いがみの権太の野球日記終章・笛猫茶番11月8日

平成二十二年十一月八日
 けさの中日スポーツ1面見出しは、昨夜フィナーレを迎えた日本シリーズのロッテ対ドラゴンズ戦に触れ「56年ぶり完全Vならず 何かが足りなかった 落合監督」「よくここまで勝ち上がった。最後はほめてやる」「『和の野球』が結実」というものである。

 そしてリードは
―悔しいけれど、56年ぶりの夢には手が届かなかった。7日の日本シリーズ第7戦(ナゴヤドーム)。中日は9回に追い付いて3度目の延長に持ち込んだ。しかし4イニング目だった浅尾拓也投手(25)が12回に勝ち越された。レギュラーシーズン3位から勝ちあがった就任1年目の西村徳文監督(50)率いるロッテは5年ぶり4回目の日本一に輝いた。

 というもので、すべてを言い尽くしていた。さらに本記も「壮絶な道のりの末、『和の野球』が、頂点へと駆け上がった。史上初のレギュラーシーズン3位からの日本一。球史に残る大ミラクルが見事、名古屋で完結した。……」と読み応えがある。もし、これが逆にドラゴンズの完全制覇だったとしたなら、どんな原稿になっていただろう、と思うと、返す返すも残念だ。だが、負けは負け。どんなにあがいたところで仕方がない。もはや過ぎ去ったことなのだ。

 その中日スポーツ2面片隅に見逃せない訃報が掲載されている。元中日スポーツ総局の局デスクで、現在は中日ドラゴンズ広報部に所属する竹内正毅さんの死である。7日、胃がんのため死去。六十六歳だった。竹内さんは、かつてはドラ担キャップで知られ、近年ではドラゴンズ球団の創立七十年史執筆に力を尽くされた。仕事をこつこつとこなされ、淡々となんら飾りけのない素晴らしい人であった。プロ野球についてなら誰よりも精通されていた人格者だっただけに、惜しい人とは、こういう人物をさすのだろう。でも、彼はもう戻りはしない。合掌。

『ねぇ~』   こすも・ここ
 

       『なぁに』  シロ

 【笛猫茶番日常の劇】お父さん、長い間、世にも稀な「いがみの権太の野球日記」執筆、出来の善し悪しは別に、お疲れさま。シーズン開幕と同時に始まった、この日記執筆中にもいろんなことがあったよね。お母さん、Mの大手術で病院通いをしながらも深夜未明の執筆が続き、アタイもシロもオトンについていかなければ、と必死でした。ちとオーバーか知れないが、命がけとはああした日々を言う、ということも身にしみて感じました。読者の皆さまには陰ながらの多くの支持と助言、時には励ましまでいただき本当にありがとう。

 今だから言えますが、多いときは一日だけで三千件近くものアクセスがありました。本当に驚き、感謝しています。オトンの本心は「オレは、中日ドラゴンズの完全制覇を胸に期して書き続けるのだ」というものでしたが、最後の最後に、あのロッテの名優・西村徳文監督にしてやられました。
 でも、思い通りにならないのが野球、人生なのです。あえて収穫といえば、まったく知らなかった野球につき、ほんの少しだけ学ばせていただいたことでしょうか。

 オトンは、かつて新聞記者当時の七尾支局長時代に三年の長きにわたって能登版で支局長日記を、引き続き「能登の方言」も二年ほど、計五年の長きにわたって連日、掲載したことがあります。あのときも大変でしたが、今回の野球日記はもっと苦痛を伴ったそうです。

 でも全国のドラゴンズファンに助けられ、振り返れば楽しい日々の繰り返しだったのが本音です、深夜から未明にかけて、連夜の寝ぼけまなこの執筆。書きっぱなしになることもしばしばでロッテとドラゴンズの日本シリーズ出場選手計四十四人をチリの落盤事故から生還した“四十四人”(三十三人が正しい)と同じだ、錯覚してしまい、書いたあとで誤りに気付いて誤った部分を差し替えたことなど、ミスマッチはざらでした。
 ここに、オトンに代わり深くお詫びしておきます。(ただ、気付いたら、そのつど差し替えたので八日段階では、それほど誤りはないはずです)。

 ともあれ、明日からもこの笛猫日記だけは、日本の風情やニンゲンたちのドラマを証言していくためにも「名もなき小説家・伊神権太の日記文学」として公開し続けます。出来れば近々「ドラファン珍道物語」の公開も、と思っています。引き続き愛読のほど、よろしくお願いいたします。

☆菅直人内閣の支持が急落し、32パーセントに。74パーセントが「外交評価せず」(共同通信社の全国電話世論調査結果)「竜、連夜の延長 力尽く」「ロッテが3位から日本一」(中日新聞8日付朝刊より)
 群馬県桐生市で起きた小学6年生女児の自殺で学校側は「いじめがあった」との調査結果を明らかにした。

平成二十二年十一月七日
 終わった。ボクにとっての今シーズン、ドラゴンズのすべてのドラマが、だ。ボクだけではなく、ドラゴンズファンの誰もが、同じ思いに違いない。

 平成二十二年十一月七日。日曜日の午後五時過ぎー。地下鉄ナゴヤドーム前矢田駅から、ドームに通じる“ドラゴン道路”を、ボクは大勢の人波のなかを一点となって、ナゴヤドームに向かって無言で歩いてゆく。いつもなら、公式ファンクラブの空色ユニホーム(ブルーメッシュジャージ)など思い思いのユニホームを着込んだ人々が多いのだが、この日はなぜか、普通の背広姿が多い。戦国時代の武将の下、着の身着のままで戦場にはせ参じる、そんなにわかづくりの兵士たちのようにも見える。切れ目のない人間たち。それにしても、すごい人の数だ。ドラゴンズって、すごいなと、あらためて実感する。

 日本シリーズの第7戦はロッテ・渡辺俊対中日・吉見の投げあいで始まったが、両投手とも打ち込まれ、いったんは7―6とされたドラゴンズが九回裏、和田の外野フェンス直撃3塁打とブランコの犠打で1点を入れ、前夜同様、五時間に及ぶ延長戦にもつれ込み一進一退の息詰まる一戦となった。
 しかし、延長十二回表、2死二塁で4イニング目の浅尾投手が岡田の三塁打を浴び1点を勝ち越され、この回の裏はロッテ・伊藤投手に谷繁、井端、藤井と三者凡退に切って取られ、ゲームセット。長いようで短い今シーズンがとうとう、その幕を閉じた。

 ボクはこの夜、ドームで応援に駆けつけた人々から生の声を聞いたあと、場所を今池のちょっと洒落た店に移し、ただ一人夕食を取りながら第7戦の推移を見守った。前半、苦手とするロッテの渡辺俊介投手を打ち込み、6―2とした時は「ヨシッ、今夜はいける」と確信しながら、その後ロッテ打線に大量点を跳ね返され、終わってみれば8―7の完敗である。

 【笛猫茶番日常の劇】とうとう日本シリーズが終わってしまい、アタイもシロも、なんだか心の突っかい棒がはずされてしまった心境です。あれだけ、みんなで応援してきたのに……。アタイに言わせてもらえば、壮絶なる戦いの一方でミスが多すぎた気がしました。
 でもね、皆さん、よくよく胸に手を当ててください。人生って。「うれしいものですね」という半面で「かなしいものですね」とも言うじゃありませんか。みな、思いどおりにはならないものなんですよ。選手も監督、コーチ陣も、皆さん、よく頑張ってくれたじゃないですか。もう悪夢は忘れましょう。また新たな一ページが始まるんだから。前に向かってあるいていきましょうよ。

 あっ、そうそう。Mは久しぶりの七尾に満足して帰ってきました。Mが能登の海に残してきたわが家の歴史的名作は、こうです。
♪まだ月にうさぎが居ると信じたい 観覧車の回る回れよ

 何げない人ひとり、Mの世界。これこそが、オトンもアタイもオニイにとっても、何よりも「うれしかった」ことです。

☆「尖閣衝突 『流出映像 本物と断定』 石垣海保職員『自分が編集』」(7日付中日新聞1面)中日ドラゴンズがロッテに破れ、日本シリーズを敗退。

平成二十二年十一月六日
 まさに、球史に残る名勝負、死闘とは、このことだ。
 かつて、同じロッテ選手として戦ったドラゴンズの落合博満監督と、ロッテの西村徳文監督。五年間、同じ釜の飯を食べたふたりだ。落合選手が三回目の三冠王に輝いたとき、六歳下の西村選手は盗塁王を獲得した。一歩も譲れない両雄、王手にまで攻め込んだロッテ、剣が峰の土俵俵に立つドラゴンズ、両者の対決が今夜、ナゴヤドームで行われ、試合は延々五時間四十三分に及び、2―2、十五回引き分けという結果になった。

 むろん、これほどに長い試合は、日本シリーズ史上初めての記録である。試合が終わったのが午後十一時五十四分、零時少し前で、このころになると選手の誰もが、幻のステージに立つ実体のない蜻蛉のようにも見えた。所詮は、この世の夢芝居か。人々は、ただゲームの過ぎゆくままに、そのいつ終わるとも果てない濃密で、空虚な時間に酔いしれたのである。終車時間も何もない。ただあるのは試合の結果だけ、という時が延々と刻まれ、流れていった。

 死力を尽くしての戦いだった。ドラゴンズは先発・チェン投手、ロッテも成瀬投手に大一番の勝敗を託して始まり、チェンも成瀬も、一回の表と裏に仲良く1点を取られたものの、あとは会を追うごとに、両者とも譲らないゲーム運びとなった。六回裏、ドラゴンズが成瀬からブランコの適時二塁打で1点を勝ち越し、チェンをリリーフした浅尾投手が逃げ切るかと思ったのも束の間、その浅尾が今度は八回表にサブローに打たれてしまい、ゲームは2―2の振り出しに戻った。
 両チームともリリーフ陣の好投もあり、延長戦に。なかでもドラゴンズの場合、延長戦に入ってからは毎回ランナーを出し、さよならのチャンスを得ながら、残塁の山を築いていった。悔やむに悔やみきれない攻めの甘さが目立ち、ロッテも送りバントを二度、三度と失敗し、時と「ゼロ点」ばかりが積み重ねられていく。「ああ、何たること」。惜しみきれないシーンの繰り返しに、日本中がわきたった……。

 ところで、きょうの地デジ放送(東海テレビ)は、このところ低迷と陰りが見えるプロ野球人気復活に火をつける意味でも大成功だったのでは。(ちなみに、中継はあすも同局で行われる)。解説陣もよく「日本シリーズにふさわしく、全体にとてもよく、めったに見られない試合だった」(古田郭也元ヤクルト監督)「中身が面白くてプレーのひとつに味があり、深かった」(野茂英雄元大リーガー)「両監督ともに勝負師で、まさに死闘だった」(元中日選手・田尾さん)と話していた。
 その通りで、出色だった、あのルーキー・ブーちゃん(中田亮選手)の二塁打、シリーズ新記録となる森野の4試合連続二塁打、さらにはこのところ十九試合ノーヒットだった井端選手の複数安打、大島選手の超ファインプレー…と見るべきものは多かった。

 そして。何よりも、ボクの目には、この日、両チームの戦う選手、監督、コーチの全員が先にチリの鉱山落盤事故で奇跡的に地上に戻ってきた三十三人の英雄たちの姿にだぶって見えた。ここまでくれば、全員を称えてよい。全員が、きょうのヒーローである。観客さえもがヒーローである。そう言えば、シーズン史上最長の総力戦となったこの試合に中日、ロッテともに二十二人計四十四選手を使っており、チリの落盤事故で奇跡的に救出された「三十三人」と、どこかしら語感が似ている。この世には起き得ないことが起きる。一体、誰が、こんな意地悪をしてくれるのだろう。「お互いに重たい試合になった」(落合監督)のも、天からのお示しか。

 とまあ、こんなわけで、今夜のドラゴンズ、そしてロッテの選手たちは皆、すばらしいプレー(この際、中日・大島の超ファインプレーから、ロッテのバントの凡ミスまで、すべてを含ませていただく)を全国の野球ファンにみせてくれた。結局、勝負の行方は、ドラゴンズの2勝3敗1引き分けでロッテが王手をかけたまま宙ぶらりんの状態で、勝負はあす以降の結果に委ねられることになったのである。ここで数え切れないほどに多くのファン、観客はじめ球団、ドーム、各社の担当記者たちーなど。ありとあらゆる人たちにありがとう、と礼を述べておきたい。

 さて、試合の方だが、あすの第七戦を中日が勝つか引き分けた場合、「2010年度日本シリーズ開催要項」により、八日にナゴヤドームで第8戦を実施。それでも決着がつかなければ9日を移動日として、十日に千葉マリンスタジアムで第9戦を行うことになる、という。

 【笛猫茶番日常の劇】いやはや、今夜の日本シリーズは、とんでもないことになりました。きょうは、お母さんのMが能登半島の七尾で明日行われる長谷川等伯生誕百年記念の七尾市民短歌大会に出席するため、途中の乗り継ぎ先である米原まで送ってきたそうです。だって、Mは病み上がりなのだから、それに七尾といえば結構時間がかかるため、米原まで見送ったのです。それに(本当は一緒に七尾について行きたかったみたいだよ)今夜は、ロッテに王手をかけられている日本シリーズ第七戦がナゴヤドームであるため、出来たら名古屋市内で日本シリーズに沸く何げない町の表情でも確かめ、ファンの声も集めておきたい。こんな考えから同行は見送り、米原まで見送ったみたい。

 でもね、いったん帰宅後、テレビ中継を見たうえで「町」に出てみよう、と思っていたオトンの思惑も試合が進むにつれ、テレビをそのまま見ているべきだ、との判断に傾いたようで、そのままわが家に居残りという結果に。おかげで延々と続いたゲームの一部始終を、テレビ中継を通して観客の表情ともども、しっかり瞼に焼き付けることが出来たのです。むろん、アタイもオトンの横でずっとテレビを見てドラゴンズを応援していたよ(だから、負けなかったんだ)。

 あまりの緊迫ゲームに画面には感極まったあげく、涙を流しながら応援バットを振る女性など、ひごろお世話になっているファンクラブ会員の何人かの顔が時折、大写しになり、オトンはそのつど心のなかで、応援してくれているドラゴンズファンの一人ひとりに向かってエールを送っていたそうで~す。

☆「尖閣映像ネット流出 石垣海保編集の1本か」「地検提出 44分、長さも一致」(6日付中日新聞朝刊から)「テレビとネット 同時配信検討 NHK 総務省にも打診」、「優れた論文 多様性が支え 文科省など調査」「若手・外国人の参加率高く」(5日付毎日新聞朝刊)
 絵本「100万回生きたねこ」などで知られる絵本作家・佐野洋子さんが五日午前、乳がんのため東京都内の病院で死去。七十二歳だった。