一匹文士、伊神権太がゆく人生そぞろ歩き(2021年10月~)

2021年10月28日
 木曜日早朝。午前4時を過ぎた。私はこうして、また書き始める。昨夜早く。このところの亡き妻の後処理の疲れもあって。遺影の傍らで眠ってしまった私。その耳に、おまえの大好きだったあの低音の魅力、フランク永井さんの声がラジオから流れてきた。ふたりで何度も何度も聴いてきたNHKのラジオ深夜便。そのなかの<ニッポンの歌、心の歌>だった。それも西沢アナウンサーの名調子による司会つきで、である。

 私は思わず深夜便のボリウムを上げラジオを遺影に近づけ傍らで懐かしい歌の数々を共に聴く。【公園の手品師】【おまえに】【霧子のタンゴ】【君恋し】。おまえは、フランク永井さんの歌がホントに好きだったよね。入退院を繰り返していたある日、無口なおまえには珍しく「ねえ、フランク永井の【おまえに】と【WOMAN】を聴きたい。きかせて」と言われ、スマホのユーチューブを耳元に近づけ、共に聴いたことが何度かあったよな。
 ハーモニカで【公園の手品師】や【俺は淋しいんだ】を、枕もとで【夕焼け小焼け】【ふるさと】【琵琶湖周航の歌】【仲間たち】などと一緒に、何度も何度もふいた。おまえが元気に立ち直る。ただそのことだけを願って、だ。でも、今は何もかもが幻になってしまった。おまえは俺にとっては歌の文句にある「初めて会ったあの日から 私の心を離れない」存在そのものだった。わたしの隣では舞の宝物シロちゃんも一緒に深夜便を聴いている。なんだかシロの目に涙がキラリ光った気がする。さあ、いこう。立ち上がろうよ。おかあさん、オカンが心配するよ、と言っているようだ。

 昨年、入院中に送られた寝間着をはおってホントにうれしそうだったたつ江(舞)
 
 
 

 きのうの水曜日。27日。一日一日が無情な火となって、目の前を通りすぎてゆく。たつ江、すなわち俳人で歌人でもあり、リサイクルショップ「ミヌエット」の店主でもあった伊神舞子が旅立ったのは今月15日だった。もう13日がたとうとしている。二週間近い。彼女がいなくなってからのわが家は、それこそ火が消えたも同然。悲しく、辛く、悔しい日々の連続である。いったん生前の彼女を思い出したら、それこそ涙が止まらなくなってしまう。
 かつて中部日本海地震や三宅島噴火、長崎大水害、長良川決壊、嬉野豪雨禍など数え知れないほどの災害はじめ、長野富山連続女性誘拐殺人、長良川木曽川リンチ殺人など数々の凶悪事件にサンズイ(汚職)など現場取材を何度も繰り返し、チョットやそこらでは動揺しなかった、うろたえなかったはずの私だが。今回だけは何ということだ。妻の死、という強烈パンチに泣き崩れ、何かこん棒みたいなもので全身を何度も叩きのめされている。そんな錯覚すら覚えた。 

 私にとって、おまえの死こそが、これまで生きてきた人生最大の大事件であることを改めて思い知らされたのである。いやいや、私だけではない。この世は、ほかにも病気、事故、災害、時によってはおろか極まる戦争などで多くの人々がきょうも大切な命を落とし、私たち家族と同じように肉親との別れに耐えつつ、それこそ悲しみの道を生きていくのである。
 そして、ここ二年近くというものは、だ。新型コロナウイルスの感染拡大で繰り返された緊急事態宣言。そうした未曽有ともいえるコロナ禍の時代の収束に合わせるかの如くわが妻たつ江、舞は人生の最期にそうした痛烈なる現実の厳しさを教えてくれたのである。安らかな死を優先しながらの、まるでレールでも敷かれたような緩和病棟への階段と現実。死への道行き。言葉少ないおまえは多くの痛みに耐えながらも、不平ひとつ言うでなく旅立っていった。

 はるこさんから届いた梅をおいしそうに口にした。おまえは、なぜか和歌山が大好きだった。つい、1カ月ほど前のことである。
 

 私はこれからもおまえの写真を永遠に持ち続ける。おまえは私の心の中で生きていく
 

 家族葬を終え、二週間近い。ここ数日の間にも、おせわになった近所の方々などがわざわざ「大変だったですね」と気遣い、遺影を前に焼香しに来てくださった。きょう(27日)は、おまえが生前、人間的にも文学史的、理論的にも信頼を寄せていた出版社の方までがご夫妻でお参りしてくださり、なんてお礼を申してよいのやら。あふれ出る涙をこらえるのに大変であった。私は夫妻に舞が残した白猫俳句は千四百句に及ぶことを話し、夫妻には妻に替わって席に出た愛猫シロちゃん(「白」の俳号を持つ俳句猫。本名はオーロラレインボー。舞は〝白狐のシロちゃん〟と呼び、かわいがっていた)とも対面していただいたのである。「あらっ、このこがシロちゃん。シロなの。なんて美しくかわいい猫ちゃんだこと」とおまえも知る美しい奥さまからお褒めの言葉までを頂いた。

 今は悲しみを乗り越え精一杯に生きるシロちゃん
 

 焼香をしてくださる、その光景を目の前に。そこには「ありがたいこと」と感謝し「おまえの作品世界は、この世に永久に残すからな。いいね。見ているのだよ」などと遺影を前に心の中で手を合わせ叫んでいる。そんな、わたくしがいたのである。ところで、これら遺品の数々とは別に、このところは、残された息子らとともに死亡届はじめ、戸籍からの除籍、生前の銀行口座の確認と整理、名義替え、その他ノートやスマホ、歳時記、国語辞典、俳句雑誌などのチェック、お世話になった介護タクシーなどへの支払い、生前の動画や作品(俳句と短歌)、写真収録を少しずつ始めてもいる。
 作業を進めながら俳句や短歌に関するものがいかに多く、彼女が死の寸前までこれらの文芸に情熱を込めていたか、が手に取るようにわかるのである。息子によれば、ここ数年の間、母である伊神舞子がタブレットを手に、打ち込んできた白猫俳句となると、前述のとおり1400句以上に及んでいる。辞世の句は【白猫の俳句九月二十三日 秋一日絨毯と飛べ我が部屋ごと】で、入退院を繰り返していた舞が自宅療養中のベッドで最後の日々を過ごしていた、まさにその時に詠まれた歌だった。

 思うに、彼女は正岡子規が晩年を過ごした、あの子規庵にも似た自室で、既に間近に迫った死を意識しての作句生活が続いた。そんな気がしてならない。舞よ。まい、マイ。おまえの死はホントに潔かった。それと、もう一句、おまえが晩年につくった俳句【水鉄砲ひかりあふるる空ねらふ】と【赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり】も忘れるわけにはいかない。

 作句づくりに挑む こんな時もあった。
 

 最後の緊急入院を前に、過ごした子規庵にも似た舞の部屋。ここに介護ベッドが置かれ、舞は「自分ひとりで行けるから。寝ていてよ」と夜中に鬼気迫る表情で車いすに乗って渾身の力を込め、トイレとベッドの間を往復。深夜未明に何度も倒れそうになり(実際に倒れたことも何度か)、そのつど私たちは「もう、だめか」と思った。それでも舞の口癖は「だいじょうぶ。大丈夫だから。寝ていてよ。寝なきゃだめでしょ」だった。

    ☆    ☆
 25日。朝から雨。小雨が泣くように大気を震わせ、シトシトと降っている。たつ江、伊神舞子が亡くなってからはずっと晴れだったのだが。けさ、とうとう10日目になり、小雨が降り始めた。舞は、死後の各種手続きに追われる私たち家族のために、これまで雨を降らさないでくれたのだ。そんな気がする。
 私は正岡子規の子規庵にも似た舞の部屋の一部分にバケツを置いた。強雨になると、天井に時に雨漏りがする場所があるためである。舞がどこまでも愛してやまなかったシロちゃん(「白」の俳号を持つこの世で、ただ一匹の俳句猫。本名はオーロラレインボー)も何やら忙しそうにウンウンニャンニャア~ンと時折、泣き声をあげながら亡きおかあさん、オカンが住み慣れた部屋内の安全でも確かめるように歩いている。「おかあさんがいない世の中なんて。ないも同じである。なあ~、シロ。シロちゃん」と私(10月25日 月曜日)

 おまえの匂いを少しずつ少しずつ消してゆく。でも、とてもきえっこない。むしろ、おまえの匂いばかりに包まれ、囲まれている自分を感じている。たつ江、マイ、舞。元気でいるか。今はどこにいるのか。
 ずいぶん昔の話ではあるが。三重県志摩半島で記者生活をしていた俺のもとに、おまえはよくぞ着の身着のままで飛び込んできたよね。いまは、おまえの部屋におまえがどこまでも大好きだった秋の日差しが注いでいる。俺は先ほど不燃物のゴミ出しに車で行ってきた。いつだって傍らの助手席にいてくれたたつ江。その相棒がいないゴミ出しだなんて。とても信じられない。ああ、なんと。なんと、この世は無情なのだ。「だいじょうぶ。だいじょうぶよ、心配しないで」と、どこからか。いつもの声が風に乗って飛んできた。

 さわやかな秋のかぜだ。白狐のシロちゃんをつい先ほど(お外に)出したが、おそらく、どこか知らないがおまえのところに行っているに違いない。さわやかな秋風だ。俺はここで呼んでみる。シロよ、シロシロ。シロちゃん、と。たつ江はどこ? おかあさん、オカンはどこなの。そうか。ふたりで姿を消したまま日向ぼっこをしているのか。シロよ、シロシロ。シロちゃんと呼ぶ舞、たつ江の声が一陣の<かぜ>に乗って飛んできた。
 夕方。平和堂からの帰り。車を運転しながら、俺は生きている。生きているのだ、と心の中で繰り返す。ということは、おまえも生きている。こうして運転している車の助手席におまえはいつだっているのだ。なあ~、そうだよな。行こう、いこうよ。前に進もう。(10月26日 火曜日)
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 28日付朝刊の見出し。
【「別姓容認 家制度絡み世代差 同姓の「嫁」しかダメ? 20代女性「生きやすい選択制を」 国会・司法 遅々と進まず】【リニア工事崩落1人死亡 1人骨折】(中日1面)【インフル 油断は禁物 コロナ拡大の昨季患者数激減 人流活発化の今季流行リスク ワクチン供給量例年並みの見通し】【核廃絶訴えた「ピカドン先生」 被団協の坪井直さん死去 96歳 願いオバマ氏と共有 「ネバーギブアップ」信念に先導】(同軟派社会面)
【布マスク8200万枚未配布 政府調達 保管費用6億円 会計検査院指摘】【坪井直さん死去 被団協代表委員 核廃絶へ尽力 96歳】【オリックス25年ぶりV】【対中 広がる「経済安保」 <政策を問う 2021衆院選>】(毎日1面)

2021年10月22日
 わたしのかわいい、その存在がひそかな自慢でもあった妻伊神たつ江、伊神舞子(俳人、歌人としてのペンネーム)が旅立って7日目の朝を迎えた。わたくしは、その妻が亡くなる前に強く所望した氷砂糖を口にふくんで、またしても、かふして書き始める。

 緊急外来扱いで江南厚生病院に着いたその夜。わたしに「買ってきてよ。ほしい。ほしいんだから」と所望し、院内コンビニに走って買ってきた氷砂糖
 

 開店20周年記念と世界の恒久平和を願って開かれたミヌエットのことしの七夕祭。お客さまの温かい協力のたまものと、自らの気力で実現させた。その席で最後のあいさつをする伊神舞子(ことし7月3日。「ミヌエット」店内にて。このとき、舞のからだは既にボロボロであった)
 

 私は自宅で療養中だった、たつ江が最後の夜、今月8日に緊急外来扱いでシルバーネットさんの介護車で私が押す車いすに乗り、江南厚生病院に再入院した7日後の15日未明(午前4時43分)に亡くなる、まさにその瞬間まで彼女の傍らにいて、天に召されるそのときをこの目で見届け、確かめた。逝った直後の安らかな寝顔を目の前に、最期はそれほど苦しむこともなく、不思議な国の王子さまの夢でも見るような、そんな静かな表情だったことを確認し、私自身内心どこかでほっとしたことも偽らない気持ちである。おつかれさまでした。たつ江。舞よ、まい。

 きのう。21日早朝。秋だというのに。少し寒くなった。<かぜ>が首筋から入ってくる。<かぜたち>にあおられるようにわたしの仕草、息遣いそのものがおまえの肉体から出る心音と、どこかで共鳴している。わたしの吐く息そのものがたつ江、おまえ、すなわち舞そのもののそれへと少しずつ変わってゆくのだ。そのことが、よく分かる。やわらかな透明な吐息。「あのねえ、わたし。あたしねえ。この家でこうして最後の最後に、あなたと大切な息子たちと一緒にいられて幸せだった。うれしかった。ほんとよ。幸せだった。ほんとだってば」。
 ―そして私は、かふして、また書き始めた。私の傍らには、おまえが愛し続けた、「シロは何でも知っている」の白狐シロちゃんが両手をそろえ、もはや全てを悟ったような表情で黙って座ってくれている。シロは時々、私の顔を見つめ「オトン。元気になりましたか。その方がオカンは喜ぶよ。泣いてばかりいないでよ。アタイだって、かなしい。でも、オトンが元気を取り戻してくれれば、その方がうれしいのだから。」と、まるでエールでも送るように私に話しかけてくるのである。

 たつ江。舞。マイ。まい。まいよ。元気でな。目を閉じると、わたくし、伊神権太そのものの全身が次第しだいにおまえのからだそのものに染まり、同化し、微妙に変わり共に手と手を握り合って、宙(そら)を飛んでゆく。舞独特のあの口元が目の前に大きく迫り、甘えるようなしぐさで私の全身が舞そのものに変わっていく。
「なあ~に」「うん、いいよ。いいってば」「そうだったの」「あのね。ごはん。ごはんだよ」「だあ~め。だめだよ」。言葉少ない舞との会話は、いつもこんな調子だった。でも、ことばという言葉にはいつだって安らぎというか、わたしの行く手、行動に対する方向指示器のようなものがあった。「ピースボート、行ってきなよ。あたし、あたしの貯金で、たのんでおいたから」「あのねえ~ 郡上の徹夜踊りに行ってきたいのだけれど。いってもいい?」「長野の飯田線に乗って、ひとりで旅をしてきたいの」「和歌山にいきた~い。パンダに会ってきたい」など。わたしはわたしで舞の癖が知らない間にうつってしまい「ウン、いいよ」と、さらりと答えることもしばしばだった。舞が行きたく思っていること、そして主張を止めるわけにはいかないからだ。かふして私たちの年月は過ぎていったのである。
 ここで彼女が好きだった氷砂糖を口にふくむ。このさわやかな味がなんだか、今になってわかる。シロは私から離れないまま傍らにいる。泣かんとき。泣かんとき。シロよ、シロシロ、シロちゃん。と舞のいつもの口調で呼びかけてみる。ニャア~ンとひと声。シロはこたえてくれたが、オカンのことなら、何でも知ってるシロちゃんだけに、なんだか寂しそうにも聞こえる。

 シロよシロ、シロちゃん。オカンの好きだった【エーデルワイス】と【みかんの花咲く丘】をこれまで、ふたりで何度も何度も、朝がくるとはユーチューブで聴いてきたよね。おかあさんが少しでもよくなることを願う日々だったよね。

 わたくしの全身は今、舞そのものに変わってゆこうとしている。これが同化か。パチパチと聴こえはしない火音を立てながら、だ。人間って。不思議だ。なんて妖艶で、すなおで純真ないきものなのか。愛の極限でこうして、思ってもいなかった花を咲かせたりする。愛の極みがこうしたものだったとは。そういえば、死の報に私にメールをしてきた女性がいる。彼女はわたくしへの心からの励ましとして、こう記してくれていた。「骨がきしむほどの淋しさを与えたり、人生はときに残酷です。それでも時間が必ず癒やしてくれます。いっぱい泣いて大丈夫です。涙から綺麗な花は咲きます」と。

 この文面に、わたしは泣きたければ泣こうと思ったのである。ねえ、シロちゃん。一緒に泣こうよ。なっ。シロよ、シロ、シロ、シロちゃん。

 わたしは今、思う。お金も。名誉も。なんにもいらない。ほしいのは、ただひとつ。たつ江。伊神舞子。おまえだけである。何度も何度も舞の顔とことばが頭のなかを交差し行き交う。「あのねえ。シロちゃんがねえ」。いつもの、あの鈴を鳴らすやうな、透明感にあふれた、かわいくて、やさしくて。かろやかな、艶っぽい声が幻聴となって私の耳に聴こえてくる。
「あのねえ。あたし、これからも。これまでどおりあなたの傍にいるのだから。だから泣かないで。あたしは、いつだって、あなた、すなわち、いがみたかのぶ、伊神権太といたいのよ。私とあなたは愛する子どもたちの傍に、いつだっているんだから。シロちゃんも一緒よ」
「えっ、ほんとに。ほんとに居てくれるの。だって姿が見えないよ」
「いいの。いいのよ。あなたと子供たち、そして。きょうこさんにはあたしが、どこまでもついているのだから」
 「よかった」と言い、声をあげ、立ち上がるわたくし。幻想から覚めたその傍らでは舞がこよなく愛し続ける愛猫シロちゃんが寂しそうな表情で「負けないよ」といった顔を私に向け「オトン、泣くなよ。みんな寂しく辛いのだから。笑顔でいこうよ。その方がオカン、おかあさんは喜ぶよ」とでも言いたげにその霊を弔うかの如くニャア~ンとひと声あげたのである。

 シロと舞はどこまでも一緒だ。生前の舞はシロを前に歌を詠み、俳句をつくることが多かった
 

 ちまたは、こうしているうちにも流れ、ながれている。
 けさ22日付の中日新聞1面見出しは【長野地裁初公判 バス会社社長ら無罪主張 軽井沢事故「予想できず」 遺族「受け入れがたい」】【衆院選10・31 党の顔 愛知で熱弁 衆院選中部の序盤情勢➅面】【侮辱罪に懲役刑 逃亡防止GPS 法制審答申】というものだった。

    ☆    ☆ 
 そういえば、昭和40年代の後半。森進一の【襟裳岬】がはやっていたころ、歌の内容さながらに志摩半島で駆け落ち記者生活をしていた俺とおまえ、たつ江をわざわざ訪れ、励まし、生きる力を与えてくれた人がいる。お祥(石田祥二さん)である。
 その私の高校時代のクラスメートはじめ、琴伝流大正琴会主で大師範・ふるさと音楽家でもある倉知弦洲さん(熱砂」同人。牧すすむさん)、江南俳句同好会の川合裕さんら皆みなさま、おまえの店「ミヌエット」のお客さんたち、ほかにも大垣は平野学園代表の〝順ちゃん〟、すなわち平野順一さん、岩倉のエッセイスト内藤洋子さん、世界をまたに夫(二ルマニ・ラル・シュレスタさん。カトマンズ日本語学院校長)と共に【ラブバード】さながらに旅行業でも活躍するエッセイスト長谷川裕子さん、地元江南の作家長谷川園子さん、東京の作家村上政彦さん、山本源一さん、森詠さん、詩人の森川雅美さん、野武由佳璃さん、このほか名古屋に住む私の多くの文人仲間たち、かつて劇団「小牧はらから」を率い、いまも演劇の虫として活躍。おまえの【ミヌエット】の名刺を作成してくださった小畠辰彦さんらからも有り難き電話やメール、ひとによっては弔電や香典、お花、淋し見舞いのお菓子などをいただいた。
 みんな、おまえがこの時代を生き抜いてきたあかしである。一緒に心から礼を言わなければ。なっ。ほんとうに。みなさま。お世話になりました。ありがとうございます。

 舞の遺影の前に飾られた花々。22日夜には、花霞の町総代・若岡さんが町内会からの香典を持参された際に霊前でお参りをしてくださった
 

 舞がいつも手にしていた小畠さん作成の「ミヌエット」の名刺
 
 
    ※    ※
 それから。私のもとに飛び込んできたおまえをずっと大切に見守ってくれ、誰にも増しておまえをこれまで大切にし、かわいがってくれた満101歳になった私の母には近々、私自身が訪れ、おまえが安らかに旅立ったことを知らせてこよう、と思う。おふくろは現在、日進の老健施設「愛泉館」でお世話になっているが、葬儀の場では皆さまの前で、おまえが誰よりもかわいがってもらったことを感謝の言葉とともに伝えておいた。だから。おふくろ(伊神千代子)が泣き崩れる顔は最後でいい、と私はそう思っている。

 たつ江を生涯、かばい守り続けてくれた私の母。たつ江にとっては生涯の恩人である
 

2021年10月20日
 あさがきた。もはや、たつ江。すなわち歌人であり俳人でもあった、伊神舞子がこの世に帰ってくることは永遠にない。水曜日。満月である。

 悲しい。さびしい。辛い。何よりも、これまで私たち家族のために命がけで、とは言っても、いつも淡々と生きてきた舞を思うといじらしく、かわいそうでたまらない。たつ江。舞よ。まい。マイ。ここまで俺たち、家族のために献身的に生きてきてくれてありがとう。クールだったおまえも、少しは辛くて寂しいに違いない。

 ことあるごとに俳句をつくっていた生前の俳人・伊神舞子
 

 若いころから、ずっと。わたくし伊神権太に。どこまでもついてきてくれた。リサイクルショップ【ミヌエット】では多くの人びとにも助けられた
 
 
    ★    ★
 私たちは愛知県江南市の臨済宗妙心寺派永正寺・地蔵寺で永正寺さまがたまたま大改造中のためもあって、分院である山尻の地蔵寺で17日の通夜に続き、18日には家族葬も滞りなく終え、19日に喪主の長男夫妻はじめ、家族皆そろって地元・江南市役所を訪れ死亡届を出し、逝去に伴う各種手続きをした。子どもたちのテキパキしたあと処理を目の前に、わたくしは改めて「皆、立派に育ってくれたな。これも、たつ江の努力のたまものだ」とつくづく思ったのである。
 亡くなってからは、ずっと秋空が広がり、天界が舞の新しい世界への旅立ちにエールを送ってくれている。そんな気もした。舞の編んだ数知れない俳句の中に、私が大好きな【秋空に未来永劫と書いてみし】との俳句があるが、死亡したその時からはまさに俳句の世界そのまま天の啓示もあってか。好天が舞の旅立ちを温かく見守ってくれもした。
「まいちゃん、大丈夫でしょうか。ちょっと心配でかけてみましたけど」という留守電はじめ【いっぱい泣いて大丈夫です。涙から綺麗な花は咲きます】などといったメール、さらには数々の弔電やお花、くだもの、お菓子も各方面からいただき、本紙のこの場を借りおせわになった全ての方々に御礼と感謝を述べさせていただきたい。
 ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。舞は美しい清らかな心のまま、天女となって大空高く飛び立っていきました、と。

 振り返れば、舞の闘病期間中、私は自宅を外出したりするとき(コロナ禍で厳しい制約中の入院中は病室から離れる時に)に、「たつ江、たつべえ。ちょっと行ってくるから。な。ひとりでお(居)れるか。大丈夫か」とベッドに声をかけた。おまえは決まって「だいじょうぶ。だいじょうぶ、だってば。行ってきてよ」と答えてくれ、私はそのつど、後ろ髪を引かれる思いで自宅を出て、買い物や社交ダンスのレッスンなどに出かけたのである。時には京都などへの遠出もしばしばだった。おまえは、すべてお見通しのうえで「ウン、いいよ。いいってば。だって、行きたいのでしょ」と言って、嫌な顔ひとつせず、笑顔で送り出してくれた。ありがとう。
 おまえは私が必要だと判断した外出にはこれまで文句を言ったことは一度もなかった。本当に、ありがとう。わたくしは、おまえが私を信じ続けてくれたからだ、と思っている。ここにあらためて礼を述べ、感謝しておきたい。

 【葬儀を終えて】なんだか全身の魂が抜け落ちてしまったようだ。おまえは多くを教えてくれた。人を愛すること。悲しいこと。苦しいこと。生きるということ。そして。何よりもなにごとも待つ、待たねばいけないということ、をだ。あきらめるということは、一体全体どういうことなのか、を。
 そして、おまえはいつだって私にとって、心に秘め続けた自慢の女性、宝物であり、もう一人の厳しくも温かいデスクでもあった。私の書く文をいつだって読んでくれ、いつだって若干の軌道修正をしてくれたのもおまえだった。
 そういえば、宮沢賢治のオノマトペ集を手に、ふたりで随分と話し合ったよね。私が地元情報サイトの〝江南しえなんさん〟で連載した時の小説【ぽとぽとはらはら】の題も実は、おまえがつけてくれた。この小説はかなりの反響を呼んだこともあり、近くおまえが作句し、歌った俳句・短歌も掲載したおまえの一代記として単行本にでもしようかな、と思っている。
 いずれにせよ、わたくしにとっての永遠のデスクがこれからも私の傍らにいつだって居る。そう信じて伊神舞子の<舞子による、舞子のための作品集>を伊神舞子の文学碑とともに、この世のどこかに残そうかなっ、と思っているのである。

 私の傍らにはおまえがタイトルをつけてくれた本紙ウエブ小説【シロは何でも知っている】の主人公シロちゃん(「白」の俳号を持つ世界でただ一匹の俳句猫。本名はオーロラレインボー)がいる。

 舞の心の寄すがとなり続けたシロちゃん(20日午前写す)
 おかあさんがいなくなったので、寂しそうだ。でも、オカンのためにも頑張らなければ、ね。
 

2021年10月18日
 朝がきた。月曜日だ。ラジオによれば、けさは今シーズン一番の冷え込みで、今宵は十三夜でもある。たつ江。舞よ、舞。舞。おはよう。とうとう別れの日がやってきたよね。

 わたくしの宝物だった、かわいい妻、たつ江。すなわち俳句と短歌、フォークダンス、自ら20年間開いてきたリサイクルショップ「ミヌエット」をこよなく愛し続けた伊神舞子(ペンネーム)との別れの日である。涙が止まらない。これまで長い間、お世話になりました。一人ひとり個性豊かな子どもたちを立派に育てあげてくれてありがとう。私は今しゃくりあげながら、こうして別れの文を書いている。

 天に飛び立つ舞 さあ大空にいこう(最近の写真)
 

 永正寺の水谷大定住職さまから授かった有り難き戒名
 

 昨日のお通夜に続き、私たちはまもなく葬儀会場である永正寺・地蔵寺に向かう。舞には永正寺の住職水谷大定さまから【静汐院美舞立詠大姉(せいせきいんびまいりゅうえんだいし)】という身に余る戒名を授けて頂いた。さあ、飛びたて。飛び立とうよ。舞。おまえの大好きだった<シロは何でも知っている>のシロちゃんも私の傍ら、ここにいてくれる。いこう。いこうよ。舞。俺がついている。

 おまえが愛し続けた白狐のシロちゃん(俳句猫「白」。オーロラレインボー)も見守ってくれている
 

 わたくしの手には今、私が長年、ことあるごとに舞の前でふいてきた愛用のハーモニカと横笛が握られている。別れの時。いや、共に新しい世界に飛び立つその瞬間に、<ゆうやけこやけ>や<みかんの花咲く丘><琵琶湖周航の歌>など。出来れば舞の大好きだった歌の数々を演奏するためである。

 これまで長い間、ほんたふに、ありがとう。そして舞を温かく見守り続けてくださった多くのみなさまにも、この場を借り、心から礼を述べておきたい(伊神権太記。18日早朝)。

2021年10月16日
 花一輪残りて咲ける朝顔に露しきりなり君の逝きたり
 灯寄せて七尾の日程ひろげたりかたえの闇にももうひとり置く
(山崎国枝子=短歌雑誌「澪」代表)
 秋空に未来永劫と書いてみし
 曼殊沙華人恋ふごとに朱(あけ)深し
 秋一日絨毯と飛べ我が部屋ごと
 赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり(伊神舞子)

 2021年の10月16日。舞が亡くなり、一夜が明けた。
 朝刊の見出しは【無念のみ込み 最後は感謝 長良川鵜飼】【入院受け入れ2割増強 感染拡大時「幽霊病床」改善盛る 政府コロナ対策骨格】【3回目接種用 来月配送 ファイザー製 自治体に412万回分】【首相、韓国に解決求める 元徴用工・慰安婦 北対応は連携確認 文大統領と初の電話協議】【与野党選挙モード】(いずれも中日新聞1面見出し)というものだった。

 きのうは舞に育てられた息子たちの献身的な応援協力もあって、江南市内の臨済宗妙心寺派・永正寺(水谷大定住職)の副住職中村建岳さん、小森葬祭(岐阜市)の小森純一さんらの温かい手助けもあって、お通夜と家族葬の準備を進め、舞を住み慣れた自宅二階寝室に迎え、私の妹や舞のお兄さんにも対面をしていただき彼女は今、静かに安らかな顔で眠っている。
 この間、舞がことのほか、お世話になった能登七尾の「澪(れい)短歌会(山崎国枝子代表)」の一同から弔電が届き、小牧で大変お世話になった琴伝流大正琴弦洲会の会主でふるさと音楽家、私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の同人でもある牧すすむさん、かよ子さん夫妻からも「お参りできる時がきたら、かよ子と二人でうかがいたいと思います」といった温かいメールも届くなどした。

 澪短歌会(山崎国枝子代表)から届いた弔電
 

 このほかにも、ネパールのカトマンズをはじめ世界中の国々を舞台に夫の二ルマニ・ラル・シュレスタさん(カトマンズ日本語学院校長)ともども、【ラブバード】さながらに愛のタッグを組んで活躍する愛知県稲沢市出身のユウコさん(コロナ禍もあって、現在は日本に一時帰国中。私の著作<カトマンズの恋 国境を超えた愛>のモデルで主人公)すなわち長谷川裕子さんからは前日届いた「舞さんは本当に本当にお強い、素晴らしい女性ですね。権太さんがそばにいて、安心していると思います。お辛い時間ですが。権太さん、頑張ってください」のメールに続いて「舞さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。天女になられた舞さん、本当にお強く、よく頑張られたことと想像します。権太さんがずっとそばにいらっしゃって、嬉しく安堵されていたと思います。これからもいつもいつまでも美しく微笑んで、権太さんを見守ってくれると思います。権太さんの深い悲しみは計り知れませんが、どうか気丈に乗り越えて、ご体調など崩されませんように」といった内容の新たな励ましまでいただいた。
   
    ※    ※
【16日朝早く】
 わたくし、すなわち、この世でひとりの一匹文士である私は、また書き始める。舞との新しい時代の始まりである。これからも舞と一緒にネパール・カトマンズの裕子さん夫妻に代表されるラブバードさながらに、どこまでも歩き、書き続けてゆくのだ。私と舞の、ふたりにとっての新時代の始まりがそこには、ある。

 さあ。舞よ舞。私はおまえと一緒にどこまでも書き続けていくからな。けさは、舞とは一心同体に近かったシロ(舞が「白」と名付けたこの世でただ一匹の俳句猫、本名オーロラレインボー。舞は、このシロを愛し、生前は白狐ちゃんとも呼んでいた)がずっと、デスクを前に書き続ける私の足元にいる。シロは〝ごろごろ、ごろ。ニャン。ニャン。ニャア~ン〟と時折、私を見上げながら寂しそうにしている。でも、シロよシロ。シロちゃん、おまえが元気を失くしたら、オカン(舞)が泣くぞと言ってやるとシロはウウン、うんうんと言って泣き止む。私の小説【シロは何でも知っている】で、少しは天下に知られた猫ちゃんじゃなかったのか、と私。これからは【シロは泣かない】でいこうよね。シロは泣かない。泣かないのだ。またしてもニャンニャンニャンとシロが廊下を彷徨うが如く泣きながら歩き始め、おかあさんの眠る部屋へと向かった。シロよ、シロ。シロ。ありがとう。【シロちゃん。シロ。泣かないで】と2階から舞の声が伝わってきた。

 天女になった直後の舞
 

 江南厚生病院から戻った舞は、そのまま自宅二階に安置され、帰宅して最初の夜を過ごした。
 

 家に戻ってきたおかあさんと対面するシロちゃん。悲しいけれど。シロは、泣かない。
 
 

【15日未明から早朝にかけて。】
 涙が出て、もはや、どうにも止まらない。涙とは、不思議ないきものである。
 涙はどうしてこんなにも、あとからあとから、あふれ出るのだろう。次から次へと。どんどんと。まるで洪水、いやいや清らかな川の流れ、泉のように湧き出てくる。私たちがかつて大変、お世話になった志摩や能登の海を埋め尽くしても、なお足りないほどの涙である。

 けさ早く。2021年10月15日。私が愛して、愛して。愛し尽くして。抱きしめて、やまなかった可愛い、かわいい、チョットだけ生意気で。でも心根のやさしかった舞がとうとう天国に召されていった(医師による▽瞳孔の散大▽心音の停止▽呼吸停止のいわゆる〝死の三徴候〟による正式な死亡診断は午前4時43分、橋本、木村両医師による)。私は天国に飛び立って逝った彼女の、その一部始終をこの目で見届けたのである。
 舞よ。舞。舞。これまで本当にありがとう。俺みたいな自分勝手極まりない昭和と平成の荒らくれ記者によくぞ、ここまでついてきてくれた。オレは今、あらためて心からおまえに礼を述べたい。ありがとう、たつ江。そして、たつ江をここまで育て、守り続けてくださった多くの方々にも本欄を借り、感謝と礼を述べておきたい。

 舞は、この二年間というもの、それまで思いもしなかったコロナ禍の世の中にあって彼女に対する何の恨み、それとも因果なのか。子宮がんという病に冒され、入退院を繰り返した。おまけに自ら営むリサイクルショップ「ミヌエット」に自転車で向かう途中、左大腿部の骨折という思ってもいなかった災難までを背負った。それ以前の脳内出血、脳腫瘍の大手術、静脈瘤乖離による救急搬送など入退院の繰り返しも入れれば、まさに全身傷だらけの人生によく耐え、好きな短歌をうたい、俳句づくりにも励んできたのである。それでも、自ら営むリサイクルショップ存続のため、それこそ仁王立ちになって運命と懸命に闘い続けてきた。元気なころには、ミヌエットで月に一度のミニ音楽会なども続けていた。お客さまにもお願いして千羽鶴を1000羽手づくりで用意して、私と一緒に広島に行き、世界の恒久平和を願ってきたこともある。わが妻とはいえ、本当に、よくやってきたなと思う。

 -そして。このところは3カ月ほど前から毎日毎日、ヨチヨチ歩きで私に補佐されながら、それでも愛用の自転車のハンドルをしがみつくようにして握り、肩からは赤十字の十字架のついた買い物袋を下げ、自宅から二百~三百㍍ほどのお店にまで通う姿は、それこそ痛々しいばかりか、見るものをハラハラさせる、まさにそんな鬼気迫るものでもあった。私は、それでも舞の強い意志を尊重し、最後の一歩が踏み出せなくなるまで「よし。よしっ。その調子で」と、相棒である舞の補佐を続けてきたが、今月8日になると舞はとうとう、車いすに乗ることさえ出来なくなって一歩も動けなくなってしまい江南厚生病院西緩和病棟814号室(2日後には812号室)への入院と相成ったのである。

 というわけで、その日(8日)予定されていたわが家での訪問入浴は血圧の著しい低下などもあって出来なくなってしまったばかりか、以前にも本欄で書いたように、迅速に駆け付けてくださった訪問看護師矢野由美子さんはじめ、ケアマネジャー宮道末利子さんら各スタッフの応援にも助けられ、終始患者の立場に立ち、冷静な対応に徹してくださった舞の担当医、婦人科の松川泰医師らの判断もあって、こんどは急きょ、江南厚生病院緩和西病棟個室(814号室)に入院。以降はこれまでにも紹介してきたとおり、体調は日ごと低下。「死」という瞬間を迎えたのである。

2021年10月14日
 れもんかみつつ思う事平和(2015年9月24日 伊神舞子)
【評】<いとうせいこう>酸っぱいレモンを噛みながら、あふれる果汁にふと平和を思う。平和とはなんだろう、どこから来るのか、そう思える時間が平和。=中日、東京新聞の「平和の俳句」特集から

 夜。舞の静かな寝音に、耳元に「またくるからな。死んじゃあ、アカンよ。生きとらんと」とささやいて江南厚生病院から迎えにきてくれた息子の車に乗り、いったん自宅に帰る。きょうは川崎の長男夫婦も東京での仕事を急きょ休んで来てくれ、長男だけではあるが、病床で、おかあさんを励ました。夜は夫妻で犬山のホテルで過ごしている(コロナ禍のなか、病床での面会は私以外には、たとえ長男夫妻でも一人しか認められないからである)。

 舞は、きょうも一進一退というか。時折、目を微かに開き、ウンウン、ウン…と苦しそうにうなりながら生きている。看護師さんによれば、脈はだんだん弱くなってはきているが、でも、微かにではあるが確かに打ち続けているという。私は病院側の許しを得たうえで最初に舞の大好きな<エーデルワイス>と<みかんの花咲く丘>をユーチューブで耳元で聞かせる。これが終わると、ハーモニカで<夕焼け小焼け><みかんの花咲く丘><ふるさと><琵琶湖周航の歌><公園の手品師>……と舞の大好きな歌を次々と演奏し続けた。
 そして。ひと呼吸を終え、きのうに続き舞が志摩の私のもとに飛び込んできて以降の、数々の事件や家族の歴史を、ひとり語りで、かいつまんで話して聞かせた。舞は口を開けたまま時折、目を心持ち大きく開いたり閉じたりし、口元は相変わらず開いたまま、聞いている。私はひと通り話すと、こんどは能登半島で出会った、今は亡き<みかんの花咲く丘>の作詞者加藤省吾さんや俳優森繁久彌さんとの思い出などにつき、独り話をするように耳元でゆっくりと、一言ひと言をかみしめるように語り続けたのである。
 語り終えると、私は森繁さんが地元七尾青年会議所の依頼に応じ作詞した【能登の夢】を♩能登はやさしや土までも そのやさしさに包まれて 七尾の浦に育ちしは…、と歌い出した。能登の雪道を自転車にふたりの子どもを前と後ろに乗せ地元スーパーに通い続けた舞。あのころは、あんな華奢な体にどこにそんな力があるのだろう、とよく思ったものである。
 話し始めたらきりがないので、私は適当に話すのをやめ、目を閉じ、舞とのあの日あのころを反芻したのである。舞よ舞、おまえは本当に、ここまで自分勝手な俺によくついてきてくれた。そう言いながら、舞が19歳のころ、初めて会った時のことを思い出していたのである。両目がどこまでも澄んでおり、髪は肩の下まで流れ、この世にこんなに美しく清らかな存在があるのか、と。そう思ったあの日々のことが思い出されたのである。私と出会った舞はそのご、信じられないほどに従順に私についてきてくれた。人には言えない大きな山坂を上ったり下りたりしてきたのも偽りなき事実だ。

 若かったころ。能登半島七尾市にいたころの舞
 

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 私もそこそこ若かった
 

2021年10月13日
 きのう、いやきょうは午前1時過ぎ、江南厚生病院8階の緩和病棟812室から自宅に帰り、2時半まで起きていた。
 そして。13日の午前7時前。江南厚生病院の担当看護師横山さんから私の携帯に緊急電話が入った。「おかあさん、たつ江さん(舞のこと)。酸素の量が減ってお鼻から、酸素補給を始めました。うなづいたりはされますが。お話しは難しいです。脈は本当に弱くなり、何とか微かに触れる程度です。すぐに来てください。血圧は75~55です」と。
 私は息子にこのことを告げ、病院に向かった。舞よ舞、いますぐ行くから。

2021年10月12日
 赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり(10月8日付尾北ホームニュース 尾北の文芸 俳句)
 秋一日絨毯と飛べ我が部屋ごと(9月23日<伊神舞子の白猫の俳句>から)
 人間は二足歩行よ秋茜(8月19日<伊神舞子の白猫の俳句>から)

 12日午前11時17分。江南厚生病院の舞の担当医師から携帯に電話が入った。「奥さま、痛い痛いということはなくなっているようですが。チョット、息苦しさを感じておいでなので麻薬系の薬フェンタニルを使わせてもらいますが。よろしいでしょうか。点滴も続けていますが、あんまり入れると胸にたまるのでよくありません」というものだった。
 しばらくすると、今度は担当の看護師から「奥さま。血圧が50~30と低すぎます。これだと、急変もありえますので来て頂いた方がよいかと思います」との電話が入った。私は、病院に急行。舞の様子をしばらく見守ったあと、血圧もその後の計測で60になったことを確かめたので、いったん帰宅。息子が昨夜の間にしておいてくれた洗濯物を整頓。愛猫シロちゃん(「白」の俳号を持つ俳句猫。本名はオーロラレインボー。私の小説【シロは何でも知っている】の主人公)にも事情を詳しく説明したあと、残りの時間でこうして、この【一匹文士】を書き始めたのである。
 かといって、主治医の「まだまだ急変もありえます。ひと晩、奥さまの傍にいてあげた方がよいのでは」の心遣いとアドバイスに従い、もう少ししたら帰宅した息子と一緒に再び、病院に出向こうと思っている(ただし一度に二人の面会は、コロナ禍のこうした時期でもあり許され、ないので、途中で私が代わって、どうなるかは分からないが。今夜一晩は私が舞と一緒に過ごそうと思っている)。確かに今の舞は意識もうろう状態だが、なんとかここは彼女にとっては最大の危機といっていいこのピンチを乗り越えてほしいーと、そう願っている。

 話は10月8日朝に遡る。自宅介護ベッドで療養中だった妻、かわいい舞の体調がいつもと比べ、どこか違う。とても辛そうで、かつ思わしくない。食べ物を何ひとつ受け入れようとせず、「吐きそうで気持ちの悪い」状態がずっと続いており、当初、この日午後に予定されていた訪問入浴は、このままではとても出来そうにない。デ、この日午後の入浴は急きょ取りやめにしていただいた。
 幸い、江南厚生病院の訪問看護ステーションからベテラン訪問看護師さんが飛んできてくださり、血圧の異常な低さに迅速に対応、主治医と即座に連絡してくださり医師の的確な判断に、ケアマネさんたちの連携プレーもあって急きょ、救急外来扱いで、これまたシルバーネットさんの車いす介護車に来て頂き、夕方には江南厚生病院救急外来の患者となったのである。
 舞は、病院に到着すると同時に救急外来扱いで点滴(血液採取も)をされ、ストレッチャー(患者搬送用寝台車)に乗せられ、胸のレントゲン撮影、全身のCT検査、心電図検査をしてもらったうえでそのまま緩和病棟個室(814号室)への入院とあいなった。私はストレッチャーに乗せられ、点滴に始まり、次々と進む各種検査を目の前に、わが妻のことながら、コロナ禍という厳しい現況のなか、これら医療スタッフがテキパキと作業を進めてくださる姿を目の前に、こうして危機に陥った市民一人ひとりの命が懸命に守られているのだな、と。つくづくそのように実感したのである。

 こんなわけで、わが妻の舞は今、江南厚生病院の緩和病棟個室(11日午後には、それまでの個室814号室から個室812号室に替わった)で緩和ケアを主眼とした治療を受け、病魔のがんと闘っている。いや、闘うというよりは、いかにしてからだの気持ち悪さや吐き気、痛みを少しでも和らげることが出来るか。【緩和病棟】の名のとおり、その点に力点を置いての入院治療が、また再び始まったのである。
 緩和と聞けば、「もう駄目だ。臨終だよ」と思う人がいても不思議でない。でも、そうではない。医学の進歩で昔とは違い、少しでも緩和治療が効果を上げれば、退院して再び家庭生活に復帰することだって十分にありうるのである。私たち家族は、たとえ結果的にはダメだったとしても、奇跡ともいえる回復、そこに一縷の望みを託しているのである。あきらめるのは、まだ早い。奇跡を信じよう。

 きのう11日。朝。おまえが聴きなれたラジオから【花嫁】という歌が聞こえてきた。そういえば、おまえは昭和47年11月3日に志摩半島(当時の三重県志摩郡阿児町鵜方。現在の志摩市)にいた私の元に単身、着の身着のままでまるでダイビングでもするように飛び込んできてくれた。それから。多くのことが次々と起き、そのつどおまえは、これらを乗り越えてきた。ありがたく思っている。………
 というわけで、今晩は病室で舞に付き添いながら、俳人で歌人でもある、この世で稀有ともいえる伊神舞子に送る小説を歌うように、書き始めようと思っている。舞は身勝手な私に本当によくついてきてくれ、3人の子を立派に育て上げてくれた。ここに、心から礼を言い、私たちの歩んだ道を記していきたく思っている。さあ~。もう時間だ。病院では舞が待ってくれている。シロよシロ。今晩のところは後を頼んだぞ。

 おかあさんを気遣うシロちゃん
 

 おかあさんとは、いつも一緒だ
 

    ※    ※
 舞が再々入院をしてから4日がたち、きょうは12日。5日目の朝がきた。朝のうち静かに降っていた〝しとしと雨〟も今は止んでいる。緩和病棟の個室にいる舞の体調は、その後どんなだろうか。(きのうベッドを訪れた時にも、引き続いて行われていた)点滴により、少しでも改善され、元気が出てくれればよいのだが。今は好きな俳句を詠むことも出来ないままでいる。元気が戻り、俳句を再び、少しでも口ずさむようになれたら良いのだが。そう、思っていたところに担当医と看護師から電話が入り、私は江南厚生病棟に走ったのである。

2021年10月2日
 2日。土曜日である。秋風が、とても心地よい。いまは、もう秋である。

    ☆    ☆
 連日、妻、舞の床を片時も離れないで看病に徹する愛猫シロちゃん(舞命名による「白」の俳号を持つ俳句猫。本名はオーロラレインボー)もけさは、美容と健康のため久しぶりにお外へ。それでも昼前には帰宅、からだを消毒してもらってからはずっとおかあさんのベッドの傍らで寄り添うようにしている。
 正直言って、このところの私は病に伏しながらも再起に向け、強靭な精神力で日々を過ごすわが妻の自宅での介護に追われる毎日だ。本欄を書こう、書かなきゃと毎日思いながらも彼女の介護はじめシルバーネットを使っての車いすによる江南厚生病院への外来診療をはじめ、看護師さんによる訪問看護、さらには訪問理美容に訪問入浴、その他、リンパ浮腫治療のための2種類のティージーグリップの手洗いほか、食事の用意など慣れない家事などにも追われる日々で本欄【一匹文士、伊神権太がゆく人生そぞろ歩き】を何ひとつ書けないまま、ここまで来てしまった。
 ただし、依頼原稿である地元生活情報誌のコラムと「脱原発社会をめざす文学者の会」の連載【文士刮目】だけは、どんな状況にあろうと各種資料を熟読のうえ関連取材も徹底させ、何度も推敲したうえ読者最優先の気持ちと信念、立場から出稿させて頂いている。

 そして。何はともあれ、私自身がこのような介護の現場のすさまじい只中にあって、まるで心身ともに漂流でもするかの如く、この社会に携わる人々の介護現場がいかに広範囲に及び、重要かつ、体力を要するかを、身をもって実感してもいる。幸い私と舞は、こどもたちはじめ周りの多くの人たちにも支えられ、こうして生きている。

    ※    ※
 ちまたでは、自民党に岸田文雄総裁が誕生。優勝45回など数々の記録を打ち立てた第69代の大横綱白鵬=本名白鵬翔、モンゴル出身、宮城野部屋=が引退、そして何よりも新型コロナウイルスのまん延で全国19都道府県に出ていた緊急事態宣言と8県のまん延防止等重点措置が一昨日、すなわち先月30日の期限で全面解除となった。解除で日本中の人々がなんだか、ホッとしたに違いない。
 政府は感染が再拡大した場合も一律に制限を強化しなくても済むよう今回の実証実験の枠組みを活用する方針で、感染防止と経済活動の両立をめざしていくという。また、こうした中、愛知県では1日から17日までを新型コロナウイルスの厳重警戒宣言期間とし、感染のリバウンドを防いでいきたい、としている。

 岸田総裁誕生を報じた朝刊
 

    ※    ※

 さて。そんな世情の中の私たちといえば、だ。先月九日に妻の舞が江南厚生病院を退院して以降、私は毎日、朝、昼、晩と舞の介護に明け暮れ、得難い体験を強いられている。目の前に立ちはだかる慣れない一つひとつに、そろそろと、ふらつきながらも平均台の上を慎重に歩くかの如く一日一日を過ごしている。と同時に、妻の病を目の前に歩くことのすばらしさ、いや二本足で歩けることが私たち人間にとって、どんなに幸せなことであるかを実感したのも事実である。
 というのも、かつては世界中のフォークダンスを踊っていたはずの舞の足が八月二十一日を境に一歩たりとも前に踏み出すことが出来なくなってしまってから、既に一カ月以上がたち人間にとって、ごく自然ともいえる【歩く】ということがいかに大切なことか、をあらためて思い知ったからかもしれない。車窓越しに見る自転車に乗った女性や中高校生、乳母車を押したり杖をついて歩くお年寄りの姿には、どこかキラキラ輝く宝石のような存在を感じたりもするのである。
 というわけで、このところの私と舞は、まさに戦場同然の毎日を過ごしている。病院に行くにもシルバーネットさんの介護車に来てもらい、車いすの舞と一緒に乗り込んで江南厚生病院まで行き、帰りにはまた介護車を呼んで私も乗り込んで帰る、という日々の繰り返しとなっている。ほかに訪問看護師さんの来訪、訪問美容に訪問入浴、ベッドのエアーマットへの差し替え……、とそのつど対応に追われ、時には両足のむくみ(浮腫)を改善するための〝リンパアドレナージュの名人〟とも言われる女性看護師さんにも来ていただいている。
 深夜から未明にかけ。歩けないはずの舞が車いすに乗り、一人で何やらゴソゴソとやり始め、時折支え立ちをしながら室内をまるで秘密探偵員でもあるかのように物色して動く姿には、なんだか、わが妻ながら「がんばれ」と声をかけたくなってしまうのである。このまま立ち上がって「歩け。歩いてくれ、歩くのだ」と。そんな心境になることもしばしばで、実際にそうした奇跡が起こる気もするのである。一方で。そこには、いつだって。かわいい舞がこのまま立ち上がって再び二本の足で立ち、歩き始めるようになる、と願う私がいる。

 訪問美容に満足そうな舞(自宅にて)
 

 ここに過日の舞と私のホンのひとコマをここに記録としてとどめておこう。
(9月28日の〝ごんノート〟から)
 朝。シルバーネットで呼んだ車で舞は車いすに乗ったまま、私も同乗して江南厚生病院へ。舞は私が押す車いすでの慣れない採尿、採血に続き、脳外科の診療で先日、行った自らの脳のMRIの検査結果を私と一緒に担当医師から直接、聴いた。幸い、異常は認められず「がんの転移もありません」との診断結果には、舞も私も思わず「よかった」の声を漏らした。
 舞は、この後も泌尿器科、口腔歯科の順で受診し、婦人科へ。最後に午前中の泌尿器科診療の判断に従って、腫れが目立つ右腎臓に排尿がしやすくなるように、とステンドを入れてもらい、再び車いすを呼んで帰宅。さすがに、ふたりともかなり、疲れ果てたのである。とはいえ、私の場合、今月中に出稿しなければならない原稿があるため帰宅後は、舞を介護しながら、ずっと自室にこもったまま各書物はじめ新聞の切り抜きなどを何度も読み返し、5回目の文士刮目の執筆をつづけた。

 私はいま、つくづくこう思う。
「私も舞もやがては、この世から消える。このことは誰とて同じなのだが。そう思うと、この地上を歩む全ての人がいとおしく見えてくる。人に隔てはない。目の前から歩いてくる人も、すれ違う多くの人々、追い抜いていく人々も、だ。どの人も懸命に今を生きているのである。善人も悪人もない。
 全て一人ひとりが輝き、神聖なるいきものなのである。この点ではわが家のかわいい愛猫シロちゃんとて同じだ。つい先日、私はある銀行を訪れ、振込について説明を受けたが、その行員(男性)は若くて親切このうえなく、確か〝松沢さん〟とおっしゃったが、考えてみれば、この世でお会いするのはこの瞬間が初めてだった。この若者を目の前に、私は人生捨てたものじゃないナ、と。そう思ったのである。
 舞が病床に伏していなかったなら、私はこの青年に会うことは永遠になかっただろう。

 いつも舞のそばを離れないシロちゃん
 

 舞とは、いつも行き帰りに出会った近所の人気者のワンちゃん、ここあとモカちゃんも舞の回復を応援してくれている
 

    ☆    ☆

    ×    ×
 全国知事会が2日、新型コロナウイルス対策本部の会合をオンラインで開き、国への緊急提言案を示した。感染収束に向け「国民の命が守られる医療体制の確保が出口戦略の根幹だ」と指摘。検査や入院、治療を徹底できる体制の構築を要求。「行動制限の緩和は、感染状況や医療逼迫など地域の実情に応じて検討し、対策のゆるみが感染再拡大につながらないように」と、対応を求めた。
 日本ハムが1日、斎藤佑樹投手(33)が今季限りで現役を引退する、と発表。斎藤は早実高3年だった2006年夏の甲子園大会決勝で北海道・駒大苫小牧高と対戦し、田中将大投手(楽天)と投げ合って再試合の末に優勝。汗を青いハンカチで拭く姿からハンカチ王子と呼ばれ、社会現象となった。早大では1年生から活躍。東京大学史上6人目の通算30勝、300奪三振を達成。10年のドラフト会議で4球団が1位で競合の末、日本ハムに入団。1年目に6勝を挙げ、2年目には開幕投手を務めてリーグ優勝に貢献したが、その後は故障に悩まされ、昨季はプロ入り後、初めて登板がなかった。

 死者58人、行方不明者5人を出した御嶽山(長野・岐阜県境。3067㍍)の噴火災害が先月27日、発生から7年を迎え、遺族らが噴火発生時刻の午前11時52分に合わせて黙とうをささげ、犠牲者を悼んだ。
 大相撲史上最多の優勝45回を誇り、長年第一人者として活躍した第六十九代横綱の白鵬(36歳)=本名白鵬翔、モンゴル出身、宮城野部屋=が現役引退の意向を固めたことが先月27日に分かり、通算1187勝、幕内1093勝など数々の史上一位記録を樹立した横綱が、ついに土俵を去ることとなった。また白鵬の年寄襲名に当たっては日本相撲協会の理事会がルールやマナーを守る、などとした誓約書へのサインを求めるなど長い協会の歴史でも初めての異例の事態となった。「数々の記録を打ち立て一人横綱として土俵を引っ張った功績は大きい。それだけに、こんご問題行動には慎重に」というわけである。