「赤い空 わかれ」 伊神権太

 これは、いろいろありはしたけれど。家族とともに、ある人生を歩んだひとりの女の物語である。

「あのねえ。あたし。今、とっても悲しくって寂しい。けれど。幸せだった。なぜかしら。だって。もう泣かない。あたし。こちら(彼岸)にきてから。新しい希望の光り、神さまの世にチャレンジしようと。そう思っているの。そちらで暮らしていた間、あなたや子どもたち、友だちと一緒に居られて楽しかった。充実していたよ。みなさん。ありがとうございました。ホントに、ほんとうにありがとう。愛は神。神は愛かもね。あなたのあたしから」(女)
「目には見えない。けれど、その大気。かぜ。音のなかに。時には涙の滴のなかにさえも、だ。おまえの心、魂はいつだって俺たちのなかで生きている。だから、俺。これから先、どこに連れられて行くかはわからないが、どこまでも一緒だ。」(男)


 ごろ。ごろ、ごろ。 ドン ピッシャ~ン。 ばり。バリ、バリ。バリィっ。雷鳴も稲光もゲリラ豪雨も強い風も。何もかもがおまえのせいに思えてくる。おまえは、まだまだ元気でいたのだ。よかった。ほんとうに。よかった。
    ☆    ☆

 心して我から捨てし恋なれど 堰きくる涙堪えかね/憂さを忘れん盃の 酒の味さえほろ苦く
 =鶴次郎(心して)、より

 目はかすみ、足はよれよれ。声もしゃがれ。一歩を踏み出す足元さえおぼつかない。腰は痛く。両の腕ともくずおれそうな男が首に使い慣れた、紅白のさまざまな猫のイラスト入り愛用のタオルを巻いて道をゆらゆら、よれよれと蜻蛉のように歩いてゆく。かつて女と何度も共に歩いてきた道を、だ。男は最近、妻を失った。
 青い空。その上に白い雲たちが、覆いかぶさるようにたなびいて浮かんでいる。一直線の飛行機雲が鮮やかだ。空と風、大気という大気は、おまえそのもの、すなわち妻のたつ江(伊神舞子)で、雲はおまえと人生を共に歩んできた世にも不思議な【三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(幕末の志士・高杉晋作)】を地で行き、人間世界のことなら何でも知っている俳句猫シロちゃん=俳号は「白」。舞が生前、こう名づけた=も含めた俺たち家族、それにおまえが何かとお世話になった多くの方々である。
 そして。そんな雲たちはきょうも風に流され、かすかに自らの強い意志で動いているようでもある。皆、どこか夢というか、それぞれの目的地に向かって歩いていこうとしている。そんな地上を眼下に天の川では天女になったおまえが、ほほ笑む。

 二〇二二年七月二十八日。
 令和四年の真夏。前夜から未明にかけ。とうとう男が愛するその女、舞が変身し空から何の前ぶれもなく、かつてのいとしい家族や仲間たちが住む人間社会を襲ってきた。地響きのような、雨粒の一つひとつがパラパラ、パラパラと張り裂けんばかりの音だ。そればかりか、時折、破裂するような大爆音を伴う光りという光りの夥しい乱射である。「こちらはK市です。K市です」とのマイク音が尾張名古屋の、この地方独特の風に乗ってかなたの市の警報を兼ねたマイクから風に乗ってこちらに聴こえてくる。「K市です。K市です。K市です」。緊迫感に満ち、半分震えているようなこの女の声は、地上のありとあらゆるものを爆音と光りの海でのみ込んでしまおうという、そんな自然のおそろしさを命がけで伝えようとしている。このままだと、木曽川が氾濫するかもしれない。真夜中。布団に身を横たえていた男は窓越しに遠慮会釈もなしにズカズカ入ってくる轟音と光りの洪水に身を震わせ、縮まらせた。なんという恐ろしいことなのだ。一方で、男は自然の脅威におびえる自分自身を感じていた。
 恐ろしさに身を横たえたまま男は思う。舞はやはり、どこまでも今も俺の心の中で確かに生き続けている。生きているのだ、と。その証拠に光りという光りが暗闇の中でたけり狂わんばかりにフラッシュバックしてくる様子がよく分かる。大地をたたきつける豪雨も混じり、もはや、怖さなどというものは通り越している。恐怖だ。自然社会には、こんなにも怖くて恐ろしいものがあるというのに、だ。人間どもはいまだにウクライナなどで戦争というおちゃめ尽くしをしているのだ。自然という破壊者たちはそうした人間たちの愚かさを知っていて、笑い続けているに違いない。おそろしさとか。そういったものは、とっくに超えている。
 どこからか、生前の舞が、台風が日本列島に接近するつど男に向かってよく口ずさんだ枯れた言葉「なんで人間という生きもの、科学者たちは台風を電気に変えることが出来ないの。台風をみな電気にしてしまえば。そうすれば、全てが解決し、一挙両得じゃないのよ」と。
そのつど、あの鈴を鳴らしたような甘い微かな声が耳に大きく迫るのだった。

 その日は深夜から未明にかけて。地球をカーテンの如く覆う海という海に、夥しい数の光りの砲撃がドーン、ゴロゴロゴロ、ピシャア~、バリバリバリという轟音とともに続いた。ただでさえ、有史以来の新型コロナウイルスによるコロナ禍が、爆発的拡大、すなわちパンデミックのさ中にあるというのに、だ。一体全体、ニンゲンたちが何をしでかしたというのだ。男には、それがわからない。でも、この稲光、大雨、雷、強風と何かが一緒に弾け飛ぶような爆音、猛烈な自然の数々は明らかに人間というニンゲン、三千世界を徹底的に懲らしめようとしている。そのことだけは、確かだ。

 男は窓という窓を光りで照らし、映し出す恐怖の閃光に怯えたまま思わず、よれよれとしながらも、二階寝室の寝床からなんとか立ち上がり、右手を出し、見えない女、光りに向かって口を開いた。
「さあ。行こう。いこうよ。いくのだ。手を出して! 舞」
 昨夜から、きょうの未明にかけ天も割れんばかりの夥しい雷鳴が「これでもか。これでもか」と何度も何度も轟き、そのつど我を競うような夥しいほどの閃光が闇夜を白く瞬間的に走って光るなか、男はそう声をかけながら、姿こそ見えないものの仁王立ちとなって立ちはだかる女の手を強く握りしめた。
 そして思わず、口からこぼれ出たのが「行こう。いこうよ。いくのだ。いつまでもここにいたのでは危ない。このままここ、この地上にいたのではダメだ。危険だ。ダメなのだから」という言葉だった。だが、そう促しはしたものの、ふたりはこの先、一体全体どこへ逃げたらよいのか。どこへ行け、というのだ。それが分からない。ただ男に言えることは、女を助け、出来ればふたりともこの窮地から逃れること。ただ、それだけだ。

 男は何としても妻を救いたい。そう思うと矢も楯もたまらず頭は混乱し、今は「たとえ舞ひとりだけでも、この世から、どこかに逃亡させなければ」と。そのことしか頭にはなかった。長年ともに歩んできた、かわいい相棒を助け出さなければならない。この轟音と豪雨、強風とともにピカ、ピカ、ピカッ。ドンドン。ピカリと幾筋もの光りの筋を放射してくる、荒れ狂うこの世の地獄。なんとしても地上から愛する彼女を助け出し、避難させなければ。というわけで、女への思いが強ければ強いほど男の脳の思考回路はズタズタに切り裂かれ、おかしくなっていくのだった。
 いったい、どうすればよいのだ。かわいい舞がひとつひとつ苦労し詠んだ俳句、短歌、そして1行詩の数々は一体全体どこへ流れ、消えていってしまうのか。このまま彼女の生きたあかし全てが水の泡と化してしまうのか。いやいや、そうはさせまい。かまわないから。さあ~、とにかく。歩こう。行くのだ。前に向かって。いこう。いくのだ。海に向かって。空に向かって、だ。逃げろよ、逃げろ。逃げるのだ 舞!

 男は、その夜。夢のなかでひとり、焦っていた。
 この世はこの先、どうなってしまうのか。人間たちの存在は、どこへゆくのだ。地球という天体、星が温暖化やら何かで、このままほんとに破壊され尽くし、そのあげくに消滅してしまうのか。いつ終わるとも知れない新型コロナウイルスによる爆発をさえ超えた感染急拡大。高齢者も若者世代、幼児、こどもたちも関係なく、際限のない感染者に増える一方の死者。医療の逼迫。増え続ける在宅療養。連日のように35度を超す炎熱地獄とこれに伴う熱中症の続出。パンク寸前と言っていい救急出動の危機。いやいや、既にパンクしているかも知れぬ。ほかにも大雨に台風、予期せぬ大地震と大津波の発生。火山の爆発。富士山が大爆発し、木曽川が氾濫し、伊勢湾が切れても決して不思議でない。さらには、あの独りよがりなロシア大統領・プーチンの戦争、すなわちロシアのウクライナへの軍事侵攻に伴うウクライナ危機、ウクライナ南部ザボロジエ原発への砲撃など容赦なき原発攻撃。広島、長崎いらいの浅はかな核戦争に対する不安と恐怖も増している……地獄とは、このことなのか。
 おまけに、だ。このところ地球規模で進む温暖化による悲劇、新型コロナウイルスによるコロナ禍は、もはや常態化してしまっており、今では世界中でマスク姿の人々が行き交い、かつての非日常が日常と化している。このままだと地球を取り巻く宇宙そのものの存在さえが危ぶまれる。当然ながら人間社会は変容してしまう。いや、既にかつての面影などないに等しくなってきた。ならば俺たち人間は一体全体どうすれば良いのだ。どこに行ったらよいのだ。


 女は生前、リサイクルショップを営む傍ら、俳句をつくり、詩や1行詩にもこだわり、短歌を歌い続けた。が、そんな女も昨年(2021年)の十月十五日未明、周囲の願いもむなしく子宮がんで黄泉の国に旅立った。壮絶な死であった。男と子どもたち、そして愛猫でこの世でただ一匹の、彼女命名の俳句猫・シロちゃんを残してである。女は【秋一日 絨毯と飛べ 我が部屋ごと】と詠んだ辞世の句を残し、この世を旅立ったが、さぞや無念であったに違いない。つらかっただろう。
 男は女を前に横笛で<さくら>や<平城(なら)山><青葉の笛>などをふいて演奏したり、自らの声で【どうした拍子か あなたという人 憎うて憎うて たまらないほど好きなのよ】とか【雪のだるまに 炭団の目鼻 融けて流るる墨衣】などと小唄や端唄の数々をよく冗談めかして唄って聞かせたものだが、その女、舞がだ。いとも簡単に。あれほどまでに、あっさりとこの世を去ってしまったとは。いまや、最愛の人がいないのに。生きていたところで何の意味があろう。女の死後、男はいつもそう思い、そのつど涙が満面にあふれ出るのである。あいにくにも男はまだ辛うじてこの世に未練があるのか。こうして生きている。女に消えられた男として随分と恥ずかしい気もする。

 ところで、死んでもいない男に死んだ女の気持ちは分からない、分かるはずもないだろう。いやいや。男の妻に限って言えば、男には舞の今の気持ちがわかるかもしれない。そんなことを繰り返し思いながら喪失感にあふれた男は、きょうも何かを求めて半ば放心状態で街をさまよい歩き、こうして生きていく。

 ある日。男は夢を見た。
――どこまでも続く一本の道。その道をかつて病んだ女は男から買い与えられた愛用の自転車のハンドルを手に、これをからだの支えに、ふらつきながら両足で一歩づつ前進し、自ら営むリサイクルショップ「ミヌエット」へ、と向かった。お店につくと女が店長さんと崇める、ひと抱えもある熊さん人形の縫いぐるみをヨイコラショと店先に出すのが彼女にとっての一日の始まりで、晩年はそんな日々の積み重ねだった。あれから、どれほどの月日がたったか。男が、かつてのお店「ミヌエット」と並んで走るいつもの道をハンドルを手に運転したりしていると、過ぎし日々の、あの妻、女の笑顔が大映しとなって眼前に浮かんでは消えるのだった。

「あたし、いいよ。だって。大丈夫。大丈夫だから」。何がよいのか。大丈夫なのか、が分からない。【だいじょうぶよ】は、女の口癖だった。そんな舞も時に私の耳に囁きかけるように「だ~め。だめなの」と甘えたような声で言うことがしばしばあった。亡くなる前、まだ病院の緩和病棟に入院する前、自宅一階ベッドで療養していたころには、だ。「二階(寝室)に来たら」との男の誘いに「だあ~め。だめ。体力がないの。あたし。そこまで行けないのよ」と言いつつ、手すりを使って二階に何度も必死の思いでこようとした。
 男はそんな女を前に、そのつど「ヨシッ、よく来た」と言いながらリンパ浮腫で腫れ上がった両足に包帯を巻く作業を毎日繰り返したのだった。だが、しかし。女はそのかいもなく永遠のかなたへと旅立ってしまったのである。「あたし。この世になんか何のみれんもないのだから」とでも言いたげに、だ。男にはふたりで過ごしてきた日々の苦しいことを女が全部自分ひとりで背負ってこの世を潔く去っていった。「それでは。あなた。元気で、ね。さようなら」と何の未練もない顔をして自分だけ大空に飛び立って逝ってしまったような。そんな気がしてならない。


 女がこの世を去ったのは、昨年の秋、令和三年十月十五日の未明だった。夜が明けると、空はどこまでも晴れわたり、彼女自身が以前に詠み、新聞の俳壇にも掲載された【秋空に 未来永劫と 書いてみし】の俳句そのものの澄みきった世界が大空高くどこまでも広がり、朝の陽がさわやかな弧を描いていた。病床のベッドを終の棲家に苦闘の日々を過ごしたあげくの逝去でもあった。

 あの旅立ちの日から九カ月。この世にはいろんなことが次から次とまるで速射砲のように起きた。
南太平洋の島・トンガの大噴火と大地震に伴う砂礫の日本の海岸への到達に始まり、コロナ禍に新たに加わったオミクロン株の派生型「BA・5」などの出現、作家瀬戸内寂聴さんの死、最近では、あのバイオリニスト佐藤陽子さん、ファッションデザイナーの三宅一生さん、世界的服飾デザイナーで尾張一宮との縁も深かった森英恵さんも亡くなった。舞が生きていれば満七十歳になったはずのことし二月にはロシアはプーチン大統領によるウクライナへの一方的な軍事侵攻が始まり、かつてふたりで足を運んだ能登半島突端珠洲での度重なる群発地震にも似た地震、北海道では知床遊覧船の沈没事故が起き、ここ東海地区では思ってもいなかった明治用水の漏水事故が起きた。そして。いったんは治まるかに思えたコロナ禍の第六波に続く第七波・パンデミックとも言っていい爆発的まん延と死者の多発、参院選の街頭演説中に起きた安倍晋三元首相の銃撃殺害死、KDDI(au)が7月上旬に起こした過去最大、九十時間以上に及ぶ通信障害を起こした大規模障害、これでもかと相次ぐ線状降水帯による大雨、土砂崩れ。河川の氾濫…と留まるところをしらない。
 それだけではない。まだある。イギリスでは記録的な猛暑となり、熱波の影響による火災などが続出。ロンドンのカーン市長は通常は1日350件ほどのロンドン消防当局への通報が2600件と普段の約7倍となり「第二次大戦以来、最も忙しい日だった」との認識まで示した。熱波はイギリスに限らず米国も襲い、自らもコロナに二度感染したバイデン大統領は「これは非常事態だ。米国内で1億人が高温警報の下で生活をしている」との危機感を示した。事実、米国立気象局によると、7月19日から南部を中心に最高気温が40度を超す日が続き、森林火災や干ばつの危険が高まり、バイデン氏は「ことしに入って全米の90カ所で観測史上の最高気温が更新され、この危機は日々の生活のあらゆる面に影響している」とも強調したという。
 ほかに世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態に相当する」と宣言した動物由来のウイルス感染症「サル痘」。その「サル痘」の日本国内での感染……と様々な出来事が次から次へと、めまぐるしく起き人間の不幸は留まるところをしらない。

 そして。男は、この世の中にこうした新しいことが起きるたびごとに、あの世に旅立った彼女、舞はこれら彼女の死後に起きた災害の数々や事件を何ひとつ知らないのだな、とつくづく思う。男の口からはどうしたわけか。このときに至って ♩どうした拍子か あなたという人 憎うて憎うてたまらないほど 好きなのよ、とか。♩ゆきの達磨に 炭団の目鼻 とけて流るる墨衣、といった小唄を口ずさむ自分をあらためて感じるのである。これは、かつて男と女が一宮で暮らしていたころ、男が仕事の合間に足を運んだ三味線の女師匠から教えてもらった最も短い小唄で、何かのたびごとにフワリと口をついて出るのである。まさか、最愛の女が世を去ったあとに、この唄が男の口から流れ出た、だなんて。つゆほど思いはしなかった。のに、だ。
 あのころ、女師匠は既に八十歳近かったが、男のことをかわいい弟子として<縁かいな>やらを、アレヤコレヤと教えてくれた。男はそうした楽しい思い出の一方でこれら地上の事件の全てが女が死んだせいで起きたに違いない、とそんな錯覚にまでかられ、今では自分のいるこの世が一体全体どんなものであるか、が分からない、のである。
 男は、そんなことを思いつつ、半分まどろみながらも「いやいや、このところの事件の全てを女のせいにしてはいけない。そんなはずはない。これから先もこの地球と人間社会があるかぎり、思いがけないことが連続して相次いで起きるだろう。いや、起きるにちがいない。だから「妻が生きてくれてさえいたのなら、こんな悲惨な数々の災害や事件など起きるはずもなかったのだ」と思うことは間違いなのだ、と。そう自らに言い聞かせ、自重の鐘を鳴らすのだった。

 その日も、男は女に去られた喪失感を胸に車を運転していた。いつもなら日曜日の買い出しなどで決まって助手席に黙って座っていた妻は既にこの世の人ではない。男はハンドルを手にいつものようにスマホから流れ出るユーチューブで舞が好きだった【エーデルワイス】と【みかんの花咲く丘】に耳を傾ける。外は焼けつくような暑さだ。男はいつものように駐車場に車を止める。と、ドアを開けると蝉しぐれが束となってワッと耳に飛び込んできた。ミンミンミン、みぃーん、みいーん。弾けそうな強烈な蝉しぐれがまるで洪水にでもなったように耳に襲いかかってきたのである。と同時に男はこの泣き声、蝉しぐれという時雨、大合唱を今は亡き妻に思う存分聴かせたい、聴かせてやりたいと思うのであった。

 舞の口の中で鈴をリンリンと転がしたような声が、かぜの流れ、波の中から微かな波動とともに聴こえてくる。
「あのねえ。一緒になり、まもなく。志摩通信部にいた時は正直、毎日が真剣勝負だった。何よりも電話が鳴るたびに事件発生か、とドキリとした。それと大切な読者からの電話をどうあなたに知らせたらよいのか。あなたの原稿を近鉄鵜方駅からバック便で伊勢に送ったり、緊急時に電話で吹き込んでくるあなたからの原稿をメモして伊勢支局や三重テレビにふきこんだり。慣れるまで大変だった。 
 夏の暑いさなかにあなたが原稿を執筆中、あたしはビキニ姿になって暗室に入り、写真現像、焼き付けしたことも再三。出来上がったら、写真電送機で本社に送る、など毎日が戦場だった。思えば、電話一本があたしとあなたの命綱だったよね。今みたいに携帯電話など夢のまた夢だったのだから。
 そして。夜は夜であなたが夜勤で伊勢に出向いているなか、例会で集まった写真協会の皆さんの接待でもテンヤワンヤだったわ。だけど、そのおかげで写協の多くの皆さんに、よくして頂いた。あるときなど安乗の漁師さんからデッカイ伊勢えび五、六匹が『これ食べてよ』とドンと、持ち込まれたりして。休みの日にあなたとたびたび訪れた海女さんの火場では、海女さんからじきじきに、てこねの作り方なども教えられ、うれしかった。タンカー沈没に伴う大量の油の漂着で海女漁がしばらくストップした時はホントにあたしまで悲しかった。あなた、真珠王・御木本幸吉さんの最後の番人で知られた志摩町和具の松田音吉さんご夫妻、それから阿児町教委の出口武生・綾乃さんご夫妻、中日写協の人々にも随分とおせわになったわよね。けれど、あのころ。あたしたち、とても充実してた」
「そういえば、あたし。ドラゴンズが優勝したとき、ナゴヤドームでブランコさんに会えてうれしかった。あなたと一緒になってまもないころ。そう、志摩にいた頃もドラは優勝して強かったけれど。落合博満さんが監督だったころのドラは滅法強かった。落合嫌いが多くいた中で反対に落合信者さんも信じられないほどたくさんいたよね。あたしも負けないで毎日、応援していたのだから。ドラといえば、あたしが社会人として就職まもない、エージェンシーにいたころ、ナゴヤ球場のナイターにもよく駆り出された。やっぱりドラとは縁があったのだよね。ナイター、懐かしかった」
「まだあるわ。七尾の【海の詩(うた)】作品公募では七尾青年会議所スタッフはじめ、<みかんの花咲く丘>など数々の作詞で知られた加藤省吾さん、【能登の夢】の作詞者森繁久彌さん、和倉の小田さだひこさん、金波の大井昭平さんらにも【3尺玉】などの件で、そのつどお世話になった。ミス和倉温泉の木谷清美さんにはあなたの出版記念会で司会までして頂け、感謝してるわ。ほかに着物着つけの山原先生……。いまはどうしておいでかしら。苦難に陥るつど、女傑販売店主のテルさん(笹谷輝子さん)と息子の憲彦さんが何かと救いの手を差し伸べてくださった。ママさんソフトボールで早朝のあいさつなどで何かとお世話になった仏壇屋の南さん、支局近くのわくうら印刷さんにも助けでいただいた。いつもあの人にもこの方にも助けられ、随分とおせわになりどおしだったよね。もちろん、歴代の支局のみなさんには感謝のしようもないわよ」

「話は変わるけど。あたし。あなたの車の助手席に座り、いつも思うことがあった。毎日、通りすがりにすれ違う方々は、その瞬間こそが最初にして最後なのだナ、って。だから、あたしとあなた。こどもたちの存在は何にも代えがたい、と。もちろん、お店を訪れてくださるお客さま。そして日ごろお世話になっている全ての人が宝物に見えてしまって。ありがたいなっ、て。そう思っていた。だから。あなたも含め、お世話なった方々はぜ~んぶ、あたしにとっては奇跡の人。だから、あなた。これからも何の因果か、運命的に出会った奇跡の人お一人ひとりを大切にしてよね」
「それから。あなた、あたしがこの世を去る前に、よく言っていたじゃないの。この世は【無】だ。【無】【無】なのだ、と。偉そうに言っていたけれど。ほんと、よ。本当だと思う。俺とおまえは永遠だから。どこまでも、いつまでも一緒なのだから。ナっ、て。あたし嬉しかったよ」
「振り返れば、いろいろあったよね。一宮にいた時、それまでの駆け落ち記者妻の罪を償おうと30年ぶりに、私のおかあさんと会ったとき、涙がとめどなく溢れ、それこそ30分ほど抱き合ったままだった。家を捨て、あなたに走ったあたしのことを、あなたのご両親は〝たつ江さん〟〝たつ江さん〟とわが子同然に、最初から最後まで温かく見守り気遣ってくださった。二人そろって、やさしかった。よくしていただき、心の底から感謝しています。でもね。あたしの、おかあさん、は。辛かっただろうね」

「ほかにわが子のこととなったら、それこそ数え知れない。小牧では長男にバイオリンを習わせたこと。ある日、当時出現まもなかったコンビニ・サークルKに夢中だった二男が階段を転げ落ちてしまい、救急車で病院に運ばれた時は、ほんとにヒヤリとした。能登では三男が大病と突然の大やけどに二度も襲われ、それこそ振り返れば涙、涙の洪水。連続。
 あっ、そうそう。わが子を連れ、あなたと一緒に北アルプスの上高地から明神を経て、涸沢まで行ったわよね。真珠の海・英虞湾、能登半島の輪島、門前の鳴き砂の浜、能登島ガラス美術館、水族館にも行った。いまから思えば、事件や事故、災害もそこそこありはしたけれど。それなりに平和な時代でした。おそらく、この世に住む全ての人々が同じような艱難辛苦に耐え忍んで、懸命に生きてきた。いや、いまも生きているのだよね。
 それから。あたし。あなたや子どもたちの【翼】になれていたかしら。そのつもりでは生きていたのだけれど。何はともあれ、コロナ、早く収束するように。いつも祈っています」

 女のひとりごとはなおも、よどみなく、川の流れの如くどこまでも続く。話しても、話しても、まだ足りない。いつ途切れるともしれず男は過去を振り返りながら相棒の奇跡の声に耳を傾けていた。
 ここで男はあらためて、ふたりの来し道を振り返ってみる。今から思えば、女は行く先々で見る夕焼け空が大好きだった。志摩の海に能登の岬、カイツブリが舞う琵琶湖。はるか、かなたの水平線。そして湖面から見る夕焼けは、表現のしようもないほどの美しさだった。そればかりでない。男とふたりで一緒に草引きをしたあとに、自分たちの畑「エデンの東」から遠くに望み見る地平線。そのうえに赤い陽を包み込んで広がる夕映え。真っ赤に染まったその姿は、とても美しく、舞はそのつど「わあ~、きれい。きれいよ。ステキだわ」と言って男の手を自らの手で握りしめてきたことは数え知れない。そして。いつの日だったか。「あの空のなか、どうなっているのだろうね。いっぺん行ってみたい」と話しかけてきた日がついきのうのようだ。その声が今となっては忘れられない。
 そういえば、男が高校三年生のとき、青春映画【高校三年生】のロケ地にもなったわが母校の時計台上方に夕方のぞむ空もまた真っ赤に染まって、とても美しかった。♩赤い夕日が校舎をそめて ニレの木陰に弾む声 ああ高校三年生 ぼくら離れ離れになろうとも クラス仲間はいつまでも……。この歌を若いころ、舞に何度、歌って聞かせたことか。

 こんどは男が何やら独り言を話し始めた。
「ホントに、いろいろあったよな。でも、おまえが俺の傍にずっと居てくれたおかげで俺たち家族の今がある。志摩では真珠の海・英虞湾を見下ろす横山の鄙びた温泉をふたりでよく訪れた。<学園広場>や<仲間たち><絶唱><哀愁の夜>など。舟木一夫の青春歌謡を来る日も来る日も歌って聞かせた。おまえは真剣な表情でまるで映画のヒロインのような顔をして聞いてくれていた。そればかりか、レット・イット・ビーやヘイ・ジュード、カム・トゥゲザーなどビートルズのカセットを流しながら熊野灘沿岸や英虞湾に面した道路を車でぶっ飛ばしたことも数え知れない。
 忘れもしない。岐阜県庁汚職事件と長良川決壊豪雨。名古屋では愛知医大を巡るキャッスルホテルを舞台とした3億円強奪事件の犯人である戦災孤児のドングリ少年、コンドウタダオを追って駅周辺のラーメン店をしらみつぶしに探し回ったあげく、とうとう新幹線ガード下の居酒屋での対面にまでこぎつけた。担当デカや検事宅を夜討ちするなど毎日のように夜明けの帰宅が続いた。日航ジャンボが御巣鷹山の尾根に墜落した時には連日、取材ヘリやジェット機に乗り空からのルポや航空評論家との同席取材に追われ、その間、おまえは出産で入院中だった。こんな、おまえ泣かせの話しは、もうきりがない。それでも、おまえはイヤな顔ひとつせず俺の帰りを毎日、辛抱強く待っていてくれた。ありがたかった。感謝している。
 そればかりでない。新聞社を卒業した時は三カ月半に及ぶ地球一周のピースボートに乗船する機会をそれまで自分でためていた貯金をはたいてまでして準備し作ってくれた。俺は言われた通りオーシャンドリーム号の船内生活で社交ダンスのレッスンを始め、これがきっかけとなり、ダンスのレッスンは今も続けている。それと。数年前、がんセンターで俺が右肺の摘出手術を受けた時には、寒い朝なのに。毎日、遠いところを名古屋まで通ってくれ、おかげで無事完治。退院後もおまえは決まって毎朝、俺の弁当をつくってから、ミヌエットに向かった。本当においしかった。
 ほかにまだまだ思い出は尽きない。元気なころには、ふたりで早朝に俺たちの畑<エデンの東>を訪れ、茄子やタマネギ、時にはスイカも育てた。おまえはチューリップやヒマワリを育てるのが好きで、よく挑戦。立派に育つつど、ふたりで拍手した。柿畑でたわわになった柿を俺が収穫し、ミヌエット店頭に並べただ同然にお客さんにふるまうおまえの姿は何にも増して神々しかった。お店ではほかに、皆さんの応援協力で月に一度のミニコンサートもしばらく実現させた。大変な努力は、俺がみ~んな知っている。ミヌエットでは週に一度の朝市まで開き、皆さんに喜ばれたよな。まだまだきりがない。ありがとう。おまえには礼のしようがない。もうこれ以上話すのは、よしておこう。でも、感謝している。心の底から」


 ここで女の歩んだ道にふれておこう。

昭和47年(1972年)
 この年の2月~3月にかけ群馬、長野両県にまたがる連合赤軍リンチ殺人・あさま山荘事件が起きた。ふだんはヘルメットにオートバイ姿。新聞社の松本支局のサツ回りとして駆け出しだった男は、あの時ばかりは雪山を駆けるジープを運転して長野支局に長期出張。連日、逮捕され、鬼の形相で長野中央署にしょっぴかれてきた男とは同世代だった連合赤軍の若き男女兵士たちの取材に追われた。
 そして、この年の11月、「あたし。あなたがいい。あなたが好きなの。だから。これから行くから。志摩に」と転任まもない男の元に駆け込んだ(女は、沖縄が日本に返還されたその年に両方の家が猛反対するなか、当時、阿児町鵜方=志摩市=にあった新聞社の志摩通信部にいる男の元に駆け込んだ。森進一の【襟裳岬】が流行り、山崎豊子の小説【華麗なる一族】がヒットしていたころの話である)。
 いろいろ、いきさつはあったが、とにもかくにも女にとっては破れかぶれと言ってもいい男との人生がここから始まる。女は、勤め始めてまだまもない広告会社(当時の社名は中日エイジェンシー)を潔く辞めて男の元に走った。当時流行っていたツイッギーのミニスカートが似合う白い八重歯がキラリ光る、またまだ幼さが残り、両の目がどこまでも澄んでいて長い髪は腰にまで達していた。男には「あのねえ~ あたし」とカラコロと、甘えたような鈴を転がすような声が印象的で頭に残っている。

昭和51年(1976年)
 男と女は志摩から岐阜にやってきた。7月27日。東京地検が田中角栄前首相を収賄容疑で逮捕。9月12日。長良川が安八町で決壊。10月15日には岐阜県警と岐阜地検が岐阜県の日中友好の翼訪中団が大阪国際空港を飛び立つ直前、平野三郎岐阜県知事に同行するはずだった知事の懐刀で県参事和田達男を収賄容疑で逮捕。岐阜県警に任意出頭をかけられた和田が大阪国際ホテルから急きょ、新幹線岐阜羽島駅に戻ってきたところを大阪国際ホテルから尾行してきた男とカメラマンが、和田を新幹線のプラットホームでキャッチして独占インタビューに至ったスクープ(大阪国際ホテルから岐阜までの追跡行は、その日の夕刊社会面トップに羽島駅での写真入りで大々的に報道された)が世間をアッと驚かせ、騒然とさせた。これを端緒に岐阜県庁汚職の実態が暴かれたのである。

昭和56年~60年(1981年~1985年)
 男は〝空飛ぶ記者〟として栃尾ダム崩落をはじめ長崎大水害、中部日本海地震、王滝地震、三宅島噴火、大韓航空機の007便がソ連戦闘機からのミサイル発射で撃墜され乗員・乗客269人が宗谷岬沖の北の海オホーツクに散った大韓航空機撃墜、日福大のスキーバス転落事故、三重県嬉野豪雨、赤いフェアレディーZに乗った女宮崎知子による富山・長野連続女性誘拐殺人、さらには日航ジャンボの御巣鷹山墜落など数多くの事件現場に急行し、出発のつど女は、ラジオで吸収した事件に関して知る範囲内のメモを夫である男に手渡し取材が少しでもしやすいように、と出来る範囲内ではあるものの懸命に夫を助けた。そればかりか、取材で夫が不在の間、通信局を訪れる来訪者への応対はむろん、留守を預かりつつ、読者から届けられた「みんなのスポーツ」欄への成績を書き続けるなどした。幼い子らを抱え、それこそすさまじい日々が過ぎていったのである。

昭和61年~平成5年(1986年~1993年)
 男は女と能登七尾へ。横綱を引退してまもない輪島大士が出身地のふるさと・七尾総合市立体育館でプロレスのデビュー戦を実現させた。平成3年には七尾に市民が待ち望んだフィッシャーマンズワーフ・能登食祭市場が誕生し、開場式があった。平成5年2月7日夜には能登半島沖地震が発生。男は雪道を半島突端の珠洲へ。現地キャップとして約1週間にわたって取材の指揮を取る。同年3月22日、七尾マリンシティー推進協議会が過去7年に及ぶ地域づくりへの貢献が認められ、港の町づくりで平成4年度の国土庁長官賞に輝いた。七尾在任中は、男の提唱で新聞社と地元七尾青年会議所共催による海の詩(うた)大賞公募事業が実現、港の町づくりキャンペーンもフィッシャーマンズワーフの誕生となって花開いた。女は国内外から寄せられた何万通もの応募作の一部の下読みや整理に駆り出されることもしばしばだった。
 この間、1989年1月には男が初の小説【泣かんとこ 風記者ごん!(能登印刷)】を出版。ベストセラーになり、経済界の要請もあって名古屋で記念講演会をする場面も。地元七尾青年会議所提唱による男の出版記念会では席上、女は新聞社の北陸本社代表から異例と言っても良い【内助の功賞】まで渡されたのである。

平成6年~令和3年(1994年~2021年)
 男は、その後も地方記者として大垣、大津、尾張一宮を経て本社へ。編集局の特報・サンデー版のデスク長としての記者生活を過ごし、300文字小説欄を設けるなどした。そして。この間、男の本社への異動を境に女は地方記者の妻としての呪縛から、やっと解き放たれ、俳句・一行詩・短歌づくりにそれまで以上に打ち込んだ。一方で、好きなフォークダンスや社交ダンスのレッスンに励むなどもした。特にフォークダンスとなると、世界中のダンスを仲間の女性たちと楽しく踊りこなし、郡上踊りにも親しんだ。2001年になり、ふるさとの江南市に本人の夢でもあったボランティアのリサイクルショップ「ミヌエット」を開業。以降は、ボランティア奉仕を兼ねて細々と続け、千羽鶴を手に男とともに広島の平和記念式典に参列するなどした。
 2021年秋、20周年を迎えると同時に命の扉を自ら閉めるようにその人生を静かにとじた。享年六十九歳。金婚式を目前にしての旅立ちだった。
    ※    ※

 というわけで、いろいろあったが、ここで女から男への最後の別れのことばを記し、この物語を終えたい。女のことばは、こうだった。
【赤い風車のムーラン・ルージュでもないけれど。あなたの私から私のあなたへ。あなた。げんきでいますか。長い間、ありがとう。あなたと歩んできたこの道。楽しかった。うれしかった。とてもスリルがあったよ。志摩のあなたのもとに飛び込んだ日のことは忘れません。森進一さんの<襟裳岬>がはやっていたよね。あなたは【高校三年生】や【絶唱】など舟木一夫さんの歌を何度も何度もあたしの耳元で唄ってくれた。まるでメロドラマの主人公みたいに。【ある愛の詩(うた)】や【ゴッドファーザアー】も一緒に、よく聞いた。
 次に訪れた岐阜の長良川決壊豪雨のときには、段ボール箱に4、5杯分の家族の衣類ぜんぶを私が何日もかかって乾かして穂積町のトモさん(当時、全国最多選の女性町長だった松野友さん)のところにお役にたてば、と持っていったよね。トモさん、喜んでくれて。あのころは淡墨桜の保存のことで大変だったけれど。宇野千代さんにも随分良くして頂いたよね。あたし、ほんとにうれしかった。楽しかったよ。
 それから。新聞社の格納庫(航空部)のある小牧にいたころ、あなたが空飛ぶ記者だったころには大事件や大災害が発生するつど、現場に取材ヘリやジェット機で派遣され、あなたを送りだすのにホントに大変だった。和倉の三尺玉で知られる能登では末っ子が煮えたぎったヤカンにはしゃいで突進しおおやけどを負う一方で高校生だった長男が石川国体のボートに出場、新聞に載ったわよね。
まだ、あるわ。大垣では可児の花フェスタオープンに併せ、支局長だったあなた自身がアムステルダムの花市場まで飛んで、花フェスタ会場を訪れた人々にカーネーションとアルストロメリア一本づつをプレゼントする【オランダ花物語】という大事業までやってのけた。おかげで花フェスタ実行委員会から感謝状まで届き、感激しちゃった。平野学園の生徒さんがボランティア奉仕してくださり、順ちゃん(平野学園代表)の応援協力があればこそ、だったよね。俳句集「ひとりあやとり」を出版した時には、貞さん(林貞子さん)たちが盛大な出版記念会まで開いてくれ、とてもうれしかった。

 そして。あなたの地方記者生活では初の単身赴任となった大津へは月に一度は必ず行って比叡山延暦寺や三井寺、石山寺、長浜の竹生島、近江商人の五個荘町などあちこち一緒に見て回った。後年、あたしがボランティアで始めたリサイクルショップ<ミヌエット>では七夕祭などで、あなたは決まってハモニカで「みかんの花咲く丘」や「ふるさと」などを演奏してくれ、どんなに嬉しかったことか。ほんとは横笛をもっと多く聴きたかったけれど。それでも、家では時々、思い出したようにふいてくれてありがとう。
 それから。東日本大震災直後には何の因果か。あたし、重度の脳腫瘍に冒されてしまい。江南厚生病院で脳の大切開を体験、手術は奇跡と言ってもよい成功に恵まれ、おかげで<ミヌエット>を続けることが出来ました。脳の手術は、確か、それより以前の一宮にいたころ、脳内出血で倒れ地元の病院に運ばれ、しばらく入院したあとだった。ほかに、能登と大垣で一緒に過ごした愛猫てまりはじめ、大垣猫のこすも・ここ、初代シロら先代の猫ちゃんとも楽しい毎日でした。長男の嫁の祖父母で、今は亡き三鬼陽之介さん・たかさんご夫妻にも随分とお世話になり、感謝してます。
 夫の関係では能登の女傑販売店主テルさん(笹谷輝子さん)はじめ、詩人の最匠展子さん、龍生さん(長谷川龍生さん)、七尾の老舗旅館「さたみや」さま、あたしが作ったてこね寿司を「うまい」「うまい」と食べて下さった納棺夫日記の新門さん(青木新門さん)。ほかに小牧の勝野さん(元小牧市善意銀行理事長、同社会福祉協議会長)も今では皆さん、亡くなってしまい。あなたも寂しいでしょうね。
 最後に。あたしをいつも助けてくださった治子さまはじめ、能登七尾の短歌雑誌「澪」の山崎国枝子さん、江南俳句同好会のみなさま、「草樹」の方々、ほかに【恋の犬山】など数々の作曲で知られ今や琴伝流大正琴・弦洲会大師範(倉知弦洲会主)としても大きくなられた牧すすむさま・かよこさまご夫妻、いつも助けて頂いた人間社の大幡正義さまご夫妻、それから一緒になってまもなくわざわざ志摩まで励ましにきてくれたショウジさん、あの時は嬉しかったよ。ほかに、学生時代からあなたを何かと助けてくださったユズルさん、マサルさん、クリちゃん。小牧で知り合い【ミヌエット】の看板までこしらえてくださった永遠の演劇青年タツヒコ、尾張一宮は小太郎さんの女将さんたち……
 そして。江南の作家園子先生、永遠の歌のお姉さん・としこさん、あなたと私が小説と短歌でお世話になった三宅雅子さま、あなたを何かと助けて下さった「文芸きなり」の石川好子さまにも心から感謝の気持ち。伝えてくださいね。ほかにも数多くの方々に助けられ、ありがとうございました。

 それはそうと、みんな。あたしの分まで元気でいてよね。生きて抜いてください。バローや平和堂、ピアゴ、お店近くのドラッグストアにもよく連れていってくれた。能登七尾の三尺玉花火とニッポンイチのデカ山、祭り半島能登ならでは、の石崎奉灯祭、あばれ祭り、くじり祭り。ほかに、あなたの発想で七尾青年会議所の努力もあって実現した「海の詩(うた)」の国内外への公募事業、全国の詩人が能登に集結し実現した<のとじまパフォーマンス>、みんな楽しかったわ。
 社交ダンスの方、健康保持のためにも、これからも続けるのよ。若原さんは、あたしも以前に教えて頂いた先生で若さんの教えに従えば心配ないのだから。あの方は、どこまでも情熱的な女性よ。いいよね、ダンス、しっかりと続けてください。それから。これは内緒、内緒の話だけれど。あなた。ずいぶんと浮気もあったわよね。あたし、ぜ~んぶ知っています。でも、許すわ。
 こんどは女性たちの努力を。女の旅路として書いてみたら。それでは、ね。あなたのあたしから、あたしの愛するあなたへ

 ―終わりに―
 あたし、フランク永井さんの【公園の手品師】と一緒にあなたの心の中でいつでも生きています。だから。あなたが歌うつど私が嫌いよ、と言っていた【星影のワルツ】。そして【能登の海鳥】。もう歌ってもいいから。音楽の泉と山カフェ、深夜便。いつも一緒に聴いたよね。楽しかった。
 それから、シロちゃん。さようなら。どんな時にでもおかあさん思いで、いつもあたしのことを大切にしてくれたニィー二たちによろしくね。元気で楽しく生きていこう。
 みなさま。ありがとうございました。
 グッバイ。さようなら

曼殊沙華 人恋うごとに 朱(あけ)深し
れもんかみつつ思う事平和
赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり
月の夜は菜の花の海で魚になる
もぎたてのさくらんぼ口に放りこむ瞬(しゅん)新しい命もらえり
               =伊神 舞子

花一輪残りて咲ける朝顔に露しきりなり君の逝きたり
打寄せて七尾の日程ひろげたりかたえの闇にももうひとり置く
=山崎国枝子(短歌雑誌「澪」代表)
                            (完)

    ※    ※
 女は昭和27年2月29日に、この世に生を受けた。10代後半に信州は松本で男を知り、はたちのころ、新聞記者だった男を追って転任地の三重県志摩半島の鵜方に。一度流産したあと、49年2月、長男に恵まれ以降、岐阜、名古屋、小牧、七尾、大垣、大津、一宮…と各地を転々。夫がサンデー版と特報面の担当デスク長として名古屋本社に落ち着き、地方記者夫人の呪縛からやっと解放されたころ、ふるさとの江南市で社会奉仕への願いを込め、ボランティア同然のリサイクルショップ【ミヌエット】を開業した。
 2021年秋。この年の7月13日に満20周年記念の七夕祭を終え、しばらくして命の火が尽きた。新聞記者の妻として人生の大半を過ごし、後年は伊神舞子のペンネームで俳句と1行詩、短歌、時には詩作にも挑んだ。男が退職してからは作家の妻としても宮沢賢治の文章表現術・オノマトペの有効活用について助言するなど文章上のアドバイスをして何かと夫を助け続けた。生涯を通じてなぜか、フランク永井に井上陽水、エルビス・プレスリーを、映画「マイ・フェア・レディ」と「第三の男」を好んだ。
 その純情かれんでひたむきな女の人生は夫・伊神権太の著作【泣かんとこ 風記者ごん!(能登印刷)】はじめ、【火焔―空と海(能登印刷)】【一宮銀ながし(風涛社)】【町の扉―一匹(いっぴき)記者 現場を生きる(わくうら印刷)】、記者短編小説集【懺悔の滴(人間社)】などに詳しいので、これ以上は割愛したい。