのです。
『もう、よい。それよりも、おまえは、よきおなごじゃ。やさしくて、いい女じゃ。じゃから。そちは大きくなったらオレさまの嫁になるのじゃ。よいナ。わかったな。』と。こうおっしゃられたのです。
 なにしろ、こども同士のこと。アタイは当然ながら少し考えたあと気取った表情で「われは……。なりませぬ」と申しますと『よいから。そちはワシの嫁じゃ。きょうから嫁なのじゃ』と、そう言ってきかれずアタイの顔は子ども心にも赤くなるやら、はたまたどうして良いものか分からなくなり、そのまま雨壺池のある龍神社まで顔を覆って逃げ、以降はできるだけ会わないようにしたのです。
 ほんとは何をなさるのやら。何を言い出されるのか、が分からない吉法師さまには神秘的かつ不思議で妖しい魅力とともに、何か強い一本、線の入った絆のようなものを感じていたことも確かです。それが、夫・弥平次との思いもかけない死別のおかげで再びこうしてお会いすることが出来、話しができるだなんて」
 吉乃はそこまで一気に話すと、こんどは目を着物の袖で覆い傍らの信長に自ら崩折れた。吉法師と吉乃との逢瀬はそれ以降というものは日を置いて続き、ふたりが互いの愛を育み、ひとつとなる場所は誰もいない龍神社境内だったり、その隣の森や竹林の中にあるこんもりした土山だったり、木曽川河畔の河川敷、ときには野辺に広がる里山の一隅、自分たちだけの秘密の場所や馬飼い場近くの草原、畑地一角に設けられた農機具小屋だったりした。
 そして。ここ尾張の地は木曽川の川面に映える赤い夕日がとても美しい。そんな土地柄でも知られる。ふたりは、日々形を変える夕日に染められながら逢瀬を重ね、身もこころも互いのからだに同化する如くに融け、そまりあい、まさにひとつになっていく自分たちを感じていたのである。
 おなごと男がひとつになる、融け合うといふのは、かふいふことを言うのか。信長も吉乃も秋の空を流れる雲に目をやりながら、つくづくそう思うのであった。

 後年、吉乃はこの空を目の前に、美濃和紙に毛筆で ♪秋空に未来永劫と書いて見し、と思いの丈を詠んでしたためたと聞くが、このときの信長と吉乃の心境を見事にうたいあげた、まさに言い得て妙ともいっていい名句である。

     2(出陣)
 音もなく杉戸が開いた。
 侍女のさいは、そこから手をつかえて、信長の方を見、静かに後を閉めてまた、間近まで来て兩手をつかえた。
「お目ざめにござりまするか」
「ウむ。さいか。……刻限は今、何刻頃?」
「丑の刻を、すこし下った頃かと覺えまする」
「よい機(しお)」
「なんと御意なされましたか」
「いや、儂(み)の物の具を直ぐこれへ」
「お鎧を」
「誰ぞに申しつけ、馬にも鞍の用意させよ。そなたは、その間、湯漬をとゝのえてこれへ持て」
「畏まりました」
 さいは心の効く女であつたので、信長の身近な用事は、平常もさいが心をくばつていた。
 さいは、信長の心をよく知つていた。さてはと思つたのみで、仰々しく立ち騒ぎもしなかつた。脇部屋に手枕のまゝ寝ていた小姓の佐脇藤八郎をゆり起して、宿直の者へ馬の用意を傳え、自分はその間に早くも湯漬の膳部を、信長の前へ運んで来る。
 信長は、箸を取って、
「明ければ、今日は五月十九日であつたな」
「左様でござりまする」
「十九日の朝飯は、信長が天下第一に早く喰べたであろうな。美味い。もう一碗」
「たくさんにお代え遊ばしませ」
―――以上は吉川英治の新書太閤記第二巻「出陣」に記された信長が今まさに、これから桶狭間へ、と出陣する日のひと幕である(原文通り)。

 吉川英治が書した、ここに登場する侍女さい。さい、こそが緊急時にそなえ良人、信長のことを思い吉乃が生駒家から清洲のお城に派遣した侍女に相違なかったのである。信長が一生一代の勝負に、と清洲城を発ち桶狭間に向かったのは、一五六〇年五月一九日(旧暦。新暦なら六月一二日)。早朝のことだった。時に信長は二十六歳。お類、すなわち吉乃との間には既に信忠、信雄、そして徳姫と三人の子をもうけるほどに深い間柄となっていた。
 これより先、一五五七年になり信長は前年に押さえ込んだはずの末森城の弟信行が再び謀反を企てていることを信行の配下、柴田勝家の裏切りで知らされた。重病を装った信長は柴田の勧めで母と見舞いに清州城を訪れた信行を城内北櫓天守次の間で部下に命じて殺させ、これによって柴田勝家が完全に信長に寝返ったいきさつがある。信行を暗殺するという強硬手段に出た信長は一五五九年になると、家臣八十人を伴って晴れの上洛を果たし、時の将軍足利義輝への謁見を実現させた。この際には京都、奈良、堺と当時の先進都市を回って見聞を深め、既にいち早く部下の蜂須賀小六らが軍備として導入し実弾演習などの運用まで始めていた種子島伝来の鉄砲(火縄銃)に対するいっそうの理解と研鑽を深めるなどした。
 そして京から帰った信長はその年三月には岩倉城下を襲って焼き払い、城を丸裸にして明け渡させ、これがきっかけで尾張一円は対外的には信長一族を中心にまとまるほかない、と周辺の各々が意識の中で心に固く決意するようにもなった。
 桶狭間の戦いはまさに、そんな織田一族の結束の高まりに煽られるが如く若き主君信長の思いもよらぬ好判断と奇襲により始まったのである。

 織田信長自らが螺鈿鞍(らでんぐら)を置いた愛馬「月の輪」の背に飛び乗り、馬上姿もりりしく主従合わせて僅か五、六騎の先陣を切って戦地に向けて立ったその日の朝。生駒屋敷二の丸館で、吉乃はまんじりともしない一夜を過ごし、朝を迎えていた。
「さいは、万事うまくことを運んでくれただろうか。信長さまは無事、予定どおり清洲のお城を発たれたであろうか」
 信長が出陣したその日の朝。吉乃の胸に去来するのは、そんな思いばかりだった。
 実を言うと、信長はつい二日前、いつものようにふらりと小折の生駒屋敷に吉乃を訪ねた。信長は木曽川河川敷での戦闘の実戦訓練の帰りと見られ、戦場に向かう兵士の武具姿そのままでその日は突然、吉乃の前に現れた。吉乃は、この三年余の間に信長との間に授かった三人のお子たち(信忠、信雄、五徳)の衣類の針物づくりに励んでいた、そのさなかに、である。
 そして信長は吉乃を前に、はっきりとこう言ってのけた。
「お類、いや吉乃。余は明後日に戦場に参る。今川義元の首をはねるため田楽狭間に、桶狭間にじゃ。大は小に勝ると言えども小よりは自在たらず。しからば大象の動きを知ることこそ、肝要なり。敵の大軍を桶狭間へと誘い込み義元を必ずや、討ってみせる。ワシが留守の間、からだを大切に。ややこと吾子たちを、くれぐれもよろしく。たのむぞ、な。よいな」と。
 吉乃は、何ひとつ動じることなく頭を下げ「武運お祈り申し上げます」とだけ、こたえた。これだけ落ち着き払って信長、いや夫に対峙したのも侍女さいからの飛脚便が事前に吉乃の元に届いていたからにほかならない。 
 実際、さいから吉乃にあてての便はそれに先立つ四、五日前にいち早く届いていた。
 便の内容は次のようなものだった。
「最近の信長さまのご表情には一段と険しく、厳しいものがあり、背筋がピンと張りつめるほどに危機迫るものが感じられ、怖いほどでございまする。その分、何かにつけ侍女の私はじめ、お付きのご家来衆には、とてもおやさしく風邪などを引き体調を下げ、からだを壊した者が出たりすると、そのつど『よいか。無理をするな。そちたちは家族はむろん、ワシにとっても宝も同然じゃ。早く引きあげからだを休ませるように』と、周りに対するお心配りとなると、大変なものでございまする。
 一方で木曽川まで駒を進めての戦闘訓練となると、ご自身が先頭に立たれて毎日の如く敵、味方に分かれこの一年余というもの、実戦さながらに繰り返し続けてこられました。
 それが、なぜか。なぜなのでしょう。あの苛酷なほどの戦時に備えての訓練がつい二、三日ほど前に突然、ピタリと止んだかと思うと、信長さまはご家来衆に「まずは何よりも、わが家の備えを怠らぬよう。ここしばらくは妻や子、親さん、兄弟など親類縁者を大切に。留守中の狼藉者に対するそれぞれの家の守り、備えを、くれぐれも万全に。なによりも家内安全じゃ」とのお触れまで出され、次に達しを出すまでは城中への参上は罷り成らぬ、とまで言い切られました。
 阿吽の呼吸と言いましょうか。ご家来衆は自らが不在中の家内安全と有事の際の守りを御意に従い皆黙々と進め、今は鳥が大空に飛び立つ寸前、信長さまの御意そのままに全員が走り出そうとする、さふした尾張の侍魂というか、一体感のやうなものがヒシヒシと伝わってくるのです。でも、用意周到な御方さまのこと。何も私にはおっしゃいませんが、ここ数日の間にごくごく少数による実戦に向けた最後の訓練が木曽川河畔で今一度行われる気がしてなりませぬ。その折には必ずや、吉乃さまのもとに足を運ばれるに違いありません。
 清洲の城の方は、こんな訳でして。いざ出陣の時はもはや待ったなし、目前に迫ってきているのです。そんな信長さまも時折、何かを思い出しでもするように『さい、さいよ。きつの、おるいとわが子らをよろしくな。留守中はそちをたよりにしているからな』とそのようにおっしゃられるのです。そしてここ二、三日というものは『さいよ、さい。信長、すなわちワシが討ち死にと聞こえたなれば、ただちにこの城に火をかけよ。見苦しゅう焼け残すことのなきように』とまで仰せられ、決意のほどが伝わってくるのです。
 わたしは〈きつのとわが子を……〉とか〈さいよ、さい〉のおことばを聞くたびに胸をしめつけられ、その真剣なまなざしに向かって「アイ、承知を。心配いりませぬ。さいがついていますから」と答えることにしていますが、信長さまは吉乃さまと三人のお子たちのことをそれこそ、命がけで愛しておいでになることがピンピン伝わってくるのです。信長さまは、いよいよ出陣なさりまする」

 吉乃は、さいからの文を手に、あふれる涙のしずくが頬を伝い、わが胸に抱かれてスヤスヤ眠る生後まもない五徳の頬に落ちるのをただ黙って見つめ「信長さま どうか どうぞ ご武運良きよう」と祈った日のことを思い出していた。

 信長が田楽狭間に向かったその日。吉乃は信長との愛を重ねた日々のことを振り返っていた。嫁いだ先の夫、弥平次が戦死し心身ともにボロボロに引き裂かれ、血まみれの思いでふたりの幼子を夫の実家に残し、後ろ髪を引かれる思いで小折の生駒家に出戻った日々のことを、である。
 傷心のまま生家に戻った吉乃は戦地で死んだ亡き夫、弥平次のことなどそれまでの全てのことを忘れようと、しばしば馬番の馬廻しに頼んで自ら手綱を手に、木曽川河畔を訪れた。あれほどまでに精神的な支えとなり続けてくれていた信長さまが、たとえ僅かな間にせよ、目の前から消えていなくなってしまう。かふした時なぞ、いつもなら生駒屋敷の吉乃番も任せられているあの猿、藤吉郎に頼めば飛んできてくれるはずなのだが。
 その藤吉郎とて今や三十人を抱えた足軽隊の隊長として戦陣に出向いているはずなので、このところの馬廻しは生駒家で働く年長の男に任せている。男は名を喜助といった。年のころは六十前後か。なんとも風雅そのもので、味わいある馬廻しである。
 河畔に居れば天気の良い日ともなれば、どこからか木曽川の木遣り歌が聞こえてき、吉乃は何よりもそうしたのんびりした川のほとりで心静かに信長と共に憩うことが好きだった。川岸には袖なし麻襦袢に茜のフンドシ姿の川並衆の船頭たちがちらほら散見され、行き交う舟を見るのも結構楽しかった。
 思い起こせば、そんな穏やかな光景を目の前に吉乃と信長は並んで川堤に座り、木曽の流れに身を任せる如く、いっときを共にすることもしばしばだった。眼下からは木遣り歌が低く、強く、伸びやかに、聞こえてくる。何度も耳にしてきた歌である。
♪エンヤラ ヨイトコ ショウ
 ヒケ、ヒケ、ヒケ ヤレ、ヤレ
 え― 台持ちは、 え―台持ちは
 え― 重たいね、 え―重たいね
          それに私して
 え― 力をなし、 え―力をなし 
 え― 揃えてね、 え―揃えてね
 ……
 
 そのリズムは一種独特で森羅万象もの皆全てをのみ込み大気を突き切るような、そんな逞しさに奥ゆかしささえ感じられた。いま。主の信長のいない傍らでは喜助までが歌い出し、木遣りの歌が川面を流れるなか、吉乃は思わずつぶやくのだった。
「やはり、鎌倉のころから、船頭たちが木曽川の木流しの折に歌いつないできた木曽の木遣り歌は風情に満ちて違う」と。馬上姿もりりしく戦地を駆け抜けてゆく武将たち。ヒケ、ヒケ、ヒケッ。ヤレ、ヤレ、ヤレッ。夫、いや良人、信長が乗った愛馬・月の輪はいま、どこいらを進んでいるのか。吉乃はそう思うといたたまれず、立ち上がり空を見上げるのだった。

 川面では蝌蚪(かと)の群れが我先に、と一列になって上流に向かって泳いでいく。そのさまがよく分かる。吉乃は、この様子をみて思わず〈あぁ~、のぶながさま〉と声を上げ、やがて蛙に変わるであろうオタマジャクシ一匹一匹の行く先を目で追うのだった。ヒケ、ヒケ、ヒケッの叫びが喉元から溢れてきそうでもある。ヒケ、ヒケ、ヒケッと吉乃はアッと口を開き、声をあげた。のぶながさま。ヒケ、ヒケ、ヒケッ。

 夫が出陣して向かう方角の空には先程から尋常ならざる黒雲が天に向かって、もこもこと龍の如く立ち上がり、疾風となって北の方向に走っている。雨も降り出した。雲たちが黒い集団となり瞬く間に何やら信長がめざす田楽狭間の方向に一斉に駆け、走り出しているようにも見える。吉乃はあてのない空のかなたを見つめ思わず両手を合わせた。
「どうか、どうか。ご無事にお戻りになられるように。もはや。弥平次の時のようなことはイヤでござりまする」とである。
 木遣り音頭の音が静まったところで吉乃は着物の裾に入れて持参した一本の横笛を取り出した。笛に手を添え、口にあてふき始める。曲は、源氏に敗れた平家の若武者〈敦盛〉の歌である。吉乃が幼いころから母に習い、知らぬ間に覚えていた哀愁をおびた調べが、どこまでも大気を切り裂いて流れていく。
「われの胸に、この笛の調べとともに宿るのは、もはや信長さまの心だけじゃ」
 吉乃は胸の内でそう反芻しながら、自らふく笛の音を木曽の川面の大気のなかに流し込むように奏でていったのである。

     3(月の輪凱旋)
 僅か三千の信長軍が四万の大軍を率いた難敵、今川義元の首を掻き切って意気揚々と清洲に戻ったのは桶狭間の戦いで今川の大軍が少数の信長勢に血塗られてから数日後のことだった。

 その日。吉乃は生駒家の当主である兄の生駒八右衛門家長とともに清洲城に出向いた。信長を迎えるために、である。奇妙丸(信忠、一五五七年生まれ)茶筅丸(信雄、一五五八年生まれ)五徳(徳姫、一五五九年生まれ)も一緒で、吉乃は生まれてまもない五徳を胸に抱き、歩き始めたばかりの茶筅丸、そしてわんぱく盛りの片鱗を見せつつある奇妙丸は、あの喜助と吉乃の妹須古、侍女おちゃあらが手をつないで清洲城に入った。
 このうち五徳は、前年の永禄二年一〇月に生まれたばかりで、信長にとっては初の女子でもあり、その可愛がりようときたら尋常でなかった。五徳の名前も信長自ら儒教にいう〈智〉〈信〉〈仁〉〈勇〉〈厳〉の願いを込め命名している。それだけに、五徳を空高く抱きかかえる、その喜びようを想像するだけで、吉乃の胸は弾むのである。

 織田上総介信長はその日、蹄の音も軽やかに威風堂々と清洲城下に入った。
 彼の騎(うま)の鞍側(くらわき)には首がひとつ、土産に結えつけられてあった。言うまでもなく、あの敵将だった今川義元、今川治部大輔義元の首級である。義元の両の目は死してなおカッと見開き、敵方の毛利新助に首を掻き切られた際、最期の力を振り絞って新助の人差し指に噛み付いた口は、白い指を離すものかと入れたままゆがんでいる。
 着ている武具は重く、からだも綿の如くに疲れてはいたが、愛馬「月の輪」の歩みに任せて月明かりの道を闊歩する信長の気持ちは不思議と軽やかに感じられた。月光が心の明かりと重なって若い闘将を清洲へ、清洲へ、と誘ってくれた。彼は「あぁ、これでやっと吉乃と子らに晴れて会うことが出来る、と思うと胸は騒ぎ、まるで小走りで新たな天地にでも向かふような、そんな錯覚にもとらわれたのである。途中、熱田の宮の神前で勝利を報告した信長は特別に用意した一領の神馬「天満」を宮の御厩舎に献上、清洲への道をひたすらに歩んだ。

 清洲は家という家に萬燈がかけられ、まるで光りの輪がつらなっているようでもあった。
辻々には大篝が焚かれ、家毎の軒先には家人の全員が出てにこやかな顔で「帰りませ!」「帰りませ!」と熱狂して叫んだ。沿道は至るところ、黒山の人だかりがひと目、主君の顔を拝もうと押し合いへし合いで、この地方では古くから伝わる国府宮の裸まつりの裸衆が赤や黄など色とりどりの褌で揉み合っている熱気が、そのまま伝わってくるようでもあった。
 夫は。妻は。わが子、親は。恋人は、とその全てが背伸びをして興奮の絶頂のなか、まもなく意気揚々の態の若き主君信長の姿を夜空に見届けるや、あゝとか。おぅ―といったどよめきが輪となって広がっていった。時折、ヒヒン、ヒンッと勝鬨の声にも似た声をあげる「月の輪」にも人々の喜びが分かるようである。今や領民にとっては、信長こそが何にも替え難い存在だったのである。このとき信長は26歳。信長は、そんな人々を前にありたけの声を張り上げ、こう言い放ったのだ。
「見よ、これに。ここにあるのは今川治部大輔、義元の首にてあるぞ。きょうの土産はこれぞ。あすからは、そちたちにも何ら国境の憂いはない。安心して腹いっぱい食べ、共に働き、踊り、遊ぼうぞ」と。

 この日、吉乃は清洲城の一室で三人の子を隣に、静かに夫・信長の帰りを待った。傍らには信長のお側付きのさいがいて奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子とともに喜助が控えていた。当時、城内に吉乃の部屋はなかったが、もし側室吉乃の部屋が正式に設けられていたなら今川軍が織田軍を破り入場すれば、真っ先に吉乃に刀剣を向けてくるのは必然の成り行きである。信長は、そうした最悪の事態までを想定し吉乃を生駒屋敷二の丸館にそのまま、ふだん通りに置き留めることにしたのである。吉乃を一途に思う純愛といったような、そんな心がこうした用意周到さひとつにも秘められていたのである。
 吉乃は、それが嬉しかった。
 その日、吉乃の手にはいつものようにふきなれた朱塗り漆の横笛が添えられ、首には万一の際に、と信長から常備の備えとして渡されていた伊賀の国の〈くひな笛〉がかけられていた。このくひな笛は、後に伊賀上野で生を受けた俳聖・松尾芭蕉が奥の細道行で東北地方に旅立った時、襲われた際などにふき鳴らして敵を蹴散らし、助けを求めるため常備していたことでも知られる。ホー、ホオーッという音が身の安全を守るばかりか、ひとの魂を呼び起こすようで、信長と離れて暮らす吉乃が木曽の川面に立ち、夜空に向かって息をふきかけるように吹くこともしばしばだった。

 実は吉乃は幼きころから、奈良吉野の地の名家の出である女性だけに家伝流儀として代々、〈いざ〉という時にそなえ伝わる緊急時の伊賀流忍びの術と吉野鬼剣といわれる秘技を体得していた。他言決して無用、の秘伝でもあり誰から教えられた―など当然、これらについて話すことはいっさいない。ただ信長の身の安全を思うあまり、ときに応じて懐に短刀や半棒など武具をしのばせることは、しばしばだった。
 であるから、信長周辺に不審な気配を感じるや、棒手裏剣や吹き矢などで、時に別人となりきって信長の安全を見守り、街道筋などで命を奪おうとする間者(冠者)たちの前にたちはだかって、蹴散らし、そのつど命の危機を救ったこともあった。ほかに伊賀から忍びの女・育ら数人を常時呼び寄せ、信長周辺に出没する駿河や甲斐、三河などからの間者や細作らの動きにも常時、草笛や口笛、時によっては指笛でも連絡を取り合うなどして細心の注意と警戒を怠らないでいたのだった。
 実際、こんなことがあった。ある日、清洲城に通じる浜茶屋で信長と吉乃がお付きの者を従え、静かに休んでいたところに年のころなら五十歳前後の旅芸人風の男が信長に近づき「若殿さま。お疲れのことでしょう」と、椀に茶をつぎ「まだ熱うございますので、しばらくしてから飲まれますと、ちょうど味もしみて良いかと存じます。どうぞ、あじわってくださいまし」とだけ言い、いずこかへ立ち去った。男が姿を消したあと「どれどれ。そろそろ頃合いかな」と信長が椀を口元に運ぼうとした、その時だった。
「おやめなされ」と吉乃の甲高い声が響くと同時に、椀が空を切って地面に振り落とされたことがある。驚いたのはその直後のことだった。近くにいた野良犬が路上にこぼれ落ちた水をペロペロと飲み込んだ直後、犬は苦しみはじめやがて悶絶して息たえた。この日、吉乃は信長に近づいた男のことを育から「怪しい男がいる。お気をつけあそばせ」との事前の知らせを受けていたこともあり、今川方の間者だとにらみ、咄嗟の判断で毒入りだと見極め、目にも留まらぬ早業で懐に忍ばせた棒手裏剣を椀に向かって投じ、払い落としたのだった。
 実は、こんな危機一髪の危険には二度、三度と襲われたが、吉乃は育ら忍びの女たちの献身的な助けもあって、そのつど身を挺して信長を守りきってきたのである。
 信長が吉乃の忍びの術の素養に気づいていたかどうかとなると、歴史上の隠された秘術でもあり文献にも記述がないことから誰ひとりとして分からない。第一、忍びの者は決してその事実については明かさない。たとえ相手が誰であろうとも、秘密をどこまでも押し通すからである。ただ言えることは、当時は今川から尾張之国に送り込まれた間者、細作たちが相当数に及んでおり、しばしば信長の首を狙ったり、敵状を探ろうとしてきたことだけは確かで、油断もすきもなかったことだけは間違いない。
 そして、そのつど吉乃が喜助らを通じ清洲と連絡を取り、そのころから既に人並みはずれて機転に優れ情勢分析にも秀でていた藤吉郎ら家臣にも伝え、信長の命を再三にわたって守ってきたことだけは確かなようだ。

――死なうは一定 忍び草には何としようぞ 一定語りをこす夜の 死のうぞ 死のうぞ
 小扶持の部下の足軽までが皆、はッはッと、息を弾ませてついてきた。部下という部下が、こんなにも歓んで戦地を駆けてくれるとは。先頭を走る信長。あとは皆、死のう、死のうと怒涛となって戦った結果が今、目の前にある。夢ではない。現実なのだ。
 桶狭間の奇襲攻撃で大勝し帰城した信長は清洲城の一室でただひたすらに帰りを待ち続けていた吉乃を見るや、大粒の涙を流し吉乃をグイと抱きしめた。そして、あとは言葉にはならず、何度も何度もうなづきながら吉乃を引き寄せ、次いで三人のわが子を交互に抱きあげ「父は今かえったぞ」と、繰り返し語りかけた。
 このころ吉乃は、五徳姫出産に加え、それまでの戦国武将の妻としての度重なる過労と精神的苦痛も伴い、体力的に少し衰えが出てきたようだが、勘のいい信長は敏感にこの事実を悟っていたようである。
 信長は視線を吉乃の顔に注ぎこう言った。
「わしは、とうとうやった。今川に勝ったのじゃ。そちには、これまで随分の苦労をかけた。かたじけないことじゃ。ありがとうて」
 そう繰り返し吉乃の顔を見つめる信長はもはや、かつての吉法師ではなく立派な武将としての物言いでもあった。信長はさらに続けた。
「おまえには、この世で最高の褒美を取らせたいが、その前にワシは、お類。いや、吉乃、そちに心から礼を言いたいのじゃ」と。

 吉乃は、このとき思った。
 あの「おまえはワシの嫁になるのじゃ。分かったな。よいな。ヨメじゃ、ヨメなのじゃ」と叫ぶように言ってのけた手に負えないほどの吉法師がこれほどまでに逞しく、頼りがいのある武将になってくれただなんて。とても想像さえしていなかった、と。
 でも、たゞひとつ、吉乃の胸を一貫して射続けるものがあったことだけは忘れない。それは、信長の目は、ワンパクだった吉法師のころから、いつだって真剣そのもので、その目はいつもキラキラと何かを一貫して射抜くように光り輝いていたという事実である。

 ここで作者である私はひとつ気になることに触れておきたい。いや、触れねばならないと思い、重い筆を進める。それは信長の正妻である濃姫のことである。濃姫の記述が「武功夜話」や「信長公記」などどんな文献にも殆どと言ってよいほど出てこないのは、なぜか。
 歴史資料や文献などで分かっていることは一五三五年に美濃之国の大名斎藤道三の三女として小見の方との間に生まれた彼女が〈帰蝶〉と呼ばれていたという事実、そして一五四八年(天文一七年)には十三歳でひとつ年上の信長と政略結婚させられた、その二点でその後のことは多くが闇に包まれたままだ、ということだ。
 またその生死についても諸説ある。その第一が一五八二年(天正一〇年)六月二日に明智光秀の謀反により信長が命を落とした京都本能寺の変で共に自害したというもの。(この点については真偽のほどは別に、信長の正室濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜市不動町の西野不動尊前の「お濃の墓」に存在する。ただ、これは江戸時代につくられたものらしい)
 次に、いやいや、それよりずっと前の一五六一年九月に子宝に恵まれないまま傷心で父の元に出戻っていたところを斉藤道三に反逆した嫡男義龍の明智城攻めに遭い、この時に命を落としたという説。さらに時代はずっと下がって大徳寺総見院の織田家墓所の過去帳にある記述〈養華院殿西米津妙大姉慶長十七年王子期旭信長公御台〉から、信長の死後三十年たった慶長十七年に七十七歳の高齢で病没したなど。諸説がある。

 いずれにせよ、信長との間に子に恵まれなかった濃姫を思うとき、彼女の人生は必然的に暗く希望のないものになっていったことだけは疑いようのない歴史の事実だったといえよう。濃姫と政略結婚させられた信長も当時は、まだ十四歳。濃姫との愛を育むにはまだ早過ぎ、それよりも当時の信長は斎藤道三がこわくて濃姫には最初から近づけず、手を触れられなかったのではないか。そんな悲運の濃姫に比べたら、吉乃は生涯、信長の愛に育くまれ、その点では幸せな女性だった。  (続く)