短編小説「秋」

正彦は母の加代と、枕木を踏みながら歩いていた。秋の陽は昇ったばかりで、線路わきの草むらをきらきらと光らせている。
一日に二便しかない青谷線は、ローカルの単線で蒸気機関車は走らず、赤い気動車ばかりが朝と夕にのろのろと往復していた。
加代は正彦を連れて歩くのが初めてだった。幼さへのためらいが秋風とともに薄れ、少しでも役にたてばと、家をいくらか早く発っていた。これまでは、朝の気動車をやりすごしてから出かけていたが、今日はまだうしろからくるという気がかりがあった。危ないといえば確かに危なかったけれど、あえてここを歩くことにした。
農道とあぜ道でも行けなくはないのだが、碁盤の目のようになっている、ぬかるみ道を何度も折れて難儀するよりも、三日月カーブを画いている、この青谷線がよほど歩きやすく、そして早く行けたのであるこの先、二里ほど東へ行けば、春はヨモギ団子を包む熊笹、秋には食用のキノコを得られる裾山がある正彦は初めての遠出と、見知らぬ土地への不安で表情は晴れなかったが、背筋は日ごろとはちがってきちんとしていた。
しかし線路道を歩き始めて三十分もすると、足を伸ばしても、歩幅に余る枕木の間隔に嫌気がさして、うしろに離れては線路の上を、綱渡りのように身体をくねらせて伝い歩いていた。手ぶらの正彦は両腕を翼のように広げてバランスをとり、十メートルほどを伝い歩くと、線路からひょいと下り、もう一度歩けたら加代に見てもらおうと、再び線路に足を乗せた。
と、その時、フオーンとうしろの遠くで警笛がした。加代は振り向きざま、「ヒコ、おりろ」と怒鳴って線路下にかけ下りた。加代の慌てるさまに、正彦は線路を蹴ってころげるようにかけ寄った。音もなくゆったりと走っていると見えていた赤い気動車は、近づくと思いのほか大きな地響きを立てて、たたずむ親子の身体を震わせた。赤い二輌は通り過ぎたところで怒ったように、ブオーンと警笛をうならせた。
もうこの先からは心配せずに歩けると、加代はゆっくりと這い上がった。うしろの正彦は、あまりの恐ろしさに、線路の上で歩く気を一時で失った。
新聞紙と手提げ袋と、おにぎりを丸め込んだ大きな緑色の風呂敷を、けさがけにした加代は黙々と歩いた。正彦も遅れまいと、離れては走り寄るが、気がゆるむとまた離れてしまうのであった。
小高く盛り上がった山が左手に近づいて、松や杉の枝振りまでが見えるようになると、轍のはっきりとした農道が線路を横切っている。ここで線路を離れ、露の残る農道に向きを変えると、正面が目ざすところの竹葉山である。
「ああ、ついた、ついた」
後方に連なる峰の裾山を前にして、紺色のモンペをはいた加代は太い腰に両手をあてがい、ぐいっと豊かな胸をそらした。そして穏やかな日よりにしばらく目を細めていたがふと、こんな日にはまだマムシが出るかもしれんと言い、辺りから背丈に余る棒きれを拾った。はりつめたものを感じた正彦は、同じものを持たなければと、あちこちを探し回った。
左手に山の際までくい込んだ、円形の五銭沼を見ながら、赤土のむきだした山道を上り始める。木立が次第に濃くなり、山陰に入ってしまうと、肌寒さが薄着の身体をぞくりとさせた。
尾根を前方に見て、東側の山腹に回り込むと加代は、「さあ、ここからだぞ」とけさがけにしたふろしきを胸元で解き、端切れを縫い合わせた手提げ袋を取り出した。キノコがありそうな低木周りを上ったり下りたりするが、今日はどうしたことかまるで見つからない。
「いっつもこの辺にシメジがあるんだけどなあ」
モンペ姿の加代は、四つん這いになって斜面をなめるように見るが、たまに目にとまるのは色鮮やかな毒キノコで、どこまで這いずり回っても、食べられるキノコは見つからない。正彦は加代が毎年採ってくる、茎のでぶっとした灰色のシメジだけは知っていたものの、らしきキノコさえ見つけられない。
「もう誰かに採られたあとかもしんないな」
加代は切なそうな顔をした。今日はシメジご飯にするのだと、言い残して家を出てきたのに当てが外れて、くだけたように腰をおろした。そして、「おにぎりでも食べるか」とやけになったのか、まだ昼には早いのにそう言った。おにぎりを食べると目がよく見えるようになるのかもと、正彦は「うん」とうなずいた。
加代はおにぎりを食べる場所を探すために、灌木を太い腰で押しやり、開けた方に向かって登り始めた。尾根に近づくと低木はまばらになり、大きな木が目立ってくる。
日当たりの良い一本松の下で、足を休めようと加代は、けさがけの結び目を解いた。腰を落ちつけると手ぬぐいの頬被りをかなぐり、海苔を巻いたおにぎりを新聞包みからつかみ出した。ご飯粒の見えない海苔巻きおにぎりなど、運動会や遠足にしか口にできない正彦は、しばらく鼻につけて匂いをかいだり、舌を押しつけたりして楽しんだ。梅干しに顔をゆがめながら、こんなおにぎりを食べることができるのなら、毎週ここへきてもいいなあと思った。
「ほら、正彦あっちを見てみろ」
加代はおにぎりを頬ばりながら立ち上がると、北の方に向かい、真っすぐ腕を伸ばして指さした。わずかな山あいからのぞくように見ると、明るい集落の一部がはっきりと目に映る。
「あそこが島岡村だ」
正彦は島岡村と聞いて、ごま塩頭で赤ら顔のおじさんを思い出した。
「ねえ、たまにうちへくる人が島岡村のおじさんだよね」
「わかるか」
「うん、いっつも酒を飲んでいる赤い顔のおじさんだろ?」
「そうださ」
正彦には分からなかった。これといった用事もなさそうなのに、忘れたころに家へ立ち寄っては、よれよれになるまで酒を飲んでいく赤ら顔のおじさんは一体、何者なのだろうと、そのたびに思っていた。
「あの島岡村にお母さんは住んでいたんだよ」
「え?」
正彦はすぐにのみこめなかった。だとするとお母さんと、あの酒飲みのおじさんは知り合いということになるのだろうか。
「そうさ、正彦が生まれる前だから、ずっと昔のことさ」
「どうしてあんな遠いところにいたの」
不思議がる正彦に加代は言った。
「いつか用事ができたら連れてってやるぞ」
「……」
思いもしない言葉に、正彦は山あいの彼方から目を離さない加代のやわらいだ横顔を、じっと見ていた。
「お母さんのいた家は大きな農家でな、奉公人が何人もいたんだよ」
こんなところで、しかも初めて耳にすることに正彦は、神妙になった。
「お前のおじいさんや、おばあさんもあそこにいるんだ」
「え、おじいさんもおばあさんもいるの」
おじいさんやおばあさんは、どこの家だって自分の家にいる。昭次の家でも八郎の家でもいるのに、ぼくのおじいさんとおばあさんは、あんなに離れたところにいる。
「どうしてぼくの家にいないの」
「大きくなったら分かるさ」
それは大きくなったら、なんとなく分かるものだろうか、それとも教えてもらって分かるものだろうか。正彦は聞いてみたかったけれど、言葉が出なかった。
「お金持ちの家だから、あそこに行くといっぱい小遣いをもらえるぞ」
加代は顔をほころばせて、嬉しがらせることを言った。
「ふーん、行ってみたいな」
正彦はビー玉やメンコやクジ付き甘納豆などを、好きなだけ買えるほどの小遣いをもらえるのだろうかと本気で思った。
「ずっといい子でいたら連れて行くさ」
いい子でと言われて、正彦は身体をぎゅっと締め付けられた。遊び仲間と一緒になって、金三やゆきえをいじめているのを、お母さんは知っているのだろうか。だとしたら、もううしろで見ているだけにしよう。それと同じクラスの三枝子の胸のあたりを、じろじろと見るのもやめよう。
「こんなことを、お母さんが言ったなんて喋ったらだめだぞ」
叱るように加代は言い聞かせた。
正彦がおにぎりを食べ終えると加代は、よしっと立ち上がり、風呂敷を腰に巻き付けた。
「さあ、下りながらもういっぺん探して、無かったらナメコでも採りに行こう」
頬被りをしっかり結わえると、斜面をジグザグに下り始めた。正彦も目を配りながら続いたが、加代のあの言葉が頭に深く突き刺さってキノコどころではなかった。
結局、一本のキノコも採れぬまま藪をかきわけ、うっそうとした沢まで下り、今度はナメコの生えていそうな倒木を探すことにした。ほとんど陽射しの届かないところで目をこらすが、ここでもなかなか見つからない。
「ああ、これではだめだ」
加代が苔の生えた太い倒木を前にして、悲鳴に近い声をあげたので、正彦が近づいて見ると、黒ずんで腐れかかったナメコだけが残っている。あきらかに誰かが採ったあとである。
「お母さん、夕ご飯のおかずはどうするの」
正彦は、ここもだめだと言われてがっかりした。
「今日は焼きおにぎりだな」
加代はもうさばさばとしていた。
下草の少ないけもの道をたどって尾根にとりつき、拾った棒きれを杖にしてどんどん下ると、案外早く横に並んで歩けるほどの道になった。坂が緩くなり陽射しがこぼれてくるようになると、右手に葦と水草で、水面がわずかしか見えない五銭沼が現れた。
「今ならヒシがあるかもしれん」
加代は足を止めた。腰まである雑草をかきわけ、そろそろと沼岸に近寄るのを見て、正彦はヒシって何だろうとあとに続いた。
岸辺に出ると水際まで一間ほどあった。加代は手をひたいにかざして何かを探している。正彦は浮き草で覆われた沼から目つきの悪い河童が、青白い顔をむくっと現すのではないかと気味が悪くなった。
岸辺が狭くなっていく奥の方に足を踏み出し、五六歩進んだ時、加代が「ひえっ」と、のどを鳴らした。と、同時に手にしていた棒きれを、何度も地面に激しく突き立てていた。
「ほれ、きてみろ正彦」
足元に頭のぐしゃっとつぶれた赤茶色の、太くて短い蛇がだらりとのびていた。
「やっぱりいたな。これがマムシだぞ。あぶないあぶない」
加代は目を大きく開けて、まだら模様のつるんとした腹を正彦に見せ、「こいつに噛まれると毒が回って死ぬぞ」と手にしていた棒きれを使って跳ね上げ、沼に放った。
「まさかこんな所にいるとはなあ、おお危ない危ない」、と言いながら、また足をそろそろと進めた。正彦は噛まれたら死ぬと言われ、怖くて足元ばかりに気をとられた。
だんだん狭くなっていく岸のほとりをこわごわ歩くと、山の斜面の一部がせり出している。正彦はその下のえぐれた部分に目が釘付けになった。キノコが草を被って寝ていると思った。
横たわった茶色いキノコの傘が見えたからだ。こんな生え方があるのだろうかと、正彦は加代を大声で呼んだ。加代はぎょっとしたふうで、「また蝮がいたのか」と棒きれを振り上げた。キノコが寝ていると言う正彦のもとへ不審そうに戻ってくると、それを見た加代は目を疑った。なんと、まぎれもない松茸だった。
被せてある生乾きの草を注意深く取り除くと、まだしっとりとした松茸は、大小合わせるといったい何本あるのだろうか。加代は引きずってきたヒシを、急いで沼に投げ返すと辺りを見回した。
「正彦、しゃがめ」
誰もいるはずがないのに、言わずにおれなかった。腰の風呂敷を解いて広げると、その上にせわしく新聞紙を広げた。
「正彦はさわるな」
そう言うと加代は強ばった顔で、手当たり次第に松茸を、くしゃくしゃの新聞紙の上に移し始めた。正彦がその横で手にする松茸を数えていると、全部で十九本あった。
なにがどうなって、こんな所にこれほどの松茸があるのだろうかと、加代も正彦も同じ事を考えていた。だが、そんなことはどうでもよく、とにかくこれを持って一時も早くこの場を離れてしまおうと、慌ただしく帰り支度を始めた。
加代はいやがる正彦を先に歩かせた。二人がキノコを探した、隣りの裾山が「松茸山」であり、毎年夏も盛りを過ぎるころには縄で囲ってある。もちろん立ち入ってはいけない。
松茸泥棒を用心して見回る番人が、今どこを歩いているか分かったものではないと、加代は正彦を先にして、あやしまれることから逃れようと気をはたらかせた。それでも青谷線との出合いまでは気が気でなかった。
農道で見も知らぬ誰かとすれ違いざま、腰に巻き付けた風呂敷包みの中の匂いを嗅ぎつかれはしないか。あるいは五銭沼で見ていた者が番人に通報して、その番人が声を上げて走ってきはしまいか。
振り返り、振り返りながらようやく青谷線にたどりつくと、加代はやっと足が地についた思いがした。
「お母さんいっぱいとれてよかったね」
正彦は加代が黙って歩きづめたわけを、うすうすと分かっていた。加代は答えずに、なおも足を速めるのをやめなかった。足は地についたものの、何かにおびえる気持は消えなかった。いっそ大声をたてて振り払いたかったが、そうもいかず足を速めることにただ集中した。
黒ずんだ枕木の油臭さが時折、正彦の鼻についてくる。それは車が捨て走る薄紫色の排気ガスよりも刺激的で、朝には感じなかったこの臭いを悪くないと、鼻の穴を広げてみたりした。
時々臭う線路道を正彦はずっと考えていた。あの松茸は全部で十九本あって家族は四人だから、ひとり何本ずつになるのだろうか。暗算の苦手な正彦は頭の中でのわり算がなかなかできず、ようやく出た答えが四あまり三だった。ひとりが四本ずつで三本があまることになる。その三本のあまりをどうするのだろうかと、加代に聞きたくてうずうずした。
青谷線の三日月カーブが終わり、停車場が近くなってくると、加代はどうにもいわれぬ気持ちになった。
「拾った物だからいいんさ。この松茸はもうけもんださ」
つぶやくと加代は、「もうけもん、もうけもん」をくり返し、正彦の肩をうしろからきつくゆすると、飛んでしまいそうな声で何度も笑った。
「お母さん、松茸は全部家に持って帰るの?」
ただならぬことを言う正彦に加代は、「あたりまえだ。何を言うの」と叱りとばした。
正彦はひとり四本ずつにして、余った三本の松茸を町の八百屋で、バナナと交換できないものかと考えていた。まだ口にしたことのない、フィリピンとかいう国の黄色いバナナを、いつか食べてみたかったのに、叱りつけられてがっかりした。
たそがれ時にはまだ早かった。停車場に続く道の、三叉路のかかりにある神社を通り過ぎて集落に入ると、駄菓子屋のキミさんに、「どこへ行ってきただね」と声をかけられて加代はひやりとした。「なに、ちょっとそこまでださ」、と引き止められる前に愛想笑いでごまかして、止まろうとする正彦の背中を押した。
やっとの思いで家に帰ると、玄関先で娘の春子がうずくまっていた。
「あれ、どうしたんだえ」
加代が声をかけると、おかっぱ頭の春子は、はじかれたように顔をあげ、口をゆがめて加代に抱きついた。
「父ちゃんはどうしたの」
玄関の奥に目をやると、春子は抱きついたまま首を横に振った。町へ雑貨の仕入れに連れて行っているとばかり思っていた加代は、「いったいかんたい、どういうつもりなんだかね」と言葉を荒くした。
やはり釣り竿がない。いつも玄関の隅に立てかけてあるのが消えていて、裏に回ると自転車もない。どこへ誰とでかけたのか、娘ひとりを置いてけぼりとはひどいことをする。春子が腰に抱きついて離れないのに、加代ははっとしてふりほどいた。せっかくの松茸を、くしゃくしゃにされてはたまらない。春子を引きずるようにして玄関から部屋にあがると、加代はへなへなと座り込んだ。
おそらくー加代は思った。五銭沼のあんな場所で、これほどの松茸に草を被せてあったということは盗人の仕業だ。たぶん縄で囲まれた松茸山に入って盗ったものにちがいなく、番人に追われて逃げ回ったあげくひとまず隠し、あらためて釣り竿と魚籠で装い、堂々と取りにくるのだろう。
しっとりとした松茸は今日の朝方なのだろうか。そう考えると、今ごろ盗人ががっかりしているのではないかと、加代はなにか悪いことをしてしまったような気持になった。
加代が台所で松茸についているゴミを取り除いていると、自転車のブレーキ音が聞こえた。裏口から土間に入ってくるなり、「あれ、もう帰っていたのか」と帽子を目深に被った父の清造が、魚籠を片手にばつの悪そうな顔をした。黙ってごみとりを続けていると、清造は加代の手元を見つめて、「おい、それ松茸でねえのか」と目をむいて声を押し殺した。
「しかも、そんなにいっぱいどうしたんだ」
「どうもこうもじゃないよ、春子を置いていったいどこへ行っていたのさ」
聞きただす清造に答えなかった。
「雑貨を仕入れに町の問屋へ行ったんさ。ところがほら、そこの番頭が釣りが好きだというもんでつい」
「家から竿を持って雑貨の仕入れかえ。娘をひとりにしてなんの心配もないのかえ」
「ほら、大きい鯉を釣ってきたからかんべんしてくれや」
清造は釣り竿を立てかけると、魚籠をたたいてみせた。
「春子には、床屋のすみちゃんちへ遊びに行けと言っておいたんだけどもなあ」
小さくなった清造は、消え入るような声で言った。
清造には目もくれずに、もくもくと作業を続けながら加代は、このたくさんの松茸をどう説明しようかと、頭の中をめぐらせていた。
「加代、おまえまさか…」
清造は思った通りの疑問をぶつけてきた。
加代は腹をくくった。
「言っとくけどさ、縄の張ってある松茸山から盗ってきたものじゃないからね」
「そしたらばどこの山なんだ」
「山じゃないよ、五銭沼で拾ったんだ」
「五銭沼で拾った?」
清造は首をかしげた。
「誰が落としたか隠したのかは知んないけど、正彦が見つけたんさ」
ふーむ、としばらく考えて、「拾ったもんだったらば警察に届けたほうがいいんではねえのか」と真剣に清造は言った。
思いもよらぬ言葉に加代の怒りが爆発した。
「五銭沼に松茸が落ちてましたと、警察にかえ!」
四角四面の清造は、こんなところでも融通のきかない本当に馬鹿な事を言う。雑貨を扱うこの店の仕入れにしてもそうだ。もっともうけの大きいものを仕入れて、捌くことを考えようとしない。毎日の生活に必要な小物ばかりを多く仕入れて、村のためにもこのほうがいいなどと言い、季候の変化や祭事や、世間の動きを考えることをしない。
畑や田んぼがあるわけでなし、勤め人のように月給が入るわけでもなし、自分の算段で生活をしていかなければならないのにこのとおりだ。子供だって大きくなるにつれて、お金がいやでも必要になってくる。
考え込んでいる清造に、腹が立つ加代は言った。
「じゃあ、おまえさんに聞くけどさ、釣りに行って川でも池でもいい、干上がった水たまりに、それこそ何十匹の鯉や鮒が白い腹を見せてはねていたらどうする?つかまえて警察に落ちてましたと届けるかえ」
清造は、うーむとうなったきり黙り込んだ。
「一町や二町ばかりの先で拾ったわけでなし、二里以上も離れた五銭沼で拾ったんだ。もうけものと思ってもいいんではないかえ」
加代は言いながら、清造には見向きもせずに米を炊く支度にかかった。
どれどれと魚籠の中の笹をつまみ上げると、その下で大きな鯉が尾びれを曲げて、きゅうくつそうになっていた。
「今日は授かり物の松茸ご飯と、鯉の煮付けの大ごちそうだぞ正彦、お前の大手柄だ」
加代の声はうわずっていた。一時、松茸がどうなることかと気をもんでいたが、正彦は加代の言うとおりになって胸をなでおろした。
初めて口にする香りのよい松茸ごはんに焼き松茸、そして吸い物に鯉の煮付けは、これまでの盆や正月のごちそうよりもはるかに豪華で、自分のおかずが少ないなどのことで、春子と喧嘩することもなく、正彦は静かな幸せにひたった。
夕食を終えて腹のくちくなった正彦は、寝転がっている春子の横になって目をつむった。すると、すぐに加代のあの言葉がむくりとよみがえった。島岡村の家では、いつもこれくらいのごちそうを食べているにちがいないと思うと、どうしても行ってみたい気持ちが入道雲のように、むくむくと盛り上がった。

イチョウの落ち葉で黄色くなった校庭を、正彦は同い年の次郎とふざけながら門を出た。
トラックが巻き上げる土埃で白くなった通学路を、肩を並べて歩いていると、このあいだの松茸のことや、島岡村のことを、いままで何度も口に出しかけては胸に押し戻していた正彦は、話が途切れると、また口からふっと出そうになった。
「三枝子の乳って大きくなったとおもわんか」
だしぬけに次郎が言った。三枝子と同じクラスの正彦は、週に二度ある体育の時間にいつも目をやっていて、そのたびにふくらみが高くなっているように感じていた。
次郎に言われて正彦は、秘め事をあばかれたようで動揺した。
「ふーん、そうかなあ」
正彦は三枝子のふくらんだ胸を思い浮かべながらとぼけたが、声はかすかに揺れていた。いつから次郎が三枝子の胸に注目していたのか、いい気はしなかった。でも、もう三枝子の胸をひそかに見るのは、やめることに決めていた。
「あいつ、いったいどれだけ大きな乳になるんだろうな」
次郎がいやらしい笑い方をしたのを見た正彦は、脱兎のごとく走り去った。
「おーい待てってば、いきなり百メートルの競争か」
次郎は本気で正彦を追いかけた。追いつかれてたまるかと正彦は全力で駆けるが、並ばれるまでもなく追い抜かれる。十メートルほど先で足をゆるめた次郎は振り返りざま、馬鹿にしたように笑いながら手を叩いた。荒い息がおさまらぬままに、正彦が歩いて近づくと、「ヤス、明日いいところへ連れて行ってやろうか」、と遠回しに言った。
まさか女子が体操服に着替えるのを、のぞきにいくのではないだろうか。
「いいところ?」
「うん、いいところだ」
いつもとは違って、低く強い口ぶりからすると、どうものぞきではないらしい。
「だけど、ひとつだけ約束をしろ」
「約束?」
明日は日曜日でもないのだから、登校してからのことか、あるいは下校してからなのか、どこへ行くのかまるで見当もつかない話に、約束をせよと言われても返事のしようがない。しかし、次郎がついてこいと言えば、いやだとは言えなかった。今の今まで誘いを断れたことは一度もなく、ぐずぐずしだすと、いつものことで頬にビンタを一発くらわされた。
約束すればいいところか。正彦は何を約束すればいいのかを聞いてみた。
「誰にも言うな」
「言うな?」
「そうだ、絶対誰にも言うな。それが約束だ」
西に傾いた太陽が、もつれた雲を黄色くそめていた。
煤けた柱時計が六時を打つ重い音で目をさました正彦は、布団の温もりから離れたくなかった。と、いうより、わけの分からない所へ行きたくなかった。そうしているうちに、母の加代が起きて、ばたばたと台所の土間に下りて行く。時計は商売柄いつも三十分ほど進めてある。もう行かなければと、正彦は猫のように丸めていた身体を、もぞもぞと伸ばして中途半端なあくびをした。
「どこへ行く!この早うから」
カマドで火を炊きつけていた加代が、厳しい顔をした。
「ちょっと次郎ん家」
「なにをしに行くだ」
正彦は背を向け、聞こえないふりをしてそそくさと玄関に下りた。
進んでこんなに早く起きたことはなく、寝ぼけ眼をこすってまだ暗い外に出た。寒さと張りつめた気持がいやでも足を速くした。
約束したことだから仕方がない。明けやらぬ中、物音のない道を歩く足音が、自分にはね返ってくるようでなにか怖い。吐く白い息が横に流れ、頬がひりっと突っ張る。
板塀の前で背を丸めている次郎の姿が、暗がりの中に見てとれた。
「学校、まにあうの?」
どうしても気になって仕方のなかった正彦は、腫れぼったい目をした次郎に聞いた。
「大丈夫さ」
次郎はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、「行こう」と普段と同じように先になった。
夜明け前の物暗い神社の境内に入ると、中学生らしき背丈の者がひとりと、次郎とさほど変わらないもうひとりがいた。二人とも社の石垣にもたれているが、誰なのかまるで分からない。もしかして…正彦は胸が苦しくなった。
次郎のあとからかくれるようについて行くと、背の大きいほうがやはり中学生の武雄であった。家がかなり離れていたので、連れだって遊んだことは何度もないが、うわさの乱暴者で、近寄りたくないひとりだった。
一緒に遊んでいてわけもなく殴られたり、ほかの村の集団との争いに引きこまれたくもなかった。その横で知らん顔をしていたのは、正彦よりひとつ上の晴信だったので、胸は少し楽になったけれど、たまに遊ぶ仲間なのに、目を合わせようとしないのが不気味だった。これからどこへ行くのかは、たぶん自分だけが知らない。
武雄の仕草に正彦はドキリとした。手に持ってさかんに動かしているものがナイフだったからである。パチンパチンと聞こえるのは、刃を起こしたりたたんだりしている音で、武雄が持て余すほどのジャックナイフに、正彦の腹は石でも詰め込まれたかのように重苦しくなった。
「おう、正彦か」
武雄に声をかけられて思わず身がすくみ、「おはようさんです」と蚊の鳴くような声を出した。
「遅うなってごめん、武雄さん」
次郎の声も小さかったが、はっきりとした言い方だった。正彦は武雄の機嫌をとる次郎のうしろで下を向いていた。
「行くぞ」
武雄はナイフを折りたたむと、歩きながら上着のポケットに入れた。晴信がなれなれしく武雄としゃべりながら肩を並べ、そのあとに次郎、正彦の順で神社の境内から出た。
ジャックナイフをポケットにしのばせてどこへ行くのだろうと、正彦は肩をいからせて歩く武雄の背中にこわごわと目をやった。
道端のプラタナスが、縮れた葉っぱをすでにあらかた落としている。その大きな縮れ葉を蹴散らしながら、武雄はゆうゆうと前を歩いている。
駅に通じる道が、国営鉄道の線路と平行するようになると、駅舎がむこうに黒ずんで見える。武雄の足が大またになり、正彦は小走りで続く。
空が白み始め、駅舎の黒いトタン屋根がはっきり見えるようになると、武雄は急に道の端に寄り、「止まれ」と右手を挙げた。そしてポプラの太い幹に手をかけ、駅舎の方をじっとうかがっている。
駅舎のこちら側は、学校の運動場よりも、はるかに広い材木置場になっていて、材木が山のように積み上がっている。物音ひとつ聞こえない広場から駅舎にかけて人影はない。もしかしてあの材木置場に目ざすものがあるのだろうかと、正彦は背丈の倍以上もあろうかという丸太の山が、いくつもある広場を見やった。
武雄のそぶりに落ち着きがなくなったと思うと突然、振りかざした手を駅舎に向かってするどく下ろした。正彦はそれを見て、戦争ごっこと同じではないかと思いながらも、この先どうなっていくのか怖くてどうしようもなかった。
今日はそんな遊びとは、まるで雰囲気がちがっていたし、第一に相手が何なのか全く見えない。何にしても武雄がポケットにしのばせた、大きなジャックナイフをいつ取り出してどう使うのか、考えるだけで身の縮む思いがした。正彦はみんなから離れないように、とにかく次郎のあとを必死でついて行った。
材木置場まで走り寄って武雄がかがむと、みんなも同じように身をかがめ、今にするだろう命令を待った。
しかし武雄は黙ったまま、しきりに材木の山越しからの気配をうかがっているようだ。どこかで知りあった人間がくるのか、あるいはやはり戦争ごっこの相手なのか、それとも喧嘩の相手が集団で現れるのだろうか。
いずれにしても、相手のわからない者を待っているのは、気味が悪いうえに怖くて、正彦はみんなから遅れたふりをして、隙があればここを逃げ出したかった。と、駅舎の方から車のエンジン音が聞こえてくる。
「きた」
武雄は腰を半ば上げ、
「晴信と次郎はあっちへ回れ」
とアゴをしゃくった。ひと重まぶたの目がつり上がっている。
指示した向こう側には、気にもとめていなかった貨物列車が何輌もつながって停まっていて、そこへ二人は背を丸めて一目散に走って行った。
「ついてこい」
今度は正彦を手招きすると、武雄は目をつり上げたまま、貨車により近い材木の山まで一気に走り、そしてさっきと同じように、丸太の山に身を寄せた。竹雄と二人だけになってしまった正彦の胸は、早鐘が鳴りっぱなしになっていた。
車のエンジン音がたちまち大きくなって、目の前でブレーキがかかった。バシャン、とドアを叩きつけるような音がしてすぐに、「オーライ、オーライ」とかん高い大声が聞こえた。
それを合図にしてか、武雄が材木の山にそろりと登り始めた。足元に目を配りながら登り詰めると、首を亀のように伸ばして覗いている。正彦はかがんだままで竹雄の顔を見上げていた。
「ストォップ」の叫びがかかると、エンジン音がぷつりと止まった。
また、バシャンとドアの閉まるような音がしたので、今度は運転手が降りたのだと思った。何を話しているのかは聞き取れないが、どうも二人のようだ。
正彦は武雄たちがたくらんでいるのは、この車と関係があるにちがいないと確信した。自分もみんなと一緒になって、何かをしなければならないのだろうかと、思わず拳を握りしめた。
相手はまぎれもない大人たちで、いったい何をしようというのだろうか。あのジャックナイフはもうすぐポケットから出すのだろうか。武雄の怖いもの知らずに、正彦は心の底からおそろしい中学生だと胸が震えた。
軽く手招きをされて材木の山によじ登り、武雄の横からおそるおそる首を伸ばして見ると、夜の明けようとする広場には、青黒い幌付の大きいトラックが、貨車に荷台の後部を向けていた。その横に、トラックを降りたと思われる男二人が野球帽を被り、長靴を履いてさかんに何かを話し合っている。
「こい」
武雄は材木の山を下りると、トラックに一番近い材木の山に身をかがめて近寄った。トラックはもう目の前にあって、正彦の心臓は今にも破裂しそうだった。
野球帽の一人が、トラックの荷台の扉を開けて、ひょいと飛び乗ると、もう一人は停まったままの貨車の引き戸を、何度もふんばりながら両手で開けた。そして頭を突っ込んで中をのぞくと、そのまま足をかけて飛び乗った。 するとトラックの荷台から長い板のようなものが、貨車の戸口に投げ渡された。同じように、六尺ほどのもう一枚が並べられて戸口にかけられると、トラックの荷台にいた男がその板をたわませて、黒い貨車のコンテナに入って行った。
「行くぞ!」
武雄はここぞとばかりに目の前のトラックに素早く駆け寄ると、前輪の脇から勢いよく荷台の下に頭からすべり込んだ。正彦はもう逃げ戻れないところまできてしまったと、夢中でもぐり込んだ。熱気と油の臭いで息が詰まりそうになり、思わず咳き込むと、頬に横からげんこつが飛んできた。
「しっ」
武雄が恐ろしい顔をした。
何を探しているのだろうか、腹ばいになったまま武雄は、しきりに前方に停車している貨車の車輪あたりを気にしている。すると、晴信と次郎の顔が車輪の合間からわずかに見え、貨車の下で正彦たちと同じように並んで腹ばいになっている。手のひらだけを小さく振って笑っているのを見て、いまだに動悸のおさまらない正彦は、二人がなぜ笑うのか、まるっきり分からなかった。
貨車とトラックの荷台をつなぐ渡し板をぎゅんとしならせ、一人の男がトラックに乗り移った。荷台の下にもぐりこんでいる正彦の頭上で、どんどんと踏みつけたり、ずるずると引きずるような足音が行ったりきたりする。
足音が荷台のうしろで動かなくなった。自分たちのことに気づいたのだろうかと、正彦は縮み上がって武雄を見た。しかし、意外にも武雄はその足音の止まったほうへ、肘をつかって這って行く。
正彦の方へ、首をきゅうくつそうにねじ向けると武雄は、「こい」とアゴをしゃくった。荷台のうしろのほうには車軸が左右に渡っていて、そのまん中には、ドッジボールほどの鉄球が前を見にくくしている。武雄がその鉄球の右から身体をねじ込むように這わせたのを見て、正彦も左から同じように肘を立てて身体を進めた。
貨車の扉口に、スカートのような前掛けをした男が、二の腕までありそうなゴム手袋をはめて、荷物を両手で抱えている。浅い木箱を二段重ねて渡し板の真ん中へくると、「ホイッ」と変な声を出した。いつのまに渡し板に出ていたのか、「ホイッ」と今度はもう一人の低い声がして、引きずるような足音が荷台の奥へ移動して行く。
荷物を貨車からトラックへ移す作業が始まったのだった。正彦は武雄たちが、こんな作業を間近で見るために、この場所へきているのだろうか。向こう側の、貨車の下にいる二人にしても同じなのだろうか。ただこんな作業を見るだけでないのだとしたら、あるいはトラックと貨物列車が動き始める前に、逃げ出すスリルをあじわうためにもぐっているのだろうか。そんなことで、ジャックナイフがどうして必要なのかを考えていた。
作業が何度も繰り返されるうちに、バラバラと音をたてて何かが落ちた。氷だと分かったのは白くて不揃いの塊だったからだ。その塊の中で大きな物だけを見るために、武雄が頭を突き出しているが、何が気に入らないのか、ちっと舌打ちばかりを繰り返している。
「ホイ、ホイ」、「ホイ、ホイ」、と頭の上では二人が高い声と低い声を出し合って荷移しを続けていて、いつか息づかいが耳に届くようになっていた。
ドスン、ガシャガシャッと音が先に落ちてきたように聞こえた。突然、荷のひと箱が目の先に落ちてきた。
「バカヤロウ」
大きな声に、正彦は思わずあとずさりをした。男たちが拾いにきたら見つかってしまう。武雄も同じように肘を立てて顔をこわばらせているが、男たちの下りてくる気配はいっこうにない。荷の木箱は落ちたままで、すぐに、「ホイ」、「ホイ」と、荷移しはまたリズムよく始まった。どうなることかと肝を冷やした正彦は胸をなで下ろした。
腹ばいの晴信が、貨車の下からこちらのトラックの荷台の下を見て、さかんに手のひらを上げたり下げたりして、なにかの合図を送っている。よく見ていると、トラックにいる男が、荷台の奥へ行き来するのに合わせている様子がある。武雄はその合図を見ながら、身体を前に出したり引っ込めたりしている。
「それっ」と、鋭くノドを鳴らし、武雄は立て肘を使って身体を一気に進めるやいなや、落下したままの木箱を引きずりこんだ。それは、あっという間で、正彦はようやくここへきた目的がはっきりと分かった。
荷物の中身が何であるのかは分からなかった。武雄はポケットからいつのまにか、あの大きなジャックナイフを取り出していて、すぐさまそれに突き立て、氷のかけらを飛び散らせた。思うようにならないのか、きゅうくつそうに何度も何度も突き立てて砕くと、一升瓶に余るほどの塊を正彦の目の前に押しつけて、「持て」と荒い息を吐きながら言った。
武雄はナイフをポケットに入れると、空の木箱を裏返しにして元の辺りに押し出した。そして貨車の下にいる晴信の合図を待って、「出ろっ」と正彦に大きな身体をぶっつけた。正彦は片手で塊を抱え、夢中で這い出ると、材木の山に向かって駆け込んだ。ほんのひとっ走りなのに、正彦は激しい息づかいをしないではいられなかった。ほどなく晴信と次郎は、けろりとした顔で現れた。
「トロ箱ごと落ちてくるとは、たまげたなあ」
武雄は言いながら、正彦が抱えてきた氷の塊と自分が抱えてきた、もっと大きな塊をジャックナイフで大根ほどの大きさに砕き、みんなに割り当て、「逃げるぞ」と先頭になって次の山へ走った。一番離れた山までくると、今度はそろそろ駅に向かうであろう人たちよりも、早く神社の境内へ駆け込まなければならない。
武雄は見通しのきく道に、人影がないのを見て取ると真っ先に飛び出た。続いてみんなが争うように地面を蹴り、正彦も遅れまいと懸命に走った。砂利道に何度も足をとられては転びかけたが、転んだらトラックの男たちにつかまってしまうと、歯をくいしばってひた走った。
しかし次第に足は思うように前へ出なくなって、辺りの倉庫や木々が目に映るようになると、あえぎ声が激しく出た。もうすぐ境内に着くはずだと、正彦が振り返るとそこに誰かがいた。見れば恐れていた大人ではなく、次郎が顔をゆがめていた。気がつかないうちに、次郎よりも前で走っていたのだった。
神社に戻ると、武雄と晴信が氷の塊を地べたに置いて腕組みをしていた。正彦も次郎も息を荒くして、同じところに塊を置いた。手のひらが冷たさで赤くなっていた。正彦は、はあはあと息をかけては手のひらをこすり合わせていたが、じつは、冷たいというよりも、動転した気を静めるための所作がなく、手をこすり合わせることをただ続けていた。
武雄はジャックナイフを力まかせに突き立てて、さらに砕き、「ほら」と正彦の足元に塊の一つを放った。
「これで包め」
次郎は杉の枯れ葉を、ひと抱えほどもかき集めてくると足元に投げ出した。
「誰にもしゃべるな」
武雄はナイフを片手に凄んだ。
神社を出ると黙ってそれぞれに別れた。正彦は歩き始めて服がひどく汚れているのに気がつき、塊を次郎にあずけて両手で払ったが、あまりきれいにならない。もともと汚れているのだからしょうがないかと、次郎から塊を受け取った。
正彦は気が重かった。これからもこんなことをしなければならないのかと思うと、次郎の誘いに訳も分からずついて行ったことを悔やんだ。しかしいくら悔やんでも、いつかはこうなる破目には違いないんだと、つくづく自分がなさけなかった。
次郎と別れて近道の路地裏に入ると急に心細くなって、この塊をどうしょうかと考えた。この塊を…と考えているうちに、この塊が何であるのか分かっていないのに気がついた。正彦はうしろから人がこないのを確かめて、杉の枯れ葉で包んだ塊を、かがんで足元にそっと置いた。ちくちくする葉をかき分けてよく見ると、それは冷凍された灰色のイカだった。どうしてこんなものを武雄たちは…五はいくらいある、このイカの塊に正彦は困った。
〈この早うからどこへ行く〉家を出る時の加代のとがった声が聞こえ、〈いい子でいたら島岡村へ連れて行く〉山でのおだやかな声も聞こえた。そのために金三やゆきえを、仲間と一緒にいじめるのをやめる。三枝子の身体をじろじろと見ない。自分でいい子になるために決めたことは、これでなんにもならなくなったと、ため息をついた。こんなことを三枝子に知れたら、白い目で見られるに決まっている。
捨ててしまおう、誰にも分かりはしない。しかし次郎の顔、武雄と晴信の怖い目を思うと捨てられない。どうしても捨てられない。正彦は高い生垣のある路地裏を、杉の枯れ葉で包んだ塊を脇に抱え、行ったりきたりした。
拾ったもの!そうだ拾ったものなんだ。どこで拾おうと拾いものなんだ。なにも考えることはなかったんだ。正彦は杉の葉だけを路地端に捨てると、意気揚々と家に向かった。
〈拾ったものは、もうけものの授かりもの〉
加代が五銭沼で、松茸を山ほど拾った時に口にした言葉を、正彦は鮮やかに思い出していた。
勢いよく玄関を開けると、加代が太い腰に両手を当てて、下唇を突き出していた。
「これ、もうけものの授かりもの」
正彦は笑いを作ると、凍った灰色の塊を差し出した。
加代はそれを片手で受け取って、塊をじっと見るなり、いきなりげんこつを思いっきり正彦の頭にくれた。
「何が授かりものか!」
塊を持ったまま加代は、さっさと台所へと背を向けた。
ぼう然とした正彦は、痛さとくやしさと、もう島岡村へは行けないのだという悲しさが、ぐちゃぐちゃになって時雨のように泣いた。