脱原発小説「海に向かいて、 ―瞬き」

 二〇一六年三月十一日。
 あの東日本大震災が起きて丸五年がたつその日の朝。私は新幹線「のぞみ」号の自由席に乗り、名古屋から東京に向かっていた。視線をあげる。と、そこには新聞社の電光ニュースがこれでもか、と先を争う如くに流れ、私の両の目の視界をこじ開けでもするように活字がはやてとなって、次々と飛び込んできた。

「原発事故のあった福島では9万8500人が避難生活をしています。昨年、帰還が解除された楢葉町では帰還した住民は6%」「東日本大震災から5年。南三陸町の防災庁舎には早朝から遺族らが訪問。献花台に花を手向けて祈りを捧げた」………など。痛ましい現状が生き映しとなって私の脳天に突き刺さり、迫ってくる。半面で「一向に改善されてないじゃないか」と画面から目を逸らす。
 その日、私は東京電力福島第1原発事故の発生に伴い、放射能汚染で被災したふるさと・浪江町を逃れ、埼玉県のシラコバト団地で避難生活を過ごす人々による東日本大震災の追悼式に出席するため新幹線に飛び乗ったのである。あの大震災、巨大津波と原発事故から五年の月日が流れたが、家族を失ったり、引き裂かれて散り散りとなった被災者たちはいまも呻き続けている。

        ☆        ☆
 二〇一五年四月二十五日。ネパールで大地震が起き地球が大揺れしたかと思ったら、今度は鹿児島県屋久島町の口永良部島新岳がマグマ大噴火を起こし噴煙が九千㍍以上にまで高く膨れ上がり全島民が屋久島に避難、翌五月三十日夜には東京都・小笠原諸島の西方沖深さ五九〇㌔を震源とする震度5強の地震が起き、新幹線が一時運転を見合わせたり、六本木ヒルズや東京タワーでエレベーターが止まるなどパニック寸前に陥った。
 箱根の山もいつ大事に至るか予断を許さない。危うい現況にあり東日本大震災が起きて以降というもの、御嶽山の火山爆発に代表される噴火が各地で続発、日本じゅうが何か自然の祟りのごときものに襲われ、日本いや世界じゅうが戦々恐々としている。この機に及んで、それでも原発が必要だ、というのか。第一、大噴火にどう対処するのか。具体策は何ひとつとしてないのが現状で、原発の存在なぞ火山がいったん大噴火し牙を見せれば限りなき人災を誘発し、人間社会などは一瞬にして破壊され尽くしてしまうだろう。
 なのに。それでもニンゲンたちは自爆テロ同然の原発エネルギーにあくまでこだわり、頼ろうとしている。私には、そこが分からない。いったん事故が起きてしまえば、人間の手では制御できない。放射能汚染を止めることができない科学の大罪を分かっていながら、なぜ再稼働をさせてしまうのか。そこが分からない。

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「あぁ~、きれい。なんて美しいのだ。この世のものとは思われない」
 その日。私は木曽川を隔てて愛岐大橋ひとつをまたいだ岐阜県側の各務原市で市内をながれる新境川の桜堤を、サクラ吹雪に打たれながら、ただ黙々とあるいていた。時折、背を伸ばし、重心を右足や左足に交互に乗せ、ワルツやブルース、ルンバのステップを踏んでみる。なんとも粋な、サクラの花びらを浴びながらの行進である。社交ダンスの仲間たち、といっても五、六十代が大半だが、その人たちと約束していた花見の宴の会場である川沿いの市民広場に向かう道すがらで、頭のなかには東日本大震災の被災地仙台生まれで大震災の前年秋に私の住む尾張の地、木曽川河畔の江南に移住してきたトシコさんのことが、まるで蛇がトグロでも巻くようにして渦巻いている。
 顔から、胸から、頭のてっぺんからも。至るところから降り注いでくるサクラたち。それこそ、両手、両足にまで散り始めたサクラの花びらたちが春の嵐の〈かぜ〉に乗って容赦なく私の全身に吹きつけてくる。身も、心も、不思議な赤みを帯びた白に染められていく。これほどの花吹雪におそわれたことが、かつてあっただろうか。少なくとも私が知る限りの意識のなかでは、こうした経験は思い浮かばない。払っても、払いのけても花弁のひとひらひとひらが、これでもかと私の全身に執拗に吹きつけてくる。顔を上げると、そこにもまた一面白い花弁に埋め尽くされ、漂いながら川面をながれていく白い集団が確認された。これら花々のなかに私の知らない生が、そして大宇宙が宿されている。そこにも戦争とか飢餓、大津波、放射能汚染といったものがある。そんな気がするのだ。
 目の前の桜堤。そして堤防道路の路面も白一色にまぶされ、私は雪国の冬を思い出し、ただひたすら何かを思い、追い求めてあるいている。以前、新聞社の地方記者時代に暮らしたことがある、雪に包まれた能登半島七尾市の小丸山公園をあるいているような、そんな錯覚を覚えた。と同時に私はこんなに素敵なステージのなかで、これほどの幸せ感に包まれ生きていてよいものか、人として何ひとつ役立つことをしていないのに、美しいおとぎの国にも似たユートピア(理想郷)に居てよいものか、と今度は逆に不安の如きものが脳裏を走ったのも事実だ。
 今かふして生きているこの世は現世とは違ふ。もしかしたら異界、前世いや後の世かもしれない。私はソメイヨシノの楽園と化したその桜堤を出来ることなら、そのまま、いつまでもどこまでも抱きしめて、あるき続けたく思っていた。

 あるきながら、ふと思う。
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分ごろ、三陸沖を震源にマグニチュード9・0、震度7~6強の巨大地震が起き、東日本一円の海岸線が大津波にのまれ直後には福島第一原発事故のダブルパンチに襲われた被災地の桜たちは、いまはどうなっているのか。そして大津波や放射能汚染で被災し行き場を失った人びとも、どうしているのだろうか、と。多くの人びとの顔が眼前に浮かび、つぶてとなって容赦なく私の顔に迫り平手打ちを食らわしてくる。
 おまえたちばかりが、ぬくぬくとした暮らしをしている。一体全体、被災者の身になってみたことがあるのかどうか、と。白いサクラの花々の集団は春嵐に誘われるように、なおも私のからだと心を氷雨となって執拗に打ち続けた。

 東日本大震災が日本の大地を襲ったとき。私は名古屋の新聞社七階にあるプロ野球中日ドラゴンズ公式ファンクラブの事務局に一人のスタッフとして勤務していた。激しい揺れに襲われたのは、スポーツ紙に随時、連載中のファンの声紹介コーナー・ファンクラブ通信の原稿執筆を終え、次にファンクラブのマスコットキャラクターである〝ガブリ〟を主人公としたコラム「ガブリの目」執筆を前にひと休みしよう、とデスク席を前に立ち上がった、まさにその時である。
 大きな室内、いや社員を乗せたビルが、突然まるでノアの方舟(箱舟)でもあるかの如く右に左に、と大きく揺れ始めた。振動がなかなか治まらない。気がつくと事務局にいた七、八人のスタッフ全員が総立ちとなり、互いに顔を見合わせ揺れが治まるのを、祈る思いで待った。あの日のことは、ここ名古屋でもきのうのことのように覚えている。
 ビルの場合、テコの原理というか。高さが高ければ高いほど揺れの度合いが増す。ファンクラブ事務局は新聞社本社ビルでも最上階部分にあった。それだけに、大気を大海原に例えるなら、方舟に乗せられ波乗りでもしているような錯覚に陥ったのである。被災地には、矢も盾もたまらない気持ちで震災が起き二週間が過ぎた、その年の三月二十六、二十七の両日訪れた、と記憶している。

 二〇一一年の三月二十六日早朝、既に第一線の新聞記者を離れていた私としては敢えて言うなら名もなき退役記者、かつ一人の小説家一匹(いっぴき)文士(ぶんし)として東日本の被災地をこの目で確かめ記録に残したい、との強い思いで自宅を出たのである。そして、当時、東北新幹線の行き止まりとなっていた那須塩原駅からは〝緊急〟と窓ガラスフロント部分に表示された臨時バスに乗り込み、郡山経由でいわき市へ、と向かった。いわきに着いてからは明かりが消えた街なかでやっと見つけたタクシーに乗り運転手の協力もあって宿を探し回り、辛うじて営業を再開していた郊外ホテルを見つけて投宿。翌朝早く、前夜のうちに頼んでおいたそのタクシーで最初に小名浜の被災現場を訪れたのだった。
 家という家が津波にさらわれ、廃墟と化したガレキの山ばかりが延々と続く海沿いの被災地。全身傷だらけ同然の惨状を目の前にタクシーを手離した私はただ無言であるきたい衝動にかられた。車中では運転手が「私の家と家族は無事だったが、同僚のなかには家をそっくり流されてしまったり、死んだ者も多い。どうしようもありませんよね。フラガール名物で知られるフラ・タヒチアンなどリゾート施設の多くも被災しました。漁協も、港も、コンビニも、です。さんざんですよ」と自らに言い聞かせるように口を開いた。
 実際、海沿いに走る道の両側は死の町同然で廃墟となった家々の目の前に横たわるのは津波に引き裂かれ木端微塵となり、その後うず高く積まれたガレキばかりだ。小名浜でタクシーを降りた私は、海に沿って広がる一帯を何かにつかれたようにあるき続けた。歩くうちに気付いたものがある。それは、先ほどからずっと私を見下ろすようにして前方、塩屋の岬に立つ白い灯台で、それこそが昭和の歌姫として知られた、故美空ひばりさんの〈みだれ髪〉の舞台で知られる塩屋埼灯台だった。

 私はそのまま、小名浜から四ツ倉、豊間…と灯台を仰ぐようにして一歩一歩前に進んだ。風はまだ冷たく冬の海からふきあげてくるようにも感じた。途中、高台に立ち尽くして海を見下ろしていると、知らぬ間に女性が私のすぐ傍らで並んで立っているのに気付いた。先ほどまで時折うなだれ放心状態で一帯を歩く人をパラパラと見かけはしたが、見知らぬ女性にそれもこれほどの至近距離で立たれると、なんだか怖い気がせぬでもない。
 女性は、そんな私に向かって語りかけでもするように言葉を確かめ、確かめ、ひと言ずつ切り取るようにこう述べた。
「アタシ、これまで八十四年生きてきたが、あんなにも怖い体験は初めて。この辺りは人間も、猫や犬、民家も、薬局、クリニックも。コンビニ、ほれっ、見て 漁港の岸壁、護岸堤さえも、み~んな根こそぎ波にさらわれ、黄泉の国に持っていかれてしまった」
 女性はここまで一気に話すと、よほど怖かったのか、私に一段と近づいて声をふきかけてきた。
「あのネ。あの日、砂と水のまざったどす黒い津波が巨大な壁となって目の前に迫ったときゃ、それこそ津波てんでんこサ、よ。自分の命は自分で守るほかなく、みんな命がけで高い方へ、高い方へと逃げたが、それでも多くが波にさらわれ、命サ失った。うちの父ちゃんの友だちも走って逃げたが水の方がはやく、つい二、三日前、木に引っかかって死んでいた。逃げ惑ううち、電信柱によじのぼって助かった人もいる。
 それに、ここは事故を起こした原発から四十二㌔地点。そう、ずら。だから心配でしばらくは高台にあるわが家でじっとしていた。でも、きょうは横浜に嫁いだ娘も心配してやってくることになっている。それに、こんなに美しい海なんで。もったいのうて。久しぶりに外に出てみた。そしたら、あなたさまにこうしてお会い出来、これも縁だよね。んだ、んだ」
 私はあのとき、女性の話を聴きながら海を前に黙って何度も頷くように頭を下げ同時に何億人以上もいるこの世での人間同士の奇跡ともいえる巡り会いに胸を熱くしたのだった。あとで知ったことだが、大震災は仙台生まれのトシコさんが、家族の事情もあって、たまたま前年の秋、仙台から木曽川河畔の江南に引っ越してきてまもなく発生したのだという。


 それから何日もの月日が流れ去っていった。
 その年、すなわち大震災が起きた平成二十三年秋に落合博満監督率いる中日ドラゴンズが前年に続いてリーグ優勝、球団史上初のセ・リーグ連覇を果たしたのを潮時に私は新聞社の記者稼業に終止符を打ち、それまで六年にわたって務めたドラゴンズ公式ファンクラブの会報編集担当というポストを依願退職、作家としての人生を歩み始めた。
 かといって、かつて長崎大水害や栃尾温泉郷のダム崩落、中部日本海地震、三宅島噴火、さらには長野・富山連続誘拐殺人、自衛官の小銃乱射など現役記者時代に何度も悲惨な災害や凶悪犯罪など数えしれない事件現場を取材した経験が血を沸かせるのか。東日本大震災の発生後は、最初に足を踏み入れたいわき市の塩屋崎灯台直下に広がる被災地はじめ、そのごも現地を何度も訪れている。一方で非常勤講師として大学の教壇に立ち学生を前に講義をしたり、なんども倒れ傷だらけも同然の病身の妻美歩の「わたしは体が無理なので行けない。でも、あなた代わりに行って来てよ」と強引ともいえる勧めもあって「平和とは何か」を自問自答するためオーシャンドリーム号によるピースボートの102日間に及ぶ地球一周船旅を体験したりもした。
 そして。この船旅の旅先ではアイスランドを訪れた際、「自然エネルギー最先端のアイスランドから学ぶエネルギーの未来」なるオプションツアーに参加、地熱エネルギーを生かした温室栽培やアースクッキング(料理)のほか、太陽光発電や風力をつかった自然エネルギーの活用方法などについて、その実態と可能性を学びもし、原発がなくても人類は他の再生化エネルギーで十分、生きてゆけるとの確信を新たにもした。最近では下水を再利用した全国自治体のエネルギー化への取り組みにも関心を深めている。

 トシコさんと思いがけず出会ったのは、私がプロ野球の中日ドラゴンズ公式ファンクラブ事務局スタッフを辞したあと、地球一周の船旅から帰国後で、美歩がここ尾張の地方都市・江南市の一角で半ばボランティア同然に営む、主に衣料品を中心としたリサイクルショップ「ミヌエット」を開店してまもないころ、だった。店内で美歩主宰の〈ちいさな音楽会〉が開かれ、私は美歩に頼まれるまま記録としてミニコンサートの模様をビデオに収録していた、そのときだった。キーボードの音に合わせ参加者全員がNHKの復興支援歌「花が咲く」を歌い始めると、うたいながら涙がとめどなく頬を伝う一人の初老の女性が目にとまり、その人こそがトシコさんだった。
 彼女は、その日出演者と曲目の司会者として美歩の求めに応じてボランティア奉仕していたが、「花が咲く」のメロディーが流れ始めると、トシコさんは流れる涙をものともせず、歌い続けるのだった。曲が終わると彼女は「アタシ、仙台にいたものだから。この歌が流れると泣けて、泣けてしかたないのよ。でも、何の因果、偶然なのかしら。いろんな事情があって大震災が起きたり、原発事故による放射能汚染が始まってしまった。アタシ、震災が起きるほんの少し前に木曽川河畔のこの街にやってきたの。だから、この歌を聞くと、いろんなことが思い出され、アタシだけが卑怯にも東北の仙台から逃げ出してきたみたいで。泣けて、泣けてしかたがないの」と小声で言って笑うのだった。
 だから、それ以降というもの私は「トシコさん」と言えば、決まって不思議とその瞬間に彼女のあのふくよかな笑顔と同時に東日本大震災と福島第一原発事故の放射能汚染に苦しむ被災地の人たちのことを思いだしてしまうのである。そしてトシコさんとは、その後も美歩と一緒に親交を深めるにつれ、彼女の被災地への思いが懺悔の気持ちも手伝い、想像以上に強いものであることを思い知りもした。と同時にトシコさんの述懐などから、彼女の生まれ育ってきたこれまでの人生についても私は多くを知った。

 それは次のような波乱に富んだものであった。
 トシコさんは仙台市青葉区の街道に面した旧色(いろ)町、田町で生まれ、幼少期を育った。その町では一番の呼び声が高かった芸妓と仙台を訪れるつど決まって会いにきた富山出身の軍医サンとの間に戦争末期の昭和十九年に生まれた。だが、実の父親の存在を知ったのは、だいぶたってから。三十六歳になり、ある人の仲立ちで生みの父親と会ったときが初めてだという。また、仙台で生まれたトシコさんがその後、どんな経緯をたどって木曽川河畔のこの町で住むようになり、再び仙台に移り住み、大震災を前にふたたび江南の地に舞い戻ってきたか、となると、その段階では知る由もない。


 この世でトシコさんにまだ会う前。私は東日本大震災が起きてほぼ二週間後にいわき市の被災地を訪れたのに続き、その年の六月、翌年二月の順で仙台市、宮城県亘理郡山元町、南相馬市などの順で訪れ、津波にのまれたあと、復旧工事と復興が進む被災地を見て回った。このうち二月の被災地行は名古屋の名鉄バスセンターで仙台行き夜行高速バス「青葉号」に乗っての強行軍で、翌早朝にJR仙台駅近く宮古仙台高速バスセンターに到着したときは、それまでの緊張感がとけ、なんだかグタリと力が抜け落ちたことをよく覚えている。確か、その日は仙台駅で簡単な朝食をとり仙石線で多賀城に入り、いったん仙台に戻りJR常磐線に乗り亘理駅で下車し、ここから相馬行き普通代行バスに乗り山元町を訪れた、と記憶している。
 なかでも高速夜行バス車内では途中、押し黙ったままの乗客の表情にピリピリしたものを感じ、どこか戦場を訪れるような刺々しい感覚に襲われたことを思い出す。山元町でバスを降りた私はバス停近くに止まっていたタクシーを拾うと、十分な時間をかけ一帯を見て回った。多くの命が波にさらわれ、破壊され尽くした老人ホームの残骸や、家屋の内部だけがスッポリと抜き取られる如くに消え、それでも残った四方の柱だけが必死の形相で空に向かって立つ姿に胸をかきえぐられる、そんな非情さを感じた。せっかくなので事前にアポを取らせて頂いていた、町役場横に大震災後に開設された災害臨時FM局「りんごラジオ」も訪れ、ここではスタッフによって刻々と流される生活情報の一つひとつが被災者にとっては、いかに大切なモノであるか、を思い知りもした。
 そして。それより前の年の六月、私は海に面した家々が全滅状態の仙台市若林区荒浜にも足を運んでいる。あのときは、まだファンクラブのスタッフの一員で仙台市のKスタ宮城球場で行われたドラゴンズ対楽天戦にドラゴンズ公式ファンクラブに所属する被災会員家族八十五人を招待。試合が終わったあとの自由時間を充て荒浜を訪れたが、何も手つかずのままの一帯を前に手を合わせ浜から歩いて帰ろうとする私に「何も変わってねえだべ。三カ月たっても一緒だよ」と若者が語りかけてきた。ウンダウダ…と言うようにしてうなづくと「多くのヒトがいなくなってしまった、だ」と、この先どうしていいものかと訴えるような眼差しが投げかけられ私は返す言葉もないまま、ただ根こそぎ引き抜かれる如く、倒れている多くの松林の方に向かって視線をあげるほかなかったことを覚えている。
 今にして思えば、嬉しかったのは東北地方に住むドラゴンズ公式ファンクラブの招待会員全員から喜んでもらえたことか。会員のなかにはガス、水道、電気といったライフラインが長い間、途絶えたままだったり、原発事故に伴う放射能汚染で避難所生活をしたり、長年住み慣れた家を代わった人もいたが、どのドラファンも久しぶりのドラゴンズとの再会に笑顔の球場入りとなった。試合の方もドラゴンズが5―2で逆転勝ちし、岩瀬仁紀投手がプロ野球記録に並ぶ通算286セーブを達成してくれ、あの日のことは今も忘れられない。
 敵チームをガブリと食べてやっつけてしまう、との願いを込めファンクラブ誕生まもなく登場したマスコットキャラクター「ガブリ」(「ガブリ」の名前は約六千通に及んだ公募の中から、スタジオジブリの鈴木敏夫さんに審査委員長になっていただいて選んだ)も珍しさもあってか、大変なもてようで被災者がいっとき身を襲った日常の苦しみを忘れ、一緒に記念撮影におさまる光景があちこちで見られ、事務局スタッフの一人として印象深い一日になったのである。


 あれから、どれほどの月日が流れただろう。
 私はいま日々の暮らしのなかで東北の被災者たちのことを、ふっと呪文にでもかけられたように、よく思い出す。なかでもある日突然に東日本大震災の巨大津波とともに人間社会を襲った福島第一原発事故による放射能汚染の現実のなかで苦しみ、足掻き続ける人たちの今を思うと、息苦しささえ覚える。だが思い悩んだところでどうにもならない、のもまた事実である。

 そんななか、私は一昨年と昨年、ことしと三年続けて震災が発生してまもなく、いち早く訪ねたあの塩屋の岬に立つ塩屋埼灯台直下に広がる被災地を訪れた。現場に立って海上で互いに戯れる波たちと浜辺でくつろぐ海鳥たちと無言の対話を重ねるのと、その後の被災地の復興ぶりをこの目で確かめるのが狙いだった。海に目を凝らすうち何百、何千人と多くの人々の命を奪った波たち、彼女たちが今も泣いているように見えたが実はそうではない。嘆くよりも「早く日常生活を取り戻してほしい」と逆に私たち人間に訴えかけ、励ましてさえしてくれる。そんな気配というか、叫びにも似たものを感じたのである。そして、その波たちのなかには、いつだって、あのトシコさんのやわらかな目と、どこかヒリヒリする感情のような得体のしれない「何か」が含まれている、そんなことを感じたのである。
 昨年、二〇一五年二月二十四日の午後。いわき駅でバスに乗った私は一昨年につづいて同じように「灯台入口」で降り、一帯の復興状況を歩いてつぶさに見て回ったあと、同じバス停前で長い間、立ちつくした。一時間、二時間、三時間と。黙って大気と〈かぜの流れ〉のなかに身をおいて立ち、行き交う工事車両やヘルメット姿の工事作業員、家や土地を津波に持っていかれた被災者なのだろうか、互いに肩を支え合い、無言のまま脅えた表情で訪れた家族連れの何人かを目の前にした。なかには一角で崩折れるように座り込んでしまう人々を見ていると、胸が重苦しく、息苦しくさえなってくる。それでも私は自身に、何としてもその後の被災地の表情をしっかり見ておかなければ、と言い聞かせる。でないと、現代社会の表現者として、作家としての私自身の存在感がなくなってしまう。

 バス停「灯台入口」とて、容赦はない。何台もの工事用のダンプカーやトラックが資材を背にそれこそ猛速度で埃を撒き散らして目の前を通り過ぎ、行き交っている。車の行き来をみる限りでは工事は前の年に比べると、かなり加速化されている。どれも耳をつんざくようで私の存在など関係ない、と言いたげだ。そんななか、私は確かに目の前に広がる被災地の至る所が十数㍍わたって嵩上げされつつあることに気付いた。と同時に来年、ここを訪れたときには、愈々待ち兼ねた家が建ち始めているような、そんな気もしたのである。そこには、そのまま立ち止まり太く赤いラインが引かれた嵩上げ部分を、まるで珍しいものでも見るように、しげしげと見つめる私がいた。

 ここで私はふと何かを思い出すように、前年の三月十日に同じこの場所に立ち尽くして書いたメモを取り出してみる。そこには、次のように書かれていた。
(2014年3月10日午後)
 いわき駅からは泉駅行きバスに乗り、バス停「灯台入口」で降り、今回の被災地行で一番の目的だった塩屋埼灯台直下まで歩く。かぜが強く冷たく、とても寒い。ただひとつだけ残された豊間中学校の校舎だけがポツンと建つ豊間、そして四ツ倉地区の惨状。大震災が起き二週間後にあの惨状を見た被災地は、その後少しずつ復興が進んでおり、瓦礫の多くは撤去され整然とした土地が奇異にさえ映った。
 辛うじて流されないで高台に建つ僅かな家々もその多くが無人で、復興はまだまだ先だ。流されなかった豊間中。そして海沿いに連らなる護岸などでは工事車両が行き交い、瓦礫の撤去などがクレーン車により進んでいた。直下、薄磯の浜まで歩いたボクは夕陽が落ちる寸前の灯台をビデオに撮りながら自ら思う感想を出たとこ勝負で肉声で録音する。収録を終え寒さのなか震えながらバス停に戻るボクに「お兄さん、大丈夫かい。あたっていきなよ」とつい先ほど灯台に向かう途中に会釈したヘルメット姿の四十がらみの女性に声をかけられ、バスの到着時間までは、まだかなりあるので飯場で暖を取りながら、甘えさせてもらう。
(それから三十分後。)ボクは先ほどから、ここ「灯台入口」のバス停前にひとり立ち、目の前に広がる空と海、そして廃墟の跡をのぞみ見ながらバスを待つ。冷たく寒い風が肌をさし、歯がガチガチと音をたてて鳴る。地上全体が雲に覆われ、これでは心までが暗く寂しくなってしまう。と、思った刹那、こんどはいったん雲間に顔を隠していた太陽がはるか、かなたの水平線に消え入る直前、何を思ってだろう、ヌッと赤く輝いた丸い玉を水面上に浮き立たせた。その直後、海全体がパッと光ったかと思うと、すべてがグリーンの世界に変化し、やがて息絶えるように元の海に戻っていった。紛れもなく、グリーンフラッシュ現象で、ボクは全身をたじろがせ、その射光と一瞬の温かさに眩しく目を瞬かせ、閉じた。
 ふと、我にかえる。目の前では家という家が波ごと海のかなたに浚われていった跡なのだろう。瓦礫というガレキが撤去され、整然となった跡地に緑のネットが張り巡らされている。青い空に浮かんだ上空の雲が少しずつ動いていく。何本もの配線。チュッ、チュッ、チュッ…。風のなかを数羽の小鳥が声をたてて飛び交う。前方の、クレーン車など工事車両が停まる一角に右運転席部分に緑色灯をつけた車が止まり、メガネをかけた若者一人を乗せて、再び発信させ走り去った。
 きのう、美歩は私が打ったメールに「腹が減っていたのでは戦は出来ないわよ」と打ち返してきた。確かに朝早くカプセルホテルで用意された簡単な朝食を食べただけでバスに飛び乗って出てきた。そして「灯台入口」から灯台展望台まで歩き通し、再びここいらをあるき回ったあと、この「灯台入口」バス停まで戻ってきていただけに、腹がグゥーグゥーとなっている。
 クレーン車などを動かす工事車両の作業員以外には誰一人としていない被災地のそのバス停前でボクは、そのままバスを待ち何とはなしに立ち続けている。目の前には津波から助かったのか。電信柱が立つ。かなたの山ではカラスの声。場違いな感じがせぬでもない「警戒強化重点対象地区 不審者に注意!」と黄地に赤抜きで書かれた看板。なんだか偽りの世界のようにも見える。

 メモから目を離し、現実に戻る。
 海の方を眺める。と、そこには物言わぬ白亜の灯台、塩屋埼灯台が一昨年と同じ顔で、何かに耐えるが如く、灯台下の〝美空ひばりの像〟を見下ろすようにして黙って立ち続けている。私は「また、あなたに会いにきました。会えてよかった」と心のなかでつぶやき、頭を下げた。灯台は今や、泣いてなんかはいない。それよりも早くこの町が復興してくれること、ただそれだけを願って仁王立ちとなって生きつづけているようでもあった。知らぬ間に日は暮れ、四方八方に、まるで手を差し伸べるように灯台から放たれる一条の長い光の線と全てを温かく抱擁するような輪が、ときがたつにつれ、ますます明るく輝き幻想的なものとなっていった。
 あぁ、なんと美しい。私は、夕映えのなかで規則的に放たれた光の輪のなかにまるで全身を射すくめられ、からめ捕られるかの如く、ただ放心しバス停前に立ち尽くし目を閉じ、開いた。と、瞼の向こうには「アタシだけが、被災地から名古屋の方に逃亡してきたみたい。アタシって。とても卑怯で悪い女よね」と独り言を繰り返す、あのトシコさんの顔と姿が大きく迫り、次の瞬間消え去った。
 そういえば、私がトシコさんに初めて会ったのは、東日本大震災が発生したその年。ピースボートによる地球一周の船旅から帰国してまもないころだった。


 早朝。私はいま、ビートルズのレット・イト・ビーを聴きながら、この筆を走らせている。〝Let It Be〟。なすがままにしておきなさい、か。若いころ、音源のボリュームを最大にしながらこの曲をはじめ、ビートルズナンバーの数々を運転席カセットで流し、三重県志摩半島の伊勢志摩国立公園の隅々にまで購入したばかりの新車サニーを運転し新聞社の社旗をはためかせて暴走さながらに、取材してまわったものだ。列島改造論の角さん(田中角栄元首相)がまだ健在なころで、あの日々は、まだ若かった。

 ふと現実に戻る。私が塩屋崎灯台直下の被災地を2度目に訪れたのは、確か昨年の二月二十四日だった。私が、これほどまでにこの地にこだわるのは、なぜか。
 かつては本州最大の炭鉱の町として栄え、最近ではフラガールと漁業の町としての自立が目立った、いわき市。その太平洋に面したフラダンスの町の多くが東日本大震災と同時に襲われた巨大津波で壊滅したこともあるが、やはり海沿いの町という町の至るところで目の前に広がっていた、あの惨状と、その被災地を上から見下ろすように立っていた塩屋埼灯台を忘れることができず、どうしても自分の目で被災地のその後を確かめておきたかったからである。そして今ひとつはと言えば、あの八十四歳の女性の言葉「みんな死んじまった、だ。原発事故が怖い」のひと言を、いまも忘れることができないからだ。
 確かに地図をみれば、いわきから北に広野、楢葉、富岡、大熊、メルトダウン(炉心溶融)という原発事故を起こした福島第1原発をまたいで双葉、浪江、南相馬…と国道6号を海沿いに上にいくに従い、原発汚染地域に近くなってゆく。そして、これら被災地の放射能汚染となると、いまだに汚染解消の手立てが何ひとつ見えないまま年々、深刻化。それぞれの生活拠点を引き離され、一家離散の憂き目も決して珍しくはない。それどころか、富岡、双葉、浪江町など帰還困難区域はむろんのこと、山間地では事故発生後五年を経たいまだに除染ひとつ始まっていないところも多いと聞く。
 
 その放射能汚染に泣く町のひとつ、楢葉町を私が訪れたのは塩屋埼灯台直下に広がる被災地を訪れた翌二月二十五日のことだった。前日、灯台直下を訪れた私は重機という重機が行き交い、延々と続く復旧作業の模様を納得いくまで見届けたあと、バス停「灯台入口」で、こんどは逆方向の「いわき」行きバスに乗り、いわき市内に戻り震災後に出来たという駅近くのカプセルホテルに投宿。翌日、午前10時51分いわき発の竜田行き常磐線に乗って、原発事故の放射能汚染に侵された町のひとつ、楢葉町に向かったのだった。
 列車は四両編成、何事も無かったかの如く、ごくごく自然に走り始め、草野、四ツ倉、久ノ浜、末続…の順で停車、ホームに人びとを吐き出し、吐き出し進んでいく。この光景だけをみるなら、ローカル線に共通した海沿いの町を走る牧歌的な風景に過ぎないかもしれない。
 だが一度傷ついたこの列車はどこか、が違う。駅に滑り込む際には、それこそ大きな深呼吸でもするようにひと駅ごとにゆったりと大気のなかに飛び込み、命がけで停車する様子が痛いように分かる。乗客一人ひとりを気遣うように乗せると、また走り出す、というそんな繰り返しでもあったが、車窓からは目を疑うほどの惨状が繰り返し飛び込んできた。
 私自身、こうして列車から被災地そのものを目の前に見る経験は初めてだった。それだけに心臓がトクトク音を立ててくるのを止めようがない。海沿いに走るこの沿線で一体どれほど多くの人々の命や、家屋が流されたかと思うと、もはやとても他人ごととは思えない。列車は、やがて広野駅に着いたが車窓から望み見る町は、今は整地こそされてはいるものの、ブルドーザーが悲鳴のような金属音をたてて行き交い、土たちは明らかに一度は壊滅したとみられる惨めな姿をさらしていた。どう表現してよいのか。分からない。あまりの酷さにことばが出てこない。そこには戦時下に東京大空襲に遭ったあとの焼け野原にも似た痛々しさが見てとれ、まさに傷だらけの町の表情があった。

 実際、広野駅から見る海沿いの町は壊滅的といっていいほどの惨状だった。大自然に立ち向かうように盛り土に大きな刃を下ろす重機の数々。海岸沿いでは、ここでも盛り土された四角な土地が延々と広がる。ふと目をあげると、左手前方にとろけるような太陽が笑うように生き残った家々の上に浮かび、雲の下に隠れようとしている。列車はなにごともないかの如く、また走り始めた。いつもと何ら変わりのない雑木林に広大な海。空。山。川。私はいま、被災地のただなかにいる。無言で吼えたててくる波たち。目の前の波たちは大気と一緒になって私の心を攻め立て、一気に私を滅ぼそうとしてくる。波にも大気にも、放射線が含まれているに違いない。除染はどこまで進んでいるのか。
 広野駅を出発した列車は木戸駅で止まり、「次は終点のタツタ、タツタです」の車内アナウンスどおり終点の竜田駅に着いた。「お出口は左側です。ホーム側電動ドアが開きます」のアナウンスに従い、私はホームに降り立つ。改札を出て放射能汚染で全町民が避難し、人がいなくなっている町、福島県双葉郡楢葉町へと足を踏み入れた。

 竜田駅前に降り立つ。ちいさな駅前広場一角には〈ようこそ ならは町へ〉【未来へのキックオフ! 光と風のまち・ならは】などと書かれた観光案内図入りジャンボ看板が人恋しげに立つ。でも、小型のワゴン車と運転手以外には誰一人としていない広場は、かえって大きな空洞が出来たがらんどうみたいで、異様で寂しさばかりがいっそう際立った。
 そんななか、看板横には電光掲示板形式の常設の放射線固定線量計が置かれており、いま現在のこの町の放射線量なのだろう。これみよがしに0.214μSv/h(1時間当たりのマイクロシーベルト、ちなみに平常値は0.04)の表示が見て取れる。誰かを待っているのか。運転席でただ一人いた五十がらみの男性に「こんにちは。どうしてここにおいでなのですか」と尋ねる私に彼は、待ってましたとばかりに言い訳でもするようにこう答えた。
「ここナラハは東日本大震災後、原発事故により〝避難指示準備区域〟となっており現在、昼間の立ち入りは出来ても夜、住むことは出来ません。だから一般の役場業務はいわき市に移して行っています。でも、一方で町民の方々の帰町準備に対する取り組みも進んでおり、離れ離れになっている皆さんへの身近な情報は、町役場に残した復興推進課を通してお知らせしている、といったところが現況です。
 デ、私がここにいるわけは、帰町準備のほか、家のなかや敷地内など周りの様子を見るために訪れる町民の皆さんの〝足代わり〟となるのが目的で、主に、ここタツタ駅と現在、宙に浮いたままとなっているご自宅の間を送り迎えすることにあります。これだけ夜間の無人状態が続くと、なんだか不気味ですが、みなさんの足代わりになれば。それで充分満足しています。むろん、お役所に頼まれての仕事ですよ。平和な町だったのですけれど。つい、先日には初めて泥棒が民家を荒らす事件も起きました」
 男はそう言うと「いちど、町のなかを歩かれるといい。〝町の息〟が抜かれてしまった家々や通りがどんなにわびしいものか、を分かっていただけるかと思う。住宅と雑木林をまっすぐ、まっすぐ進まれると国道6号に出るのでそこを左折すれば、食堂もあるはずです。でも、次の列車の出発時間までには必ず戻ってきてください。最終に遅れたら、一人だけ、この町に取り残されちゃうことになるから」とも続けた。私は男の親切心に「アリガトウ」と深く頭を下げると、町中心部を走る人っ子ひとり居ない、この通りを歩き始めた。なぜか、神秘な地域に入っていくような、そんな気がすると同時に心臓が波打ち、その鼓動が足の爪先にまで伝わってくる。私は1歩、2歩、3歩と、まるで金縛りになった全身が惰性の歩行器にでもからめとられるように、結構上り下りが目立つ、この坂の町をなおも一人、黙々と歩き続けた。

 いま歩いてきた道は、駅前通りとでもいえようか。二階建て住居、門構えのある立派な平屋建て民家、白い土蔵、広い敷地を持つお寺さんなど。主を持たない家々が音もなく道路に面して建っている。止まれ、の道路標識はあっても第一、歩いている人がいない。交差点もしかり、で先ほどの小型ワゴンを除いたら、車一台通らない町はまるで主のいない幽霊屋敷がどこまでも続くような錯覚さえ覚える。
 歩をさらに進める。と、今度は目の前に立派な瓦葺き民家が飛び込んできた。でも、広い敷地内は至る所、雑草の生え放題で人間の背丈にまで伸びている。外から覗くと玄関先の窓ガラスが割れたままで、家人が見廻りに訪れた形跡がないのは明らかだ。「このナラハにも数日前、とうとう民家に泥棒が入り、騒ぎになりました」と先ほどの男が言っていたが、ここのことを言うのだろうか。家主家族は、恐らく突然の放射能汚染の避難命令に意を決して、一家でこの町を逃げ出していったに違いない。伸び放題の草を横目に少しカーブした道沿いに並ぶ薬局や美容院、食堂、こ料理屋など数々の店を通り越すと、こんどは行く手を遮断するような雑木林が視界に入ってきた。
 あるきながら私は思う。この町は、どこもかしこも息絶え死んでいる、と。町は沈み、音もなく泣いている。夜になっても明かりはない。道路も、住宅も、石垣も。息をひそめているのか。チユチュッチュ、といった、あの雀たちの声ひとつ聞こえはしない。商店街、交差点手前の〝止まれ〟の白い表示、電信柱、自動販売機、路面の日向に映る家屋の影、防犯灯、雑木林の木々たちも。何もかもが、だ。この町の人々が一体、何をしでかした、というのか。罪なき人々を襲った放射能汚染という人災の代価。それはあまりに大き過ぎる。
 立派な家という家が主を失い、悔しさに耐えかねた表情でひそ、と佇む。ひとり無言であるく私。屋敷内の庭は、生え放題の草ぼうぼうだ。そんななか、僅かに梅のピンクがかった、ちいさな花びらだけが、美しい1輪を20~30ほど、からだを枝に張りつかせ、耐えるようにして、かれんな白い花々を空に向かって咲かせていた。この花たちは生きている。ちいさな命を風に揺られながら必死に生きている。そのあどけなき姿が、かえって歴史の証言者を思わせ、私は目を合わせると思わず、身震いをした。このまま夜になり、たとえ月明かりが消えたとしても、町は死んでもこの梅の花たちだけは確実に生きていくに違いない。生きぬいてゆくだろう。生きていてほしい。

 国道6号線に出た私は、男に言われたとおり左に折れ、どんどん歩く。国道だけが聖域でもあるかのように、何台もの工事車両や車の群れが何事もなかったような音をたてて次から次へと通り過ぎていく。メルトダウンしたあと放射線や汚染水を大気や土中、海、水道水に、と至るところに巻き散らしてしまった福島第一原発事故、その事故現場の復旧工事に向かう車両なのか。それとも双葉、浪江、原町、相馬方面から郡山、宮城、岩手へと通り抜け、駆け抜けていく車両なのか。時折、出すけたたましい悲鳴にも似たエンジン音と荷台から出る埃ばかりが耳と目に残る。皆それぞれに家族があり、ふるさとがあるだろうナと思ってみたりする。むろん互いを思いやる心もあるはずなのに。
 除染された名残りなのだろう。除染廃棄物が入った黒い袋が行く先々の道路沿いにそのまま保管でもするように束になって放置されている。仮置き場がないので、こうするほか方法がないに違いない。国道沿いの道をしばらく歩くと、何台もの車が止まっている駐車場を兼ねた、かなりのスペースの広場が迫ってきた。一角には統一地方選を前に「自ら考え自らの意志で 良心に恥じない投票をしましょう 楢葉町選挙管理委員会」と書かれた看板が立つ。国道に面して仮設店舗街があり楢葉町鐘突堂地区仮設店舗の案内板と〈買えるよ食べるよ ここなら商店街〉の屋上看板まであり、私は【武ちゃん食堂】か、そばうどんの【おらほ亭】に入るか、迷ったが指で示した〈ど・ち・ら・に・し・ま・す〉の指示通り、武ちゃん食堂の方の暖簾をくぐった。メニューをみるや、牛タンそば定食を注文し食べたが、この味のおいしかったこと、結構な距離をあるき通しだっただけに、福島の味が腹にしみたのである。
 食事のあとは、【一生懸命 営業中】と書かれた木札を横目に近くの町役場庁舎へ。一部職員が残って業務に当たるすぐ近くの町役場庁舎はじめ、界隈を見て回ったが、広い庁舎内は閑散としており、人の息が感じられる場所となると、通行車両の運転手や役場職員、一部工事業者らが出入りする武ちゃん食堂のある仮設店舗街の並んだ、その部分のただの1カ所だけだった。ただ、役場庁舎前の案内板から、この町の花が〈やまゆり〉であり、木は〈すぎ〉、鳥は〈うぐいす〉であること、そして希望に満ちた町民憲章の存在を知り、どこか救われる気がしたことも事実だ。
 帰りは迫る列車の時間に追い立てられるようにして半ば小走り同然で駅まで戻ったが、列車が発車する寸前、タッチの差で「タツタ」駅に着いたときには、それこそ万歳と叫びたい心境にかられた。一方で音という音が市街地から完全に消え去ったナラハのこの先を思うにつけ、町民憲章にいう〈心とからだをきたえ、楽しい町にします〉〈教養を深め、きまりを守り、明るいまちにします〉〈仕事に誇りをもち、力を合わせ、豊かなまちにします〉〈自然を愛し、心のふれ合う平和なまちにします〉〈あしたに希望をもち、若さに満ちたまちにします〉(昭和51年7月29日制定)〉の5つの誓いが心に重く残った。
 竜田から、いわき向かう車中、私はずっと立ち通しで傷ついた家並みを見続けていた。なぜかは知らないが、目を閉じると、家という家の軒先に太陽光パネルと風力計が張り巡らされている、そんな幻の街並みが大きく浮かんで消え去った。いつのまにか日は、茜色に変わり、車窓から見る海も暮れなずもうとしている。あの塩屋埼灯台が近くに迫った。と、思うと同時に灯台は遠くに消え去り、明かりだけが四方八方に、と海面を照らす。海面にはまたしても、あのトシコさんの顔がトビウオのように飛び上がり「アタシ卑怯な女なんだよね」と言って笑った。ナンデ、そんなことないよ。トシコさん、何も悪くなんかないよ。運命なのだから、と私は否定する。


 あれから何日が過ぎただろう。
 それまでの記者生活から一変した素浪人、一匹文士の道にもようやくなれた私は社交ダンスや横笛レッスン、執筆などの合間を縫って木曽川河畔に広がる、この町江南で美歩が営むリサイクルショップ「ミヌエット」にちょくちょく顔を出す。ミヌエットに行けばトシコさんに会えるかもしれない。会えば、彼女の生まれ育った仙台の話や大震災のことを聞けるかもしれない。彼女は私生児とはいえ、母親がその土地一番の誉れ高い芸妓の子だけあって、天性の芸達者だ。唱歌や童謡を歌わせたら天下一品、人まねなど芸人や歌手のジェスチュアもうまく、店で時折ある〝ちいさな音楽会〟では名司会者として人気の的なのである。第一、話だって歯切れよく、分かりやすい。というわけで、今ではほかにも老人ホームや老人クラブの集いの席などにもしばしば招かれ司会をしたり、この町の歌手として出演するなどナンダカンダと忙しそうでもある。
 だから、もしかしてトシコさんに会えるかも、と私はそんな淡い期待感をもってきょうも足しげく河畔の店を訪れるのだが、店でバッタリ会うということは、なかなか至難の業だ。デ、美歩を伴い市内のイタリア料理店で共に食事をしながら、震災への思いを聞かせて頂くことにした。被災地の話に始まり、原発事故による放射能汚染やら津波被害、何人もの友だちを失った悲しい話など、どう転んでも傷口を触ることになるので失礼になる―とは思いつつの食事だったが、健康優良児がそのまま育ってきた感じのトシコさんの返答はどこまでも快活、かつ明解なもので私の問いかけにも思いのままを語ってくれた。
 それによると、仙台は田町で芸妓置屋の女将と軍医との間に生まれたトシコさんは、そのご八歳になると他人には語り尽くせないいろんな事情から仙台とは遠く離れた、ここ木曽川河畔の街に居た生みの母の妹の嫁ぎ先に養子としてもらわれてきたのだという。そして、長い年月を経た二〇〇九年三月、再び家族の、とある事情から仙台へ。ここで父親が腹違いの弟と再会し、そのまま一時は一緒に暮らしていたが、なぜか大震災が起きる前年の十一月、仙台に再婚を控えた弟だけを残し再び、この木曽川河畔の江南に舞い戻った、ことなど。話は尽きなかった。

 そのトシコさん。東日本大震災の話となると、いろんなことを思い出してしまうのか。話を進めるうちに急に話が途切れ、その日も涙ぐんでしまい「アタシが悪い。アタシが自分勝手で仙台からこちらに来てしまったのが悪かったのよ。アタシが馬鹿なのよ。だから神さまがお怒りになって、あんなにも巨大な地震と福島原発事故を起こしてしまった。アタシはひきょうもの。どうにもならない女よ」と自らを責め続けるのだった。
 実際、トシコさんは、大震災が起きる四カ月ほど前までは仙台市の都心の高層ビルで弟のマコトさんと共に住んでいた。大震災が起き大騒ぎになったがトシコさんが仙台に居たころから地震にはしばしば襲われ、高層ビル7階に住んでいた彼女はそのつど建屋がまるで大海の小舟の如くミシミシと左右に揺れる恐怖にナントカ住居を逃げ出したい、とそう思い続けてきたという。たまたま。そんなところへ弟の再婚話が持ち上がったのでこれを潮どきに「邪魔になってもいけないので、いい機会だ」とばかり、木曽川河畔で空き家となっていた元居た場所に戻ってきた。ちょうど育ての両親が相次いで亡くなったこともあり、育った家を守らなければ、といった意識も働いたという。ある面ではそれこそ歌の文句にある通り、〈ときの流れに身を任せて〉舞い戻ってきただけ、なのだが…。
 東日本大震災が起きて以降のトシコさんは、半ば自身が加害者になったような罪の意識に日々、責められ続けたという。木曽川河畔の堤防を、ただ一人、黙々と放浪するかの如く歩くことも多くなり、ニュースで東北の被災地のことが流されると、そのつど涙ぐんだ。いつだったか、美歩が主宰するミヌエット店内でのミニ音楽会で被災地の復興支援歌〈花が咲く〉を一緒にうたったときなど、それこそ、涙がとめどなく溢れ出、悲惨なほどに打ちひしがれている様子がよくわかった。あの涙の滴こそが、私と東日本を結ぶ何かになるのでは、とそんな気にさせたのもトシコさんの存在があってこそ、である。

 私と美歩を前にテーブルをはさんで会食するトシコさん。ノースリーブの赤いワンピースに身を包んだ彼女は、とても70歳を過ぎているとは思えない艶のある顔をほころばせ、あくまで明るく若々しくふるまい、楽しかった日々を振り返った。私生児として青葉区田町の芸妓置屋で生まれ、芸妓さんたちにかわいがられて母と楽しく暮らした幼い日々に始まり、木曽川河畔のこの町に養子としてもらわれて来てからの幸せだった家族生活、結婚後、三人の子に恵まれ自らも運送会社の経理として働き続けたあの日々、さらには36歳になって初めて実の父親に会い顔を見た瞬間に「アッ、この人大好き」とおもったこと、若くして病死した夫との寂しく悲しい別れ、いまでは大学生の男子はじめ小中高校生と六人もの孫に恵まれていることなどをそれこそ、速射砲の如く言葉を切りながら、笑って話してくれた。
 でも、そんなトシコさんにも、育ての親の相次ぐ病死に続く夫の早逝、男、女、男と三人の子とそれぞれの独立を見届けたあと、彼女にとっては幼き日々の郷愁の場ともいえる、あの仙台で父親こそ違うが腹違いの弟と共に暮らすチャンスが訪れ、仙台に舞い戻った。そこには当時、離婚してまもなく都心の11階建てビルのマンションで独り暮らしをしていたマコトさんとの暮らしが待っていたのである。だが、しかし。そのふたりの生活からの逃避行こそが、いまだにトシコさんの精神状態を傷つけ、破壊してやまないトラウマ現象の原因となるなど、当初は思いもしなかったに違いない。
 彼女は、こんなことも話した。
「アタシ、ビルの高いところで暮らすなんて、もうこりごりよ。仙台で弟と一緒に11階建てビルの7階マンションに住んでいたころ結構、震度3とか4クラスの地震が起き、そのつど大揺れするので怖くてしかたなかった。大震災が起きた前年の秋に、それまで電力会社の広報担当として働き一度離婚したマコトが再婚する、と言い出したので、遠慮もあってこれが潮時だと思って、また江南に帰ってきてしまったのです。
 でも、まもなくして、あんなに大きな地震が起きる、だなんて。マコトたちは幸い、無事だったけれども。多くの友人や知人が、大津波であの世にもって逝かれてしまったり、除染のゆき届かない原発事故現場周辺に住んでいた人たちは今も避難生活を強いられたりしている。なかには一家離散も珍しくない。なんでこうなってしまったの。みんなアタシが悪い。アタシさえ、あのまま仙台に居たら、天地の巡り合わせで地震なぞ起きなかったはず。アタシが悪い。アタシのせいに決まっている」と。

 大震災のことを話し出すと、それこそ終わりのないトシコさんの姿がそこにはあった。話せば話すほどに、それは自然界を畏怖するかのごとく温和な顔が一転して鬼の形相となっていくのだった。私はそんな彼女を目の前に、こ・こ・ろのなかで「自然は悪くなんかはない。海は悪くない、波だって悪くない。ただ、されるがままに自然という彼女たちは生きているのだ。誰も悪くない」と叫ぶのに精一杯の自分を感じた。
 同時に、大震災が起きてまもない日に見た、あの波たちの悔恨の情が目の前に浮かんでくるのを禁じえない。穏やかな波たちはあの日、私に向かってこう語りかけていた。「ごめん。ごめんなさい。あたしたちがいたために、多くの人びとの人生を破壊し尽くしてしまった。ごめんね。ごめん」。あの波たちのさんざめきは今も一瞬たりとも脳裏から離れることはない。トシコさんと海には共通した悔恨の情がある。今になってみれば、そんな気さえするのである。


 昨年の四月十二日。この日の朝。私は東京駅に近いビジネスホテルをチェックアウトし、あるいて駅に向かった。交差点を行き交う夥しい人びとを見ながら、私はふと、あの有名な渋谷のスクランブル交差点とやら一帯が知らない間に放射能で汚染されてしまっていたとしたなら、どうなるのか。人々は、それでも何も知らないまま朝の通勤でただ黙々と交差点をあるいてゆくのか、と。けさの段階ではありえないことだが原発がある限り、現にそうしたことだって起きないとは言い切れないのだ、と自身に言い聞かせる。
 実際、福島第一原発の1、2、3号機がメルトダウン(炉心溶融)した際には、東日本壊滅の現実化が目の前に大きく迫り、当時の菅直人首相や吉田昌郎福島第一原発所長らが対応に飛び回り危機一髪、東日本全域への放射能汚染が食い止められたと聞いている……

 夥しい人々。だが、互いに知り合っている人となると、どれほどいるだろう。ホンのひと握りどころか皆無に等しい。人々は、そうしたなかで運命的に出会ったごくごく僅かな人々を生きてゆく寄すが、支えとして日々を過ごしてゆく。テレビ画面に出てくるタレントとか俳優、売れっ子のコメンテーターや大学教授、音楽家、一部の政治家や実業家、スポーツ選手、ひと握りの作家らいわゆる有名人とそれぞれの家族や恋人たちをのぞけば、ほとんどの人が互いに互いの世界を知らない。それこそ赤の他人同士の〈この道〉なのである。

 その日の帰り、いつもなら新幹線で名古屋に帰ってくるところを、私はあえて東海道線の在来線を中心に乗り継いで帰ることとし東京駅で小田原行き普通電車に乗り、小田原で熱海行きに乗り換えそのままJR列車を乗り継いで名古屋まで帰ることにした。その方が町の風情がよく分かると判断したからで、列車は熱海を過ぎ、静岡県下を走っている。
 東京を出たのが午前十一時二十三分。列車は、それから品川、川崎、戸塚、大船、藤沢と南下していったが、何歳になっても関東音痴の〝名古屋っこ〟といっていい私にとっては、生まれて初めて乗ったコースでとても貴重な体験となった。茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮と海沿いに走る列車は、どこか異国情緒めいたものさえ感じた。うとうとと牧歌的な雰囲気に瞼を閉じる。ふと思う。この沿線の大気が福島の原発事故の被災地のように、見えない放射能汚染でスッポリ覆われてしまっていたとしたなら。どこへ逃げたらいいのか、と。車窓には雨がふりだした。放射能を含んだ雨かもしれない。……

 気がつくと私は、いつだったか。いわき駅から定期バスに乗り、被災地のど真ん中ともいえる「灯台入口」まで行ったときの道のりを反芻している。あの日、いわき駅を出た常磐交通のワンマンバスは平五丁目→新川町→倉前→平第二十六区集会所→谷川瀬→ヨークタウン谷川瀬→八ツ坂団地入口→白土入口→平工前→平五小前→中山新店→小山→白坂→神明橋→神下入口→洞橋→馬場鶴ケ井→仲屋前→高久小入口→中谷地→原入口→ハイツ入口→神谷作入口→西原→諏訪原二丁目→沼の川新町→沼の内→弁天様前→切通しを経て、やっとこせ「灯台入口」に着いた。
 この間、大震災の被害に呻く人々の姿のほんの切れ端でも見逃すまい、と私はバス停にバスが着くつど、その時のバス停周辺の模様(表情)を駅名とともに漏らさず取材ノートにメモっていった。それは、被災地に近づくにつれ、自らの心の揺れ動きを推し量る貴重なバロメーターとして今も大切に残されている。

 メモには、こう書かれていた。
「私は、またしても、やはり。ここ〝いわき〟に来てしまった。そして、またも同じワンマンバスに乗った。」……「次は、くらまえ、くらまえでございます。(セットされた車内アナウンス。)」「平工前。ここからは険しい山道に入っていく。平五小前。真っ赤な二重ライン入り帽子をかぶった学童が下校してゆく。」「新しく建て直したのか。立派な2階建て住宅が視界に飛び込む。ここらは家々がそのまま立っているので被災しておらず、普通の新築とみられる。」「弁天様前。カーブ、カーブが続く。被災地が近い。山道を走るバス音に息が詰まる。」「とうとう着いた。見渡す限りの造成地、焼野原同然となった被災地では重機や工事作業員の姿が目立つ。重機は二~三十台、作業員となると軽く五十人は超えるだろう。」
 そして余白には、こうも走り書きがされている。
「海に面した傷ついた通りに人はいない。でも、僅かに残された家々から微かな明かりが漏れたり、ピアノの音、話し声などが聞こえてこようものなら、その家に魂が吹きこまれているようで安堵のかぜが全身を駆け抜けていくのだ。」「いわきでは大震災発生まもなく現地入りしたときと同じように、バスから降りたあと、物言わぬ塩屋埼灯台直下の四ツ倉、久ノ浜、豊間、小名浜……と家々が大津波にのまれ、一度は破壊し尽された被災地のその後を歩いて見て回ったが、不思議と猫一匹見当たらない。あのときは我を失くして被災現場にぼう然と立ち尽くした主人を慰めるかの如く何匹かの飼い犬の姿や、道路をすばやく横切っていった猫たちもいたはずなのに、いったい、どこに消えてしまったのか。それとも新天地を見つけ人間を見限り、どこかに移っていってしまった、というのか。」

 東海道線車中で名古屋に向かう私は、先ほどから悄然とした表情で車窓を流れる白い雲や町の風景を見ている。同じ人間でありながら、どうしてたまたま起きた天変地異により人びとの生活がこうもガラリと変わってしまうのか、と。何度も頭を巡らす。大半の人間という人間が一生懸命その人なりの人生を歩んでいるというのに、だ。これを運命と言わずして、何をかいやんや、である。

 トンネルに入る列車。容赦なく耳にツーンとつんざくものが大きく迫る。と同時に、被災地の復興現場が目の前に浮かんだ。車窓を、ながれる雲。大井川港。電線。二階建て民家。遠くに霞む富士山。白く赤みを帯びた葉桜たち。自動車学校。ちいさな魚たちが住んでいそうな小川には、こどものころ泳いだあの日々が郷愁としてまぶたに甦る。沿線の畑にはトラクターが止まっている。線路沿い民家の横に立つ茫々の草たち。福島のように放射線に汚染されていたら、どうするのかと思うともったいない気がする。ここでは汚染とか避難などといったことは関係ない、と言いたげだ。
 豊橋に着いた。午後五時二十一分発JRに乗り換える。ここまでくると、急に名古屋が近くに感じられる。プラットホームから見る外は雨のようだ。深々と降り注ぐ雨たち。この雨も原発汚染なぞ関係ない、いや思ってもいない、といいたげである。
 と、車窓ガラスに「復興はまだまだこれからよね」と話しかけるように、あのトシコさんの笑顔が大きく浮かんで消えた。ウン、とうなづくと同時に珍しく携帯受信音がピコピコッと鳴るので開いてみる。トシコさんからで「元気でいますか」との私からの送信メールに対する返信で「おかげさまで元気にしています。ごんたさんもお元気そうで何よりです。ことしは残念ながら春がなかったですね。地球の長い営みからみれば、異常気象だの温暖化だの火山噴火なんていうのは、ほんの瞬きにしか過ぎないのに。私たち人間は翻弄されて大変です。それでも一生懸命に生き抜くしかない。愛おしい人々を小説に書いてください。楽しみにしています」と書かれていた。


 私はいま、つくづく思い出す。
 東日本大震災が起きたその年、プロ野球の中日ドラゴンズ公式ファンクラブ会員のお世話をするファンクラブの会報編集担当として結構な激務のなか、何はともあれ、自分の目と耳、足で現場を見聞きしなければ、とその一心だった。そして第一線の新聞記者として飛び回っていた記者時代の現場百回精神がまだ頭にこびり付いていたこともあってか、休みの日を充て東北新幹線に飛び乗るようにして大震災発生二週間後には被災地いわきに向かった。あのとき、行き止まりの那須塩原からは【緊急】の張り紙付き臨時バスに乗り、郡山経由で何本もの地割れが走り段差が続くいわきに初めて入った。
 二度目は翌年二月だった。名古屋駅の名鉄バスターミナルから夜行バスで仙台入りし、多賀城や亘理、山元町、南相馬市など一帯にも足を伸ばした。続く六月には公式ファンクラブに加盟するドラファンばかりから成る被災者家族をKスタ球場での楽天戦に招いた際、試合後に被災地をじっくり見て回りもした。だが、なんといっても、忘れることができなかったのは、宮城県名取市でのいっときである。

 名取へ出向いたのは大震災が起き三年がたち、午後、塩屋埼灯台直下を訪れた、その日の午前中だった。前夜、相馬ステーションビルに宿泊した私は常磐線の代行バスで亘理駅まで出てここから仙台へ。仙台で常磐線の普通浜吉田行きに乗り替えた私は目的地の名取駅で降り、タクシーを拾い被災現場を訪れたのである。タクシーの運転手によれば、海岸線に向かって走る高速道(亘理―石巻間)の海側、東の全域が津波に押し流され、反対側が助かり「私の家は幸い反対側だったので」と申し訳なさそうに言葉をつないだ。
 海に少しずつ近づいてゆくタクシー。気がつくと、何台もの重機が行き交う広大な被災現場が、目の前に現れた。閖上(ゆりあげ)地区である。私は海に突き当たった場所でタクシーを降り目の前の海原に目をやる。海鳥たちがなにごともなかったように海面をスイスイと飛んでいる。大きく弧を描く鳥がいれば海面に急降下し魚をかっさらっていくものもいる。普段の光景と何ら変わらない。この浜だけでも二百人以上が津波にさらわれた、だなんて。とても信じられず、悲劇には思わずためいきがでた。
 再びタクシーに乗った私は、こんどは閖上地区が一望できる火折山で降り、この山の高台から復興工事のありのままを見てみたが、この地域だけでも三千戸以上が流されたという。高台には訪れる人が絶え間ない。どの人も花を手向け、両手を合わせ亡き人を弔っている。ふと、流れきた〈かぜ〉たちが私を責めたててくる。「被災地を訪れたおまえに一体何ができるというのだ。単なる気休めだけじゃないのか」。そんな叱声のようなものを運んだ〈かぜ〉が執拗に私の頬を殴り、打ち続ける。これでもか、これでもか―とである。
 私はこの後、誰一人としていない閖上小学校の屋上部分にのぼってみた。屋上から運動場と校庭を見下ろす。校庭には二宮尊徳像があり、屋上部分から校庭に向けられた拡声器のスピーカーがなんともいわれぬ、無言の姿をさらしたままで残されている。屋上からは閖上地区一円を見渡すことができたが、津波で破壊された蒲鉾工場跡が残骸をさらし、宮城農業高校は全部波に押し流され、片鱗すら跡を留めていない。私は目を覆う惨状にことばもなく、仮設住宅が並んだ横の土産物店街「さいかい市場」に足をのばし、ここで地酒「浪の音」を購入、名取駅に戻り、在来線で福島へ。福島からは「いわき」行きバスに乗り、次の訪問地である塩屋埼灯台を目指したのである。


 ことし二月二十三日の午後。
 私は、塩屋埼灯台を右上方に見晴るかす四ツ倉地区の白い砂丘のような海沿いを歩いていた。足は一歩踏み出すごとに絡め取られ、白い砂のなかに吸い込まれていく。砂のなかに放射能が含まれているからでは、との錯覚にとらわれながら、両の足をそのつど一本ずつ抜きながら海を見やってあるく私。目の前では白い無数の波柱たちが、終わりのないドラマのように寄せては引き、引きは寄せを繰り返し、傍らでは何台もの重機が、まるで競い合うようにして、土を掘り返しては高台の方に運んでいた。
 しばらく海岸線を歩いた私は、そのまま街中に入り、ただ黙々と何かを求めて夢遊病者の如く、町内をあちらこちらとさまよった。この町ではあの日、運命の日に家という家が津波に流され、水没し何人もの人びとが海にのみこまれて逝ったはずだ。あぁ~、それなのに。五年を経た、この辺りは信じられないほどの平静さを取り戻している。神々が宿っているようにすら見える。咲き始めた梅の花びらたちもホントに清楚で美しい。
 町の通りは、ひっそり閑としたままで、行き交う人々の姿もまばらである。私の目には、そんな街全体が何かに耐え忍んでいるように映る。涙さえ枯れ果てている。見えない〈気〉に胸を鷲づかみに掬い取られ、締め付けられる思いで一歩一歩、そのまま町内全域を歩いてまわったが、そのうちにこうして歩くこと自体に罪悪寒を感じ、いたたまれなくなって四ツ倉駅まで走るようにして戻ったのだった。
 この間、私が土地の人と交わした言葉といえば、駐在さんとのそれだけ。たまたま、出食わした制服のお巡りさん一人とだけ、だった。その、いかにも純朴そうな五十前後のお巡りさんは私を見かけると、なぜか急に近づいてきたあと顔を私に寄せ、憐れみでもするような視線を投げかけ、いきなり前方に立つ神社鳥居を手で指し示した。
 そして「あのさ。つなみサ。あの鳥居、てっぺんまできたんよ。んだ、んだ」とポツリ、口を開いたのだった。この重い事実を突きつけられた私は、思わずその場に立ち尽くした。でも、こうして町を歩いて見た限り、五年後の四ツ倉のこの地区に限っては、民家が立ち並び、何ごともなかったような町の佇まいで、どこか安心感のようなものを感じさせてくれた。
 と同時に、それでもこの街はまだ原発事故の放射能汚染で街という街がズタズタに切り裂かれ、かつ、いまも除染ひとつされないまま放棄され全町避難が続く帰還困難地域に比べたら、まだましな方だ、と思ったことも事実である。

 四ツ倉からは駅近くにあったタクシー会社でタクシーに乗り、塩屋埼灯台直下の豊間へ。灯台真下で降り海を見ながら、いつものように護岸沿いに広がる被災地を行ったり来たりしてみる。延々と歩を進める。ここでは、重機による土砂を取り除きながらの嵩上げ工事が進んでいた。それこそ、これでもか、とである。私も歩く。これでもか、これでもか、とだ。だが、見慣れた光景とは、どこかが違う。なぜだろう。
 二度、三度。四度、五度と違和感を感じて何度も護岸沿いに海と被災地を見ながらあるき続ける私。と、右前方の波打ち際に、これまで一度も見かけなかった三羽の海鳥をみかけた。三羽とも海を前に立ち、なんだか押し寄せてくる白い波柱たちに「何か」を語りかけているような、そんな風情である。そのうちに一羽が飛び立つと、あとの二羽も順番に飛び立ち、大空に吸い込まれ、かなたに飛んでいく。なにげない海の光景である。
 鳥たちの姿を追いながら、私は初めて昨年までなら確かに護岸に描かれていたカラフルな花々や海鳥、魚介類が壮大ともいえた護岸のカンバスというカンバスから消えている事実を知った。それどころか、これまでただ一つ、巨大津波に流されることなく残り、その後も仁王立ちとなって悲劇の象徴として被災地に立ち続けていた、あの豊間中学校校舎も解体され撤去され、その姿を消していたのである。聞けば、豊間では被災した小中学校の併設校が現在建設中で児童生徒は仮校舎で学んでいるのだという。それにしても、あの被災地、豊間のシンボルといっても良かった校舎がなくなってしまう、とは。私は、しばらくその場に立ち尽くしたのである。
 その夜。私は、いわきを訪れるつど、常宿としているJRいわき駅前派出所近くのカプセルホテルで一夜を過ごし、翌日は放射能の除染や原発事故の修復作業、嵩上げなどの復旧工事に向かう人々と一緒に、早朝宿を出た。

 カプセルホテルをチェックアウトした私は、いわき駅で朝一番の常磐線竜田行き普通列車に乗車。以前よりも落ち着きを取り戻した草野、四ツ倉、久の浜、末続、広野、木戸を経て終点竜田で下車した。せっかくの機会でもある。まだ帰還が許されなかった頃にも一度訪れたことがある楢葉町内のその後が知りたく見て回ろうと思ったが、何しろ次の原ノ町行きJR代行バス出発までの時間が十分前後しかない(それも、この代行バスは1日に2本しか出ておらず、このバスに乗らないと次は午後6時29分発しかないという)。
 というわけで、私は泣く泣く竜田駅界隈の写真を時間の許す限り手当たり次第に容量がもはや限界寸前の愛用スマホで撮り、誰一人として歩いてはいなかった周辺の表情を少しだけ見て歩き、代行バスに飛び乗ったのである。

「これから一部帰還困難地域を通ります。窓をあけることは禁止させていただきます」。
まもなくして耳に車内アナウンスが大きく迫り、パラパラと席に座った乗客のだれもが緊張した表情で無言に。代行バスは沈黙のなかを、そのまま富岡、大熊、双葉、浪江、南相馬の順で息を殺して国道6号線を北上していく。
途中、大熊、双葉町では原子炉のメルトダウン(炉心溶融)と建屋爆発を連続して起こし、取り返しがつかない事態にまで発展してしまった史上最悪の原発事故現場をはるか右方向にかすめて原発の半径20~30㌔圏内に立ち、今や全て息の根を止められ、捨てられたも同然の家々を両側にバスは呻くように通り過ぎていく。

 車窓に視線を向けながら、私は何度も息をのむ。かぶりをふる。こんなことって実際にあるのか。どうして。なぜ、なぜなのだ。ここは地獄だ。この街、いや町という町が機能してない。呼吸をしていない。死んでいるのだ。なおも、目を瞠り、私は次々と視界に入る光景を単語としてメモ帳に書き連らねていった。なぜなのだ。分からない。そう何度も何度もつぶやきながらだ。
――富岡町合宿センター。レンタルのニッケン。環境美化推進の町富岡町。双葉地方会館。県立富岡養護学校。双葉ペットセンター。双葉厚生病院。作山機械株式会社。……なんてことだ。すべてが見えない何者か、それは放射能汚染という化け物に違いないが。そうしたものに糊塗でもされるが如く、身動き出来なっている。魂はあるが、魂を吐き出せない。わかってもらえないのだ。第一、これでは全てが止まってしまっている。息さえできない。

 誰も立ってはいないバス停。何台もの車が止まっているのが普通のはずのガソリンスタンドがある。国道に面して立つうどん屋。コンビニ。クリニック。診療所。今も避難指示区域のままの帰還困難区域の町の表情は、どこもかしこもそれこそ惨めを通り越すものだった。息をこらして見守る放射能で汚染された町なかという町なか。ここは地獄の1丁目なのか。この土地は、いったいいつになったら息を吹きかえしてくれるのか。そう思いつつ車窓を走る町の風景には言葉ひとつ出なかったのである。
 一体、だれが、いつ、こんな死の町をつくってしまったのか。犯人は私たち人間にほかならないのだ。

 私はいま。数日前の夜、東京で脱原発社会をめざす文学者の会の文芸セミナーで聞いたある文芸評論家をゲストスピーカーに迎えての講演(テーマは〈『チェルノブイリの祈り』とノーベル文学賞〉を頭に思い浮かべていた。「このまま事態が推移すれば、フクシマは確実にチェルノブイリを上回る、手の施しようのない、それこそ取り返しのつかない〈フクシマ〉になってしまう」。文芸評論家氏は確か、そう断言していたが、もしそうなら恐ろしいことが進行しつつあるのである。日本じゅうが光りの差さない暗黒で閉ざされてしまう。その予兆は確実に起きつつある。

10
 二〇一六年三月十一日。
 その日の夜。豊橋で乗り換えた私を乗せたJR列車は、ただひたすらに名古屋を目指して進んでいる。さすがに疲れ切った私の頭のなかは、もはや原発についてどうのこうの、と思考する力さえもが失せようとしている。深い眠り。一面ガレキの海と化していた被災地。いまも破壊されたまま捨てられた町や村。背丈を遠に超えた雑草が生え放題で、除染もされないまま不気味な町なかに沈むようにして立つ民家という民家。惨状という惨状が網膜のなかを駆け抜けてゆく。大きく浮かび上がる全身傷だらけの福島第一原発。
「灯台入口」「Kスタ宮城と荒浜」「多賀城」「山元町のりんごラジオ」「南相馬」「名取」「楢葉」「広野」「富岡」「双葉」「浪江」……。そこには、これまでに訪ねた東日本大震災の被災地の残像ばかりが断片的に次から次に、かつて能登でみた、あの波の花が海に舞う如く生き映しとなって大きく目の前に迫り、浮かんでは消えていく。どこからか、いつか聞いたことがある〈鳴き砂の浜〉の砂たちが涙という涙となって私の全身に迫ってくる。

 ふと、気付く。と、今度はどこかしら。微かに生きているモノの怪のようなものが近づいてくる。無言の息、いや気配の如きものだ。こんどは横笛の竹を撓わせたようなビブラートの効いた透明な笛の音が迫ってきた。耳を澄ます。と、海のかなたから息と一緒に近づいてくる歌声があった。
♪遠き別れに 耐えかねて/この高殿に 登るかな/悲しむなかれ 我が友よ/旅の衣をととのえよ♪別れと言えば 昔より/この人の世の 常なるを/流るる水を 眺むれば/夢はずかしき 涙かな……
というもので、気のなかで横笛をふきながら歌っているのは私だった。
 そして私に近づいていた息のようなモノは、つい先日、22歳の長寿を全うし天に飛び立った愛猫の長女こすも・ここのそれだった。大震災発生まもなく被災地に出向いたその日から、過去五年の間、彼女はずっと私と病身の美歩を見守り、温かい目で文句も言わず私を被災地に送り出してもくれていた。ただ彼女は死ぬ間際に私の目をみつめ、こうも言った。
「おとん、人間たちも大変だったろうけれど。飯舘村や南相馬の牧場で飼われていた牛や馬たちだって、ことばひとつ返すことが出来ないまま、殺されたり互いに引き裂かれたり、で、皆大変だったのだから。もちろん、アタイたち犬猫のペットだって同じよ。それに比べたら、アタイは幸せすぎた。ニンゲンたちは自分たちの科学で作った原子力を制御できないまま使っている。馬鹿げているよ」と。
 ここで思い起こされるのは〈チェルノブイリの祈り〉のなかの次の下りである。
――じつにいろんな質問がでましたが、ひとつだけ脳裏に刻み込まれている。おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなりくちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」。ぼくは答えられなかった。ぼくらの芸術は人間の苦悩と愛に関することだけで、すべての生き物のことじゃない。人間のことだけなんです。ぼくらは動物や植物のところ、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです。(第2章万物の霊長、から)

 瞼の画面は、なおも続く。
 こんどは〈トゥー、スリー、フォア。トゥー、スリー、フォア。ベーシック、ベーシック。…ニューヨーク、ニューヨーク。ハンド・トゥ・ハンド、ハンド・トゥ・ハンド〉と軽快なルンバのリズムが流れ、東日本の浜全体に広がって海の彼方から帰ってきた女と男たちをはじめ、ペットも含めた動物たち、鳥、魚、海藻類、植物が手に手を取って、ゆらゆらと踊っているではないか。気が付くと、これら全てのいきものが波の上に立ち、なにやら楽しそうにステップを踏んでいる。そして海面には、夥しいほどの鮮やかな桜の花びらたちが海に浮かんでいる。
 男と女、こどもたちは、互いのからだを手や足で結び、交差させている。なかに女が男に身を寄せたかと思う間もなく、こんどは胸をあらわに、背を弓なりに片足を宙に投げ出してみせた。ステップを踏み、手を握り合い「もう離さない。離すものか」とからだを合わせて抱きしめる男と女たち。みな、これ以上の幸せはない、といった表情で笑っている。そのなかには、あのトシコさんもいた。

 耳に迫る音曲を聴きながら「いったん起きてしまったことを悔いていても仕方がない。前に向かって進むしかない。でも、制御できない原発は、やはり人間社会から追放すべきか制御できるよう改善してゆかなければ」と、自らに言い聞かせる私。そういえば誰かが言っていた。「どんなに悲惨で不幸がきわまり、悲しい事態に至っても生きていく以上は、そこに光りを見出さなければ。生ある限り、光りを燃やし続けなければ」と。

 私は、夜の空を仰いだ。満天のかなたにはキラリ、月が光る。その月の海では確かに大勢の人たちが踊っている。あの大震災と原発事故のその後を気遣ってくれていた愛猫こすも・ここもだ。私の目には確かに、これら〈いきものたち〉の笑顔が見えた。(完)