天女の海ー月の夜は菜の花の海で魚になる(後編)

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 三か月ほど前に脳腫瘍の大手術を終えた舞はその後、奇跡的ともいえる回復ぶりで、その町の総合病院・脳外科病棟を無事、退院し日常生活に戻った。それでも、舞が時折、「頭が重い。重いの」とか(こんなにも暑い日が続いているのに)「寒いの」とか言うと、私の全神経はその場でピタリと止まるように、全身を舞に集中させる日が続いている。正直言って、担当医師から「はっきり言って奥さまの手術の結果がどうなるか、は分かりません。でも、このまま放っておいては死を待つばかりです」と言われたとき、私の意識のなかにある決意のようなものが走っていたことも確かだ。

 いまになって振り返ると私がこの世で百合カエデさんの存在を初めて知ったのは、ことし四月七日の未明だった。これより先の三月三十一日、舞は自らボランティアで営むリサイクルショップ「ニューマン」に居て、急にめまいに襲われ立ってはいられないほどに体調が悪化し「ニューマン」隣の派遣会社に救いを求めて駆け込んだ。幸い、同社社員の咄嗟の機転と判断に救われ、呼んでくれた救急車で病院に運ばれ、そのまま入院したのだった。
 私は舞の入院先から帰宅後、毎夜、自宅のパソコンで“いがみの権太の野球日記”を書き進めていたが、ある日突然のように私が主宰するウエブ文学同人誌「熱砂」のお問い合わせ欄に一通のメールが届き、それが、カエデさんを初めて知るきっかけとなったのである。

 メールは次のような内容だった。
「こちらのサイトと直接、関わりがないかもしれない問い合わせで申し訳ないのですが、わらにもすがる気持ちでお問い合わせさせていただきます。
 伊神権太さまにお聞きしたいのですが、テーマエッセイの作品『主(ぬし)にみかえる花はない』の最後にあげていらっしゃる“舞子”さまとは、十年ほど前に一行詩の会【かぜ】に所属されて『ひとりあやとり』という俳句の作品集を出されていた方でしょうか? 熱砂の事務局がある愛知県江南市は、その女性が住んでおられた一宮市とも近く、舞子さまが短詩を書かれているため、もしやと思い、問い合わせさせていただきました。
 突然のことで驚かれたと思いますが、どうしても舞子さまに連絡がとりたく、ネットで検索しておりまして、こちらに行き着きました。失礼の段お許しください。私はやはり十年ほど前に【かぜ】に所属しておりました百合豊の家内でございます。夫は九年前に他界しましたが、生前、舞子さまの作品をいつも楽しみにしており、作品集をいただいた折に、自分も本が出せたら、舞子さまに読んでいただきたいと常々申しておりました。
 実は、このたび夫の作品(一行詩)を集めたホームページをようやく立ちあげることができましたので、もし舞子さまに読んでいただければ夫も喜ぶに違いないと思い、消息を探しておりました。もし、夫をご存知でしたら、ホームページを見ていただければと思います。まったく見当違いの問い合わせでしたら申し訳ないのですが、一度、舞子さまにお聞きいただければ幸いです。どうかよろしくお願いいたします」

 ざぁっと、このような内容だった。私は百合カエデさんが問い合わせてきた「伊神舞子」は正真正銘の舞に違いない、と確信したが脳腫瘍の大手術を控えていたこともあり、心が逡巡しながらも「確かにその女性は、私の妻です。でも、現在、大病を患い入院中の身ですので、そっとしておいてほしい」といったようなメールを打ち返した。

 その後、しばらくして今度は私の携帯アドレスあてにカエデさんからメールが届いた。
 メールは「舞子さまだったとのこと。嬉しいです。本当にありがとうございます。私は奥様と直接の面識はないのですが、【かぜ】で作品はよく読ませていただいておりました。ゆたか(豊)も、きっと喜ぶと思います。入院中とのことで、ホームページを見ていただくのは難しいでしょうね。残念ですが、ご回復をお待ちします。舞子さまには、ぼちぼち更新しながらお待ちしています、とお伝えください。いつか本にまとめたいと思っています。舞子さまの作品にあこがれていた夫は実は脳腫瘍の手術を受け、亡くなりました。せめて生前の作品だけでも、とホームページを立ち上げたのです」といった内容で、たまたまカエデさんの夫も、舞の病と同じだったと知り「なんということか」と運命の皮肉を恨む気持ちにさえなったのである。
 それでもメールには「どんな病かは知りませんが、ところで奥さま、大丈夫でしょうか。お大事になさってあげてください」と書かれていたため、その後私の方から「実を言いますと、妻の舞は、たまたまあなたのご主人と同じ病気と闘っており、手術を控えています」とだけ返信をした、と記憶している。まもなくすると、再び私の携帯メールアドレスあてにカエデさんから丁重な返事が送られてきた。

 内容は「「舞子さまと直接、電話で話をさせていただいて良いでしょうか。(介護の世界で)フルタイムで働いている職場なので携帯電話を取ることができません。夜も遅いので、ご都合のいい時間を教えていただけましたら、こちらからお電話いたします。」とあり、とうとう舞にもその旨を話さざるをえなくて、病院内のベッドの傍らに立ち、それまでやり取りしたカエデさんとのメールのいきさつを恐る恐る話すと、彼女はいつもと変わらない調子で「ウン、いいわよ。いつだって」と、むしろこちらの立場をおもんぱかるように答えた。
 私は「日中のあなたのよい時間なら、いつでもよいそうです。検査などで出られない時は出ませんので、適当に電話を切ってください」とカエデさんに伝え、これをきっかけに両者の文通にも似たやりとりが始まった。そうは言ってもカエデさんからのメールは、病床で病と闘う舞を気遣ってか一貫して私へのものが多く、舞に対する直接の電話とかメールを送るとなると、そのつど事前に私に伝え理解を得てから、というものだった。

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 それからというもの、百合カエデさんからの私たちに対する音信は、手術を挟んで主にメールを中心にぽつりぽつりと、届いた。今から思えば、これらの音信のすべてが私たち夫婦にとっては、かけがえのない励ましとなった。唯一の勇気の泉ともなったのである。文面には舞の手術を前にした私たちに対する心配りに始まり、手術後もひと言ひと言に生きる勇気を与えてくれる、そうした内容で時には舞の方からメールで作句を送ることもあった。

 その一部分は、次のようなものだった。
 まず手術前からー
「今お返事見ました。どういう偶然なのかと言葉を失います。豊が亡くなったときは、ご連絡していると思います。もしかしたら(奥さまは豊の)病名を覚えておいでかもしれません」
「お電話ありがとうございます。四月十一日の午前十一時ごろにお電話すると舞子さまにお伝えください」
「お話できて嬉しかったです。ゆたかのホームページも印刷してみせてくださったのですね。とても嬉しいです。十四日きっと成功してお元気になられます」
「舞子さまの新しい作品が読めて至福でした。昔と種類の違うやさしさと温かさのある作品ですね。昔の鋭くて熱い優しさもステキでしたが、今の作品も好きです」
「お返事ありがとうございました。舞子さまからもメールいただきました。舞子さまの作品迷って二つだけ送らせていただきました。
 ♪月の夜は菜の花の海で魚になる
 ♪本当のことを言えば夜の机がしゃべり出す
 豊も私も大好きだった作品です。舞子さまのメールにも書きましたが、私は舞子さまの作品のなかで夜の作品が特に印象深いのです。今日の夜もお二人とも穏やかに過ごせますように。介護する側も、体力が勝負です。共倒れしてはお互いが辛いので、どうぞ権太さまもご自愛ください」

 励ましのメールは手術当日(平成二十二年四月十四日)も、いただいた。内容は「おはようございます。昨日、舞子さまよりメールいただきました。もやもやと落ち着かないと書かれていました。今日は長い一日になると思います。信じてお二人で乗り切ってください。私も今日一日信じて祈っています」といった簡単なものだった。

 メールによる私たちへの百合カエデさんからの励ましは、手術後「無事、なんとか手術が終わりました」との私からのメールにも即座に反応し、次のような力強い内容のものだった。
「手術成功おめでとうございます。お二人で勝ち取られた勝利だと思います。思いは命に勝てると信じています。これから長い戦いになると思いますが、ゆっくりぼちぼちと進んでください。春らしい帽子やスカーフでもプレゼントされては? 昔の舞子さまのお写真を拝見すると、優しい帽子が似合いそうです。」
 そこには、思わず目頭をぬぐう私がいた。

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 百合カエデさんからのメールは、手術直後の舞の安静を気遣ってか、その後しばらく途絶えた。そして四月二十二日の朝。私は百合さんからの音信を、ひと筋の望みに舞の術後の症状がひと段落したところで、彼女に手術後の舞の状況について、次のようなメールを送ったのだった。
 ―百合カエデさまへ。
 舞は十時間余に及ぶ大手術にも耐え、逞しく闘っています。手術直後の三、四日間は、集中治療室はもとより、個室747に移ってからも、ベッドの上で身動きひとつ出来ない状態が続きました。全身点滴だらけで、見るも哀れで、悲惨で、可哀そうで…。でも、ベッドの傍らに居るだけで僕たちには、どうすることも出来ません。
 食事も、ほんの一口かふた口しかノドを通らず、あげくに術後のMRIで切除した以外の脳の正常な部分にも血が浸みた出血部位があり、もしかしたら、開頭手術のし直しも十分ありうる、と担当医に言われた時には「もう終わりか」とも思いました。
 幸い、舞のこのところの回復力は脅威に値し、脳の正常部位からの出血も点滴治療で治まったようで元気になってきました。ありがとう。担当医は、こうした舞の不屈の回復力につき「奥さんの脳は強い。脳の力、いわゆる脳力(のうりょく)が人並みはずれて優れており、天才的な脳の良さだ」と驚いて居られ、この調子だと、どうにかこの山を乗り越えられそうです。舞にも笑顔が戻ってきました。ご安心ください。

 メールを送るとカエデさんからは、私からの知らせを待っていたかのようにすぐに「ご連絡ありがとうございます。順調なようで、安心しました。でも、この先は抗がん治療が始まるのでしょうか? もし始まるのならば、副作用との戦いで、心身ともにしんどい時期ですね。体力が勝負ですから、美味しいものがいっぱい食べられますように。舞子さまには、また休みの日にでもメールします」といった内容の返信が私あてに届いた。
 私は文面を読みながら、カエデさんが豊さんともども底知れない病魔との闘いに明け暮れた日々に思いを起こし、彼女の私たちに対する心遣いと励ましに思わず、頭を下げていた。

 二日後、百合カエデさんから私あてに「こんにちは カエデです。舞子さまにメールを送りました。長いメールでお疲れにならないといいのですが……」といったメールが入った。私は、舞にカエデさんからの知らせを報告する一方で「いつも、お心遣いをありがとう」と返信したが、彼女からのメールはその後も遠慮がちに届いた。

「こんにちは。術後、順調なようで何よりです。きょう舞子さまから点滴が外れた、とのメールをいただきました。実を言いますと、今までいただいたメールには多くの箇所で脱字があったのですが、今日のメールには、ひとつもありませんでした。脱字を見ると、きっと頭がはっきりされないのだろうな、と心痛めていましたので、今日のメールがとても嬉しかったです。あまりお疲れになってはいけないと思いながら、嬉しくてまた返事をしてしまいました」(四月二十六日午後七時七分)
「♪病室の 窓いっぱいいれる 春春春
    舞子さまからこんな作品がメールで届きました。なんだか言葉を失います。こちらからは、明日更新する豊の詩を送りました。
 ♪指一本 空に向かって 突き放つ  豊」(四月三十日午前七時十五分)

「夜分に恐れ入ります。先ほど帰宅しました。舞子さまから退院します、とお知らせをいただきました。お祝いが遅れて申し訳ありません。本当におめでとうございます。ご自宅でご家族とゆっくり静養ができますように。家での看病は疲れが出やすいものです。権太様もお疲れが出ないようにのんびりお過ごしください。遅いので舞子さまには、また明日メールします。おやすみなさい 百合カエデ」(五月四日午後十時二十二分)
「先ほど舞子さまにメールを送りました。ご連絡いただいてから今日まで長かったような短かったような、と考えながら、この時期にお会いしたことは、きっと縁だったのだろうと思っています。舞子さまからメールをいただけることは喜びです。大変な時期でしたのに、連絡をくださって本当にありがとうございました。
 ウエブ文学同人誌の『熱砂』読ませていただきました。ネット文学の中で権太さまが『いがみの権太の野球日記』と同時進行で連載されている『笛猫日常茶番の劇』を読ませていただいて、日々の連載の大変さを乗り越えられている、そんな喜びが伝わってきました。そばにいる家族の思いは、きっと家族にしかわからないものです。これからのお二人の幸せをお祈りいたします。また豊のホームページにも遊びにいらしてください。こんごともよろしくお願いいたします。それはそうと、いつの日にか、ほんとにお会いできるといいですね。今は名古屋ですか?」(五月五日午前九時五十八分)

 私は、こうした文面を読むごとに、百合カエデさんの心に向かって自身の気持ちと感情が少しずつ傾いてゆく自分をかんじていた。同時に会いたい、という感情を抑えられなくなっていく心の動きを今さらながらに強く感じるのだった。

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 そして舞が退院して三日後、百合カエデさんから私あてに思いもよらないメールが送られてきた。
 それは次のような内容だった。
「権太様。きょう自宅近くにある舞子駅の看板を見て、夫のゆたかが生前『名前の(伊神)舞子さんと地名の舞子、アクセントが違うだけで、同じ字から違う世界が見え隠れする。面白いなあ』と言っていたことを思い出しました。ゆたかがしみじみと話す、その横顔を見たとき、正直言って舞子さまにジェラシーのようなものを感じたのも事実です。あのころ、夫・豊の心は間違いなく、舞子さんに向かって歩いていこう、としていました。好きだったのでしょうね。きっと。自分自身の心のなかでは…舞子さまを。
 でも、今となっては、それも忘れられない、よい思い出です。ゆたかの心の中に、たとえひと切れであれ、あなたの妻・舞子さまの存在がすみついていたとしたなら、それはそれで幸せなのだから良かったと、つくづく思えるようになったのです。」(五月八日午後六時五十七分)
 文面を追ううち、私の目頭に熱いものが走り、滴となって堕ちていった。
 百合豊さんは、もしかして、舞を愛していたのかも知れない。
 と同時にカエデさんから届いたメールに書かれていた「ほんとにお会いできるといいですね。今は名古屋ですか」の文面が私の心を知らぬ間に突き刺してきている。まさか生前の夫への復讐心でもなかろうに。ある種、見えない、得体の知れない女のかぜのようなものが、容赦なく私の体内を走り抜けていった。この感情は一体全体、何なのだろう、ふとそんな気持ちが頭をもたげた。

 翌朝、舞子駅にこだわった百合カエデさんからのメールが私の元に送られてきた。
「おはようございます。
 舞子駅は、舞子公園の横にあります。目の前に明石海峡大橋、そしてゆたかが生まれ育ち、今眠っている淡路島が眼前に広がる素晴らしい場所です。舞子さまが落ち着かれたら、ぜひいらしてください。私はそこから車で三十分ほどの山の中に住んでおりますが、来て下さるなら、もちろん馳せ参じます。
 舞子ホテルというのもありますよ。大正年間に立てられたホテルです。舞子ビラは有栖川宮の別荘の跡です。そして移情閣と云う美しい名の建物も舞子公園にはあります。移る情け、移情閣って、面白い名前でしょう。ぜひ、舞子ツアーをしていただきたく思います。」
「小説ですか? わたしも書くことは昔から大好きでした。ゆたかと出会ってからは実際に小説めいたものを書いたことも何度かあります。でも、いまは介護の世界に没頭する日々で物語を紡がなくなって随分の年月がたちます。書かなくてもいられる事自体が表現者として失格なのだろうと今は思います。才能や技術よりも、もっと根源的なものとして。 百合カエデ」(五月九日午前十一時二十二分)

 そしてー
(私が以前、百合カエデさんにメールした「なんだか、いいものが書けそうな心理状態です。現在、構想を温めています」との言葉に対しては)
「舞子の小説の発想がうまれそうなのですね。では少しでもお手伝いを 転記で一つ。
 舞子の地名の由来は諸説あり有名なものでは明石海峡の潮が舞い込む『廻い込浜』から、転訛して“舞子”の字があてられました。そして、もう一つ。多く茂っていた松の木の枝ぶりが女性の舞う姿に似ていることが由来だ、という説です。もともとは舞子の浜が景勝地なのです。
 また、音韻説では前弧(前の浜が弧を描く)説もあります。でも私が好きなのは、天女伝説から来たというもの、浜で舞う天女の方です。橋が出来て埋め立てられてしまうまでの舞子の浜は、それこそ、そぞろ歩きするのにふさわしい浜でした。
 舞子駅も昔は、ちいさな、ほんとにちいさな駅でした。眼前の明石海峡は、美しいけれど潮の流れの速い、サザエすら角を持たない海です。浜は変わってしまいましたけれど、舞子駅の前に見える明石海峡と淡路島は古代の影を残しています。舞子の町の端には、五色塚古墳という前方後円墳が、海を見守るようにそびえています。復元されて、その上から海を眺めることができるのです。どこの町角に舞子さまがいらしても、不思議のない町なのです。
 最後にもう一つ。愛知県知多半島にある新舞子は、こちらの舞子の美しさを借りて取られた地名だそうです。美しい浜は舞子。堂々たる山は富士というくらいの名称なのでしょうね。               百合カエデ」(五月九日午後零時四十八分)

 百合カエデさんからの私にあてたメールは、その後も思い出したように送られてきた。
「夜分に失礼いたします。ウエブ文学同人誌『熱砂』へのリンクありがとうございました。『天上に届け! 百合の1行詩・豊(ゆたか)』という題名は、なかなか照れくさいですが、お気持ちしっかり受け止めました。こちらからも『熱砂』へのリンクさせていただきました。これからもよろしくお願いいたします。舞子さまからは天体ショーのニュースのメールをいただきましたよ。
 また休みの日にでもメールします。読んでいただける時間になかなかメールできず、残念です。 百合カエデ」(五月十九日午後十一時三十一分)

「メールとお写真ありがとうございました。ご様子はウエブ文学同人誌の熱砂の“いがみの権太の笛猫・野球日記”で毎日、読ませていただいていますので分かっていましたが、舞子さまのお姿が添付写真で見られて嬉しいです。予想通り、若々しくて、おきれいですね。
 舞子さまとは、いまも時折メールの交換をさせていただいています。先日は、朝顔の写真を添付して送ってくださいました。ゆたかのホームページから、こうやって新しいお付き合いが始まったこと、本当に嬉しく思っています。今後ともよろしくお願いします。
 でも、ほんとに一度、お会いできるといいですね。 百合カエデ」(七月四日午後九時五分)
 私は読みながら、メールが一通ずつ増えるに従いカエデさんの感情が、私の上に少しずつ乗り移ってきている、そんな錯覚にとらわれ、感情という感情に見えない重しをかんじるうち、こんどは自分自身の熱情が心のなかでマグマとなってカエデさんの方に流れてゆくのを感じていた。そして「ほんとに一度、あなたにお会いできるといいですね。」と書かれた文末の文句が堰を切って私に向かって流れ出ている。そんな思いにもかられるのであった。

    5

 私が舞子駅を訪ねたのは、百合カエデさんからのメールが途絶え二週間余を過ぎた七月二十四日のことだった。前夜、同僚と名古屋駅前、大名古屋ビルヂング屋上のビアガーデンに誘われ、ビールを飲むうち、なぜか急に海が見たくなり「よしっ、あす行こう」と心に決め、翌朝、名古屋駅で新幹線に飛び乗った。
 若いころから思い立ったら、すぐに行動に移す癖があり、こうした場合は決まってよい方向に流れる場合と悪い道にそれる、ふた通りのどちらかになることも重々、承知の上の行動である。突然のこうした行動は、これまでも随分、舞を泣かせてもきた。まさか、今度は心配ないだろう。とはいえ、私の心の中に百合カエデさんという存在が既に棲みついてしまっていることも疑いのない事実だ。

 その日、私は昼過ぎ、八丁味噌をつかった名古屋名物の「みそかつ&えびふりゃ~」弁当をプラットホーム売店で買ったあと、名古屋発の新幹線博多行きに飛び乗った。
 滋賀県の野洲川を懐かしく窓辺に望み見た(私は十五年ほど前、新聞社の大津主管支局長として滋賀県下を飛び回っていたことがある)。かと思うまもなく、新幹線は新大阪に着いた。
 私はここで駅員に舞子駅に行く方法を聞き、ここから在来線に乗ったのである。

 列車は大阪、住吉、六甲道、三宮の順で止まっては走り、を繰り返している。だんだんと近づく舞子駅に私は、なんだか恋人にでも会いに行くような、そんな思いにかられ、車窓に目を遣り、大きく息を吸い込んだ。そろそろ舞子駅では、と座席に威儀を正すかのように、あらためて座り直した。
 「まもなくモトマチ、モトマチです」
 ホームを横目に舞に似た女性がこちらに歩いてくるのに気がつく。錯覚とは知りつつ、列車を乗り降りする女性という女性がみな、その時々の舞に見えてしまう。そこには、三重県志摩半島の、とある町にふたりで駆け落ちした当時の舞や、町中に濁流が押し寄せ避難場所で幼な子と私を待つ舞、稲妻がひかり冬の雷の鳴る能登で雪かきをする舞の姿が次から次へと浮かんでは消えていった……一方で百合カエデさんに電話をしようかどうか、と迷いつつ結局は突然の来訪は、介護治療に朝も昼も、深夜も打ち込む彼女の生活リズムそのものを狂わせてしまうことが目に見えており、やめることにした。

 八両編成、物言わぬ列車は、何ごともないかのように表情ひとつ変えることなく、私にとってのこの世で初めての未知の世界を進んでいく。よく考えてみたら、目の前の一瞬一瞬が誰にとっても未知なのだが。
 「次はコウベ、コウベです。コウベの次はヒョウゴに止まります」
 車窓から遠くを見る。向こうの空低くに白い雲海がたなびいている。何か、重要なことを私に向かって話したい、そんな顔をしている。
 「次はヒョウゴ、ヒョウゴです。お出口は左です。ヒョウゴの次はスマに止まります。ヒョウゴを出ますと、次はスマに止まります」
 列車内のアナウンスがひときわ、大きく耳に迫る。舞子駅が、もうすぐそばに近づいているのは間違いない。快晴のもと、列車はガタンゴトンと囁くような音を立てて走り続ける。
 「まもなくスマ、スマ、スマです。スマを出ますと、次はタルミに止まります」
 車窓に海が見えてきた。いや、窓の左側が海で須磨の浜である。なんて穏やかな海なのだろう。

 やがて列車は止まった。
 「タルミ、タルミです。タルミの次はマイコに止まります」
 鼓動が白い波にあわせるように大きく波打つ。とうとう、ここまできたのだ。列車は、そんな私の感情とは関係ない、と無言を装って走り続ける。

 窓辺には海が広がり、白い波を蹴立ててボートが走っている。はるか向こうにおぼろな山が霞みのように浮かんでいる。
―海は なぜ広いの
 それは すべてのいのちのはじまりだから
 海は なぜ青いの
 それは 地球をかこむカーテンだから
 海は なぜすきとおっているの
 それは 心だから

 海から いのちは はじまった
 みんなの海 広い海
 そんな海が
 ぼくらへ よびかけている
        (本藤理恵作「海は なぜ広いの」から)
 私は、二十数年前、新聞社の七尾支局長時代に能登・七尾で地元七尾青年会議所の仲間たちと手がけた「海の詩(うた)大賞」の第一回大賞作のフレーズが自らの全身からこぼれ出てくるのを感じていた。舞も、私も、子どもたちも能登の海には随分とかわいがられた。あの日々が忘れられない。
 キラキラと光る海面。海が笑っている。おどけている。「ようこそ」と、私を歓迎してくれている。なんと美しい海なのか。きょうの海は、泣いてなどはいない。ふと、舞が傍らに居てくれたなら、との思いが心を流れた。

 舞子駅が近づいている。
 こうしている間にも目指す駅は呼吸をするようにして近づいているのだ。
 午後二時三十五分。列車は、とうとう舞子駅に滑り込んだ。
 駅に着いても百合カエデさんの存在は私のなかで近くなったり遠くなったりしていた。駅そのものが上品で優しく何かを包み込んでくれるような、そんな一人の女性になって私のなかに入り込んでくる。何よりも私は高ぶる気持ちを鎮めなければ、と舞子駅一帯を歩いてみることにした。
 歩いていても歩いても思い出されてくるのは、亡き夫への思いを胸にこの地で、たくましく生き続けてきた百合カエデさんのことばかりである。私は駅南側の明石海峡大橋直下の舞子公園を散策したあと、大橋たもとの堤防まで出て、しばらく海を眺めていた。カエデさんは、いま、この海をどんな思いで日々を生き、見つめていることだろうか。一羽のカモメが私の視界から消え去った。
 海を眺めるうち、舞子駅の由来をますます知りたくなり、私は駅真向かいにあるジュンク堂まで足を伸ばした。あいにくカエデさんから教えられた以上の由来について詳しく書かれた本を見つけることは出来ず、帰りの列車に乗った。滞在していた僅かな間に、なんども携帯電話に手が行ったが、私は自らの意思を押し殺すように、そのつど電源を敢えて切り、帰りは京都経由の在来線で途中、米原で東海道線に乗り換え、尾張一宮駅まで帰ったのである。

 私はその日、帰りの列車のなかで百合カエデさんにあて、自ら撮った明石海峡大橋の写真を添付して、こんなメールを送った。
「つい先ほどまで、ただ一人、舞子の浜海上ロード(プロムナード)から明石海峡大橋越しに海を見ていました。カエデさんには舞へのお礼を誰よりも先に言わなければならないのに。突然の電話はかえって失礼に当たると思って遠慮してしまいました。お許しください。舞子の浜から望み見る海は、どこまでも透き通り、波という波がキラキラと輝き、ボクの心に何か、を語りかけてくるようでもありました。舞子の浜のすべてが気に入ってしまった今、あなたに会うことが怖くさえ感じられたのです。たとえ会わなくともボクには、あなたのすべてが分かる。ボクのなかであなたが生きている。そんな気がするのです。今度訪れる時には、事前に連絡させていただきます。猛暑の折、おからだ大切にしてください。JR車中にて」(七月二十四日午後六時二十六分)

 百合さんからは翌日の昼前、次のようなメールが私あてに届いた。
「こんにちは 舞子の浜が気に入られたとのこと。よかったです。(メールで)送っていただいたお写真の淡路島の橋脚の下が幼い日のゆたかが、過ごした町です。お写真のどこかに彼の眠る場所が写っていると思います。メールを読みながら(私も)あなたとは、お会いしない方がいいのかな、と思いました。今多分いろんなイメージを広げて舞子の小説執筆を考えていらっしゃるのかなと思えて。そういうときに女のリアルな姿はかえって邪魔になるような気もするので。舞子の浜で感じられたことがいい作品に結びつきますように。
 暑いです。舞子様ともどもご自愛ください 百合カエデ」(七月二十五日午前十一時五十七分)
 私は文面に目をはわせながら「(私も)お会いしない方がいいのかなと思いました」とのカエデさんの言葉に、限りない優しさを感じると同時に激しい動揺を覚えていた。お会いしない方がいい、というカエデ。彼女の本心は明らかに逆で、私と会いたがっている。そこには私がカエデに対すると同じ淡い恋心というか、思慕のような感情が包み隠されているのだ。
 そう思うと、私の内部から、得体の知れないマグマのような何かが突き上げてくるのだった。一方で「カエデさんには、会わない方がいい」。そんな、もう一人のボクの声も聞こえてくる。
 私は、しばらく動揺する気持ちを落ち着かせたあと、その日の夕方になり百合カエデさんに返信メールを送った。内容はごく簡単で次のようなものだった。
「舞子の駅公園で私は、あなたのことばかりを思い、公園内の花壇で咲いていた赤い花を撮りました。添付させていただきます。公園から望む海峡の海、眼下の波が近くなったり離れたりしていました。この地であなたが生きておいでになると思うと、居ても立てもいられなくなるのは、なぜでしょう。あなたの生が今や、完全に私のなかに棲みついている。そんな感情がよくわかるのです」

    6

 八月に入ると、私は自分の感情のままに百合カエデさんにメールを送った。
「猛暑の夏、その後いかがお過ごしですか。舞は暑さにばてながらも、なんとか日々を乗り越えています。新作の方は、やっと筆が独りで歩き始め、時に手綱さばきに面食らったりしていますが、一歩ずつゴールに近づきつつあります。おからだ大切にしてください。  伊神権太」(八月一日午後零時二十九分)。
 百合カエデさんからはその日の夜遅くさっそく返信が送られてきた。
「新作が進んでいるようでなによりです。“舞子駅”で受けた刺激が花開くことをお祈りいたします。私はイメージの広がりの邪魔をせぬように静かに新作をお待ちしますね。(笑い)
 舞子さまからも舞子行きの件のメールいただきました。ご主人が刺激をうけることを喜んでいらっしゃる様子がいいなあ、思いました。舞子さまの夏バテがひどくなりませんように 百合カエデ」(八月一日午後十時二十九分)

 百合カエデさんからのメールは、その後一カ月以上にわたって途絶え、私たち家族も元通りの生活スタイルに戻っていた。ことしは日本中が猛暑にたたられ、野菜の生育が悪く値上がりが目立ったが、それ以外といえば平々凡々の一日が少しずつ戻っていた。

 秋風がひときわ感じられるようになったその日、久しぶりに百合カエデさんから届いたメールは次のようなものだった。
「ご無沙汰しています。秋になりましたね。お元気ですか? 夏は仕事で追われ、今日ようやく、久しぶりに舞子さまにメールが出せました。ウエブ文学同人誌の熱砂で連載されている『笛猫茶番日常の劇と、いがみの権太の野球日記』は、楽しく読ませていただいています。この間のスカイマークの花火には(権太さまが体験なさった能登の三尺玉や芸術花火、琵琶湖のスターマインなど数々の花火が頭を去来して)不思議な共有感を感じました。その日、家から同じ花火を見ていたのです。
 舞子さまの回復も順調なようで嬉しいです。笛猫野球日記も楽しみにしています。ご夫婦とも夏バテなどされぬよう、秋の舞子もいいですよ。また遊びにいらしてください 百合カエデ」(九月十一日午後八時五十七分)

 私は翌朝、次のように返信した。
「もう秋ですね。カエデさん。どうしておいでか、気にしていました。思いがけないメールをありがとう。うれしかった。ボクもご主人のブログ『豊』を読んでいます。舞は、あなたから届いたメールの話など何も言いません。でも、カエデさんの存在が舞の生きる支えになっている。そんな気がするのです。また、メールします 伊神権太」(九月十二日午前八時四十七分)。

 あれから、百合カエデさんからのメールは私の元に届いてはいない。
舞には届いているかも知れないが、彼女はそのことについては、私にひと言も触れない。また私自身も、舞に届いたメールをいちいち詮索して聞こうとする気もない。舞はどちらかというと、すべてにマイペースで常日ごろから、夫に女たちからどんなメールが届こうが知らぬが仏のそぶりでいる。その点では助かるが、半面無関心を装っているだけなのでは、と怖く感じることもある。
 ともあれ、舞の心がカエデさんから届くメールで少しでも癒されれば、私にとって、それ以上望むことは何もないのだ。だが、そうした私の満たされた気持ちの一方で、なぜだか、こうした秘密めいたメールのやりとりをしていると、カエデさんの存在そのものが私にとっては、舞に対する秘密のような気がしてくる。やはり、私の心は百合カエデさんに向かって動こうとしているのか。いや、現実に彼女の存在は私のなかの大きな存在になりつつあることは疑うまでもない。
 私の心は既に動き始めている。どのように動いているか、は自分でも分からない。

    7

 十月に入ると、一日一日がアッという間に過ぎていった。
 気がつくと、猛暑だった夏が去り、周りには秋の気配が漂い始めていた。
 金や銀、茶、赤、黄、緑といった枯れ葉が路上を敷き詰めている。こんなにも多くの色彩に変身していくのだ。路上に命を落とした真っ赤な三つ葉の手や、黄色いかわいい手を見ながらこのままだと、百合さんからのメールも遠のいていってしまう。そんな意識にさいなまれる日々が、しばらくは続きそうだ。手術後の妻の体が案じられる一方で、百合カエデさんのことも気にかかる。カエデという細胞が私のなかに、いつのまにか大きく巣食い、この地上で分裂し、どんどんドンドンと無限に大きくなってゆく……

 その日。私は、妻への思いを断ち切るように、思い切って彼女にメールをすることにした。私が送信した携帯メールの内容は、次のようなものだった。
「カエデさん。どうしておいででしょうか。舞は雨のなか、今日も自ら営むリサイクルショップ“ニューマン”に出かけていきました。ボクは久しぶりの休みでパソコンに向かっています。小説を書き進めるにつれ、あなたのことばかりがなぜか、思い出されて、年甲斐もなくついついメールしてしまいました。おからだ、くれぐれも大切に 権太」(十月九日午後零時二十七分)
 返信は、その日のうちに届いた。
 「メールありがとうございました。普段仕事中は携帯を持たないのですが、たまたま開けたら、あなたから届いていてびっくりしました。パソコンメールでいただくことが多いのでちょっと新鮮でした。(笑い)今は遅い昼休みです。今日も帰りは遅くなりそうです。いっぱいイメージが広がって筆がすすみますようにお祈りしています。
 舞子さまにもよろしくお伝えください」
 私は、「舞子さまにもよろしくお伝えください」と書かれた画面を見ながら、カエデさんの心底からの優しさ、温かさ、といったようなものを感じて思わず、手の震えを止められなかった。舞には、黙っていよう。

 それから一日がたち、二日、三日がたち、気がつくと十一月が目の前に迫っていた。
 十一月を翌日に控えた三十一日、私の背広内、左ポケットに納められた携帯電話が微かに振動音に揺れ、メールが届いた知らせともいえる信号音が鳴り響いた。
 百合カエデさんからだった。たまたま、勤め先の昼休みで社近くの食堂に向かっていたところで、私の足はまるで信号音に不意打ちでも食らった如く、ピタリと止まった。
 携帯を開く。
「ご無沙汰しています。お変わりありませんか」
 メールの内容は、ただのこれだけだった。
 だが、一体全体どういうことなのだろう。彼女への思いを断ち切ろうとすればするほど、私の内部のなかの、百合カエデさんは日に日に大きな存在として膨らみ、浮かびあがってくるのだった。彼女には、まだ会うどころか、見たことさえないのに。
 それとも、不思議なことに見えない、輪郭すら現わさない女に私は恋をしているというのか。愛しさの対象は、舞に対する彼女の夫の思慕の情が、こちらに乗り移ってきたものなのか。私はくらくらする目と顔を、もう一度振ってみた。もしかしたら、知らぬ間に、どこか見知らぬ世界に私が投げ出されようとしている。同時に、そんな錯覚にも陥ったからである。

 そうはいっても百合カエデさんには、舞の入院中はむろん退院してからも日常生活のケアなどについて随分のアドバイスをいただき、お世話になってきた。だから個人的事情からだけでも受信メールに対するお礼の返信メールを出さないわけには行かない。
 私は自らにそう言い聞かせ、返信メールを出すことにした。
 内容は、あっさりしたものだったが、これまで“百合カエデさん”と打電してきた名前の三字を『かえでさん』と、あえてかな書きにして打電した。微妙な私の心境の変化を、カエデさんに分かってもらえるだろうか。そう思って出したのが、次のようなものだった。
 「かえでさん、こちらはその後順調で、私たちふたりは元気にしています。あなたも、おからだ大切になさってください。舞は相変わらず疲れやすいですが、大手術のあとですから仕方がありません。少しずつ回復していますので、ご安心ください」

 百合カエデさんからは、その日のうちにパソコンからではなく、携帯メールが返信されてきた。
「ゴンタさん。小説のイメージは膨らみましたか。あたし自身、こうしてあなたとメールを交わすことが出来、うれしく思います。それどころか、日一日と権太さんと舞子さんは、今どうしておいでになるのか、そればかりが気になるのです。
 なんだか、へんですよね。権太さんたちのおかげで、あたしが、これから歩んでゆく道というのかしら、前途に虹の橋がかかったような、そんな気がするのです。
 実を言いますと、奥さまからは先日、真っ赤に咲いたマンジュシャゲの花が添付されたメールが送られてきました。お礼のメールをさせていただくと、今度はそぼ降る雨にぬれた金色に輝くキンモクセイの花の写真が送られてきました。なんてステキな花でしょう、と思いました」
 マンジュシャゲも、キンモクセイも、舞が大好きな花で、添付写真はいずれも私が先日、舞のケータイに送信しておいたものに違いない。舞は、この花々につき、どう説明してカエデさんのケータイに送ったのだろうか。彼女のことだ。「家の近くで咲いていたので撮りました」とあっさりと、それだけのコメントだったに違いない。それでも舞がそのようにカエデさんにまで送ったということは、彼女自身がその写真に満足しているからにほかならない。
 私はうれしい気がした半面で、かといって舞がカエデさんに、そのマンジュシャゲとキンモクセイの花を送ったとなると、舞は既に私の心を見透かしている、とそんな気がしてならないのだった。

 「恋」という細胞因子は、どんなに若かろうが、年を重ねていようが、ある日あるとき、ふとしためぐり合わせから育まれ、いったん火がつくと、手がつけられないほどに増殖し膨張し、やがては破裂し、破壊と再生の道をたどっていく。半面で、互いに引かれ合いながらも、相手への思いやりが深いほどに、どうしても一線を超えられない。そういう恋も長い人生のなかで一度や二度はあっても悪くはない。
 あの日、明石海峡大橋を目の前に百合カエデさんのことを思い、「こちらへお越しの際には、ぜひ連絡してください」とあれほど言われていたのに、それでも自らの心のなかで反対の強い意志が働き、電話ひとつしないまま帰ってきたのが私である。
 こんな私は今、つくづく思う。あのときは、あれでよかったのか、と。
 それとも、この世で百合カエデに会うのが遅すぎたのか。
 いまや、私の全身が長い年月の間に舞という因子で埋め尽くされてしまっているのか。いやいや、そんなはずはないと自問自答し、私は木曽川河畔の寂れた町に、また一歩を踏み出した。まだまだ、これから。人生、何が待っているやら、知れたものでない。
 かえで(百合カエデさん)からは、今のところなんの便りもない。

 なぜか、舞が以前に詠んだという、♪月の夜は菜の花の海で魚になるーの一行詩が私にとってのかけがえのない子守唄のように感じられた。「月」は私そのものであり、「菜の花」は“かえで”さん、そして。もしかして、「魚」はたくましく病を克服しつつある海に泳ぐ「舞」だったかもしれない。

 百合カエデさん!  心からありがとう。
                               (完)