掌編小説「家族の絆」

  芳江は泣いていた。悲しくて、夕食を取ろうとして箸をもった手も動かない。先刻から強い口調で繰り返し罵倒する夫の卓郎の言葉が、芳江の耳もとでガンガンと鳴り響いていた。以前から卓郎の文句にはすでに慣れていたが、それでも毎晩、毎晩、繰り返されるお説教をただ、黙々と言い聞かされると、やはり身体の芯までこたえてくる。なおも卓郎は喋りつづけている。
「分かっているのかよ。このジャガイモの煮付けのことだよ。前にも言ったじゃないか。俺はもっと甘い味付けにしろって言っただろう。まさか、これ、塩でも入れたんじゃないだろうな。それにこの豚肉も硬すぎるしさ。イモも砕けて台無しだよ」
 ついに芳江の食欲が消えてしまった。芳江は箸をゆっくりと卓上に置いた。卓郎が言う。
「それに俺、赤味噌は嫌いなんだ。ふん、この味噌汁、飲む気がしないな。味も変だしさ。ほかに何か、うまい料理、ないのかよ。おい、芳江、いいから缶ビールを取ってくれよ。そいつで腹をふくらすから」
 芳江は、ぼんやりと、うわの空で冷蔵庫の缶ビールを卓郎に手渡した。向かいの席でご飯をパクついている娘の久美は、あたしは知らないわっていう冷たいそぶりで平気にしている。ああ、本当にやりきれないわ、という気持ちで芳江は思わず大きく息を吐いた。また卓郎が芳江をジロッと睨みつけて言った。
「ああ、それにさ、今日、会社に着ていったワイシャツなんだけど、袖口が汚れたままだったぞ。俺、昼休みに会社の屋上でボール遊びして、うっかり袖をまくって皆に思いっきり恥をかいたんだぜ。頼むから、もっとよく洗ってくれよな。それから…」
 これ以上、耐えられない、と芳江は立ち上がると、無表情なまま、自分の食器を両手に持って台所に向かった。居間を去っていく芳江の背中から、卓郎がぶつぶつと愚痴をこぼしているのが、まだ聞こえていた。
 暗い台所で、芳江の洗い物はもうすぐ終わろうとしていた。水道の水がとても冷たく感じられる。居間からは、くつろいだ卓郎と久美の笑い声が聞こえてくる。また芳江はため息をついて、ふと洗い物をしていた手を休める。芳江は考えごとをしていた。甘くない煮付けに、味の変な味噌汁。さまざまな思いが、芳江の頭を次々とかすめていく。やがて漠然とした考えが、ゆっくりと姿を変えてひとつの思いに固まった。
 やや落ち着きを取り戻して、やさしく水道の蛇口を閉めてから、濡れた両手をタオルでぬぐう。そうよ。それでいいんだわ。それでまた生活を変えてしまえばいいのよ。難しいようで、とても簡単なことだわ。そう、たしかに私は今でも卓郎を愛している。彼のためなら何でも尽くしたい。でも、あの、罵るような言い方は、もうとうてい我慢できない。芳江は強く決意すると、急いで白いエプロンを脱ぎ、それを丸めて置き、二階にある自分の部屋に向かった。あの大きなトランク、たしか、押し入れにあったはずね、それに荷物をまとめなければ。さあ、急がないと。

 翌朝、妻の芳江が家から消えていることに気づいて、卓郎はパジャマ着のままで気が動転していた。最初は何かの勘違いかとも思ったが、靴箱から外出用の芳江の靴がなくなっていることで、いよいよ卓郎の不安は激しく、つのっていった。奥の部屋から、寝ぼけた久美が居間に出て来ると、すばやく事情を察知して困ったように眼をパチクリさせていた。卓郎は困惑した表情で久美に訊いた。
「母さん、どこに行ったのか、まさか、お前は知らないよな」
 久美はポカンとした様子で、
「全然…あたし、昨日は早く寝たから何にも知らない。母さん、消えちゃったの」
「消えたって、お前、これ大事件だぞ。困ったな、母さんが出かけた理由でも分かれば、まだ捜しようもあるんだがなあ。久美、お前、何か、心当たりでもあるか」
「ふーん、母さんが家出する理由よね。難しい。でも、あたし、少し、考えてみる」
 そう言い残して、久美は逃げるように奥の部屋へ駆け込んでいった。プカリと煙草を吹かしながら、卓郎は考えていた。芳江のやつ、もしや何かの事件に巻き込まれたのだろうか。たとえば、ニセの電話にだまされて、連れ出されて暴行を受けたとか。それとも誘拐されて、身代金の電話がかかってくるのか。それとも単純に芳江の実家で何かあって、急いで帰郷した可能性もある。そうかもしれない。いきなり電話の受話器を取って、卓郎は妻の実家に電話を入れた。しかし、妻は来ていないとの返事が返ってきた。それで逆に不審そうに、実家の義父が、何かあったのかと問い返してきたので、あわてて言葉を濁して卓郎はその場を誤魔化すと電話を切った。
 となると、芳江が突然、夢遊病の患者になっていない限り、やはり何かの事件に関わってしまったのか。苛立った卓郎の前に置いた灰皿が、煙草の吸い殻で山積みになった。とうとう、卓郎は覚悟を決めて、行方不明捜索で警察に電話をかけた。しかし、結果として警察は、この危急時に間に合わないと分かった。電話に出た担当者は、ひとまず家出人の捜索願いを提出して欲しいというのである。電話でのやり取りもそこそこにして卓郎はまた電話を切った。
 これでは、いよいよ埒があかない。卓郎は自分の書斎に閉じこもると、アンティークな机の前で、しゃれた砂時計をいじりながら、あれこれと思案していた。そこへ扉がノックされて娘の久美が現れた。よくみれば久美が困った顔をして佇んでいる。心配になった卓郎が優しく声をかけた。
「どうしたんだ、久美。もう、学校へ行く時間だろう。さあ、早く支度しなさい」
「父さん、あたし、この写真を見つけたの。この男の人、誰なの」
 久美が片手にちいさな写真を持っている。卓郎が問いただした。
「誰なのって、お前、その写真をいったい、どこで見つけたんだい。何のことだ」
「母さんの部屋で見つけた。昨日の晩に、母さん、この写真をじっと見つめてるのを、あたし、こっそり覗いていたの」
「昨日の晩だって。それで、母さんは、その写真の男を見ていたんだな、ふん、どれどれ」
 長髪で面長な顔立ちだが、まずまず精悍な印象の男性の顔写真だった。みれば、左の口もとに大きなホクロがある。おやっと思ったのも仕方がない。以前にどこかで知っている男のような気がしたからだ。だが、思い出せない。誰だったろう。しかし、卓郎の考えを突然、久美の声が遮った。
「それで思い出したんだけど、えっと、何日か前に、母さん、居間の電話で男の人と話してるのを聴いたんだ。母さんが、お願い、今日の何時にどこそこで会いたい、とか何とか言ってたよ。ねえ、それって母さんが消えたのと関係あるのかな、父さん」
「いいかい、久美。お前はあまり心配しなくていいから、早く学校に行きなさい。あとは父さんが何とかする。母さんのことは、この父さんに任せておきなさい。ほら、早く支度して」
 しぶしぶに久美が去ったあと、やや呆れた気持ちで、卓郎は久美の話を想い返していた。それにしても、あの真面目な芳江に不倫の相手がいたというのは、到底、信じられぬことであった。それに、以前から、密会していたとは、芳江の様子からはまったく窺えないことだった。なんて思いがけない展開なんだと、卓郎が心でつぶやいた時、書斎の鳩時計がけたたましく午前八時を告げた。卓郎の出社する時間が来ていた。

 その日の午前中は、芳江のことで頭がぼんやりして、部長に三度ほど叱られていた。まったくと言っていいほど、仕事が手につかない。デスクに置いたノート・パソコンの画面ではエクセルで作成した棒グラフのデータが表示されていたが、その上を、卓郎の視線が頼りなく泳いでいる。ふとした拍子に、卓郎はオフィスの壁掛け時計に視線が移った。そこで卓郎は昔に思いを馳せた。やがて過去の想い出が、いくつか交錯していく。青春時代。懐かしいキャンパス・ライフ。同級生だった芳江との出会い。そこで、いきなり、ハッとひらめいて卓郎はデスクの引き出しから、先刻の写真を取り出してみた。やはり、間違いなかった。ようやく思い出したのだ。その男性は、卓郎の大学時代の同級生の桑田だ。桑田の口もとのホクロもよく憶えている。なんということだ。そう、芳江は桑田とも仲がよく、放課後のデートもたびたび重ねていた。もしかすれば。こうしてはいられない。
 こっそりと部長の眼を盗んで、卓郎は大学の事務局に電話で問い合わせて、桑田の現在の住所を訊き出すのに成功した。なんと彼は、今、大阪に在住していた。詳しい住所は手もとのメモ帳にしっかりと書き込んである。これでよし。さあ、善は急げ、だ。その時、卓郎の頭のどこかで引っかかるものがあったが、それも分からずに卓郎は、焦る気持で早退願いを記入していた。「体調不良のため」と理由を書き込んで、部長に提出すると、何やら怪しげに卓郎を見上げてから、しぶしぶといった様子でようやく押印してくれた。背広の襟もとを正して気合いを入れ、グイと鞄を握り締める。さあ、大阪だ。そこで卓郎は、背中を丸めると、もう一回、財布の中身を確かめて、交通費に充分な金額があることを確認してからオフィスをあとにして、一路、上野駅へと向かった。
 大阪へと向かう新幹線の自由席は、平日の昼間ということもあって、比較的、客の姿も少なく、静かで居心地がよかった。背広を脱いで折りたたみ、荷物棚に上げると、窓際の座席に身をおいてボンヤリと外の風景に眼をやる。何だか、ちょっとした旅行に出かける気分だな、と車内の雰囲気にうっとり甘えている所へタイミングよく女の子が弁当の販売にやって来た。ようやく、昼飯にありつけるな、と卓郎は売り子に威勢良く声をかけた。
「ああ、君、焼肉弁当と、お茶をひとつ頼むよ。悪いね」
 すると販売係の娘は、むっとした表情をして冷たい口調で答えた。
「申し訳ございませんが、ただ今、焼肉弁当は販売しておりません。こちらの幕の内弁当でよろしいでしょうか」
 出鼻をくじかれたようで気分が悪い。しかし、ないものは仕方ない。やれやれと諦めて、購入した幕の内を手にして止めてある輪ゴムを外そうとした。そのとき、突然、後ろの席で大きなくしゃみの声がして卓郎はびっくりして飛び上がった。その弾みで、持っていた弁当を床に取り落としてしまった。一瞬のうちに、昼ご飯は水の泡となった。
 情けない気分で、缶ビールをチビチビと飲み、フライドポテトを口に運んでいるうちに、女性のアナウンスが入り、いつの間にか新幹線は新大阪駅に到着した。改札を出て、そのままタクシーを拾う。タクシーの扉を閉めると、調子よく、前にいた年配の運転手が卓郎をふり向いて声をかけてきた。
「へえー、お客はん、ええ背広着て、格好よろしおまんがな。バリバリでんな。何やろ、今日は会社の出張でっか。わしら、タクシー転がしてる連中も大変やけど、こんな暑い日中に、どうも、お仕事ご苦労さんです。東京から来はったんですか。しんどおましたろ。クーラー効いておますから、どうぞお気楽に。そうそう、ラジオでも聴きはりますか。ああ、東京はんやったら、プロ野球はやっぱり巨人ファンでんな。わしら、阪神ファン、最近は、連敗続きで、もういかれこれですわ。そうそう、野球ゆうたら」
「早く車を出してくれ。住所はこの紙に書いてあるから」
 と、卓郎は憮然として、メモ書きを運転手に差し出した。運転手はメモを受け取ると、しばらくそれを穴が空くほど覗き込んで声を上げた。
「へえー、芦屋でっか、一等地でんな。しかし、お客さん、これやったら神戸でんがな。かなり遠おまっせ。こんなこと言うたら何やけど、電車で行ったほうが安くつきますで。へえ。かまいまへんか。わかりました。ほな、猛スピードで行きますわ」
 やがてタクシーは高級住宅街の一角で停止した。なけなしの一万円札を使って料金を支払って、よっこらと卓郎はタクシーを降りた。すると景気のいい演歌の曲を流しながら、元気よくタクシーは去っていく。卓郎のすぐ前で、門構えの立派な日本風の邸宅が建っていた。表札を見れば、「桑田」としてあるから、ここに間違いない。それにしても豪華な屋敷だ。
 あの桑田がこんなに出世したとは、まったく驚きだった。しかし、東京に住んでいる芳江のことを考えると、これではかなりの遠距離恋愛になるではないか。東京と大阪の間で密会するのも実に難儀そうに思える。どうもおかしいぞ。ようやく卓郎はある直感が閃き始めていた。しかし、とりあえず、卓郎は広い玄関のインターホンを押して返事を待った。

「おう、お前か。懐かしいな。うん、俺は現在、ベンチャービジネスを起こして一儲けしたところだよ。食品業界だけどね。電子レンジで一発の、お惣菜を宅配する会社なんだ。最近は売り上げもなかなか伸びてきてね、今度は「レンジでラーメン」って企画をしたんだが、スタッフからは、案外と不評でね、それでまた新企画を練ってるところなんだ」
 和服姿の桑田が、威勢良く玄関まで現われていた。昔から相変わらずの長髪だが、話の強い口調には、彼の自信がみなぎっているようだった。口もとのホクロはそのままだ。それで卓郎は芳江のことを思い出し、いざ速攻で芳江のことを問いかけた。
「うちの芳江なんだけど、おかしなことに今朝から急にいなくなった。あいつが家出する理由もないのにさ。それで、変に思うだろうけれど、あいつの部屋に、なぜかお前の写真が残されていたんだ。まさか、お前、芳江と何かの関係はないだろうな」
 桑田は目を丸くして驚いたようだった。卓郎の言葉にうろたえたような口調で、桑田がしどろもどろに弁明した。
「あの芳江が蒸発したのか。ふむ。でも俺が彼女に最後に会ったのは、たしか、卒業記念コンパの時だぜ。それはお前も知ってるだろう。それに俺は過去で、あいつにフラレたんだ。そこまで未練がましい性格じゃないよ。俺は関係ない。何かの間違いだよ」
 彼の言葉には、確かにかなりの真実味がこもっていた。どうやら、彼の話に間違いはないようだと、卓郎は確信した。それで卓郎が黙り込んでいると、急に玄関の頑丈そうな扉が開いて、なかから清楚な感じの和服を着た若い女性と、幼い男の子が出てきた。その女性は、卓郎に軽く会釈すると子供を連れて、玄関の隣にあるガレージに向かって行った。桑田がやや照れたように小声で言った。
「あれが俺の女房と息子だよ。あいつは、いい妻だ。俺がここまで出世したのも、あいつのおかげでね。実家がけっこうな資産家なんだ。この屋敷だって」
「なるほどね。よく分かったよ、迷惑かけてすまない。本当にありがとう」
 今日は暑い日だった。ふと、どこかの軒先から、チリンと風鈴の鳴る音がした。

 帰りの新幹線の窓の外では、すでに夜景が広がっていた。暗闇のなかを、カラフルなネオンライトが次々と流れていく。まるで流れ星の集団のようだった。そして卓郎といえば、座席に深く座り込んでグッスリと眠り込んでいた。今日、一日の疲れがどっとあふれ出して突然の睡魔が襲ってきたのだ。グウグウといびきをかいて眠る卓郎の隣の席では、ちいさな女の子がロリポップを舐めながら、不思議そうな顔をして卓郎をジッと見上げていた。
 アナウンスが流れてからしばらくして、ハッと卓郎が、眠りから目覚めた。新幹線の車内は人も少なく、あわてて窓からホームを覗くと、そこは「東京駅」となっている。慌てて、背広と鞄を片手につかんでホームに飛び出る。その背中で、スーッと新幹線の扉が閉まる。ぎりぎりセーフだ。あらためて眠たい眼をこすりながら、ややフラフラとした調子で、卓郎は、帰宅のために改札口へと向かった。
 自宅の書斎に閉じこもって、ひとり卓郎は頭を抱えながら、何度も、消えた芳江に対して懺悔の言葉を繰り返していた。すまない、芳江。俺が悪かった、芳江。許してくれ、芳江。頼むから帰って来てくれ、芳江。本当に反省している、芳江。などなど。
 それから、芳江のいない一週間が過ぎた。その間、有給休暇を取っていた卓郎はジャージ着のままで、汗臭く、無精ひげも伸びてきた。そしてどうしようもない絶望感で、彼の気持ちは押しつぶされそうになっていた。そんな卓郎を、娘の久美は少し距離をおいた感覚で冷静に見つめているようであった。そして八日目の午後になって、ようやく苦悩の日々は終わりを告げた。妻の芳江が、無事に帰宅したのである。

「ただいまー。あーあ、帰りも長い旅で本当に疲れたわ。特急列車で四時間なのよ。クタクタになっちゃった。ああ、あなた、悪いけど、少しここで休ませてくださいね」
 居間の扉を空けたまま、綺麗なピンク色のワンピースを着た芳江が、巨大なトランクを傍にして現れた。卓郎は飲んでいた缶ビールの手が止まり、久美は読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。眼を丸くした卓郎が、あまりのことに唇を震わせて言った。
「ただいまって、お前、今まで、いったいどこに行ってたんだ」
「どこって、だから、これに参加してたのよ」
 と言うと、くたびれた感じで芳江は手にした一冊のパンフレットを、卓郎のほうへ投げて寄こした。風情ある海辺の写真を背景に、派手に大きな文字で「家庭料理の特訓・奇跡の一週間合宿」と書かれてある。芳江が卓郎を咎めるような口調で言った。
「だって、あなた、いつでも私の料理を責め立てたじゃない。だから、これじゃいけないと思って、あれこれ悩んだ挙句に、私、家出するような覚悟で合宿に申し込んだの。この合宿ね、予想してよりもかなり格安の費用だったのよ。あなたに合宿のことを相談しても、きっと反対するって分かってたから黙って出た。それに、あなたが私のことを心配してくれてるのも少し嬉しいしね。でも本当にごめんなさい。今晩からはビックリするくらいの豪華料理を準備するから待っててね。さあ、がんばるわよ」
 しばらくの沈黙の後で、卓郎はゆっくりと久美のほうに向き直ってから、脅すように声を落として訊いた。
「おい、例の写真と電話の件はいったいどういうことなんだ、久美。正直に言うんだぞ」
 今にも泣き出しそうな気持ちで、口を尖らせながら久美が言い訳した。
「だって、お父さん、いつも母さんを泣かせてたから、あたし、少し意地悪してやろうと考えて、あんな嘘をついてしまったの」
 いっぺんに全身の力が抜けたように、卓郎はその場でへたり込んだ。ああ、それでは俺は何のために今まであんなに悩んでいたのだろうか。すべてに呆れてため息が出てきた。そして、しょんぼりと気落ちし、肩の力が抜けた卓郎は煙草に火をつけて、フウと煙を吐いた。やけにタバコの煙が眼にしみてくる。えいと腕組みをしたが、あまりの馬鹿さ加減に、また卓郎はガックリと首をうなだれた。
 その晩、隣の家の庭にいた飼い犬のポチは、垣根越しに卓郎の家の居間から漂ってくる甘い匂いに誘われて、ふと窓を覗いた。中からは、食卓を囲んで、とても楽しそうに談笑している家族三人の姿が活き活きと映っていた。どうやら夜の家族団欒の時間らしい。ポチも一声「ワン」と吠えて、鼻をクンクンさせて旨い匂いに、自分のエサはまだかなと首を傾げていた。   (完)