連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その1『友だち』」

 白井みづきはただのクラスメイトだった。友人と呼べるほど仲が良いわけでもなく、かといってまったく話をしたことがないわけでもない。挨拶を交わしたり必要なことを話したりするぐらいで、深い関わりのないクラスメイト。彼女に特別な感情を抱いたことは一度もない。私は白井さんとの距離が縮まることなど無いと思っていたし、彼女も同じことを思っていたに違いない。だから最近の彼女を見ると妙な違和感を抱いてしまうのは、気のせいだと思っていた。
「私、トイレに行ってくるね」
 学校の廊下を歩いていると、すれ違いにそんな言葉が聞こえた。一瞥すると白井さんだった。彼女は最近、よく女子トイレで会うことがある。そういう時は決まって一人だ。
「あ。じゃあ、あたしも行くー」
 白井さんと一緒にいた女子生徒の一人がそう言った。
「あの。最近お腹が緩くて、待たせちゃうと思うから」
「あー。いいよ。大丈夫? 保健室で胃薬もらってこようか」
「いいよ。そんな大したことないし」
 そんな会話を、彼女らは歩きながらしていた。私の場所から遠ざかっていく。私はいつの間にか歩みを止め、白井さんの違和感のある笑顔をつい見つめてしまっていた。視線に気付いたのか、白井さんが一瞬振り返る。私を見つけると、すぐに目を逸らした。私もなんだか気まずくてほとんど同時に逸らしたと思う。この違和感の正体が何なのか。私にはわからなかった。なんだろう。今の白井さんを見ると、胸のあたりが苦しくなる。

「それって、恋じゃん」
 幼馴染に相談したら、そう返事をされた。こんな髪の毛を茶髪にして耳にピアスをつけた悪ぶっている男に、相談なんてどうかしていた。校則違反の塊みたいなこの少年が自分の幼馴染だなんて未だに信じられない。
「これは恋愛相談じゃないわ」
 私は彼の言葉を否定する。彼は当然のようにうちのキッチンでうちの料理の手伝いをしている。彼の学校の友人が見たら、なんと言うだろう。喧嘩っ早い普段の彼に似合わないと言って、きっと驚くだろう。
「いやいや。だって、白井さんだっけ。その子のこと見ると胸が痛いんだろ。顔が火照るんだろ。それって恋じゃん」
「だから、違うわ。顔が火照るなんて言ったかしら、私」
「あっ、先にこっち頼む」
「はい」
 餃子の皮に具をのせていく私に、指示を出してくる彼。鈴木ヒロは幼馴染だ。両親は共働きで忙しいため、ヒロは昔から私の家で晩ごはんを食べることが多い。親同士の仲の良さもあってか、それが許されている。ごちそうになる代わりに手伝いを強いられているわけでもないが、いつからかこうして私の母と三人で料理をすることが恒例になっていた。
「何の話をしているの」
 私の母がジャガイモを手に持ったまま、こっちの話に割り込んでくる。
「恋の話です」
「違うわ」
 ヒロの言葉を間髪入れず否定する。これまで気になる異性はたまにいたことはあるけれど、同性には恋をしたことがない。だから恋とは違う。それだけははっきりとしている。
 母はそんな私たちの様子を見て嬉しそうに笑っていた。母はよく笑う人だ。対して、私は上手く笑うことが出来ない。ヒロには真面目すぎると言われた。上手く笑おうとする必要はないと。無理をして笑うと顔が般若みたいになってしまうらしい。
「そんなに気になるなら、話しかけてみればいいだろ」
 ヒロが半ば呆れたようにそう言った。
「それができたら、こんなに悩んでいないわ」
 困った顔をして私は言葉を返す。
「そうだな。お前、意外と人見知りだもんな」
 ヒロが核心を突く。私は否定できなかった。そもそも社交的な人間だったならば、もっと早い段階で白井さんと仲良くなっているはずだ。そうではないから、白井さんを遠くから見ていることしかできないのだ。
「本当は仲良くなりたいとか。自分と同じ匂いがするとか、思っているだろ」
「わからない」
 首を横に振る。
「お前は昔から、友だち少ないもんな」
「そうね」
 私は肯定することしかできずに頷いた。今だって友人と呼べるのはほんの二三人だ。その人たちはみんな、向こうから話しかけてきてくれた。自分から友人を作ろうと努力したことはない。その方法さえ私は知らない。
「でも。心の許せる友だちは、一人いれば十分だとお母さんは思うな。友だちって無理に作るものじゃないでしょう。少ないなら、それだけお互いに仲を深められるということじゃないかしら」
 母は優しい表情でそう言ってくれるけれど、私の気分は晴れなかった。ヒロの発言が私の胸を、針のようにチクチク刺してくるのだ。いつか風船みたいに割れてしまうのではないかとさえ思う。
「おばさんと俺の母さん。みたいな感じ?」
「そう。親友はそう簡単に作れるものじゃないのよ」
なるほど説得力のある言葉だった。けれど、親友とよべる人が私にはいない。ヒロにだっているかどうかわからない。この先、現れるのかどうかもわからない。少し不安を覚える。考えたところでしかたがないのだけれど。
 その日、白井さんのことについては結論が出なかった。

「あなたたち、何をしているの」
 女子数人に囲まれている白井さんを見つけたのは、それから数日後の事だった。私はその現場に偶然居合わせただけだった。職員室から教室までの最短ルートである中庭を通ろうとしたのだ。昼休みの終わるチャイムが鳴っていたため、他の生徒たちも教室へと移動している。そんな中で、いつまでも中庭に居座り続けている女生徒たちがいると気になってしまう。だから私は彼女たちに話しかけたのだ。しかし近づいた瞬間、気がついた。その場の空気が異常なこと。まるで白井さんを囲うように立っている女子たち。
もしかして……。と、思いたくないことを思ってしまった。そして同時に白井さんに対して感じていたものの正体がわかってしまった。
「何もしていないわよ。ただ話していただけ。ねぇ、白井さん」
「う、うん」
 強要するような態度に白井さんは頷くことしか出来ないのだと、私は悟る。見たところ白井さんの身体に外傷はない。本当に話をしていただけのようなのだが、楽しい話ではなさそうだ。白井さんの表情が困っているように見えてしかたがなかった。
「それならいいけれど。私、白井さんに用事があるの。少しだけ借りていいかな」
 物みたいな言い方をしてしまったけれど、悪気はない。本当は用事などないのだ。とにかくこの場から白井さんと彼女たちとを離れさせたかった。白井さんと二人で話がしたかっただけだ。
「別に、好きにしていいよ。じゃあまたね、白井」
 女生徒たちはくすくすと笑いながら去っていく。何がそんなにおかしいのかはわからない。誰に対して笑っていたのかもわからない。私かもしれないし、白井さんかもしれない。どちらにしろ、気分は悪い。
「あ、あの。用事って」
 彼女たちが完全に見えなくなる前に、白井さんが戸惑いながらも尋ねてきた。私は一瞬困った表情を見せてから言った。
「嫌なら、我慢せずに言ったほうがいいよ」
 私の言葉の意味をくみ取ったのか、白井さんが顔を曇らせる。
「でも、友だちだから」
 白井さんの言う友だちの意味がよくわからなかった。友だちは友だちを困らせてもいいものだろうか。私は違うと思うのだけれど。
「友だちって無理するものなの。私から見たらあなたたち、変だよ」
 私は思ったことをそのまま口に出した。先日の母の言葉を思い出す。友だちは無理に作るものじゃない。その通りだ。一緒にいるのが嫌なら、友だちでいることが辛いなら無理しないほうが楽だ。
「玉木さんにはわからないよ」
 白井さんが呟くようにそう言った。
「確かにそうだわ。私にはわからない。でも、多分私はあなたの笑った顔を見たいのかもしれない」
「どういう意味」
「さぁ。もうすぐ授業が始まるわ。急いで戻りましょう」
 私は白井さんの質問には答えずに、歩き出す。自分で気付いて欲しかった。私が教えてしまったら、きっと彼女は否定するのだから。

 夏は日差しが眩しい。身体を動かすとすぐに汗をかく。背中を伝う汗が気持ち悪い。五時間目の授業の後、みんな足早に体育館から教室へ戻ると、備え付けの冷房をつける。中学の頃は古い校舎のせいか扇風機しか置いていなかった。だからエアコンがあたりまえに置いてあるこの環境が凄いことだと思う。女生徒たちは教室で着替える。男子には更衣室がある。なんだか不公平なことだと思いながら私も体操着から制服へ着替えた。リボンを整える。
「ねぇ。誰か私の財布知らない? カバンに入っていたはずなんだけど」
 石原さんが突然、そんなことを言い出した。困った顔をしている。当たり前だ。その場にいる女生徒数人が石原さんを囲うように近づいた。私もその一人だった。
「石原さん。先生に預けなかったの。貴重品は授業の前に預ける決まりよ」
「そうだけどさ」
 不機嫌そうな顔をする石原さんを見ながら、私は思考する。普通に考えればこれは石原さんの自業自得だ。学校にはルールというものがあり、それを守らない生徒は罰を与えられる。そんな当たり前のことが彼女にはわからないらしい。
「そんなことより今は、誰が盗んだのかが問題でしょう」
私の方を一瞥して、クラスメイトの一人が言う。彼女は確か板垣さん。白井さんを囲んでいた女子の一人だ。
「盗まれたとは限らないわ」
 私は板垣さんの言葉を否定する。
「じゃあ、財布はどこにあるのよ」
「わからない。けれど、石原さんが忘れているだけで、別の場所に……」
「別の場所って? ねぇ。玉木さん。あなたさっきから変じゃない。何か隠しているみたい」
 どうして板垣さんがそう思ったのか私にはわからない。私はただ、人を疑うことが嫌いなだけなのに。どうしてそんな言いがかりをつけてくるのだろうか。
「何も隠していないわ」
「いいえ、隠している」
 板垣さんはそう言って、何故か後ろに振り向いた。
「ね、白井さん。最後にこの教室を出たのって玉木さんだったよね」
「え? う、うん。そうだよ」
 突然話を振られて戸惑ったのか、白井さんはぎこちなく頷く。
「それは私が学級委員で、先生に戸締まりを任されているからよ」
「白井さんがさっきこっそり私に教えてくれたんだけど、玉木さんが怪しい行動をしていたって」
 こちらに向き直り、板垣さんがそう言った。
「何を言っているの」
 私の声は震えていた。
 嫌な予感がする。その場の空気が変わった。今この場にいる人間の視線が板垣さんの一言ですべて私に向けられる。それはもう好意的なものではない。疑いの目だ。
「白井さん、見たんでしょう」
 もう一度板垣さんの眼が白井さんを捉える。白井さんは下を向いたまま答えない。
「勘違いよ。私は何もしていないわ」
「白井さん」
「白井さん。私はっ」
 私は何を言おうとしたのだろう。わかっていたはずだ。それでも白井さんの良心に少しでも期待してしまったのだろうか。
 全員の視線が、今度は白井みづきに集まっていた。彼女はゆっくりと顔を上げると私の方をまっすぐに見つめてこう言った。
「私、見たよ。玉木さんが石原さんのカバンを、触っているところ」
 その瞬間、私は白井さんが一番失いたくないものが何かを思い知った。それは板垣さんという友人だ。白井さんはその友人のために嘘をついた。私は石原さんのカバンなど一切触った覚えがないのだ。
 白井さんの目を見つめる。本気で言っているのかと問うように。
「えー。玉木さんが? ひどーい」
「そんな子だと思わなかった」
 などと、周りから辛辣な言葉が聞こえてくる。石原さんもこちらを睨んでいる。視線が痛い。胸の奥が、全身が小さな針で刺されたように傷んだ。
「玉木さん。石原さんの財布を返しなさいよ。盗んだのあなたでしょう」
「違う、私じゃない。盗んでなんかいないわ」
 私は首を横に振った。でも疑いの目は容赦なく、突き刺してくる。私は石原さんのカバンには一切触れていないはずだ。けれど、こうも責められると私が忘れているだけでそういう行動をしていたのかもしれないと思えてくる。
「石原さん。玉木さんの机から財布出てきたよ。これ、石原さんのだよね」
 クラスメイトの一人が、いつの間にか私の机の中を勝手に覗いたらしい。淡い黄色の財布を、石原さんに差し出した。私はそんなことあるわけないと思った。自分の目と耳を疑いたくなる。でも確かにそれは机の中から取り出されたようだった。あるはずのないものなのに。
「そうだよ。これこれ。ありがとう」
 石原さんは財布を受け取ると、ほっとしたような顔をした。私は信じられないような気持ちでいっぱいだった。盗んでもいないものが私の机の中から出てくるはずがない。これは、板垣さんたちによって巧妙に仕組まれた罠だ。そうに違いない。
「玉木さん。これでもう言い逃れはできないわよ」
「どうして」
 私は呟く。どうしてこんなことをするのか。私は板垣さんたちの気に障るようなことを何かしただろうか。考えても心当たりなどない。
「玉木さん。私に何か恨みでもあるの」
 石原さんが財布を大事そうに抱えながらそう言った。視線は敵意だ。石原さんともそんなに親しくはない。その質問は、私が彼女に返したいくらいだ。けれどもう、この場にいる全員は私が犯人だと思っている。これ以上は何を言っても無駄だろう。それに――。
 私は先程からまた下を向いている白井さんを一瞥する。白井さんは私の視線に気付いたのか、一度顔を上げようとしたがすぐに背けてしまった。その様子を見て、私は自分がこれからどうするか決めた。まずは吐くように一息する。心を落ち着けるためだった。
「あーあ。ばれてしまったわ」
 その一言を発すると、誰かが小さく「えっ」と声を出した気がした。私は構わず続ける。
「そうよ。私が石原さんの財布を盗んだの」
 はっきりとそう口にした。もちろん嘘だった。私は財布を盗んでいない。けれど、嘘をついた。さすがの板垣さんもまさか私が認めるとは思っていなかったのだろう。驚いた顔をしている。
「な、何で」
 一番目を丸くしていたのは、白井さんだった。
「まさか白井さんに見られていたとは思わなかったわ。失敗ね。何でって、私が石原さんのことを嫌いだからに決まっているわ。ちょっとした嫌がらせよ」
 私は嘘をまくし立てる。自慢ではないが、嘘をつくのは得意なほうだ。
「玉木さん」
 白井さんが、泣きそうな顔をしてこっちを見ていた。私はその目を見つめる。私が嘘をつくことで結果的に白井さんの大事なものが守られる。そう思っての行動だった。私が悪者になることで白井さんが、白井さんの大事な友だちが守られる。
「玉木さん。このこと先生に言うわよ。そうしたらあなた、学級委員じゃいられなくなる」
 板垣さんが脅すように言ってくる。
「いいわよ。けれど、石原さんも困るのでは? 財布を預けなかったのは石原さんだもの」
「な、何よ。盗んだくせに」
 石原さんが蔑みの目で見てくる。それでいいのと私は思う。これで白井さんの嘘がなかったことになる。

「はいそこまでー」 
 唐突にそんな声が聞こえて、教室の扉が開く。女子らしい悲鳴が上がるかと思ったが、突然のことに声も出なかった。皆、驚いた表情でその場に立ち尽くしていた。扉を開けたのはクラスメイトの男子。私にとっては幼馴染の、鈴木ヒロだった。
「お前ら着替えに時間かけすぎ。次の授業が始まるだろ」
 そんなことを言いながら、ヒロは堂々と教室に入ってくる。まだ着替えていた女子がいたのかはわからない。私の目はヒロに釘付けだったから。
 何で、あなたが来るのよ。そう言いたかったが言葉を飲み込んだ。心の中が安心したような気がして、不覚にもヒロに助けられてしまったことに泣いてしまいそうだった。
「ちょっと、鈴木。鍵はどうしたのよ」
 板垣さんの言葉に、そういえば。と私も冷静になった。内側から鍵をかけてあるうえに、教室の鍵は教卓の上に置いてある。外側から開けられるはずがないのだ。
「先生にスペア貸してもらったんだよ。もう次の授業始まるからって。ちゃんと声をかけてから開けるようにとは言われたけど。俺、ちゃんと声かけたよな」
 ヒロの言い分に、いや。声をかけてからと言うより声をかけながら開けたと思うけれどと心の中で指摘した。しかも「失礼します」などではない。今までの一部始終を見ていたかのような登場の仕方だった。
「はぁ? 何、余計なことしてんだよ」
 板垣さんが小さな声で愚痴を零す。続いて舌打ち。ついに本性を出したなと言わんばかりにヒロが板垣さんを睨む。
「板垣。お前らいい加減にしろよ。俺は知っているぞ」
「な、何をよ」
 ヒロの言葉に、板垣さんが眉を寄せる。
「授業が終わって一番初めにこの教室に入った奴が、板垣と石原。お前ら二人だってこと」
 ヒロはまるで見てきたような言い方をした。この人は一体何をどこまで知っているのだろう。
「それがどうしたのよ。何が言いたいの」
 板垣さんは平静を装っていたけれど、石原さんの方は渋い顔をした。
「偶然見たんだよ。玉木の机に何かを入れているところ。この状況から察するに、石原の財布だろ」
「見間違い、でしょ。ね」
 板垣さんが顔をこわばらせながら石原さんに視線を送る。石原さんは目を泳がせて、明らかにうろたえていた。
「石原は身に覚えがあるようだぞ」
 ヒロは石原さんの表情を見て、彼女から崩そうと考えたらしい。指摘すると石原さんの顔が青ざめた。
 私はヒロを見ているしか出来なかった。ヒロの行動に唖然としていたのもあるが、私がさっきついた嘘のこともばれているのだろうと思うと、その場から逃げ出したい気持ちになっていた。
「勘違いだってば。私たちは何もしてない」
 そうだよね。と板垣さんがすがるように石原さんの右腕を自分の方に引き寄せる。板垣さんも怖かったのだと思う。自分たちの嘘が暴かれることを。一方の石原さんは固まったまま、ついに顔をうつむかせた。
「大体、私たちが本当にそんなことをしたならおかしいじゃない。玉木さんが石原さんのカバンに何かをしているところを、白井さんが見ているのに」
 板垣さんが白井さんにまで助けを求める。
「玉木さんだって。自分が盗んだことを認めた」
 さらに私にまで手を伸ばしてくる。
 他のクラスメイトたちは、板垣さんの言い分を素直に信じているのだろうか。私たちのことをどんなふうに見ているのだろうか。わからない。
「もう一度言う。俺は知っているぞ。何もかも」
 念を押すようにそう言って、ヒロが私に視線を送る。私は覚悟をするべきだった。ヒロが本当にすべてを知っているのなら、私は素直に嘘を認めなくてはならない。
「私は……」
 と、重い口を開きかけた時だった。
「玉木さんは、何も悪くないの」
 不意にそんな声が聞こえた。私は驚いて、その声の主を見る。白井さんが泣きそうな顔をしながらも、胸の前で拳を作ってなんとか耐えているようだった。
「白井さん?」
 何を言うつもりなのと問いたかった。けれど白井さんの勇気を妨げてはいけない様な、そんな気もする。
「白井、ちょっとあんた」
 板垣さんが、真実を言おうとしている白井さんを止めようとする。
「黙って」
 その板垣さんを止めたのは意外にも石原さんだった。板垣さんは信じられないものを見たような表情で彼女に視線を送っていた。
「もうやめようよ、板垣。大体、私は最初から乗り気じゃなかったんだ。こんなこと」
「今さら何よ。あれを言い出したのはあんたじゃない」
「あんなの冗談に決まっているじゃない。本気でやろうとは思ってなかったの」
『あれ』や『あんな』が何を指すのかはわからなかったが、これだけははっきりとしていた。石原さんがこっちの味方になろうとしている。
「言っていいよ。白井さん」
「ふざけんなっ」
 板垣さんは叫ぶと、石原さんの腕を乱暴に引き離す。そのことに石原さんは苦い顔を見せたが文句の一つも言わなかった。自分が板垣さんを裏切ったことに対する後ろめたさがあったのだろうか。
「白井さん。余計なことを言ったらどうなるかわかっているよね」
 笑顔を取り繕って、板垣さんが白井さんの方を見る。
「本当のことを言え、白井。このまま黙って玉木を犯人に仕立てあげる気か。玉木が何でお前の嘘に乗ったのか、ばかじゃないならわかるはずだ」
 強い口調でヒロが言った。本当にヒロは何でも知っているし、全てお見通しらしい。けれども私は白井さんを攻め立てる気などこれっぽっちもないのだ。もしもこのまま彼女が何も言えなかったとしてもだ。
「私は、何も見てないの。だから、玉木さんは何も悪くない」
 白井さんの声はとても小さくて震えていた。
「板垣さん。ごめんなさい。私はもう嘘をつきたくない」
 白井さんが言いながら、手で涙を拭っていた。彼女は泣いていたのだ。
「何よそれ。まるで私が悪者みたいじゃない」
 板垣さんは眉を吊り上げてそう言った。
「悪者なんだろ。少なくともこの場においては」
 クラスメイトたちは誰もヒロの言葉を否定などしなかった。周りを見ると、みんなが板垣さんを哀れみの目で見ていた。
「ごめんなさい」と、白井さんが言う。泣きながら何度も謝るのだ。私はそんな白井さんを見ていられなくて、ハンカチをそっと差し出した。
「え?」
「あなたはただ、友だちが大事だったんでしょう。何も間違ったことはしていないわ」
 首を傾げる白井さんに対して、私はそう言って微笑んでみせる。だからもう泣かないでと願いながら。白井さんは私のハンカチを手に取ると眉をひそめてこう言った。
「玉木さんは、優しいのね」
 私は否定も肯定もしなかった。
 その直後にチャイムが鳴り、授業のためにやってきた先生がその場を修めてさっさと授業を始めてしまった。先ほどの騒ぎが尾を引いてか、いつもよりおしゃべりの多い授業になってしまったのは仕方がない。騒ぎの中心にいた私と白井さんと板垣さんと石原さんは、誰ともしゃべらなかった。とてもそんな気分にはなれなかったのだ。
 
 放課後。私は荷物をまとめていた。この後は委員会があるのだ。
「玉木さん。ちょっといいかな」
 そう言って目の前に現れたのは、ヒロと板垣さんと石原さんの三人だった。
「何? あまり時間がないのだけれど」
 カバンの蓋を閉じながら言う。
「大丈夫。一言だけ伝えに来ただけだから」
 と石原さん。財布のことだろうなと察しはついていた。無理やり連れてきたのではないかとヒロを疑いの目で見るが、肩をすくめてごまかされた。
「勝手に犯人にして、ごめんね。本当にごめん」
 石原さんが頭を下げる。
「ごめんなさい」
 あんまり反省していないのだろうなと思う声色で、板垣さんも謝ってきた。
「私より先に、白井さんに謝るべきよ」
 思ったことを口にした。
「あんたねぇ。人が謝っているのに何なのそれっ」
「まぁまぁ」
 何故か怒りだした板垣さんを、石原さんがなだめる。
「気持ちがこもっていないように思えるけれど」
「土下座でもしろってことかしら」
「したければ、どうぞ」
 ちゃんと反省をしているならもう少し優しい対応をしたが、していないようなので冷た
くあしらう。
「鈴木。私、この子とはどうもそりが合わないらしいわ。話しあえば分かり合えるって言ったわよね」
「俺に当たるな。こいつはちょっとひねくれているだけでだなぁ」
 ヒロの言葉に私は機嫌を損ねる。ひねくれていて悪かったな。
「そろそろ行くわ」
 そう言って、私はカバンを肩に掛けて歩き出したけれど、言い忘れたことがあるのを思い出して立ち止まる。
「そうだ。私からも一言」
「何よ」
 私は板垣さんの嫌そうな顔を見る。
「白井さんのこと都合のいいように利用しないで。あの子は貴方たちの所有物じゃない。あの子は貴方たちの友だちよ」
 言い終わると、私はさっさと歩き出す。自分の言葉が胸を突き刺していた。いつも私は気づくのが遅いのだ。ヒロの言ったとおりだった。私は白井さんと、友だちになりたかった。
「玉木さん!」
 後ろから叫ぶような声がした。私は立ち止まる。振り向くと、少し遠くから廊下を歩いてくる白井さんがいた。
「玉木さん。あのね。私、もう無理はしないことにしたの」
 白井さんの言葉に私は首を傾げる。白井さんが私の目の前で立ち止まり、握手を求めてくる。
「だから、あの。私と」
 恥ずかしそうにそう言って、顔をうつむかせる。
「私とっ」
 まさかと思って私は目を丸くする。白井さんと少し離れた後ろから歩いてきているヒロと何となく目があった。ヒロは何も言わずに右手の親指を立てていた。

「友だちになって下さい」 (つづく)