実録随想「残り花」

 最近、私は過去に歩いた自らの三十数年に及ぶ新聞記者生活を嘘偽りのない、実録ルポルタージュとして一冊の本「町の扉 一匹記者現場を生きる」(能登半島七尾市・わくうら印刷刊)にまとめ、自費出版した。表紙のデザインは、中日新聞本社デザイン課社員で画家でもある安藤邦子さんの作である。
 幸い、中日新聞本紙はじめ北陸中日新聞、遠くは鹿児島の南日本新聞社さんまで各紙や旅行新聞、世界日報などでも紹介され、猛スピードとまでは言わないまでも、この一冊もなんとか、ちまたを走り始めている。ただ書店で売るのに必要なバーコードはない、当然ながら地方の小さな印刷屋さんのことで東販とか日販といった本の流通ルートにも乗るわけにもいかず、書店に置いていただくまでには随分の苦労をした。
 なかでも苦肉の策で助け船を借りたのが、教科書関係の本を扱い手堅さで知られる名古屋の老舗配本屋・教文社さんだ。ここから今池の鎌倉書房など町の数々の本屋さんにも並べていただく恩恵にも浴した。ほかに、かつて七尾支局長時代にも大変お世話になった七尾市の「きくざわ書店」、伊勢志摩地方では志摩市阿児町鵜方の「作田書店」などに置かれ、滋賀県大津市内の一部書店にも同人誌「くうかん」主宰の眞鍋京子さんの口ぞえで並べていただいている。また三月に入ってからは名古屋大学の黒田光太郎教授の紹介でJR名古屋駅前地下の三省堂書店テルミア店ノンフィクションコーナーにも置いていただけるようになった。四月十七日夜にはアパホテル名古屋錦で南山経済人クラブのゲストスピーカーの栄誉にも授かった。
 こんなわけで書物は、未知の旅という名の大海原に出てしまった。
 今からでは遅すぎるが、自身では「町の扉 一匹記者現場を生きる」に、すべての記録を書き留めたはずが、まだまだ書き残したものがいっぱいあったことを思い出し、後悔している。そこで、恥を覚悟でこの歴史的なウエブ文学同人誌「熱砂」の誕生に合わせて、この本に書き残されたものを、「残り花」として各地方、取材現場ごとに順番にここに書き留めておきたい。

 1入社後と松本編

 一年先輩の慶応ボーイ、田中広幸記者が着任してまもなく、癌で若い命を絶ってしまった。それも結婚したばかりなのに。私は新婚家庭によく招かれ、食事をご馳走になったばかりか、駆け出し記者としての「記者のイロハ」を教えてもらうなどした。
 言わば、年の接近した最初の兄貴のような存在だった。
 このほか、人生の大先輩で入社直後の研修でしばらく在籍した中日スポーツ総局時代には、苦手な整理編集作業に日々、悪戦苦闘していたヒヨッコの私に対して、それこそ厭な顔ひとつせず、ていねいに教えてくださったタケさん(武井久良記者)。
 それまでずっと中日スポーツ総局の整理部記者だったタケさんは私が松本支局に着任してしばらくして今度は初の取材記者として同じ松本に転任されてきた。それが縁で、またまた大変なお世話になったのである。支局在任中、タケさんのお宅には何度も、同僚の長井記者ともどもお邪魔した。奥さまが本当に面倒見のよい方で一時は自分の実家だと錯覚することさえあった。

 いっとき、松本市内を流れる女鳥羽(めとば)川に面した天ぷら屋「天金(てんきん)」の看板娘・ヒロちゃん(田島広子さん)に夢中になって通いつめた時など、無理やり一緒に付き合ってもらい、食べたくもなかったかもしれないテンプラを何度も何度も一緒に食べてくれたものだ。
 タケさん夫妻には、この「熱砂」紙面を借りて、あのころは我侭ばかりでごめんなさい、と心からお詫びしておきたい。

 女鳥羽川といえば、「天金」と同じく川に面した白壁の喫茶「まるも」を忘れるわけにはいかない。当時は全国的な学園紛争のなか、信大も医学部の学費値上げ反対闘争で大荒れに荒れていた。信大とて学園紛争は例外ではなかったが、「まるも」はこれら闘争に疲れきった信大生のくつろぎの場でもあり、店内ではいつだってバッハやベートーベン、ヘンデル、ヨハンシュトラウスなどのクラシックが流れていた。
 ご主人の新田貞雄さんは学生たちにとっては、「父」のような存在で私もよく店内一隅に専用の場所まで確保していただき原稿を書いたものである。支局で書くよりも落ち着いて良い文章が書けるからで、市民の間で広がる白壁を残す運動とか、信大に眠る謎の名画騒ぎなぞといった町ダネ記事は、たいていこの「まるも」発で書いたものだった。

 いよいよ次の赴任地、伊勢志摩への転任が決まり、志摩通信部(三重県志摩半島の当時、志摩郡阿児町鵜方、辞令は志摩通信部兼伊勢支局記者)への脱走にも似た舞との駆け落ち生活実行に当たっては、確か新田さんに6万円を借りて松本の縄手商店街の宝石店でダイヤモンドの指輪を買い与えたと記憶している。
 舞を自分のものにするために、私は新田さんに相談をもちかけたのである。
 あのとき新田さんは、こう言ってくれた。
 「うん、いいよ。ガミちゃん。金なんて返すのはいつでもいいから。使うためにあるのだから。それよりも舞ちゃんと早く幸せにならなくっちゃあ、奥さん大切に、ね」と。
 新田さんは、舞のことを既に「奥さん」「奥さん」と呼んで僕をたててくれていたのである。
 新田さんとは、そんな人である。

 松本支局時代では、ほかに昭和電工塩尻工場の粉塵公害被害者同盟の動きについてもよく取材した。昭電塩尻工場周辺では工場から出る粉塵の人体に及ぼす影響がひどくなり、小児喘息が多発。私は毎日毎日、塩尻まで足を伸ばし、周辺民家を一軒一軒訪ねて歩き、「これでもか。これでもか」と聞き込み取材したものである。
 おかげで、被害者同盟代表のМさんとは、すっかり仲良しになってしまい、共に企業や行政の対応のまずさに怒りを抑えきれないでいた。あのころは、公害摘発に厳しい目を注がれていた宇井純東大工学部助手(後に沖縄大学名誉教授)もよく現地を訪れ、私の取材に応じてくださったものである。

 2伊勢志摩編

 舞が私との密かで激しい打ち合わせどおり、三重県志摩半島の志摩通信部への転勤まもなく新聞社の通信部に逃げるようにして駆け込んできたのは、昭和四十七年の十一月七日だった。
 通信部は、まさにふたりの恋を成就するための駆け込み寺にふさわしかった。
 今から思えば、当時の梅村三重総局長、浅妻伊勢支局長とも若い男女のこうした行動には意外や、「悪いことをしたわけでない。ふたりとも好き同士なら仕方ないではないか」(梅村総局長)と寛大で、私はこうした社の温かな姿勢に心から感謝し、その分、少しでも読者から喜ばれる記事をどんどん書こう、と心に誓った。
 同時に舞も私にどこまでもついてくることを約束したのだった。
 舞が近鉄電車で通信部に転がり込むようにやってきた七日は舞の父親である勝彌(かつや)氏の命日(昭和三十三年のこの日に死亡)でもあった。
 私と舞は、向こう見ずにもこの日を期して駆け落ちを決行したのである。
 亡き義父勝彌氏は生前、NHKラジオの農事放送「早起き鳥」を担当し、その温かで柔らかく、優しい口調が視聴者の心をとらえ、戦後の農業復興に燃える多くの農民たちに夢と希望を与え続けたという。
 何を隠そう。
 私自らも幼いながら朝早く毎日ラジオから流れてくる「早起き鳥」を何げなしに聞いていた記憶がある。まさか、その人が舞の父だっただなんて。亡き義父は私にとっての誇りでもあり、舞はそうした「父の魂」だけを引っ下げて志摩半島に足を踏み入れたのだった。

 私は実録ルポルタージュ「町の扉」のなかで「私の両親の方は折れてくれた」と書いたが、舞にとっては、とてもそんなに生やさしいものではなかった。
 というのは、舞の存在を認めるに当たって私の父と母は、私の実家(愛知県江南市和田)で彼女にとっては血判状ともいえる念書にサインをさせていた。
 私の両親が息子を思う心が強ければ強いほど、その内容は厳しいものだったようだ。
 私は、この血判状の存在を父亡き後になって初めて、それもことしになって和田の実家でこの目で見たのである。むろん、うすうすとそうした約束をさせられていた事実は聞くには聞いていたのだが。
 そこには、舞のつたない幼稚な字で確かに「後藤たつ江」とサインが記されていたのである。
 ー「こんご伊神家には決して迷惑をかけません」「実家には足を踏み入れません」「自分の家とは縁を切る」などといった内容で、舞は実際、私の実家とのこの約束を三十年以上の長きにわたって、後に両家が和解するまで守り切ったのだった。その分、舞は、これまで私の両親から底無しといえるほどに大事にされ、深く愛され続けてきたのである。

 伊勢志摩では真珠販売に関わるリベート運転手の横行問題を社会面トップで取り上げ、その後、近鉄鵜方駅前の広場で百人近くものタクシー運転手に取り囲まれてつるし上げを食らったりした。あのときは私自身も強い正義感から一歩も引かず、最後は運転手側が折れてきたのもつい、きのうの出来事のようだ。
 いろいろあったが、猟師町の阿児町安乗で死者の写真を民家の仏壇に上がって撮り、あとで遺族から猛烈な抗議を受け、袋叩き寸前で逃げ帰ったこともある。確か支局長がお詫びに出向いてくださって一件落着し内心、ホッと安堵し申し訳なく思ったのも事実だ。
 このほか、中日写真協会のミスカメラ選考会で私が推薦した阿児町の女性が準ミスになり、うれしく思ったこともある。

 3岐阜北方編

 岐阜総局兼北方通信部の辞令の通り、住まいは北方通信部だったが、いつだったか、後に上海特派員として活躍した川村範行記者(現中日新聞出版開発局出版部長)が通信部を訪れ、舞の手料理で仲良く懇談。このときムラちゃん(私は当時彼をこう呼んでいた)に抱いていただいたのが長男の正貫である。
 正貫は昨年夏、それまで勤務地だったパリ(ОECD)から二年の滞在を終えて帰国し、いま、ナノテク博士としても文部科学省の文部科学研究所で主任研究員として働いている。

 岐阜県庁汚職事件の追及に飛び回っていたころ。刑事を何度となく夜討ちしたものだが、泥警(どろけい)のムラさん(村上刑事)は、財布にいつも男女のからみあいの写真をしのばせ、酔うと決まってこの写真を私に見せ、「これが人間の本性やて」と教えてくださったものだ。

 4社会部・小牧編

 戦後、グァム島から奇跡の生還をした日本兵横井庄一さん(故人)のことも忘れられない。社会部の中川署回りのころ、暇さえあれば中川区千音寺の自宅を訪れ、お茶のお点前が上手な、若々しかった奥様に大変よくしていただいた。
 横井さんの口癖は「イガミさん。人間は夜走るもんじゃない。なぜって。夜は大気の汚れが積もってよごれているからだよ。それに比べて朝は空気もきれいだ、そりゃあ、からだにもいいんだから。夜走る人間の気が知れんよ。走るんだったら朝だね、朝に限るよ」だった。

 そして。小牧通信局長時代。
 通信局に出入りする勝野義久さん(現小牧市社会福祉協議会長、県社協副会長)や作詞作曲家の牧すすむさん(現在は琴伝流大正琴大師範で「熱砂」同人)こまきくらしのニュースの吉田吉樹さんら大勢のなかに、人呼んで「鶴庵(つるあん)」さんこと、口ひげを蓄え人懐こい顔をした野田さんの姿があった。
 野田さんは当時、小牧警察署の交通安全推進指導員を買って出て毎朝交差点に立ち、通学児童の安全を見守ってくださっており、町の防犯交通安全にはなくてはならない存在だった。
 いつもヘルメット姿でオートバイに乗り、町の番人みたいな、そんな感じの「鶴庵さん」は、その人間性が受け、市民の誰からも「ちょびひげのツルアンさん、ツルアンさん」と呼び親しまれていた。

 小牧で書き落とした話は、まだまだある。
 あるイベントが小牧市民会館であり、予定の時間になってもその日の出演者である中日ドラゴンズのスター選手二人がなかなか現れない。
 観客の誰もが今か今か、と痺れを切らしていたところに星野、谷沢の両選手がまるで遅れても当然のような顔をして会場に現れた。首を長くして待つ観客に対して一体、どういう気でいるのか。許せないと思った私はまだまだ荒削りだったせいもあり、ふたりを館長室に呼び出し「なんだ、おまえら。その態度は。中日が笑われるぞ。謝れ」と言ってすごみ、強引に有無を言わせず、頭を下げさせた。
 二人とはちょうど年恰好も似ているが両選手にとっては、いい勉強になったはずだーと私はいまでも思っている。プロ野球選手はファンが居てなんぼの世界のはずだからだ。
 むろん、その後の二人はプロ野球界を代表する立派な監督や野球解説者になられ、いまでは謙虚さを絵に描いたような人物でファンが今なお多いことも付記しておきたい。

 小牧ではこのほか、ノートルダム女子大学の学長渡辺和子さんの講演取材が今も私の脳裡から離れない。おそらく永遠に頭から離れないに違いない。
 その日は小牧市民会館で何かの記念講演会があり、私は前夜の酔い覚ましになれば、と思い半分、目を瞑ってその講演を聞いていた。
 と、「ここと岩倉は父のふるさとです。私はいま、その父のふるさとで初めて明かしたいことがあります」と話し始めた彼女の真剣さに、私はまるで覚醒するように耳をステージに向けてそば立てた。
 話は二・二六事件にまつわる秘話だった。
 渡辺和子さんは父・渡辺錠太郎(元教育総監で陸軍大将)の死に触れ、「私は幼い目で父が銃剣で突き殺される瞬間を見ました」「父は襲撃を受ける寸前に目で私に机の下に隠れるよう、目配せしてくれました」「少年時代に名古屋から岩倉までリヤカーで運ばれる時など、父はいつだって荷台で本を読んでいたそうです」
 そしてー
 「父の口癖はいつだって軍備は必要、されど戦争すべからずというものでした。平和ほど尊いものはありません」
 涙ぐみながら話す彼女の声に私はただただ聞き入り、とめどもなく落ちる涙の滴をどうすることも出来ませんでした。
 まもなく私は、このニュースを渡辺さん本人からも補足取材し朝刊の「けさの話題」欄で大きく報道、めったにほめてくれない時の鬼デスク(酒向さん、元ロンドン特派員)に「君、なんていい記事なんだ。よく書いた」とほめられたことを覚えている。
 この記事はフィリピンのアキノ女史の政権崩壊とかち合い、最終版が半々になってしまった、と記憶している。あのとき、心から自分もこんな記事が書けるようになったんだ、とそう思った。
 「町の扉」では、こんな重要なことを書き漏らしてしまっていた。

 6能登編

 小牧から七尾支局に異動してからも、小牧の「鶴庵さん」のように、いつもバイクにヘルメット姿で支局に顔を見せていた人がいる。七尾市山王町に住む仏壇製造業南昭治さんが、その人だ。
 当時彼は、七尾市ママさんソフトボール協会事務局長はじめ、山王盆踊り大会実行委員会代表、中日写真協会会員、カラオケ愛好会代表と、それはそれは多くの役職にあった。必然的に一週間に二、三度は支局を訪れていた。多忙さは横目で見ていても分かり、私自身、取材、事業の両面からいつも助けられどおしだった。
 私は毎年春と秋のママさんソフトボール大会では午前五時の開会式に出てひとくち挨拶させられたが、南さんの頑張りを目の前に支局長だけが寝過ごすわけにもいかなかったのも今から思えば良き思い出である。
 そういえば、南さんの友だちでクリーニング業を営んでおられ、これまた支局によく出入りされていたAさんのあのチョット気取った勇姿も忘れられない。
 Aさんは俳優の杉良太郎さんそっくりで、ご自身も能登半島の「杉良」を気取られていた。

 それはそうと、イカ釣り漁船への北朝鮮からの発砲騒ぎ発生時には、「私は市政回りなので」と取材をしぶった支局員を叱り飛ばした。その記者はいま海外特派員で活躍しているが、その日のうちに非を改め取材に加わった。少人数の地方支局は家族と同じだ。いったん大事件が発生すれば、全員で助け合ってそのヤマを乗り越えなければ、ということが、その記者にもよく分かったことだと思う。
 昭和六十二年五月三日ー。こともあろうに、憲法記念日のその日の午後八時十五分、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が何者かに襲われ、支局に居た小尻知博記者らが銃で撃たれて小尻記者が死亡するという許すことの出来ない事件が起きた。暴力で言論を封じる有無を言わせぬやり方には、地方支局で働く私たちの誰もが憤りを感じ、同時に大きなショックでもあった。
 当然のように、それまでの七尾市一本杉通りから御祓(みそぎ)川の仙対橋河畔に支局が移転したばかりで、私たち地方記者にも衝撃が走ったのだった。あのころ、防弾チョッキに身を固めた地元七尾署員が夜間になると、なんども支局周辺をパトロールして回ってくださり、私たちもしばらくの間は緊張状態が続き、厳戒態勢でいたのも、つい昨日のようだ。いまや七尾支局を語るときの忘れられないひとコマでもある。

 7大垣支局編

 ここでは長良川河口堰に終始一貫して反対し続け、野鳥保護の会リーダーでもあり、よく大垣支局に出入りしていた男が忘れられない。
 後に県知事選にも打って出て敗れた元タクシー運転手で、当時は学習塾を経営していた東大出身の故近藤さんで、いまから思えば彼の存在感には圧倒的なものがあった。
 当時、その近藤さんに頼まれ、本社黒川光弘記者(現夕刊「夕すずめ」筆者、編集委員兼論説委員)の助けもあって大須演芸場で大学生による平曲鑑賞会が実現した。
 あの時の平家琵琶の弾き語り奏者・今井検校(けんぎょう)が私の実家がある和田とは隣の般若(はんにゃ)の出と知り、妙に親近感を覚えもした。

 8大津編

 ある日、支局のある町内会の会で京都に出向いたことがある。
 坂本の祭りで民家に招かれた楽しい思い出も忘れられない。
 このころは、大垣に残したわが子の不登校で随分苦労し、舞が半狂乱状態となり、美術館オープンセレモニーの場に大津支局と大垣警察署から電話が入り、出席さなかに慌ててタクシーを最寄り駅まで飛ばして大垣のわが家に帰ったことがある。
 かといって、初めての単身赴任となった大津暮らしは結構楽しく、心が癒されることも多かった。大垣からの転任時に前任地に住む女性から支局長住宅に送られてきた一輪のカトレアの花。私は、この紫のカトレアを玄関先の花瓶に飾り、在任中は朝になると決まって水を与え続けた。水を与えながら、家族のことやカトレアを送ってきてくれた女性のことに思いをはせたものである。
 仕事で都合のつかない限りは、一ヵ月に一度は土、日と私が大垣の自宅に帰り、舞も一ヵ月に一度は土曜から日曜にかけ大津の支局長住宅を訪れ、相も変わらず何もしない私の身の回りの世話をし、おいしい料理をつくってくれたものだ。いつしか、若き日に志摩半島で駆け落ち生活をしていた時のような新鮮な気分になり、一ヵ月に一度訪れる舞を私は心待ちにするように、なっていった。来れば、比叡山や三井寺、石山はむろん、京都や信楽、近江八幡、五箇荘町方面にまで足を伸ばした。夜は、琵琶湖湖畔のネオンがまぶしい浜大津にもよく繰り出した。今だからこそ、話せることかもしれない。

 9一宮編

 ここでは何といっても、小学生のころから学校嫌いのわがままを通し、私たちの心を傷めつづけたわが子がNHK学園の通信高校に入学後は人間が生まれ変わったように、岐阜県下の県立高校に一日も休まず通い続け、無事立派に卒業したことが私たち夫婦にとっての最大の幸せだったと記しておきたい。長い地方記者生活で、この頑張りはわが家にとって、むろん大ニュースだった。
 このことをここに一口も追加記録せずしては、家族もろともの地方記者の過去帳「町の扉ー一匹記者(いっぴききしゃ)現場を生きる」も、とても実録ルポルタージュだとはいえまい。

 彼はその後、名古屋の四年制コンピューター専門学校に入学。努力に努力を重ねて数々の資格を取得し、この春には無事卒業。将来性あふれ、環境保全と創造力、人間性を何よりも重視した、当地では最先端を走る、知る人ぞ知るベンチャー企業の若きシステム・エンジニアとして、社会に大きな一歩を踏み出した。
 親バカとはいえ、何年もの間、共に泣き笑いの人生を歩みいつも見つめてきた私たちには、彼の恵まれた非凡な才能がわかっているだけに、いつの日にか今の社会をよくしてくれる日がきっと来るーそう信じているのである。

 

 記者たちよ

 善人も、犯罪者だって
 どんな人も
 会ったその時が
 最期になるかもしれない

 人が、歩き
 幸せが、歩き
 不幸が、歩いている
 地球が歩いている
 みーんな同じだ

 期待、希望、不安、落胆
 勝った、負けた
 雨、風、光
 宇宙という、いきものさえ
 すべてが生きている

 人が人に会い
 取材して
 生きてゆく

 この世に一瞬しかない
 貴重なひとこまだ