一匹文士、伊神権太がゆく人生そぞろ歩き(2021年12月~)

2021年12月31日
 舞が育てたチューリップなど=私たちの畑・エデンの東にて
 

 令和3年12月31日。金曜日の午後11時を過ぎた。テレビ画面では紅白歌合戦が流れている。

 亡き舞が大変お世話になったのに最後まで挨拶できず、とても気になっていたこの街の〝あ~ちゃん〟と〝トシコさん〟に、きょうの午後、晦日で大変失礼とは思いつつ直接お宅まで足を運んで「たつ江が生前、よくして頂き、ありがとうございました」と、これまでの礼を述べることが出来、ホッとした。
「何いっとるの。こっちこそ、お世話になってたがね。悲しいだろうけど元気出してね」とは、長年エステサロンを営み、ここ花霞の女王と言っていいほどの角岡明美さんで、私たちは不燃ごみの集積場やスーパーなどで出会ったりすると〝あ~ちゃん〟〝あ~ちゃん〟と甘えて呼ばせていただき、いつも何かと頼りにしてきた。
 そして。片や、トシコさんといえば、だ。仙台出身の彼女は私の小説「海に向かいて―前・後編 脱原発社会をめざして」にも登場する童謡と唱歌に通じたある面で、〝あ~ちゃん〟と同じようにこの街を代表する顔である。「マイちゃん、ほんとに潔い女性だったよね。泣きごとひとつ言わない、とても強い人だった。だから。悲しんでばかりいちゃだめよ」「いまごろ、子分を引き連れアッチの国でばりばり、やっているわよ。亡くなる前から、マイちゃん。彼女なりに覚悟していたような気がするの。だから生き切ったと思うのよ」の弁。
 私は、こうした方々に助けられ生きてきた舞を誇らしく思った。みなさん。ありがとう。

 そういえば、きのうは今は北陸で活躍する後輩の女性記者から『奥様のご逝去の報に接し心からお悔やみ申し上げます。ブログ「熱砂」を拝読しました。伊神さんが無理をされていないか心配です。どうか、気を落とさず、御身体に気を付けてお過ごしください』との封書までいただき、私は亡き妻を思い、心が震えたのである。

    ☆    ☆
 きょうは、大みそかである。一年前までなら、いつも私の傍らにいた笑顔の舞が、ことし10月15日朝、69歳で天国に旅立ち、早や70日以上がたつ。私と家族はこの間ずっと涙にくれながらもおかあさんを安心させなければ、と皆助け合ってここまで生きてきた。
 人は誰もが何らかの悲しみを背負って生きていく。悲しみの海を歩いていかざるをえない。というのが、かつて一線の新聞記者として多くの災害や事件現場を歩いてきた私の持論ではあるのだが。まさか私の妻たつ江(伊神舞子)がこのようにあっさりと、それもいさぎよく旅立ってしまう、だなんて。いまでも、とても信じられない。
 でも、事実は事実だ。おまえの亡きあとだが。家族のみんなそれなりに頑張って、私の兄や妹はじめ、おまえのお兄さん、俺の友人など周りの人々にも何かと助けられ「おかあさんが悲しまないように」と。みな、懸命に生きている。だから心配しないように。シロちゃん、そう、おまえの宝でもあった愛猫シロも時折、悲しそうな表情を見せはするが、元気でいるから。安心してほしい。泣かないで。泣かんとこ、おかあさん。
 たつ江! おまえはいつだって私たち家族全員の心のなかに生きているのだから。これからも、どこまでも一本の道を歩いていこう。それこそ、おまえと俺のマイロードを、である。俺はおまえを永遠に離さない。だから、おまえも俺たちと共にいつまでも一緒にいてほしい。まもなく俺とおまえとの新しい時代が始まるのである。いや、既に始まっている。
    ☆    ☆

    ※    ※
【読者のみなさまへ】
 みなさま。伊神舞子は天に旅立ちました。これまで本当にありがとうございました。これからも見捨てないでよろしくお願いいたします(伊神権太・舞子)

 シロちゃんはけさも朝早く雪道を歩いていずこかへ消えた。天国のおまえのところに会いに行ったようだ。
 
 
 みなさん。これからも、夫ともどもよろしくお願いしますね。伊神舞子の死を知らせる夫権太からの喪中はがき
 

(12月30日)
 ことしも残すは、あすだけ。きょうは名鉄犬山線の布袋駅に近いピアゴに行き、店内花屋さんで門松をと思い念のため女店員さんに聞くと「ご不幸があったお宅の場合、門松はしないものです」と言われ「そう言われればそうだな」と合点し、たまたま店内一角で見つけたヘアカットのお店に入り、髪を切ってもらった。ヘアカットは舞が自宅療養していた時に訪問美容師さんに来てもらい、カットをして頂いた時に一緒にしてもらっていらいのことだけに、あの時の舞のうれしそうな顔が浮かび、私はどう言ったら良いのか。胸が詰まった。あの日は舞のカットが終わったあと、「オレもお願いします」とお願いしたが弾むような舞の笑顔がいまも鮮明に浮かんでくる。

 訪問美容師さんからカットをしてもらう まさかこれが最後になるだなんて
 

 ところで私は、ことしわが人生では生まれてこの方最大の悲しい別れに遭遇した。涙がとめどなく流れ、茫然自失と言っていい日々が何日も何日も「これでもか」「これでもか」と続いた。私にとっては、大切な妻、たつ江(伊神舞子)の死。これほどのダメージが過去にあっただろうか。揺れ続ける妻への熱き思い。今さらじたばたしても仕方ない。とは分かっていながら、彼女が生き抜いた忘れられない人生、その生涯のごく一端をここに記しておきたい。たつ江よ。舞よ、舞。マイ。これまで本当にありがとう。おつかれさまでした。
【舞の軌跡】
▽昭和47年11月3日。文化の日に三重県志摩半島の阿児町鵜方にあった新聞社の志摩通信部へ。いったん帰ったあと、7日に着の身着のままの姿で通信部を訪れ、そのまま駆け込み同居生活が始まった。
▽昭和49年2月22日。県立志摩病院で長男を出産。この後、各地を転々。岐阜県北方町で二男、愛知県小牧市で三男に恵まれる。
▽航空記者だった社会部(小牧)では大事件や大災害の現場取材で取材ヘリや双発ジェットで現地に飛び立つつど、メモを手に全国各地の事件現場や被災地に送り出してくれた。
▽七尾で三男が嚢胞性リンパ管腫で入院、2度の手術で無事完治して退院。何ということか。三男はこの後、自宅で今度はヤカンに激突、全身に熱湯を浴び、またまた入院。舞は事故発生直後、三男を両腕に抱え病院まで運んだ(私は仕事中だった)
▽私が【泣かんとこ 風記者ごん!】(能登出版)を出版し、ちょっとしたベストセラーに。出版記念会の席で、当時の北陸本社代表(田村さん)から新聞社では初の「内助の功賞」が妻の伊神たつ江に直接、手渡された。
▽私の転任に伴い、七尾から大垣まで連れてきた愛猫てまりが早朝、交通事故死。その大垣にいたころ、句集「ひとりあやとり」を近代文藝社から出版。地元の方々に出版記念会をして頂く。
▽大津支局長として初の単身赴任。舞は週一平均で私を訪ね、琵琶湖周辺をともに歩いた
▽長男がよき人に恵まれて結婚
▽私が大津から一宮に転任。たつ江はおかあさんと約30年ぶりに再会。ふたりは抱き合ったまま泣き崩れた。このころからフォークダンスを始め、一時期、社交ダンスも学んだ。
▽私が一宮主管支局長を最後に地方記者から本社務めになったころ、ボランティアのリサイクルショップ「ミヌエット」を江南市愛栄通りのお母さんのビル内で開店。どこで知り合ったのだろう。このころ、今は亡き金子兜太さんに俳句番組のアシスタントに、と頼まれたのでやってみたい―と言うも、私が強く拒否。彼女は私の言に従った。
▽転任に伴い支局長住宅から同じ一宮市内のマンションに転居後、彼女は脳内出血で倒れ、大雄会病院に緊急入院。退院後しばらくは同病院に通ったが、数年後に江南市の現在地に転居してまもなくして再び倒れ、こんどは江南厚生病院に救急車で運ばれ、脳腫瘍摘出の大手術を受けた。手術は無事成功、しばらく平穏な日々が続いたがその後、大静脈瘤破裂で深夜未明に救急車で病院に運ばれ、集中治療室で闘病するなどしたが強靭な生命力でそのつど危機を乗り切って回復。この間、自ら営むおばちゃんたちの駆け込み寺だと言ってもいいリサイクルショップ「ミヌエット」を営む一方で七尾時代から始めた俳句や短歌づくり、詩の創作などに終生励み続けた。

2021年12月29日
 シロは、何でも知っている。その瞳の中に舞が宿されている
 

 笑顔の舞はいつだって私たちの心の中にいる
 
 
 

「みんな。元気でいる。あたしのいない生活。もうなれましたか」
「なれっこないよ。俺は、やっぱりダメだよ。おまえのいない世界なぞ、とても信じられない。ただ、この地上でウロウロしている。それでも、なんとか立ち直らねば、とは思っている」
「ところでシロ。シロちゃん 彼女はげんきかしら」
「気丈なほどにしっかりしているよ。おまえが言っていたように、シロは何でも知っている。俺が悲しまないように、と時折、少しだけ外出する以外には、俺の傍を片時とも離れない。そして時折、ジッと俺を心配そうにみつめてくる。その顔がおまえそっくりなのだから。おまえが乗り移っている。そんな気がしている。なんだか、おまえと一緒にいるみたいだよ」
「そうかも知れないわね。そういえば、最近シロちゃん。しょっちゅう銀河(天の川)にいるアタシのところに来るのだから。もう、こちらではみんなの人気者だよ」

 12月29日。水曜日。朝。寒い。青い空が広がり、快晴である。おまえ、すなわちたつ江、舞が天から放つ光りの帯がさんさんとベランダに、寝室へ、と羽を伸ばして注ぎ込んでくる。志摩や能登半島など、おまえは行く先々でこうした日の光りが好きだったよな。
 ことしもきょうを含め。3日を残すだけとなった。私は毎朝起きるつど、何はさておき、おまえの遺影【静汐院美舞立詠大姉(せいせきいんびまいりゅうえんだいし)】を前にろうそくに火をつけ、線香を焚き両手を合わせて「おはよう、たつ江、舞。朝がきたよ」と呼びかける。そして「きょうも俺はおまえを守るから。おまえも俺たちを守ってくれよな。シロちゃんもナ」とお祈りをした。

 私はいま。つくづく思う。俺にとってのおまえ、伊神たつ江(舞子)の存在がいかに大きいか、をだ。思うに、おまえは俺の命そのものであり、逆に俺の存在もおまえそのものであることを。このことは、こどもたち家族にとっても、むろん愛猫シロちゃんにとっても同じだ。おまえの存在が俺たちなら、シロも含めた俺たちの存在はおまえそのものだ。互いに永遠不滅の存在とは、こうしたことを言うのだろう、あらためてニンゲンといういきものたちの絆の深さを強く思う。

 さて。このところの私は、だ。おまえが過去の道のりを俳句や短歌、詩に託して残した足跡を一冊の本(遺稿集)にまとめるため、残された作品(木簡、書き残しなど含める)の収集と整理に追われた。でもおまえの作句や歌詠み、創作にかける意欲と情熱を今さらながら強く感じもしたのである。これはおまえはじめ残された俺たち家族はむろんのこと、この大地に生きる全ての人びとにも当然残しておくべき価値ある作品ばかりだと思っている。もしかしたら、人びとが楽しく幸せに生きていくための寄すが、貴重なバイブルにもなり得る、と。そう思うからである。というわけで、俺はきのうまでに、おまえが残したありたけの作品=短歌雑誌「澪」や俳句雑誌「草樹」、江南俳句同好会の例会資料など=のなかでも何か社会に光りを放ち、人々が生きていくうえでの同伴者となりうる遺稿ばかりを私なりに整理してまとめ、おまえも知るあの出版社「人間社」代表で編集者でもある大幡和平さん夫妻に郵送させていただいたのである。どんな作品集となるか、とても楽しみである。出来たらいの一番におまえに見せるので、それまで楽しみにしていてほしい。

 29日午後。私はかつて七尾支局で共に働いた当時の支局スタッフのひとり、慶ちゃん(大井慶子さん)から思いがけず、フェイスブックで丁重なるお悔やみの言葉が寄せられていたことに初めて気がついた。「フェイスブックで訃報知り、かける言葉も見つからす、今に至りました。家族、いろんな形で団結していかれる事と思います。住む世界は違っただけで奥様も、これからも大切なご家族の為に、お星様となって、応援してる事でしょう。かずほくんも立派になられ頼もしい! 支局長もお空の奥様と、ご家族と絆を深め、これからも元気にお過ごせますようお祈りいたしております。 合掌」といった内容だった。
 私は当然のことながら「慶ちゃん。やさしく温かいことばをありがとう。(七尾にいて)かずほが入院した時は(掃除、洗濯はじめ食事まで作ってくれた)〝慶ちゃん〟のおかげで危機を脱出できたのだから。感謝しなければ。ほんとよ〟と妻はいつも話していました」と返信。続いて。ほどなくして慶ちゃんからは「私も来年は還暦。父も72歳でお星様になった事を思うと、人生のはかなさを感じますが、余計1日1日を笑顔で大切に生きないといけないと。いっぱい泣いて、いっぱい笑って、いっぱい元気をこれからも発信される事、信じております」とのメールが入り、私は【慶ちゃん、ほんとうにありがとう。共に楽しく生きようよね】と。滂沱の涙を流してしまったのである。
 慶ちゃん、あらためてありがとう。息子さんのご結婚、心からおめでとう。もっと、もっと幸せになってくださいね。ボクも、いっぱい泣いて、笑って。そして。いっぱいの元気をこの社会に発信し続けていくことを、ここに誓うからね。

(12月28日)
 車を運転しながら。私は誰ひとり居ない車内できょうも、おまえの名前「たつ江」と「舞」を何度も大声で叫ぶように呼び「なんで逝ってしまったのだ。正月にはおまえが大好きだった大阪の笑い・上方漫才でも一緒に聴きたかったのに」と涙を流す。
 このぶざまきわまる様子を第三者が見れば、なんと恥ずかしくみじめで見苦しい男か、と思うにちがいない。思えば、元気なころのたつ江、おまえは、いつだってただ黙って俺の横にいてくれ、私はそれだけで心が満たされた。不満ひとつ言うでなく車に一緒に乗れば乗ったで、私に身を託すように助手席でいつも安らかな笑顔でいた。私はそんなおまえ、たつ江のことがいとしく、初めて出会った時から、寝ても覚めても大好きだった。
 なのに、だ。なんで、おまえはこんなにも早く、それも天使でも飛び立つ如く、いさぎよく旅立ってしまったのだ。死んじゃったのか。そしてその後の俺は、見事に「一人前」から「半人前」になってしまい、両の腕の力も片腕同然にまでそがれた。そんな気がする。いつも、ただ黙って俺の隣にいたおまえを、私は内心で私にとっては、この世で一番誇らしく神聖な女性だと信じ【駆け込み寺】同然に、おまえのお店を訪ねる女性たちが多かったリサイクルショップ「ミヌエット」をやりくりしつつ俺たち家族のことを片時も忘れることなく、家事、料理などに連日励み、深夜から未明にかけ時には、お猪口に一杯のお酒をたしなみながらシロちゃんを傍らに俳句、短歌づくりに邁進し続けたおまえを、俺は内心で密かに尊敬もしていたのである。

 強い冬型の気圧配置の影響で、日本列島はきのう27日、北日本から西日本の日本海側を中心に大雪が降り続き、滋賀県彦根市では74㌢に達した。そして。この尾張の地でも終日、雪が舞った。ここ江南市でもボタン雪が舞い続け、私にはその<ひとひらひとひら>が舞そのものの花の蝶に見えてしかたなかった。舞が生きていたなら。おそらく愛猫シロちゃんを前に顎に手を当て、窓越しに雪をじっと見つめ、いつものポーズで句作に励んだに違いない。

 舞が生きていたら。窓越しにどんな俳句を詠んだだろう。晩年の舞の創作は正岡子規の子規庵にも似た部屋のベッドの上でだった
 

 雪で真っ白に染まった庭の樹々
 

 
 

 そして。きょう28日はといえば、だ。昨日に続いて日中の気温も5、6度と寒くはあるが、太陽の光りが窓辺から注ぎ込む好天である。それはそうと、おまえは、いま。一体全体どこにいるのだ。どこでカクレンボをしているのだ、と思うと、またしても涙がこみあげてくるのである。おまえ亡きあと、おれは。いやいや、シロちゃんも含め家族の誰もが、だ。おまえ居ずして、よくぞここまで生きてこられたものだ、ニンゲンとはなんて薄情極まるいきものなのだ、と。そんなことまでを思ってしまうのである。

 そんななか、シロちゃんだけは違っている。シロはなぜか、このところは私の傍らにいつもいて離れようとしないのである。それこそ、おかあさん、すなわち舞が生前、言っていたとおり【シロは何でも知っている】。そう思えてならない。そればかりか、シロが心配そうに私をみやる姿には時にゾクッとすることもしばしばで私はそのつど、舞が知らぬ間にシロちゃんに化身してしまったような、そんな気もする。でも、シロちゃん。彼女は何でも知ってはいるが、何も答えてはくれないのである。

2021年12月25日
 すうーっと。風が2階ベランダから入ってきた。メリークリスマス。おはよう。おはよう。みんな元気でいますか。こどもたち。それにシロちゃんも。元気なら、よいのだけれど。心配している(この声に、またしても涙が出て止まらない)。

 <かぜの精>は、なんと。あのたつ江、かわいい舞だった。一体全体おまえはどこにいるのだ。それまで私の傍らで黙って座っていた愛猫シロが空を見上げて静かに立ち上がり、風が入ってきた方に向かって甘えるようにニャア~ンと、ひと声あげた。俳句や短歌の作品づくりに日々、励んだ舞が生前、しみじみと彼女を見上げ「シロ。シロ。シロちゃん。おまえは何でも知っているよね。シロは何でも知っているのだから」と事あるごとに話しかけていた、そのシロが一陣のかぜに呼応するように声を上げたのである。
 メリークリスマス、クリスマス。シロの声に応えるように、こんどはあの舞の声が聞こえ、耳に大きく迫った。「はるこさまに頂いたマリアさまもお元気でしょうか」と。「マリアさまは変わらないよ。今はこちらとそちらの両方に居て静かに、私たちを守っていてくださるよ。心配ないから」とわたくし。

 舞が終生、抱きしめつづけるマリアさま
 

 シロと一緒に、いつも俳句の句作に励んだ在りし日の伊神舞子
 

 この日。25日付の主な新聞見出しは「欧州コロナ規制逆戻り マスク義務化・イベント中止 祝賀シーズン感染最多相次ぐ」「朴槿恵前大統領に恩赦 31日付 収賄などで服役中 健康状態考慮」「米、人権で対中圧力強化 ウイグル産品禁輸法成立」「県立高いじめ1年調査せず 三重で不登校非公表 20年度重大事態県内6件判明」「コロナ飲み薬国内初承認 メルク製 来週にも使用可」「107兆円超予算案決定 22年度 コロナ予備費 5兆円維持」「いろり煙る 光模様 妻籠宿」(25日付中日朝刊)「東京も市中感染 オミクロン株 東日本で初」「京都と大阪で新たに計4人」「来年度予算案閣議決定 4年連続100兆超 過去最大」「日本、高官派遣せず 北京五輪 橋本氏ら出席へ」(25日付毎日朝刊)というものだった。

(12月24日)
 私は、車を運転しながら思う。俺が外出したとき、いつも文句のひとつ言わないで、ただ黙って待っていてくれたのがおまえ、たつ江だった。雨の日も風の日も、雪の日だって。私が外出した時にはどんな日にも「あ、そうなの」とだけ言って待っていてくれた。俺は随分、勝手にあちこちに出向いたが、正直おまえが不満そうな顔をしたことはただの一度もなかった。不思議なことだと思いはしながらも自分の好き勝手にさせてもらってきた。本当にありがとう。

 きょうは思いがけず、滋賀の女性から大きな花が送られてきた。中嶋泰子さんからで、ひと抱えもあるほどの立派な白いランで【秋空に未来永劫と書いてみし】との舞の俳句とともに「舞子さまの句にどれほどの思いがあったのか。心痛みとともに皆様の愛を深く感じています」とも記されており、さっそく仏前に供えさせて頂いたのである。ありがとう、中嶋さん。舞への思いは、ほかにも相次いでおり私は正直、少し面食らってはいる。
 つい先日には、私が主宰するウエブ文学同人誌の直球姫、伊吹さんがわざわざ心配して自宅を訪れてお参りしてくれ忙しいところを悪いな、と感謝した次第。その際、<姫ちゃん(私は常々、彼女に親しみを込め、〝姫〟と呼んでいる)>が彼女ならでは、か。部屋の一隅に置かれていた私が愛用している横笛を見つけ「ふいてよ」というので、久しぶりに【さくらさくら】をふいたのである。いつまでも力を落としていてばかりではいけないので、これを機に、ほかにハーモニカやサンポーニャもたまには吹き、かつて稽古に熱心に励んだこともある【縁かいな】などの端唄も唄ってみようかな、と思った次第である。
 ともあれ、舞と私の涙を乗せた【悲しみ本線】の一日一日が、こうして家族と一緒に過ぎていく。これは、この世に住む誰だって同じことだ。人々は悲しみの海のなかを、それでも前に向かって歩いて行かざるを得ないのである。

 中嶋さんから送られてきた花はさっそく舞(戒名は【静汐院美舞立詠大姉(せいせきいんびまいりゅうえんだいし)】)の遺影前に供えられた
 

 そしておまえの亡きあと。俺は毎日声のたぎりに叫んでいる。たつ江、たつえ。舞よ マイ、マイ、とだ。おまえは、なんで。なぜ、そんなにも早く死んじゃったのだよ。死に急いでしまったのかと。俺の帰りを毎日、待っていてくれたのに、だ。きょうの空は雲ひとつない。快晴である。おまえ。舞が元気でいたなら、きょうかあすのいずれの日にかに、おまえが抱きしめて生きてきた「ミヌエット」でささやかではあるが、クリスマスの集いを楽しく催したに違いない。そんなことを思い、また涙がポロリと落ちてしまうのである。

 きょうはおまえの好きだったショートケーキを食膳に供え共に食べたが、おいしかった。シロちゃんだけは、沽券があるのか食べなかった。

2021年12月22日
 水曜日。一年で昼の時間が最も短くなる日。冬至である。この日に栄養価の高いカボチャを食べたり、ゆず湯に浸かったりすると風邪を防げる、とのことだ。三河湾に面した愛知県西尾市のハズ観音妙善寺では冬至のこの日に「福徳を授けるから、浜に出てみよ」との観音菩薩のお告げ通りにカボチャが流れ着いたとの民話が伝わるという。デ、わが家もおふろにはゆずを浮かべて柚子湯とし、スーパーでカボチャを購入してきて舞と一緒に食べた。

    ☆    ☆
 きのうの朝。
 中日新聞の21日付朝刊を開こうとして1面題字下に【きょうの紙面 笑顔をありがとう「三宅おじさん」26面】の活字が、あの、いつもにこやかだった〝三宅おじさん〟の写真と共に私の目に飛び込んできたのには驚かされた。お元気そうで何より、と思ったがそうではなく反対だった。
 デ、あわてて第二社会面の26面を開くと【三宅邦夫さん死去 遊戯研究家「三宅おじさん」100歳 戦争体験原点「子どもに笑顔を」】と、〝三宅おじさん〟の訃報が報じられていた。『「三宅おじさん」の愛称で親しまれ、七十年以上にわたって中部地方、いや全国の子どもたちに遊びの大切さを伝えてきた遊戯研究家の三宅邦夫(みやけ・くにお)さんが十九日、敗血症のため死去。百歳。愛知県春日井市在住。葬儀・告別式は家族葬で執り行う。』とあった。

 中日新聞で報じられた三宅おじさんの悲しい死
 

 三宅おじさんといえば、「新入学児を祝うよい子とおかあさんの会」で小牧、七尾、大垣……と行く先々で私は新聞社の支局長(小牧は通信局長)として、わが妻、たつ江もひとりの母親として随分お世話になった方である。春。入学を前に胸弾ませた児童とその母親を前に、中日こども会のお姉さんだった山崎治美さんらと笑顔で壇上で「みなさん、おはようございます」とあいさつすると「おはようございます」と元気な声がはね返ってきた、あの日々がつい、きのうのようでもある。
 新聞社の現役支局長のころ、私をはじめ地元警察署長や教育長らお歴々のあいさつが終わると、さあ、いよいよ三宅おじさんの登場で、古新聞を使った親子で出来る楽しい遊びの数々が山崎さんと一緒に、まるで手品のように次々と披露され、会場は爆笑の渦に。よい子の誰もが入学を前におかあさんと目を輝かせていた、あのにこやかな姿は今なお忘れられないのである。
 なかでも七尾では毎年、新入学児を祝う会が終わるつど市内で協力者のほか、支局員も交えて反省会を兼ねた夕食会を実施。楽しく有意義だったひとときは今も鮮烈に瞼の中に浮かんでくる。その三宅おじさんが、とうとう亡くなった。旅立たれたと知り私は朝刊を手に舞(たつ江)の仏前に走って行き、「たつ江。三宅おじさんが亡くなられたよ」と言って手を合わせたのである。わが家とて、三人の子ども全員が行く先々で【新入学児を祝うよい子とおかあさんの会】に出てお世話になった。

 これまた先に亡くなった瀬戸内寂聴さんじゃないけれど「たつ江よ。おまえにはお世話になった三宅おじさんをくれぐれもよろしく頼んだよ」と仏の前であらためて線香を立て、お祈りをして話しかけたのである。心なしか笑顔を見せたたつ江が「任せておいてよ。私、三宅おじさんのこと。知っていますよ。19日にこちらの国においでになられました。歓待せずにはいられませんよ」とつぶやいたような、そんな気がしたのである。
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 三宅おじさんからは二年ほど前までは年に三、四回、不意に江南の自宅に電話が入り「いがみさん。元気ですか。やあやあ。やあ。わし、わし。わし。みやけおじさんじゃよ。わしゃ、古武士のようなあんたが好きで。忘れられなくてねえ。あんたみたいな記者はもういなくなってしまった。それにしても、みんな新聞を読まなくなってしまった。新聞ほど良い教材はないのに。わしゃ、さびしいよ。伊神さんなら、わたしの気持ちがわかってくれると思い。ところであのかわいらしい奥さん、元気でおいでですか。なつかしいねえ」というのが口癖で「このところは新聞離れと言うか。新聞を読まない人が多くて社会は今、深刻な時代に入っている。そのためにも〝三宅おじさん〟私はこれからもがんばらねば、と思っている。いがみさんも頑張って下さいね」というのが口癖でもあった。私はわたしで、こんな三宅おじさんの声をお聞きするたびに「頑張らなきゃ」と心に誓ったものである。その三宅おじさんが既にこの世の人ではない、とは。なんて悲しいことなのだろう。

 「たつ江、三宅おじさんが旅立たれたよ。よろしくね」と仏前で〝三宅おじさん〟の死を報告
 

2021年12月18日
 土曜日である。寒くなってきた。
 いい男が、いつまでも泣いてばかりもおられまい。昨日午後。私にとっては、可愛くて仕方なかった、かつての幼な妻たつ江、舞のことを少しでも忘れられたらと一宮のスポ文(スポーツ文化センター)に社交ダンスのレッスンに出かけブロンズ級のワルツ・ライムライトとタンゴを踊って帰った。
 もとはと言えば、だ。私がかつて地球一周のピースボートに乗船する際、舞がダンスを覚えてきてよと言ったから習い始めたのだが。きょうに関する限り、ちょっと難しいダンスということもあってか、知らない間に踊りの世界に夢中になる自分を感じたのである。そんな気がする。それでも、夕暮れ時。帰りには大きな、まんまる月が行く手、右前方にポッカリ浮かんだまま、私をどこまでも見つめており月の存在そのものが彼女に思えてならなかった。
「あなた。どおっ、踊れましたか」。笑顔の舞の顔が目の前に浮かぶ。月が帰宅途中の先々、わかりやすく言えば信号待ちするたびごとに、そういって私を道案内しながら誘惑してくるのがよく分かった。この夜は風も強く深夜から未明にかけ、この冬一番の寒さとなった。これまた彼女のせいだと思えて仕方なかったのである。

 どこまでも追いかけてきた、舞のような月
 

    ☆    ☆
 舞よ。たつ江。そちらの国で元気でいますか。食事はしていますか。いいひとは出来ましたか。ボクは、まだまだですが。ダンスと執筆をがんばっています。

 きょうは、このところ能登七尾から、志摩から、大垣からと懐かしい人々がおまえの旅立ちを悼んで心温まる品々や書状を寄せてくださったことを、ここでおまえに知らせておこう。俺(私)は何とお礼を申したら良いのか。わからないままアタフタとしている。わたくしには生前のおまえの頑張りと誠意が、ここにきて花開いているような。そんな気さえしている。みなさんが、記者の妻としての名もなきおまえの頑張りを、今になって称えてくださっている。ありがたいことである。そのことに私は深く感謝の気持ちを捧げたい。みなさま、本当にありがとうございました。

【先ずは能登七尾でお世話になった方から。】
 まず先月から今月にかけ、七尾の老舗旅館「さたみや」さまから美人女将の郷里である四国の、あの伊予ミカンが送られてきた。まもなくして今度は日本でも有名な能登半島一番の、いやニッポンイチの女傑新聞販売店主で知られ、おまえもよくして頂いた今は亡き笹谷テルさん、すなわち笹谷輝子さんの御子息から上品な梅盆栽が届いた。ありがとう。憲彦さま。ノリさん!
 そして。つい先日の15日には、七尾でママさんソフトボールを率いていた、あの南仏壇の南昭治さんから思いがけず丁重なる書状が届き、私と舞の若かったころの写真までが同封されており、私は南さんの心からの励ましに涙にくれたのである。

 同封写真は、私が最初に世に出した本で名古屋の丸善などでベストセラーにもなった【泣かんとこ 風記者ごん!(能登印刷、当時のペンネームは伊神ごん。サッカーで有名だった〇〇ごんよりも早い命名である)】の出版記念会を地元七尾青年会議所など多くの方々に七尾の料亭「番伊」で開いて頂いた時のひとこまで、舞が当時の中日新聞北陸本社代表から地方記者の妻としては初の【内助の功賞】を頂いたときのものだった。私はその書状と写真を手に涙があふれ、仏前に供えさせて頂いたことは言うまでもない。

 文面は次のような内容だった。
――突如失礼申し上げます 奥様の悲報にただただ悲しみ以外に言葉が見当りません 支局長にとって悲しい今秋の日の奥様とのお別れにただ涙、涙の日々が続いた事でしょう。私には何一つも出来ませんが天国へ旅立った奥様に御主人を見守って頂きいつか又共になる日を待ってもらいましょう。もう三十二年余かナ…。(七尾市一本杉通りに面した)魚町の支局へ記事の用件で当時バイクで訪問した時の記憶が鮮明です。
 大切に保存してあった伊神さんの出版記念。冬の早春は快晴であったかも…奥様は若く美しく 数枚シャッターを切りました。そのうちの一枚を同封します 七尾の有志総出席でかつてない大盛況は私のアルバムに保存されています 奥様は美しく私の中にさんぜんと輝いています 
 私、来年八十八歳数え年米寿ということになります 妻は十五年前胃全部摘出の大病がありましたががんばってがんばって八十四歳です。二人共確実に大老人です 伊神さん いつまでもおそばにおいでると信じて今後共にまだまだの人生、奥様の分も共に生きてください

【そして。温暖の地で知られる志摩半島から。大垣からも】
 阿児町立神の出口武生・綾乃さん夫妻から伊勢志摩地方の名物で知られる南張みかんがつい先日、送られてきた。文面は「奥様の早すぎる訃報に御主人の気持ちはいかばかりかと心痛めております。この蜜柑は心ばかりですが、御供えいただければ幸です(綾乃)」といった内容だった。
 このほか、昨日は、大垣時代に舞が短歌でことのほか、お世話になった中部地方を代表する作家で歌人の三宅雅子さん(同人誌「長良文学」生みの親、同人誌「Gifu―cho短歌会」発行人)からも丁重なる封書を頂き、「思い出はなつかしく美しく残っております。お淋しいでしょうが、元気を出してくださいね」と書かれていた。私はさっそく思いがけなく届いた三宅さんからの香典を御佛前に供えたのである。

 いずれにせよ、おまえは多くの人々の地上の愛に支えられ、現世を楽しく幸せに、美しく生きてきた。こうした方々の気持ちに感謝して、彼岸でも元気で過ごしてほしく思っている。

 南さんたちから届いた書状の数々と壇上に突然呼び出され、内助の功賞を手渡されたありし日の妻、伊神舞子の貴重な写真(1989年2月15日。画像が小さいが、仕方ない)
  

 丸善でベストセラーを長く続けた【泣かんとこ 風記者ごん!】
 

    ☆    ☆
 きょうは家族葬の席で喪主を務めた長男から送られてきた香典返しを、舞が大変お世話になった地元花霞町内会の役員宅を訪れ、手渡した。これでお返しも大半が終わり、いよいよ舞と私の新しい時代が始まる。

 夕方になり、宅配便が届いた。かつて取材で何度も大事件や大災害の現場に共に本社機で飛んだ新聞社の元航空部員で航空整備士だったタケさん、竹内和宏さんからだった。中に「奥様には思いもかけぬご急逝とのこと。信じられない思いでございます。謹んで冥福をお祈り申し上げます 竹内和宏 和子 もこ」とあり、【宇野千代のお線香 淡墨の桜】が添えられていた。タケさん、ありがとう。奥さまを大切にしてくださいね。

2021年12月15日
 舞が10月15日に旅立ち、二カ月がたつ。
 私は今なお、悲しみの海のなかで何度もおぼれそうになりながら生きている。でも私は残された家族のため、そしてこの社会のためにも立ち上がらなければ、と思っている。私が元気なら、舞も安心してくれるに違いない。

 朝。私は、いつものようにシロちゃんを傍らにスマホでおまえがいつも好んで聴いた【エーデルワイス】と【みかんの花咲く丘】を黙ってシロと〝ふたり〟で聞いた。そのスマホだが、私は昨日の予約どおりに午前中、ドコモショップに行き、おまえがいつも握りしめていた私たち家族との思い出がいっぱいに詰まっているスマホを解約。今後おまえの番号にかかってきたら私のスマホに転送されてくるよう手続きもした。スマホの端末そのものは返して頂けるとのことで、メールや写真はそのまま生き続けているので見えます、とのことだったので彼女の形見のひとつだと思って持ち帰った。
 きょう2021年12月15日は元気なころのおまえの笑顔のように青空がどこまでも広がるいい天気だった。空はスカイブルーで、何か見えないものが雲間から穏やかな光りを放つ。私は、その光りのなかをドコモショップまで出かけて舞への熱い思いを一途に、【解約】という一大事を終えたのである。

(12月14日)
 舞よ。マイ。おはよう。たつ江。本欄「一匹文士(いっぴきぶんし)人生そぞろ歩き」は出来れば毎日でも書かねばとは思っている。でも、おまえ、すなわち伊神舞子がこの世に残した遺作(俳句、短歌。ほかに詩もある)の整理収集はじめ俺自身の原稿執筆など、あれやこれやに追われる毎日で、やっときょう14日になり、こうしてそぞろ歩きを再開し書き始めた。私は連日、いや一瞬一瞬をおまえとの共通のデスクで権太と舞の文学世界を描き、書き続けようとしている。いや、その覚悟でいる。このことだけは、事実だ。本当である。

    ☆    ☆
 きょうは赤穂浪士の討ち入りの日である。横浜では初雪が舞ったという。
 さて。戸外にいても室内に居ても、だ。大気のなかに、ほのかに明るく立ち昇る白い光りの筋が動くとおまえの目がキラキラと私に注がれ、うごいているのが俺には、よく分かる。おまえが茶目っ気たっぷりの目で、そちらの私の知らない見知らぬ国で「何か」をしようとしている。そんな気がしてならない。いつもの、いたずらっぽい大きな目が何度も何度も眼前に遠慮会釈もなく浮かびあがる。そうした日の繰り返しのなかで私の意識は翻弄され続けている。

 光りの中にいる舞
 
 

 大垣時代。短歌仲間とのひととき。前列右端
 

 先代のシロを抱く ありし日の舞
 

 きょう。14日朝。こちら(現世)は最低気温が2・2度と日に日に寒くなってきた。岐阜県高山市ではマイナス9・8度だったそうだ。それでも昨夜は、これまでならベランダに立ち、おまえと一緒に並んでよく見た、ふたご座流星群の流れ星がここ愛知も含め千葉、東京、鹿児島、大分など全国各地で見えた、と聞く(私は、星空が好きだったおまえを思い出してしまうので、今回はとても見ることなぞ出来なかった。ちなみに、この流れ星は14日夜から15日明け方にかけても条件が良ければ、見えるという)。
 ところで、私がいるこちら・現世は、きのう午後4時28分だった日の入りが、きょうは4時29分と、これからは一日ごとに日が延びていく。明るくなっていくそうだ。俺はおまえがその分、彼岸の天界からより多くの光りを俺たちに投げかけてくれる、と。そう思っている。その分だけ、おまえは長く俺たちのそばに居てくれる、と信じてもいる。舞よ マイ、たつ江。おまえは、寒がりだったが今はどうか。
 そちらの国があったかければ良いのだが。これだけは、私たちの知らない自然界の営みだから、分からない。ともあれ、舞の遺影には天気さえよければ、きょうも太陽からの射光が窓を通じ、さんさんと降り注いでいる。彼女自身が、そちらにいって間もない自分自身と、私たちが住むこちらの世を温かく照らし続けてくれてもいるのである。

 こんなわけで、こちら日本の尾張名古屋の天候は日一日と真冬に向かっている。たつ江。そちらはどうですか。風邪などひかないように。居心地はどうですか。はやく慣れて俳句、短歌と名作の数々に挑んでくださいね。いい人がいたら、仲良くするように。ネ!

 それはそうと。おまえと別れてから。これは瘠せ我慢になるかも知れないが、だ。最近になってつくづく思うことがある。それは俺が生きてさえいれば、私のなかに舞は永遠に一緒に居てくれる。生き続けるということだ。俺がしっかり生きてさえいれば、俺の中にいるたつ江、すなわち舞も共に生き続ける。だから、俺はこのことを自分自身に強く言い聞かせてこの先に続く一本の道を歩いていこう、とそう決めたのである。
 このことは子どもたちとて同じで、家族の一人ひとりが楽しく幸せな毎日を過ごせば、舞はにっこり笑ってその様子を見ていてくれる。このことは舞に【シロは何でも知っている】の俳句猫=俳号は「白」。本名はオーロラレインボー=だ、とこの世でただ一匹名付けられた〝シロちゃん〟だって同じだ。彼女がこの先、楽しく幸せな生涯を過ごせば過ごすほど、オカンの舞は喜んでくれるはずだ。

 そういえば、つい先日、おまえがこれまでずっと俳句や短歌に関する雑誌などを届けてくださっていたこの町の本屋さん「杉浦書店」の女性スタッフが、わざわざお花を家まで届けてくださり、恐縮してしまった。また、いつもお世話になっている宅配の彼女も「まいさんの本【ひとりあやとり】を読みたくて、いま本屋さんに頼んでますが、なかなかないみたい」とおっしゃってくださり、私は、ただただ頭を下げるばかりの毎日を過ごしている。

 アタイは泣かない。お父さんといつも一緒のシロちゃん=15日午後写す
 
 
    ※    ※
 ところで、おまえが旅立って以降、わずかの間に本当にいろいろなことが、この地上、こちらの国では起きている。新型コロナウイルスの新変異株オミクロン株の出現に沖縄、小笠原諸島などへの大量の軽石漂着、鹿児島県トカラ列島など日本各地で相次いで起きた地震、米南部と中西部で起きた竜巻被害…とおまえが生きていたころには、まだ存在しなかった天変地異がこのところは、次々と起き、私はそうしたニュースを聞くたびに、もしかしたら、たつ江すなわち舞が旅先の天界で起こしているのでは、とそんなことさえ思うのである。
 それはそうと、こちらはきのう13日に今では暮れの恒例行事となった日本漢字能力検定協会が公募した「ことしの漢字」を【金】と発表した。この【金】。リオデジャネイロ五輪のあった年の2016年いらいで、過去最多の4回目だそうだ。インターネットや郵送などで寄せられた応募から最も多かった漢字を選ぶもので、27回目となる今回は22万3773票の応募があり、【金】は1万422票だったという。地上は、こんなわけで変わっているようで、それほどは変わっていない。のである。
 そういえば、新聞報道によれば、おまえもよく食べた名古屋名物の納谷橋饅頭で知られる名古屋の老舗「納谷橋饅頭万松庵」が来年1月11日から納谷橋饅頭の製造販売を中止する、とホームページなどで公表したという。老朽化した工場の取り壊しが理由で再開は未定だというが、いやはや寂しい限りで、残念無念な話である。

 ともあれ。舞はいつだってわが胸のなかで私の懐刀となって生きていてくれる。舞のこの世に残した作品の数々の出版化の話は現在、舞が生前、ことのほか信頼を寄せていた「人間社」の大幡和平さん夫妻が中心となり順次、進められている。貴重な俳句や短歌の数々がこの世に現れ出る日も近い。出版の折には、読者の皆さまに読んで楽しんで頂けたら、それほど嬉しいことはない。伊神舞子の霊も浮かばれるものだ、と。私は、そう信じている。
 わたくしとマイ、伊神権太と妻舞子の時代は、まだまだこれから。いまスタート点に立ったのである。そのためにも自身のからだを大切に生きていこう、と思う。最近「白湯をのむと、からだにいいみたいよ」とある友人に言われ、出来るだけ多く飲むようにしている。のむときは決まってシロちゃんが、傍に居てのみっぷりを見ていてくれる。私たち家族にとっての新しい時代の始まりなのか。

2021年12月8日
 舞はいつも笑顔でほほえんでいる=8日朝。自宅にて
 

 きょうは太平洋戦争が旧日本軍の奇襲による真珠湾攻撃で始まった、まさにその日だ。真珠湾攻撃は1941年(昭和16年)なので、ちょうど日米開戦から80年がたつ。かといって、わが妻、たつ江すなわち舞は戦後生まれなので、あのいまわしい戦争の体験をしてはいない。実に310万人もの日本人が亡くなった太平洋戦争。その愚かなる戦争を思えば、舞は生前に戦争に巻き込まれることもなく、まずは温かい家族や猫ちゃん(今は亡き〝てまり〟に〝こすも・ここ〟〝先代のシロちゃん〟)、ワンちゃん(小牧時代にはポチがいた)、そして晩年には今のシロちゃん(オーロラ・レインボー。「白」の俳号を持つ俳句猫)にも恵まれ、平和な時代を楽しく、それなりに幸せな時代を生きぬいたともいえる。舞は、そうした時代にあって私たち家族とともにいつも戦争のない世を願い続けたのである。

 れもんかみつつ思う事平和 伊神舞子
=戦後70年中日(東京)新聞「平和の俳句」。から

    ☆    ☆
 舞を失った私の胸の内。心情はいま、何か得体の知れないものによって押しつぶされそうである。悲嘆(グリーフ)とは、このことなのだ。そういえば5日付の中日新聞(東京新聞)サンデー版大図解は【どう死別に向き合う? GRIEFグリーフ 悲嘆を考える】だった。
 それはそうと。いつまでも涙男でいたのでは、どんな時でも気丈で純粋で冷静かつ言葉少なだった舞に申し訳ない気がする。「そんなことでは、ダメよ」と言われそうでもある。もう、そろそろ(いや、〝とっくに〟かもしれないが)読者の皆さまには、既に笑われているかもしれない。そうに、違いなかろう。【いつまでも。とろいぞ。何をしょげかえっとる(名古屋弁)。それより奥さん、たつ江さん、舞子さんのためにも、おまえはおまえのやることがあるのではないか】と。なかには「何をめそめそして泣いているのだ。めめしいぞ。おまえらしくもない」と心の中で叱責してくれている輩がいるかも知れない。
 いやいや居たとしても決しておかしくはない。人間が生きてゆく、この世界。この世は、そんなに甘くはないのだ。残されたものは、誰だって命ある限り生きていかねばならない。そうはいっても。舞、おまえ、たつ江は私のかわいい〝妹〟であり、〝幼いこども〟でもあり、時には【マリアさま】【天使】であり続けた。そして私にとっては何よりも【母のような偶像崇拝的な、謎めいた神秘な存在】でもあり続けた。そんな宝ものが、あっという間に病魔にさらわれ大空に飛び立ってしまった。消えたのである。
 私という男がおまえにずっとついていながら一体全体、これまで何をしてきたというのか。おまえに早逝されたことは私の人生史上、最大の失点でもある。なぜ、もっと早く病(子宮頚がん)に気付いてやれなかったのか。おまえの命を守れなかったのか。やすやすと大切な命を天界に奪われてしまうとは。一体全体、俺は何をしていたのだ。………

 そうした悔恨の情のなか、私はつい最近になり舞がこの世に残した俳句、短歌作品の整理保存作業を始めたが、作品の一つひとつに彼女ならでは、の生活感と思い出が染みついており私は、これまでいつも一緒に居てこれら俳句や短歌づくりの舞台裏を知るだけに、時にはお猪口に一杯のお酒を口にしながらの彼女独特の作品づくり(作品を作り終えると彼女は決まって眠剤をのんで寝るのが常であった)を思い出し、またしても滂沱の涙を流すのである。それにしても、私のこの気持ちは一体、何ということなのだ。第一線の新聞記者時代に多くの凶悪事件、大韓機撃墜や日航機墜落などの事故現場、さらには大災害の被災地で見たあの儚い命という命は一体全体何だったのか。現場取材と原稿執筆。時間に追われていたためか、あのころは不思議と涙は出なかった。
 なのに、である。

 涙など一滴も流さなかった薄情極まる、この男が、だ。そう思うと、ますます、亡き妻がかわいそうな気がしてくる。やはり、俺は誰にも増して薄情極まる男だったようだ。だから、今になってこれほどまでに限りなく涙が溢れ出るのだ。
    ☆    ☆

 一昨日も、きのうも。外は冷たい小雨が降っていた。傘を差して街中を歩いている女性やレインコートを羽織って自転車に乗って通り過ぎていく女性を見ると、私はどうしてもたつ江、舞の姿を思い出してしまう。おまえは雨が降っても、よほどの降りでない限り、なかなか傘をさそうとしない女性で私をしばしば、困らせた。私が傘をさしかけても「傘はいいの。いいから。あなたひとりでしていてよ。わたしは、ない方がいいの。いいのよ」と言うのが常で、私はそのつど胸を痛めた。きょうのように、風がつめたく、こ寒い日に、何度もこうしたことがあった。私はそのつど「大丈夫か。からだに悪い。無理はしない方がいい。傘は差さなきゃ。いかんぞ」と注意したものだが、舞はそういう私をむしろ困らせるのが常だった。楽しんでいるようでもあった。

 そのくせ、最近のおまえは、いつも私に「あなたはもう高齢者なのだから。無理はしない。しちゃいけないの。やることは、1日ひとつでいいの」と、どんな時も私のからだのことを最優先にしてくれていた。デ、舞が亡くなって以降、このところは少しずつ落ち着いてきたので、そのようにしてはいる。そんなわけで、まず、おまえもお世話になった自宅近く歯医者さんに11月30日に久しぶりに顔を出し生前、お世話になった礼を直接述べ、今月3日にはこれまたおまえも診てもらっていた眼医者さんにもいった。眼圧は両目とも17と大丈夫だった。そして。金曜日にはおまえの鶴の一声でビースボートの船上で始めた社交ダンスのレッスン(モダンとラテン)にも勇気を奮って通い始めたのである。

 でも、やはり、おまえの姿がないこの世は以前とは確実に違う。それは、どう言ったらよいのか。生きている。生きている気がしない、とでも言ったらよいか。繰り返すが。【一日にひとつよ】は、おまえと私の約束なので、私はそう心がけている。一昨日は舞が過去に詠んだ短歌の本格的な〝捜索〟を始め、能登七尾で舞がお世話になった歌人山崎国枝子さんにも電話して短歌雑誌「澪」と「凍原」(「凍原」は「澪」の前身の短歌雑誌)を出来る範囲で良いので送っていただけるよう、お願いもした。そしてきのうからは二階書庫部屋に置かれた夥しい数の本とこれまでの各種資料、新聞のスクラップ、古書などの整理を始め、必要がなくなった書物は思い切って捨てることとし、一昨日に続いて昨日も二十冊ほどを回収センターに行き、廃棄してきたのである。

 整理作業を進めるうち舞と俺に関する、ふたりの思い出が染みた貴重な資料が次々と出てきているのも事実だ。俺は、これら全てをおまえに見てほしい。でも今となっては、それも叶わない。というわけで、残念でしかたない日が続いている。
 私は、ここしばらくはこの〝捜索作業〟を続け、これらのうちの幾つかはこれまでも私たち夫婦が大変お世話になり、舞の信頼も厚かった名古屋の出版社「人間社」の大幡和平さん夫妻にもお願いし舞の生き抜いたあかしとして書籍化してもらうつもりでいる。舞の俳句や短歌がこの世を生きる人びとにとって多少なりとも生きる支えになるのなら、それほど嬉しいことはないからである。

2021年12月2日
 2日昼過ぎ。古知野食堂での食事を終え、おまえとの思い出が染みた自宅近く道路を歩く。と、正面の空高く太陽が雲間から顔を出し、そこから燦燦と陽が注いでいるではないか。たつ江、舞よ マイ。あの太陽の陽射しはおまえに違いない。舞はいつだって、本当にカッと見開いた、私がかつて米国西海岸に広かるエデンの東で見たような、そんな明るい太陽が好きだったよな。

 きょうは江南園芸の大脇一弘さんがお忙しいなか、わざわざ香典を手に「奥さまがお亡くなりになったとお聞きし。ご愁傷様でした」と、わが家を訪れてくださった。ほかに、いつも小荷物を届けてくださる郵パックおばさん、外狩ハナコさんがお歳暮を届けてくださった際、「わたし。奥さま。伊神舞子さんの俳句が大好きなの。ホントよ。最近の俳句では【赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり】にとても胸を打たれました。なんとも言えない味わいが魅力です」とほめてくださった。私は「それは、ありがとうございます。実はその妻ですが。先日、亡くなりまして。これまで本当にお世話になりました」と話すと「えっ。あの奥さまが」と絶句され、その瞬間、ふたりの目からは涙がこぼれ、私の声は「とかりさん。うちのが、いつも本当にお世話になりました」と声にならない声となったのである。
 その一方で私は「みんな、おまえの作品を知ってくれているではないか」と、妙に納得し2度、3度と頭を下げたのである。

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 自転車ごと転倒し左大腿骨折という思いがけない不幸に遭った昨年6月27日から、その後子宮頸がんに冒されていたことが分かり、結果的には昨年の骨折以降は入退院を繰り返すこととなり、病と闘い続けたたつ江。おまえは、それでも動かない足を一歩一歩懸命に動かしながら自転車を引いて自ら営むリサイクルショップ「ミヌエット」に毎日通い続け、ことし7月3日にはミヌエット開店20周年記念を兼ねた【七夕祭】をとうとう、実現させた。

 七夕祭で「年内でお店を閉店します」とあいさつする伊神舞子
 

 そして大空に旅立つ間際には病床で念願だった深夜便などラジオを聴くため、いつだって乾電池(単三)を手に握りしめ、綾鷹のお茶(ペットボトル)も傍らに置き、私が勝ってきたミカンを手にゼリーとミルクティー、バナナを好んで食べたよな。バナナといえば、私が東京に行くときは決まっておまえへのお土産として買ってきた東京ばな奈が大好きだった。俺が外出するつど、本当にいつもいじらしいほどの顔で俺を待っていてくれた。ありがとう。俺はおまえが最後の最後まで自分を犠牲に俺を守り通し、よくがんばってくれたな、と思っている。感謝している。うそじゃない。

 舞が大好きだった東京ばな奈
 

 ところで。たつ江。舞。おまえは今、この宇宙の一体全体どこにいるのか。どこかでおまえが大好きだった〝かくれんぼ〟でも俺としているのか。私は今、気が狂いそうだ。いや、既にきちがいになっているかも知れぬ。逆立ちしても何をしても、たつ江はもう、私たちの許には戻らない。帰ってはこない。あのかわいくて、やさしく素直だったおまえ。チャーミングな笑顔を見せてくれることもなくなった。何と言うことなのだ。私はきのうも、きょうも、おそらくは明日以降も、地球が続く限り彼女を思い、またしても滂沱の涙を恥ずかしげもなく流し続けるだろう。この先、一体全体いつまでこんな気持ちが続くのか。

 おまえがこの世から姿を消してからというもの、多くの人々が俺のことを心配してくれている。このところは舞も知る、そのお方が【冬来たりなば 春遠からじ】【グリーフケアというものがあるとラジオで言ってました】【「愛する人が死んだとき、人はどうするべきか」。ブッダが説いた5つの方法という記事を読んでみてください】など。何かと温かく、やさしい手を差し延べてくださっており、そのつど私の傷ついた心が落ち着き、ありがたいな、と思っている。
    ★    ★

    ☆    ☆
 話は変わる。昨日、私が「脱原発社会をめざす文学者の会」からの依頼で文学者の会ホームページに書き続けている文士刮目の7回目「何ごとも持続可能は〝三方よし〟の精神で」が公開された。妻に先立たれるという不幸のなか、何度も何度も推敲して書きあげたものだけに、皆さんに読んで頂けたら嬉しく、幸いである。今は亡き妻に次は何を書こうかと問いかけ、相談し誕生した文である。多くの方々に読んで頂けたら嬉しく、たつ江、舞も喜ぶに違いない。

 いずれにせよ、私たち家族はこれまでにない悲しさのど真ん中にいる。そんなときに、きのう私のもとに次のような文面が香典とともに私あてに届いたので、ここに紹介させていただこう。
 温かい手紙を寄せてくださったのは、かつて私が長年続けた新聞記者時代の大先輩だった小宮寛治さん(元ロンドン特派員)で、社会部時代から私のことを事あるごとに「ごんた。ごんた。ごんちゃん。ごんちゃん」と事件にしろ、何にせよ、弟のように呼んで、かわいがってくださった、そんな筆の立つ大先輩である。内容は次のようなものだった。
【権太、本当にびっくりした。舞子さんの句が最近新聞に出てこないので寂しく思っていたが、亡くなっていたとは夢にも思わなかった。権太は泣けてくるよな。当然だ。泣け、泣け、疲れるまで、死ぬほど泣け。だれの前でも、子の前でも、親の前でも、どこでも、かまわず泣け。/風の便りか、本人から聞いたのか、権太の結婚が親からやっと認められたと聞いた時はうれしかった。この話はもうだいぶ前だ。それからピースボートの話。柳家小三亀松さんのどどいつ、みんななつかしい昔のことだ。小生八十一歳になりました。………お返しや返事など一切いりません。ただ泣いてください 権太様 2021年11月30日 小宮寛治】

 小宮さん。今はかぎりなく、温かいお心遣いに【天下一の涙】があふれてしまい、言葉もありません。ありがとうございました。小宮さん、おからだ大切に、いついつまでも元気でいてくださいね。
    ☆    ☆

 水曜日。ことしもあと1カ月だ。
 私は今、泣いている。泣き崩れている。これでは私自身の心身がぐらりと崩れてしまう。
 私にとっては、誰よりもかわいく愛しい存在だった、おまえの死が悔しくて仕方がない。かなしくて仕方がない。かわいそうで仕方がない。残念で仕方がない。ごめんね、と。謝りたくて仕方がない。

 舞よ。マイ。たつ江よ。伊神舞子。なんで、おまえは、そんなに早く死んでしまったのだ。
 おまえは一体全体どこに消えてしまったのだ。

 いまは、雲がたなびく この青い空に おまえの あのはじけるような笑顔が浮かび、にっこり微笑みかけてくる。ただ、それだけだ。オレは、これからもずっとずっと、家族を大切に。どこまでも抱きしめて、おまえを天下の懐刀として生きてゆく。一匹文士の俺ならでは、の私でなければ書けない人々にとってためになる文を書き続ける。いつまでも一緒だから。なっ。また、涙があふれ出た。なんということなのだ。(12月1日)