短編小説「果ての賭け」

 開設記念競輪、最終第十一レースがいよいよ発走する。ゴール前の金網にしがみつく田所は、このレースの二枠単2―5が的中しないと文なしになる。連れの宮村と渡海も、六レースから始めてかすりもせず、全員おけらのパターンか。
「2―5、2―5、2―5、おーい2―5やど、わかってるな頼むぞお2―5、2―5、2―5」
 田所が整列する選手に向かって大声を出す。
「5―2、5―2、5―2で決まり、昨日の足ではよう差さんわ、逃げ切りや、5―2、5―2」
 左うしろから負けずと太い声が飛ぶ。
 田所が思わず振り向き、
「何言ってんねん、バカ野郎! 2―5にきまっとるわ、あほう」
 と、眉間にしわを寄せて喰いかかる。
「なんじゃとお、こらあ」
 坊主頭のおっさんが、つかみかからんばかりにせまってくる。
「おいやめ、やめろ、田所やめい」
 小柄な渡海が中に割って入り、田所の肩を両手で押さえる。
 その渡海を、おっさんが肩を掴んで引きはがそうとする。そのまたおっさんをやめさせようと、馬力のある宮村が腰にしがみつく。
「やめえ、やめえ、やめてくれえ」
 宮村が歯を食いしばって引きとどめる。
「おうやれ、やれえ、こっちの方がおもしれえや」
 レースのスタートそっちのけで、野次馬が取り囲んで面白半分にあおる。
 押し合いへしあい、つかみ合いで野次馬の輪が乱れる。息を荒げ、もがいていると、ジャーン、ジヤーン、ジヤーンと打鐘が響き「うおおお」とバンクを揺るがすような歓声が上がる。誰もかれもが、何をおいても周回する選手に目を集中する場面だ。取っ組みあっていた四人の集中もバンクに移った。金網に手をかけ、疾走する選手に目が釘付けになる。ホームを走りぬけると、すぐさま橙のユニホームが先頭に立った。続くのは黒のユニホームだ。
「よーしそのまま、そのまま引っ張れ引っ張れぇ」
 田所はバックストレートで確信した。
「2―5確定」
 小躍りして振り向く。
「あほう、そんなもんよう差さんわ、見とれ若造」
 おっさんが毒づく。
 対象選手を連呼するもの、絡む選手を罵倒するもの、観衆すべての熱気がバンクに注ぐ。最終四コーナー入口で競り合いになった先頭集団が突然、グワシャッというひしゃげた音とともに転倒、落車。うしろのマーク選手も数人転倒。遅れた後方の選手が大きく膨れて難を逃れる。その三選手が一目散にゴールを駆け抜ける。
 大歓声がスタンドを揺らし、続くどよめきが収まらない。投票車券があちこちで吹雪のように舞う。
「なんてこった。あのアホめがあ、くそおお」
 田所が金網をゆすり、地団駄を踏む。がっくりと肩を落とし目がうつろになる。立ちすくむ人。そそくさと立ち去る者。何かを期待するような静けさがスタンドを支配する。ややあって場内アナウンスが流れる。
「ただいまのレースにおいて、第四コーナー審判から赤旗が上がりましたので審議と致します。尚、三着までの選手は該当しませんので決定いたします」
 アナウンスなど耳に入らなかった。宮村も渡海も同じ車券を買っていた。田所はそれを知ってなじった。せめて誰か一人が当たれば帰りに飯が食えるのに、まさか勧めた車券だけを買っていたとは。
 競輪場を出ると宮村が言った。
「今日も三人揃っておけらか。ま、飯でも食って反省会でもするか」
 なんていうことだ。宮村は財布に金をいくらか残している。田所は腹が立った。しかし飯は食いたい。
「おお、ミヤでかした。こういうことを予想して飯代を残しておくとはさすがや」
 三人は横断歩道を渡って数十メートル歩いた。競輪開催日は居酒屋も営業を早めている。暖簾をくぐると早、数組のこれも負け組とおぼしき連中が、コップを手にしてぼやいている。テーブル席に腰を下ろすと疲れがどっとくる。
「うおお、しかし取れんなあ」
 田所がうめく。
「これで三連敗やないか」
 渡海はジョッキ生をあおるとため息をつき、
「ちょっと作戦を考えんといかんな」
 と、田所の顔を覗く。
「ん? 作戦ってカイお前、今まで作戦なしでどうやって車券を買っているんや」
「いや、そういう意味じゃなくてな」
 宮村は身を乗り出す。
「まずその日のレースを二つか三つに絞ってな、三人で予想を立てて買うんや」
「それやったら今までと、どう違うんや」
 これまで三人が三日やって誰も取れなかった予想が、絞って買えば取れるはずやと、夢みたいなことを言うやつだと田所と宮村は同じ思いだ。
「まず、その日の予算を決める」
「はあ?」
 訳のわからないことを言う渡海に、二人が首をかしげる。
「一人五千円なら掛ける三で一万五千円や。三レースに絞ると一レース五千円。その五千円で十通りの目を買う」
 どうだと言わんばかりだ。確かに一人で十通りの目など買えないし、買わない。
「二枠単ならなんとか儲かるぞ」
「しかし、これってなんかつまらなくないか」
 田所がクレームをつける。
「たとえ当たっても配当がなあ。当たり負けもあるぜ」
 三分の一になることが宮村も不満だ。やはり賭けごとは自分で推理して的中させることに興奮と満足がある。たとえ、結果が惨敗でも自分を納得させる。妥協や友情など受け付けないのが勝負事だ。その中でスリルを味わいたいのだ。勿論帰る時に財布が分厚くなっていればそれに越したことはない。田所はそう考えてみるが、これまで天にも昇るような思いをしたことは何度もない。
「ああ、もうすぐここの競輪場も開催が無くなるらしいし、足を洗うか」
 突然信じられないことを田所が口走った。
「おお、今何言った」
 二人がほとんど同時に言った。
「場外車券場としては残るんだから、何もやめなくてもいいやないか」
 宮村が渡海に向かって言う。
「そうさ、その分他の競輪場の中継が増えるだろうし、かえって面白くなるんやないか」
 共同購入を言いだした渡海が、なんの問題もないと、むしろ歓迎する。
「おれはなあ、やっぱりバンクでしのぎを削る勝負を見たいんだよなあ」
 戦い勝った者が大きな賞金を獲得する。それを目の前で金網にしがみつき、大声を出して応援する。熱気、興奮、歓喜が場内に渦巻く。小さなスクリーンの中にそれがあるか。
「それもあるけど、やっぱり儲けたいよなあ」
 渡海はこだわる。
「ま、それぞれやけど次はいつだっけ」
 宮村は話をそらすしかないと思った。
「しかしミヤ、よくお前財布に残しておいたな」
 皮肉を込めた田所。
「悪かったな、おれのおごりで」
 誰かが勝った時は別として、ほとんど電車賃しか残していない競輪通いで、たまにこうなるのも悪くはないようなやり取りだ。
「おい、まだ飲めるか」
 田所が真面目くさって言う。
 そんなに金が残っているわけもなく、そろりと席を立つ。
 満員電車のつり革を握り、ふた駅目で下りる。田所は商店街を真っ直ぐ、宮村は右、渡海は左の路地へと分かれた。秋の気配が確実に進んで夕暮れは早い。
 十五分ほど歩きアパートに帰る。二階の部屋のドアを引き「ただいま」と蚊の泣くような声を出す。
「おかえり、遅かったやんか。もうかって飯でも食べてきたんか」
 妻のひとみは声を弾ませる。
「いや、ミヤにおごってもらった」
 目を伏せて答える。
「それで、あんたはどうやったんや」
 問いただす。
「あかんあかん、えらい目にあったわ。最終レースは完全にいただいたと思った瞬間に落車やで。こんなことってありか」
 田所はあの瞬間が焼きついて離れない。
「はあ、まったく情けなくなるわ。どうせすっからかんやろ」
 いい訳も何もできない。
「給料もらって何日目やと思っとんのよ、まったく」
 ここは黙って嵐が過ぎるのを待つ。
「ご飯を食べるなら、ちゃんと連絡くらいしたらどうなんや。こっちは何にもしないで待っていたんやで」
 怒りがなかなかおさまりそうにない。
「コンビニでも行って何か買うてくるから見とってや」
 ひとみは子供を二人とも置いて荒々しくドアを閉めた。
 とたんにようやく歩き始めた女の子が火がついたように泣き出す。三歳になったばかりの男の子は、何がおきたのかと不思議そうに立ったままだ。田所は女の子を抱きあげて背中をなで回してやる。そうしながらキッチンと部屋のふたつをゆっくりと行ききしていると、窓の外には薄暗さがきていてせつなくなる。
 ドアが開きひとみが思ったよりも早く帰ってくる。泣きやんでいた娘が腕の中から下りようと暴れだす。
「あららおりこうさんやったねえ」
 ひとみは身体をよじって腕を伸ばす娘を抱えおろすと、そのまま夕食の弁当二つをテーブルに置く。ベビーチェアに娘を移し、三人でやっと夕食になる。
「ちょっとあんたそこにすわんなよ」
 田所は言われるがままに自分の椅子に腰を下ろす。
「あのさ、家に子供が二人、働きたくても働けない母親がひとり、分かってるんか」
「そんなこと分かってるよ」
「そやったら少しは家庭のことを考えなよ。休みになれば、誰か彼かとつるんで遊びほけてさ」
「それは付き合いやもん、いいやないか」
「あんたに渡している小づかいを、何に使おうが文句は言いとうないけど、今まで子供におもちゃのひとつでも買ってあげたことがあるんか」
「……」
「少しは将来のことを考えてもらわんと困るで」
「……」
「何か言いたいことはあるの」
「ない」
「じゃあ競輪やめなよ」
「なんで」
「なんでって、言いたいことはないと言ったばかりやないか」
 言い返す言葉は出てこなかった。
 翌日、朝食はなかった。
 自転車で十五分ほどの地区に運送会社や製造所、倉庫や修理工場などが集中して立ち並んでいる。光運輸の始業五分前にタイムカードを押して仕事場へ急ぐ。
「おーい」
 振り向くと詰所の扉を半開きにして、ポニーテールの多美子が手まねきをしている。
「なんや」
「あのさあ、突発がでたの。千賀さんが風邪をひいて熱っぽいから休ませてくれってことなの」
「またかあ、あいつが風邪やて。ふざけるな」
「それで分かっていると思うけど、出庫に回ってもらいたいの。わるいわね」
 多美子がすまなさそうな顔をする。
「あーいいことないなあ今日も。くそ」
「なによ、くそって」
「あーこっちのことや」
「朝からひとみさんに小言を言われたんじゃないの」
「やかましいわ」
 多美子が嘲笑った。
 図星を指され、つい怒鳴ってしまう。
 リフト作業で気はまぎれるものの、忙しくてたまったものじゃない。午前の仕事が瞬く間に終わり、昼飯になる。田所の足は迷うことなく詰所に向かう。
「よお、昼飯半分食わしてくれよ」
 多美子がとまどい、お茶を入れる手を止める。
「昼ごはんなしなの」
 同情しているのか馬鹿にしているのか、言葉じりを変に下げる。
「いいやないか、千賀とのことは誰にもしゃべらへんから」
 多美子の顔色が変わった。
「なによ、なにを言いたいのよ。へんな勘ぐりはやめてよ。バカ」
 眉根をよせて、弁当のふたに自分の昼食を半分取ると、多美子は田所に半分を手渡した。
「ねえ、なんで喧嘩なんかしたの」
 喧嘩と決めつけている。
「いや、そういうわけではないんや」
 多美子のご飯を食べているせいか、すんなりと言葉が出てしまう。
「どうしたの」
「あれだよ、ほら、だから競輪をやめろと言われて、なんだか何にもやる気がなくなったぜ」
 つい本当のことを口に出してしまう。
「ふーん、仕事ばっかりじゃねえ。同情するわ」
 言いながら多美子は湯呑にお茶を入れる。
「おお、物足りないけど腹のたしになったわ。サンキュー」
 お茶を口に含むと田所は腰を上げた。
 会社の敷地を囲む金網塀から目をやると、遠くの原っぱでどこかの会社と思われる数人が、戯れながら野球をやっている。いつからあんな所でやるようになったのだろう。高校で野球をやっていた田所は立ち止まり、足を前後に構えると振りかぶった。
 午後の三時にひと息いれようと、田所はまた詰所に行く。
「おーいコーヒー一杯飲ましてくれ」
 入ってきていきなり大声をあげる田所に、多美子は伝票をめくる手を止めた。
「え、はいはい一杯でいいのね」
 慣れた手つきで素早くカップに湯を注ぐと、椅子で反り返っている田所の前に置く。すぐに口をつけるでもなく、カップをもてあそぶように撫でまわしながら田所はつぶやく。
「おれ、会社辞めて競輪の選手になろうかなあ」
「え、いまなんて言ったの」
 聞き取れない多美子には、何か意味のありそうな言葉に思えた。
「おれ、競輪の選手になろうかな」
 多美子は目を剥いた。
「会社、辞めるの」
「おお、辞めないとなれないもんな」
 すずしい顔をして言う。
「わたしどうするのよ」
 頬の豊かな顔が曇る。
「心配するな」
「ひとみさんに言ったの」
「いや、それとなく話してみようかなと」
「無理、それ絶対無理だと思う」
 多美子は、一年ほどひとみと一緒に仕事をしていたこともあってか、はっきりと言う。
「まあ、いろいろ調べてみないと分からんから、今すぐとはいかないわなあ」
 競輪場へは何年も通っているので、耳に入る知識は多少なりあるが、一度はっきりと調べておいたほうがいい。
「おいタミ、今のことしゃべるなよ」
 田所は釘を刺した。
 仕事が定時で終わり、あまり早く帰っても子供を押し付けられるだけだと、田所は回り道を選んで商店街にある本屋に立ち寄る。もしかして競輪に関する本があるのではないかと思ったからである。祈るような気持ちで書棚をつぶさに見る。らしき本が並んでいるスペースはいくらもない。何度見遣っても同じだった。この規模の本屋ではしかたがないと、納得して自転車にまたがる。あちこちの家明かりが灯り始める中、田所は家路をゆっくりと帰る。ドアを開けると夕餉の匂いがしていた。遅かったのねと言うひとみの掛け声に、運送先でトラブルがあって、おまけに帰り道が混み合って大変だったと言葉をかえす。
 質素な夕食をすませると、ひとみがテーブルの上を片付ける。その間を子供の遊び相手になり、解放されると田所はテレビの前から離れ、部屋の隅に移る。もしかして競輪の選手になるための何らかを、ネットで見られるかもしれないと思った。パソコンをオンにして検索を始める。あった。耳にはしていたが、やはり競輪学校という所へ入らなければならない。それには試験がある。田所は画面を食い入るように見る。第一次はまず技能試験かとつぶやき、自転車による千メートルのタイム欄で想像してみる。車のあとを追走したことはあるが、四十キロ制限の道路で何十メートルもついていけなかったことを考える。ひたいに手をやっていると不意にうしろから首筋をつかまれた。
「パソコンでおとなしくエロサイトでも見ていると思ったら、いったい何を見てるんや」
 ひとみが肩をつかみ、パソコンから図体を引きはがす。田所は慌てるそぶりは見せたが、オフボタンに手は掛けなかった。
「へええ、あんた競輪の選手になるってか」
 頭ごなしの怒声を覚悟していた田所は気が抜けた。 
「いや、ただどんなもんか見ただけや」
 冷静に言おうとすると、何かがのどに引っ掛かる。
「どれどれ、どいてみなよ」
 否応なしに椅子から押し出される。
「はあ…ほう…ふーん…へえ…」
 何がどう分かっているのか知るべくもない。
「むりむり」
 あっさり言う。
「なあ、あんた、いくら野球をやっていたからといっても一次試験が限度やで」
 田所がのぞきこむ。
「第二次にこう書いてあるで」
 ひとみが指をさす。
「小論文、学力試験、身体検査、人物考査」
 思わぬ項目に目を白黒させる。
「なあ、これや。身体検査はともかく、論文、学力、それに人物考査、なんやこれは」
 頭が痛くなるようなものばかりだ。
「人物考査ってなんやろな。知ってるか」
 ひとみが画面を見たままで聞く。
「わけのわからんことをするんやなあ。ひとを査定するのんかなあ」
「査定するって、見た目と性格はどこか違うやろから、いろいろと尋問みたいなことをして、前科がありそうな奴やったら失格とかにするんやないの」
 嬉しそうにしゃべるひとみに田所は追い込まれる。
「と、いうことで、ム・リ・や」
 ひとみはパソコンをオフにして椅子を立った。
「しょうもないことを考えとらんで、会社で馬力をだして、残業でも増やしてもらうことを考えや」
 言葉を残して背を向ける。
 目の前がさらに暗くなる。まさかこんな結末が簡単に待っていたとは…。
 隔週の土曜休みに、ひとみがママ友とどこかへ遊びに行くと、迎えのワンボックスカーに子供を連れて出かけた。田所は競輪へ行けなくなって、ミヤとカイとも会わなくなった。奴らは相変わらずカモられに通っているのだろうか。電話でもしてみるかと携帯を握る。昼を過ぎているからもう競輪場へ入っているだろうか。まず、ミヤに電話してみる。長い呼び出し音があって留守電かと思ったとたんに声が耳に入った。なんとまだ布団の中だと重いしゃべりだ。具合が悪いのかと聞くと、昨日ちょっと飲み過ぎたと、いかにもだるそうに言う。競輪で大きく儲けてカイと飲み明かしたのかと、喉まで出かけたがこらえて携帯を切る。これはカイにも電話してみなければと、すぐにかけると何事かと驚いたようだ。競輪関係以外にやりとりのないカイは、レースの情報でも聞かしてくれるのかと声をはずませる。昨日の行動をさりげなく聞いてみると、行っていないとのこと。逆にお前はいつになったら競輪解禁になるんだと不満そうだ。永久禁止やと笑いながら答えてやる。なんかお前がいないと気合いが入らんというかつまらんし、当たらんしおれもやめたくなったぜ、などと本気を装ってくる。
 ミヤのことをそれとなく聞くと、昨日は行かないというのでそれ以上は聞かなかったと、詰まらなさそうな返事。やっぱりミヤも同じような気持ちなのだろうか。何か面白いことはないかと、さぐりを入れるが気のない返事だ。なんだか自分のせいのように思えてくると、心苦しくなり話を切る。
 テレビを前にして寝転がる。これは何とかしなければと考えをめぐらす。競輪以外で三人が気持ちをひとつにしてなにかをやる。どう考えても行きつくところはギャンブルだろう。競馬、競艇は同じようなもんだからアウトだし、パチンコか。しかしパチンコは目の前の台との勝負だ。それに、腹が立って台のガラスをたたき割ったという苦い思い出もあるし、気が向かない。だんだん気持ちがしぼんでくる。
 テレビ画面を見ると、プロ野球のクライマックスシリーズをやっている。競輪でいえば準決勝にあたるなあと、つい競輪に結びつけてしまう。そして野球も競輪も九人制じゃないかと、考えが訳の分からない方向に向かう。競輪イコールギャンブル、野球イコールスポーツか。いや、ちょっと待てよ、野球イコールギャンブルもありだぜ。同じ勝負事じゃないか。そこまで考えが及ぶと田所はむくりと起き上がった。あぐらをかき、ギャンブルゲームに仕立て上げる順序を、本気で頭の中で浮かべてみる。まずは今の三人でそれぞれのチームを作る。その中で試合を組み、賭け金をだす。そして優勝チームが賭け金全額をもらう。これでどうだと自分に問う。うん、すばらしい考えだと思わず拳を握る。さっそくあの二人に相談して事を進めようと携帯を手にする。そこでブレーキがかかった。いくらなんでもたった今、沈んだ雰囲気で短く話し合ったばかりなのに、この話をするのは短絡すぎる。思いつきでの提案と受け止められ、鼻先で笑われるのがおちではないか。夕刻にしよう。そしてまず二人に、何か新しい面白いギャンブルはないかを問うてみよう。もちろん三人でこれまでのようにつるんで、勝負にかけるスリルを味わえるようなものだ。こう気持ちを固めると、田所はテレビ中継の歓声も上の空ではなくなった。
 田所は昼食のカップラーメンをすすり終えると、部屋を出て自転車にまたがった。会社の近くにある野原のような空き地で、どこかの会社の人間たちが野球をやっていたのを思い出したからである。見ていた限りでは試合という様子ではなく、順番にフリーバッティングをしているらしかった。何人かが守っていて、バッターが打った球を追いかけていた。あそこは試合をやれるほどの広さがあるようだ。まず確かめておく必要がある。会社の前までくると、田所は金網塀に伝って北向きに自転車を走らせる。百メートルくらいあっただろうか。いずれか商工業用地にと、農地を埋め立てた所に違いなく、かなりの広さがある。草が生い茂るのは広場の奥の方だけで、野球場として見ると、内野の部分の雑草は気になるほどではない。多分、ここで昼休みになると、毎日のようにあの光景があるのではないか。田所は空き地を一周した。そしてマウンドの位置、バッターボックスに立った。これはいけると確信する。だが今日の土曜日に人影がないのはたまたまなのかもしれない。明日もきてみる必要がある。
 午後の五時を回った。ひとみたちは帰ってくる気配がない。田所はまずミヤに携帯をする。あまり気分がよくない様子だ。二度目の電話でうるさがれるのを承知で、なにか新しくて面白いギャンブルはないかとさりげなく聞く。そんなもんがあったらおれの方が聞きたいくらいだと声を荒げる。おれも競輪をやめてからずっと考えたんだが、こんなのはどうだとギャンブルベースボールを提案する。
「ん?賭博野球か」
「まあ、そんなもんか」
「よく説明してみろ」
 ミヤが喰いついた。
「早い話でいうと賭け野球や」
「どこの野球に賭けるんや」
「そうじゃなくて、おれたち三人がそれぞれチームを作って戦うんや」
「よくわからんな」
「うん、おれも考えたばかりなんで、お前とカイに相談したいんや」
「じゃあカイに連絡を取ってみろや」
「おう、どう言うか分からんが話をしてみる」
 そう言うと、田所は続けてカイに携帯をするがなかなか出ない。いったん切ると今度はどうやって話を切り出すかを考える。ミヤと同じ
でいいか、もう少し突っ込んで興味を引かせるかだ。思案していると携帯が鳴った。
「いまどこや」
「どこか分かるやろ。聞こえないか」
 カイの大声が耳に痛い。
「おお、パチンコか」
「なんや、朝の話の続きか。いいことは何にもないぞ」
 どうやらここでも相当に負けている様子だ。
「ちょっといいか」
「おお、どれだけでもいいぞ。頭が冷えるまで何でもしゃべってくれ」
 やけっぱちだ。
「儲かる話や」
「なんやと」
 あきらかに声色が変わった。
「ギャンブルベースボールをやらんか」
 声をおとして言う。
「なんやそりゃあ」
「賭け野球や」
「おまえどこかの組織にでも入ったのか」
 疑ってくる。
「あほ、そんなんじゃないんや」
「おい、おまえ競輪場に行けなくなって、とうとう狂ったんやないか」
「そうかもしれんな。まあ、聞けや」
「あ、なんか冷めかけた頭がまた熱くなってきた。どこか他の場所でその話の続きをやってくれんか」
「お、そうか。じゃあミヤにも話して、今日ではちょっと都合もあるやろうから明日ということでいいか」
「おお、わかった」
 携帯を切ると続けざまミヤに連絡を取る。カイに話を伝えたこと、大きな声で言えることではないので、ゲームセンターに明日の今頃集まると決める。
 しばらく横になってテレビを観ていると、ドアの開く音が聞こえ、現実が帰ってくる。
「飯、食べたんか」
ひとみが疲れた表情を見せるが、満足感は見て取れる。
「いや」
 田所は上半身を起こす。
「私ら済ませてきたからこれで食べてきいや」
 千円札の角をつまみ、目の前でひらつかせる。
「お、サンキュー」
 ひったくるように受け取ると立ち上がり、田所は子供の頭を撫でて、吊るしてあるジャンパーをはおりドアを押す。千円か…これが万円になるんやで。十倍や。翌日、約束していた駅裏のゲームセンターに集まる。ここなら少々声を大にしても、他人に内容まで聞こえる心配はない。喫煙エリアから数メートル離れた長椅子に腰を下ろす。田所が真ん中に位置取り、話し合いが始まる。
「まず、野球の目的はギャンブル」
 田所が口を開いた。
「どういう方法を取るんや」
 すかさずミヤが聞く。
「大まかに方法を説明すると」
 ・この三人がそれぞれチームを結成する
 ・ひとチームが二試合ずつ戦う
 ・三チームが一勝一敗なら得点差で一位を決める
 ・優勝チームが賞金をもらう
「簡単に言うとこうなる」
 田所は左右を見る。
「その、賞金ってどこから出るんや」
 カイが怪訝そうな顔をする。
「それを聞いてほしい」
 一番肝心なところだ。
 ・会費を集める
 ・ひとり千円
 ・チームリーダーがまとめておく
 ・三チームの合計額が賞金となる
「千円って高くないか」
「それくらいでないとギャンブルって感じがしないぞ」
「だけど、メンバーの人数が違ったらどうするんや」
「そこでメンバーの人数を同じくする」
 ・ひとチーム十人
 ・揃わなければ不足分の会費をチームで補う
 ・当日、理由にかかわらず試合放棄は全額没収
「ちょっと厳しくないか」
「勝負事には厳しさと、けじめが必要やで」
 その他の取り決め事項を、田所は用意してきたメモを取り出し読み上げる。
 ・試合は毎月初めの日曜日
 ・会場は会社近辺の空き地を予定
 ・服装は普段着。スパイクは禁止
 ・チームに欠員が生じても試合は決行
・審判は試合のないチームが担当
・第一試合の負けチームが第二試合を続ける
 ・試合は六回戦延長なし、同点は先に得点したチームの勝ち
 ここまで読みあげると、田所は試合のルールは進行を優先させるのでよく考え、今日説明したことを含め、コピーして後日に渡すと二人に伝える。二人は顔を見合わせて目を丸くし、田所の自信ありげな表情をまじまじと見た。この単細胞の田所にこんな細かいことができて、さらに試合のルールを作るという。人知れぬ才能ってこういうことをいうのだろう。高校でサッカーのレギュラーを張っていたミヤと、クラブに所属せず路上のモータースポーツに精を出していたカイの思いは同じだった。
 田所に今、仕事のことなど頭になかった。試合のルールをどうすればトラブル、無駄を無くし、ゲームを早く進めることができるだろうか。この一点だった。
 翌週、同じ時間に同じ場所に集まると田所はポケットから四つ折りにした紙を開き二人に渡した。二人は早速、両手で折り目を伸ばす。
  試合のルール
 ・六回戦
 ・先攻、後攻はジャンケンで決める
 ・振り逃げなし
 ・バントなし
 ・盗塁なし
 ・デッドボールなし
 ・二ストライク後のファールは三振扱いとする
  その他
 ・タイムはみとめない
 ・イニング間、試合中のボール回しはしない。
 ・試合中で負傷、体調不良があってゲームに出れない場合はその選手を除いた人数で続行する。
 ・ベースコーチは置かず、ジャッジに対する抗議は認めない。
「おれ、ルールなんかアウト、セーフしか分からんからまかすわ」
「おれもや」
 二人は紙から目を上げると同じように言った。
「とにかく目立たんように、試合を早くすることが大事だから思いついたまま書いたまでや」
 会費、賞金の項目を除いたこの決めごとを、そのまま持って帰るようにと言い、田所は自分のものをポケットに入れた。
「それで、メンバー集めはいつごろまでにできる」
 これができないと何ともならない。
「おれんとこはいつまでと言われてもなあ」
 ミヤは困ったような顔をしたが目は生きている。
「うちは結構、野球好きのやつがいるようなんで、一週間か十日もあれば何とかなるやろ」
 カイはどうにかなりそうな口ぶりだ。
「誘う時に口に出していかんことは分かってると思うが、賭け試合などと絶対言ってはいかんからな。頼むぞ」
 田所はきつく言うと、
「会費の千円は運営費にすると、入会者には了解してもらえよ」
 と、続けた。
「目標は来月初めの日曜としょう。それまで二週間以上あるからなんとかしようぜ」
 意気込む田所に二人は何度もうなずいた。
 ここまできたら、どうしてもメンバーを揃える必要がある。ミヤとカイの会社は規模が大きいから、そんなに苦労をしなくても集まる。だがうちは大きいといえ運送業だ。半数以上は出勤したらすぐ車に乗る。田所は自分のことが心配になってきた。
 
 十月初めの日曜日。午後一時。
野原になっている空地に、対戦する二チームと審判三人が集まった。顔合わせなどという呑気な気分にはなれない。ミヤとカイには目を合わせて笑顔を送る。光運輸の田所を含むメンバー十人は、一塁側の草むらベンチで円陣を組む。
「いいか、分かっているやろな。何が何でも勝つんや。どんな手を使っても勝つぞ。いいか」
 田所の低い声がメンバーの耳に入る。
 審判担当である大川産業の、カイを含めた三人が各塁にベースを置く。高い空の下、野原のグランドに両チームが思い思いのジャージや普段着姿で、ホームベースを挟み対峙する。光運輸の相手はYS工業だ。初めて見る顔ぶれでこれは楽な相手だと思うが、いくら年輩が多いからといっても油断はできない。主審は参加メンバー十人ずつをチェックして試合開始を宣言する。カイは三塁の審判に入っていた。
 先攻はYS工業で、守りの光運輸は足早く守備位置に散る。ピッチャーはごつい身体のエース田所、キャッチャーはひと回り小柄なずる休
みの千賀で、試合前の投球練習はなく、即プレイボール。一番バッターは帽子を目深に被っている、小柄で足の速そうな選手だ。田所の球はコントロールはいまひとつだが速い。フルカウントまで持っていかれたが、四球目がファールで1アウト。二番は一球目をファーストフライで2アウト。いかつい身体をしている三番は二球目をセカンドフライでチェンジ。
 草むらベンチに戻ると千賀は田所の隣に腰を下ろし、「調子がいいから真っ直ぐでインコースをえぐっていこうや」と、はめたままのミットの芯を拳で何度も叩く。
「おう、いきなりフルカウントで焦ったぞ。でもバットに当てるだけやからな」
 ミヤの守備はと見ればすぐ前の一塁で構えている。田所はそれよりもと、バターボックスに目をやる。一番はサードの通称トラ。仕事でのトラブルが断トツでそう呼ばれているらしい。右投げ左打ちで一球目のフルスイングが空を切る。
「あのアホが一球目から手を出しやがって」
 田所が眉間にしわを寄せる。
 同じピッチャーとしては、一球でも多く相手に投げさせたいところなのだ。しかし、試合を進めるためにはこれでいいのだと思い直す。次の瞬間思いもよらぬプレーがでた。二球目を打ったボールがレフトの前にポテンと落ちたが、それを万歳してうしろにそらしているではないか。ベンチが総立ちで回れ回れの大コール。セカンドベースを蹴ってトラは、無謀にも背を丸めてサードに向かっている。タイミングはアウトに見えたが、タッチの際にボールがこぼれおちた。
「おおついている、ついているぞ、トラ、トラ、トラぁ」
 千賀も大声を出して手をたたいている。そして何を思ったか、トラが一目散にホームへ向かってくるではないか。ベンチに悲鳴と非難が渦巻いた。慌てたサードがお手玉して投げたボールが、今度はトラのうしろ頭に命中してベンチの方向に転がっていく。歓声があがり、トラはどや顔で戻ってくる。身体中を皆に思いっきり叩かれトラの顔はくしゃくしゃだ。
 さい先のいい得点でベンチは盛り上がった。これで同点引き分けでも勝ちは決まった。その後は敵も味方もランナーが何人か出るものの点にはならず、最終回に入ろうとしている。光運輸の五回裏の攻撃も2アウトになり、田所は千賀とラストイニングの打ち合わせをする。
「YSの打順は二番からやで。バットを寝かせて、またストレートを狙ってくるのは分かってるやんか」
 と、千賀。
「なあに、さっきはまぐれもいいところや。そうやな、最終回に先頭打者を出すのはまずい。初球は思い切って喉元を狙うか」
 田所が守備位置にいる相手方を見る。
「ランナーはいないから、ぶつけたってボールや。よし、二球目からアウトコースのストレートとカーブでうち取るか」
 田所は自信ありげに肩を回す。
「多少甘くなってもストライクを取らんとあかんで。ここを間違うとヤバくなるから」
 千賀は一点差ということで気が気でない。
 光運輸の六番バッターが、フルカウントからのファールチップでチェンジになる。
 光運輸のメンバーが駆け足で最後の守備につく。
 YSのバッターは二番から。前の打席で思いっきり引っ張られて、レフトへライナーのヒットを打たれている。
 インハイストレートのサインを覗き込むと、田所は軽くうなずき大きく振りかぶる。腕をしならせ、これでどうだとストレートを投げ込む。バッターがのけぞり、その場に尻もちをつく。
「こらあ、どこを狙ってるんや」
 血相を変えてミヤが怒鳴る。
 計算済みの田所はにやりとする。
 二球目はアウトコースのカーブのサインに首を振る。
 千賀は打ち合わせと違うことにとまどった。タイムはとれない。アウトコースのストレートを要求する。
 田所は軽く首をたてに振ると、腕を叩きつけるようにストレートをアウトコースにコントロールした。バッターは瞬間、腰を引き見送った。ツウナッシングになって勝負はついた。三球目の真ん中から逃げるカーブにバットが力なく空を切った。三番バッターはインコースの初球ストレートを読んでいたのか、いい当たりのショートライナーでバッテリーはひやりとする。さあ、最後は四番バッターの登場や。ミヤが田所をにらみつけ、のっしのっしとバッターボックスに入ってくる。ここは負けじと田所もマウンドでにらみ返す。
 一球目に真中へカーブを投げると、気のないスイングで空振りしたミヤが声を発した。
「ストレート、ど真ん中こい!」
 闘争心に火がついた。
 田所も受けてたった。
 二球目、腕も折れよと、ど真ん中のストレート。
 ちからまかせにボールを叩き上げると、舞いあがった打球がセンターの頭上を襲う。あらかじめ深く守っていたセンターが背走、背走して逆シングルのグローブを出すと網の先っぽにひっかかった。
 呆然と立ちすくんでいたバッテリーが飛びあがった。
 一塁ベースを回っていたミヤがくやしまぎれにサッカーボールを蹴るように足を思いっきり振り上げた。
   第一試合
 YS工業 対 光運輸  1対0で光運輸の勝ち 
  
  第二試合の大川産業が三塁側に集まっていた。最後の打球の行方を見ていたメンバーの、どよめきが収まらない中で次の試合が始まる。先攻は大川産業。審判は光運輸から三人。田所は主審をやるつもりでいたが、どっと疲れが押し寄せて千賀に任せる。
 初回からミスの応酬で、五回を終わった所で4対4だ。六回の表、大川産業の攻撃でカイのライナーがYSのピッチャーを襲った。疲れもあったのだろうか、避けきれず右足のふくらはぎに当たった。それでも続投をしたがコントロールがままならず交代。次のピッチャーも経験不足かフォアボールを連発、2失点で勝負あり。ミヤのしょげた顔を嬉しそうにカイは眺めていた。
 次に大川産業との試合を待っていた光運輸のメンバーはミスだらけの内容に、これは組み易しと自信を深めた。
  第二試合
 大川産業 対 YS工業 6対4で大川産業の勝ち
  
 最後の試合で優勝が決まる。田所は身体を休めることはできたが十分とはいえない。だが次も勝たなければ、ここまでやってきたことが無駄に終わってしまう。ミヤにはかろうじて勝った。今度はカイに勝たなければならない。試合を見ていた限り負けるような相手ではない。問題は守備でボロを出さないことだ。そのためには三振を数多く取らなければならない。勝負事は何が起きるか分からない。田所は千賀を呼んだ。
「この試合ではおれがサインを出すからお前はしっかりミットを構えてくれ」
 千賀は田所の意気込みを感じた。
 第三試合は光運輸の先行で始まった。たいしたピッチャーでもないのに打てない。中年男の投げるスローカーブに、身体が突っ込む場面が繰り返される。その上、あれほどぼろぼろだった守備が、ショートを守るカイの初回のファインプレーで、内野のフットワークが、見ちがえるようになった。なんと四回まで両チームがノーヒットだ。これはどうしたって先に点を取らなければ負けだ。五回の攻撃の前に田所は先頭バッターに声をかけた。
「ピッチャー寄りに立ってバットを長く持て」
 言われた通りに構えて、カーブを狙い打った打球が右中間を割る。たまったうっぷんが歓声となる。初のヒットが三塁打になり、ベンチの期待は次のバッターに向けられる。
「ストレートに手を出すな」
 つぎのバッターにも指示を出す。
 インコースのストレートを二球見逃して追い込まれた。三球目のストレートがインコースの高めにくると、バッターはめくら滅法に振った。その打球が前進守備の一二塁間を、高いバウンドで抜けていく。先取点だ。田所は手を叩きながら、おお、まぐれまぐれと両手を上げた。ピッチャーは明らかに動揺している。次のバッターもカーブをライト前にころがす。この回二点。楽になった田所はその裏を三者三振で取る。最終回に相手のピッチャーが交代した。まだ望みを捨てていない。カイを見ると歯ぎしりをしているように見える。アウトコース一辺倒の投球に怖さを感じないバッターは、踏み込んで連打を浴びせ二点をもぎとる。最後のイニングはカイが先頭バッターだった。点があろうとも田所は手加減するつもりなどなかった。ストレートを三球コーナーに投げ分けて空振りを取った。あとの二人もファールが精いっぱいで試合終了。ガッツポーズの田所は会心の笑みを振りまいた。
   第三試合
 光運輸 対 大川産業  4対0で光運輸の勝ち

 翌日、勤務終了後、田所は真っ直ぐゲームセンターへ向かった。昨日の賭け金を貰いにだ。まだきていなかった。椅子に腰掛け十分、十五分ーまさか忘れているわけでもないだろうにとイライラが始まった。携帯を取り出したその時、つかつかと二人が一緒に現れた。なぜ二人一緒なのだと、いぶかしげに田所は立ち上がる。
「おう、ちょっと遅くなった。すまんすまん」
 こいつが会社に忘れ物をしたというので待っていたんや」
 カイが言うと先に腰を下ろした。二人もすぐに並ぶと、田所は待ちきれず手のひらを突きだした。カイはポケットから現金を出して数え始める。それを田所は一緒になって数えた。受け取ると今度はミヤが札を数える。それも受け取ると田所は、辺りに目を配りながら素早くポケットに入れる。
「まあ、順調なスタートやったな」
 田所は満足そうに言う。
「だけど今度はそうはいかんぞ。いいかみてろよ」
 ミヤも勝ちたいばかりだ。
「そうよ、次はおれんとこがもらうからな。覚悟しておけよ」
 ぶっつけ本番だったが、次の勝算はあると言いたげだ。
「軽く一杯やりたいところやけど、今日はちょっと帰らんといかんのや」
 この金を今から使うことに抵抗があった。
 仕方がないなあと、くやしそうな二人はため息交じりに腰を上げる。
「じゃあな」、と田所は先になった。
 駅前に出て真っ直ぐの道を、ポケットに手を入れ感触を楽しむ。自然と頬がゆるんでくる。これを続ければ何かが開けてくるような気がして、計画したことは間違いなかったんだと自画自賛していた。
 商店街を中ほどまで歩くと、なぜかおもちゃが目の端にひっかかった。足を止め考える。覗くと客が三四人。男の姿もある。田所は足を踏み入れた。動くもの。あれだ。迷わず手にする。線路付きの機関車。三千円。まあいいか。田所は脇で抱え店を出る。こんなにいい気分は今までになく足取りは軽い。アパートの階段を上がりドアを引くと、靴を脱いでいるうちに子供がばたばたと出迎える。と、同時に悲鳴に似た声があがりひとみが出てくる。
「あんた、なんやこれ。どうしたん」
「おう、おもちゃや。たまにはと思ってな」
「なんか怖いなあ、あとが」
 複雑そうに紙袋の中を覗く。
「あ、これ高かったやろ」
 裏返ったような声を出す。
「なに、パチンコかなんかで儲けたんか」
「いや、ちんちろりんや」
「なんやそれ」
「知らんでいい」
「また変な賭けごとを覚えたんか」
「そんなんじゃないって。会社の中での遊びや、遊び」
 田所は夕食を済ませるとテレビの前でごろりとする。目は画面に向いているが、頭の中は次の試合のことを考えていた。あんな調子で勝てるのやったら毎週でもやりたいくらいだ。いちど話を切り出してみるかとも思う。だがよくよく考えてみると会費は月に千円だ。週に千円などとんでもない話だし、他のメンバーに説明がつかない。田所は早く来月にならないものかとカレンダーを眺める。
 翌日、会社に入り仕事場に向かおうとすると、多美子が待っていたかのように詰所から出てくる。
「なんや、また千賀がずる休みか」
 田所は顔をしかめる。
「ねえターさん、昨日は仕事終わってどこへ寄り道してたのよ」
 千賀のずる休みかと思った田所はぎょっとした。
「なんのこっちゃ」
 とぼけたつもりだが頬がひきつる。
「駅裏のゲーセンでゲーム?」
「おお、たまにはなあ」
 言葉はそれしかない。
「連れはなんか見たことがあるような、ないような二人だったわねえ」
 まさか多美子が、あんなところで見かけたとは思いもしなかった。
「お前こそあんな所で何してたんや」
 反撃せざるを得ない。
「ターさん、なんか悪いことしてるんじゃないの」
 むかっとした。
「おれのことより、お前のことが心配やわ」
 駅裏はどちらかといえば飲食店の目立つ繁華街だ。
「あんな時間から呼び込みのアルバイトか」
 口に出してから後悔した。
「何言ってんのよ、私ターさんのことが心配で聞いただけなのに、なんでそんなひどいことを言うの。私をそんな目で見てたの。もういい
、分かった」
 多美子はすごい剣幕で背を向けた。
 週末になった。今週は土曜の出勤がある。会社へ入って行く人はまばらだ。仕事場へと急いでいると突然、多美子が立ちふさがった。田所は驚いた。多美子はこの週、確か休みのはずだ。けげんな顔をすると、多美子はどうして謝りにこないのとふくれっ面だ。田所はあんなことを口にしたら、誰だって簡単に怒りは収まらないだろうと、日にちがたつのを待っていた。
「ごめん、あんなことを言ってしまって、おれ物凄く後悔しているんや」
 この言葉をこんなに早く多美子に言えるとは思ってもみなかった田所は、重い荷がするりと背中から下りたような気がした。
「今度、いつ会えるの」
 そう言われて田所は目を落とした。ギャンブルでの家庭トラブルから野球の賭け試合計画まで、ひと月以上かかわっていたこともあって
、おざなりになっていたのは事実だ。
「うーんそうやなあ、来週は土曜が休みだし、そこでいいかな」
 話をこじらせたくない田所は、多美子の都合を優先させるつもりでいた。
「うん、わかった。ちょっと話したいこともあるしね」
 胸に鋭いものを突き付けられた。
 翌、土曜日。
 遅い朝食を済ませると箸を置いた田所は、
「今日、昼から会社行くわ」
 と、まだ子供に食べさせているひとみに言う。
「なんやの急に」
「昨日残してしまったのがあるんや。来週でいいかとそのままにしてきたんやけど、やっぱりまずいわ」
「ふーん、しゃあないわな。だけど明日はあかんで」
 明日はショッピングモールへ行く約束している。
「おお、なるべく早く片付けてくるわ」
 言い残すと田所はアパートを出た。いつものように自転車にまたがりペダルをこぐ。空は晴れているが気持ちはさえない。急ぐ必要もなく、視線をただ真っ直ぐ向けてハンドルをにぎる。会社の前までくると田所は自転車を止め、考える。何食わぬ顔をして仕事場で時間をつぶすか。いやそうもいくまい。休みのはずのおれが一時間ほどぶらぶらしているところを見られたり、声をかけられたりしたらまずい。田所は考え直すとペダルを足にかけた。野球をやったあの原っぱへ行ってみよう。金網塀の内側に沿って、積み上げられたパレットが道角まで続いている。視界が開けると、穏やかな秋晴れの向こうに原っぱ球場が見える。人影はなさそうだ。舗装された細い道をゆっくり走る。自転車を停めてひざ丈ほどの草むらを、足で分けてグランドのベンチ辺りにたたずむ。二週間前の試合が目に浮かぶ。われながら会心のピッチングを思い出してマウンド辺りに足を運ぶ。ホームベースに向かって構え、身体をひねり腕を振り下ろす。
「あと二週間か」
 つぶやくと、もう一度マウンドで振りかぶった。
 会社の裏側から西に向かい、十分ほど行くと住宅地に出る。その外れの区域にコーポやアパートが数棟ある。まだそれほど古くないコーポに近づくと、田所はスピードを緩め振り向いた。一度通り過ぎて自転車を降り、携帯をにぎって、今着いたと伝える。三階建ての六部屋で、一番上の左側に多美子は住んでいる。田所は自転車を建屋の横壁に寄せて停める。慣れた階段ではないが靴底に違和感はない。チャイムは鳴らさず、ノックを軽くすると、間髪入れず扉が開く。引き込まれるように入って靴を脱ぐと、多美子の身体を力の限り抱きしめる。
「く、苦しいじゃないのお」
 多美子が両腕を田所の腰にまわす。
「ごめんなあ、放っといて」
 本音に近かった。
「ち、ちょっと離して」
 田所は身体を離すと肩を抱きよせキスをする。
「ねえ、昼ごはん食べるでしょう」
「うん、いただくよ」
「久し振りよね」
 田所はソファに腰を深くして部屋を見回す。
「何を見てるのよ、ターさん」
「ん、他の男の匂いが見えないかなと思って」
「へええ、見えるの、匂いが」
「うん、超能力や」
「なんにも匂う訳ないじゃない」
「ほんとかな」
「馬鹿なこと言わないで、私にはターさんしかいないんだから」
 田所はこの言葉を引きだしたかった。
「ねえ、何食べる」
「ラーメンでいいや」
「遠慮してるの」
「いや、朝が遅かったから」
「家のことは言わないで」
 多美子の口調はきつかった。
 昼食を終えると抱き合った。長く長く抱き合った。
「ドライブ行こうよ」
 田所はあまり気が進まなかったが、罪滅ぼしの気持ちを見せておいたほうがいいと従った。
 田所が運転する多美子の車は西へ西へと走った。
「なあ、話があるって言ったよな」
 自分から言い出すのはどうかと考えたが、多美子の思いを聞いておかなければならない。
「ううん、今は言わない」
「どうして」
「だって、出発したばかりだもん」
「そうやな」
 そう言われて納得した田所はアクセルを踏み込んだ。
 観覧車が見える。テーマパークが近い。駐車場は混雑していた。何とか車を停めて降りると、人の流れにまかせて入口に着く。見ると土産物屋の一角にコーヒーショップがある。二人は隅の方に空いた丸テーブルを見つけて腰をおろす。コーヒーを二人で楽しむなんて、それこそいつ以来だろうか。店を出ると人けの無い方へ足を向ける。多美子が腕を組んでくる。こうして木立のある静かな道を歩いていると、なんだか胸が痛くなる。
「ね、ターさん観覧車乗ろうよ」
 突然、弾んだ声で言う。
「ああいいねえ」
 そのほうがよかった。
 きた道を戻り観覧車に向かう。
「ああ、あれって都会のほうよね」
 ゴンドラが昇るにつれて景色が広がる。
「うん、賑やかそうだね」
「賑やかってわかるの」
「おお、超能力さ」
「またそれだ」
 屈託のないことを言い合っているうちに、ゴンドラは地上へ下りる。
 駐車場へ戻り車を出す。運転を代わると言って多美子はハンドルを握った。おとなしい運転だ。国道からそれて県道に入ると多美子は切
り出した。
「いつになったらさあ、一緒になれるの」
「うーん、はっきりは言えないけどなあ」
「私ね、そんなんだったらもういいよ」
「そんなこと言うなって」
「ターさんは自分の都合のいいようにしたいんでしょ。いつまでも」
「そんなことないよ」
「だったらもうはっきりして」
 多美子は覚悟を決めているらしいことを田所は悟った。
「確かにひとみさんにはお世話になったけど、それとこれは違うよね」
 逃げられない所まできてしまった。
「じゃあこうしよう、もうひと月待って」
「本当?」
「うん、約束や」
 でまかせではなかった。ある程度覚悟はしていた事だ。家庭の事情がある。まずこれを解決しなければならない。これから先へ行くのも戻るのも地獄になる。会社へ行くのがつらくなった。毎日、詰所前を通らなければならない。これまで多美子のやさしい目線を受けながら通り過ぎたがこれからは違う。背中をうしろから突き刺されるような気がするだろう。
 二回目の賭け野球が来週になった。田所に不安はなかったが、前回のようにうまくいくとは限らない。出社すると千賀の姿を捜しに回った。いつもは見かけるのにどこへ行ったのだろう。まさか気分が悪くなったとか言って帰ったんではあるまいかと疑う。そう思っていたらひょっこり現れた。ちょっと腹具合が悪くなってトイレにかけこんでいたという。まあ今日はどうしようと知ったことではないが、今度の土曜日は午後を空けておけと言う。翌日のためにピッチング練習をして調子を整えておく必要がある。釘を刺すと田所は集荷場へ車を回した。
 配送に出てもあれこれの思いが頭の中をかけめぐり運転があやうくなる。一日が早いのか遅いのか、感覚がおかしくなってくる。倉庫でリフト作業をやっている方が気が紛れる。そう考えると田所は、仕事の配置をこの週に限って千賀と代わってもらうことにする。
 またたくまに週末をむかえると、田所は千賀に明日の午後を念押しする。場所はと聞かれ、近くの公園を考えたがやはり試合場の方がいい。今日も定時に作業を終えると、田所は自転車で真っ直ぐ帰ることなく駅裏へ寄り道する。パチンコ店を覗くとがらがらだ。うろうろしているだけでは目立ってしまうと、店を出て向かいのゲーセンへ入る。喫煙所の丸椅子に腰掛けて人待ち顔を装う。月曜日には、ここでまた賭け金を手にするのだと思うと気持ちが高ぶる。
 土曜の午後、田所が試合場の原っぱが目に入る所までくると人影がある。数人だ。見るとあれは子供じゃなくて大人の身体であることが判る。近づくと何するわけでもなく輪になり立ったままだ。千賀はと見れば、離れて一人腰を下ろしている。
「おう、早かったな」
 思わぬ行動の早さに感心する。
「うん、場所が何かに使われているとまずいかと思ってちょっと早くきたんや」
 そう言うと千賀は、反対側にいる数人に向けてアゴをしゃくる。よく見ると草むらの陰にグローブが見える。
「ここで野球をやるつもりやな」
 そう言うが早く、田所はつかつかと歩み寄って行く。ここで試合でもやるのかと聞くと「いや遊びみたいなもんや」と背丈のある、短髪の若そうな男が言う。年のころは二十二、三かもう少し上のような気もする。まだこれから人が集まる様子なので、キャッチボールくらいやってもいいだろうと確認すると、遠慮なくどうぞの言葉。田所は引き返しながら、千賀にやろうかと合図を送る。
「お前見たことあるやつがいるか」
 千賀に近寄ると聞く。
「うーんちょっとわからんなあ」
 目をこらして見る。
 気にしたってしょうがないと、端の方でキャッチボールを始める。五、六球で千賀を座らせストレートを投げ込む。肩の具合は悪くないものの思う所へ行かない。カーブを投げると抜け気味になる。どうしたものかとあせると、ついりきんでしまう。無理はすまいと二十球ほどでやめる。試合になればまたいい球を投げられるはずだと、千賀には言い聞かせ、横目でフリーバッティングをやっている連中を見ながら引きあげる。自転車に乗りながら千賀に話しかける。
「お前これからどうするんや」
 中途半端な時間なので気にかけた。
「うん、とりあえず帰るわ」
 なにか予定があるのかもしれない。
「うちに寄って行かんか。ひとみが顔を見たいといってるし」
 誘ってみると考えるふうをする。
「今日はやっぱり帰るわ」
 無理強いをすまいとそれっきりにする。
 田所のアパートへ行く道角で手を上げて別れる。
 さあ、明日も勝たなければと、気合いを入れてペダルをこぐ。
 どんよりとした朝だった。田所は気をもんだ。せっかく肩慣らしをしたというのに、これから雨でも降られたら昨日の練習がむだになる。降りそうで降らない雲行きが昼まで続いた。昼飯を済ませるとミヤとカイに携帯をする。二人ともやはり空を気にしている。田所はどうしてもやりたい気持ちが強かった。やるぞと二人に集合をかける。
 第一試合
  大川産業 対 光運輸
 先攻は大川産業で、田所の光運輸は守備につく。前回楽に勝った相手だ。千賀にはそのつもりでサインをだせと言ってある。一番バッターは、バットをかなり短く持ってキャッチャー寄りにかまえている。ストレートのサインでミットはインハイ。一球目空振り。二球目も同じく空振り。三球目はアウトローのカーブで見逃し三振。田所は千賀に向かってOKサインをつくる。二番はスピードをおさえたアウトコースのストレートをセカンドゴロ。三番はインハイのストレートをキャッチャーフライでチェンジ。出だしの調子はまあまあだ。この攻め方でピンチがきたら考えようと千賀に伝える。
 大川産業のピッチャーは前回と一緒だった。スリークォーターからのカーブをやはり打ちあぐむ。二ストライクからのファールで三振を何個も取られ、内野ゴロはカイを中心にして確実にさばいている。同じパターンだ。バッターはピッチャー寄りに位置を移すことでチャンスを作るが一本が出ない。そのチャンスを五回にようやく生かし二点をもぎ取る。あとは田所が押さえるだけだ。次の試合を考えて田所はきちんとインハイとアウトローにストレートだけをコントロールした。勝算ありと言っていたカイをノーヒットに抑える。
 二対〇で光運輸の勝ち

 第二試合
  YS工業 対 大川産業
 YS工業は、疲れがありありの大川産業のピッチャーを初回から打ち込む。大川産業も負けじとくらいつき接戦に持ち込む。しかしピッ
チャーが五回で力尽きゲームセット。
 五対三でYS工業の勝ち

 第三試合
  光運輸 対 YS工業
 この試合をものにすれば、また賭け金を手にすることができる。田所は何としてでも勝ちたかった。前回はきわどい勝利だったので、今日も気は抜けない。まずは先に点を取りたい。先攻の一番バッターがボックスに向かうのを祈るような気持ちで見送る。そしてピッチャーに顔を向けると目をうたがった。昨日この場所で見たあの長身で単髪の男だった。そして守備位置を見渡すとファーストのミヤ以外に、あきらかに違うメンバーが何人か入っている。規則では違反にしていない。しかしうろたえている場合ではない。
 注目の一球目が投げられた。田所は息をのんだ。おれより速い。かすりもせずに三球三振。二番、三番と連続三振。ミヤはと見れば守備の一塁で、してやったりと余裕の笑みだ。マウンドでの田所は、いやがおうでもりきまざるを得なかった。始めから腕も折れよとばかりに投げ込んだ。インハイ、アウトローを練習通りに千賀のミットを目がけた。一番を三振、二番をファールアウト、三番をセカンドゴロ。とにかく先頭バッターを三振で取りたかった。あとはアウトを取れればそれでよしと考えた。完全な投手戦で最終回をむかえる。打順よく一番のトラ。田所は耳打ちをする。ベースから離れろ。と、その時冷たいものが手の甲に落ちた。見上げるといつの間にか厚い雲が上空を覆っている。これは何とかなると、田所はさらに二球目を打てとトラを送る。しかしトラは初球をレフトへ強烈に打ち返した、というより振り遅れが幸いした。予想だにしていなかったのか、レフトは目の前にきたワンバウンドを合わせきれず大きくそらす。前回に続いてラッキーが舞い込んだ。ランニングホームラン。ミヤがファーストベースで頭を抱えている。手荒く迎えられたトラは、「すまんすまん」と田所にあやまる。ラストイニングを、田所は大胆にもカーブで切り抜けた。
 一対〇で光運輸の勝ち

 ミヤとカイが雨の中を恐れ入りました、と田所の顔色をうかがいにくる。
「あのピッチャーは誰や」
 厳しい顔のままでミヤに聞く。
「スカウトしたんや。これは内緒や」
「しかしいい勝負やったなあ」
 三塁の審判をしていたカイも興奮さめやらない。
「ミヤ、おれんとこも一人紹介してくれんか」
 本気になって肩をつかむ。
 本降りになっていた雨の中を自転車で帰る田所は、今度もきわどい勝負をものにした充実感と、さあおれの身の回りの何もかもはこれか
らだ、という思いが複雑にからみ合う。
 家にあがると子供に続いてひとみが出てくる。
「なんやの、こんなに雨が降るまでやってたんか」
 言うとバスタオルを投げ渡す。
 ずぶぬれのシャツとズボンを洗濯機に放りこむと、頭からバスタオルをかぶり着替えする。
「アホやなあ、雨の中での野球がそんなに面白いんか」
「そうよ、野球だって勝負事やからな」
「わからんな男ってやつは」
 (分かってもらわんで結構)と心でつぶやく。
「それにしても今日はすごい試合やったぞ」
 口に出さずにはいられなかった。
「それがどうしたん」
「まあ聞け、今日の相手はノンプロのピッチャーやで」
「それがどうしたん」
「おれが投げ勝ったんやで。どや、たいしたもんやろう」
 田所は有頂天だった。
「それがどうしたんや」
「おれ、やっぱり道を間違えたんかなあ」
「なんの道や」
「おれ、本気になったらプロへ行けたかもしれんなあ」
 まともなことを言っているつもりだった。
「競輪の選手になるって言ってみたり、プロ野球に行けたかもしれんなんて、アホみたいなことばっかり言ってんじゃないよ」
 返す言葉があるわけでなかった。
「千賀ちゃんも一緒やったんか」
「おお、そうや」
「かわいそうに、ずぶぬれやったろに連れてくればよかったやんか」
「そやなあ、あいつのアパートがまだ遠かったしなあ」
「また、いつかやるんか」
「おう、来月や」
「今度観にいきたいなあ。千賀ちゃんもやるんやろ」
「あかん、あかんもう寒うなるし、ネットも何もない原っぱやで、子供にボールでもあたったらとんでもないことや」
 言いながら田所は冷蔵庫に手をかけていた。
 降り続いていた雨が、朝方に上がって青空がのぞいている。傘を持たずに自転車が使えるとあって田所はほっとする。会社までの十数分にいろんな思いが走る。詰所の前を意識して通る。ドアを開けずに多美子が小さく手を振る。田所は横目で軽くうなずき仕事場へ向かう。今日は県外が入っている。月曜から「なんや」と舌打ちをして車を出す。伝票と荷の確認を終えると会社を出る。ついこの間、多美子とドライブに出かけた道を通ると、ひとみの顔がさかんに浮かぶ。
 配送先で帰り荷を積み、途中でコンビニに寄りおやつとスポーツ紙を買って休憩を取る。一時間ほどさぼってエンジンをかけると、決心みたいなものがちらちら燃え上がってくる。今日はどうしたって定時に帰らなければならない。少々運転が荒くなっても仕方がない。あの観覧車が遠くに見える。ここまでくればもう急ぐ必要はないと背筋を伸ばす。もう一度コンビニで時間を調整して会社へ車を入れる。
 田所は自転車の解錠ももどかしく、スタンドを蹴りあげ、一目散に駅裏へと走る。やはりまだ二人はきていない。賑やかな電子音の中で落ち着けない時間が過ぎる。十五分ほど待ってミヤが現れると、変なにやけ顔をした。
「おい、お前まともに勝ったと思うなよな。雨やで、雨がお前に味方したんやからな。金、半分でいいやろ」
真面目な顔をする。
「アホか。しかし、あんなピッチャーはお前違反やぞ」
 本当に思った。
 カイがきた。
「おお、おれが一番遅いのか」
 待たせたことなど、なんとも思っていない。
「ミヤ、お前よ、ずるいぞ。あんなことをしてまで勝とうなんてひきようやぞ」
「あんなことって、ピッチャーのことか」
「そうにきまってるやろう。あれはないよな」
 田所に相槌を求める。
「まあ、誰が考えてもちょっとすぎるぞ」
 自分が勝ったせいもあって控えめだ。
「だけどなあ、現役はいかんぞ。こんな神聖な試合に学生など引っ張ってきたらあかんぞ」
 カイが珍しくまともな事を言う。
 田所はもうそんなことなど、どうでもよかった。早く賭け金を回収してここを出たかった。
「おい、今日は用があるから早くしてくれ」
 田所は口をとがらせた。
「なんや、おまえ今日も持ち逃げか」
 ミヤの痛烈なひと言を振り切って階段を下りるつもりだったが、ここで多美子に見られたことを思い出した。
「ちょっと先に下りてくれ」
 言うと何かを思い出したような仕草を見せ、戻る素振りをした。
いつの間にかほの暗くなっていて、田所は自転車のライトをともす。商店街に目は向かず、ただ多美子とのことを思う。いや、まだ決めら
れるわけではないんだと、田所は自分に言い聞かせる。
 夕食を済ませたひとみと子供たちが、うるさいほどに騒ぎ回る。田所が缶ビールの二本目を冷蔵庫から出す。
「何や、今日はえらいペースやな。それで終わりやで、分かってるな」
 ひとみが大きな声で注文をつける。
「分かってるわ、今日は県外があったんで、くたくたなんや」
 オーバーな口応えをする。
 田所は二本目を飲み干すと、飯をそそくさと食べ終えて、洗いものをシンクに放りこんだ。
 明日は火曜日か…。見たいテレビもなく、早々に布団へ潜り込む。
 目覚めるとまだ薄暗かった。昨夜が早かったせいなのだろうと、田所は目をつむったままで明けるのを待った。今朝は冷えている。田所は
布団を顔まで引き上げた。
 朝ごはんを済ませてアパートを出ると吐く息が白い。自転車は毎日文句を言わずに、このごつい身体を乗せて走ってくれる、などと妙な思い方をしてみる。とにかく今日は午後から仕事をやめて行く所へ行こう。田所は余裕を持って会社に着くと、駐輪場に自転車を停め、詰所に向かう。ドアを開けざま多美子を手招きする。昼からどうしても帰る必要があるから伝票を減らしてくれと頼む。多美子は理由を聞くことなく集荷場へ走る。千賀が出勤してきた。田所はいつもと変わらぬ様子を見せて、今日も遅いなと声をかける。積み荷を確認すると田所は勢い込んで車を出した。五分でも十分でも早く帰ることを目標にしてハンドルを握る。黄信号は走れの指示とみなし、堂々と交差点を抜ける。
 帰ると丁度、十五分前。会社の手前で時間待ちをする。
 車を駐車場に停めると、田所は何食わぬ顔で駐輪場へ向かう。行先は駅前だ。慌てることはない。ゆっくりと自転車をこぐ。昼が過ぎ、腹ごしらえと思ったが、ここで下手にうろうろしていると、誰かの目に入らないとも限らない。田所は直行する。駅前のすし詰め状態の自転車置き場に自転車をねじ込むと、改札横の券売機で総合駅までの切符を買う。
 電車は空いていた。田所はゆっくり流れる風景を、定まらない焦点で眺めていた。県境を流れる大河にかかると、鉄橋上で走行音がカラカラと浮き上がる。そして、ゆったりと流れ光るさざ波に、田所は燃え上がる白い炎を見た。
 乗客の乗り降りは少なく、あと二つの駅を過ぎると総合駅に着く。駅の混雑するホームを出口に向かい改札を通る。人群れの中を西口へ歩を進める。ロータリーの向こう側から直行バスが出ているはずだ。行列のできているバスがある。あれだと田所は足を速める。バスはまもなく発車して、信号の多い都心を走りぬけると一直線で十数分、記念競輪の開催地に着く。ああこれだ、この雰囲気がたまらない。場内に入ると田所は、思う存分息を吸い込んだ。専門紙を買って飯屋に入り、まずビールを飲む。できたての焼きそばを口にしながら専門紙を見る。今日は二日目、準決勝戦だ。レースを絞り狙いを定める。今までとは違って、推理を無視した投票をしなければ目的は叶わない。田所は最終、第十一レースに目をつける。予想者の評価が申し合わせたように同じだ。強力先行、それを鬼マークの実力者。このレースしかない。
 第十レースは予想紙通り、実力者同士が直線で足をのばしてゴールを決める。いよいよ十一レースの出走選手がバンクに出てきて周回にはいった。若手の強力先行選手が白いユニフォーム、マークするはずの赤いユニフォームの上位ランキング選手が繋がってバンクを回る。田所は腹をくくっていた。多美子との約束を果たすがためにきたはずだ。野球の賭け金と小遣いを含めて六万円が軍資金だ。人気の白赤か赤白のゴール順で、払い戻しは二倍前後とみた。狙いを定めた青黄か黄青のオッズをみると、二百倍をゆうに超えている。田所は、もう迷うことなく投票カードのマークシートに、二車単をそれぞれ三万円。4―5、5―4に黒線を入れた。勝負だ。身体に一本、太い芯が入った。
 スタートラインに選手が揃う。スターターが構えて号砲一発。各選手がけん制しながらラインを作って行く。バックストレートできれいな直線となって自転車が走る。ラスト二周になると合図の鐘が鳴る。白赤のラインが五番手から飛び出し一気にトップを取る。後続が離されまいと必死にもがく。最終バックでもきれいな隊列は崩れない。三コーナーから四コーナー、そして直線ゴールへと突っ込んでくる。
「あかん」、と田所が声を上げて金網から手を離したその瞬間、パンパンと爆竹がはじけたような音が強烈に上がった。一瞬静まるバンク。続いてガシャガシャとひしゃげる音が重なる。湧き上がる怒声、罵声、歓声がバンクを幾重にも包みこむ。何がどうなったのか誰も分からぬ出来事だった。ただゴールラインを通過したのは青、黄、紫の三車だけだった。騒然とするスタンド、場内。田所は両拳をこれでもかと握り締める。
 アナウンスに続いて電光掲示板に示された数字は、4・5・9 ― 二車単22730。身体中の興奮が胸のど真ん中に集まる。田所は我を忘れ、どう動いていいのか意思が働かない。
 長いどよめきが引き始め、レース場からざわめきが出口へと流れて行く。やったぞ、おれにはまだツキがある。競輪を禁止された、あの日のレースの真逆が今、ここで起こった。ありえない事が向こうから勝手に飛び込んできた田所は総合駅へ行く白タクに相乗りした。札で膨らんだ紙袋はジャンバーの内側に抱えて素知らぬ顔を作り、耳に入ってくる同乗者たちの言葉を聞き流していた。
 電車から降りてからの行動を考える。まず近くの居酒屋で祝杯をあげるか。いやそんな悠長なことをしている場合じゃない。かといってこのまま家に帰ることもできない。多美子はもう帰っているだろうか。
 ようやく駅に着くと、田所は降りたホームの片隅で携帯をする。
「なに、どうしたの、一人なの」
「そうや。今どこにいる」
「帰った所よ」
「じゃあ、そのままそこにいてくれ」
「いったいどうしたのよ。今日は昼から帰ったりして」
「うん、まあおれの用やから聞くな」
 携帯を切ると田所は構内から出た。
 自転車を引っ張り出して前かごに紙袋を入れ、サドルにまたがる。そして商店街の文房具店で、ガムテープと小型の手提げバッグを買うと、駅前に戻り公衆トイレに入る。田所は紙袋の中を見ることなく、ガムテープでぐるぐる巻きにする。そしてそれをバッグに詰め込みチャックを閉じる。
 トイレを出た田所は、バッグをハンドルに掛けてペダルをこぐ。商店街を抜け、会社に続く交差点を通り過ぎると息が荒くなる。日が落ちて、あたりに薄暗さが漂い始める。住宅地の端までくると、田所はコーポをいったん通り過ぎる。
「今着いたから」
 多美子に携帯をいれると、コーポの外壁に自転車を立て掛ける。バッグの手提げひもを手首に巻いて階段を上がり、ドアの前に立ち呼吸を整える。ノックするのを待っていたかのようにドアが開く。
「これを預かってくれ」
 不審そうに物を見る多美子に、
「絶対、開けたらあかんぞ。いいな」
 と、厳しく言う。
「うん、わかった」
 多美子は強く首を縦に振った。
 田所は背を向けるとドアを押し開き、階段を走り下りた。
 仕事は普段と変わりなくこなしたし、家でも同じだった。
 週末に配送から遅れずに帰ると、千賀らしき姿が詰所にあった。車を戻して見に行くとやはり千賀だった。
「お前なにしてんのや。こんなところで」
「いや、ちょっと早く終わったんでお茶を一杯もらおうと思ってさ」
「ふーん、おいイケメン、だれを口説きにきたんや」
「そんなことあるわけないやん」
 三人の事務員を見回す。
「それはそうと、あしたちょっと付き合えや」
「え、何それ、急に言われても」
「野球や、野球。こないだの試合で分かったやろ。奴らメンバーを補強していたのをよ」
「それで」
「だからちょっと練習しておきたいんや」
「まだ試合まで大分あるやん」
「新しい球をそれまでに投げれるようにするんや」
「ふーん」
「いいな、明日一時、例の所で」
「わかった」
 しぶしぶうなずいた。
 それは事実だった。ストレートと、どろどろのカーブでは危なくなったし、奴らがつぎにどんなメンバーを連れてくるか分からない。だがそんなことは、もうどうでもいいのだった。
 土曜日。
 田所は家を早く出た。野原のグランドに人影はなかった。草むらに腰を下ろすと、多美子との約束を果たすための階段を、奇跡的に上がれたことの強運を思う。そして次の階段をこれから上がろうとしている。
 千賀が現れた。田所は立ち上がると、早くこいとばかりに手まねきをする。いかにも急いできたような表情を見せた千賀は、肩を慣らすために両腕をぐるぐると回す。
「さあ、やるか」
 田所も腕を回したり屈伸したりして、千賀との距離を取る。軽くキャッチボールをして千賀を座らせる。ストレートを十球ほど投げると「投げるぞ、いいか」と、新しい変化球の球種を明かさずに投げた。それはゆるいストレートと思った千賀は、二メートルほども前でゆれながらバウンドしたボールに目を疑った。
「なんや、今の」
「当ててみい」
 ミットまでは届かなかったものの、変化には満足していた。
「フォークか」
「ナックルや」
 聞いたことはあるが、直に見るのは初めてだった。
「これって使えるかなあ」
 どこへ行くか分からないボールを、少しばかり練習したって試合に投げられるわけがない。五、六球を試すと田所は投げるのをやめた。
「ちょっと肩がおかしい」
 千賀の所へ歩み寄ると、「休憩しよう」と草むらに腰をおろして仰向けになった。
「お前も寝てみろ、気持ちがいいぞ」
 青い空に鱗雲がある。呼吸にまだ乱れのある田所は治まるのを待った。
「千賀よ、お前ひとみを好きなんか」
 青天のへきれきだった。
「え!」
「できてるんか、できてないんかは知らんが、お互い悪くはないんやろ」
「そんな、できてなんかいないよ」
 田所は、はね起きて必死に打ち消す。
「好きなことは好きなんやろ」
「……」
「うん、分かった」
 田所は何回かうなずく。
「いいか、悪いようには絶対せん。おれの言うことを聞いてくれ」
 強引な事では階段を上がることができない。
「今日な、おれん家で飯を一緒に食おう」
 千賀の表情が厳しくなった。
「それは、ちょっと」
 田所は上体を起こすと千賀の肩を抱いた。
「おれを信用できないのか」
 ちからをこめる。
「……わかった」
 今にも泣きそうな顔を伏せた。
「よし、決まりや。男の約束成立」
 田所は千賀の腕をつかんで引っ張り上げた。
 家に戻るとドアを開けるなり田所はさけんだ。
「おーいひとみぃ」
 何事かと、ばたばたと出てくる。
「夕飯な、千賀を呼んだからいいな」
「ええ、千賀ちゃんが、久しぶりやなあ」
 ひとみの作り顔が一気にほころぶ。
「今日はな、新しい球を二人で考え考えて投げれるようになったんや」
「それで祝杯ってか」
 ひとみがキッチンに入って行く。
「それじゃちょっと買い物に行ってくるわ」
 娘は寝ているからと、息子を連れて出る。
 さあこれからや。仕上げの段階になる田所の眉間にしわが寄った。
 ひとみは二、三十分ほど帰ってこないはずだ。田所は携帯を握った。多美子が出る。有無を言わさず、例の物を今すぐ家の前まで持ってこいと言う。ここまでだったら十分もあればくる。田所は入口のドアを押し開けると外へ出た。一分でも一秒でも早くこいと気持ちが急く。時間の経つのが、べらぼうに長く感じる。
 きた! 思わず声を出すとクラクションを鳴らすではないか。背筋がひやりとする。辺りを見回し手招きするとスピードを落として停車す
る。降りようとするのをさえぎり窓を開けさせる。例のバッグを手にすると、「じゃあな」と背を向け部屋へ走り込む。
 思った通りにひとみは三十分ほどで帰ってきた。買い物袋を二つ下げてきても、ため息ひとつつかない。たいしたものだと、田所はひとみの顔色をうかがう。
「もうそろそろくるんやないの」
 キッチンからひとみの声がする。
「おう、そろそろやな」
 返事をすると同時にノックする音がした。
「きたでえ」
 田所は言うと立ち上がる。
「こんばんは、おじゃまします」
 緊張しているのが声で分かる。
「やあ、久しぶりやなあ千賀ちゃん。待ってたでえ」
 芯から嬉しそうなひとみの撫で声だ。
「まあ、すわれや」
 田所は座卓の席を勧める。
「新しい球、かんぱーい」
 ひとみが千賀に向かって音頭をとった。
「うちのが新しい球を投げれるようにアドバイスをしてくれたんやてな」
 頼もしげに千賀を見る。
 千賀が困ったような表情をみせる。
「おお、千賀のリードでここまでこれたんや」
 田所が持ち上げる。
「これからもたのむで、千賀ちゃん」
 ひとみがコップを傾ける。
 すき焼き鍋をつつきながら、屈託のない話で夕食の時を過ごす。
「あのな」
 腹が満たされて、会話もとぎれるようになった時を見計らって田所が表情を一変させた。
「話があるんや」
「話ってわたしにか」
 ひとみはきょとんとする。
「うん、千賀も入れて三人で話をしたいんや」
「はあ?」
 心当たりがあってとぼけているのか、本当なのか見分けがつかない。
「ちょっと待ってくれ」
 田所は隣の部屋へと立ちあがる。
 すぐに戻った田所の手には、例のバッグがぶらさがっている。
「なんやのそれ」
 なにかプレゼントなのかと、期待するような顔つきのひとみに、座卓から離れてあぐらをかいた田所が口を開いた。
「いまここに六百万以上入っている」
「ひえっ」
 ひとみが奇声をあげる。
 田所が続ける。
「これを三人で分けようという話やないで」
 千賀は固唾をのむ。
「いいか、一度しか話をしないからよく聞いてくれ」
 田所は例の物をつかむと、ひざを進めて座り直し、両手を広げて座卓にかける。
「おれは今の今までだまってきた。だから二人ともだまって聞いてくれ」
 田所は話し始める。
 この一年半ほど前から、ひとみの様子が変だと気付いたこと。それに合わせるように千賀の当日欠勤が増え、定期的になっていたこと。外部から情報が耳に入ってきていたこと。それだけを簡潔にはっきりと、二人に目を据えて言った。言い終えると田所は、座卓の食器類を左右に押しやり例の物を置いた。そしてチャックを引いてガムテープを巻いた紙袋を取り出す。テープをはがし終えると、くしゃくしゃになった袋の口を開いて手を入れる。つかみ出された紙幣が卓上に置かれる。
「ここに六百万以上ある」
 田所は二人を見る。
「これは千賀にやる」
 千賀の顔が引きつる。
 固唾をのんでいたひとみが仰天すると同時に、
「あんたそのお金どうしたんや」
 と、尋常でない形相で問い詰める。
「言っとくけどな、銀行強盗や泥棒に入って盗んだんやないで」
 それでもひとみの形相は変わらない。
「おまえに禁止された競輪や。自分の腕で勝った金や。だれにも疑われたり、文句言われたりする金やないで」
 ひとみは信じろと言われても素直にはなれなかったが、初めて目にする大金が、今ここにあることに興奮さめやらない。千賀にしても同じだった。その上、この大金を自分にやるっていうことが、到底理解できるはずもなかった。沈黙があって田所が二人に言う。
「なあ、今までのことにおれは目をつむる。だからおれの言う通りにしてほしいんや」
 言葉を和らげる。
 二人は次の言葉を待った。
「言ったように、この金は千賀にやる」
「そ、そんなばかな!」
 すかさずひとみが叫ぶ。
「だまって聞け」
 田所は押さえ込む。
「なあ、おまえら好きなもん同士やろ。一緒に住んで暮したらいいやないか。子供だってもう慣れてるやろうし」
 ひとみが千賀の反応を見る。
 千賀もひとみを見つめる。
「よし、決まった」
 田所はすくっと立ち上がると、背筋を伸ばしてゆうゆうとアパートをあとにした。
 冷える夜道で多美子に携帯をする。
 いま、二人がどんな顔をして、あのお金を数えているのかと思うと、田所は心底おかしかった。子供のことは気にかかっていたが、考え過ぎるのはやめよう。それよりおれは、立て続けに大きな勝負に勝ったんや。まだ勝ち運はあるはずや。そう思っていると多美子の車が近づいてきた。  (了)