短編小説「赤い腹」

 製品管理棟の階段を下りながら、香田裕也はこの先どうするかを考えていた。望みを持っていた新製品開発グループのメンバー選考から外れ、早や、ひと月になる。おそらく来年の定期昇給も雀の涙だろ う。同期入社との差はまた開いてしまう。かといって巻き返しのできる条件を積み上げるには、ちょっと厳しい職場の雰囲気がある。 縦横の連携があって、初めて成果が伴う中での駒として動けなければ、役足らずにされて当然か。自業自得といえばそうかもしれない。これはあがいても、もがいてもどうにもならないのかと思うと、まるで仕事に身が入らず、このままずるずるといってしまいそうな気がする。ちょっとまずいぞと、つぶやきながら定時に帰る裕也の足取りは重い。
 工場門を通って左に行けば独身寮があり、右に行けば居酒屋『三春』。日の長い夕刻はまだ明るい。裕也は薄汚れたグレーの作業服に両手を突っ込み、迷うことなく右に足を向けた。車の途切れない国道の歩道を工場の塀に伝って歩く。向かう先は塀の角から離れて真っ直ぐの小路を右に曲がったところだ。
「いらっしゃーい」
 暖簾の早いこの店はサキちゃんと慕われている、ふっくらとした頬のママがいる。サザエさんのようなパーマをかけていて、いつだって愛想がいい。こうやって黙っていてもビールの栓を景気よく抜いて酌をしてくれる。グラスを差し出すと細かい泡が測ったように盛り上がる。裕也はその盛り上がりに上唇を入れて、ぐいぐいっと飲み干し、アゴを上げて太いため息をつく。
「どうしたんだべ、今日は荒れでるな」
 時々、東北訛りを出すサキちゃんは、カウンターに叩きつけるようにグラスを置く裕也を心配そうに見つめる。
「もう会社をやめたくなったよ」
 今日は本音が半分以上入っていた。
「またそんなことを言ってるのか裕ちゃん、この前もわたしが言ったべ、こんな大きな会社に入った以上は定年まで勤めた方が得だって。やめてほかの会社に移ったって、勤めることにゃ変わりねえからまた同じことの繰り返しだっぺ」
 サキちゃんの言うことは分かるが、もうなんにも望めないこの先の一本道を、ただ一人で歩かされるのは御免こうむりたいのだ。
「サキちゃんはいいよな。自分の店で酔っぱらいの相手を適当にしていれば生活できるんだから、何とでも言えるわなあ」
 裕也は実際にそう思っていた。
「裕ちゃんはそう言うけどさ、そんなに甘い仕事はどこに行ったってありゃせんぞ。あんたはここに帳ヅケが山ほどあるんだし、悪いことは言わん、我慢と辛抱で今の仕事を続けるべし」
 説教など聞きたくもない裕也は膨れっ面になる。
「よーし、じゃあ溜っている帳ヅケと、今日の飲み代をチャラにしてくれたらサキちゃんの言う通りにするぜ」
 サキちゃんは開いた口がふさがらない。
「裕ちゃんよ、ちょっとここらへんで頭を冷やしたほうがいいべ」 
 強く言うと、
「そうだなあ、いっぺんな、山にでもこもって三四日過ごしてみれ。会社のいやなことはすっかり忘れてしまうに。辞める辞めないはそれからにするべし」
 ぴしゃりと言って口を閉じた。
 三人づれの客が入ってきて裕也は、
「またくる、今日もツケといて」
 と、顔も見ずに席を立った。
 向かいのマージャン荘で気を晴らそうと覗くが、見覚えのある中年男がひとりいるだけで、まだジャン卓は囲まれていなかった。すぐ集まるからと主人は勧めるが、見知らぬメンバーとやるつもりはないのでそのまま足を引く。
 マージャンもこの所まったくついていない。給料が入ったばかりでも沈みが重なると、あれよという間に財布が空になる。生活費にことかくようになると手っ取り早いサラ金に頼っていたが、知ったサキちゃんにひどく叱られて、それから賭けごとはほどほどにしている。なに最後になれば、またサキちゃんに頼む手があるのだ。
 いつしか陽射しが消えかけていた。見上げると悪い雲がえらい勢いで流れてきている。雨がくる前に寮に入らなければと裕也は足を速めた。だが大粒の雨は狙い定めていたかのように叩きつけてくる。「くそったれ、どいつもこいつもが」と、裕也はつぶやくと、雨の中でひとり肩をいからせた。
 寮に帰ると共同風呂へかけこむ。足をのばして五六人は入れる浴槽の縁に、うしろ頭を載せて目をつむると、湯けむりの中にサキちゃんのふっくらした白い顔が浮かんでくる。山ごもりだってかよ。武芸者や修行僧でもあるまいに、このおれみたいなノータリン社員になにを修業せよっていうんだよ。冗談じゃないぜとぼやくと同時に、ふと四五年ほど前のことを思い出した。同期入社の沢口のことだ。あいつは確か成人式のあった年の今頃、突然会社を辞めていった。その年の前に一度だけ沢口の実家のある田舎に誘われて山深い沢で釣りをしたことがある。経験したことのない世界は適度の緊張と、なんともいえない空気の甘さに、抱きこまれるような心地があった。あいつがいなくなってそんな遊びを一人でする気にもなれず、すっかり頭の隅からも消え去っていた。ああいう所で三四日を過ごすのも山ごもりといえるのだろうか。だとすれば…。
 翌日も残業するメンバーの開発室を横目にして、階段を下りると裕也は工場門から右に向かった。
 黒暖簾を分けて引き戸に手をかける。
「おや、今日も早いのね」
 サキちゃんは怪訝そうに見る。
「はい、お疲れさん。ごきげんは直ったの」
 酌をしてくれるいつもの柔らかな言葉と、小首を傾げる仕草に裕也はほっとする。
「あのさ」
 他の客が入ってくる前に聞いてもらいたかった。
「昨日の話だけど山ごもりってさ、沢で釣りをするのもそのうちに入るのかな」
 サキちゃんは手を休めて答えた。
「それもいいけど、それだけだと楽しむほうが先になっちゃうべ。何かこう自分を考えるために自然の中で時間をゆっくりと過ごすだべな」
 そんなことを言われても裕也はピンとこない。
「もっとさ簡単に説明して。釣りとかはダメ?」
「ダメとは言わないけど、たとえば魚を釣ったらばその魚はいつ、どこで卵からかえってそれくらいの大きさになったのかとか、針にかかって痛くないのかとか、捕まえた自分の姿が見えているのかとかさ、人間相手から離れて物事を考えることもいいべさ」
 サキちゃんが真顔で話すことは、分かったような気もするが、いまいち腑に落ちない。
「とにかく我慢、三日四日辛抱してゆっくり考えることだべ」
 これ以上聞いても仕方がないように思い、黙って飲み続けた。
 客が二人入ってきた。裕也はサキちゃんに目で合図を送ると、わずかになっている財布の中身を出すことなく席を立った。
 週が明けて微妙な気持ちで仕事に取り組む。どうするべきかをあれこれ思うだけで少しも考えがまとまらない。
 水曜日。食堂での昼食を済ませると、裕也は噴水を取り巻く花壇の外側にあるベンチに腰をおろした。人けのない山ん中で物事を考えろか。考えるといえば会社のことしか今は頭にない。わざわざ山深い所へ行って、自然界の何かとかかわって物事を考えれば、それで会社の仕事に意欲が湧くってか。このわけの分からない山ごもりを、サキちゃんはなぜか勧める。
 裕也は頭を抱えた。現実を考えたときに、会社での行きつく先はすでに決まっているといい。だから新しい道を探して進むべきかと悩んでいるのに、わけの分からないことを言う。やはりすっぱりと会社を辞めるべきか、それともサキちゃんが言うように、その前に人間社会から何日か離れて、その何かを考えてみてからでも遅くはないのか…。
「親の具合が悪いと昨日、連絡がありましたので二三日休ませてもらいたいのですが」
 午後の仕事が始まると、裕也は黒ぶち眼鏡をかけたメタボ課長の机の前に立っていた。
「なんでそんな大事なことを始業前に言わないのだ。早く帰れ。君はたしか鳥取の出だったな。今からでもかまわん、仕事のことはいいから、二三日といわずに一週間でも十日でも休め。遠慮はいらんぞ」
 仕事は誰でも間に合うルーチンワークだから、いつでもどうぞという言い方に聞こえる。ぶっきらぼうな返事に裕也は、わかりました、では帰らせていただきますと、頭を軽く下げて踵を返した。
 今から帰れと言われて裕也は面喰った。さあどうしたものかと階段を下りながら頭をめぐらす。もちろん親の具合など嘘っぱちで、鳥取に帰るつもりなど毛頭ない。山、山、山だ。どこの山へ行くことにしよう。あてもなく電車には乗れない。いやそれより最低、二三日は山にこもらなければならない。テントみたいなものを持たなければ野宿になってしまう。そうだ食糧、水、火力もいる。地図は持った方がいいに決まっている。さあどこへ行こう。決めなければ準備は進められない。頭の中が目まぐるしく回転する。回転が戻ってくるたびに浮かぶのは、あの沢口と遊んだ山の中だ。あそこならばそんなに遠くもないし、実家へ帰省するときに利用する電車を、途中で北陸方面へ乗り換えれば思い出すことができそうだ。気持ちが強まると裕也は五時少し前に独身寮を出て『三春』に向かった。
「おれさ、いっぺん言うとおりにしてみるよ」
 裕也が冷蔵庫の中をのぞいているサキちゃんに言うと何やら答えたが、はっきり聞き取れない。
「おれさ、山に行ってみるよ」
 グラスを差し出しながらサキちゃんを、しっかりとした目で見た。
「へええ、あ、そう。それでいつからなのよ」
 裕也の目の色をさぐる。
「明日からだよ明日」
 裕也は腰を浮かせた。
「そんなに物事って急に決められるのかい。簡単に明日からって言うけど、一体どこへ行くのよ」
 言葉を続けさせまいと裕也は、
「それでさ、これから急いで準備したいんだけど、先立つものがないからちょっと頼みたいんだ」
 サキちゃんの顔が瞬く間にくもった。
「裕ちゃんさ、今どれくらいツケがたまっているのかわかっているのかい」
 厳しい言葉に裕也は目をつむって手を合わせた。
「今度のボーナスで全部払うからさ、お願い」
 裕也の給料は飲む打つだけで、買うまでにお金が回らないのが現状だ。
「裕ちゃんさ、冬のボーナスの時も同じことを言ってたんだべ」
 それでも自分が勧めたことだからしょうがないかと、茶封筒にいくらかを入れて渡した。裕也は中をのぞくと顔をほころばせてポケットにしまいこみ、また手を合わせて尻を上げた。
「気をつけて行くんだよ」
 サキちゃんの心配をよそに、裕也は軽い足取りでバス停に向かった。 
 国道にかかる陸橋を渡って名古屋駅行きのバスを待つ。
 周辺地域にある企業の帰り客がまだ多く、空いている席はない。カーブにかかると身体が大きく振られて裕也は思わず踏みこたえる。      
 駅前はネオンが早、輝き始めて夜の帳を待っている。乗降客やショッピングなどの通行人と肩が触れ合いそうになりながら、たまに観にくる映画館の方角に向かう。覚えている登山用品の店は、その映画館のすぐ先にあるはずだ。
 明るい店内に入ると驚くほどの広さだ。まずはテントだと裕也は足を進める。だが思ったよりも荷物になりそうな気がして、考えたあげくツエルトにする。それが納まりそうな赤いリュック、次は経験のないたき火は敬遠してガスコンロ。あとは何だと店内を見て歩き、乾燥米が目に入る。レジで精算して荷物を抱え、デパ地下でレトルト食品を仕入れる。最後は書店で地方の地図を選んで引き上げる。
 独身寮に戻って風呂に入ると何を期待しているのか、自分でも分からないほど気分が高揚してくる。
 なかなか寝付けない。こんなに気持ちが高ぶって眠りにつこうとするのは覚えがない。あれこれ考えても思い通りにいくわけがない。裕也は寝返りをうちながら、まずは電車の乗換えや、バスの乗り継ぎを間ちがえないようにすることが肝心だと言い聞かせる。
 目覚ましの音で飛び起きると、裕也はカーテンを引き空模様を見る。青空がのぞいている。急いで洗面をすませ、朝食のメロンパンをコーヒー牛乳で流し込む。昨夜準備した物を確認して身支度にかかる。忘れ物はないかと辺りを見回して、新品の赤いリュックを背負う。あまり被ったことのない野球帽を頭に載せて部屋を出る。平日で激しい渋滞の国道を陸橋で渡りバスを待つ。まだ通勤で利用する人たちが列を作る中で、一人異様な格好で並ぶのは気が引けるというよりも恥ずかしい。裕也は目線を下ろしてくちびるを結んだ。
 乗客が減ることなく名古屋駅前に着くと、電車の時間までにはまだ余裕があった。切符売場へ息苦しくなるほどの人ごみにまぎれて流れる。
 東海道線の下り快速列車に乗り込むと、乗客はまだまだ多い。裕也は席につけることなく、人いきれの中で立ち続けた。
 濃尾平野を流れるとうとうたる大河の光るさまを眺めると、あの流れる水が細くなる渓谷の奥まったところには、人間の考えを変える何かがあるというサキちゃんの真剣な顔が浮かぶ。方向はちがえどこれからその何かを求めて今電車に乗っている。走行音を耳にしながら裕也は目をつむった。
 まもなく終点の大垣に着き、乗り換える電車を待つ。始発になる電車に乗り、次の米原で今度は北陸線に乗り換え、目指す駅へは昼を過ぎた頃に着くことになるだろう。裕也にとって修学旅行以来の、ましてや一人で乗り換えもありでは、うまく目的地にたどりつけるのか気が気でない。
 予定通りに覚えのある駅に着き、改札を抜けると裕也は辺りを見回した。未知の土地ではなく、四五年ほど前に一度足を踏み入れている所だ。しかし今度は一人だ。バスの発着所で見ると、次に出るのは三十分ほどあとになる。昼食をとるのをすっかり忘れていた裕也は、ベンチに腰を下ろして朝食と同じものをリュックから取り出し頬張る。それをものの数分で食べ終えると、駅前広場を歩く人々の姿をただ眺め続けた。
 バスの出発はきっかりだった。片道一車線の国道を北へと向かって走る。乗客は十人にみたない。水田と畑の続く一本道には、枝ぶりの短い街路樹が両側に植え込まれていて、殺風景さを感じさせない。どこまでも真っ直ぐの道に、初めて信号が見えるとバスはそこを右に折れる。風景が一変してこんもりとした木々の色濃い里山の間をくねりながら、なだらかな上り道を進む。坂を下りて視界がゆるやかに開けると、右に忽然と川が現れる。川相は思いのほか穏やかだ。
 裕也はたしかこの辺だったと、車窓から川向うの集落に目をやるが、沢口の実家はあやふやで、分からぬままに視界から遠ざかる。バスはかかる橋を二つ渡ってしばらくすると、思いもよらぬ狭い脇道にそれ、わずかな坂を上りつめて停止した。終点に着いたのだった。年老いた乗客ばかりの最後からゆっくりと降りる。とうとうきてしまったと、裕也はまるでちがう空気を肌で感じて武者震いをした。
 山の際を切り崩した終点の広場に裕也は腰を下ろした。リュックのポケットから地図を抜いて地面に広げる。陽はまだ高い。裕也はここから下りて、本流筋に沿っている林道を可能な限り歩くことにする。
 轍のある土くれ道を川に沿って黙々と歩く。晩春の色濃い緑が左の山斜面から覆いかぶさってくる。道はさほどの勾配を感じさせないのに、右の薮間から覗く川はいつのまにか眼下にあって、にわかに不安が募ってくる。裕也は立ち止まり辺りを見回した。午後の陽ざしはまだ川向うの緑の群落を、輝くばかりに照らしている。風はそよともせず小鳥の鳴き声も聞こえない。裕也は冷たい空気を胸に深く吸うと、不安を払しょくするように吐きだした。山道は川に沿ってどこまであるのだろうか。曲がりくねって見え隠れしている道を見つめて、裕也は足を速めた。
 もう一時間以上は歩いている。腕時計を見ると三時を過ぎている。いくら日の長い季節でも山の日暮は早いはずだ。あと一時間までだ。そこでとどまろう。そう考えると裕也は足を止めて地図をリュックのポケットから抜いて開いてみる。距離を推測すると道路のとだえる所まではとてもじゃない。ならばと裕也はこの先に青線で示されている支流に目を留めた。ここまでは何とか歩いて、それからは日暮を見ながら泊まる場所を探そう。決めると裕也は目もくれずに歩き続けた。
 山襞が開けていて、わずかばかりの平地にでた。灌木が生い茂り、濃い緑の草むらには白や黄色の花が咲き乱れ、傾き始めた陽の光を浴びている。裕也は思わず立ち止まって見とれてしまう。
 平地を通り抜けると、そろそろ支流が流れ込んできてもいいはずだがと、対岸に目をやっていると山陰から川面に短かな一筋の白い帯が見える。裕也は目を凝らしながら足を進めると、思ったよりも太い流れが川辺の緑を押し込んで合流してきている。そして、その支流に渡れとばかりに橋がかかっているではないか。これはと近よってみると、朽ちかけて色を失っている橋は見た目よりも頑丈そうで、ゆすってみようと足をかけるがびくともしない。裕也は惑いながらも対岸まで渡ってみる。前を見ると踏み跡と思われる黒い地肌が見え隠れしている。裕也はひかれるように歩み始めた。もうここにしかない。辺りを慎重に見やりながら足を進める。と、目に入ったのは川が二分されている光景だった。分流地点までくると、右は段差が小滝を作って流れ落ちていて、左は剥き出た岩を縫うように流れ下ってきている。裕也は左へと向かった。木陰からのぞく空には日暮色の雲が動いていた。
 奇妙な地形に気が付いた。そこだけが台形状に盛り上がっていて、草木の根付きがまばらなのだ。この場所を見逃す手はない。ここで夜を過ごそう。裕也は助走をつけて目の位置ほどの高さを一気に上がった。何ということか勢い余ってつんのめると、そのまますり鉢状の窪みへ転げてしまった。とっさに身体を丸めて難を逃れたが、胸あたりまである穴には、頭大の岩が何個かむき出している。ひざ丈ほどの雑草がある窪みに、横になれそうな範囲をさぐり出して場所づくりにかかる。思ったよりも手間がかかって早、薄暗さが漂っている。急いで食事にかかろうと裕也はガスコンロに火をつける。たちまち勢いのある炎があがり、その噴きだし音がなんとも頼もしかった。お湯が沸くまでウイスキーの水割りを飲んでいると、サキちゃんの怒り顔が浮かんでくる。これはかかせない生活習慣だから仕方がないねえ、とつぶやく。カップめんを食べ終えると急激に夜がやってくる。心細さに胸が強く締め付けられる。これに耐えることが修業の第一歩なのかと、裕也はサキちゃんの言ったことが身にしみてきた。ツエルトの中ですることもなく、横になったところで眠れるわけでもない。寒さは予想してセーターを一枚持ってきていたが想像以上だ。目がさえまくりじっとしているのが辛い。腹ばいになって外を覗くと見たことのない闇だ。得体の知れない何かがひしひしと迫りくるようで、目をかっと開いて耳を澄まさずにはいられない。草薮を縫って聞こえてくるのは、小波を打って流れる他人行儀の水音だけだ。それさえもおどろおどろしくなり、裕也はあとずさって入口を閉じると胡坐をかいた。しかし水音の気味悪さが耳から離れなくなった。低く高くと混じり合って呪文でも唱えているように聞こえ始めた。ざうざうと忍び込んできて、とろとろと心が巻き込まれていく。
 裕也は頭を抱えて横たわり、耳をふさいだ。それでも呪分は耳をこじあけて入ってくる。思わず裕也はわめいて身体を起こし、腹の底から呻り声を発して呪文を押し戻した。何度も何度も繰り返した。やがて喉がかれてくると裕也はリュックを引き寄せ、横になって強く抱きしめた。帽子を耳にかぶせると荒い呼吸音が耳穴からなだれ込む。呪文はしだいに退いていく。裕也はポケット瓶をさぐった。口をつけて喉を鳴らす。空になった瓶を放りだすと、腹の中がお湯でも沸いたように熱くなる。頬が火照ってくると裕也はごろりと横になって瞼を押さえ込んだ。
 寒いーいつのまにかまどろんでいた裕也は、目が覚めると同時に身震いをした。たまらずガスコンロに火をつける。歯の根が合わぬほどの冷えようだ。覗くと空は白んでいる。唸りを上げる炎に手をかざしていると、寒さが和らぎ気持ちが落ち着いてくる。昨夜はいつ眠ってしまったのだろうか。思い返したくもない夜だった。熱いコーヒーをすすりながらスナック菓子を夢中でほお張る。谷間から見上げる薄明るい空に雲らしきものはない。こうやって時間をやり過ごしていると、朝の光がどんどん明るくなっていく。
 ツエルトに入って仰向けになり、これからどうしようかと裕也は考える。釣りでもすれば時間の経つのも忘れるのだろうが、細い糸や小さな針がわずらわしくて準備しなかった。今考えるとリュックのポケットにでも挿してくればよかったのだ。そしてサキちゃんの言うとおりに釣り上げた魚を観察して、帰ったら人間と比べてどこがどうちがうのかを少しは話せるだろう。いや、こうも言っていた。ゆっくりと時間を過ごして自分を考える、だ。釣りは出来ないけれどゆっくりと時間は過ごせそうだ。そうして自分を考える。え?何を考えるのだ。自分は自分以外の何者でもない。そういえば会社の仕事に意欲を持てるような、何かを見つけろということだった。ここでゆっくりと、ただ時間を過ごしているだけでは、そんな重要なものは見つかりっこない。ならばここからずっと先を歩いてみようと、裕也はまぶしいほどの光を、沢向こうの密集した緑に見て川筋に下りた。あれほど恐ろしくてたまらなかった水音が、なれなれしく話しかけてくるように聞こえるのはどうしてだ。
 踏み跡をたどって歩いた。鳥のさえずりが冷たい空気を震わせて聞こえてくる。野鳥の種類など判るはずもなく、分かったところでどうなるものか。しかし澱んでいる気持の中に、鋭く深く突き刺ってくる。だがそれも続くと麻痺してしまって、なんの意味も持てなくなる。沢向こうの雑木山に目をやって濃淡のある緑を眺めたり、落ち込む流れの小淵に目を凝らしたり、気の向くままに足をまかせる。こうしてゆっくりと時を過ごしてはみるが、自分を変える何かとなるとまるで覚つかない。どこまであるのかこの踏み跡は、誰がつけたのかこの踏み跡はと、頭の中はただそれだけが巡っているにすぎない。
 陽が高くなって緩やかな上りの踏み跡が平坦になり、段差のあった川の流れが穏やかになる。つりあうように川筋が広くなって、小高い針葉樹と低木落葉樹が、折り合いをつけて陽光を取り込んでいる。日陰の踏み跡は湿り気を帯び、ぬかるんだ黒土には水たまりがあちこちで光っている。裕也はそれを避けるように左によって歩き進むと、ひとっ飛びでは越せないような水たまりに行き当たった。深いところで足首くらいのものかと見ていると、黒い何かがうごめいている。それはよく見ると水際周りで、何がどれほどうごめいているのか数えられない。濁り水に目を凝らしていると、おたまじゃくしの群れかと思いきや、ヘビのような頭にはっきりとした短い手足がついているではないか。これはトカゲだ。水の中にトカゲがいる。裕也は一匹の完全な姿を目にして確信した。これだけの数を目の当たりにすると、さすがに気味がわるい。
 裕也は目をそらすと水たまりを回り込んで通った。そして数歩を踏んで地面で目にしたものにギクリとした。鮮やかな赤色の腹をみせたトカゲが、手足を開いて伸びている。ぴくりともしないのは死んでいるということだ。これは、このトカゲはもしかして、今の水たまりで生きていた奴ではないか。だとすれば、なぜこんな近いところで腹を見せているのだろう。裕也はかがみこむと初めて見る毒々しい赤色の腹をじっと見つめた。それとは裏腹にかわいげな手足を四方に伸ばしているありさまが、なぜか心に留まって裕也は、うしろの水たまりを眺めては、また死骸を見つめることを続けていた。
 何かが右目の隅に映った。動いている。首が鋭く反応して裕也は立ちあがった。獣!まだ十分距離はある。だがそれは前かがみで、一歩一歩を大義そうに歩く小柄な人であった。右手で杖をついて向かってくる。裕也は慌てた。どうするべきか迷った。驚かしてはならない。咄嗟にしゃがみこんで何気なさを装い、仰向けのトカゲに目線を預けた。まもなく気配を感じると同時に地を踏む足音が止まった。裕也がおもむろに顔を上げると、腰を伸ばして立ち止まっている姿が目に入った。裕也は軽く会釈をすると、しゃがんだままで近づいてくるのを待った。  
 古手拭いで頬かぶりをした老女であった。
「おお、びっくりしたなあ、兄さんこんな所で何をしている」
 老女はいかにも驚いたように腰をそらせて目を丸くした。
「はい、トカゲを見ていたんです」
 裕也は死骸を指さした。
「トカゲ?それはイモリだ。知らないのかい、腹が赤いだろう」
「イモリ」
 初めて聞く言葉だった。
 トカゲではないイモリ。それは水の中にいるトカゲの種類なのだろうか。
「そんなものを見ていてどうする」
 老女はいぶかしそうに裕也を見下ろした。
「いや、ただ何でこんな所で仰向けになって死んでいるのかと思って…」
 すぐそばの水たまりにいたはずのイモリが、目と鼻の先で死んでいるのが裕也には理解できなかった。
「死んだものがそこにあるだけさ。生きているものは動いているし、死んだものは動かん。何が不思議ぞよ」
 老女は簡単に片づけた。
「それより兄さんはどこからきた。この辺のものではないな」
 あらためて見直すと言った。
「はい、名古屋から」
 隠す必要はなにもなかった。
「ほう、名古屋か。そんな遠いところからわざわざなにをしにきた」
 その方が不思議だといわんばかりだ。
「山ごもりです」
 老女は聞きちがいかと思ったらしく、
「え、何だって」
 と、耳に手をかざして聞き返した。
「や・ま・ご・も・りです」
 ひと晩を過ごした裕也は臆することなく答えた。
「へええ、こんなところでか。まだ若いのにご苦労様なこった」
 杖を両手に持ち直すと、老女はまじまじと裕也を見つめた。
「それじゃあ気をつけてな」
 背に余る竹籠を背負った老女は、身体を小さく左右に振りながら歩きだした。
 そのとき突然、裕也の底腹から声が湧き上がった。
「おばあさん、ついて行ってもいいですか」
 自分でも驚くほどに軽くでた。
 不意な呼びかけに老女は、振り向いて少し考えるような構えを見せた。
「手伝ってくれるならいいぞ」
 とまどっていた老女は条件をつけた。
 裕也はなんであれ修業のひとつにはなるだろうと、数歩離れてあとを歩いた。籠を背負っている老女の足取りは確かだった。狭い沢、深い森林を黙々と歩く。勾配が早くなって歩幅を狭める。急に水音が大きくなり滝が現れた。
「さあ、これを越えればもうすぐだ」
 老女は杖をかざすとそう言った。
 これはと、裕也は見上げた。かなりの急登を小枝や草付きに手をかけて上り詰めると目の前が開ける。樹木が薄くなりさらに進むと、沢を形づくっている左右のなだらかな斜面に風景は変わった。樹木の影もない。老女はようやく振り向いた。
「さあ、きたぞ。わしの言うとおりに動いてくれよ」
 眼差しを裕也に向けると突然、空に向かって甲高い叫び声をあげた。
「熊の奴に知らせておかないとな」
 老女はにこりとして左斜面へとりかかった。
 それは裕也がびっくりするほどの身ごなしだった。
「時間がないから早くやるぞ」
 裕也が懸命にあとについて行くと、待っていた老女は背負い籠を下ろして、切りそろえたビニールひもを足元に置き、
「良く見るんだ。兄さんよ、これをこのへんから折って一握りに余った所で束ねて結ぶんだ。わかったな」
 と、真剣な眼差しで要領を教える。初めてのことに裕也の気持は引き締まった。
 草いきれの中でどれほど夢中になっていただろうか、甲高く、今度は呼ぶ声が聞こえた。腰が痛み始めていた裕也は、伸びあがって声の方を見ると手招きをしている。束ねた山菜を抱え、重い足取りで老女のもとへ行く。
「飯を食って少し休むぞ」
 この言葉にはじめて裕也は、昼のことが頭から抜けていたことに気が付いた。
 しょうがないなあと老女は、「ほれ」と拳大のおにぎりをひとつくれた。
「おにぎりの分はしっかりと働いてもらうからな」
 言葉には当然だという響きがあった。
 裕也は食べ終えると再び草を分けて探し始めた。これ以上の修行はちょっときついなと思っていると大きな呼び声がした。ほっとして束を寄せ集めて行くと、老女のそれは考えられない量であった。「さあこれを担いでもらおうかな」
 老女がよくもこれを担いで行けるものだと思っていた裕也はがっくりとした。
 まだ陽は高いが、これからこの荷を背にして下らなければならない。
 滝のわきを下るのには難儀をした。上るときの姿勢になって下りなければならず、足元が不安でかなりの危険を感じる。なんとか無事で下りると、また老女の背を見ながら歩く。そろそろ盛り上がった場所が見えてもいいはずだがと、裕也は視線を飛ばす。
「兄さんは今日帰るのか」
 振り向かずに老女は聞いた。
 これからのことを聞かれて裕也の心に葛藤が起きた。昨日の夜を思い出すとすぐに答えられない。我慢、辛抱とサキちゃんは言うが、それだけではあの恐怖には耐えられない。昨夜は酒で逃がれたが、今日の酒をも飲んでしまっている。考えただけで身震いがする。我慢、我慢、辛抱、辛抱……できない、できない!
「はい、もう三日になったので帰るつもりです」
 すんなりと出てしまった。
「ほう、三日でやめるのか。それでもご苦労なことだ。ところでどの辺でこもった」
 老女は気がつかなかったようだ。
「この先の盛り上がった場所の窪みです」
 明らかに裕也の声ははずんでいた。
「ああ、焼き窯のあとか。いい所に目をつけたなあ。気がつかないはずだ。そういえば何かの匂いがしたのはその辺だったかもしれん」
 老女は足を止めると顔を上げた。
 肩に食い込む背負い籠に疲労困ぱいの裕也は、盛り上がった場所が目に入ると踏みこむ足に力が入った。
 背の籠を下ろして座りこむと、老女も同じように座り込む。
「待っててやるから荷物を片づけな」
 すぐにでも帰ると思ったらしく、座ったままで裕也の汗ばんだ横顔に言った。裕也は帰ると言った以上従うしかないと、盛り上がりに足をかける。ツエルトと残った食糧をリュックに入れると、やはり何かうしろめたい。それでも曲りなりにも修行みたいなものを済ませたのだから、うしろ髪を引かれる覚えはない。裕也は強く自分に言い聞かせると、リュックに腕を通して盛り上がりを下りた。
「おお、早いな。荷物はそれだけか」
 そう言うと老女は、そのリュックを裕也の背から下ろさせて抱えてみる。すると、これはおれが担いで行くから兄さんは荷籠を担いで行ってくれと、勝手にリュックを担いでしまう。
 木漏れ日を受けながら、ころころと柔らかい旋律を奏でる複雑な流れを横目にまた歩き始める。まもなく水量の豊富な本流と出合い、橋を渡る。陽の当たらない山際を並んで歩く。荷がきつい裕也は時々背中を反らしては肩の力を抜く。
「どこまで歩くんですか」
 黙って歩くことに耐えられなくなって、裕也は口を開いた。
「どこって、そりゃあ家までと決まっとるよ」
 当たり前の返事が返ってくるのに、裕也はそう言うしかなかった。
「兄さん、三日も山にこもっていたと言うたけど本当か」
「どうしてですか」
「身なりと顔つきを見ればだいたい分かる」
 老女に嘘は通用しなかった。
「すみません、昨日初めて泊まってみたのですが怖くて眠れず、これからどうしようかと山道を歩いていたら、あのような場所でトカゲ、じゃなくてイモリの赤い腹が目に入って考え込んでいたんです。そこに…」
 裕也はありのまま話すと胸のつかえが取れて、目の前が少し明るくなったような気がした。
「ほうそうか、そういうことか。昔はこの辺も炭焼きがさかんで、山に何日も何日も泊まらなならなかったが、生きていくには、それはまあ仕方がなかった」
 老女は真っ直ぐ前を見ながらとつとつと語った。
「そんな時代がとっくに過ぎてから、兄さんみたいに一人で山にこもろうというのはおれには分からん。しかも山に登ったことさえないというのにな」
 老女は続けた。
「そりゃあ、この辺でも関西の方から何人かが釣りにきて泊まっていくことはあるが、三日も四日も山の中にいるっていうのは、見たことも聞いたこともないな」
 理由は分かってもらえなくてよかったし、話すつもりもなかった。自分がくじけたことを知ってもらえれば、それはそれでいいと裕也は思った。
 やがて緩い下りになった先には、昨日足を止めて美しさに見とれた花の群れが見える。
「あそこがいちばん休まるな」
 老女は表情を緩めると一人つぶやいた。
 だが裕也の見る目は一変していた。闇夜の水音におびえたこと、赤い腹を見せている死骸を目の当たりにしたこと。老女との出会い。それらが漠然としか見ていなかった自然の美しさ、厳しさを、根深く見るようになっていた。あの花たちは本当に群れて咲きたいのだろうか。足や翼のない花たちはそこで枯れても、また花びらを開けられると信じているのだろうか。周りの下草は本当にその場で甘んじているのだろうか。裕也は、けなげな花たちを想った。ここにだってあの闇夜はあるのだ。
 陽も傾き華やかな平地が陰り始めている。老女は先になって歩き始めた。決して足を早めず、自分のリズムを刻みながら地べたをとらえている。裕也はうしろについて、荷の重さと折り合いながら続いて行く。川向こうの雑木山にも濃い影が次第に広がっていく。
「兄さん今日、家に泊まっていかないか」
 突然、老女は振り向きもせずにそう言った。
 裕也は耳を疑った。
「え、何か言いましたか」
「もう遅いから家に泊まっていけってこと。疲れてるだろう」
 返事はできなかった。今日、偶然に出会って山菜を一緒になって採り、満杯の籠を背負い、言葉を交わしているうちに今日帰ることになって、ここまで歩いてきただけの、言ってみれば通りすがりの者と言っていい。知り合いとはいえない村人の家がどこにあって、そこにはどんな人が何人いるのか、皆目見当もつかないのに、いきなり泊まれと言われても、「はい」とは言えない。裕也は返事をせぬまま老女のあとを歩き続けた。背の籠に重しが加わったようで辛い。
「家はおれ一人だから遠慮はいらんぞ」
 老女のひと言で重しがはずれた。
「え、一人なんですか」
「ああ、もうずーっと一人だ」
 裕也の気持はいっぺんに和らいだ。
 山中で恐怖の一泊はしたものの、得るものはほとんど無かったに等しい。サキちゃんに合わせる顔もなく、どう言い訳をしようかと考えている中での思いがけない誘いに、気持ちが大きく傾いた。
「本当にいいんですか」
「ああ、何日でも遠慮することはないぞ」
 こんな経験は勿論初めてだ。そして何よりも、すぐ目の前に山がある田舎だ。
「それではせっかくですからお世話になります」
 裕也はうしろで足を揃えると頭を下げた。そして歩いているうちに、老女に対して親しみがじんわりとわき上がってきた。
 バスの発着所から数十メートルほど下った、十数軒の集落に老女の住まいはあった。裏筋に入った二軒目の茅葺の家で歴史の重さを感じさせる。裕也は分厚い屋根を見上げて佇んだ。色あせて木目の浮き出た引き戸を両手で開けると、灯りのない土間がひんやりとする。険しい表情を緩ませた老女に言われて、背負い籠を土間の奥に下ろす。やれやれと老女は腰を伸ばすが、疲れた様子はさほど見せない。裕也は二人で道中を過ごしてきた緊張が、ここへきていっぺんにほぐれ、疲れがどっと押し寄せてきた。
 まあ上がれという言葉に、裕也は居間に足を踏み入れると正座した。老女は黒光りする座卓に茶道具を載せると、楽にせよと胡坐を勧める。言葉に甘えて足を崩し、熱いお茶をごちそうになる。
「飯にはちょっと早いから、兄さん少し酒でも飲むか」
 まさかの言葉に裕也は、
「少しならいただきます」
 と、ためらうことなく返事をした。
「酒は酒でもこれじゃがな」
 駄菓子屋にあるような、ねじり蓋の太いガラス容器を持って座卓に載せた。思わず前のめりになって容器を見ると、半透明の茶色い液体の中に大きなドングリみたいなものが底で分厚く沈んでいる。不審そうに眺めていると、これはマタタビ酒というものだと意味ありげに笑う。マタタビとはいつか耳にしたことはあるが、目にしたのは初めてだ。裕也は容器の中を興味深く見る。琥珀色の液体をスプーンですくい取ると、老女はコップに半分ほど移してやかんの水で薄めた。
「これは昔からのもので疲れた時に飲むといいと、どこの家でもつくっているものだぞ」
 老女は言いながら裕也に勧めると、自分のコップにも少し注いだ。
 裕也は老女が口をつけるのを待った。ノドを通してからどんな顔をするのだろうか。正座した老女がコップの底に手をあてがい傾ける。ひと口を含んで飲みこむと、小ぶりな唇を横に広げて目を細める。それを見て裕也は、いただきますと頭を下げて同じようにひと口を含んだ。少しくせがあるものの、まろやかで甘みのある半透明の液体に舌の抵抗はなかった。ノドを通して裕也も目を細める。老女は腰を上げて居間を出るとすぐに戻ってきた。これでもつまみながら好きなだけ飲めばいいと、小皿に青菜の漬物を置いて夕食の支度にかかった。裕也はそれをつまんで目をむいた。塩気とは明らかにちがう刺激が口中に広がった。たまらずコップを傾け流し込む。鼻から抜けるこの香りはひょっとしたらと、裕也は小皿を引き寄せるが、磨ったワサビは見当たらない。こんな青菜があるとはと、酒の肴には悪くない初ものを、裕也はまたつまんでコップを傾けだ。 山ん中の田舎ではなにもできないけどと言いながら、老女は大皿に煮物を山ほど盛り付けてきた。それはまたサキちゃんの煮ものとはちがった旨みの深さがあり、つまみながらコップを重ねた。
「兄さんはまだ若いから腹が減って仕方がないだろう。好きなだけ食べればいいさ」
 老女は嬉しそうに裕也の食べっぷりを見ていた。
「兄さんよ、ところでどうして山にこもろうなんて思ったのさ。わしから見ると不思議でしょうがないのよ」
 聞かれたくなかったことを問われて、裕也は黙ってコップに手を伸ばした。量はさほど飲んでいないが酔いは確実に回っていた。空腹にくわえ、二日にわたって経験のない山歩きをしてきた疲れが尋常でなかった。
「会社を辞めたかったんですよ」
「ほう、会社をなあ。辞めたいのに山ごもりをせないかんとは、またおかしな話よなあ」
 老女はつじつまの合わない答えに目を白黒させた。
「サキちゃんが辞める前に、いっぺん山にこもって考え直せと言うからこうしたんです」
「サキちゃんって兄さんの女房か」
「いや知り合いです」
「へええ、ただの知り合いに言われて山にこもるとは、兄さんも勇気のある男よなあ」
 そう言われて裕也は酔いも手伝って、ことの詳細をさらけだしてしまった。
「ふーん、勧める方も勧める方だ」
 こころなしか声が大きく聞こえた。
「自分を見直すために山の中でゆっくり時間を過ごすか…人間相手から離れて物事を考えるか…」
 老女はさかんに首を傾げる。
「そんな所じゃないぞ」
 きっぱりっと言った。
「山は厳しいところだ。二三日泊まったって山の何がわかる。山を知らずに自分の何がわかるもんか」
 老女は目を大きくして続ける。
「山はわしたちにとっては、いろんなものを恵んでくれる大事なところだ。混じりっけのない空気や水、春から冬まで食べる物をたくさん与えてくれる、かけがえのない山神様のふところなんだ」
 言葉が強くなる。
「知り合いに言われてきたのはいいが、会社を辞める辞めないで山の中に入るのはどうかと思うぞ。一つ間違えば命を落とすぞ」
 言われてみればそうかもしれない。
「兄さんはあの転がって赤い腹を見せていたイモリのことを不思議がって見ていたようだがな、同じ場所で生き延びられるのは、したたかであさましいやつに限られているんだ。なんで死んだというのは関係ないんだ」
 老女は続ける。
「人間の中でも同じことだと思わんか。同じ所に集まるにはそれなりの欲があって集まっているのだから、競争になるのはあたりまえのことだ」
 裕也は神妙になった。
「せっかく泊まってもらって説教みたいになってしまったな。ごめんごめん」
 そう言うと、
「しかし兄さんは正直でいい。ひと晩山の中で過ごしてもう逃げ出したいとは、ははは正直でいいぞ。それが普通の人間、若者だ」
 今度はさかんにほめた。
「さあご飯だ、ご飯を腹いっぱい食べて寝よ寝よ」
 つとめて明るく振る舞う老女に裕也は心を取り戻した。
 明日からのことは明日になってから考えよう。疲れと酔いで何も考えることなく裕也は眠りに落ちた。

 朝ごはんを御馳走になって裕也は帰り支度を始めた。もうひとつ泊まって行けという老女の言葉を振り切って丁寧にお礼を言うと、裕也はリュックに腕を通して引き戸を開けた。山神様に快く迎えてもらえなかった以上とどまる資格はない。そう思うと、いっときでも早く離れるべきだとバスの発着所へと歩き始めた。
 始発らしいバスに乗る。左側に席を取ってゆっくりと過ぎる景色に目をやる。あの川にはおととい泊まった沢の水も含まれている。そう思うと裕也はまた恐怖がよみがえる。
 ふと沢口のことを思い出した。あいつはいともあっさり辞めてどこにいるのだろうか。始めからこの田舎に帰るつもりで、今この辺で何かをやっているようにも思える。そう考えると奴は賢かったのかもしれん。おれはきびしい競争社会からはじかれて、これから死んだような人生を過ごすことになるのだろうか。
 集落を二つ過ぎると、山間の道をくねってバスは走る。きり通しを抜けて緩やかなカーブを下ると信号が見える。思い出すことはあっても、もうくることはなかろうこの地を、裕也は一度だけ振り返って目に焼き付けた。
 米原行きの列車に乗ると人間社会の匂いがした。裕也は思う。戻れるのはこの社会しかないのだと言い聞かせて目をつむる。大垣で乗り換え、名古屋に着いたのは午後の二時過ぎだった。コンコースはどこから湧いて出るのだろうかと思うほどの人ごみだ。逆らうことなく流れに身を任せる。久し振りに地下街でもぶらぶらしてみようと階段を下りる。柔かなオレンジ系統の照明は太陽光と変わらぬ明るさで、かつ上品さを漂わせる。横眼で店先を眺めながら裕也が足を止めたのは、くるたびに利用する外資系のカフェだ。席を見つけてコーヒーをすすると、今までにない新鮮さが口の中に広がる。こみ合う店内は屈託のない笑い声や話し声が、ひとつのハーモニーになって聞こえる。通路側に席を取った裕也は、地下街を歩く人たちの、様々な表情を前にして人間社会の複雑さを思う。
 会社をどうするべきかという現実の問題を裕也は今、自分に突きつけている。サキちゃんに言われた山ごもりは一日で終わった。しかし挫折感はぬぐいきれなくても山での厳しさを体感し、そして何より老女に出会って自然界での生きざまを学んだ。まず当分は何食わぬ顔で出社して、自分を含めた職場のありようをトンビにでもなりすまして、高いところから眺めてみるか、あるいはどちらにしても気持ちの白黒を固めてからにするべきか、裕也は本気で考えた。
 
 二日分の食料と飲み物を用意して、裕也は独身寮にこもった。
 うごめく水たまりのイモリか、裏返しになって赤い腹を見せているイモリか。あるいはそこでしか咲けない花の下に、遠慮がちに生えている雑草かー。
 自然界の生き物は、そこにあるべくしてあるものがすべてだ。おれは自然界の入り口で、なすすべもなくはねかえされた。
 人間社会ー裕也の腹の中は煮えたぎった。これからの人生はしたたかに、あさましく切り開く。このまま社会のなぶりものになってたまるかー。
 裕也が『三春』の暖簾をくぐったのは一週間ぶりだった。
「おお、お帰り。誰かと思ったべ、今帰ったの」
 サキちゃんが目を丸くした。
 閉店前に現れた裕也は、リュックをかついで帽子をかぶっていた。客はまだ二人がいて話し込んでいる。裕也は帽子を取ってリュックを下ろすと、左の小部屋に放り込んだ。
「久し振りだなあサキちゃん」
 裕也は晴れやかな顔でカウンターに手をかけた。
「どうだった、大変だったべ」
 サキちゃんは勧めた手前、心配でならなかった。
「うん、想像以上だった」
 裕也はバスの終点から三時間ほど歩いて、人の入らないような山奥まで足を伸ばしたことから話し始め、炭焼き釜のあとにツエルトを張って瞑想をしたり、川のせせらぎに耳を傾けたり、さらには滝上りに挑戦して危ない目に遭ったとか、獣の匂いには身の危険を感じたとかを喋りまくった。
「ほおお、すごい修行をしてきたんだべな」
 サキちゃんの喜びようは半端でなかった。
「積もる話はまた次にするよ」
 裕也は最後の客が出て行くのを見て、
「ちょっと話があるんだ」
 と、面と向かった。
「なによ、またいやだねえ裕ちゃんは」
 言葉とは裏腹で顔色は穏やかだった。
「あのさ、会社、辞めた」
 飲み込めないサキちゃんは、ぽかんとして裕也を見た。
「えええ、せっかく山ごもりまでしてきたのに、いったいどういうことだべえ」
 声が高くなった。
「どうするんだべよこれから、ああ、どうしたっていうんだべや」
 いまにも泣きそうになる。
「おれ、ここで働くことにした」
 なんのとまどいもなかった。
「なに、今何言ったの」
「ここに住んで働くことにした」
「バカなことを言ってるんじゃねえべや」
「バカって」
「わたしが酔った勢いで、あんたと一度間ちがいをしただけなのに、バカな事を考えるんじゃねえべ」
「もう決めちゃったことだから」
「…………」
 裕也は灯りの届かない小部屋に上がると、リュックを枕にした。
 サキちゃんは暖簾を取り込むと、割烹着のままで枕元に座った。
 裕也はもうこの『三春』のことを考えていた。ここが今のままでは自分のいる意味がない。新しいことを取り入れる。まずはメニューだ。今までずっと変わり映えしない品ぞろえだ。それも少ない。裕也の頭にひらめいたのはあの老女の家で御馳走になったものだった。あれだ、まずあれを仕入れよう。
「ねえ、考え直しなせえよ」
 よわよわしいサキちゃんの説得など耳に入らなかった。
「なあ、子供でもできたらどうすんだ」
 最後の抵抗に聞こえた。
「おれが育てるよ」
 裕也は自身満々で答えた。
                  (了)