随筆「音もなく忍び寄る」(竹花外記=文芸同人誌「くうかん」メンバー)

  一年前、七十五歳の夫にささやかな異変が起きたことを知った。音もなくやってきた。この一年、異変は少しずつ大きくなってきた。
 朝食後、掃除、洗濯をすませて居間に入ると、夫はソファーにもたれて居眠っていた。口を半開きにして、鼾さえかいている。精神の抜けた夫の顔に胸を突かれた。
 物忘れもひどくなった。
「おれの財布知らんか」
 先日も同じ質問をした。結局、居間の座布団の下にあった。こんなことをするのは夫以外にいない。
「知りません。又、しまい忘れたのと違うの」
「又、とはなんだ。バカにするな」
 いやに怒りっぽい。

 怒ると言えば、テレビを見ながらの独り言が異常に多くなった。絶え間なく怒る。キャスターに対する苛立ちと不信、ニュースについての怒り、阪神の選手についての不満などである。
「被災者は王様か。お涙頂戴が多すぎる」
 食事をこぼしながら、怒鳴る。
「こぼさずに静かに食べたらどうです」
 本来は行儀作法にうるさい夫に、私は皮肉たっぷりのジャブを出す。
 昼食にざる蕎麦をだした。夫は口いっぱい蕎麦をほおばった。その途端、蕎麦がつるりと口から飛び出した。咽せたわけでもなさそうだ。一瞬、口の筋肉が弛緩したように見えた。少しずつ筋肉が緩んできている。下の筋肉も、いずれ緩むのだろう。この頃は傘立てにステッキが一本増えた。
 何度か夫に医者でしらべて貰うように言ったが、私の言うことを素直に聞く夫ではない。音もなく忍び寄ってくるので、異変という実感がないらしい。かえって怖い。
 昨日、夫は一人で長浜にいる息子を車で訪ねた。息子から電話が入った。夫は湖岸道路を走っていて居眠ってしまい、左側の生垣にぶつかったという。幸い身体は無事だが、左のサイドミラーとタイヤを潰したそうだ。
「お父さんの運転免許返納した方がいいよ。人身事故を起こしたら、大変だ」
 息子も夫の異常に気づいたようだ。たしかに、最近の夫の運転はスピードの出し過ぎる上に注意散漫だ。
 私たち夫婦は好きで好きでたまらなくて結婚したわけではない。その上、夫の仕事上、結婚生活の半分以上は別居生活であった。ただ、夫は私の百科事典であり、いつも夫を頼りにはしていた。私には母の時代のように貞淑な良き妻という道徳観がない。
 老後、心を込めて夫の下の世話までできるだろうか。

 頑固でプライドの高すぎる夫に言い負かされ、悔し紛れに私は「よいよいになったら蹴飛ばしてやる」と、何度呟いたことか。まもなくその時がくるのかもしれない。
 夕食に好物の茶碗蒸しを出し、夫の顔色を見ながら、口を切った。
「あなたの運転免許の更新はいつだっけ」
「今年の十二月……返納するよ」
 夫は苦笑いをしている。夫の顔がゆがんでいる。今まで見た事もないような気弱な、ご機嫌をとるような笑い顔だ。
 突然思いがけず、私は夫がいとおしくなった。「あなたには威張った顔が似合うわ」と声に出して伝えたい。
 やさしく、心を込めてできるかどうかは、まだ自信がないが、この分なら、夫の下の世話もできるかもしれない。                (了)