天女の海ー月の夜は菜の花の海で魚になる(前編)

     1

 これから始まる物語は、ある日、あるとき、日本の片隅であった、どこの家庭にでもありがちな、何げない一家の話である。それでも私にとっては、これらの一コマひとコマが奇跡と言ってよく、忘れられない。

 【平成二十二年四月十四日午前十時過ぎ。】

 舞(私は妻の舞子をこのようにマイ、マイと呼んでいる)は木曽川河畔にある、とある総合病院の手術室に入っていった。彼女にとっては一生に一度の大勝負だ。私にとっても家族にとっても、人生最大の試練でもある。
 長男A、次男B、三男Cの三兄弟。おまえは、なんて素晴らしい子ばかりを産んでくれたのだ。この日はAとC、私の三人でその昔、私が空飛ぶ記者当時に、よく乗ったことがある航空機のボーイング767型機ではないけれど、七階の767号室から三階手術室まで病院内のエレベーターに乗り、あとはどこまでも続きそうな冷たい廊下を無言で歩いた。舞はたんたんと点滴棒を引きづりながら進み、女性看護師ふたりが付き添ってくれている。後ろを続いて歩く私は、ひと足ごとに心が重く、地の底へと足を踏み入れてゆくような、そんな錯覚にとらわれていた。
 手術室入り口まで見送ると、舞は私たちを振り返ることもなく処刑台のある部屋に入ってでもゆくように、そのまま室内に消えた。一瞬として振り返らないところが、彼女らしい。見送る私たち。しばらくぼう然としていたAとCは、やがて我に返ると、気を取り直したように767号室にあったラジカセと舞の携帯電話、毛布、衣類など手術後の部屋替えにそなえて、これらを手分けして病院内駐車場の車のところまで運び、いったん家族の一階待機室まで来ると、今度は二階の病院食堂に行った。二人とも、まだ食事をしていなかったからだ。
 待機室には誰か一人は居なければならないので私だけが今、ここにこうして一人でいる。

 【舞が手術室に入り、三十分以上が過ぎた。】

 舞の体には、既に全身麻酔が施されたのだろうか。
 けさ、767号室を出る直前、私は舞に「おまえにしか見られない(舞だけの)世界を天女になったつもりで覗いてこい。誰もが経験出来ない体験が出来るのだから」と、右手を強く握って、そんな強がりとも見える慰めを言った。それから「おまえは、俺にとっての永遠の、たった一人の恋人なのだから。気をしっかり、とな」とも耳元に囁いた。

 私と舞は、これから、ふたりだけの閉ざされた世界に入って行かふとしている。
 暗闇。ここは、どこなのか。
 分からない。
 今は、与えられたこの道を突き進むしかない。
 ……

    2

 私がおまえに、この世で最初に出会ったのは、信州は信濃、松本の女鳥羽川河畔にあった、おまえの家で、だった。確か当時、血なまぐさい浅間山荘事件を起こした連合赤軍の学生に対する一般市民の声を取りに河畔にある、とある民家を訪れたときが、この世でおまえに会った最初の偶然であり、瞬間だったと記憶している。
 おまえは、母子家庭に育ち信大医学部四年生の兄との三人暮らしで、高校を卒業し家事を手伝いながら松本市内の小さな広告代理店でアルバイトをしていた。なぜだか当時は全国的に大学学園闘争が吹き荒れており、信大でも医学部の授業料値上げ反対闘争が繰り広げられており、兄も闘士の一人だった。
 あのころは信大県(あがた)の森キャンパス入り口の正門が学生たちにより机やイス、ロッカーなどありとあらゆるものでバリケード封鎖され、カルチエ・ラタンと化したばかりか、学長が学長室に閉じ込められるなど学園全体が騒然としていた。
 授業料の値上げ反対デモのたびごとに、県警機動隊とのこぜりあいが繰り返され、そのつど私たちサツ回り記者は新聞社から支給されたヘルメットに防弾チョッキを着せられ、投石が頭上を飛び交うなか、延々と続く学生たちのデモパレードにつき合わされもした。日本中が「何か」見えないものに後ろから押されて沸き立っているような、そんな人々の吐息が感じられる時代でもあった。

 突然の談話取材に対して、お茶を出してくれたときの少女然とした震える手、どこまでも澄んだつぶらな両の目、何をも弾き飛ばしてしまいそうな、艶やかな黒髪、天使のような、おまえのその姿に私は、この世にこんなにも美しい存在があったのか、と思ったのだった。実際、それまでにも松本の同人誌「屋上」の仲間や、信大生、モルモン教の女性信者、スナック従業員、いつも行くテンプラ屋の看板娘など、何人かの女性と軽く付き合ってきた私だったが、ひと目会った、その瞬間に私の魂のすべてが音を立てて崩れ落ち、心身ともに虜となったのは、その時が初めてだった。
 突然自分に訪れたこの感情は、一体なぜだろう、何なのだろう、と思うこと自体が論外で私は運命的な何かを感じ、それからというもの、私の体内を流れる心身の血と言う血が、堰を切っておまえという川に向かって流れ始めたのだった。
 そして、おまえは、あの時とてもその容姿とは似ても似つかない発言を私にしてみせたのである。取材に対する答えはこう、だった。
「実を言うとあたし、これでも、べ兵連(ベトナム民主平和連合)に所属しています。反戦歌手のジョーン・バエズみたいになりたい。なりたいのです。連合赤軍の学生たちは、人々の幸せをつくろうとはしていない。全共闘にせよ、革マル、中革派にせよ何にせよ、みな派権争いのセクト主義で自分勝手な学生たちばかりです。人々の純粋な気持ちをつかんではいません。だから。だから、挫折するのです。イトウカズコしかり、バンドウしかり、ウメナイ、モリ…しかりです。みんな最初の目的はそんな闘争のための闘争ではなかったはずじゃないですか。人々の幸せを願ってあくまで主張を貫く。それが真の闘争というものなのです。いま兄たちが戦っている学費値下げ闘争だって、理屈は同じです」
 私は、熱っぽく語るおまえに、ますます引かれていった。

 おまえと私、すなわちふたりの物語は、それからも次々と、まるで網膜上のスクリーンに映し出されるが如く、沸き起こってくる。みな、ひとコマひとコマが鮮烈な映像となって目の前に迫りくるのである。その後の私たちの人生となると、出会った当初のように良いことばかりではない。いや、よいことなぞ数えるほどである。地獄もなんどか、みた。出会ったとき、私は二十五歳、おまえは、十九だった。それからは、ほんとに、ほんとうに、いろんな出来事が二人の前に現れては消えていった。目の前の映像が大きくなって浮かんだのは、ボクたちが両方の家の反対を押し切って、それこそ逃亡同然の駆け落ち地方記者生活を始めた(なぜ逃亡したか、はここでは触れない)、三重県志摩半島は阿児町鵜方の志摩通信部での光景である。
 枕元を先ほど来から、チョロチョロ、チョロチョロと頭を掠めてゆく黒いネズミたち。彼らなりの目的があるのだろう。どの目も、光り輝いていた。彼らにも生きる権利は当然、あったはずだ。だが、このネズミたちの襲来のなかでボクたちは、ボクたちなりにこのままだと、この家がそっくりネズミたちに襲撃されてしまうのでは、との恐怖の念から逆に日々、若い血をたぎらせたことがある。昭和四十年代後半、時の今太閤・田中角栄首相の列島改造論華やかなころで、リアス式海岸が美しい志摩半島でも乱開発が進んでいた。ちょうどそのころの話である。
 おまえはあのころ、生後まもなく、まだ赤ん坊だったAを二階居間に寝かせたまま買い物に行った。帰宅したら一階通信部事務所の電話番を兼ねながらの来客接待、そして家事全般…と、若いのによくボクの手足になってくれた。今をときめく歌手、Tさんが無名時代に何度も通信部を訪れ、おまえが応対したのもこのころである。
 ボヤッ、と目の前に浮かぶ映像。今度は裏庭の土をスコップで掘り起こし、死んだ、いや殺されたネズミをふたりで土の中に埋める光景が映し出された。連日といってよいほど続いたネズミの殺戮は、通信部内を走り回るあまりのネズミたちの徘徊劇に、とうとう業を煮やしたボクたちが屋内のあちこちにネズミだましの毒饅頭を仕掛けたのが発端だった。海を渡ってべ兵連の女闘士に、とあれほどまでにこだわっていたおまえも一児の母としての毎日に追われていたのだ。

 【平成二十二年四月十四日午後零時三十二分(舞が手術室に入ってから、一時間以上が経つ)】

 先ほど、少しばかりうつらうつらした際、あの時のネズミというネズミがボクたちの目の前に大きく浮かびあがった。おまえらは復讐に来たのか。思わず叫ぶボクと舞の周りをネズミたちは、そんなことは関係ないとでも言いたげに、ぐるぐるグルグルと、何度も何度も回り続ける。実際、ボクたちは来る日も来る日も毒饅頭を仕掛け、仕掛けた分だけネズミは確実に罠にかかり、毒の効果に全身をピクピクと、ひきつかせていたのである。
 ボクと舞は、そんな生死の境をさまようネズミたちを、それこそ容赦のない残忍さで用意したバケツの水の中に頭から一匹ずつ手づかみで突っ込み、完全に息の根が絶えたところで裏庭の土に埋葬する。こんなデスマッチが来る日も来る日も繰り返された。殺しても、殺しても、ネズミたちはそれこそ、蛆虫がわいてくるかの如くわが家を執拗に襲ってきた。当然、ネズミの殺戮はわが家にとっては、取材以前の重要な問題だったのである。

 ここで私は目を閉じる。このところの睡眠不足に心労もあり、立っているのがやっとで、全身が衝立のようで意識という意識が頭の中で見えない断片となって次から次へと剥がされてゆくのが、よく分かる。意識のなかでフワフワとした何かがさまよいながらも、こちらに向かって歩きだしてきた。ボクは、このところの寝不足にそのまま目を閉じている。と、過去の時代がまたまた、切れ切れになって真っ赤に染まった、網膜上のスクリーンに映し出されてきた。赤い網膜はボクたちに殺された、あのネズミたちの化身かもしれない。ネズミたちは口々に「なんで罪もないアタシたちを、そんなにまでして次々と殺すのよ。ユルセナイわ、いつかバチが当たるよ」と話している。

    3

 ところは、三重県志摩半島の阿児町にあった県立志摩病院―今度はフワフワと何かが、こちらに向かって歩き出してきていた。女だ。舞が腹の底から血みどろとなった自分の赤ん坊を、自らの素手でたぐり寄せるようにして出している。手が真っ赤に染まっている。奇怪な光景だ。気がつくと、いつのまにやら、赤ん坊は白い布に覆われ、舞の胸に抱かれ、私がじっと見ると、怖いものでも見たかのようにオギャア、オギャアと大声で泣き出した。

 同じ半島でも舞台はガラリと変わる。
 あれから十数年たっている。
 目の前には能登の海が広がり、猛々しい日本海の荒波が風にあおられ、白い波しぶき、雪の花となって、呼吸でもするように押し寄せては、引き返している。やがて視界が民家の茶の間に移った。かと思うまもなく、こんどは三つか四つの幼児が何を思ってか、はしゃぎながらストーヴに向かって突進していった。アッ、危ない! 女が声を立てると同時に幼児はストーヴと衝突、幼児は煮えたぎったヤカンの湯を全身に浴び、同時に火の出るような泣き声が室内に炸裂した。
 幼児は、まだ物事の道理が分からない三男Cだった。母である舞の顔が一瞬にしてこわばり、Cを抱きかかえたかと思うと、取るものも取り敢えず、気が狂ったようにして近くの病院に駆け込んだ。確か、昭和から平成に移るか移らないか、のころで、新聞やテレビでは陛下(昭和天皇)のご容態につき「宮内庁によりますと、天皇陛下が本日未明から早朝にかけ、下血されました」「陛下が下血されました」「宮内庁は…」といった報道が連日のように繰り返され、そのつどかつての陛下のお宿で知られた和倉温泉の老舗旅館・銀水閣や加賀屋へ関連取材で支局員を走らせる、そんな時代だった。
 あのとき、舞は私が家に帰るや「毎日、毎日。仕事、仕事、お酒、お酒で、あなたは一体全体、私や子どもたちに何をしてくれていると言うの。こどもたちがどうなってもいい、と言うの。酒ばかり飲んで。何が仕事なのよ。ちゃんちゃら、おかしいわよ」と食い下がるように責めてきた。あのときのストーヴから熱湯とともに零れ落ちたヤカンがボンヤリ、ボクの脳裏に浮かんでいる。
 病院のベッドに横たわるCを前に、舞はなおも攻撃の刃を私に向かって突きつけてきた。
 「あなた。そんなことでいいの。ナニよ。やれ取材だ、取材だ、デスクワークをしなければ、和倉温泉の三尺玉花火の協賛金を集めなくっちゃあ、JC=青年会議所=と始めた海の詩(うた)公募の作品審査をしなければ、だって…。あなたはそれで仕事を、やっていれば、いいわよ。でも、おかしいよ。父親として一番大切なことが抜けている。おかしい。おかしいよ。あたしたち家族に、あなたの犠牲に、いや奴隷になれって言うの。あたしたちがどうなったって、いいと言うの。おかしいよ。毎晩、毎晩、酒、酒で、酔い崩れて帰ってくるだなんて。家族ひとつ守れてないじゃないの。おかしい、おかしいよ。新聞記者って、家庭を破壊する生きものなの、あたしたちはどうなるのよ」。
 そればかりか、毎年、来る日も来る日も降り続く雪にCを背負って雪かきをする、見慣れた女。今度は舞の若かったころの、ゆがんだ顔が、悔しそうに目の前に現れた(舞は、いまごろ脳腫瘍の摘出手術に耐えているはずだが、ボクは夢を見ているのか)

 【能登半島と手術台、海をみつめる女と手術台に身を横たえた女。ふたりの舞が苦しそうに喘ぎ、私を睨みつけている。】

 確か、あのCのヤカン衝突事件より二年ほど前だった。
 Cが生まれて一年半ほどたったころの冬だったと記憶している。歩き始めたばかりのCの体に突如、異変が起きた。幼い首筋にピンポン玉大の奇怪な腫瘍がある日突然のように出来、それが見る見るうちに大きくなり、日本海に面した内灘総合病院で手術してもらったことがある。嚢胞(のうほう)性リンパ管腫という、ややこしい名前の腫瘍だったが、最初の切除で完全除去が出来ず、ちいさなからだに二度にわたってメスが入れられた。あのとき、手術室で見守るボクと舞に対し、Cが片言で「ボク、ダイジョウブ、ダイジョウブだから。ボク、マケナイ。おかあたん」と片言で話してくれた日がつい、きのうのようでもある。
 なぜ、腫瘍が出来たのか。
 原因は不明だが、当時は七尾に着任してまもないころで、それもたまたまCが歩き始めた頃だった。冬のさなか、それも小雪が降り続ける朝に自宅近くの小丸山公園で私はCの手を引いて何度も歩いたことがある。かわいい手を引いて一緒に歩くことが私の勝手な自慢でもあったが、おそらく幼児のCにとっては、返ってちいさな体力を消耗する荒行となり、今となって思えば父親に毎朝、寒いなかを引きづり回されるうち体調が蝕まれ悪化、リンパ管腫ができたような気がしてならない。それでも、二度の手術と二カ月余の入院生活の結果、当初、医師から「助からないかも知れない。覚悟はなさった方が」と言われていたのが信じられないほどに治り、Cのリンパ管腫は、うそのように引いていった。
 Cのヤカン衝突は、やっとその嚢胞性リンパ管腫という呪縛から解き放たれた、そんな矢先に、またしてもCの身の上に降って湧いて起きたのである。大きなケロイド状の跡を目の前に、私も舞も、なぜ一番幼いCばかりが家族の犠牲にならなければいけないのか、と悩みに悩んだが、こればかりは天命なのか、どうしようもない。
 そんなボクたちを、幼いCは「ねえ、おとうたん、おかあたん。ないちゃダメ、ないちゃダメ、なかんとき。ボク、ダイジョウブだから。なかんとき」と覚えたての能登方言で何度も慰めてくれたのだ。
(のちに私が能登印刷から出版し一万部を超えるベストセラーとなった「泣かんとこ 風記者ごん!」の表題は、あのころのCのこの片言“泣かんとき”がヒントとなった)。

 うつらうつらする中、いろいろの出来事が、前後の脈絡もなく、私の頭と網膜のなかを次々と行ったり来たりして駆けぬけていく。このほかにも、小学生低学年のころ、急性肺炎になった長男Aを舞が病院にあわてて運び込んだり、同じ小学生になるかならぬかのころ、通信局の自宅階段を二階から一階まで転げ落ちた腕白息子の次男Bを救急車で病院に運んでもらったこともあった。いろんなことが繰り返し、繰り返し、容赦なく私たち家族を襲った。

    4

 【(舞は頭を、そっくり剥がされているのだろうか。意識は当然ないだろう。しかし何も言わない舞への思いが覚醒するが如く、私の頭のなかを浮遊し始めている)。】

 そこには、なんだか一人だけ感傷に耽っているそんな私がいる。幻覚となって、隣には舞の魂が浮かんでいる。私は、わが家の一大事には決まって舞がいた事実を実感している。
 (午後一時半を過ぎた)舞は手術台の上で今、無限大の宇宙のどこいらを、彷徨っているのだろうか。

 午後一時四十分。ボクは目覚め、家族の待機室内の自販機でおまえの好きな甘みのないネスカフェブラック(厳選コーヒー豆100パーセント・ポリフェノール)の折り紙つきキリマンジャロブレンドを百二十円で購入、ついでに焼きおにぎりも買い求めて、食べて飲んだ。Cが同じ自販機から購入したたこ焼きも一つもらったが、それは美味しかった。なんだか、手術台のおまえには悪い気がしてならない。
 「いつも、勝手なのだから。アナタは」
 どこからか、暗闇の中から、そんな声がシジマを突いて飛んでくる。私は心のなかで叫んでみる。「マイ、まいよ! がんばれ」。すぐに反応する幻覚状態の舞。「一体全体、何を頑張るの、なにをしたらいいの。がんばれだって。どういうことなの」。舞の声にならない声が私のなかで反響している。

 気がつくと、次に浮かんできたのは、おまえが折々に私に伝授してくれた言葉の数々である。
 ご・は・ん、ご・は・んよ。い・く・よ。あ・の・ね・え。そうだった・け。ウン、い・い・よ。そんなドジじゃないんだから。どうだった。楽しみはあとから、アトカラなのよ。……
 宙天に、日ごろから言葉数が少ない、めったに喋らないおまえの言葉が、虹色の文字となって張りつき、浮かぶ。
 朝一番で「ご・は・ん。ご・は・んよ、ご飯だったら」と私をつき動かす。私より先に家を出るときは「い・く・よ」。何かを問いかけてくるときは「あ・の・ね・え」。妙に納得した場合に思わず発するのが「アッ、そうだった・け」だ。そして、ボクが「今夜は飲み会で遅くなるから」に対する快い返事が「ウン、い・い・よ」である。
 私はそうした、これらの舞の言葉に操られ守られながら、これまでの人生を生きてきた。

 い・く・よ あ・の・ね・え そうだった・ケ ウン、い・い・よ…
 これらの言葉はそれこそ、舞の専売特許で、こんどは空に円を描くように、言霊の一つひとつが虹の光線となってボクに語りかけてきた。お空には、舞のあの果てのない、どこまでも清らかでやさしい笑顔が浮かんでいる。
 ふと気がつくと、若いころに彼女が唄い、新聞でも優秀作品として紹介された俳句「秋空に 未来永劫と 書いて見し」が空に大きく浮かびあがっているではないか。ボクは、またまた眠りに落ちていくようだ。

 「あのねえ、アタシ、いまどこにいるの」
 「手術室だよ」
 「なんで、なんで。なぜなの」
 「脳に出来た大きな腫瘍を取ってもらうため、なんだ。おまえ、これまでにも血圧が急に高くなって脳内出血やら、大動脈瘤かい離などで何度も何度も倒れたり、苦しめられてきただろ。今度は脳のなかの腫瘍が、とてつもなく大きくなりすぎた。このままだと、命の危険にまで及ぶからなのだよ。目も、片方の神経が腫瘍のせいでダメになってしまってるみたいだ。だから、腫瘍を取って、元通りにしてもらうのだよ」
 「へ~え、そうなの。そうだったのか」
 「でも、おまえは助かる、きっと助かるから、な。よくなるに決まってる」
 「い・い・よ」(何が「い・い・よ」なのか、がよく分からない)

 【午後二時十分。手術は真っ最中なのだろう】

 思えば、いろいろあった。
 午後三時十五分。
 つい先ほどまで私の妹夫婦と九十歳になる母がおにぎりを手に訪れ、家族の待機室に一緒に居てくれたが、ふたりとも黙りこくったままで、たったいま帰った。手術はどこまで進んでいるのだろう。

 ボクたちは、随分と、いくつもの危険な橋を渡ってきた。ボクも舞も、それが当たり前の如く新聞記者とその妻として、前を向いて歩いてきた。前を、といったところで何が前なのか、分かる道理なぞない。ただ、前に向かってひたすらに歩いてきたのだった。
 あれはいつのころだったか。暴力団の組員に、ボクが新聞に特ダネとして書いたシャブ(覚せい剤)摘発に関するすっぱ抜き記事が数千万円の荒ら利益となっているが明らかに間違っている、利益はそんなにはならないーと抗議されたあげく、電話で「これでは新聞社が御旗に掲げる真実の報道とは違うじゃないか。もっと、しっかり調べて書けよ。おまえらを殺してやる。これから、ドンパチ持って、そちらに行くから首を洗って待ってろ」と凄んできたことがある。
 電話でスゴむ組員に「ウチのは、今取材に出てる。殺せるものなら、殺してみな。おぉ~、いいじゃないか。待っていてやるから、来られるものなら来いよ。来てみな」と逆に怒鳴り返したのが舞だった。まもなく組員数人が通信局に現れた時には、既に警察からマルボウ(暴力団)担当のデカ三、四人が防弾チョッキ姿で駆けつけており、サングラス姿の組員らは局舎の周りをウロチョロするばかりで、やがて引きあげ、事なきを得た。
 長い記者生活のなかでも小牧通信局時代は夜になってもドアの鍵が閉められることは、ほとんどない、に等しかった。夜になるとは、取材に追われたボクが外出し午前一時、二時に帰ることも珍しくなかったからである。当時、ボクは三十代で何だかんだ、と一日中駆けずりまわっていた。止まっていた、記憶がないほどだ。いつも、なんだか知らないが気忙しく走り回っていた。そして取材で外出している時に限って、たちの悪い客が通信局を訪れ、なかなか帰らなかったりする。当然のように、舞は通信局を訪れる一人ひとりと接する回数が増えるに従い、逞しくもなっていったのだった。
 あるときなぞ、ボクが日ごろから親しかった裁判所の書記官氏と、ひと晩飲み明かして帰宅すると、車でわざわざ通信局まで送り返していただいた客人に近寄るや「どういう気なのよ、あなた。この人が、どんなに大変な仕事を毎日しているのか、あなた、分かっているの。連絡のひとつぐらいしてきてもいいじゃないの」と言うが早いか、いきなり往復ビンタを食らわせた。顔から火が出る、とはああした場面を言うのだろう。あの時の私は妻と客人の両方に頭を下げるほか、なかったのである。

 そればかりではない。
 岐阜県庁を舞台に明るみとなった県庁汚職事件、長良川決壊豪雨、某医大をめぐる三億円強奪、少年グループによる連続リンチ殺人……と行く先々で起きた多くの事件や災害が今だに、めまぐるしく前になり、後ろになって私の脳裏を駆け巡っている。なかでも昭和五十年代、空飛ぶ記者として全国各地の被災現場を飛び回っていた時には、全国的に大きな事件がテレビやラジオで伝えられるや、そのつど舞は住居のある局舎二階から原稿を執筆中の一階事務所のボクの机のところまで駆け下りてきて事件や災害の概要を、メモ書きとして教えてくれたものだ。
 おかげで本社デスクから「現場へ」の指令が出たときなど、発生現場のあらかたが頭に叩き込まれており、現場取材にヘリコプターなどで特派されるに当たっては、決してうろたえることはなかった。稚内のオホーツク沖に大韓航空機が墜落した時も、舞がテレビの速報にいち早く教えてくれ、新聞社の双発ジェット「はやたか二世」で現場に向かったのだった。

    5

 それにしても眠い。どうしたことか。
 いやいや、ボクは睡魔のなかであれやこれやと来し道について反芻しているようだ。毎日毎日、海沿いの漁どころを、徒歩であるいてゆく。なぜ徒歩なのか、が分からない。ボクは海に面したその道をどこまでも下り、半島突端の灯台が見える白い浜辺に着くとは、大任を果たしたように今来た道を引き返してゆく。そうしたことが夢のなかで毎日毎日、繰り返されるのである。
 道は、あのころボクが取材のため、それこそ毎日のように車で往復したバス路線でもあり、当時は何度も取材で通った。くねくねと曲線を描いて半島突端にまで伸びる一本のごろた石の道でもあった。波切、布施田、和具…と沿線には各所に灯台があり、海女さんたちが漁の合間に過ごす火場も見える。そこには、確かにボクたち二人が歩いてきた青春の道があった。志摩での半島突端までのこうした往復徒歩の夢は、過去にも何度も何度も、うなされるようにして見た。
 網膜のなかの映像はいつの間にか変わり、今度は木曽川の濁流に洗われ、その中を泳いで取材先に向かう自身の姿があった。この光景も、これまで数え切れないほど夢のなかで見た。これまた、なぜ濁流のなかを泳いで取材先に向かうのか、その理由が分からない。確かに胸まで水に浸かりながら、過去に現場を目指したことは何度かある。三重県御園村の七夕豪雨に伴うやり直し選挙しかり、長良川決壊豪雨しかりだ。いざとなれば、昔から泳ぎには自信があったことも事実だ。

 私はまぶたを閉じて舞と歩いてきた過ぎし日をさらに反芻している。
 舞は三人の男の子を産み、自らの力で育てた。特にCの小学生低学年のころから、中学校を卒業するまでずっと続いた不登校には、随分と心を痛めた。そんなある年、私たちはCを連れて久しぶりにかつて七尾に住んでいたころ何度も訪れたことがある能登半島の千里浜を訪れた、UFОの館を見学がてら海に面した国民宿舎に泊まり、浜に出てCとキャッチボールをしたりもした。
 小学二年生だったCが不登校になったのは、私が家族をそれまでの任地だった大垣に残して初めての単身暮らしとなった大津支局に着任してまもなくだった。同級生との間の些細なトラブル、とはいえ、Cにとっては許せない正義感がきっかけとなったようだ。そんなわけで、不登校が続く彼をなんとかしなければ、と私と舞、Cは米原で合流して能登に二泊三日の旅をしたのだった。それで少年の心が少しでもほぐれ、小学校に行ってくれるようになれば、というのが私たちの本音だったが、Cの強い意志だけは頑として変わらなかった。
 それどころか、ボクと離れて大垣に住む舞は、家の中にずっと居るCに当時流行していたタマゴッチがほしいとせがまれ、どこへ行っても売り切れになっていたため、とうとう大津にいる私のところに「なんとかしてよ」と、まるで私が居ないからそうなるのだーと言わんばかりに、迫ってくるありさまだった。やっとこせ確保し送ると、こんどは「Cがねえ~、ハムスターを飼いたいのだって」と新たな難題を仕向けてくる始末だった。
 親ばかになってしまっていた私はそれでも、舞とCの気持ちが少しでも晴れてくれさえすれば、と舞がボクの身の回りの世話で大津を訪れた際に西武百貨店に一緒に出かけハムスターを買い求めて直接、持って大垣の自宅まで帰らせるなどした。そればかりか、あるときなぞ、小学校の修学旅行を機会になんとか学校に行かせようとしたが、一向に行く気配すら見せないCに、舞の心は半狂乱状態にまで落ち込んだのである。

 一人の女がスーパーでやってはいけないことに手を染めたのは、そうした情緒不安定からきた精神錯乱、からだった。私は、その日のことを忘れることができない。
 あの日、滋賀県下の美術館のオープンセレモニーに来賓として出席していたところに「消防署から電話がありました。ご家族が大垣警察署においでだそうで、すぐに警察まで来てほしい、とのことです」とのデスクからの緊急連絡に私は「一体何ごとが起きたのか。それも消防署から支局に電話が入り、家族が警察で待っているとは。何か、支局員には言えない事件が起きたに違いない」とタクシーとJR列車を乗り継いで大垣署に駆けつけた。署に顔を出すと、「実は奥さまが水筒とリュックを持ち逃げされましてね。不審に思ったスーパーの警備員に確保されました」とのことだった。傍らでは、舞がすべてを投げ出してしまったような、呆然とした表情で無言のままいる。
 なんということだ。信じられない。いつもだったら、事件取材で警察に顔を出している私が、こんな形で警察に窘められるとは。それはそうと、彼女の身柄はどうなってしまうのか。結局、本人の精神状態が異常で持ち去ろうというような強い意識はなく、気がついたら水筒とリュックを手にしたまま店内を彷徨うが如くに、あるいていた。その後、警備員に咎められ我に返ったのちは、反省が深くブツもその場で戻ってきたから、本心というよりも放心状態のあげくの出来心としか考えられない、との理由で「今後は決してしません」と、私が念書にサインするだけで自宅に戻った。
 逮捕は免れ微罪処分とされたのである。
 おそらく、彼女はCを修学旅行に行かせたいあまり、その大型店でリュックと水筒を手にいったんは購入しようと思いはしたものの「それでも(こうしてリュックと水筒を買って帰ったところで、おそらく)Cは修学旅行には行かないだろう、との諦めと不安に怯え、気がついたら、リュックと水筒を手にしたままレジにも寄らず店内を放心状態で、ふらふらとさまよっていた。そこを警備員に万引きの疑いで身柄確保されたのである。
 あのとき高校生だった次男Bの私に対する怒りは尋常でなく「オトウが悪い。オトウが一番わるい。お母さんは、なんにも悪くない。いつも、一生懸命に俺たちのために働いていてくれてる。それに引き替え、これまでのオトウなんて。俺たちにとって、居ても居なくても関係ない。むしろ、居てなんかは、ほしくはない。オトウが悪い。だから、Cが学校にも行けなくなったのだ」と畳みかけるように私を攻撃してきた。Bが、父親の私に対してあれだけ真っ向から歯向かってきたのは、それが最初だった。
 私は息子の言うとおりだーと、内心で深く反省、自分勝手なわが身に恥じ入りながらも「おまえは、何を寝ぼけたことを言ってるんだ。そんなことは絶対にない。オレは、母さんやおまえたちのことは、いつだって誰よりも大切に思っている。それが分からない、おまえが間違っている」と怒鳴り返した。あのとき、逆に叱りつけながら、彼の毅然とした反発ぶりを頼もしく感じたのも事実だった。
 子どもたちは、こうしてだんだんと育ってきた。

    6

 ほんとうに、いろいろあった。
 悪いことばかりでなく、良いことも、だ。
 彼女の俳句、一行詩、短歌の才は天賦に近いもので過去、ボクと歩いてきた、行く先々で多くの名作を残してきた。その中でもボクが大好きなのは、<秋空に 未来永劫と 書いてみし>と<まんじゅしゃげ 人恋ふごとに 朱(あけ)深く>という俳句である。
 いつだったか。舞が近代文芸社から俳句集「ひとりあやとり」を発行してまもなく、俳人・金子兜太さんの勧めもあり、NHK松山放送局から選者として俳句番組への出演依頼があったことがある。舞は、あのとき私の仕事の手前もあり断ったが振り返れば彼女が飛躍する、またとないチャンスだっただけに残念なことをさせた気がしてならない。彼女が出れば、番組もきっと映えたに違いない。今となっては後の祭りに違いあるまいが、である。
 事実、短歌で長谷川等伯賞、前田純孝賞(教育長賞)俳句でオーイ伊藤園の俳句茶大賞…と、過去の受賞歴の数々が、そのまま舞の過去の創作歴、すなわち足跡にもつながっている。このほか、長男Aがあこがれの大学の基礎工学部にパスした時には、母子で胸を弾ませ学生寮を訪れもした。私は知らないが思いもかけないラジオ出演(次男Bに、ある日突然「あのね、きょうお母さんがラジオに出たよ」と教えられた。舞は性格上、自ら自慢めいたことはいっさい言わないので内容は知らない)など、たまには、よいこともあった。

 【午後四時二十分。】

 つい先ほど看護師二人が待機室の私たち家族を訪ねて、ICU(集中治療室)に関する説明をしていった。その際、手術は順調でしょうか、と聞くと「あと一時間ほどかかるそうです」との返事だった。途中経過を大垣で心配する次男Bにメールで連絡する。

 舞の脳の大手術は、まだまだ進んでいる。腫瘍部分の大きさから言えば、脳全体の四分の一ほどが切除されるという。彼女の頭は、どうなってしまうのか。
 手術さなかの舞は、いま夢のなか。いや、真っ暗闇の海のような中に魂だけが、浮かんで漂っているのかもしれない。私自身も、気持ちは舞のなかに同化してしまっているので、この先どうしてよいか、は分からない。ただ天命と、何かの気配になされるがままだ。
 いま、舞と私の周りでは夥しい火の玉たちが、ふわりフワフワと浮かんでいる。どれだけの火の玉たちが浮かんでいるか、となると私には全く分からない。うとうと、としている。ここは、どこなのだろう。真っ暗な海に舞と私の魂だけが浮かんでいる。

 先ほどから思考が先に行ったり、戻ったりしている。ここで私の歴史が、ぐーんと後戻りしたようだ。
 ―昭和四十四年の駆け出し記者当時。ボクは長野県松本市内で住んでいた。住所は、確か松本市清水といった。四畳ひと間の百瀬さん宅二階の一室。女鳥羽川のほとりで、そこが毎夜、帰る駆け出し記者の砦でもあった。
 朝は、毎日、庭先にあった水道蛇口を使って顔を洗った。トイレは一階にあり、共有。家人が使用中かどうか、を抜き足差し足で確かめてから階下まで下りてきて使ったものだ。取材の足は125ccのオートバイで、ボクはそのつど白い大きなヘルメットをかぶり、警察に向かった。サツに着くと、当直長に一晩の動きを聞き、何もなければ安心して今度は二階の記者室に行き、新聞を読んだり、花札を手に他社の記者と雑談をしたりし、その後、外に出て近くの店で朝食をとったものだ。

 そして。たまたま、私の取材を受けたのが縁で舞が初めて興味本位もあって記者室を訪れたのが、昭和四十七年春だった。あのとき、彼女は髪バンドをした長い黒髪に、超ミニスカートだった。ツイッギーのミニスカートが一世を風靡し、日本でも流行していた。ボクはキラリと光る八重歯とともに、あの時の笑顔をいまも忘れない。

 やがて、両方の親の反対を押し切って、ふたりの逃亡駆け落ち記者生活が始まった三重県志摩半島。ここでの事となると、先にもふれたネズミ退治に始まり、すべてが映写フィルムを巻き戻すように甦ってくる。熊野灘に浮かぶ海女さんの島・和具大島、汗かき地蔵さんのある大王町波切、松竹映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となった安乗岬、真珠の海・英虞湾が一望できる横山、半島突端の御座白浜海水浴場、女たちを守る女護ケ島で知られる的矢湾に浮かぶ渡鹿野島…と、何回となく、二人で出かけた。
 志摩から岐阜に来てからは、根尾の里(根尾村板所)に立つ樹齢千五百年の淡墨桜のもとを舞と一緒に、よく訪ねた。当時、全身がヨレヨレとなり、見るも無残に老いさらばえた桜の保護に情熱を注ぎ、時の平野三郎知事に地元新聞社を通して書簡を送るなどして桜の再生に命をかけた作家、その人こそが宇野千代さんだった。彼女は、淡墨桜再生をヒントに小説「薄墨の桜」を世に送り出したことでも知られる。当時、根尾の山里に「これでもか、これでもか」と何度も何度も、足を運び淡墨桜再生の記事を書き続けた記者こそ、私だった。私は、いまでもあのころの自分を“淡墨記者”と自認している。
 このままだと、桜の根っこ部分に立つ民家が桜の寿命を縮めてしまう。宇野さんらの助言でまもなくできた地元桜の保存会(淡墨桜顕彰保存会)の提言もあり、根っこ部分に立つ民家が文化庁の後押しもあり移転した話など、桜の保存を願い、気が狂ったように書き続けた日々も今となっては懐かしい。
 宇野さんには地元で桜のお宿といわれた住吉屋さんでよく、食事をごちそうになるなど、ことのほか可愛がっても頂いた。いつまでも妖艶な彼女だったから、あげくに私がまだまだ若々しい駆け出し記者だったからかも知れない。
「イガミさん、あたしはねえ、雨にショボショボと濡れたうす墨色の花弁が大好きなんですよ。どんなに苦しくても、じっと耐え、その耐えの中から本当の美しさを醸し出している。あたしは、そんな雨に打たれた桜の花びらが、とってもいとおしくってネ、たまらないのよ」
 宇野千代さんのあの艶っぽい声が幻聴となって私の耳に大きく迫った。

 【午後四時四十分。】
 看護師が待機室を訪れ、緊急連絡先の電話番号をあらためて確認してゆく。

 舞の手術は、まだまだ続いているようだ。ボクは意識朦朧状態で手術台に裸で寝かされた舞のことを待機室のソファに寝そべって案じている。再び眠りに陥ってゆく。
 「あのね、もうすぐ終わるから」
 「あと少しだって、よ」
 「(あたしの頭)開いてみて、どうだったの」
 「あたしには分からないから。先生に聞いてよ」
 「なんだか、みんなが周りを取り囲んでいるみたいだけれど。あたし、どうなってしまうの。こわい、こわいの」
 物を言わない舞の声が、ボクの耳にしっかりした口調で迫ってくる。情けない。ボクには何一つ答えてやることができないのだ。

 【午後四時四十八分。】

 待機室奥の院ともいえる畳の部屋から、ふたりの子を連れた若い母親が出てきた。Aも、Cも黙って本を読んだり、腕を組んだりしている。母親の手術を気にしてか、黙ったままだ。

 つい先ほどまで、一緒に幻のような、別の国に出かけたはずのボクも、つい、舞の姿を見失いそうになる。
 「あのねえ」「ここに」「ここに、アタシ居るのだから」「(あなた)何しているのよ。いまごろ」「早くきて、きてっ! 」「もう、いつだって、おそいのだから。のそっ!」
 舞の精が空中をさまようボクの魂にたたみかけてくる。
 「もう、過去なんていいの。どうでもいいのだから。それより、これからどうしたらいいの。どうしたら。やはり、楽しみはあとからなの」
 舞の声がボクの耳に迫って重なり、次第に大きくなってきた。

 うつらうつらとした意識はとうとう海の底に沈んでしまったようで、私は今度こそ眠くなった。全身が睡魔に埋め尽くされている。後頭部に両手をあてて、目を瞑ってみる。聞こえてくるのは、ジーという待機室の暖房音ばかりだ。NHKが「核サミット その成果は」を特派員報告の形で流している。

 眠りのなかで、私はこのところ神戸に住み舞を何かと支えてくださっている、百合カエデさんからメールで流されてきた舞のかつての作品を声に出して詠んでいた。私にとっても、初めての限りなく新鮮な俳句である。
 <月の夜は 菜の花の海で 魚になる>
 <本当のことをいえば 夜の机がしゃべり出す>
 メールには「夫と私も好きだった作品です」の言葉が添えられていた。私は、このふたつの俳句を声に出して天高く詠めば詠むほど、若いころの舞が魚に形をかえ、どこまでも天女になって空を昇ってゆく、そして夜の机までが俳句をしゃべりだし、魚と一緒に空の海を泳いでいるような、そんな錯覚にとらわれるのだった。
 (ここで突然、登場した百合カエデさんは、舞の入院前からの不思議な「一行詩」仲間のエニシがきっかけで互いに知り合ったばかりか、舞の手術前後にわたっては特に私たち夫婦を何かと励ましていただいた、かけがえのないお方だ。カエデさんとの交遊は、後編を楽しみにしてください。)

 その百合カエデさんに手術前、舞からメールで送られた一行詩二編は次のようなものだった。
 <ヤコブの梯子を登りたい>
 <此岸(しがん)から彼岸は遠いお父さん>
 百合カエデさんからは「新しい作品が読めて至福でした。昔と種類の違うやさしさと温かさのある作品ですね。昔の鋭くて熱い優しさも好きでしたが、今の作品も好きです。」の返事が私あてに送られてきた。

 平成二十二年四月十四日の午後五時を過ぎた。
 時計は刻々と今を刻んでいる。舞は、いまごろ手術室でどうしているのだろうか。二人の息子も時間がたつにつれ、黙りこくったままだ。腹を据えて結果を待とう。能登でお世話になった今は亡き女傑新聞販売店主・テルさんの言うとおり、ケ・セラ・セラでいこうよ、な。みんな。

 【午後五時十分過ぎ。】

「集中治療室のインタホンを押してください」と誰かが、女の声で言う。十八分。看護師が待機室を訪れ「イガミさまのご家族おいでですか」と声をかけてきた。たまたま、長男のAがトイレに行っており「すぐに参ります」と答えると「それでは、あとで集中治療室のインタホンを押して入ってきてください」とのこと。まもなくトイレから戻ったAと私、三男Cが心配顔で集中治療室に向かった。今度の部屋は集中治療室、306号室である。私は心配して待つ次男のBに、「お母さんの手術が終わった」とだけ、メールで知らせた。

 家族にとっての大手術が終わったのだった。
 (完)