小説「日本語ダイレクト」

 シドニーに来て半年になるのに、マーティン・プレイスをゆっくり散策したことはなかった。
 シドニーのオフィス街の中心、ジョージ・ストリートとマックォーリー・ストリートの間、約五百メートルに設けられたこのプロムナードには、いつも人があふれている。
 私は、シティにある語学学校で英語を学びながら、夜は小さな和食の店で働いていた。毎日、学校と職場を往復するためにここを通るのだが、ジョージ・ストリート側の入り口に定期的に現れるバグパイプ奏者や、くつろぐ人たちを目の端に留めるのみだった。
 クラスメートの千鶴が、マーティン・プレイスにある旅行代理店で働いてみないかと言う。シドニーに暮らして二年の千鶴は、フリーターをしながら、お金がたまるたびに小旅行に出掛け、その合間に英語の勉強をしていた。
 千鶴は中学の英語教師だったが、組織に合わない人間だとしみじみわかり、二年後にその組織に別れを告げたという。「自由な発言を許さない日本の民主主義は未熟だ。日本社会での自分は全身に薄い膜を張られたように息苦しく、皮膚呼吸をするのさえ困難だった」と、深いところから息を吐き出すように言った。組織の一員としてより、個を重んじる傾向にある千鶴は、日本社会では生きにくい人間なのだろうと私は想像した。
 彼女は南半球の広大な大地で、思いっきり息を吸いながら、自分らしく生きているようにみえた。私は学校を休んで千鶴と一緒にマーティン・プレイスに出掛けた。翌日、面接を受ける予定の旅行代理店は、ビクトリア様式のどっしりした建物の二階にあった。
 「ピット・ストリートから入った方がわかりやすいわ。覚えておいてね」
 千鶴はそう言い、『Fトラベル』の所在地を確認後、私をお気に入りのカフェに連れて行った。
 クロワッサンとキャロットジュースを千鶴が、私はカプチーノとチーズケーキをオーダーした。クロワッサンもチーズケーキも日本の倍の大きさで、味にもこくがある。
 隣に坐った老夫婦は、バケットのサンドイッチのハーフサイズを一つ注文し、それを半分に切ってもらい、穏やかに会話をしながら慈しむように食べていた。北欧の美しい公園のベンチがこの人たちには似つかわしい、私は唐突にそんなことを思った。
 オーストラリアの人口の七割以上がイギリス系だという。だから、きっと紳士、淑女の国に違いないとの私の予測は残念ながら外れていた。この国では、大学教育を受けた人は美しいイギリス英語を話し、そうではない人は訛りの強いオーストラリアン・イングリッシュを話すという。アクセントや発音が独特のオーストラリア英語に私は馴染めずにいた。
 言語でその人の学歴がわかってしまうなんて理不尽ではないか。確かに言葉遣いには、その人の知性や教養が表れる。けれど、高学歴の人が等しく教養が高いわけではない。このことは私も実感するところだけれど、日常生活のなかで、素性をさらしながら生活しなければならない一部のオーストラリア人に、私は密かに同情していた。
 車の運転にも譲り合いの精神は含まれていないようだった。この発見は少なからず私を失望させた。十年落ちのダットサンが私の愛車だった。坂道の多さに辟易した私は、わずかな所持金をこの車を買うことにあてた。そして、駅の近くに路上駐車をし、電車でシティに通うようになった。これは、シドニーに住んで三ヵ月半ほど経ったとき、現地の人から学んだ知恵だった。道路の幅は広くゆったり車が止められた。
 私はシドニー北郊外の外れに住んでいた。経済的に豊かな層は、シティに近い海の見える高台に住んでいるという。私の周りは、ワンランク下の生活を余儀なくされた人たちばかりらしい。それに、私が学校と職場とフラットを往復するだけの単調な生活をしていたこともあり、紳士、淑女にはなかなかお目にかかれなかった。けれど、サンドイッチを仲むつまじく頬張っている年輪を重ねた夫婦の上品なたたずまいは、私のオーストラリア観を変えるに値するものだった。
 「素敵なご夫婦ね。絵になる感じ」
 「私のホームステイ先の人たちに似てるわ。風貌も年代も」
 キャロットジュースをストローでかき混ぜながら千鶴が言った。
 「千鶴さんはラッキーね。どうやってみつけたの、そこを?」
 「両親の知り合いの、知り合いよ。すごく居心地がよくってね。ますます日本が遠のいてしまう」
 千鶴は目で笑った。
 「うらやましい! 私のフラットはオーストラリアの女の子とシェアなのよ。英語の勉強になるからその点はいいんだけれど、週末には必ずボーイフレンドがやってくるの。二人ともM大学の学生らしいけど、もーって感じ」
 ここには日本語を解する人はいないようだ。トーンを落とす必要もない。
 「わかる、わかる、その気持ち。夜が恐い、でしょ?」
 「こちらは仕事でくたくたになって帰ってくるのよ。なのに、あちらはすでにベッドでボディトークの最中、なんてことざらなんだから。まったく遠慮がないのね。まるでこの地球上に存在するのは二人だけって感じ。私の部屋とはバスルームで隔てられてるだけでしょ。音も声も全部聞こえてくるの」
 私は胸のなかの複雑な思いとは別の淡々とした声で言った。
 千鶴は私の声の調子を完全に無視してダイナミックに笑った。その拍子にクロワッサンが口から飛び出してしまい、それをペーパーナプキンに包みながら彼女が言う。
 「私だったらマドンナを目一杯ボリューム上げて聴くか、シャワーをガンガン浴びるか、友達と電話でしゃべりまくるか、のどれかだな」
 「耳栓よ。耳栓しっかり奥に詰め込んで、ふて寝するの。ともかく私は部屋を変わりたい。いいところあったら紹介してよね」
 こちらでは家賃を浮かせるために何人かで共同生活をするのは当然のことけれど、同居人の質によってこの国のイメージが上がったり下がったりするのもまた当然である。私がこれまでに関わったのは、きめの荒さの目立つ人たちばかりだった。
 その分、余計な気遣いのいらない利点はあった。それに、もし私がきめ細やかな人間だったとしても、それをうまく伝える術がない。言葉の壁は大きいし、私のそうした主観はオーストラリア社会では無用の長物かもしれない。そんなことを思いながら窓の外に目を向けた。
 お昼時のマーティン・プレイスは、大変な賑わいである。ベンチに腰掛け、テイクアウトのランチを広げる人、新聞や雑誌を読む人、花や果物を買う人、など思い思いに時を過ごしている。ホームレスが無心にゴミ箱をあさる姿は、ここの風物詩の一つのようだ。
 「旅行代理店で働くなんて考えてもいなかったし、経験もないけどできるかしら。期間はどれくらいなの?」
 「一ヵ月くらいよ。日本人の社員が一人いるんだけど、おじいちゃんが病気だから東京の実家に帰りたいんだって。代わりがみつからなければ乃里子さん困るのよ」
 「千鶴さんの方がふさわしいんじゃない。語学力からいっても」
 「ほんとうは私が働きたいの。あそこは日給が高いの。税金を差し引いて七十ドルくれるのよ。でもね、私は今、ノースシドニーで日本語教えてるの。タイミングが悪いわ」
 入り口のドアが開いて空気が揺れた。入ってきたのは千鶴のビジネスイングリッシュの先生と司書だった。二人は私たちに「ハーイ」と声をかけ、奥の席に腰をおろした。
 「あの二人、いい関係らしいわ。結婚するとかしないとか、生徒の間の最大の関心事みたいよ」
 「何でも詳しいのね、千鶴さんは。で、旅行代理店の話はどこから来たの?」
 「前にあそこで働いたことがあるの。といっても二週間なんだけど。その時は乃里子さん、イタリアへ旅行に行ったんだって。そんな訳で私に連絡があったのよ」
 乃里子さんはその会社に勤務してもう四年になるという。私は自分の英語にあまり自信がなかった。日本人が一人もいない職場で何ができるのか不安だった。そういう私の気持ちを察するように千鶴が言った。
 「働いているのは全員女性よ。いい人ばかりだから大丈夫。みんな忙しいから、せいぜい邪魔をしないように。後はレオっていうイタリア人の事務の子に何でも聞けばいいわ。乃里子さんが出発前に仕事の説明はしてくれるし、心配するほど難しい仕事はないわよ」
 私は未知の世界に足を踏み入れることにした。失敗を恐れるよりも事後処理をいかにするか、そちらにより多くのエネルギーを費やしてみようと思った。そうでなければ、わざわざオーストラリアに来た意味がない。自己を改革しなければ、と不安を打ち消すように自分に言い聞かせた。

 私は短大を卒業後、幼稚園の保育士をしていた。仕事は面白かったが園長と反りが合わなかった。園長は五十代の半ばだったが、幼児教育に一生を捧げるつもりなのだろう、独身を通していた。彼女は独特のポリシーを持ち、時代に迎合することは決してなかった。子どもにとって、もっとも大切なものは何かを見極めていた。
 親に対してのパフォーマンスを心がけたり、早期の知育教育をうたい文句にするような幼稚園が多いなか、園長の方針は、あくまでも子どもの内面や視点を大切にしながら社会的なルールを身につけ、友達と仲良く遊び、丈夫な体を作り、創造性を高めることなどに重点が置かれていた。すぐには結果が出ない子育ての遠い将来を見据えての保育がなされていた。その点では私は園長を尊敬していた。
 二十人のクラスが三つの小規模幼稚園だった。職員は園長と保育士が三人、それに通園バスの運転手と給食兼雑役係の「おばちゃん先生」の計六人。県下で園費が一番高額とのことで、当然ながら子どもたちはゆとりのある家庭の子が多かったし、親も熱心だった。その親との間で毎日お便り帳が交換された。
最初のページには、こう記入するのが習わしだった。

 ──ご入園おめでとうございます。この連絡帳では、幼稚園での○○ちゃんの様子をお伝えしていきたいと思います。お母様もお忙しいとは思いますが、ご家庭での様子を書いていただいて、これを手立てに一層○○ちゃんを伸ばしていきたいと思います。よろしくお願いいたします──
 私は○○ちゃんの部分に間違えて他の子の名前を記入する、というヘマをよくやった。赤のボールペンで書くことになっていたため、修正液の跡がしっかり残ってしまう。こんな初歩的なミスをして、と園長にこっぴどく叱られた。
 二十人の子どもたちを事細かに見、その様子を敬語を使って表現するのだった。
 例えば、
 お部屋に入ってこられました。
 お花に水をあげてくださいました。
 うれしそうに見ておられました。
 走り回っておられました。
 登園されますと……
 という具合に。
 この他に、すべての園児に三年間の成長記録を作り、それを卒園式に渡すのである。毎日、欠かさず子どもの発した言葉や行動を書き留めておく。子どもの描いた絵や折り紙、折々に撮った写真や家から届いた年賀状や手紙の類、それに園に提出された病院の診断書なども貼りつけた。まるで成長記録の代行業を請け負っているかのようだった。
 ここにも時々園長の検閲が入った。そして、目のつけどころがよくないとか、子どもの心の動きを重視すべきだとかチクチク文句を言われた。私は次第に自信をなくし、大先輩に教えを請うのだという気持ちを失っていった。
 園長は自分自身にも周りの人間に対しても厳しい人だった。私は他の職員のように園長色に染まれなかった。次第に疎外感や閉塞感が私を支配するようになった。
 園児が三年で卒園するのと同じように、私も三年間勤めた幼稚園に別れを告げた。子どもたちはかわいかったけれど、疎ましさを感じることがままあった。おもちゃを奪い合って喧嘩をする子、自分の思うようにならないとすぐ涙をこぼす子、ちょっと目を離したすきに危険なことをする子、よくおもらしをする子などいろいろだった。
 譲り合いの精神を発揮してみんなとなかよく出来る子や、私が忙しそうにしていると「先生、お手伝いしてあげる」と、せっせと後片付けを手伝ってくれる子もいた。
 子どもが様々だったように、親もまたそうだった。子どもの言葉に過敏に反応し、事情を詳しく知らないままに、お便り帳に感情的な言葉を並べる親もいた。小さな子どもから、その子の家庭の様子が透けて見えた。

 千鶴に言われたとおり、Fトラベルへはピット・ストリート側から入った。オフィスに入ると五十歳前半とおぼしき女性が応対に出た。唇に精一杯の親しみを浮かべている。陽気な感じが伝わり私は緊張を緩めた。
 「すみません、乃里子さん、いらっしゃいますか?」
 私は英語のエキスパートのように言ってみた。
 「Oh, you are Japanese!」
 乃里子さんから私の来訪を聞いていたのだろう。彼女はそう言って衝立の向こうへ声をかけた。私はこの人が社長のフィオレラだと予想したが、それは当たっていた。このオフィスで唯一の日本人社員の乃里子さんが衝立の前に現れた。「こんにちは、はじめまして」と、ありきたりなあいさつを交わす。
 外観に反しオフィスは近代的だった。改装がなされたのだろう。このモダンな部屋に障子の衝立が少しの違和感もなく収まっている。それを話題にすると、「明かりが遮られないからみんな気に入っているの」と、乃里子さんが表情を変えずに言った。
 乃里子さんはシドニーに来て六年になるという。初めは千鶴や私と同じように「ワーキングホリデー」でこの国に入った。これは、働きながら英語の勉強ができる十八歳から三十歳までの人を対象に発給されるビザで、期間は最長一年。更新するためには三ヵ月のファーム作業が義務づけられている。
 彼女はビザが切れる直前に日本に帰り、今度は学生ビザを取得し、オーストラリアへ再入国したのだった。Fトラベルとは、仕事を探してワーキングホリデー事務所に出掛けたとき、掲示板を目にしたのがきっかけで縁ができ、短期のアルバイトを何度かするうち社長に認められてフルタイムで働くようになり、今ではワーキング・ビザを持っているという。
 専門的な教育を受けていなくても実力をつければ、こうして異国の地で外国人と対等に仕事ができるのだ。乃里子さんが偉大に思えた。けれど、日本を離れて六年たった彼女に同時代を生きる日本人としての面影はない。瞬時に世界の情報が駆けめぐる今日だが、乃里子さんは今の日本からは置き去りにされている。
 日本のスピードにも流行にも無縁の土地で、彼女は独特の世界をつくりあげているようだった。かといってオーストラリア人にもなりきっていない、宙ぶらりん状態を彼女のなかに見た。オーストラリアが気に入っているというけれど、そこに帰属意識を見いだすのは可能なのか。初対面の人に立ち入った質問のできないもどかしさを感じたが、私の一番知りたいのはそのことだった。
 乃里子さんと日本との物理的、精神的な距離はとても大きいように思えた。私もそういう状況で暮らしてみたい。ある部分で責任逃れのできる気楽さがあるのでは? 性分に合っているかも? と、彼女の毛羽だったニットの紺色のカーディガンに目を遣りながら、不謹慎にも私はそう思っていた。彼女はそういう私に違和感を抱いたのか、変な日本人とでもいうような一瞥を向け、仕事の概要を説明し始めた。
 Fトラベルは旅行代理店業務に加え、ベルギーの首都、ブリュッセルに本社を置く保険会社の代理店もしていた。
 私の仕事は
 その保険会社の東京支店との連絡業務。
 「大日本クレジット」のハローデスクの窓口業務。
 シンガポールにある「東亜火災海上保険」のオセアニア地域の日本語受付センターとの連絡業務。
などであり、海外旅行傷害保険加入者がオーストラリアで盗難や事故にあったり、病気になった場合などに日本語でのアドバイスやサービスを提供するというものだった。
 さらに、
 クイーンズランド州にある、日本人経営の語学学校、S学園の日本人留学生の医療費請求業務。
 私は不安を覚えた。これらの仕事は私の能力や受容範囲をはるかに越えている。乃里子さんはそんな私の思惑にはかまわず、前任者から引き継いだという古びた大学ノートを手にして、私にパソコンやテレックスの使い方を説明した。彼女の心は、すっかり病気のおじいちゃんに飛んでいるようだった。
 ハローデスクには日本人旅行者から様々な問い合わせや要求があるらしい。乃里子さんは日本人医師のリストを見せ、「このドクターとこちらのドクターの評判がいいわ」と指し示した。
 そして、最も依頼件数の多いという帰りのフライトの予約確認、リコンファームの仕方を説明した。予約がしてあっても七二時間前までに再確認をしないと予約が取り消されることがあり、注意がいると言った。私は彼女に言われたとおりのことを、まるで生真面目な学生のようにノートに書き込んだ。
 一通りの説明が脳にどの程度残っているのか心配だったが、日本語のマニュアルがあることに私は安堵した。ともかく、いまさら後退りできない。当たって砕けろ、こんな仰々しい言葉が私の胸をよぎった。乃里子さんは、「よろしくお願いします」と言っただけで、取り立てて心配そうな様子はみせなかった。こんな重要な仕事をよく素人に任せられる、随分大胆なのだ。私は恐れと感慨の入り混じった複雑さで自分に与えられた立場を受け入れた。
 乃里子さんは、七人の社員の一人ひとりに私を紹介した。どの人もパソコンから私に目を移し、親しげにあいさつをした。美しい英語を話す人ばかりだった。ただ、ミリアムはフランス人とのことで、それらしいアクセントがあったし、イタリア人のフィオレラのそれはカンツォーネ風の歌うような英語だった。
 最後に紹介されたのは、私が一番お世話になるであろう、レオだった。彼女の英語にイタリアの影はなかった。フィオレラもレオも愛嬌があり親しみを感じた。私はこの職場に好感を持った。センスのいい細身の女性たちが第一線で働いている。レオだけは体型が違うけれど、みんな輝いていて素敵だった。
 私が三年間働いた職場は封建的だった。それに比べ、ここには抑圧のかけらもない。私はまばゆい思いで彼女たちを見つめた。それと同時に私は乃里子さんの中途半端な状態を、彼女のファッションセンスも含め改めて思ったことだった。仕事は引けを取らずにしているのだろうけれど、どこかその輪郭を溶け流してしまうものを感じたのだ。
 「ここで仕事をするに際し、特に注意すること、ありますか?」
 私は用心深く聞いた。
 「何もないわ。言いたいことははっきり言うってことくらいかしら」
 彼女はそう言って初めて口元に笑みを浮かべた。日本、あるいは日本人を拒絶するような硬質なものを彼女は内包していた。
 朝九時に出社する。コーヒーの香りがオフィス全体を包んでいる。社員の姿はまだ半分しかない。レオは私にカップを用意し、コーヒーをすすめてくれた。私は礼を言って、コーヒーを満たしたカップを乃里子さんの机の上に置いた。こうして私の旅行代理店勤務の初日が始まった。
 社員全員の姿が揃ったのは十時頃である。フィオレラは更に一時間遅れの出社だった。レオは電話の応対や、郵便局に出掛けたり、カップ類を洗ったりと日本のOLと同じような仕事ぶりだった。
 第一日目はこれといった重要な仕事はなかった。手持ち無沙汰な私に気を遣ったのかフィオレらがそばに来て言った。
 「ここには日本語の分かる人は誰もいないの。あなたしか日本語での対処はできないのよ。あなたは大切な人なの。いい、このことを忘れないでね」
 私は「ありがとうございます」と答え、精一杯の笑みを返した。
 結局その日は前月分の売り上げの計算と、小切手を送るために何枚かの封筒に住所と宛名を印刷したのみだった。空いた時間には英語の勉強をすることも許された。翌日から私は英語の教材を持って出社した。
 昼休みは好きなときに一時間とっていいとのことだった。私は十二時から一時までをそれに当てた。レオにそう伝え留守番電話をセットし外へ出た。駅に通じる地下街に東京ロールという持ち帰り専門の寿司屋がある。私は海苔巻きといなり寿司のセットとお吸い物を買いマーティン・プレイスに戻った。
 両側にぎっしり立ち並ぶ高層ビルから、勤め人のほとんどがこの場所に集まったのではないかと思えるほど多くの人が行き交っている。私もそのなかの一人のようにベンチに空席をみつけ、端に腰掛けた。
 隣の赤いネクタイのビジネスマンは、新聞を読みながらミートパイをぱくついているが、私にはまったく無関心の様子。私はなんだかうれしくなって空を見上げた。光を増した十一月下旬のシドニーの空が青く高く無限に広がっている。一陣の風がわたり木の葉がさざめいた。私はやさしい風に包まれた。雑踏のなかでも心が落ち着いた。思いがけない発見だった。
 私はオーストラリアの人口の数パーセントを占める東洋人の一人。それ以外の何者でもない。その辺の路傍の石の一つにすぎないのだ。なんと心地良いのだろう。久しぶりの海苔巻きといなり寿司。日本にいる間は特に好んで食べた記憶のない物がすごくおいしい。日頃の私は貧乏学生そのもので、毎朝代わり映えのしないサンドイッチを作り、バッグに忍ばせていたのだった。
 二日目からはコンスタントにいくつかの仕事があった。まずは東京からの依頼でオペラハウスでのミュージカルの空席の有無と料金を調べることだった。早速、電話で問い合わせ結果を東京へ連絡する。ミセス見藤名で二人分を予約した。予約係もネイティブスピーカーでないのを察してか、ゆっくり丁寧に対応してくれた。大役を一つ終えた後の充足感に私は包まれ、その後の仕事も難なくこなせるような嬉しい予感がした。
 日本語ダイレクトへの直通電話がフラッシュするたびに緊張を秘めて電話に出る。掛けてきた方は異国の地での日本語対応にホッとするようだ。
 かわいらしい女性の声がディナークルーズの予約をしてほしいと告げた。向こうが指定し、電話番号まで示したKクルーズで二人分の予約を済ませる。声に甘さが漂っており、ハネムーンに訪れたカップルだろうと想像する。
 フィオレラがそばに来て「今の電話は何だったの?」と聞いた。ディナークルーズの予約をした旨を報告すると、そこの電話番号を教えてほしいと言う。彼女は私の前で予約が正しくできているのか確認の電話を入れた。私はドキドキしたけれど、それより不快感が大きかった。
 電話を終えた彼女は、「Thank you very much」と唇と目尻に笑みを乗せて言った。顧客に失礼があってはならないし、私の仕事ぶりを試してみたのだろう。この一件以来、社長はそうした口出しをしなくなった。
 社員たちは相変わらずコンピューターとにらめっこしながら電話の応対に追われている。とても忙しそうだ。美しいレディたちには不釣り合いなケンカ腰の口調が多いのに私は驚いてしまう。目の遣り場、耳の遣り場に困ってしまうのだ。
 曖昧模糊が得意な日本語圏の人間である私にとって、英語は直截的にすぎるのだ。嵐が去るのを待って私は目を伏せる。だが、お互いに言うべきことを言った後は何事もなかったように時間が流れていく。こうして瞬時にストレスを噴出させていれば、うつうつと不健全なものを引きずる必要はない。西洋の合理主義の一つがここにも燦然と輝いている。
 和食の店の従業員は日本人ばかりだったし、語学学校も外とは隔離された世界だった。温室育ちの人間がいきなり荒野に放り出されたような衝撃だった。しかし、これが現実なのだ。乃里子さんのアドバイスも言いたいことをはっきり言う、の一点ではなかったか。早くこの雰囲気になれよう。異なった空気の層に分け入って、彼女たちの会話を皮膚で呼吸し咀嚼してみよう。私は悲壮感を燃料に離陸するセスナ機の気分になっていた。
 他のラインに掛かった電話をレオが「Japanese」と言い私に取り次いだ。日本の大手旅行代理店の女性ツアーガイドからで、メルボルンを旅行中の男性客が岩場から足を踏み外し、骨折して入院したという。気の毒だけれどドジだな、きっと他のツアー客にも迷惑が掛かっているのだろうとため息をつく。
 その直後に東亜火災海上シンガポールからこの件について連絡があった。英文の書類を一つひとつ読み取り、その返事をシンガポールへ送る。日本語マニュアルを見つつ緊張とともに書類を仕上げた。それをカレンに確認してもらい、言われたように担当者欄に私の名前を記入し先方へ送ったのだった。かなりの時間とエネルギーを要した。
 医療費の支払いなど細かい打ち合わせがあるとのことで、今度は「担当者」である私あてに電話が入った。「日本語受付センター」の管轄だから日本語での会話が可能だと思ったけれど、受話器を通して聞こえてきたのは英語だった。私の語学力ではとても込み入った話はできそうにない。
 私はこの会社のチーフというべき存在のカレンに電話を代わってもらえないか恐る恐る聞いた。カレンは多分、三十代前半で独身の覇気あふれる女性である。ハスキーな声でフィオレラとやりあう姿は迫力に満ちている。骨太で余分な脂肪を極力そげ落としたような体をしている。それに、とてもおしゃれな人だった。
 カレンは、「あなたの仕事でしょ!」と大きな目をまっすぐ私に向けて言った。私は絶望的になりながら「My English is still poor, I cant deal with them」と真実がこぼれ落ちるように言った。彼女はガハハと笑いながら電話に出た。そして、ありがたいことにこの件については、最後まで責任を持ってくれたのだった。
 その翌日、また大きな仕事が舞い込んだ。こちらは五十代の男性で、ハミルトン島に滞在中だが高熱のため医師を紹介してほしいという。ホテルのフロント係から連絡が入った。折り返し電話を入れる。本人に容態を詳しく聞くつもりだったが、電話にも出られない状況らしい。同室の女性の声は若かった。私と同じくらいの年齢に思われた。受話器を伝わる声におどおどした響きがあった。私は秘密の匂いをかぎとった。
 私が持っている日本語版のガイドブックによるハミルトン島の紹介はこんなふうになっている。
 『夢に見た南海の楽園が目の前にある。熱帯特有の木々と簡素な港が気分を盛り上げてくれる。海はどうして青いのだろう? という素朴な疑問が頭に浮かんでしまう。ともかく息をのむ素晴らしい世界が目の前に広がるのだ。
 世界最大規模の珊瑚礁のリゾート、グレート・バリア・リーフは長さが日本列島とほぼ同じで約二千km、そこに大小六百あまりの島々が浮かんでいる。そのうちの一つで大型ジェット機が離着陸できる唯一のリゾートアイランドがハミルトン島である。
 島全体が一つの大きなホテルのように機能している。フロントは一カ所にまとめられているが、チェックインをすませこの島の住人になった人はそれぞれが選んだ好みのわが家へ向かう。ポリネシア風のコテージもあればキッチン設備を整えたコンドミニアムも高層建築のホテルもある。一時の住人たちはとびっきりの笑顔で豊かなマリンライフをエンジョイする』
 このカップルはたとえ短期間でも一切の現実から逃避するために、南海の楽園を訪れたのではなかったかと私は勝手な想像をする。なのに、こんな夢のような風景のなかで、志半ばでアクシデントに見舞われてしまった。二人のストーリーはこの後どんな展開を見せるのだろう。
 私はもの悲しいような思いで──なぜこんな気持ちになるのか分からないのだが──医師を手配し、ホテルの部屋まで往診に行ってくれることを伝えた。そして、「また何かありましたら日本語ダイレクトへお電話ください」と言って受話器を置いた。
 私もハミルトン島へぜひ行ってみたいと思っていた。国内旅行なら安く行けるはずだ。Fトラベルでもらう給料をそれに充てよう、そんな思いが急に頭をかすめた。一日七十ドルで月曜から金曜の勤務が四週間、私は一千四百ドルの大金を手にするのだ。それまではモノクロだったハミルトン島が鮮やかな色彩を伴って私の目の前に迫った。
 一仕事を終えコーヒーをすする。私に背を向けて坐っているキャシーの机の上には、クリスタルの花瓶に黄色のガーベラが全方位に向けて挿してある。私は今、初めてそのことに気づいたのだった。
 今日はフィオレラの姿はない。そのせいか雰囲気がリラックスしている。レオは観葉植物に水を与えた後、「郵便局に行くけど何かいるものない?」と全員に声を掛けるように言った。レオの身長は低めのドラム缶体型、なのにギャザーを寄せたり、フリルのついたかわいいドレスが好みのようだ。より体が膨らんで見えるのを彼女は自覚しているのだろうか、などと思いつつ私の視線は瞬時レオの豊かな胸にとまる。彼女のおしゃれのポイントは胸を大きく開けることらしい。左右から押しつけられ、真ん中で重なり合ったバストがチャームポイントと本人は認識しているようだった。
 みんながカプチーノを頼んだので私も加えてもらった。それと同時に日本語ダイレクトがフラッシュした。急いで受話器を取る。
 「あのー、クレジットカードをなくしてしまったんですけどー」
 若い女性の落ち着きを失った声が聞こえた。私はベテランOLのように受話器を左肩と顎に挟んで耳に当て、右手で日本語マニュアルのページを繰りながら質問事項を確認した。名前と生年月日、日本の住所とオーストラリアでの滞在先、カード番号、紛失場所と日時、その時の状況を尋ねることになっている。
 彼女は私の質問に順番に答えたが、紛失した時間は分からないしカード番号も控えていないと声が消え入りそうだった。
 「カジノにいて、バッグを床に置いたと思うんだけど……酔っ払ってて……よく覚えていないの。カジノには夜明けまでいたわ。それは二日前のことなんだけど。今日、免税店でお買い物しようとしてカードがないのに気づいたの。友だちにも聞いたんだけど、誰も知らないって言うの」
 私は必要事項をメモし、バッグは盗まれていないか聞いた。もしそうならば警察に届けるのがベターだと思ったからだった。
 「バッグも財布もあるんだけど、カードだけないの」
 変な話だと思いながら、「カードの無効届けの手続きをしますからご安心ください」と言って電話を切った。所定の手続きを東京へ送る。数分後に無効届け受理の連絡が東京から入った。
 社員たちは決まった時間に昼休みをとらないし、五時になっても帰宅しない。それは忙しさに加え、時差のある国との連絡に起因しているようだった。時間がくればサッと帰ってしまうのは私一人だった。私には束の間ここで働くだけという気楽さがあった。自分の職務だけきちんと果たせばよいと割り切り、先に帰宅することに後ろめたさを感じなかった。私はこの国が以前より好きになった。
 翌朝、会社に着くと同時に日本語ダイレクトがフラッシュした。
 「昨日お電話した者です。あのー、カード出てきました。ギャンブルで熱くなっちゃったのか、お酒を飲み過ぎたのか、別のところに入れておいて、すっかり忘れちゃってたんですー」
 声がスキップしている。日本人は平和で幸福でいい。非日常での出来事とはいえ、妬みと冷笑と日本人を第三者的に見る自分に驚くこの感覚を、私は今後どう処理していくのだろう。そんなことを考えながら私は無効届け解除の連絡をした。再び十分もしないうちに東京から返信があった。一度無効にしたカードの復元はできない。帰国後、再申請してほしいと記されており、そう保持者に伝えた。
 この書類申請の書き出しは、こちらからも東京からも、「いつもお世話になります」とか、「ごくろうさまです」で、そう書くたびに私は日本を強く意識した。
 Fトラベルでの勤務を終えた後、私に残された滞在期間は五ヵ月。後の日々をどう過ごすべきか、そんなことを考え始めていた。語学学校へはいつでも戻れるけれど、和食の店はやめてしまった。職探しをしなければならない。乃里子さんや千鶴のように、ひっきりなしにワーキングホリデー事務所に顔を出せば、今回のようないい仕事にありつけるのだろうか。

 十月中旬にデパートにクリスマスコーナーがオープンした。それから一ヵ月後、街はクリスマスデコレーションで染め上げられ、あちこちに巨大なツリーがお目見えした。マーティン・プレイスでは中央郵便局の前に設置された。強烈な真夏の太陽とクリスマスツリー。否が応でも南半球にいるのを実感させられる。
 この国の人にとってのクリスマスは、キリスト教徒の大切な宗教的儀式であるとともに、一年で最も大きなお祭りという側面を持ち合わせている。
 土曜日の午後、私は十年もののダットサンを運転して郊外のショッピングセンターへ出掛けた。このあたり一帯にはデパートやスーパーマーケット、ブティックに宝石店、レストランにベーカリーなど、あらゆる種類の店が軒を並べている。
 シドニーはハーバーブリッジを境に南北に別れているが、ここは北側の代表的なショッピングスポットになっている。近くにスケールの大きな駐車場がいくつかあり、全店共通になっていて三時間まで無料。駐車券にスタンプを押してもらう必要もないし、デパートとスーパーマーケットは連絡通路でつながっている。こういう大らかさを私は気に入っている。華美な包装や丁寧なあいさつはなくても、顧客サービスが行き届いている。
 一階から三階までが吹き抜けになったショッピングセンターの、天井に届きそうなツリーに私は目を見張った。「冬のクリスマス」とまったく同じ装飾が施されている。雪の情景があるのだ。《サンタクロースと一緒に写真を撮りましょう》コーナーも人気のようだ。何組かの親子連れが列を作っている。真夏のサンタの出で立ちは冬の正統サンタとまったく同じだけれど、サンタさんの隣では扇風機がせわしく回っている。
 南の国のサンタはサーフィンに乗ってやってくると聞いたことがあるけれど、ここのサンタさんは金色のソリに乗り、満面の笑みで子どもたちと一緒に写真に収まっていた。ムードは盛り上がり、プレゼントを買い求める人たちでごった返している。一回り小さなちょっと趣の違うツリーの前で私は思わず立ち止まった。なんと、オーナメントは色鮮やかな熱帯魚や貝殻だったのだ。意外性に富んだクリスマスツリー。心楽しくなった私はウエッジウッドのカップとソーサーを自分のために買い求めていた。ウインドウショッピングを満喫し私はフラットに戻ることにした。
 シドニーは日本と同じように「車は左」だから運転はしやすい。けれど、一方通行と右折禁止のオンパレードには参ってしまう。私はパシフィックハイウェイという幹線道路沿いのフラットに住んでいた。とはいっても建物は道路からかなり引っ込んでいたし、付近には芝生を敷き詰めた、遊具やバーベキュー設備の整った広大な公園や林があり、騒音公害とは無縁だった。
 そのショッピングセンターから家に戻るためには右折しなければならないのだけれど、右折できる場所は私のフラットから一km 南だった。私は右手にフラットを見ながら南下し、大回りをして駐車場にダットサンを入れたのだった。シドニーでは交通事故がきっと少ないだろう。まだ一度もその現場に遭遇していない。

 日ごとに光の粒子がエネルギッシュになるようだ。大木に藤の花を付けたようなジャカランダが緑に映えて美しい。民家の屋根に届きそうなブーゲンビリアも光の強さに呼応するように咲き誇っている。線路沿いには大きなゴムの木が、まるで松の老木のように威厳を漂わせて大地に根を張っている。
 私は毎日、電車でハーバーブリッジを渡った。世界三大美港の一つに挙げられるポート・ジャクソン湾と、帆船をイメージして造られたというオペラハウスと、紺青の海に浮かぶヨットの白い帆など、絵はがきの中の風景と潮の香りを満喫しながら暮らした。電車は途中まで地下を走っているのだが、地上に出た途端このパノラミックな景観が目の前に広がるのだった。
 今日はS学園の生徒たちの医療費にかかわる請求書作りに忙殺された。まず、S学園から送付された請求書を医師の診察料と薬代に分ける。そして、ここに保管されているポリシーナンバーが合致するかを確認する。意外に多くの病人がいるのに驚いた。仕事量が多くとても一日では終わりそうにない。一息ついたところへ日本語ダイレクトがフラッシュした。
 「あのー、おみやげを買いすぎて荷物が増えちゃったので日本に送りたいんですけど、送料とどのくらい日数がかかるのか知りたいんですけど……」
 これじゃまるで、よろず相談所ではないか、何という電話をと苦々しく思ったのは一瞬だった。他に尋ねる術がないのだろう。この会社の評判を落としてはならない。せっかくのシドニー旅行の印象を悪くしてもらってはいけない。それに私自身が意地悪な日本人と思われては困る、などと日本人的感覚を全面に押し出して私はこう答えていた。
 「送料については私もよく分かりませんので、郵便局に行って調べてきます。明日の朝もう一度お電話ください」
 私はこの人の優しい声や感じの良い話し方に、断る気力を失っていたのかもしれない。料金表を手に入れるために中央郵便局に出掛けた。シドニーの気候は一日のうちに四季があると例えられる。マーティン・プレイスを行き交う人々の服装も様々だ。夏の真っ只中の今日の気温は二二度。二日前は三三度の猛暑だった。あまりの暑さに現地の人が大騒ぎしても、日本のように蒸し暑くないから日本人の私にはしのぎやすい。
 Fトラベルの社員の服装もまちまちである。私は薄手のウールのスーツにシャツブラウスの装いだが、フィオレラは白い半袖のパンタロンスーツに胸が大きく開いたリブ編みのニットを着ている。私は「寒くないですか」と愚かな質問をしてしまった。女性に年齢を尋ねるのと同じ類の問いだったのを彼女の顔から察した。「もちろん、寒くなんかないわよ」とフィオレラが言い終わらないうちに、私は前言をもみ消すように「とてもステキ」と付け加えた。
 「どうもありがとう。これはアルマーニよ」
 彼女は心底うれしそうに、カンツォーネ風イングリッシュに優越感を乗せ、歌うように答えて社長室に消えた。
 少し間があって、フィオレラがミリアムを呼ぶ声がした。最初は穏やかだった会話が途中からカウンターパンチを浴びせ合う様相を呈した。いつの場合もフィオレラが一歩引いているのが感じられるのだけれど。社長室のドアは開いたままになっている。やがてフィオレラからカレンも呼び出され、三人の話し合いが始まった。話の内容は私にはよく理解できない。社長室から出てきた二人の社員を追うように社長も出てきて、ミリアムに「明日からしばらく休暇を取りなさい」と言ったのを私は聞いた。
 ミリアムはフィオレラより五歳くらい若いと思われるが声は老けている。ボブカットにチェーンの付いたメガネをかけた理知的な人で、いつも顎を上げ気味に歩くのが特徴だった。フィオレラに答えるミリアムの声は低く、頭のてっぺんに一気に重力が加わり、その作用で顎の位置も下がり気味、今日の彼女はそんなふうである。しかし、その口調には挑むような響きがあった。
 カレンがキャシーに何かを伝えた。キャシーはショートカットの日本風に言えば楚々とした美人というタイプで、ノースリーブのシースルーのブラウスに共布のスカーフを結んでいる。私とは体感温度が違うらしい。キャシーは裏の部屋から書類の束を持ってきて、その中からある特定の顧客の伝票を探し出してほしい、と名前と金額を明示したメモを私に渡した。
 私はS学園の請求書のこともあり、気が遠くなるような思いでどっさり積まれた種類の山を見つめ、溜め息混じりに一枚ずつ用心深く繰っていった。一時間も単純作業を続けたが、結局メモに相当する人物の名前も金額も見つからなかった。キャシーにそう伝えた。キャシーは私に礼を言い、それをカレンに伝えた。事情のよく分からない私だけれど、横領らしきことが発覚したのを雰囲気から読み取った。
 他の社員たちは我関せずという感じで仕事に打ち込んでいる。五時になった。私は留守番電話をセットし、みんなにあいさつをしてオフィスを出た。社長は社長室のドアを閉じ、中に籠もったままらしい。

 九時丁度に日本語ダイレクトがフラッシュした。昨日の郵便料金を問い合わせた女性だった。この人もハネムーンのカップルの一人だろうか、幸せそうな声が受話器から流れた。おおよその荷物の量を尋ね、表を見ながら料金と日数を教える。
 「あのー、段ボール箱はどうしたらいいですか? あっ、それからガムテープもついでに教えていただけますか?」
 箱については、どこかのお店でもらってもいいし、それが無理なら郵便局で相談するように。ガムテープはマーティン・プレイスの近くの二ドルショップで買うようアドバイスをして電話を切った。掛けて来た方は私を一ヵ月だけの臨時社員とは思ってもいないことだろう。何だかおかしくなると同時に、Fトラベルに勤めたことにより、シドニーについての知識があれこれ増えていくのを感じた。
 リコンファームの依頼は思ったより少なく、一ヵ月の間に十件程度でいずれもカンタス航空の利用客だった。カンタス航空は電話がいつも混んでいて、私が取り扱ったなかで一番忍耐を要する仕事だった。リコンファームを依頼してきた女性の一人は言葉遣いが横柄で不快だった。こういう人には「近頃の若者は……」という言葉を、皮肉を込めて送りたい。私は自分の年齢を忘れてそう思ったことだった。
 外国で日本語ダイレクトを通して、わずかに接触のあったそれらの人々から私は日本人の生の姿を知った。Fトラベルに勤務したからこそできた貴重な体験だった。これからも私は日本との間に一歩距離を置き、日本を、日本人を外側から見つめる、そんな視点を内在させながら生きていくのだろう。そんな確信が生まれた。
 日本語ダイレクトにかかった電話はすべて女性からだったけれど、その向こうにはいつも男性の存在があった。おしなべて女が電話をするのはなぜだろう。その間、男は台所仕事を済ませる母親を待つ子どものように、通話が終わるのを待っているのだろうか。
 日本女性は雄々しい? 男性が女々しい? 私は老成した若者?
そう自問しながらS学園の請求書作りに取りかかる。夕方までに何とか終えることができた。明朝、レオが郵便局へ持って行き、ベルギーに送ってくれるという。フィオレラが私にねぎらいの言葉をかけた。
 Fトラベル最後の日が来た。この職場に愛着を感じた。私は乃里子さんが帰ったとき戸惑うことのないよう、私がこなした仕事の詳細を日付順に書いておいた。
 その日、日本語ダイレクトにかかった電話は全部で二件。一件はクレジットカードの紛失。ゴールドコーストからで、ホテルのセーフティボックスに入れておいて盗難にあったという。オーストラリアは安全と満更言い切れない、そんな思いを抱かせる出来事だった。
 他の一件はシドニータワーの中にあるレストランRの予約だった。早口の電話の応対にも慣れてきたし、そこにあるのはパターン化された言葉のやりとりがほとんどだ、ということも分かってきた。これから快調に走行が続けられる、日本語ダイレクトが何回フラッシュしようと恐れず電話に出られる、そんな感触を得た矢先にエンジンキーを抜くことになった。
 私はカレンからお給料をもらった。カレンは「ありがとう。短い間だったけど一緒に仕事ができてよかったわ」と、いつもの切れ味の良い口調で言った。私は心残りを背中に貼りつけたままFトラベルを後にした。フィオレラは不在だった。急用でご主人とイギリスへ出向いたという。Fトラベルで正式に結婚しているのは彼女一人だけのようだ。ミリアムはまだ休暇の最中だった。
 他の社員たちはいつもの「バーイ」の後に「ありがとう」を加え、明日また私が出勤するようなさりげなさで私を送り出した。別れにつきものの湿っぽい感傷はまったくなかった。レオの「またここに遊びに来てね」という声が自動ドアの内側から聞こえた。
 私はマーティン・プレイスの巨大クリスマスツリーを見上げながら通り過ぎ、一人でパブに入った。シドニーに来て初めての体験だった。ビールを注文した。バーテンダーが慎重に泡を調整しながら冷えたグラスについでくれた。
 シドニーのパブは十七時頃から大変な賑わいを見せる。それは仕事帰りにイッパイやって家路につく、そんなイギリスの習慣が受け継がれているからだという。スーツ姿のビジネスマンやキャリアウーマンの姿が目立ち始めた。しかし重厚な黒光りのする、一枚板のカウンターの隅に腰掛けた私を誰も気に留める様子はない。私はなお、シドニーが好きになりそうだった。
 私は二杯目を注文した。苦みの強いビールが特別おいしく感じられた。アフターファイブのリラックスした空気を背景に親密な会話が行き交っている。一歩踏み込んでしまえばすぐ仲間になれそうだが、私はまだ陽気なオージーにはなれない。二杯目を飲み終え私はパブを出た。
 千鶴に電話をして無事勤めを終えたことを報告し、「ハミルトン島へ遊びに行かない?」と誘ってみた。千鶴が今一番行きたい所はニュージーランドで、二番目は中国だという。その二つの国にどういうつながりがあるのか知らないけれど、ハミルトン島には興味を示さない。私はクリスマスホリデーを南海の楽園で、たった一人で過ごしてみようと思った。
 月曜日になったらFトラベルへ行き旅行計画書を作ってもらおう。人気の高いリゾートだから予約で一杯かもしれないけれど、乃里子さんに頼んでみよう。私一人くらい何とかなるに違いない。
 シドニーから空路二時間二十分の夢の島でスキューバダイビングに興じ、ジェットヘリで珊瑚の海を上から堪能する自分の姿が、映画のヒロインのように瞼のスクリーンに颯爽と登場した。その青い海の水平線の彼方には、日本を出る直前に別れた恋人のサーフボードを持った姿があった。