短編小説「洞窟を抜けて」

「迷いの森」に踏み込んで、すでに四時間が過ぎた。
 肩にかけた水筒のコーヒーも底を突いていた。枯葉で埋まった地面を踏みながら、うっそうと生い茂る雑草を掻き分けて、良介はさ迷い歩いていた。ちょっとした探検気分でこの森に侵入したのが失態の原因だった。まだ抜け道が見当たらない。
 立ち止まって、リュックサックを足もとに置き、額の汗を白いタオルで拭いた。周囲は見渡す限りの樹々の群れである。ゆるやかな風が木の葉を揺らし、見上げると薄暗い空から鴉の鳴き声がする。
「………陽が沈んだらどうする。よし、頑張らんと」
 良介はやや重い足取りで進み始めた。そしてニ、三十分も経った頃だろうか、近くから陽気な歌声が聞こえてきた。
 低く、そして時に高く、軽快なリズムで男の歌う声が流れて来る。しばらくの間、良介は耳を澄まして歌声に聞き惚れていた。やがて、我に返り声のする方向に歩調を合わせ進んで行った。しばらくすると小高い丘があった。
その丘沿いに草を掻き分け、歩いて行くと、その片隅に大きな洞窟がポッカリと口を開いていた。
 洞窟の中はまるで墨を塗ったような暗闇で、静寂さと底知れぬ不気味さに引き摺り込まれる様な恐怖を覚えた。
 洞窟の入口の傍には男が一人、あぐらを組んで座っていた。男は登山服を着て、似合わぬ革靴を履いている。
 男は、肩肘が古ぼけた通勤カバンを突いて、片手にはウイスキーのボトルをかざしている。彼は大口を開いて歌声を上げていたが、良介の姿を認めると、顔色を変えてピタリと歌うのを止めた。
 そして少し怯えた口調で良介に問うた。
「――――あんたは大きな世界の人間なんだな。絶対に、わしに近づくな」
 すると良介はやや狼狽して後ずさりした。そして言った。
「大きな世界―――。あなたは一体何を言っておられるのですか」
 男はしばらく、良介をジッと睨んでいたが、やがて溜息を吐くと首をうなだれて、ぶつぶつ小声で言った。
「………わしはとことん人生に疲れたオンボロ男さ。後は何も残されていない小さな世界の人間さ。―――職を失い、妻と子供には見放された哀れな男だよ。………ああ、出来れば、あんたともあまり話したくもない」
 良介が言葉を選ぶように尋ねた。
「あなたはどこから来られたのですか」
 すると男はぐいとウイスキーを飲み込んで、吐き捨てるように言った。
「この洞窟の向こうだよ。向こうはわしの生きる世界だ。小さいが子供の頃のように懐かしい世界だよ。三日前、わしは自分の人生の最後をこの洞窟の奥底で終わらせようと覚悟して来た。―――
ところがどうだ。最後になるはずの洞窟は抜けてしまった。『抜けていたんだ』。そして、ここへ来ちまった。この大きな世界にさ。ここはわしの世界じゃない」
突然に、森を突風が吹いた。ガサゴソと木の葉がざわめいた。
良介が思わず男に問いかけた。
「これからどうされるつもりですか」
「―――恐ろしくて、もうあんたと話す気はない。さっき、洞窟の奥で犬の呼ぶ声がしていたな。………帰るか、自分の故郷に、そうさ………」
 男はまた前を向いて歌い始めた。良介はもう掛ける言葉がなかった。黙ったまま重い足取りで、もと来た道を引き返した。
 良介の背後で男の朗らかな歌声が響いていた。そして、しばらく噛み締めるように森の中を進み続けたあとで良介はふと思った。
「―――僕も人生の最後に、彼が望んだような、自分を包み込むような洞窟の底が待っているのだろうか。それとも………」
 良介の脳裏に得体の知れない不安なものがよぎったが、彼は、それを捨て去るように激しく首を振った。
「とにかく早くここから町に出よう。―――きっと、まだ帰りの列車には間に合うだろう」
 良介は明るく口笛を吹きながら、森の外れへと向かって行った……。

        了