掌編小説「宝くじの価値」

 と或る競馬場に設置された巨大なスピーカーから、最終レースの結果を知らせる女性のアナウンスが響いた。勝敗を知った場内からワアー!!と、大きなどよめきが起こった。  反応は一目瞭然である。勝って歓声を上げる者、拍手喝采する者、敗けて大声で怒りをぶつける者、ガックリと肩を落とす者。
 競争を賭けたレースは、まさに人生の縮図、人間模様が写し出されている。とにもかくにも、今日のレースは終了した。暮れかけた空の下で、たくさんの外れ馬券が突風に舞って踊るなかを、さまざまな思いを抱いて退場客たちがざわざわと声を上げ、群をなして競馬場から去っていく。
 
 あまりのショックに太郎は愕然としていた。彼の首からは、しょげたように双眼鏡が吊り下げられ、やや震えた片手には外れ馬券の束が未練がましく握られている。悲劇は終わりを告げた。やがて太郎は過ぎ去って行く人波をすがるように追いかけて行く。しだいにうなだれて帰り道をとぼとぼと進む太郎に冷たい風が頬を撫でる。
 実のところ、この週末に彼の会社から支給されたボーナスは、手取りで百万円を超えていた。それが今日の一日で、なんと残高三千五百円となっていた。太郎は必死になって何度も財布の中身を探ったが、それで金額が増えるわけもない。
『なんて無謀な事を…』後悔と情けなさで溜め息が出た。
『帰りの電車賃ぐらいには足りるか…』と、しぶしぶ諦め納得させているうちに、太郎は駅前広場にまでやって来た…。

 そこでガサッと音を鳴らせて太郎が何かを踏みつけた。チケットのような物を拾い上げると、それは一枚の宝くじだった。
 ベンチに坐り、改めてよく観察してみる。所々が泥によごれ、隅には何かの書き付けまでしてある。どうみても、当たりくじには見えない。太郎はふうと息を吐き、落胆した気持ちで周囲を見渡した。   
 大勢の人々が行き交う広場の中央で、大きな虹色の噴水が元気よく吹き上がっている。派手な歌謡曲で、女性の澄んだ歌声が商店街のあちこちにあるスピーカーから流れてくる。
「…秋のスーパー宝くじの販売は今日限りですう」
 そんなアナウンスに、ふと太郎は気を引かれた。みれば、商店街の角に小さな宝くじ売り場が店をひらいている。そして、その窓口には、年配でとんがり眼鏡をかけ、いかにも意地の悪そうな女の店員がどっしりと陣取っている。
『…宝くじか。ふむ、これはもしかしたら、今日の最後のチャンスかもしれないな』
 軽い調子でスタスタと歩んで、やがて売り場の前まで近づいた。
 そして出来るだけ大きな声で女店員に尋ねた。
「…悪いけど、この宝くじ、当選しているかどうか調べて下さいよ」
 とんがり眼鏡のおばさん店員が、ジロリと怪しそうに太郎を見上げてから、無言のまま、太郎の差し出した宝くじを受け取ると、それを小型の機械の挿入口に差し込んだ。しばらくして、無愛想な口調で女店員が答えた。
「残念だけど、外れだね。良かったら、また買っておくれよ。…それにしても、この宝くじ、泥だらけだよ。ふーん、なんかあやしいねえ…。これ、拾ったんじゃないの」
「と、とんでもない。ほっといてくれ」
 太郎は乱暴な手つきで宝くじをむしり取ると、そそくさとその場をあとにした。そのうしろ姿を、とんがり眼鏡の女店員がじっと眼を細めて見つめていた。

「ほい、中華ラーメン一丁、お待たせ」
 四角い顔をしたラーメン屋の主人が、カウンター席に立つ太郎の前にドンと湯気の立つ、どんぶりを置いた。調子よく太郎がグイとコップ酒を飲む。屋台のラーメン屋は、足もとがやけに涼しい。
 もう日はとっくに暮れて夜の繁華街である。勢いよく、ラーメンにコショウをふった途端に、大きなくしゃみが出た。すると隣の客が怪訝そうな顔つきで太郎を睨んできた。バツ悪くなり太郎は隣の客に軽く会釈すると、背中を丸めラーメンをすすり出した。
「おや、お兄さん。宝くじ外れたのかい。そいつは残念なこったな」
 例の宝くじはカウンターの上に載せたままだった。それをチラッと見て、四角い顔の主人が麺を茹でながら嬉しそうに口をはさんだ。
「そいつに書いてある数字はたぶん、兄さんの恋人の電話番号って所だね。若いって本当にうらやましい限りだなあ」
『…そうか、電話番号か』
 太郎はラーメンをすすりながら、横目で宝くじを見やる。くじの片隅に携帯の電話番号らしきものがボールペンで書き付けてある。
『これはたぶん、このくじの持ち主に関係した電話番号だろう。もしかしたら、本人のものかもしれないな。…よし、ここはひとつ電話して意地悪半分に、あなたの宝くじは外れてますよって教えてやろう。それで僕の腹の虫も少しは収まるかも知れないってもんだ』

 屋台ラーメン屋を出ると、さっそく太郎は携帯電話を取り出すと、おもむろに宝くじに書かれた電話番号にダイヤルした。しばらく、呼び出し音が鳴りそのあとに、男が低い声で呟いた。
「…そうか、あんたが、俺の命の恩人になるってことか…」
「あなた、いったい何を言ってるのですか」
 太郎は男の不可解な言葉に動揺しながら真意を探るように聞きかえした。
「だからさ、兄さんが、俺の宝くじに書いた電話番号を拾ってくれたんだろう」
「そ、そうですが…そ、それがどうして」
「どうせ、他人事だからさ。――訳を知りたきゃ、商店街通りを抜けた所の角に『夕焼け荘』の二階に住んでいる角田を訪ねて来てくれよ…」
 と言って電話は切れた。

 太郎はしばらく我を忘れていた。やがて気を取り直すと一度、深呼吸をしてから、改めて考えてみた。
『…男は命の恩人だと言った。何故だろう。男から話しを聞き出せば分かることなんだが、何か気味悪いよな、他人事だから関わらない方がいいかな…。でも、しかしな…』
 ぶつぶつ独り言を呟きながら太郎の足は、明るい照明がランランと輝き、歌謡曲が元気よく流れる商店街通り歩いていた。そうしているうちに、商店街はずれの暗い夜道にさしかかった。
 すると、すぐ傍の外灯に照らされて『夕焼け荘』の白い文字が眼に飛び込んできた。太郎は一瞬、気が怯んで立ち止まった。
『何か踏ん切りつかないな…しかしここで帰ると今晩、気になって寝れんだろうし。ヨーシ!覚悟を決めて』
 自分に気合を入れながら、二階建ての古い木造アパートの階段を登り始めた。

 三軒目に『角田』の表札があった。太郎にとっては、アパートを訪れることも初めての経験で、内心ドキドキとした緊張感と不安が、そして少しの好奇心が胸に渦巻いていた。グット唾を呑みこみ深呼吸して思いきってチャイムを押した。
 すると、いきなり扉が開き中年の男が顔を出した。赤黒く日焼けしたがっしりとした体つき、どこか苦労人を思わせるような匂いがあった。
「ヨオー、兄ちゃん、よく来てくれたな。遠慮せんと、何もないがあがってくれよ」
 上下、茶色のジャージー姿の角田は気安く言った。
「はい」と、軽く会釈して靴を脱いで部屋に入った。
 部屋の中央に卓袱台があったので、その前に小さくなって正座した。太郎は珍しく殺風景な部屋を眺めた。台所と六畳一間だけだった。テレビに小さな冷蔵庫が隅っこに置かれていた。テレビの上には年老いた爺さんと婆さんの写真が飾られている。
「兄ちゃん、小さくなってないで膝くずして楽にしろよ。ところで酒でも飲むか…。兄ちゃん、いけるんだろう」
「は、はい。いただきます」
 角田はコップ二つに一升瓶をさげて来て、太郎の前に胡座をかいて座った。
「あっ、ちょっと待てよ。スルメにピーナツがあったな」
 と言って、卓袱台に運んできた。
「まあ、一杯、飲んでくれよ」と言って角田は一升瓶を片手にコップに酒を注いだ。

 太郎はコップ酒をグイと飲むと、先程から喉の奥で声が飛び出してくる欲求を抑え切れずにいた。挑むように真剣に角田を正視しながら疑問をぶつけた。
「角田さん、何で僕が命の恩人なのですか?」
 すると角田の表情は急に暗くなり、コップ酒を置くと重い口調で話し始めた。
「見ず知らずの兄ちゃんに俺の事情を話すのもな…しかし、これも兄ちゃんが俺の電話番号を拾ってくれた縁なのかな。――実は俺、死ぬ気だったんだ。中学出て小規模の建設現場で三十五年間、安月給で地道に働いてきたんだが、会社は倒産、お払い箱ってわけさ。この二年、失業保険をもらいながらの職探し、しかしないんだよな。この歳になると、どこも拾ってくれやしないさ…」

「それで、死のうなんて思ったのですか」と、太郎は口を挟んだ。
「…金も底ついてくるし、それに俺は天涯孤独の身さ…死んだって誰も悲しみもしゃせんし、責任もない。さっぱりしたもんだよ。ただ、息吸って、吐いて、そんな生活には、もう飽き飽きしたし、絶望しか感じないな…もういいんだよと」

 そこで、太郎は大声で叫ぶように言った。
「…それなのに、あなたは、僕に命の恩人だといった!」
「でもな、親からもらった、この頑強な体だ。自殺して神さんから許されるものか…とことん最後まで生き抜くべきなのか悩んだよ」
 真剣な面持ちで太郎は緊迫する雰囲気に呑み込まれていた。
「どん底に追い込まれた俺は、まだ、この世間に繋がっているのか、チャンスを賭けるように大事な一万円で宝くじに答えを求めた。しかし、見事にみんなハズレ…繋がりは切れたと思ったさ。朦朧と崩れる思いの中で宝くじの片隅に世間と繋がっていた携帯の電話番号を記していた。遺言のように……。そして、自分と同様、紙くずのように街中に宝くじを捨て去った…」

 又もや、太郎は叫んでいた。
「それを、僕が拾ったんだ!!」
「…兄ちゃんの電話で、俺は、まだ世間と繋がっている。神さんはまだガンバレと答えを返してきたと思ったよ」
 太郎は、他人事であれホット溜息がもれた。
「ありがとうよ。兄ちゃん…俺も一度は失った命だ。親からもらった頑丈な体で体当たり人生、生き抜いてやるさ」

 太郎は帰り道、人生の重いものを背負ったが何か清々しい勇気づけられた体験は、ひとつ大人になったような気分だった。
『――僕がきっかけだけど、あの角田さんには、まだまだ生きる気迫がじゅうぶんあると思うよな…」
       (了)