連載小説「死神の秘密〈その5〉」

 【前回までのあらすじ】
 死神になってしまったユタは、監視者のサク。女の子なのに一人称が『僕』のシノ。双子の元気な女の子ミキと、無愛想なミナト。そんな死神の仲間たちと共に草葉荘で暮らしている。自殺しようとしていた少女の百合子と出会い、ユタは彼女を救おうとするが、一方で百合子はサクから死神の秘密を教えられる。
 
 5

「そうですか。よかったです。しばらくは話すこともできないでしょうけど。はい」
 白い横開きの扉の向こうで、サクの話声が聞こえた。誰と話しているのかはわからない。ただ黒い人影のようなものをすりガラス越しに確認できる程度だ。
 百合子は椅子に座ったまま、ベッドの脇についている小森豊と書かれたネームプレートを指で軽く触れてみる。見慣れない名前だ。だけどこれが確かに彼の名前なのだとわかる。彼、死神ユタの本当の名前。そして目の前で眠っているこの身体が、彼の本当の身体だ。
 先ほど、サクから聞いた豊の話を思い返してみる。彼がどうしてこんな風に眠っているのか。その理由。百合子は見てしまったユタの記憶の一部を思い出しながら、サクの話を聞いていた。
 小森豊は小学四年生の時に、父親を病気で亡くしている。恐らく百合子が見た記憶はその父親が死ぬ少し前だと思う。豊の誕生日の翌日に亡くなったらしい。プレゼントに自分の大切に使っていた財布を残して。それが実質父親の遺品になっていたわけで。豊はその財布をとても大事にしていたらしい。それが、数週間前のことだ。いじめられて、カツアゲみたいなことをされていた豊は、その大事にしていた財布をとられた。そしてあろうことか、空っぽになった財布を。大事な財布を果物ナイフで裂かれた。なんとか取り返しはしたが、豊の心が完全に壊れてしまうには十分な理由だったそうだ。彼はナイフで自分の腹を刺した。何度も、何度も刺した。けれど、死ねなかった。死ぬことは許されなかった。彼はおびただしい血を流しながら助けられてしまったのだ。それは決して偶然ではないとサクは言った。
正直実感がわかなかった。百合子は今でも信じられない気持ちでいる。
「ユタ。じゃなくて、豊。あなたにこんなことを言っても、仕方ないのかもしれないけれど、言わせてほしい」
 話しかけても聞こえていないのはわかっていた。むしろ、聞こえていないと思っていたから話しかけることが出来たのかもしれない。
「あたし、ユタに隠していることがあって。きっとそれを言ったら、ユタは怒ると思う。ショックを受けると思う。傷付いてしまうかもしれない。だから、ごめんなさい」
 百合子は頭を深く下げた。しばらく、じっと床を見つめていた。
 罪悪感があったのだと思う。いろいろな罪悪感。ユタに嘘をついたこと、いつ死んでもいいと思っていたこと。サクの話を聞いていたら、そんな諸々の事実が申し訳なくなった。
「懺悔か」
 ふいに上の方から声が聞こえて、百合子は頭を上げて振り向いてから言った。
「聞いていたんですか」
 そこにサクがいたことに驚きはしたが、表情一つ変わらなかった。
「聞こえただけだ」
 そんな返事をされた。
「同じことです。音もなく入ってくるのはやめてください」
 百合子はこれでもびっくりしたと目で訴える。
「そりゃ、すまない」
 サクが頭を掻きながら言う。本当にそう思っているのかは怪しいところだ。
「ミキとミナトの意識が戻った。三年眠っていたからな。これからが大変だろう」
 急に真面目な顔をして、サクが言った。
 先ほどしていたのは、どうやらその話らしい。百合子は目を丸くする。
「そうですか。それはよかったです」
 それから目を細めて言った。
 ミキとミナト。ケンカをしたとユタから聞いていたので、少しほっとした。
「ああ、本当によかった」
 サクも安堵した表情で言った。
「肩の荷が一つ降りた感じですか」
 百合子は尋ねる。
「まあ、そうだな。バカなあいつらに三年も付き合ったんだ。感慨深いよ」
 言いながら、サクは壁に立てかけてあった折りたたみ椅子を一つ取り、百合子の隣に広げて座った。不思議な感じだった。目の前には尚も眠り続ける豊がいる。
「死神だった時の記憶は、消したんですか」
 素朴な疑問をぶつけてみる。百合子の記憶を消さなければならないと言っていたから、二人の記憶も消すのだろうかと、そう思って。
 だが、答えは違っていた。
「いいや。消さない。消したら無意味だろう。今までのことが何もかもなくなってしまう。消えてしまって、すべてを忘れてしまったら、また同じことを繰り返してしまう。人間とは、そういう生き物だろう」
「否定はできません」
 首を振ることはできなかった。サクは何一つ間違ったことを言っていない。百合子も同じように思うからだ。
「でも、記憶があればあの二人。きっとあなたたちを探す」
「どうかな。俺たちにとっては現実でも、あの二人にとっては夢を見ていたようなものだ。何せ三年間、彼らは眠っていたんだ。夢か現実かなんて、わからない」
「夢」
 百合子はその言葉を呟く。
 少しだけ、寂しいような気がした。豊も目が覚めたら、百合子と過ごした屋上や、今までの会話をすべて夢と思うのだろうか。そんなことを考えてしまって。
「どうした。豊に目覚めてほしくなくなったか」
 心を読まれたように思えてしまって、百合子は動揺した。そんな風には思っていないはずなのに。どうしてか、胸が痛んだ。
「わかりません。あたしは、自分がどうしたいのかがわかりません」
 いろいろな気持ちが複雑に絡み合って、百合子を苦しめているような気がする。でもどうしようもなくて、それを改善するすべが自分にはないのだ。
「素直に手を伸ばしてみろ。そうしたら、いつかわかる」
 サクはそう言って、百合子に向かって微かに笑んだ。それはまるで、父が子に向けるそれのように思えた。

 日が暮れ始めていた。ユタは一人部屋の前で、サクを待っていた。すべてを知っているであろう彼。なのに何も教えてはくれない彼。ユタは苛立ちを覚えていた。
 ミキとミナトがどうして突然消えたのか。ユタはどうしてもその理由が知りたかった。
「怖い顔だ。何か悩み事か」
 気配はあまり感じなかった。けれどユタは驚きもしない。もう些細なことでは驚く気がしない。サクは涼しい表情をして、顔を上げたユタを見下ろしていた。身長差が妬ましい。
「何か、じゃない」
 ユタは思わずサクの胸ぐらをつかんだ。いつかと同じようにして。
「どーゆうことだよ」
「何が」
「全部知ってるんだろ。ミキとミナトが消えたんだよ。突然、目の前で。それを見て俺たちがどれだけ驚いたか。シノなんか、部屋を飛び出していってから戻ってこないんだぞ」
「シノが?」
 サクが目を丸くする。シノが出ていったのは意外だったらしい。
「否定しないってことは、当然知ってるんだよな。二人が消えた理由。消えるなんて聞いてないぞ。消えることが出来るなんて、なんで教えてくれなかったんだよ!」
 ユタの叫びに、サクが一瞬眉をひそめたのがわかった。けれど、怒っているのはユタのほうだ。気分が悪いのはユタのほうだと強く思う。
「それはな、ユタ。お前がまだ何もわかっていないからだ。何もわかっていないガキだからだ」
「だから、サクが教えてくれないから何もわからないんだよ。なんでそれがわからないんだよ。前の時もそうだ。自分で考えろなんて。考えたってわかる訳ないだろ。教えてくれればいい話だろ!」
 ユタは怒鳴るように言った。
「お前は考えが甘い。聞けば、なんでも答えを提示してくれると思っている。誰かのために必死になっているのも、結局は自分のためだ。本当は不安で、不安で仕方がないんだ。だから満たされるために偽善をする。だから相手の本当の気持ちに気付けない。大事なことに気付かない。お前はただのバカ者だ。それが本当にお前の望んだお前なのか。ユタ」
 諭すようにサクが言う。
 そんなことを言われても、ユタにはわからない。相手の本当の気持ち。大事なこと? 何に気付いていないと言うのだ。
「ああ、そうだよ。これが今の俺だよ。俺が望んだ俺だよ。悪いかよ」
 ユタがそう言った瞬間サクの舌打ちが聞こえて、それから胸ぐらをつかんでいた手を強い力で引き剥がされた。
「これ以上は、時間の無駄だ」
 冷たい一言だった。ひどい拒絶の言葉だ。サクは放心しているユタを押しのけて、部屋の扉を開けて何も言わずに入っていく。
 怒りよりも、ショックの方が大きかった。否定も肯定もされないというのは一番つらいことだと思う。
「最悪だよ」
 ため息交じりに呟いて、落胆した。結局、質問には答えてもらえなかった。上手いこと話しを逸らされた気がしてならない。
 サクに答えを求めるべきではなかったのかもしれない。そもそもあの人は最初に会ったときからそうだった。仕事を教えるのもシノだったし、死神になった理由も人が死ぬ意味も自分で考えろと言う。肝心なことは何も教えてくれない。ただ上から傍観しているだけ。
 考えることに疲れてそれを放棄するのは、悪いことなのだろうか。
 ミキとミナトが消えた理由。それがただ知りたかった。二人は消えて、どうなったのか。存在が消えたのか、それとも別の形で存在しているのか。例えば、生まれ変わったとか。ユタは期待してしまう。同じ死神として、そういうことができるのかどうか。
「シノ、どこへ行ったんだろう」
 呟く。不安を抱えながら。けれど彼女を探す宛はない。
 ユタは心を落ち着かせながら、夕焼けをみつめた。赤い光に目が眩んだ。今頃どこかで、シノもこの夕焼けを見ているのだろうか。そんなことを思った。

「おはよう」
 教室で石田唯子と挨拶を交わしたのはいつ以来だったろう。彼女は信じられないものを見たような顔をして驚いていた。
「ちょっと、どういうつもりよ」
 いつもなら無視するところなのに、どうしても尋ねたかったのか。でも人に見られるのがいやだったのか、小さな声で彼女はそう言った。
 百合子なりに考えた結果だった。
「挨拶くらいで、何をそんなに驚いているの」
 自分から誰かにこうして話しかけることは、今までなかったように思う。
「あんたって本当、何考えてるかわからない。話しかけないでくれる」
 ため息を吐くように唯子が言った。
「あたしもわからない。けれど、素直に手を伸ばすことにしたの」
「はあ?」
 百合子の言葉に、唯子が顔をしかめる。
 昨日あったことをいろいろ考えて。百合子は彼女に対しても罪悪感を持った。サクが記憶を操作したおかげで覚えていないとはいえ、ユタのことで怖い思いをさせたのだ。唯子は頬も叩かれていたみたいだし。
「ごめんなさい。あたしは周りが見えていないから、自分勝手らしいの。他人を拒絶して自分を守っていたの。でも、本当は寂しかった」
 サクに言われた通り、素直に手を伸ばして。一つ一つ問題を解決していこうと思った。だからまずは彼女に謝ろうと思った。素直に自分をさらけ出して。
「だから何。今さら友達になってくださいとでも言うつもりなの。言っておくけれど、このクラスの人間は全員あんたの敵なの。あんたのことなんか大嫌いなのよ」
 唯子が嫌みたっぷりに言ってくる。けれど百合子は動じなかった。
「知ってる。友達になってくださいなんて言うつもりはない。けれど昨日、思い出したことがあって。この学校に入学したばかりのころ、石田さんが最初に声をかけてくれた。あたし拒絶したけれど、本当は嬉しかったんだと思う。あたしはそういう、感情を表に出すのが苦手だから、いやな思いしてしまったかもしれない。だからごめんなさい。一言、謝っておきたかっただけ。じゃあ」
 これ以上の反論を聞くのが怖くて、百合子はそれだけ言って立ち去ろうとする。
「待ってよ」
 大きめの声で呼び止められたので、驚いて振り向いた。他のクラスメイトの視線も集まっている。
「言うだけ言って逃げるのってずるくない? あたしはあんたのこと嫌いだけど、あんたのことすごいと思ってた。一人ぼっちなのに、その芯の強さは変わらない。泣きも、わめきもしない。正直つまんないって思ったこと何回かあったよ。あんたは、多分誰よりも心が強いよ。誰色にも染まらない。そういうところがすごいと思ってた」
 意外だった。そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。だから返す言葉が見つからない。何か言わなければと思うのに、何も出てこなかった。
「いいよ、もう」
 それは何に対してのいいよなのか少し迷ったが、ごめんなさいに対してのいいよだと百合子は思うことにした。許してくれたのだと、思うことにした。
 唯子との会話が、クラスの人間関係を変えていくことを予想していなかったわけではない。百合子は早速クラスメイトに声をかけられ、唯子との関係について尋ねられた。百合子は適当に相槌を打つと、またいつも通りに本を開いた。
 ユタに会いたいと百合子は思っていた。会って話がしたい。正直に本音をぶつけたい。だから、昼休みに屋上へ向かった。けれど鍵は綺麗に付け替えられていて、もう屋上へは入れなくなっていた。昨日の今日で早速とは予想外だ。本当はもっと早くにこうなっているはずだったけれど。
 百合子は仕方なく扉の前に座り込む。お昼らしくジャムパンを食べながら彼を待つことにする。思えばこうしてユタを待つことなんて今までなかった。いつもは勝手に来て、勝手に百合子の隣に座るのだ。屋上への立ち入りが出来なくなった今。ユタが学校へ、百合子の所へ来てくれる保証はない。だからもし今日来なければ明日またここで待とう。明日来なければ明後日、明後日来なくても来るまで待つつもりでいた。
 ジャムパンを食べ終わってしばらくすると、眠気が襲ってきた。ああ、そういえば昨日はあまり眠れなかったんだと思いながら、少しだけ眠ることにした。
「百合子」
 突然声がして、百合子は急いで目を覚ます。驚いた。
「ユ、ユタ?」
 手だけが見えていた。彼の両手が、後ろの壁から生えている。怪奇現象である。
「ホラーみたい」
 こんな時でも冷静に百合子は言う。驚きはしたが、不思議と怖くはなかった。いやな感じはしなかった。
「ホントは、こっち側に連れ込みたいけど。ダメだよな」
 弱々しいユタの声が聞こえる。
「扉、通り抜けられないから」
 言いながら、死神とか幽霊なら可能なのだろうなと百合子は思う。
「わかってる。わかっているけど、やっぱり一人は寂しいよ」
 扉を挟んでいるからか、籠った声が哀しそうに聞こえてくる。
 百合子は背中を扉にもたれた。ひんやりとするが、それでもしっかりとくっつける。少しでもユタに近づきたかった。傍にいてあげたいと思った。
「寂しい。どうして」
「百合子がいないと、屋上が広く感じる」
 百合子の質問にユタがそう答える。
 ああ、そういう意味か。と百合子は少し残念に思う。
「それは元々広いから、仕方ない」
 ユタの両の手の平が動く。拳を作ったり、広げたり。それを何度か繰り返す。何をしたいのかわからない。遊んでいるのだろうか。
「ミキとミナトが消えたんだ。やっと仲直りできたところで。なんか、最初からそこに存在しなかったみたいに、ふっと消えたんだ。俺、二人が幸せになってくれればいいと思ってた。でも、これでよかったのかなって今は思う。二人は、どうなったのかなって。不安で」
 ユタの手の動きが止まる。それから笑い声が聞こえた。
「ははっ。こんなこと、話すつもりじゃなかったんだけどな。悪い、百合子。俺、今日はもう」
「待って、ユタ」
 引き戻されていくユタの腕を、百合子は思わずつかもうとした。死神の姿である時のユタには実体がないので、触れることが出来ないのだとサクに教えられていたが、とにかく引きとめたかった。今日、本当のことを言うと決めていたのだ。
「え、何。どうしたんだ」
 百合子がこんな風にユタを呼び止めることなど今までなかったからか、ユタが動揺しているのが声でわかった。
 百合子はゆっくりと立ち上がり、扉の方を向いた。ユタの両手はもうそこにはなかったが、まだ彼がそこにいるとなんとなく感じた。
 あの時のことを思い出しながら話し始める。
「ユタ。あの、話があって。最初に会った日のこと。あたし橋の上で、裸足で」
「う、うん」
 ぎこちない相槌が聞こえる。
「嘘をついたの。本当は、嘘をついていたの」
「え、嘘?」
 百合子はじっと扉をみつめていた。怖くはないと強がりながら、言葉を紡ぐ。
「夏になると、あの橋から子どもたちがみんな川に飛び込むの。高さもそんなにないし、川もそんなに深くないから。つまり、何が言いたいかっていうと。あたし、死のうとなんてしてない。あの場所で、裸足で立っているのが気持ちよくて好きなだけ。だから、ごめんなさい。嘘ついてごめんなさい」
 額を扉に押し付ける。冷たさが頭の中まで伝わる。
 扉の向こうから、声は聞こえない。百合子は構わず続けることにする。
「あの時、ユタの顔がひどくつらそうで。死ぬ気だって、そう言ってほしいのかなってなんとなく思って。だから本当の嘘つきは、あたしなんだ」
「な、なんで。そんなこと、今言うの」
 顔は見えないが、声が震えているのがわかる。ユタがショックを受けているのがわかる。
「今だから言えた」
「本当に全部、嘘だったのかよ。騙してたのかよ」
「全部、演技だった。騙してごめんなさい」
「ふざけんなよ!」
 ユタの叫び声に、百合子は肩を震わせる。覚悟していたことだ。彼が怒ることぐらい、いくらでも頭の中で想像していたことだ。そんなに驚くことじゃない。
「俺は、一体なんのためにあんなに必死になってたんだよ。俺がつらそうな顔してたからか。じゃあ、俺のためかよ。俺のこと可哀想だって思ってたってことかよ」
 否定はできなかった。百合子は言葉に詰まる。
「なんだよ、それ。ならなんで、死神が見えるんだよ。死ぬことなんて考えてないんだろ。ああ、あれか。実はあんたが神様だったりするのか。なあ、もしそうなら消え方教えてくれよ。ミキとミナトと同じように消してくれよ」
 ユタの言葉が、胸に刺さる。こんなに痛いなんて思っていなかった。
 扉の向こう側から鈍い音がして、百合子は扉から顔を離した。ユタが何かしたのだろうか。わからない。けれど、彼の苛立ちは伝わってきた。
 百合子は一度深呼吸をしてから、ユタに言葉を返す。
「あたしは、いつ死んでもいいって思ってた。いつも死にたいって思ってた。あたしは死ぬことを恐れていないから、だから死神が見えるみたい。あたしは、生きることの方がずっと怖いと思ってる。生きていれば必ず死ぬから、それが怖い。あたしは神様じゃないからミキとミナトのことはわからないけれど、でもきっと二人とも幸せだと思う。仲直りできたんだから」
「勝手なこと言うなよ。神様じゃないなら、勝手なこと言うなよ」
 もう一度、鈍い音。多分、扉を叩く音だ。今度ははっきりとわかった。ユタは今、死神の姿ではない。怒りをぶつけたくて人の姿をしている。
 怯むものか。と、百合子は思う。
「言うよ。言わせて。あたし、ユタに幸せになってほしいと思ってる。嘘に対するものだったけれど、あなたがあたしに与えてくれたものはたくさんある。自己満足の救済でも、あたしは嬉しかった。あなたとその屋上で過ごした時間、あたしもすごく居心地が良くて、そっち側へ行けないことが、今でもすごく残念なんだ。その気持ちは本当。最初はつきまとわれて、正直うざいし面倒なことになったと思った。でも、いつの間にか大切な時間になってた。いつの間にか、ユタが大切な存在になってた」
 素直に手を伸ばして、出した答えだった。サクに言われたことを考えて、これまでのことを思い出して。百合子は素直に、ユタが大切だと認めた。悪く言われるのはいやだ。いなくなるのもいやだ。そう思った。
「だからユタ、聞いて。あたしは、ユタと同じ時間で生きたいと思った。ちゃんと生きていてほしかった。教室にユタがいて、あたしに向かっておはようって言ってくれるの。そういう日常だったら、あたしきっと学校が好きになれると思う。だから……っ」
 気付いたら涙が出ていた。止まらなかった。眠っている小森豊の姿を思い出して、哀しくなってしまった。
「生きて」
 もう一度、生きて。まだやり直せるから。
 サクとの約束があるので、そこまでは言えなかった。言ってしまえば死神の記憶が、ユタとの記憶がすべて消されてしまうから。
 扉の向こうからは、なんの言葉も返ってこない。
「ユタ、いる?」
 返事はなかった。きっともう扉の向こうには誰もいないのだろうと思ったけれど、百合子はしばらくそこに立ち尽くして泣いていた。

 逃げることしかできなかった。自分がどんどん追い詰められているような気がして、怖くて仕方がなかった。何がダメだったのだろう。何がダメなのだろう。そればかりが頭の中を駆け廻る。嘘つきとか、可哀想と思われていたこととか正直どうでもよかった。生きていてほしかったと言われたことが、一番つらかった。生きることから逃げた人間に、一番きつい一言だった。何よりも、百合子に言われたのがいやだった。
 黒い羽根を広げて、ユタは空を飛ぶ。暗い闇から逃げるように、光に、太陽に向かって飛ぶ。太陽の熱に焼かれてしまいたいと思った。この世から消えてなくなりたいと思った。
 ポケットから電子音が鳴る。ユタは思わず下を見る。人や建物が小さく見えて、随分高いところまで飛んだんだなと思った。迷ったが、仕方なくポケットから携帯を取り出す。もしかしたらシノが見つかったというサクからの連絡かもしれないと思いながら。
 そんなことはなかったのだけれど。
「こんな時に、仕事か」
 画面に書かれている内容を見て、ユタは呟きながら顔をしかめた。正直そんな気分ではなかった。死体を見なければならないし、何より今のユタには、ただの追い打ちにしかならない。けれど、一つだけ利点はある。大体はシノと組んで仕事をしていたので、今回も彼女のところに連絡が入っているかもしれない。ユタは期待しながら、現場へ向かうことにした。
 死因は、ビルの屋上からの転落死だった。まだ若い、二十五歳の男性。その情報を見たときに、いやな予感はしていた。ビルの屋上で転落事故など、高いところで仕事をする人間以外なら、事故以外の死しか考えられないからだ。
「本当に死ぬんだな」
 屋上に降りてから、現状に嘆息を漏らすしかなかった。ユタの予感は的中してしまった。死亡者メールは絶対だ。一度死ぬと画面に表示されれば必ずその日、その時間に死ぬ。だから百合子の嘘だって、もう少しユタの頭が良ければ気付けたはずだ。あの日、ユタと百合子は本当に偶然あの橋の上で出会ってしまっただけ。百合子の名前は表示されていなかったのだから。
「君は、誰。邪魔をしないでくれよ」
 男が虚ろな目をしてユタの方を見る。辺りにシノの姿はなく、ユタは困った顔をして決められた台詞を言う。
「お迎えに上がりました」
「そうか。死ぬ前には本当に現れるんだな。死神が」
 言われて、そういえば自分のときはどうだっただろうと思い返してみる。死ぬ前に死神が目の前に現れた記憶はない。死んだ後に、サクに会った。死神は自殺者が全員なるものではないということだろうか。ユタは何かの理由で、選ばれてしまったということだろうか。考えてみるが、わからない。
「あなたは本当に、それでいいんですか」
 思わず尋ねていた。今から自殺する人間に向かって、そんなことを言っても無意味なのに。
「死神にそんなことを訊く、権利があるのかな」
「思い残すことは、ないんですか」
 シノがいつも死ぬ間際の人間に尋ねていたことを、男にも言ってみる。自殺する人間に対する質問ではないことはわかっていたが、訊かずにはいられなかった。
 目の前に死のうとしている人がいたらどうする、と以前シノに尋ねたことがあるのをユタは思い出していた。その時シノはなんと答えただろうか。確か、自分が死神じゃなかったら助けると、そう言っていた。
 でも、ユタは違う。目の前にいるこの人を、助けたいと思ってしまう。淡々と仕事をこなす死神にはなりたくないと、そう思うのだ。
「一人で思いつめて死んで、それで終わりでいいんですか。いいわけないでしょう」
「なんなんだよ、君は」
「自分のこと棚に上げていますけど、もっと周りに目を向けたらどうですか。世の中には、世渡りの上手いやつも大勢いるんですよ。悔しくないんですか。俺は悔しいですよ」
 ユタの叫びに、男は顔をしかめていた。けれど、もう止められなかった。感情が爆発して、自分ではどうにもならなかった。
「悔しくて、悔しくて。でもどうにもならなくて。力には敵わないのかもしれないですけど、でもどうにかしたいじゃないですか。だってそんなの、理不尽でしょう。自分だけ必死に生きて、必死に頑張ってきて。それなのに力のあるやつが上でどうにもならないとか、ふざけてますよ、この世の中」
 いろいろな思いが、頭の中を駆け巡る。ユタがまだ小森豊として生きていた頃、非力な彼は反抗することも出来ずに、ただ他人の言いなりになっていた。毎日遅くまで頑張って働いている母親の財布からお金を抜くことが、どれだけ後ろめたかったか。申し訳ないと思っていたか。お金をせびってきたクラスメイトたちは知らないだろう。豊がどれだけ泣いていたのか。
 きっと、この人も他人にいいように使われて、利用されてきた。豊と同じように苦しんできたのだと思う。思うから、このままではダメだと言いたい。
「君もいろいろあるんだね。君みたいな人が上司だったら、僕も死なずに済んだのかもしれない。……ありがとう。もう行くよ」
 男は哀しそうな顔をして言った。その言葉にユタは慌てた。
「だから、ちょっと待ってください。ちょっと、まっ」
 動揺しながら急いで手を伸ばすが、その手は男に触れることはできなかった。届かなかった。
 結局、ユタは何も出来なかったのだ。止める間もなかった。男はあっさり、迷いもなく飛び降りた。ユタは落ちていく彼を、目を丸くして見ていた。足がすくんで、ただ見ることしかできなかったのだ。自分の背中の羽根をもぎ取って、今すぐ彼に付けてあげたい気分だった。羽根を付けると気持ちも身体も両方軽くなるのに、と思った。
「なんで。嘘だろ」
 呟くが、現実だった。男は死んでしまったのだ。
 ユタは重い羽根を広げ、そのまま男の元へ降りていった。死体を見るのは辛かったけれど、仕事をしなければと心を奮い立たせた。震える手で鎌を持ち、死体と男の魂をみつめた。助けられなかったのだ。
 サクの言う通りユタはバカで、自分一人では何もできない。嘘も気付けない。誰も救えない。無力を痛感する。
 周りに人が集まり始める。救急車が来て、警察が来て。けれどそんなもの、ユタにはどうでもよかった。男の足元に立ったまま、動けなくなっていた。
「やらなきゃ、やらなきゃ、やらなきゃ……」
 呪文のように何度も、何度も呟くが、腕も足も動かない。すっかり竦んでしまっていた。
 時間だけがただ流れていく。彼をこのままにしておくのはいけないと、わかってはいるのに。ちっとも重くないはずの大鎌が、今はものすごく重く感じる。
 目の前の魂が、どんどん形状を変えていくのが見えていた。見えていたのに怖くて何も出来なかった。それはあっという間に、人の形に変化していった。ただ身体は死神の色に似て、黒い。闇だと感じた。
「憎い」
 ふいに、それが言葉を発した。悪寒が体中を走った。
「憎い、すべてが憎い」
 それはもう、魂ではなく霊だった。怨霊。悪霊。その類。
「どうして僕が死ななければいけないんだ。みんなが死ねばいいのに。そうだ、みんな死ね。殺してやる、殺してやる」
 憎悪が広がる。ユタはそれを見ても動けなかった。助けられなかった。自分が彼をこんな風にしてしまった。自分が悪い、すべて自分が悪いのだ。そう思い、震えて。何もすることが出来なかった。
「そうだ、まずはあいつを殺そう。呪い殺す。じわじわ苦しめて、殺そう。僕が苦しんだ以上の苦しみを与えてから、殺そう」
 気味の悪い笑い声が聞こえていた。彼の目がユタに向けられる。目が合ったとたん、ユタは一歩後ずさる。
「あ……」
 声を出そうとするが、上手く出ない。
「死神。まだいたんだ。聞いてくれよ、俺は死んだんだ。自由になったよ」
「じ、ゆ、う」
 震える唇で、やっと声を絞り出せた。
「そうだよ。自由を手に入れた。だから僕は今から憎いやつを一人ずつ殺していく。身体が軽いんだ。重いもの全部、消えてなくなったからな」
「ちが、う。そんなの」
 ユタは片手で頭を押さえる。言葉に呑み込まれてはいけない。そう思いながら。
「何が違うんだ。なあ、死神。魂を狩る者。君だってたくさんの命を奪ってきたんだろう。なら、なんの問題もないじゃないか」
 ユタはその言葉に首を振った。
「違う、俺は。奪ってなんか、いない。送っていた、だけだ」
「同じことじゃないか」
「違う、意味が違う。俺たちは、殺してなんかいない。あんたは、間違ってる。そんなのは自由じゃない」
 震える声でユタはそう言った。
 ユタは邪念をすべて振り払い、大鎌をしっかりと両手で持ち直した。力を入れて、構える。怨霊にならせてしまったのはユタだ。でもそれなら責任を持って彼の魂を、綺麗なものに戻さなくては。浄化しなければならないと思った。
「死神は、僕の邪魔をする気か。敵に回るのか」
 それを理解すると、彼はユタを睨んできた。
「そうだよ。あんたを助ける。それが俺だから。俺の望んだ、俺だから」
 強い意志を持って、ユタは言う。
 簡単にはいかないのかもしれない。けれど、一度負った責任は、最後まで果たす。それでいいじゃないか。自分は何を怖がっているのか。とユタは思う。
「させない。邪魔は、させない」
 一直線に、怨霊がユタに向かってくる。凄い速さで。
 恐怖は感じていた。けれどそれ以上にやらなければと思っていた。自分の無力さ、非力さは十分に理解している。ダメなのも、間違っているのも、バカなのも可哀想なのも理解している。
「目を覚ませよ。憎しみはあんたを、救ってなんかくれないんだ!」
 ユタは叫ぶが、怨霊が懐に入ってくる。恐怖に反応が遅れて、そのまま身体を押し倒された。怨霊の両手が、ユタの首をつかんでいる。
「くっ」
 苦痛の声が出る。物凄く強い力で首を絞められていた。ユタは苦しいと感じていた。死神の姿は、霊体に触れることが出来るのだ。首を絞めることだってできるのか、と理解する。
「意味わからないことばかり、言わないでくれないかな。ねえ、死神。間違っているのは君の方だよ。憎しみは僕を強くしてくれるんだ。僕を救ってくれるんだよ。目障りなやつは殺せばいい。みんな殺してしまえば、僕の気が晴れる。僕をコケにしたやつら全員殺してやる。みんな死ねばいいんだ。みんな、みんな生きているのが間違っているんだ。君もそう思わないか」
 怨霊の言葉を聞いて、ユタは口元を歪ませた。
 あるものが目に入ったのだ。ユタは軽く笑いを漏らして、そしてかすれた声を出す。
「はは。そうかもな。確かにみんな、生きているのがそもそも間違いなのかもしれない。俺もそう思ってた時期があったよ」
 なんで、父さんは死んだのに自分は生きているのか。母さんも生きているのか。そう思っていた時期があった。辛くて苦しいのに、どうして生きているのか。葬式に来た親戚たちも、どうしてみんな生きているのか。どうして生きて、泣いているのか。一番泣きたいのはきっと、父さんじゃないか。そう思っていた時期があった。
「けどさ、死んでも楽にはならないんだよ。死んでも、生きていた頃のことはみんな、なかったことには出来ないんだよ」
 ユタはそう言って、震える手を持ち上げて指をさす。丁度、斜め前なので見えた。声も聞こえてきた。
「たくみ。どうして、たくみ。どうして死んだのよぉ」
 顔をぐちゃぐちゃにして泣いている、女の人がいた。恐らく怨霊の、たくみという彼の母親だろう。警察の人と話している。
「お母さん。落ち着いて。息子のたくみさんで間違いないですね」
「はい。はいっ」
 たくみは母親の方に目を移すと、手の力を少しだけ緩めた。
「けほっけほっ」
 苦しさから逃れ、ユタは咳をする。
 バスの事故の時ミナトが伝えたかったことが、やっとわかったような気がした。死んでも、残るものがある。残された者たちがいる。哀しむ者がいる。それは、すべての死に共通するもので、殺された人も事故で死んだ人も、病気で死んだ人も自分で死んだ人も、すべてが等しく、そういう人がいる。必ず。
「生きてた証、みたいなものじゃないかな。仲間の死神が言ってた。起こることにはすべて意味があるって。意味のないことなんか起こらないって。それって自分にも、ああやって残された大切な人にも、言えることなんじゃないかな」
「ないよ。そんなもの。ない、ない、ない、ないってば。バカじゃないのかなあの人。そんな今さら泣かれたって、意味ないのに。意味ないじゃないか。だってそうだろう。僕はもう死んだんだ。そうだよ、だからもう何したっていいんだ。自由なんだ。生きてるやつみんなバカなんだよ。死んで自由になれば、なんだって自分の思い通りに出来る、好き勝手出来るのに!」
 ユタの方に向き直って、頭を両手で抱えながらたくみが叫ぶように言った。
 呆れるくらい、自分勝手な考えだった。ふざけるなと思った。
「おい、必死で生きているやつバカにするな。生きたくても生きられないやつなんていっぱいいるんだぞ。そういうやつらバカにする権利、あんたにはない」
 苛立ちを覚えて、ユタは叫んだ。もちろん、自分にもない。けれど父親のことを思い出して、ああ。あの人も生きたかったんだろうなと思った。
「生きていて、ほしかったんだ。大切な人は生きていてほしい。そう思うのは自然なことだろう。なんにも悪いことじゃないだろう」
 哀しい気持ちになって、ユタはそう言った。
 父親にも、生きていてほしかった。ユタは大好きだったから。大切な人だったから。いつまでもずっと一緒に、生きていてほしかった。
 ふいに、今度は百合子の顔が浮かぶ。彼女も同じことを言いたかったのだと、同じことを思っていたのだと気付いた。百合子はユタを大切な人だと言った。同じ時間で生きたいと言った。生きてと言ってくれた。本当はそれが、ものすごく嬉しかった。
「何、泣いてるんだよ」
 ユタは、たくみにそう指摘された。
 知らぬ間に、涙が流れ出ていた。言われるまで気がつかなかった。
 たくみが動揺しているのがわかる。
「哀しいから、泣いているんだ。あんたが、可哀想だから泣いているんだ。一人ぼっちで、きっと相談する相手もいなかったんだろうなって思って。俺もそうだったから。俺もずっと一人ぼっちで、友達もいなくて。誰も、誰も助けてくれるやつなんていなかった。俺の母親も、あんたの母親みたいに泣いたのかな。俺のために泣いたのかな」
 涙が、頬を伝って耳元に落ちる。ああ、いやだな。そんなのいやだなとユタは思った。どうすればよかったのかな。いじめられていること、ちゃんと言えばよかったのかな。お金を財布から勝手に抜いたこと、ちゃんと謝ればよかったのかな。
「何、言ってるんだよ。君は死神だろ」
 尋ねられて、ユタは頷く。
「ああ、死神だよ。元人間の死神。自殺して死んだ人間が死神になったんだよ」
 そう口にしてから、ユタは思う。
 どうすれば、自殺せずに生きられたのだろう。
「それが本当なら、どうして君は僕を止めようとしたんだ。死神がどうして、死ぬ人間を止めようとするんだ。君は自分がおかしいことをしているのに、気付いていないバカなのか」
「おかしい? 確かにおかしいかもね。でもそんなの。生きてほしいからに決まってるだろ」
 ユタの言葉に、たくみが目を丸くした。
「本当は多分、俺は俺を助けたかったんだ。あんたの姿を昔の自分と、重ね合わせていただけなんだ。なあ、あんた。あそこで泣いている母親のためにさ、本当はあんたが笑ってなきゃいけなかったんだ。あんたは、幸せになってなきゃいけなかったんだ。あんたがこのままで、誰かを憎んで殺してしまったらきっと、あの人は今以上に哀しむ。あの人はあんたのために泣いてるんだ。あんたも、あの人のために何かしてあげたいと思わないのか。せめて、ちゃんと天に昇ってやってくれよ」
 ユタはそう言ってから、鎌を持ち直してたくみに向かって振ろうとする。まだ手が震えているのがわかる。彼の目前で動きが止まる。怖くて振れなかった。
 たくみの瞳が揺れている。哀しそうな表情だった。
「どうした。切るなら切れよ。臆病な死神さん」
 たくみの挑発するような言葉に、ユタは叫び声をあげる。
「うわあああ」
 叫びながら、ユタは思いきり鎌を振った。たくみに応えるようにして。
 たくみは陽炎みたいに揺らいで、元の魂に戻っていく。黒から白へ戻っていく。
 ユタはゆっくりと起き上った。
「これは、成功したのか」
 呟いて、ユタは白い魂をじっとみつめてみる。一瞬揺れたが、すぐに上昇し始めた。
「ありがとう」
 そう聞こえたような気がして、なんだかむずがゆくなった。彼はちゃんとわかってくれたんだろうか。そう思いながら、目尻を腕で拭く。こんなふうに泣くとは思っていなかった。
 落ち着いて、百合子のことを考えてみる。ちゃんと自分で考えてみる。幸せになってほしいと言ってくれた彼女。ユタのことを大切だと言ってくれた彼女。同じ時間で生きたいと言ってくれた彼女。
 死んだことは後悔した。いつか送ったお婆さんのように、笑って死にたかったと思った。死ぬことしか考えていなかった。生きようとは思ったことがなかった。
 死神は罰だとシノが言った。自分を、人間を殺した罰だと。ユタも同じように思う。人間は死ねば、必ず誰かが哀しむ。ユタも父親が死んでしまったとき哀しかった。寂しかった。でも、それでも生きていかなくてはならなかった。父親がユタに残したものは大きく、意味のあることだった。それが今ならわかる。父親がユタの死を、こんな死を望むはずがない。許すはずがなかったんだ。たくみの母親のように、泣き叫びたかっただろう。悔しかっただろう。ユタを助けられなくて。助けてやれなくて。死んでも生きていたというあかしは残る。どうしても残ってしまう。だから誰も彼もがみんな思うのだ。生きていてほしかった、と。
「ごめんよ、父さん。俺は頑張って生きるべきだったんだ。誰かの言いなりにならないで、ちゃんと強く生きればよかったんだ。父さん。母さんを一人にさせて、ごめん」
 たくみの母親をみつめながら、亡き父に語りかける。届いているはずはないけれど、届いてほしいと願いながら。
「もし、もう一度やり直せるのなら。今度はちゃんと、大切な人のために生きるよ」
 ゲームみたいにはいかないのかもしれないけれど。それでもリトライしたいと本気で思った。ゲームオーバーのままはいやだから。
 次の瞬間、ユタの意識は途切れた。 (続く)