日記文学「笛猫日常茶番の劇(連載2)」

 人びとにとって、何げない日常生活―
 茶番かもしれない。
 とはいえ、馬鹿には出来ない。
 すべての物語は、ここから始まるのだ。

二〇〇九年五月十七日
 負け続けていた、いや負けがこんでいた我らの中日ドラゴンズがナゴヤドームで横浜を迎え撃ち、三連勝した。やっと、という感じである。一方で新型インフルエンザが神戸の高校生など関西でも広がり始めている。
 Mには礼を述べたい。福井県大野市朝日の「笛の資料館」へ先日、私が現地を訪れて教えてもらいながら作った笛を送るのを手伝ってくれたのである。自分では、なかなか良い音が出るな、と思っていたのだが、ゼロの音(ド)が少しだけおかしい、との指摘があった。
 このため笛をコンビニから送ることにし、私が笛だけを送ろうとしたら「プチプチを入れなきゃあ」とアドバイスしてくれ、一緒に近くのホームセンターまで行きプチプチを買い、あとは竹笛を包装紙で包むなど私の苦手な部分をいつものように助けてもらった。
 直しておいた方が良いとの指摘は、私の笛の師匠からあった。
 「ゼロの音が少しおかしい。せっかくだから笛を送って直していただいたら。着払いの用紙を入れて丁重にお願いすれば、真剣にやってくれると思うの」との助言だった。
 こんなわけで私たちはコンビニに寄って笛を送ったのである。
 帰宅後は、今週の金曜日からに迫った名古屋市立大学の講義の準備に追われた。
十八日
 Mは以前、隣町に住んでいたころのフォークダンス仲間、Yさんと中日劇場へ。
 大好きな歌舞伎、「東海道中膝栗毛」を観劇して、すごく満足そうに帰宅した。結構、長い観劇時間だったので心配した私が「見るのに疲れなかったか」と聞くと、「帰りは(名鉄電車の)普通で、ゆったり帰ってきたから」の弁。
 途中、いつものようにJR名古屋駅に寄っておいしい弁当までわざわざ土産に買ってきてくれたのだった。
 Yさんも満足そうだったという。Mに喜んでもらえてつくづく「よかったな」と思う。
十九日
 それにしても私はなんて短気で愚かな癇癪もちなのだろう。いつも家事に仕事…と全力投球のMに対して朝の出がけに、どなり散らしてしまった。いまさら謝ったところでどうにもならないのだが。
 私はけさ二十二日に迫った名市大一年生に対する問題認識特別講座を前に、講義で教材として使うビデオ二本(「日本映像の20世紀」と「この街に生まれ この地球に育つ2008年版」)のうちの「20世紀」の方を事前に見ておこうと自室のテレビ画面をあれこれといじくりながらカセットテープを挿入口に入れた。ところが、操作段階でビデオの扱いが分からなくなってしまい、Mを呼びつけ教えてもらおうとしたが、彼女も出来ない。
 あたふたしているうちに今度は「この街に」の方がどこかに消えてしまい「一体、どうなっているのだ」とMが、ビデオテープを失くしたのでは、というような物言いをした。
 そのうちに私の勘違いと分かりビデオは出てきたが、こうした狼狽ぶりを見たMは「おじいちゃん(亡き私の父を指す)そっくり」と言っただけで、勝手に怒らせておけ、我関せず、といった見事な風情である。
 モノが無くなったりすると、すぐにMのせいにするのは私の一種の悪癖だ。
 とはいえ、犯人扱いされる家族の方がたまったものではない。私はこうしたとき、内心「この世で一番の悪は、俺なのだ。だから、仕方ないや」と自身に言い聞かせてはいるのだが。本棚の一角から出てきたビデオを手に私は「あった、あった。こんなところに」と言いながらも反省し「いよいよ老化の始まり。ボケの始まりだ」と罪もないMに悪いことをした、と思って「悪かった」と謝った。
 そればかりか、朝刊がない、一体どこに誰が持ってったんだーと八つ当たりした揚げ句、新聞を下布団代わりにスヤスヤ眠っていた愛猫のこすも・ここまでがいい迷惑で(私に)首を持って引っ張り回されるなど、とんだ災難で私は、こちらの方にも「さっきは、ごめんな」と言って謝ったのである。

 新型インフルエンザは、とうとう国内感染にまで至っている。
 けさの中日新聞本紙1面の見出しは「感染163人 年齢層拡大」となっている。リード(前文)は「大阪府と兵庫県で発生した新型インフルエンザの国内感染で十八日、大阪府と兵庫県で新たに三十三人の感染が判明した。厚生労働省などによると、成田空港の検疫段階で見つかった四人と合わせ、国内で確認された感染者は計百六十三人となった」といった内容だ。
 一方で、このままでは大混乱もありうると判断してか、舛添要一厚生労働相が昨日記者会見して、致死率の高い強毒性の鳥インフルエンザを前提とした政府の行動計画について週内にも見直しを検討する意向を表明し「軽症は在宅療養も認めたい」との方針を明らかにしたという。
二十日
 帰ってMが台所でテレビを見ていたり、彼女の部屋で洗濯物をたたんでいたりすると、なんだか、ホッとする。
 今夜は帰宅直後、台所のテレビを見ると、交流戦二試合目の西武戦で浅尾が中継ぎで投げ1対1の均衡状態だった。Mが「(あなたが)見ているとダメよ。負けるのだから。見ないで」というので、その言葉を信じてテレビのチャンネルを替え二階で着替えをして、風呂に入り出たあとニュースで見たら2対1で負けていた。あ~あ、とため息が出て最初から見るのではなかった、と思ったりした。

 それにしても、私は毎朝家を出て、こうして不思議とMの元に帰ってくる。
 最近では、こすも・ここと、シロちゃんまでがモノこそ何も言わないが、私の帰りを首を長くして待っていてくれることが、よく分かるのである。
 そう言えば、けさは一緒に近くのバス停まで、Mの自転車を引いて出向いたが、空き缶やペットボトルの入った大きな袋も同伴(近くのスーパーの処理場に持っていくためだ)で、自転車荷台に乗せ、ふたりで歩いた。

 夜。いつものようにインターネットを開き、私たち同人仲間で立ち上げた縦書きにこだわった日本でもめずらしいウエブ文学同人誌「熱砂」へのアクセスをチェックすると、昨日はなんと1192件ものヒットが確認された。この文学同人誌「熱砂」が人々にとって、人生の同走者になればいい、と思う。
二十一日
 あすからは、いよいよ週に一度、名市大で私の特別講座が始まる。
 デ、このところはハードな仕事(それは中日ドラゴンズ公式ファンクラブ事務局員としての事務作業のほか、主に会員からの応援メッセージの中日スポーツ紙への連日掲載による紙面化など)の合間を縫って事前の準備に時間を割いてきた。
 あすの講義では「尾張名古屋は何で持つ」と学生一人ひとりに聴くつもりでいる、とMに話すと彼女はこう、答えた。
 「何で持つ、というよりも『何で持たせなきゃならないか』を学生さん一人ひとりに考えてもらわなくては。だから、答えはいくつあってもいいと思うわ」と。
 なんだか最初の授業を前に大切なものを教えられた気がした。
二十二日
 ことしも名市大一年生に対する特別講座が始まった。今後、毎週金曜日の第一限(午前九時から)で計五回続く。私は過去二年間、名鉄金山駅から山の畑キャンパスまではタクシーチケットを利用して出勤していたが、このところの不況風と社の経費削減への思いも込め、ことしは金山からはバスで行こう、と決め、いつもより早めに午前七時には家を出た。
 Mは、こんな私を慮ってくれてか、午前五時半過ぎには起きて朝食をつくって食べさせてくれた。寝て居ればよいのに、とは言いつつもMが作ってくれた食事は、やはりおいしいのである。それにしても午前七時過ぎに乗った名鉄バスと電車車内は、いずれもほぼ満員で、あらためて人々の勤勉さを思い知った。
 こんなにも朝早くから、人間たちは職場や学校に通うのである。
 帰宅してこのことを話すと「うちは、いつも遅いんだから。普通の人は、それが当たり前なの」とM。今夜は先にコンビニから福井県九頭竜湖の笛の資料館あてに送った手づくりの笛が帰り私のデスクの上に置かれていた。さっそく問題の「ゼロの音」を吹いてみた。何度も吹いてみたが、その吹きごこちから直っているな、と感じた。
二十三日
 土曜日なので、Mに指示されたとおり、スーパーの中にあるクリーニング屋さんで仕上がったカッターシャツと以前から出してあったという布団一枚を車で家に持ち帰った。途中、Mがボランティアで営むリサイクルショップ・Nに寄ると、七十五歳前後の威風堂々とした女性が「やれやれ」といった表情で店内、中央部分でゆったりと座っておいでだった。人生の何もかもを知り尽くした、そんな、まさに年輪を重ねた表情である。
 私は思わず「Mがいつも何かと大変、お世話になっています」と言って頭を垂れた。
 Mによれば、リサイクルショップ「N」には、こうした年代の女性が毎日、沢山訪れてくださるという。「N」は、その意味ではK市内の愛栄通りに咲いた1輪の花のような存在で、女性たちのたまり場にもなっているらしい。きょう、あらためて気付いたが、店先に競うように咲き誇るちいさなピンクの花々はサツキで、まるでふっくらとしたピンクのじゅうたんにも見えた。
 Mはその店内で不用となった衣類などリサイクル品の数々を受け付け、これらを超安値で売り、その売り上げの一部をこれらの女性たちに還元するというボランティアに打ち込んでいる。
 店の家賃代に電気、水道代を入れたら、それこそ収支は、とんとん。純粋なボランティア活動といってよいが、多くの女性に喜ばれさえすれば、そうした無償の行為が自らの生きがいともなり、これで良い、と自らに言い聞かせているようだ。
 そんなMも、以前に脳内出血や静脈瘤解離などの大病で倒れ、救急車で何度も運ばれたり、入退院を繰り返した過去があり、病身のため、現在は水曜日から土曜日まで一週間に四日の開業だが、年老いた女性たちからはすごく喜ばれているようである。
 実際、心の憂さなどを店で吐き出し、ただ話すためだけに店を訪れる女性も多く、それだけにMも多くの口から吐き出される秘密をいっぱいに知っているが、決して外部には漏らさないよう、これ努めている。むろん、たとえ私に対しても、だ。
 こんなわけで、Mがお店「N」に出れば出るほど、他人には言えない、女性たちの秘密ばかりが、どんどんと頭の中にたまっていくのだという。「N」は、いまや完全に愛栄通りの新名所に取って代わっているのである。

 カッターシャツ持ち帰りのあとは、社へ。しばらくファンの声を電話取材したあと、ナゴヤ球場に出向いた。選手のサイン入り色紙のプレゼントなどのファンサービスが始まったためで、サービスを受けた会員の喜びの声を収録。JR尾頭橋、I市経由でバスに載りK市に帰り、駅からは自宅まで歩いた。
二十四日
 朝。アサガオがちいさな裏庭で真っ青な花を咲かせていた。花びらには、中心部から五つの線が放射線状に刻まれ、まるで五つ星のようでもある。Mが大切に育てたアサガオの第1号である。
 午後、スーパー帰りに実家へ。ここから近くの畑まで行き、母とMはそろってタマネギを収穫し、満足そうだった。「せっかくなのでウチに寄ってもらったら」とのMの配慮に私たちは自宅へ。裏庭のアサガオと栽培中であるキュウリやトマトの生育状況を見てもらい、息子が運転する車で実家まで送り届けた。母の気持ちをよく心得たMの優しさには、いつも敬服している。

 私は、この日、笛の里の治療から戻った横笛を吹いてみた。
 天城越え。越後獅子。さくら。宵待ち草。風の盆恋歌、男はつらいよ…。どれもいい音が出、「ゼロの音」の部分は完全に直っている、と確信した。
 笛吹き人としての私自ら、これまでより一段上のランクに駆け上がったような、そんな気さえする。どれもこれもが、Mのおかげだ、と感謝している。
二十五日
 朝の出がけ。Mは、いっぱいの布団をベランダに干し、二階の廊下、室内、階段の掃除をただ黙々と進め、トイレ掃除も怠りない。そんな中をそそくさと出かける私に「もうっ。まだ行ってないの」とじれったそうである。

 地下鉄駅で降りたところで出勤途上のわが社のホープ、H記者とバッタリ会い、社まで共にあるく。
 「何か、いい話はないか」
 「いや、特に」
 私は半分、面白半分でたたみかける(彼は話せるヤツだからだ)。
 「もし、H編集局長が誕生したら、歴史上の大人物との架空の対談を紙面化してみたら、どうか。たとえば、ウサマ・ビンラディンとの対談を実現させたら、よい」
 「それは、面白いですね」とH記者。私は本気なのだ。

 昼間、裁判所近くの食堂兼喫茶に入り、小説「九頭竜(仮題)」を書き始めたが、なぜか、このとき、ふと昨日の日記「Mへ」(本稿)に、彼女の好きな満天星(どうだんつつじ)について忘れていた、ことに気づいた。
 彼女は作夜、花の辞典(正しくは角川書店の合本「俳句歳時記」)まで持ち出し私にドウダンツツジとは、いかなるものかーを教えてくれたのだった。
 それは小さな花弁の白いツツジの集合体で、まるで夜の空に浮かぶ満天星のようなものだ、という。ありがとう。
 歳時記には「満天星の花 満天星躑躅」とある。詳しくは、Mが見せてくれた俳句歳時記の226頁を見るとよい。
二十六日
 日は、どんどんと何も言わないで過ぎてゆく。
 けさ、携帯電話をのぞいたら、名古屋のT子さんから「小唄を習いたいが、文化センター以外で学べるところがあったら教えてほしい」の着メールが届いていた。
 彼女は才色兼備の日本画家で、かつて私が文化芸能局に在籍当時からの大切な友人である。私が主宰した文庫本同人誌「熱砂」の表紙絵も描いていただき、栄文化センターの水墨画教室では一番の人気講座講師でもあった。その彼女からの突然のメールである。私とは十年来の友だが、なぜ、急に小唄を習う気持ちになったのか。そこを知りたい。それとも、彼女の周辺でほかに何かが起ころうとしているのか。
 夕方には、また別の女性から着メルが入った。
 こちらの方は最近、三重県の高校国語教師を定年退職したばかりのSさんからだった。彼女は私の文学仲間、いや良きライバルで、これまた私とは仲がいい。東京で中国人学生の案内をして歩いている、とのことで「まだ東京にいます」とのことだった。
二十七日
 こうして毎日、なんだかんだ、とは書き記してはいるものの、なかなか、Mにあてての手紙を書いてる時間がない。
 書くのは、大半が電車の中だったり、昼の食堂だったり、帰宅して寝る前のほんのわずかな間だったりする。だが、この世に実際に存在するのかしないのか、は別にしてそのMへのラブレターを通じてこそ、私の心の流れや社会の動きを作品に投影することができたなら、それこそが文学だと私は思うのである。
 俳句に通じたMに言わせれば、私小説など文学ではない、と一蹴されそうだが、自身の日ごろのあかしを小説にすることこそが、文学だと思う。現に推理小説も含め、すべての文学がここから出発しているのである。

 ところで私にとっての救いは、愛猫のこすも・こことシロちゃんが、どんな時にでもMに寄り添っていてくれていることだ。特にシロちゃんときたら、Mが一息ついて食卓にやれやれと座ると、その前に来て座ったりする。そして、じっと彼女の顔を見るのである。朝は朝で、Mが起きるときには決まって二階寝室の彼女の布団のところ、それもMの胸からおなかの部分にかけて、からだを横たえている。
 激しい目覚まし音にMが起きて立ち上がると、シロちゃんも彼女の後をついて階下に下りていく。そこから一日が始まるのである。
二十八日
 夜。仕事を終え、笛の稽古に大須は万松寺近くにある師匠宅を訪れた。きょうは師匠から音がまだ、おかしいのでは、との指摘を受けた笛のゼロ部分が本当によくなっているかどうか、を診てもらうのが一番の目的である。
 「ゼロの音」は見事に直っていた。もし直っていなかったら、再び笛を送り返すことになっただろうか、と思うと私は飛び上がりたいほどに嬉しくなった。
 A師匠にはこのあと、青葉の笛の中級本を見せ、吹いてもらったが、彼女曰く「私のつくった譜面と比べると情緒に欠けます」と。
 実際、私は両方の譜面を吹いてもらったが、師匠の譜面の方に明らかに情緒というものを感じた。
 私は引き続き、師匠に「青葉の笛」の歌もうたってほしいーと甘えると、彼女は心もち姿勢を正して『♪いちのたにのいくさやぶれ うたれしへいけのきんだちあわれ…』と、二度、三度とうたってくださり、その哀愁を帯びた歌声が私の心にしみいった。
二十九日
 金曜日。名市大で私の授業である本年度二度目の問題認識特別講座が開かれた。
 きょうは教室を学生ばかりか一般市民にも開放し、私の友人で琴伝流大正琴弦洲会会主でもある倉知弦洲さんと長男崇さんに親子鷹で演奏をしていただいた。名古屋で生まれた大正琴の演奏を実際に見てもらうことにより、受講者全員に大正琴に対する理解を深めてもらうのが狙いでもある。授業に先立ち、中日新聞の名古屋市民版で告知したこともあり、この日はバスを乗り継いでおいでになられた高齢女性の姿も見られた。
 この日、私は授業の冒頭に大正琴が名古屋の大須で生まれた歴史的経緯などを説明したあと、専任の山田明教授にバトンタッチ、授業は引き続き倉知さん親子による大正琴の説明、さらには人生劇場などの演奏へと続いた。
 私は歴史的経緯の説明のなかで、これまた名古屋は熱田生まれの七・七・七・五の都々逸にもふれたが、Mが前夜強調していた「日本人の体質には七五調がなぜか合う」という、そうした情緒面に触れることを忘れてしまい、あとで気付いて「しまった」と思ったのである。

 ともあれ、授業は無事、大正琴演奏へと引き継いだが、社に戻った私は、それからが会議やら原稿書きに追われて大忙しで一日は、またたくまに終わったのである。いずれにせよ、今日はこの年になってなお、ダッシュ、ダッシュ、またダッシュの一日であった。
三十日
 「なにを鳴いてるの」「なんや、なんや」とMは最近、よくこんなことを愛猫に向かって言う。こすも・ここが声をあげて鳴くと彼女は決まって、こう言って、ここに語りかけるのである。
 ここはMのそんな言葉に安心するのか、しばらくすると鳴き止むのだ。
 「なにを鳴いてるの」「なんや、なんや」。
 Mはそう言いつつ「ボス(ここの別の愛称)は最近、歳をとって目が見えないので電気が消えていたりすると不安で階段の上り下がりや、室内の行き来ができないのだろう」と階段の明かりを点けたりする。
 土曜日だが、やはり取材相手からのファクスが届いているかどうか、が気になりいつものように午後、社に上がった。きょうは早めに原稿書きを切り上げ隣の県立図書館まで足を運んだ。創価学会女性編によるDVD・女たちの戦争「平和への願いを込めて」を借りるためである。
 帰りはK駅から久しぶりに自宅まで歩いてみた。途中、洒落たフォーク酒場Pの存在に気付いたが、あいにくシャッターは閉まったままだった。店先のポストにチラシが入っていたのでMの分と二枚だけ手に取り、持ち帰った。チラシには営業時間「水木金土 午後7~11時」とあり「ここではお客さんが交代でギターを弾いたり、ピアノを弾いたりして歌っています。お店の楽器は自由にお使いください。カラオケはありません。聴くだけ! の方も大歓迎です!」とあった。
 Mとぜひ一緒に来てみたいな、と思いながら家路を急いだ。
三十一日
 いよいよ名古屋に「パリ・オペラ座」が出現する。劇団四季のオペラ座の怪人は凄いらしい 8月2日(日)開幕! ミュージカルオペラ座の怪人 開場10周年記念 新名古屋ミュージカル劇場(中略)ついに明日! 5月31日 午前10時前売り開始!
――以上は昨日の中日新聞28面に掲載された全面広告である。
 Mがこれを見逃すはずがない。
 というわけで、私たちは午前十時になる二、三秒前に電話を劇団四季の予約センターに入れた。Mとふたりで二回、三回、四回と交互にしてみたが、電話はやはり話し中ばかりだった。
 しびれを切らしたMが「コンビニでも十一時から予約受け付けをやってるはずだわ」というので、今度は二人で車で近くのサークルKへ駆けつけた。そこで十一時になるまで、それこそ二十五分ほど待って八月四日(火)午後六時半からの分をやっとの思いで予約したのである。
 一階席は既に満席とのことだったが、二階のS席を二枚確保し料金も支払った。火曜日にしたのは、Mのリサイクルショップ「N」が火曜休みだからである。

 夜は名古屋駅西のTホテルでウエブ文学同人誌「熱砂」の例会に出た。
 帰りは同人ともどもいつものように昭和食堂へ。
 私はビンビール一本のあと、例によって沖縄焼酎の「残波」をロックで飲み、ウーロン茶で参加した牧すすむさんが、わざわざ車で私を木曽川河畔に近い自宅まで送ってくださった。牧さんは、琴伝流大正琴弦洲会会主で、つい最近、名市大の特別講座で大正琴の演奏を長男崇さんと一緒にしてくださった、まさにその人である。
 彼は新聞記者だった私の小牧通信局在任当時からの親友でもあり、「熱砂」では詩人・牧すすむとして健筆を奮っている。私は以前、そんな牧さんに「ふるさと音楽家」と名づけたことがある。
六月一日
 私の母が生まれた日、すなわち実家のある和田村に電気がともった日である。
 母の自慢は「お母ちゃんが生まれた、その日に和田に電気がともったんだって」というのが口癖で、誕生日が来るたびに、この話は決まって聞かされた。
 母は、きょうで、満八十九歳だ。いまも自ら車を運転して近くの畑まで農作業に出かけ、時には私の家にまで車で来て野菜を届けてくれたりする。
 結構、楽しいはずなのに父が九十二歳で一昨年七月に亡くなってからは「生きとっても、ちっともいいことなんかあらへん。お母ちゃん、ちっとも生きとりたいなんて、思っとらへん」という頻度が多くなった気がする。もっとも母は私の子どものころから「お母ちゃん、ちっとも生きとりたいなんて思ったことがない。生きとってもいいことなんかあれへん。生きとりたゃあなんて、これっぽっちも思いもせん」が口癖だった。
 そのつど、私は「みんな一生懸命に生きているのに。お母ちゃんって。なんて失礼なことを言うのだろう」と子どもごころに思い、やっぱり御大尽の家でわがままざんまいに育ったからだろうか、と思ったりした。事実、母が育った家は和田村の区長で大きな植木職人でも知られていた。また、母の父(私にとっては祖父)の、そのまた母の里である小牧は河内屋の舟橋仁左衛門家といえば、尾張一円に広がる農家の水田に長年、水を供給し続けてきている人工の入鹿池(いるかいけ)開削に当たった古くからの名家だと聞いたことがある。
 あぁ~。それなのに、そんなに生きとりたくない、だなんて。私自身も不思議な気がする。子どもは三人とも弁護士(兄)と税理士(妹。教師から、父の後を継ぐため独学で資格取得)、新聞記者に育ち、孫にも恵まれ、なんの不服があるというのか。そこが、よく分からない。
 この点ではMも私の母にそっくりで「いつまでも生きてなんか居たくない。せいぜい六十歳までで、それ以上なんて、ちっとも生きたいなんて思わない」とこちらも私たちが心配するほどに(六十までには)死にたい、死にたい、と言って私を脅してくる。だったら、私はもう死ななきゃ、ならない。第一、一般の人間さまに対してだって、この発言は失礼に当たる気がする。Mもやはり、わがままなのかも知れない。

 ここで私に言わせてもらおう。
 この人間社会は所詮「無」である。姿、形があるようであって実はなんにもない。悠久の宇宙のなかの一瞬に過ぎず生きていようが死んでいようが同じと思う。
 あんまりMが「六十死」にこだわるので、私は最近密かに彼女の誕生日を、これまでの「(私が勝手に決めている)昭和三十三年三月三日」から、「五十五年五月五日」にしたのである。とすれば、彼女はいま二十九歳。六十までは、あと三十一年あるわけである。そう言い聞かせて自らの心を慰めている。
 もっともMのほんとの誕生日は昭和二十七年二月二十九日で、現在五十七歳で「六十」までは、あと三年しかない。ただ、うるう年の二十九日生まれだから、まだ「57÷4」で十四歳と少しである。

 この日、帰宅すると、こすも・ここの首輪が薄紫色に、シロちゃんも薄ピンクにそれぞれ替えられていた。何を思ったのか。Mの仕業だ。
二日
 社から届いた「親展 健康診断結果」なるものをMに見せると「やあーい、メタボだ、メタボだ」とはやしたてられた。なんというたわいも無いと思いつつも、検査表なるものをあらためて見てみると、有所見項目のうち身体計測が「C(太りすぎ)」とあった。ほかは、血圧が少し高くて軽度異常といったところだった。メタボに関しては、おなかも出ておらず、メタボでないと内心自負していたのだが、どうしてそういう診断結果になってしまったのだろう。

 本日付中日新聞2社面で清水義範さんの「川のある街―伊勢湾台風物語」が始まった。挿絵は私の新聞記者時代の実録ルポルタージュ「町の扉―一匹記者現場を生きる」の挿絵でお世話になった中日新聞本社デザイン課に所属する画家・安藤邦子さんである。
 初回は、前途に夢や希望を与えてくれる色彩でさっそくメールを打電。彼女からも「これから毎日で大変ですが、一生懸命に作品づくりに挑んでいきます。ありがとうございます」の打ち返しがあった。才能あふれ、感性にも鋭さが秘められ、かつ人一倍の努力家だけに、これから毎日の挿絵を期待をもって見守りたい。
 きょうは、ウエブ文学同人誌「熱砂」での私の新たな連載作品をどうした手法で進めるか、を社近くの喫茶で昼食を取りながら、じっくり考えた。
三日
 月日は脱兎の如く駆けてゆく。いったい、どこへ行こうというのだろう。
 水曜日。
 Mはいつものように九時前に家を出て自転車で七、八分ほどのリサイクルショップ「N」に出かける。水曜は出店前に「N」が入居するビルの経営者かつ管理人でもあるMのお母さん(八十八歳)とお兄さんのところに顔を見せるため、早く家を出るのだ。私は会議とか、名市大の特別講座でもない限りは九時すぎに、ひと足遅れで家を出る。あとは、ボスのこすも・こことシロちゃんに家を任せて、である。

 ここでふと、思う。
 Mとは一日に何言ぐらい言葉を交わしているのか、と。彼女は極端に口数が少なく、どうしても私に告げなければ、ということしか話さない。そして。話し出すときは決まって独り言でもつぶやくように「あのねえー」から始まる。
 「なんだ」という私。
 「あのねえー、お父さんの法事。(6月)28日はよいのだけれど、何時からか、が分からない。何時からだっけ。それに何を持っていったらよいのか…」
 そこまで聞いて私は手帳を開くのだ。「六月二十八日午前十一時、永正寺」と書いてあったので私は誇らしげに「午前十一時から、だって。手帳に書いたった」と答える。大体は、こんな調子である。
四日
 Mが帰ったときは、いつも玄関先でこすも・こことシロちゃんが迎えてくれるという。
 シロちゃんも、こすもも、自分たちにとっての最愛かつ最もたよりになる人間がM、おまえということか。
 朝など。Mが起き二階から階下へおりていくと、シロちゃん、こすもの順に、時にはこすも、シロちゃんの順だったりするが、いつも後ろをついて二人とも下に下りていくのである。二人が人間猫に変身する場面でもある。
 それどころか、毎朝、目覚ましが鳴るころには、決まってシロちゃんが、寝ているMのおなかの上にチョコンと座っているのである(このことは以前にも触れた)。
五日
 そのシロちゃんが、今夜はどうしたわけか、遅れをとった。
 いつもMが入浴のため浴室に入ると決まって彼女も後を追いかけるようにして風呂場のドアを両手で開け、Mが風呂から出るまで、一緒にいるのだが。どうしたわけか、今夜は違った。台所のいすですっかり寝入ってしまったみたいで、Mについていかないシロちゃんを見るに見かねた私が「シロ」と声をかけたのである。
 そしたらシロちゃんたら。寝ぼけまなこで両目を開け、同時に「あれっ、しまった」というふうにMが入浴中の浴室入り口のドアを両手で器用にも開けて中に入っていったのである。
 入浴中のMも、おそらく途中から顔を見せたシロちゃんにホッとしたに違いない。

 きょうは名市大・山の畑キャンパスで「新聞ジャーナリズム」をテーマとした問題認識特別講座の授業をした。「滝子町」のバス停からは多くの新聞を紙袋に入れキャンパスまで歩いた。ここであらためて気付いたことは、歩いていると、いろんな世界が開けてくるということだ。
六日
 帰宅すると、釜飯が三個、どんと食卓の上に置かれていた。
 「何だ、これは」とMに聞くと、近くのすし屋さんで釜飯の配達も始めたので頼んでみた、ということだった。そのすし屋の入っているビルこそが、Mの兄と母が営んでいるSビル第二館である。義母と兄が働きに働いて建てたもう一つのビルである。
 ということなので、Mは少しでも親孝行が出来たらいい、と思って頼んだに違いない。
七日
 日曜日とはいえ、午前十一時にはナゴヤドームへ。この日はファンクラブのジュニア会員の招待日で二千人が招かれているが、招待引換券は「お一人」のみの招待となっているため、このところ引き換えを巡って少なからず、混乱が生じているからだ。
 おかげでMまでがいつも通りに起き、私を見送ってくれた。
 ドームでは案の定、引換券窓口で「子どもだけ、球場のなかに入らせよ、というのか」と強硬な父や母が相次ぎ、何としても引き下がらない方には、この日招かれながら来なかった方の分(招待券)を有効に当てさせてもらうことで、なんとか理解を得た。
 私は「せっかくドームまでおいでになったというのに、と思うと、今回のようなジュニア会員に対する一人招待は、明らかに罪つくりになるので止めるべきだ、とあらためて思った。

 この日、一日疲れて帰宅後、見たのはNHK教育テレビの『戦争を着た時代』だった。
 ブルジョア婦人から成る愛国婦人会と大衆夫人による国防婦人会が、戦禍の深まりとともに昭和十七年二月には大日本婦人会として統合、この間、戦争柄の着物が大流行した話を作家沢地久枝さんらが解説するというものだった。
 Mは、その間、いつものようにラジオでラジオ名作座などを静かに聴いていた。彼女は本当にラジオが大好きな女性である。
 「ラジオは何でも教えてくれるのだから。ラジオが一番なの。テレビより早いんだから」
 Mの口癖は、その通りだと私も思う。
八日
 MはきょうI市の総合病院に月に一度の検診を兼ねながら、薬をもらいに出かけた。
 夜帰り「どうだった」と聞くと「いつもどおりよ」の返事。「ただ薬をもらって来るだけなのだから。もう(いくの)やめようかしら」と言って私の胸をチクリと刺す。
 「それよりも、I市内の百円ショップでCDを買ってきたから」と五本ほどを私の目の前に出してきた。
 大正琴、胡弓…と、みなそれぞれ百円である。なんだか、かわいそうな気さえする。「笛は」と聞くと「さすがに笛はなかった」と聞きホッとしたのである。
 「前から買おう買おうと思っていた」というM。彼女は、私が名市大の講義で大正琴の生の演奏を取り入れたことで買ってきたのではないか。そんな気がするのだ。
九日
 きょう帰ったら、中国笛のCDが私の部屋のデスクの上に置かれていた。Mの仕業である。
 どこで、と問うと「平和堂で」とのことだった。中国笛は、日本の篠笛の元祖なのだって、とも教えてくれた。その事情、わけについては詳しく聞かなかった。
 床に入ってからは枕元のプレーヤーにCDを入れてもらい眠りについたが、「浜辺の歌」などは確かに聴いたが、一番聴きたかった「青葉の笛」は聴いたか聴かなかったか、気がつかないまま眠りに落ちてしまったようだ。
 就寝前、十一日に東京・中野である最匠展子(さいしょうのぶこ)詩集出版記念の会の告知を私たちが主宰するウエブ文学同人誌「熱砂」のWHAT‘S  NEW欄でしておいた。彼女のこの詩集は、つい最近、東京の思潮社から出版され、先日あった「熱砂」例会の席でも出席したみんなが、ひとつ返事で一冊ずつ購入してくれた。同人とはいえ、その心意気が何よりもありがたかった。
 最匠展子さんは、私の文学の師のなかの一人であり、かつまた中西進さま(日本ペンクラブ副会長)と一緒に私を日本ペンクラブ会員(N・小説家)に推薦してくださった大切なお方でもある。
十日
 「空から降るのは、雨ばかりじゃない。能登の七尾の空からオタマジャクシがふって来たのだってさ」とMに教えられた。
 かつて和倉温泉で傷を癒したシラサギたちが餌さを運んでいる時に、わざと落としたのでは。七尾の研究者はそう言っているが、真相は分からないという。ここで七尾の生物関係の研究者といえば、やはり「のとじま水族館」のスタッフしか思い浮かばないのだが。七尾では、かつて七年もの間、記者生活をしてきた。羽咋(はくい)のユーホーによる? ミステリーサークルで大騒ぎになったことはあったのだが。オタマジャクシが天からふって来ただなんて。そんなことはなかった。またしても、ユーホー? の仕業なのか。
 Mはポツリと、こうして何げないふりをして重い言葉をはく。
 「(この世の中)時々、面白いことが起きるわね」とも言った。オタマジャクシがふって来た、と話すその目は少女の如くキラキラと輝いていた。
 私は、ここで心のなかで、こう話してみる。
「だから、死にたい死にたい、いつまでも生きてなんか居たくないーだなんて言うなよ。この世は時々、めったやそっとでは驚かないおまえですらびっくり仰天するような、そんな面白いことが起きるのだから。もしかしたら、ある日突然に、すべての人間たちが十代に戻る世の中が来るかもしれない」……
十一日
 東京の中野サンプラザ五階エトワールルームで最匠展子さんの現代詩文庫187選詩集の出版を祝う会があった。
 祝う会の発起人の一人でもある私は仕事を早めに切り上げ、午後二時には社を出てJR名古屋駅まで歩き、新幹線と中央線で会場に駆けつけたが、やはり出席してよかった。
 この日は大阪文学学校校長で現代詩人会元会長の詩人長谷川龍生さんはじめ、詩人辻井喬さん、最匠展子さんを何かと支える小説家で詩人の岡田里史さんらなかなかの顔ぶれで、いつだって満足したことのない最匠さんも、この日ばかりは「人生最良の日です。みなさま、わたくしのためにわざわざご出席くださって本当にありがとうございました」と自ら公言して憚らなかった。
 そして。私は何よりも、この日、最匠展子さんが尊敬してやまなかった亡き詩人左和伸介さんの愛娘さんにお会いできたことを嬉しく思った。帰りは午後十時発の名古屋行き最終列車に滑り込みで間にあい、午前一時前に帰宅した。
十二日
 東京から帰り、昨夜はうとうとする程度の軽い眠りについただけで、けさは早朝に家を出て名市大へ。Mは、こんなにも早いにかかわらず「どうせ、起きなきゃならないのだから」と朝食を作ってくれた。
 名市大での問題認識特別講座では、外から見た名古屋を『外観・名古屋』のテーマで話した。また担当の山田明教授の提案もあり、三年前の『芸どころ・名古屋』の授業で私が特別に来ていただいた際の故柳家小三亀松さんと、妻るり三亀さんによる都々逸漫談の披露もDVDで行われた。どの学生も真剣な表情で画面に見入ってくれ、山田教授の配慮を心から嬉しく思ったのである。
 外観・名古屋の話の方は、台風を退散させようと毎年台風が襲来し始める九月の申(さる)の日に、陸には海から来る台風に見立てた、片目のダンダラボウシよりも、さらにデッカイ巨人がいるぞーと見せかけ、畳二枚もある大わらじを漁民たちが海に流す「志摩は、大王町波切に伝わるわらじまつり」の由来に始まり、能登半島に今も残る「廻し文化と耐えの文化」「能登はやさしや土までも」についての語源説明、さらに「岐阜は名古屋の植民地」と言われるわけなどを話した。
 この日は私が先日、宿題として課した三百字小説を書いてきた学生も多く、学生たちが私の授業を真剣に受け止めてくれていることに感謝の気持ちがわいた。
十三日
 土曜日。久しぶりに朝はゆっくりと起き、社へ。
 毎週一回の連載コラム「ガブリの目」を書く。「七月に迫ったオールスターを前に、ファンの皆さん! ドシドシとドラゴンズの選手に投票しようよ」と公式ファンクラブのマスコット・ガブリが訴える、といった内容である。
 携帯電話をチェックするとメールが入っていた。
 左和伸介さんの娘さんからで「(最匠展子さんの出版会で)お会い出来たことに運命的なものを感じています。父のことをもっと教えてほしい」とかなりていねいに書き込まれた内容で、なんだか、こちらの心までが火打ち石で打たれてしまったような、そんな気がした。
十四日
 私の携帯電話の画面が点いたり消えたりで、きのう届いたメールを最後に、とうとう息絶えたようで、ウントモスントモ反応しなくなってしまった。自宅近くのドコモショップに持ち込んだが、メールのバックアップが出来ない機種だということで持ち帰る。
十五日
 最近は笛を吹いていないので気になっている。師匠からは毎日、五分でよいから、と教えられているのだが。その五分がなかなか取れない。
十六日
 朝。出勤前に先日、私が九頭竜の笛の里資料館で指導者と一緒にこしらえた笛を手に、越後獅子や青葉の笛、さくらなどを吹いてみた。傍らでは、こすも・ここが座って聴いてくれ、彼女は一曲終わるごとに声にならない声で甘えるように何度も何度もうなづくように口を静かにちいさく繰り返し、開いてくれた。「うん、それでいいよ。十分、いいよ」と励ましてくれているようでもあった。
 私はそんなこすも・ここの表情を見て「ヨシ! けふから彼女を笛猫(ふえねこ)と名づけよう」と心に誓った。だから、けさはわが家に笛猫こすも・ここが誕生した日でもある。

 帰宅すると、そんな私の心情を察してか、Mが笛と都々逸のカセットを各一本、市内の音楽店で買いデスクの上に置いておいてくれた。ありがとう。
十七日
 笛猫のこすも・ここにあおられてか、夜、MとふたりでMが買ってきてくれたCDを台所に置き、宵待ち草、荒城の月、そして青葉の笛の順で笛の音(ね)を聴いた。太鼓の音まで入りなかなかだ。まさに源平合戦の舞台のなかに居る自分を感じた。
 「それは、それで良いのだけれど」とM。「源平合戦の那須与一って。どんな場面だったのかしら。でも、…(それはそれで)いいの」と続けた。
 「いいのっ、だって。やはり、おまえは(源平合戦とは違う)室町時代の軍記物語『太平記』に出てくる楠正成(まさしげ)と正行(まさつら)親子の別れの場面の笛、♪青葉繁れる桜井の……、が気になるのだろう、」と私。
 Mが長男を出産したときに、写真協会の志摩支部員で当時、浜島町役場教育委員会職員でもあった井上博暁さんが長男の名前・マサツラにこだわって彼女に話してくれた楠親子の別れの場面が彼女の心奥部分に宿っているからなのだろう。Mが気にすればするほど、この♪青葉繁れる…、ともう一つの「青葉の笛」物語が私たちの体の奥深くにまで攻め入ってくるのである。

 笛猫が、こうして書く私の姿を黙って座ったまま、どこか心配そうに見つめている。
 「こすも・ここ」と呼んでみた。もう一度「ここ」と。ここ。
十八日
 ボス、すなわち我らが笛猫、こすも・ここは水をどんどん飲む。
 ニャアオ、ニャアオとも、よく鳴く。
 帰ると決まってニャアオ、ニャアオ、ニャアオと水を要求してくるので、風呂場の手洗い場流しにある水道水を開放し、河村たかし名古屋市長の口癖じゃないけれど、それこそ木曽川は河畔の日本一うみゃあ(おいしい)水を飲ませることにしている。
 それにしても、こすも・ここの水の飲みっぷりは尋常ではない。ボスなりの健康維持方法なのかもしれない。

 あすは玉川上水で愛人を道連れに入水自殺した作家太宰治が亡くなって丸百年になる桜桃忌でもある。たまたま十九日は、太宰が生まれた日でもある。
 太宰の作品「人間失格」や「斜陽」は私自身、これまでにも何度も何度も読み返してきたが、あの全編にわたって染み込んだ昏さは、私という人間そのものにもよく馴染み、文体の波長も私にはよく合う。
 桜桃忌を前に昨夜、NHKでは太宰の特集番組が放映され、私はMと一緒に見た。彼女は「ナルシストのところは、太宰も権太も同じよ。そっくりだわ」と意地悪を言うように悪態をついてきた。だが、私に言わせれば「確かに彼とは文体が似ており、私の方が彼から学ぶべき点は多い。だが、文章表現術から言えば、私の方がはるかに幅広い点も部分的には、あるはずで、それなりの研鑽は積んできたところだ、と言いたいところだが、太宰治が大変な努力家であったことだけは認めたい。

 それはそうと、息子の帰りが遅くて、まだ帰ってはこない。私とMはこうしてラジオを聴きながら帰りを待っている。きょうは帰りに名古屋で束の間ながら豪雨が降り、その影響で電車も遅れ途中の上小田井駅で三十分ほど待たされた。
 彼の帰りが遅いわけは、この理由とは違い、仕事が忙しいからのようである。

 つい先ほど電話がかかり私が出ると「おかん、おかんに代わって」というのでMに受話器を渡したが、これから帰ってくるそうだ。いまは午前零時半になろうとしている。そのうちに帰ってくるだろう。

 それでも、この日は多治見にお住まいの、お琴の名人・おかよさんからの久しぶりのメールに、心が癒された。メールは不思議にもほとんど消え入る寸前、瀕死の私の携帯電話に入っていたが、次のような内容だった。
 「おはようございます。ご無沙汰、お許しくださいませ。不況風を見事に受け大変ですが多かれ少なかれ、どちらさまも同じと思い、健康に感謝し日々過ごしています。明日、高木先生と数名でホームの慰問をさせていただきます。これから自宅で演奏曲の仕上げをしようと思っています」
 おかよさんは、何事につけ大変な努力家だ。
十九日
 本日付朝日新聞の天声人語より。
 <キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青みには、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさがある>。
 小説、女生徒の一節だ。なぜか心に刻まれる、不思議な文章の魔術が、衰えぬ人気の理由の一つだろう。
 ▼その太宰のきょうは生誕一〇〇年の桜桃忌である。玉川上水に入水(入水したのは十三日)して、遺体が見つかったのが奇しくも30歳の誕生日だった。
 ▼人としての弱さと、それを隠さない強さが小説を作り上げているという。「こんなに自分のことばかり書いてーこの人は自分で自分を啄んでいるようだ」と妻の津島美智子は書き残した。
          ×         ×
 そういえば、Mが時折、思い起こしたように私に向かって投げてくる半ば批判めいた言葉がある。それは「どうして自分のことばかりを書くのよ」の言葉だ。
 私はここで敢えて言っておかねばならない。
「小説なるものは、まず自らの生活があればこそ、で自分を書いたところで何ら批判されるものではない、と思っている。むろん、恥さらしは覚悟のうえだ。自分のことを極限にまで書くことにより、人間そのものはむろん、社会や時代までが透徹して見えてくる。そして、そこから編み出される物語こそが正攻法の文学なのだ」と。
二十日
 きょうは十日ほど前、茶の間でMの何げないひと言で初めて教えられた例の「空から降ってきたオタマジャクシさん」の話に触れておきたい。
 この天から落ちてきた話は、その後も新聞やテレビなど各マスコミで「竜巻に吸い上げられ、降ってきたのでは」とか「いや、鳥が運んできたのでは」「カラスはオタマジャクシを食べるが、吐き出すのであれば、もっと広範囲のはずだ」などと、いまだに諸説が飛び交っている。
 それどころか、今度は同じ能登半島の中能登でフナとみられる小魚が降ってきた」「福井県鯖江市でも降ってきたオタマジャクシの死骸にカエルや小魚のフナが交じっていた」の報道もあり、さる十八日付中日新聞夕刊はとうとう「オタマジャクシなどの死骸が見つかった場所」の日本地図まで付けて「オタマジャクシ 全国で降りやまず」「鳥、突風、いたずら説も…」の見出し入りで紹介する騒ぎにまで発展している。

 そして、けさの朝刊。これは極めつけである。
 中日新聞を代表するコラム・編集局デスク「ボタンが一つ」でも、この奇妙な話が社を代表する編集局長の視点によって紹介されたのだ。
 それによると、筆者は「蛙の子と空、という奇妙な取り合わせに、私はある詩を思い出した」と当時、最愛の長男を失い孤独の内に早世する直前の中原中也がうたった詩『蛙声(あせい)』を紹介。これまた一見すると奇妙な切り口で
「中也は、こう結ぶ。
<月夜の晩に、拾つたボタンは/指先に沁み、心に沁みた。/月夜の晩に、拾つたボタンは/どうしてそれが、捨てられようか?>
 コラムの文章ではセンテンスが前に戻るが「袂に入れるのは、ちっぽけな石でもいいし、古ぼけた写真や手紙でもいい。いや、形のないものでも構わない。夢、友情、ぬくもり…。たくさんは要らない。たった一つで十分だ。」と言い切る筆者―
 私は、このコラムを読みながら、空から降ってきたオタマジャクシたちが人生にとってかけがえのない、たった一つのボタン(宝物)を大切にせよ、と教えてくれたような、そんな気がしてならないのである。天からやってきたオタマジャクシさんが人間たちに教えてくれたもの。それは、たった一つで「あったかい心」だ。コラム子の優しさをあらためて思い、すばらしい記事とは、こうしたものを言うのだろう。ふと、そう思った。

 それから、今日はオーバーかもしれないが、清水の舞台からそれこそ飛び降りる気持ちで携帯を買い換えた。番号はこれまでと同じだ。性能は、550万画素だという。
 午後六時から名古屋市内の地下鉄「川名駅」近くのビル内、ジミアホールで開かれた妙子ソプラノリサイタル~現代日本歌曲を歌う~をM、それに妹夫妻と私の母で鑑賞した。
 Mと母は少し体がしんどそうだったが、妙子さんは私の兄の奥さんであることもあり、二人とも「ゆかなくっちゃあ」と思ったらしい。私自身もクラシックは、あまり好きではないジャンルだったが、行ってみて本当によかった。お姉さんのすばらしさをあらためて見直すことにもなった。

 プログラムは、金子みすゞ歌曲集より、武満徹歌曲集より、高田三郎歌曲集より、の三本立てで、妙子姉さんは池原陽子さんのピアノ伴奏で全曲を一人で歌いとおし、それは「お見事」だった。
 私の心に一番ときめいて残ったことは金子みすゞの詩から、▽橙畑▽さみしい王女▽はつ秋▽唄▽すかんぽ▽しけだま▽積もった雪▽空と海▽花火の全九曲をうたいきったそのエネルギーと、音楽に対するひたむきな情熱に対して、である。
 それと武満歌曲では谷川俊太郎作詞の「死んだ男の残したものは」が出色で、なぜかしら涙があふれ出て止まらなかった。お姉さんによれば、金子みすゞの詩の演奏曲は一九九四年に高橋英郎氏によって作曲されていたもので、かなりの難局で歌いこなすまでに、実に十五年の月日が流れたという。
 でも、しろうとの私にはそんなことは関係なく歌声を聴きながら、金子みすゞの詩が奏でる数々の情景が色彩感豊かに全身に染み込んできたのである。お姉さんには金子みすゞにこだわって、これからも彼女の詩をうたい続けてほしいな、と思う。

 「最初は遠いし遠慮するつもりでいたが。もう、こんなソプラノリサイタルには二度と来れないかもしれんから。思い切ってZ(私の妹)に頼んで連れてきてもらった」と満足そうな八十九歳の母。そして「あす、行けるかしら」と体調と仕事の両面から躊躇していたM。ふたりとも地下鉄駅に直結する農道を歩きながら満足そうだった。そして一緒に帰路の農道を歩いた妹夫妻。家族の味とは、こんなものかもしれない。

 きょうは、おまけまでついた。
 帰りの電車の中でたまたま乗り合わせた息子の姿があったのには、みな驚いた。思いがけない若い彼の姿に、母の目がまぶしそうにキラリと輝き、車内までがパッと明るくなった。そんな気がしたのである。
                               (続く)