回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第四章翻弄編」
一夫は里美の死で大きなものを喪失した自分を感じていた。美代子は死んでゆく自分の子達の死を思い出し、ただ死から逃げたかった。花を愛することで逃げていたのだ。政志は手術と姉の死、二つの事件で今までの行け行けの人生から逆の方向に歩き始めていた。
日本中がバブル崩壊で氷を浴びせられたように凍りつき血さえ通わない時代がやって来た。敗戦後はただ飢えから解放されればよく突っ走り豊さを求めた。物があふれ大量生産大量消費になった時、日本は方向性を見失いギアーチェンジする時期を向かえていた。すさまじく日本的なものを破壊した時代でもあった。技の沢山が失われ、大量にやって来る均一製品に変わった。それはデフレを生み出した。日本の企業は生産地を求め人件費の安いアジア各地へ行った為国内の中小零細企業は体力的に耐えられず多くが滅びざるを得なかった。
スーパーの進出は小売店を圧迫し商店街はシャッター通りになり各地の町は色気を失って行った。世の中には仁も義も消え男は侠気を失い女性は優しさという美徳を失って行った。
【草薙(くさなぎ)の剣】
デザイン博が開催されて以降名古屋の街は花に彩られ実に綺麗になった。デザイン博は熱田区で行なわれたが、筆者は少し熱田についても書きたいと思う。熱田区は名の通り熱田神宮を中心に出来た門前街から広がった。熱田神宮には日本武尊ゆかりの地で草薙の剣が祀られている。武将の里でもある。頼朝は神宮内で生まれ信長は戦勝祈願し壁まで寄進している。武尊が何故草薙の剣を伊吹山まで持って行かず殺されてしまったか謎だが草薙の剣は戦時中疎開された以外ずっと神宮内にある。
剣が青銅か鉄か誰も見たことがないので分らないが一度江戸時代に見ようとした神官は罸ですぐ様死んだと言う。神殿はやはり空襲で焼け伊勢神宮から古い社殿をもらい再建され今に至っている。剣は平家が滅んだ時壇ノ浦の海に消えたはずだが、あれはレプリカで本物は神宮にあったと言う。戦中は熱田神宮の前身の気比神社に疎開されたが大高の小高い山にあるそこは安全だったようだ。神宮内の宝物館には寄進された沢山の刀剣や槍等の武具がある。神宮には西行の腰掛け石等他にも名所は沢山あるが今は書かない。私は正月は熱田神宮は人が多く避け、手前の西高蔵にある高蔵神社に行くことにしている。高蔵神社はそれなりに由緒があるし静かに詣でることが出来るのだ。
デザイン博は、川並町にある日比野市場東側にあった貯木場を埋め立てられた地にセンチュリーホールを造り行なわれたが同時に出来た日本庭園が実にすばらしい。名古屋には珍しい池のある庭園で水に浮かぶ和風建築が美しいし、観月会、茶会、句会には持って来いだ。茶会と言えば高蔵にある雲心寺で同門の花会でよく使用した。隣の青大悲寺は尼寺で紅葉が美しい名古屋の隠れた名所だ。
熱田にも名物はあるが中でもこの十年有名になったのが鰻のひつまぶしの蓬莱軒だろう。以前は神宮内の庭の見える小さな店だったが移築してから見る間に有名になった。私は隠れた名店として市場内にある一力を薦める。市場内にあるので魚が安く仕入れ出来何でも安価で美味しくいただける。市場に近い事で尾頭橋や中川区の五女子にかけての地区には寿司店が多くいずれもうまい。中でも英寿司は昔気質の店主が居て卵焼きから注文などしては口も聞いてくれない。回転寿司は一軒もない。
話をもどそう。バブル崩壊は一夜にして価値観を変えた。土地神話も崩れた。戦後一度も土地は下がった事はなかった。逆に土地さえ持っていれば良かった時代だったのである。一夫は故郷で趣味のホテルを経営し家康のように目配せし名古屋のホテルを見てれば良いと安易に考えていた。政志の近くからバブル崩壊の波は始まった。JCの先輩白石薬品が株式投資の失敗で破綻した事から始まった。次に遠縁の牛田家具がマンション経営に失敗し続いた。
【バブル崩壊】
一夫の宿にも序章はあった。順調だった昭和六十年を境に売り上げは低迷するようになっていた。次の年一夫が信用し任せきりにしていた会計に店の金を二千万程横領される事件があった。会計の女性は銀行へ行くと言って出掛けそのまま着服するという大胆さで信用する一夫の目を逃れた。美代子は女の勘の良さで気付いていたが夫には言い出せなかった。経理を美代子が不得意で薄々分っているものの見過ごしてしまった。
経理の女性は現金の他に印紙や切手を買ってはそのままチケットショップに売ったり宿の所有の絵や陶器を横流ししたりする等して金にし、ブランド品を買い、女性特有の性癖を満足させていた。政志が気付き追求したが彼女は身体検査出来ない女の武器で店を止めた。三年後松岡の経営する寿司屋で五千万を横領し中村警察に捕まったが、現金商売のスキを付く手口だった。二千万円着服されても大丈夫な程一夫の宿は利益を上げていたのだ。
政志も胆嚢を摘出して以来、やはり仕事の情熱を失い小説を書く事や旅で不安を紛らしていた。四十歳になった時名古屋の逃したオリンピックが隣の国のソウルで開催され同級生の小笠原と梶山を誘い見に行った。十年ぶりの韓国は見違える程発展していた。朝鮮戦争の跡はなく車は現代自動車が造りソウル市内を走っていた。オリンピックのメイン会場は日本とは違いコンクリートが平らではなく建築が雑だった。地方出の年配者が長いヒゲと黒い帽子チマチョゴリを着て昔ながらの民族風だった。入場券を幾らでも買えなかなか韓国人には高価で行き渡ってないと察せられた。政志達一行は五競技見た。水泳、陸上、重量上げ、柔道、ボクシングだった。陸上は選手が特に黒人の選手は動物そのものに見えた。水泳の女子は美人が多く見とれた。面白かったのはボクシングで韓国人のボクサーがアメリカの選手に負けると会場内の照明が消えてしまった。韓国人の愛国心が見えた行為だった。
次の年は家族でサイパンへ行った。サイパンからテニアンへセスナで渡った。両島とも日本軍玉砕の島である。戦跡を巡ったが原爆搭載の島テニアンは興味深かった。港は戦争中そのままで巡洋艦を通す為の鉄柵はそのままで滑走路も風化していた。ホテルはなく名鉄の遺骨収集者用のバラックがあるのみだった。家族で海に初めて潜った。インストラクターは名古屋から出張で来ていた。
テニアンは潜る最高のスポットらしく、初めてなのにアクアラングを付けて十メートル程潜り底で魚と戯れた。初めて見る別世界で世界観や宇宙観さえ変わる程の美しさで竜宮城の伝説も納得出来た。サイパンでは家族と共に潜水艦に乗ったり泳いだり燈台をレストランにした処で食事をしたりと楽しい時間を過ごした。テニアンからサイパンに飛ぶセスナは乗務員がサンダル履きで曲芸飛行まがいの旋回をしてくれ太平洋の青さが目に映りこのまま吸い込まれてもいいと思う瞬間だった。
小説はがんセンターで書き始めたジャパユキマリーが認められ風媒社から公刊された。続いて名古屋悪女物語も出版した。この頃日本はバブルの絶頂期で特に駅西の土地は海部首相の兄弟が経営するシンコーホームが地上げする等して見直されていた。政志は駅西の発展もようやく始まったと思った。彼は駅西の小さなビルを泉不動産の仲介で買収したり椿神社裏の土地を二億で買ったりと政志自身が時代に遅れまいとしたのである。
こうして故郷に造ったホテルと合わせ宿の借金は十億円を越えていた。資産が四十億と言われた時代は良かったがその後十六年地価は下り続け政志の目算はまるきり狂っていた。時代は残酷で勝者と敗者を生み出す。バブルは株や土地を買った者を敗者に早く売り抜いた者を勝者にした。駅西でも見切り千両と土地を売却した人が居た。銀座通り一番東側にあった太閤饅頭を不具者の息子と作っていた宇佐見さんとその前の森山商店だ。二人共坪八百万で売り三億円程手にし、その後幸福に暮らしている。
政志はバブル期に自ら作った借金に苦しむようになった。商売は攻めている中はいいが守るようになると苦しいし伸びもなくなり内部から腐って行くようになる。旅館業は他企業や公営施設からの参入もあり過酷な商売競争に曝された。特に施設が老朽化することにより競争力を失うことは致命的でありリノベーションを続けなければならない。いい時は続かない。絶頂から序々に企業の力は衰えてゆく。新しい商品を生み続けねばならない宿命を企業は背負っている。
一夫の宿も同じことが言えた。昭和六十年台を絶頂に売り上げは下がって行った。平成になり十億円以上の借金を背負った政志はそれと戦う日々を送るようになった。里美の死は追い討ちをかけ、精神的支柱を失った政志は酒に頼るようになって行った。平成二年からの社会は実におかしな世界だった。銀行が平静を失い方向転換した。恐ろしい勢いで銀行同士の合併が始まった。銀行は弱い体力しかない企業を容赦なく切り捨てるようになって行った。拓銀や長銀が潰され北海道の企業は苦しくなり長銀に頼っていた旅館の多くも潰れて行った。山一證券等の証券会社も潰れて行った。
一夫が新しく故郷に造ったホテルは新しく珍しさや施設の面白さも手伝って二年間は地元の企業や住民に愛された。しかし全体的に売り上げが少なく返済までには至らなかった。月百万以上必要な金利も名古屋の宿に頼らざるを得なかった。名古屋の宿の責任を負うようになった政志は企業を生き残らせる方向を考えるようになった。丁度その頃隣の宿が交通公社の教えで全面改装し政志の宿も改装を考えねばならず新たに国民金融公庫から八千万円借り改装工事をした。今までの借金と合わせ月に金利だけで八百万強銀行に支払わなければならず自転車操業状態になって行った。唯売り上げは急には下がらずなんとか経営はして行けた。
この頃名古屋のホテルでも潰れる店があった。友人の中区の伏見荘がオーナーの自殺により倒産した。日本旅館を建て直しビジネスホテルと賃貸住宅にしたものでうまく金を回せなかったようだ。ロイヤルホテル弁天閣のオーナーの神谷さんが病に倒れ小牧に新しくホテルを建築した養子さんが返済に行き詰まり倒産と、昔からの宿も潰れる所が続いた。政志は一日三十万円近く必要な金利に毎日啄木の歌のようにじっと手を見る日々を過ごすようになった。返済は折り返し資金で間に合わせた。それには保障料が必要で保障料も重く圧し掛かって来た。
政志と同じ事は日本の多くの中小企業にも言えた。日本経済は負の連鎖に苦しみ時の小渕首相が特別保障枠を作り過剰債務に苦しむ中小企業を助けることになった。政志は八千万を借りた。特別保障も返済金利が必要でそれも折り返さなければならなくなった。まるでシシュポスの神話のように掘った穴を埋め又堀り、埋めるという虚しい行為を続けるジレンマだった。そんな政志を見捨てる従業員もあった。
営業の山口は女性スタッフと共に去り副支配人の河合は政志が信じられなくなったとはっきり言って退職して行った。それ以前にも出入りの多い職種でもあり同級生で雇ったハーフの村田も辞めて行った。村田は米軍にいた父親がアメリカに帰国した後母と共に捨てられた男だった。辞めて行った彼等に替って自分の会社を潰した八神が入社して来た。政志は反対だったがやはり同級生で雇っていた大西が是非雇ってくれと言うので雇った。政志は心底八神の生き方が信じられなかった。だが一夫から受け継いだ男気が彼を救ってやれと命じたのだ。
八神は中川区で小さな鉄工場を商っていたが無計画な経営でそれを潰し行くあてもなく匿ってくれと言うのを一夫の宿に匿ってやったものである。冬中四カ月一夫の宿で匿われた後名前を変えて入社を希望した。一夫の小さなホテルは逃避先にはもって来いで他にもそんな男を雇ったこともある。その後何年かして八神は政志のもとを去って行った。八神の他にも政志のスタッフには問題のあるスタッフが居た。特に支配人の横井には賭博依存症があり時々大博打をして借金を背負い狂う時期があった。早く退職させるべきだったが頭が良く仕事も早く何かと便利なのでなかなか辞めさせることが出来なかった。他にも板長の名村は離婚してからというもの女好きで口が柔らかい事からすぐ女が出来社内の女に手を付けた。裏では仕入れ先からマージンをもらうこともあり政志を悩ませていた。
一般の会社なら男女関係や業者との癒着は厳しく処罰されるが水商売の宿は鷹揚で見過ごしている場合が多い。しかしあえて厳しくする必要があった。
【大学生】
故郷へ帰って小さなホテルを営むようになった一夫と美代子は創業した時のように二人で洗濯をしたりと昔を思い出し楽しんでいた所に娘の突然の死に出会い戸惑ってしまった。予想外の出来事は二人に重く圧し掛かり茫然とした日々を送るようになった。冬は閑散期で体を動かす事も少なくなり余計娘の事が思い出されてしょうがなかった。故郷の冬は雪が少ないかわりに寒さが厳しい。水道が凍る程だ。椿ばかりで他の花は咲かない。どうして娘は死んだ、そればかりを繰り返すが答えは返って来なかった。春が来て四月になり孫の篤志の東大入学の日が来て美代子は上京した。半年待てばと娘の死を悔み他の親達に交って入学式に参加した。
政志夫婦は長女奈々子の信州大学へ車で送って行った。奈々子は浅間温泉にある女子用のマンションから大学へ通うようになっておりそのマンションへ行ったのだ。日用品を買い備えマンションを用意し政志だけはその日の内に帰名した。雪の残る畑が見えるマンションだった。二十数年ぶりの大学の雰囲気は懐かしく華やいでいてもう一度帰りたいと思った位だった。奈々子の入学以来十年間政志は四人の子の大学と向き合う事になった。政志には娘二人と息子二人居たが娘二人は則武小学校卒業後奈々子は公立中学から淑徳高校へ二女の明子は小学校から直接淑徳学園へ進み高校まで過ごし、息子達は則武小学校卒業後直接政志と同じ南山学園へ進んだのだった。
名古屋の宿は相撲パックで北陸の客が沢山来るようになっていた。大相撲名古屋場所は毎年七月に開催され二週間と短いが貴ノ花の息子若花田と貴花田の人気はすごくブームを十両になる前から起こし相撲人気を呼んでいた。バブル崩壊以後も人気のあるものには金を惜しまず使う風習が始まっていた。北陸からは東京や大阪よりも近い名古屋が選ばれ相撲好きなファンを集めた。政志は枡席と椅子席のチケットを宿泊料に上乗せして販売した。
夕食にはチャンコ鍋を付けた。名古屋なので味噌味で豚肉を入れたチャンコだった。単価は椅子席でも宿泊料込で三万円を超え枡席だと一人四万五千円から五万円になった。無論枡席にはABCとあり、いずれも四人単位なので三人でも枡席だけは四人分を負担しなければならなかった。若貴が人気の絶頂期はなかなか席が入手困難だった。政志は早い予約は中日新聞で遅い予約はかね秀等のお茶屋に頼んだ。売り上げが相撲期間中だけで五千万円程になり千人から千五百人の客が来た。朝稽古見学のサービスもし、車で十分程で行ける武蔵川部屋に見に行った。当時武双山が平成の怪物と言われていて人気があった。
武双山は色黒で動作が猛獣のようで人間離れしていた。この頃から駅ビルが新しいツインビルに建て替えられる工事が始まる事になっていた。駅ビルは築五十年以上経ちかって東洋一と言われた偉容も古び新しい名古屋にはふさわしくなかった。JR東海は反対運動を恐れ旅館組合交渉にも気を使っていた。政志は東急ホテル建設反対で建築そのものを無くすことは出来ず単に客室数を減らす等の妥協で終わると思ったので建築中の工事関係者を宿泊させる事で五―六年間旅館が潤うと発言した。
建築が始まり大工事が始まった。基礎に三年近くかかり旧ビルの基礎に使われたシベリア松は一本一本ぬかれ鉄筋に変わった。政志の旅館には東京から基礎工事専門業者の成和機工が泊まってくれた。三年間ずっと十人程は泊まってくれた。それ以後もビルが建ち進むにつれ宿泊人員は増し多い時は三十名近くになった。建築には高島屋が係わっていて数人泊まってもらった。ツインビルの建築中随分政志の宿は助かった。
【阪神大震災】
里美が自殺してからというもの保夫は酒の量が増し依存症になっていた。職場の第二日赤も休みがちになり家族崩壊の危機を迎えた時悪いことに血栓に襲われた。最初足が痛いと整体に通っていたが治らず日赤で診てもらったが原因不明だった。もう少しで死ぬ所だったが一夫が近くのかんやま内科の先生に診てもらった所症状を聞いただけでひょっとしたら血栓ではないかと言われ再び第二日赤で診察を受け血栓と分った。
一日が山と言われ一夫と美代子は又死がやって来ると心配した。血管に網をかける方法で固まった血を取り肺や心臓に行かないようにした。肺や心臓に行けば急死の可能性もあったのである。保夫は若い体力で病気を乗り越え三カ月の入院で生を長らえた。気まずくなった日赤を退職し一年間政志が面倒を見る事になった。保夫は医療関係の仕事しか合わずその後は再び病院勤めに戻り、居合抜や山登りで体を戻して行った。足の大静脈が詰まり歩行が少し困難で鍛える必要があった。人間の体は大きな血管が詰まると毛細血管が補うようになっており神経さえ通れば体が元のように動くようになる不思議な復旧力を持っている。
突然の身内の死は一族に大きな影響を与えずにはおかなかった。二年後、里美の二男匡志が早稲田大学へ行き政志の二女の明子が神戸学院大学へ入学した。政志は一夫と美代子を連れ家族総出で神戸へ行きシルフィードという神戸港周遊の船に乗った。次の日は二号線を車で行き一の谷を見て平家を偲んだ。神戸学院は、西明石から北上した神戸西区の高台にある学校である。明子は大学から五分程で歩いて行けるマンションで生活する事になり姉の奈々子が日用品を備えた。小ぢんまりとした大学で政志は淑徳学園と同じく父兄会の役員となり会毎に神戸に行くことになった。総会後は明石の人丸花壇という老舗の旅館でいつも会食した。渡り廊下で露天風呂へ行ける名旅館だった。
神戸のホテルは何処も個性的で前日はスペイン風のモントレに泊まった。神戸にはいろんな旅館が加盟する案内所神戸フロントがあり送客の多い兵庫県の客を送客してもらっていて年に二回は営業に政志は行くのが常で行くと決って神戸フロントの坂下さんと車で兵庫県内の旅行業者を回った。次の年の一月中旬、ある朝早く明子から電話が入った。すごい地震に襲われ、とにかく神戸を離れ名古屋へ向かうと言って来た。その後電話は繋がらなくなった。阪神淡路大震災である。明子は九州へ逃げ飛行機で帰名した。政志は地震の大きさに驚いた。一月後客の多い神戸へお見舞に行く事にした。神戸までは新幹線で行くことが出来たがそれから先は地下鉄を利用し三ノ宮まで行った。三ノ宮からはバスである。
三ノ宮は悲惨だった。ビルが崩れ車がつぶれているものが沢山あった。デパートも崩れ、ひしゃげ完全に倒れたビルもあった。バスで行くと家屋が九十度回ったものや完全に破壊されたもの、まるで戦後の焼跡のようで政志は過去の駅裏を思い出した。リュックに運動靴の人が多く通常の背広と革靴スタイルは神戸にはふさわしくなかった。神戸では所々におにぎりとお茶を配る所があり優しく声掛けしている。その夜は市内で唯一営業しているオークラに泊まることにした。オークラは液状化した土地に囲まれていた。犬が一匹捨てられたのか迷ったのかうろついていた。ホテルの内部は以前泊まった時と同じく何処も傷んでいる風はなかった。
【淡路島】
翌日の朝タクシーで神戸フロントへお見舞いに行った。神戸フロントは大丈夫だったが水道は来ておらずトイレはバケツの水で流さねばならなかった。五万円お見舞金を置きすぐ港まで行き淡路へ向った。港は起重機がすべて倒れていた。淡路は客が多くレンタカーで車を借り津名から回った。津名港はひどい状態で津名の旅行業者は何処も未来が見えないと言った。津名から洲本に行き洲本の旅行業者を数軒回った。いずれも一万円ずつお見舞を持って行った。洲本は津名港と違い地震の影響は余りなかった。阪神淡路地震は線で来たようで少しでもはずれると大丈夫なようだった。この日は淡路全体を回り洲本で泊まることにした。前年出来たばかりの白亜のホテルで一番上の階に大浴場があった。流石に宿泊客は地震対策の作業員ばかりだった。
翌朝洲本港から関空までフェリーに乗りタクシーで大阪まで出て新幹線で名古屋まで帰った。日本は阪神淡路大震災でますます力を弱め不景気さを増して行った。政志の宿がなんとか持ち堪えたのはツインビル建設に伴う宿泊客と一九九七年に名古屋ドームオープンがあったからだ。政志はスポーツやコンサートで他県から人が集うことを相撲パックで覚えた。名古屋ドームオープンで中日戦がある毎に何万人もの集客があり中日✕巨人戦の時や大きなイベントには近県から人が集まった。ただチケットを入手するのが困難でその方法を考える必要があった。
彼はシーズン券を手に入れようと思ったが、シーズン券は高価で先銭が要った。彼は友人関係からドラゴンズの佐藤社長を知り一番入手困難な外野指定券を四十席団体席で手に入れ他にオパール席も多い時で三十席入手した。総額一千三百万円程前年の十二月までに振り込みが必要で先銭を予約者から予約金として戴くことを決め相撲パックと同じく野球パックで売ることにした。名古屋ドームオープン以後二年は面白いように客は来た。野球パックはチケット付で組んだ。夕食は弁当を頼んだ。三菱系の菱重興産と取引がありドームの至近にバスが置ける駐車場を持っているので便利だった。
こうして政志の宿はコンパニオンパック野球パック相撲パックと三本柱のセールスポイントを持ち特にスポーツパックは夏の閑散期に売り上げがあるので旨味があった。ドームオープン以後二年間は五千人程の客を扱い売り上げもそれだけで一億近くになった。ドーム二年目には星野監督が中日をセリーグ優勝させ日本シリーズもあったので更に売り上げは増した。
政志の男の子は南山学園を卒業後長男は地元の名古屋学院大学へ次男は麻布大学へ進んだ。次男の麻布大学は神奈川県にありやはり家族で下宿を探しに行った。神奈川県の相模原までは箱根越えをして行った。途中箱根駅伝で著名な富士屋ホテルで休みして行った。富士屋ホテルは歴史ある趣漂うホテルでロビー前の池の鯉を見ながらコーヒーが飲めた。庭を歩き別棟のバンケットルームを眺めるとまるで舞踏会の音楽が聞こえるような空気が流れている。又館内には図書室もありかつては華族の避暑に利用されていたのが頷けた。麻布大学はのんびりした大学で生徒もバンカラで勉強にはもってこいだ。次男は大学へ入ると馬術部へ入部した。
【七色紙】
政志はこの年NACという企画会社に頼まれ戯曲を書いた。七色紙という土佐紙の物語で高知まで飛んで高知県一周を妻とした。戯曲を書く為である。土佐紙の里は高知市内から一時間程行った伊野町にある。和紙会館もあり清流の脇に建てられていて宿泊設備もある。土佐は愛知県とも縁がある。山内一豊が愛知県出身で土佐藩を治めるようになった山内家は元々の地侍を下に置き上士と下士に分け下士の身分から竜馬や中岡慎太郎が幕末出て活躍する。政志は海添いに南下し高知から中村市まで車で行った。土佐の墓は皆海の見える方向にあり行った時が六月だったので、鰹のたたきが名物で途中の飲食店で食べた。又フォエールウォッチングが出来南国の潮騒を浴びながらの旅は楽しかった。高知にある城西館は吉田茂ゆかりの宿で竜馬の生誕地前にある都市旅館としては大きく立派で卓袱料理を出してくれる。
七色紙の芝居は遠山氏演出で名古屋の劇団ひらき座の増原さん始め団員の皆さんと芸創センターや西春の会館で上演され好評だった。
【高層ビル群】
一九九九年に新しい駅ビルツインタワーが落成した。北側にマリオットホテルが南側に高島屋と事務所ビルが双子の当時としては名古屋一高いビルだった。
このビルの完成で駅周辺の地図が一変したと共にビルの高層化も加速して行った。以前にも高いビルはあった。滝兵ビルが錦通りに国際センターが桜通りに建った。滝兵ビルは東京海上ビルに買収され滝兵は倒産を免れ社長はアメリカへ逃避しアメリカで再び成功したが長者町の繊維街の衰退の象徴的出来事だった。国際センタービルは円頓寺の南側に建ち多くの外国人を集め留学生修学生の集う場でもあった。階上に東天紅という中華料理店があり中村ライオンズでお世話になるようになった政志はビル内に中村ライオンズの事務所があり昼食をよく食べに行った。その他に栄には中央高校跡にナディアパークが出来名古屋の中心部はますます名古屋駅周辺と栄地区に絞られて行った。
【武蔵丸】
相撲パックが絶頂の頃泉不動産の小酒井さんから電話があり武蔵川部屋の名古屋宿舎の鎌倉ハムの寮が鎌倉ハムの倒産により出ることになったので政志に世話してやってくれと依頼して来た。政志は武蔵川部屋は大所帯で難しいのではないかと答えたが困った親方が一度挨拶に来るという。松岡が蟹江店で二子山部屋を預かっているので知っている松岡蟹江店の支配人に聞いたがやはり政志の宿では難しいのではないかと言われ、かえって政志は少し腹立たしく、男気を出してしまった。結局三年預かる事にした。何も知らずに預ったのである。六月に相撲取り達はやって来た。四十人近い大きな男達である。まず一人ずつ政志の前で博徒がするように足を半跏に組み仁義を切る。
とうとう相撲取り四十人近くを預かる日々が始まった。彼等の中には二人の髪結いと呼び出し一人が居た。後は親方とコーチの鈴木さん、引退した力士からコーチになった一人という構成だった。その夜チャンコ場が設けられた三階で政志の家族、県会議員須原章氏、中村区役所区長の鬼頭さん、銀座通り商店街会長の加藤さん、それに、武蔵川特別顧問のポール牧等と親方、コーチの鈴木さん、武蔵丸、武双山等と鍋を囲んで簡単な顔合わせをした。
先乗りの数人は二週間前から来ていた。準備があるからである。場所前の一週間前に本隊が来る。翌日から土俵作りが始まった。プレハブで練習場が出来ダンプで赤土を持って来てプレハブ内部に山が出来る。赤土にセメントと塩を入れ順番に土を固め土俵を作って行く。若い衆が上半身裸で作って行く。土俵が出来ると俵で円を作る専門職がやって来て土俵が出来上る。ほぼ先乗りが一週間で作ってしまう。次の朝早くから稽古が始まるからだ。
カチカチに固められた赤土は激しい稽古にも大丈夫で塩を大量に入れるのは傷をしても化膿しない為のようだ。稽古が始まった。まず四股を踏み次に柔軟体操で股割りをし、稽古柱では張り手をする。体が柔らかくなったところでぶつかりだ。大きな体と体がぶつかり大きな音がする。時には十人程で輪を作り四股を踏みながら土俵の回りをぐるぐる回る。朝五時頃から下の位の者から集まり十人程になるには六時頃になる。七時過ぎにコーチの鈴木さんが、七時半頃親方が来て座敷の方に座る。コーチは竹刀を持って土俵側に立ち大声で相撲取りを皆指導する。武双山は八時近くに来て大きな四股を踏んだり股割りをしたりチューブで作ったもので腕を鍛えたりする。武蔵丸はその後のそっとやって来て鉄砲をする。番付上位と下位では体の違いが明らかでいつも誰かがぶつかり稽古でしごきに合う。
しごきに合うのは幕下上位の者が多い。関取りのぶつかりは最後の方で行なわれ、熱心な者がぶつかって行く。稽古の終りがけに十両以上同士のぶつかり稽古が始まり上位の者が大きく胸を張り頭から当る相手の頭を受け止める。大きな音がする。やはり関取り以上の稽古は迫力がある。看板力士は数人で後はつけ足しというか明らかに体力も違い、上に行くのが難しいと分る。余程素質と稽古量がないと上位には上れない。十両以下は給金も安く二カ月に八万円しか入らない。足らない部分は付人となり関取りからもらう。十両以上は月給があり月に三十万以上もらえる。他に祝儀が大きく一回で十両で十万円、関脇なら二十万、大関なら三十万円となる。
だから人気がありお呼びの席がかかる程収入がいい。多分祝儀は税対象ではないはずだ。祝儀が親方に入りどう分配されるかは知らない。場所前にお座敷の席は集中し夜な夜な関取は正装し付人を連れ出て行く。付人は位によって何人かずつ付く。親方にもコーチにも専属の付人が付く。だから付人の居る関取や親方はあらゆる事は付人に任せ何もしない。風呂では下着も着せる。ただ棒立ちにしていればいいだけだ。トイレの紙も付人が用意する。政志は過去にもそんな風習は経験したことがある。ある宗教の教祖的な人と長唄の家元である。やはり彼等は何もせず、すべて弟子に任せていた。下の世話まで。日本の家元制度や宗教会は長くそうして受け継がれて来たのだろう。かつてからその制度は存在した。武将のお小姓も芥川の書いたお尚が若い弟子を偏愛した話もそこから来たのだろうと思う。
相撲の話にもどるが、朝稽古は十時頃終り風呂から上った順にチャンコに付く。関取のチャンコは朝十時半頃だ。親方が上席に座り、番付の順に並んでいく。チャンコの席には関取と親方、それにコーチと贔屓筋が付く。まず丼にビールが注がれる。武蔵川の相撲取りはほとんど場所中や稽古中にアルコールは飲まず、水かミルクしか飲まない。料理はチャンコの他にサラダや健康的な料理が多く品数も多い。すべてはチャンコ番の相撲取りが料理を作る。贔屓筋から贈り物の食品も多く、それとチャンコ番を使い味付けする。たとえばキムチの場合はキムチチャンコ、肉の時は肉鍋風チャンコとなる。
幕下以下の相撲取りは関取りの後でチャンコを食べる。残り物に栄養がある。チャンコが終ると自由時間だ。大方は昼寝をする。食って寝る。それが太る為の仕事には一番必要だ。武蔵丸は余りチャンコが合わず、ハンバーガーを付人に頼んでいた。十個程大きな手ですぐに食べた。武蔵丸は稽古の終った土俵上ではしゃいだ悪戯が好きで花火を付人に向け打ったりした。
こうして二週間が過ぎ場所前日に土俵を清める儀式がある。小さな太鼓を中央につるし二人で棒を掴み持ってもう一人の呼び出しが叩き土俵一周し清め回り終った所で初日の取り合わせを相撲甚句の口調で唄い上げる古式豊かな儀式で部屋を貸した者にとっては、一番誇りを覚える時である。
ホテルは和室一室を親方夫婦にもう一部屋をポール牧夫婦にビジネスの部屋を関取に一室ずつ当てていた。他の相撲取りや床山、呼び出しは三階の広間で雑魚寝、区切った三十畳程をチャンコ場として使っていた。一番困ったのはゴミの多さとトイレを壊すこと。便座が重さに耐え切れず壊れてしまうのと風呂の循環装置が髪で詰まる事であった。女性の長い髪では詰まらないのに相撲取りの髪は駄目だった。鬢付け油を毎日付けその髪を毎日洗う為だろう。館内中鬢付けの香が漂う。甘味な香に陶酔する程に臭いは強い。床山も大変な仕事である。二人で三十数人の長い男の髪と格闘するのだから。
場所が始まった。三段目から順にタクシーで県体育館に向かう。関取は午後、専属の車で行く。運転手は専属で友人かアルバイトが多い。武蔵丸は段々勝ち進んで行った。十二日目位から毎夕丸関を迎えるファンが多くなって行った。十四日目まで勝ち進み政志は不安になった。優勝でもすればパレードや出迎えはどうするのだろう。テレビで見た事はあるが実際となると恥をかかないだろうか。コーチの鈴木さんに聞いてみた。だが貴乃花も全勝で丸は負けるだろうと思っているようで暖気に構えている。仕方なく見様見真似で紅白の幕をバックに前方に和机に白布を掛けとにかく待つ事にした。
テレビで見ているとやはり不安通り丸関が貴乃花に勝ち、優勝してしまった。大変な出来事である。酒屋からは樽酒が届く。四斗樽である。魚屋からは大きな鯛が届く。部屋を預る政志は覚悟を決めた。何故かパレード中大雨が降った。テレビから映像が流れて来る。丸関の紋付きも助手席のコーチの鈴木さんもずぶ濡れである。パレードを見守る中村警察の人々も雨に打たれている。
武蔵丸関の車が着く頃、ロビーは何処から人が湧いたのかという程一杯である。親方が置かれた樽酒の前で大関を待つ。親方とて自分の優勝はあっても弟子のは初である。親方も誰も作法を余り知らないようだった。ぶっつけ本番である。大関が着くと、そのまま内に入り親方の出す枡酒をぐいと飲む。拍手があがる。全員が二階の政志が用意した会場に集まる。丸関が中央に座り鯛を大きく持ち上げる。フラッシュカメラの音で場内は充満する。後はなにがなんだか分らぬ程の混乱である。その日の打ち上げパーティは八事迎賓館に決っていた。一時期伊藤忠問題で悪名を世に馳せた伊藤寿永光の奥さんが経営する結婚式場だった。会場には政志の同級生達も小笠原を含め十数人集まってくれた。
こうして政志の宿には武蔵川部屋が毎夏やって来るようになり、三年を過ぎ親方の次男が急死した事から二年伸び五年政志は世話する事になった。武蔵川部屋のエピソードは沢山あると聞いておりこれ以上は書かない。ただ五年後武蔵川は五場所優勝者を出すという絶頂期を迎え親方も理事長となったが相撲界に問題が起こり親方も責任を取り辞任した。政志はいずれこうなると予感していた。若貴が引退すると共に人気も冷え込み相撲人気も低迷する時を迎えた。政志の宿も相撲パックの客は来なくなった。政志はポール牧と友人になったがポールさんも自殺してしまった。ポールさんは政志とゴルフ友達でもあった。プレイ中に女子大生と交際していると言った。ポールさんの奥さんはマネージャー兼で実に良く出来た人だと思っていたので心配が走った。その後奥さんと別れたと聞いた。ポールさんは色香に人生を失った、と政志は思った。
【再建】
バブル崩壊後長く暗い日々が続いていた。宿の売り上げも低迷するようになっていた。いろんな業種で倒産する会社が続いた。宿泊業界もその中にある。ゴルフ場が一番ひどかった。一夫の近くでは地元の産業が陶器に関わる会社が多く、やはり三十名以上の従業員の中小企業から倒産して行った。バブル期などはこの店でも高級陶器を使ったがあっという間に粗雑な器が好まれ百円ショップが繁栄した。職人にとっても不遇な時代が始まった。芸術家にとっても。 一夫の故郷でも村一番の資産家と言われた陶器商を営む人が倒産し驚いたことがあった。
一夫の故郷のゴルフ場も倒産した。日東興業の新陽カントリーである。日東興業は日本最大のゴルフ場経営の会社だったが倒産間近には会員を騙すような事を平気でした。会員権を安価で募集し金を集めると倒産したのである。その後、新陽カントリーはゴールドマンサックスが買収した。
日東興業の事件以来何処のゴルフ場も同じように倒産して行った。倒産したゴルフ場を安く買い叩く会社も現われ、同じような事は宿泊業でも言え、再建事業が流行するようになった。投資額の五―十パーセントで買い叩くのである。公共設備も同じように売り出され同じように買う業者が現れ、国や県も同じように持て余すバブル期に造った建造物を売り出した。仁義なき戦いが始まった。銀行も同じように土地価格が下がり不良債権化した会社を容赦なく倒産に追い込むようになった。政志の宿もバブル期資産価値が四十~五十億と言われたものが十数年土地価格が下がり四億弱となり各銀行も厳しい目で政志を見るようになった。政志は完全に時代に翻弄され始めた。(続く)