日記文学「笛猫日常茶番の劇(連載4)」

『ねぇ~』   こすも・ここ
 

       『なぁに』  シロ

(序章)
 人間、心臓と意識が動いている限り
 だれもが一所懸 命に生きている

 ああ、それなのに。なぜ
 悲しみばかりを負うてゆくのか

 この日常は一体、いつまで続く
 この先、どこへ流れていくのか

 人の命なんて
 毎日が波間に浮かぶ飛沫の如きもの
 浮かんでは消え、消えては浮かぶ

 人間たちは、きょうも恥をさらして
 奇跡のなかを生きている
 そんな日常生活を人間の記憶として
 私はどこまでも綴り続けたい

二〇〇九年
八月十五日
 土曜日とはいえ、本社、ナゴヤ球場、本社、ナゴヤドームと行ったり来たりだ。
 本社でファンクラブ通信を公式ファンクラブのホームページにアップ後は月曜組みのこらむ「ガブリの目」を執筆。この後は販売局次長のKさんとタクシーでナゴヤ球場へ。ここでは2軍月間賞の柳田選手に公式ファンクラブ会員から選ばれたプレゼンターから金一封が同選手に贈られるセレモニーがあった。グラウンドに両軍選手が並んだなか、それも青空の下でのセレモニーには、なんだか、凄く感動した。これで1、2軍とも月間賞選手へのプレゼンターの大役は、ファンクラブ会員がする、ということが定着したといっていい。
 付け加えておきたいが、こうした形でプレゼンターがグラウンドの上に立って大役を果たしたのは、きょうが最初である。

 本社をはさんで次に訪れたナゴヤドーム。ここでは、この日、来場者が五千万人を突破した。この日の中日対ヤクルト戦は、三万七千六百三十人が観戦。累計来場者数は一九九七年三月一二日にシンセザイザー奏者・喜多郎を招いて完工式を行って以来四五四〇日目にして大台を超え、五〇〇〇万五一九〇人となったのである。
 ナゴヤドームでは、これを記念して来場者全員にドラゴンズ応援ボードをプレゼント、私ももらって家に持ち帰った。ちなみに、この日は2対1でヤクルトに勝った。ドーム2番ゲートではドーム幹部が立って来場者一人ひとりに挨拶されていた。2番ゲートには、公式ファンクラブのマスコット・ガブリも登場し、ガブリ会いたさに東京からやってきた原田夫妻らも大変、満足そうだった。

 それよりも何よりも、きょうは午前九時からMが福祉センターの俳句教室に出向いた意義ある日である。彼女は、これまで数々の賞を得てきた栄光を意識の中から捨て去り、白紙状態から再出発したい、とあくまでクールだ。嬉しくなった私は夜、帰ると、先にエールフランスの女性から贈られたちょっとかっこのいい見開きノートと、これも一緒にいただいたペンを新たな門出のお祝いに、と手渡した。Mはまだ全ページが見開き白紙のままのノートを開き「かっこよ過ぎるよ」とまんざらでもなさそうで、私はその様子を見てほっ、としたのである。
十六日
 日曜日。きょうは夏休みイベントのドーム体験がある日だが、さすがにこのところは休んでおらず、他のスタッフに甘えて休みを取った。

 Mとアピタ内の歯科医院へ行き、一週間前に抜かれた右上奥歯二本の跡の消毒をしてもらい、和田のお墓へ。ふたりで亡き父にお参り後、お盆の間じゅう、仕事で顔を出せなかった実家へ出向いた。そこで母から、家を改造する話を聞かされ、少しばかり驚いたのである。
 改造話は先日、悪夢に追いかけられガラス戸を蹴り、母の足が血まみれになったことが発端だと知った。寝室を仏壇前の和室とし、横の廊下にトイレをつくり、これまで母が寝ていた和室は床張りの洋式にしようというものである。また、ふろはゆったりと入りやすく、取っ手のあるものに。父の部屋はそのままにするが、これまでタバコなどで汚れた天井だけは張り替える、というものである。

 三男が二十四歳の誕生日。おめでとう。

 毎日新聞の朝刊一面は「新型インフルエンザ国内初の死者 沖縄 透析の57歳男性」というものだった。福井県の笛資料館の朝日さんから「十月三日に大野の武家屋敷で笛のコンサートがあるのでチラシを送らせてほしい」の電話が入った。
十七日
 ファンクラブ事務局の暑気払いが栄であった。T担当が「私におごらせてほしい」とのことで甘えてしまった。それにしても、「奢る」は「驕る」に通じる気がしたのは、なぜだろう。
 たぶん担当の人柄から判断するかぎり、驕る気持ちなどはさらさらなく、そこまでは考えず、お金があり皆を慰労したいので、そうしたのだろう。
 でも、やっぱり「おごる」に通じる。
 次回からは割り勘にすべきだと思う。
十八日
 自公連立か、それとも民主党か。政権選択が焦点の衆議院議員選挙が公示され、韓国民主化運動の父である金大中氏が八十五歳で亡くなった。

 ここにきて新型インフルエンザで亡くなる人が出てきた。プロ野球日本ハムの選手の中にも新型インフルエンザの感染者が見つかった。
十九日
 前日に出稿したファンクラブの9月会報原稿の大刷りが一部仕上がり訂正を出しておいた。この日は新型インフルエンザに感染した名古屋市西区に住む八十一歳の女性が亡くなった。
 中日新聞夕刊の見出しは「新型インフル 日ハム全員検査へ」「新型インフル 厚労相『本格的に』流行 名古屋 国内3人目死者」だった。報道では、これまでに新型インフルエンザで診断を受けた日本人は十一万人に及ぶ、とも。これだと、ドラゴンズ公式ファンクラブの会員(十二万三千四百人)のほぼ大半が診療をうけたことになる。
二十日
 あっというまに月日は流れていく。
 仕事を早く切り上げ、横笛の師匠と門下仲間(女性)、私、柳家小三亀さんで名古屋の「名月」で会食。小三亀さんから、先に亡くなった師匠の都々逸漫談家・柳家小三亀松さんのことをいろいろと、お聞きした。小三亀さんが小三亀松さんの奥さん・日比純子さんの一番弟子で歌謡からこの道に入られたことを初めて知ったのである。
二十一日
 日本ペンクラブ会員の秋尾暢宏さん(前日本ペンクラブ事務局長)から「二十五日にナゴヤドームに行くので、その前にお会いしたい」と電話が入る。で、午後一時ごろ、社に来ていただくこととした。

 きょうの中日新聞夕刊トップはドイツで行われている世界陸上でジャマイカのウサイン・ボルト選手が100メートルの9秒58に続き、200メートルでも19秒19の世界新を出して優勝、世界中が歓喜したニュースを伝えるものだった。
 中日本紙朝刊の方では1面の「攻撃続発 26人死亡」「アフガン大統領選 開票始まる」の見出しが気になった。
 私が追い続ける、あのウサマ・ビンラディンは一体、どこでどうしているのだろうか。ふと、そんな想念が頭を掠めた。
二十二日
 土曜日。午前十一時過ぎ出勤する。
 中日ドラゴンズ公式ファンクラブの二〇〇九年九月号の最終校正のためで、一部分を訂正し夕方には降版のOKを出し、T担当にも電話で連絡した。
 編集整理に携わった中日スポーツの整理記者が、亡き父の形見ともいえる「創業明治28年」の醤油屋の袢纏を着ていることに気付き、どこか魅力ある男に映った。
 あとは二十四日の印刷を待つばかりである。

 帰り道を歩きながら、このところは家に帰るや、Mに甘え「ああ、もうクタクタ、クタクタだよ」と言って、まるで彼女が待つわが家に駆け込むように帰る自分の存在をあらためて感じていた。Mは、たいていは、いつも茶の間の食卓前に言葉少なに座ってくれている。
 私にとっての、わが家がなんだか駆け込み寺のようにも思えるのである。こすも・ここ、シロも黙ってそれぞれの定位置に座ってくれている。もっとも、こすもは私が入浴する段になるとは盛んにニャオニャオと鳴き出すので、そのつど浴室の水道の蛇口をひねってやると、うまそうに水を飲むのである。以前にも触れたが、水の補給は、こすもにとっては何よりの美容と健康維持の元のような気がする。

 ジャズライブの店、トムにはやることが多すぎて今夜も行けなかった。
二十三日
 Mとアピタ経由で和田へ寄ると、母が甲子園の熱闘を伝えるラジオ音(中京大中京が花巻を破り、四十三年ぶりの決勝戦進出が決まった)のなか、家財道具の整理をしており、家中のあちこちに荷物がそれぞれ種類別に置かれていた。「何事か」と聞くと「家を改造しなアカンで準備をしとる」とのことだった。
 そればかりか、母は「これ、お父ちゃんがおまえの書いた記事を取ってえーてくれたヤツだから、おまえにやるわ。大事にしとかんと。ありがたゃあ~ことだよ。それから、この優勝カップも。なんかしゃんで、あんたが優勝した時にもらって、ウチでとってえ~たんだわ」と、表紙に赤い字で「孝信」と書かれた紙袋ふたつと、何かの折に私がもらった優勝カップを手渡された。母の言うとおり、ふたつとも大切にして取ってこう、と思っている。
 家財道具の整理を目の前にしたMは「(八十九歳という)あの年での改造だなんて。家の中の整理ひとつするにしても、相当な気力だわ。私なんかには、とても出来ない」としみじみ呟いた。私には、そうしたMの言葉そのものが母への賛辞、励ましともなるようで嬉しく思うのである。
二十四日
 ドラゴンズ公式ファンクラブの準会報五号の印刷が終わる。
 通勤途上に論説主幹の深田記者にバッタリ会い、社まで一緒に歩いた。
 歩きながら夕刊こらむ「夕歩道」に話が及び「『秋風を感じる』とかなんとか書いとったな。九月に同窓会があるんだって」と私がたたみかけると「伊神さん、よく私が書いたと、お分かりですね」の弁。「そりゃあ、分かるさ」と私。
 「黒川記者亡き後、いまは三人か四人で書いているそうだが、やはりあの欄は一人が専従で書いた方がいい」などと、あくまで私見を話させていただいた。
二十五日
 日本ペンクラブの前事務局長、秋尾暢宏さんと、麻木正美さんが昼過ぎ、わざわざ私を訪ねてくださった。二人とも「われらマスコミ・ドラゴンズ会」、すなわちマスドラ会の会員で、この会の創設に当たった、生みの親でしたという。秋尾さんが七十歳、麻木さんは七十七歳だが、おふたりともに若さがみなぎり、いろいろと話が弾んだ。
 秋尾さんは博報堂、麻木さんは集英社の元編集長でノンノにも携わったことがあります、とのことだった。社近くの小料理屋で食事をし、私がおごると「東京へお出での際は、こちらでごちそうします」とのこと。たまたま、持ち合わせていた九月二十九日の中日×巨人戦の天王山となりそうな招待券二枚をお渡ししたら「マスドラ会で有効につかわせてもらいます」とのことだった。
 「きょうは、これからナゴヤドームで巨人戦を観戦するのですよ」と秋尾さん。聞けば、ご主人が東海テレビディレクターで、ご本人はライターのある女性からいただいたチケットを手に来たのだ、という。

 仕事の方は、夕方、ガブリが「勝負師」の風情でノッシ、ノッシと中日スポーツ編集局へ。
 おかげで、最近、人気急上昇のドラゴンズ&パークの実況掲示板に「ガブリ」の写真が初登場となった。このほれぼれとする様子は、さっそくイタリアはフィレンツェの町を「竜」のTシャツ姿でカッポされている、スタジオジブリの代表、鈴木敏夫さんにメールで連絡させていただいた。なんといっても、鈴木さんこそが「ガブリ」生みの親で公式ファンクラブの名誉会員第一号だ、私たちにとっては命の恩人だからである。

 夜、「少年時代」の井上揚水をNHK教育テレビでMと見る。Mが彼のうたを好きなわけが分かる気がした。
 二十六日
 朝。Mに「たまには、ひとりで行ってくるの」と言われて一人でゴミだしをする。

 私はきょう、あすと休みのためMに断って昼過ぎの新幹線で岡山へ。ここから特急「しおかぜ15号」で松山へ。
 松山駅からは路面電車に乗って道後温泉の旅館「八千代」に逗留し、なかなか奥深い一日となったのである。当然のようにMを誘ってみたのだが…。彼女はリサイクルショップの方があるのでダメだ、ということで一人旅となった。
 二十七日
 一人旅二日目。
 私が夏休みをあてて、松山の地を訪れたわけは「どうせ道後温泉へ行くのなら、ぜひ現地のお姉さん(芸子)方の三味の音に合わせ、子唄や端唄の一つでもうたってきたい。そして夏目漱石の『坊ちゃん』の現場にも足を踏み入れ、『野球』という言葉を生んだ俳人正岡子規のことも学ぶことが出来たなら」と、そんな欲深な思いからだ。
 で、昨夜は宿に落ち着くなり、宿のフロントを通じて地元検番に芸子さんをお願いしようとしたが、前日の予約がないかぎり無理だ、と断られた。これまた「遊び方を知らなかった」といい勉強となり、次回にちゃんと予約を取ったうえで、と自らに言い聞かせた。とどのつまりは、私と歳も似かよった往年の美少女を誇らしげに語る三人の仲居さんに交互に酌をしてもらいながらの晩酌となったのである。
 そして、食事の後は、仲居さんの案内で、かつての遊廓街で、いまも各所に待ち女たちがいるというネオン坂に出向いたが、三人から教えられた当地では有名な置屋だった「S」と「C」は、ありし日の看板だけが寂しく取り残されていた。
 ネオン坂は、およそその名前とはほど遠い薄暗い坂道で、道に面して民家が張り付くように軒を寄せあっている。そして、その民家の庭先には待ち女たちが息を潜めているのだ、という。
 夜風にふかれながらの散策のあとは宿に帰って、風呂に浸かったが、けさもはやく起き入浴後は、持参した横笛で越後獅子を宿のテラスに立ち、外に広がる道後温泉の町並みに向かってふいてみた。哀愁をたたえた笛の音には、ふきながら私は自らの世界に陶酔し、しばらく夢心地でいた。笛をふきながら、私は一体、誰に向かってふいているのだろうか、とふと思い、Mに向かってふいている自身を今さらながら強く感じたのである。

 そして。松山への一人旅は、きょうこそ意義ある一日となった。
 というのは、この日は近くNHKで放映されるという「坂の上の雲」人気に沸く道後温泉の町並みを気のすむまでゆったりと歩いたあと、本来の旅の目的であった正岡子規記念館をじっくり、時間をかけて見学できたからである。

 「九つの人九つの場をしめて、ベースボールの始まらんとす」「夏草やベースボールの人遠し」(いずれも、正岡子規作)
 日本に最初に野球が渡来したのは、明治五年。東京大学の前身開成学校の外国人教師によってだったが、同十九年、ベースボールに「弄球(ろうきゅう)」という訳語をつけて発表したのが子規だった。子規の雅号のなかには本人の幼名の昇(のぼる)にちなんで『能球(の・ぼーる)』『野球(の・ぼーる)』というのもあり、子規自らが当時、野球にはかなり親しんでいた。その証拠に友人との合作小説「山吹の一枝」やその他の随筆にも、野球のルールや用語の訳語が書かれていたのである。
 日本に野球を最初に広め、俳人であり歌人でもあった正岡子規の出身地・愛媛県松山市は、どこまでも情緒があり、かつ気高さが染み入った町でもあった。(詳しくは、九月八日付、中日スポーツ・わいわい広場欄のこらむ『ガブリの目』、またはドラゴンズ公式ファンクラブのホームページを読んでいただけたら、と願う)。

 正岡子規記念館で夏目漱石の「坊ちゃん」に関することも併せノート一冊分をぎっしりとメモした私は、タクシーで県立松山東高校敷地内に移転して置かれている、かつて松山藩の藩校だった明教館、次いで「坊ちゃん球場」の順で見て回った。
 坊ちゃん球場では、たまたま大学チームの試合が行われていた。私は球場に併設されていた野球歴史記念館なども見て回ったが、記念館を入ったところに、バットを抱えた左利きの正岡子規の像があり、興味深く見させていただいた。
二十八日
 わずか二日間の休みだったのに、事務局内の雰囲気がガラリと変わったように感じたのは、私自身が現場から離れていたせいか。それでも私は淡々と業務に打ち込んだ。

 午後、社近くカレーの店で携帯電話のメールをチェックすると私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」編集長のホワイト好子さん(ペンネームは碧木ニイナさん)からメールが入っていた。同人のテーマエッセイ(テーマは「時」)をアップし終えたとの連絡で、どの同人もそれぞれに自分の仕事を抱えながら、よく書いてくれたものだ、と内心うれしくも思った。
 テーマエッセイのテーマは、これまで「私と音楽」「酒」「花」「色」と続き、今回は第五弾の「時」である。

 この日、毎日新聞の夕刊1面トップ見出しは「7月失業率 最悪5・7%、半年で1・6ポイント悪化 求人倍率も最低〇・42倍」というものだった。
二十九日
 土曜とはいえ、月曜出し(組み日)のこらむ「ガブリの目」と、連日掲載のファンクラブ通信の執筆に追われる。
 ナゴヤ球場では、ことしの夏休み最後のファーム屋内練習場体験があったが、このところの新型インフルエンザの流行もあり、選手にファンを近づけるわけにはいかない、との球団側の配慮もあり参加者同士のキャッチボールや選手との記念撮影は取りやめとなった。
 本日付の中日新聞1面トップ見出しは「新型インフル発症 ピーク時1日76万人 厚労省想定『来月下旬にも』」というものだった。また準トップ見出しは「政権選択 最後の訴え」「衆院選 あす投開票」というものだった。
三十日
 私とMは、午後二時過ぎ、私の運転する車で近くの投票所(福祉センター)へ。ここで小選挙区と比例区に一票ずつを投票した。夕方には息子も投票に行った。
 今回は、政権が自民党から民主党に変わる政権選択選挙とされているが、さて結果やいかに。マスコミ各紙の世論調査を見る限り、民主党の圧勝による政権獲得劇が確実とされるだけに、有権者の関心は高い。
 私は小選挙区は民主に、比例区は福島党首の社民党に清き一票を入れた。Mは何も言わないので分からないが、おそらくは私が想定する人と党に入れただろう。

 胸算用はさておき、和田の実家に行くと八十九歳の母が仏壇前で亡き父にろうそくと線香の火を立て、お参りをしていた。母は、このところは毎日近くの畑まで自分で車を運転して行き
草取りをしたあげく、自宅のバリアフリィを兼ねた大改修を前に家財道具の整理整頓に追われているのだ、という。いらなくなった廃棄物をゴミ置き場まで一輪車で往復して運ぶなどしていることもあり、私たちを前に「ほんとに疲れてしまった」と本音をはいた。
 あげくに、つい数日前には「ふろに入る時か、出た時かに裸のままテレビの角に頭を強くぶつけてしまい、頭が痛くてたまらず、まあいかんな、とさえ思った」という。「ほんとに疲れてまった。こんなだと、おかあちゃん、家の修理が終わるまでに逝ってまうような気がする」と真剣な表情で話した。
 私は内心、高齢の母を何ひとつ手助けせず、道後温泉になぞ行っていた自分を反省しつつ、
「じゃあー、肩でももむわ」と言ってもんでやると、母いわく「おみゃあーは、ほんとうにうまい。よおーきいとる。よう、きく」だとさ。
 ついでにゴミとして出すことになった古本類を、どっさりとわが愛車でもある、ゴミ出し車・パッソに積み込み意気揚々と? 帰宅したのである。
 実家には私たちのあと、弁護士の兄も名古屋から訪れたが、「帰りに、畑で使う耕運機のガソリンを買い、耕運機で土を返しておいた」と言う。それに比べ、私は兄任せで「いかんな」と反省している。
 それはそうと、この日の母の脅し文句はこうだった。
―まあ、おかあちゃん、いつ死ぬか分からんよ。ええね。そのこと、頭においておかんといかんよ。お父ちゃんも亡くなる前に『オレ、死ぬかも知れん』と二度ほど言ってござった。

 私は母の弱気な発言を聞きながら「ここまで憎まれ口をたたけるんだ。無理さえしなければ、母はまだまだ生きられる」と自らに言い聞かせた。
【付記】母の整理途中の本の中に、文部省検定済み教科書二葉音楽の本編集部編の新訂「音楽の本」があったので、母からもらっておいた。ちょっとした掘り出し物である。
三十一日
 中日新聞の朝刊は「民主308 政権交代」「自民181減 空前の大敗」「鳩山首相誕生へ」「鳩山代表 『岡田氏軸に連立協議』」「愛知で民主全勝 海部元首相が落選」というものだった。そして1面総合リードは
 政権交代が実現するー。第四十五回衆議院選挙は三十日、投開票が行われ、全議席が確定した。民主党が大躍進し、地滑り的勝利を収めた。鳩山由紀夫代表は九月中旬に召集見通しの特別国会で第九十三代首相に指名され、新政権が誕生。日本の政治を長期にわたって担当してきた自民党は十六年ぶりに下野する。……
 というものだった。

 さらに1面には深田実論説主幹の筆で「未来に希望のもてる政治を」のコラムも掲載された。
          ×          ×
 私は、こうした状況を「日本の夜明け前だ」と言ってよいかどうか、が分からない。ただ、これまでとは違う潮流が、この日本社会に流れ込んでくる。そんな気がする。

 そうとは言え
「民主が自民に圧勝して政権が変わる、といったところで町の色は、きょうも何ひとつ変わりない。風も、光りも、空も、川も、皆いつもの顔でいる」
九月一日
 あさ。自宅からバス停までの道を歩きながら、秋の風を感じる。私は胸ポッケからいつものようにメモ帳を出し、こう書いた。
♪このかぜたちは、夏から秋色に変わろうとしている、かぜたちだったーと。

 午後、職場に旅行社のユウコが「エールフランスの知人から預かってきました」とサインボールを手に、訪れた。ついでに横浜のシュウマイの箱も手にして、である。どうやら、落合監督のサインをほしいらしく、話を聞くと先日私が紹介した落合信者の少年、小学四年生の和也くんの母親から頼まれたのだという。
 母親と少年が、先日ナゴヤドームに初めてプロ野球の観戦に訪れた際に、託されたのだという。
 私は「いちど球団の広報さんにお願いしてみる」とだけ答え、野球ボールを受け取っておいた。一般のファン心理として監督直筆のサインボールがほしい、というのは当然の心理だけに、せめて気持ちだけでも大切にしなくては、とあらためて自らに言い聞かせもしたのである。
 ただファンクラブ事務局としては「この子だけに便宜をはかるわけにもいかず、どこかでそれなりの大義名分をつけ、お願いしなければ」とも思った。幸い、この母子の場合、先日のこらむ「ガブリの目」掲載にあたって、取材協力をしてくださったいきさつがある。むろん、監督自身がどう扱うか、によって事態はかわってくる。
 東京からわざわざサインボールを手にして来てくださった熱烈ファンの少年と母親の夢を壊すわけには、絶対にいかないのだ。
二日
 富山市八尾町では、二百十日の台風の季節にあわせて風を鎮め、五穀豊穣を願う「風の盆」が昨日から始まった。
 三味線や胡弓の音にあわせ、編み笠をかぶった男女の踊り手が坂の町を踊りながら流してゆく「おわら風の盆」。私は、過去、なんどもこの町流しを見たことがある。七尾に支局長で居た時には、「中日民芸の夕べ」に八尾の踊り手をお招きし、町流しまでしていただいたことがあるだけに、なんとも懐かしい。私はこの風の盆を、襲いくる「かぜ」を人間たちが切る、そんな祭りだと認識している。いわば、風の盆は民俗の叡智だといってよい。

 帰宅すると、同人誌「北斗」同人の棚橋鏡代さんから、はがきが届いていた。
 「衆議院選挙も終わりました。先日は、お電話をいただいたのに留守をしていて申し訳ありませんでした。今甦えるあのひととき、を熱砂に取り上げていただいたそうでありがとうございます」といった内容で、はがきには棚橋さんらしい丁寧な字で裏面まで書かれていた。
三日
 朝、名鉄江南駅前でバスから降りたところで、江南―丸の内間の定期を胸ポケットからポロリと落としたところを、若い女性が見つけ、わざわざ拾って「おじさん」と言って、その定期を渡してくれた。私の通勤区間の「江南―丸の内」間は、一ヵ月、なんと二万壱千七百九十円と結構、高い。それもつい最近、八月二十七日に満期で買い換えたばかりだけに、それこそ二万余円がパアーッと、消えてしまうところだった。
 私は、その娘さんに心から「ありがとう」と礼を述べたが、なぜかしら「おじさん」と呼ばれた、その五感がすごく気にいった。もう一度、アリガトウ。

 ドラゴンズは、浜松、ナゴヤドームと続いた対広島三連戦で三連敗の屈辱に終わった。先の巨人三連戦での三連敗といい、一体どうしてしまったものか。
 勝つ時もあれば、負けが続くこともある。誰が悪いわけでもない。みな、勝とうとしてプレーに臨んでいるのだ。残るのは、どうにも耐え難い屈辱ばかりである。このうっぷんを、どこに晴らしたら、よいのか。
四日
 私は日々、黙々とファンクラブ通信や月ドラのファンクラブだより、週に一回のこらむ「ガブリの目」の執筆に追われている。そうは言っても、二〇一〇年の会員募集の受付チラシの最終打ち合わせや、日々のミーティング、その他の雑用などにも追われている。最近になって、やっと事務局スタッフの増員に伴う新体制もどうにか落ち着いてきている。
 どのスタッフも「少しでも会員のみなさまに喜んでいただけたら」と、それぞれの業務に一生懸命に打ち込むさまは美しくもある。

 そろそろ小説執筆の方に重点を置き、舵を切り替えねば、との気持ちがこのところはしばしば、頭をもたげてきていることも事実だ。かといって、せっかくなので、この職場での仕事を存続させながら小説執筆を続けていく方がやはり、一番に賢明な判断のような気もしている。
 何はともあれ、Mの言うように過去に浸るのではなく、この先に私が書く文章の一つひとつに全精力をかけることこそが、いまは大切だと思う。

 『過去よりも、これからよ』
 Mの言葉がいつも耳の底で鳴り続けている。
五日
 土曜日。Mは朝早く、江南市福祉センターの俳句教室に出かけていった。

 夜、「どうだった」と聞くと「よかった。面白かったよ」の返事がかえり、私は内心、ほっとした。Mは過去に歩いてきた道を、再びゼロからの出発点に立ち、歩き始めたのだ。
 私には過去、何度も病魔に倒れながら、立ち上がろうとする、こんなMがすばらしく、かつ、たくましく思えてならない。こんごのMならでは、の感性あふれる句作に期待しよう。

 六十歳を超えてまで生きていたくはない、というM。彼女の美学が俳句という永遠の「友」により、せめて八十歳ぐらいまで延びたなら、と思う。いまは高齢化時代なのだから。Mがこだわる六十歳は、今の世の中だったら、八十歳かと思う。
六日
 日曜日の診療が江南市内の歯科医が休みのためか、アピタ内の歯医者は大入り満員だった。午後五時の予約でさえ三十分以上遅れての診療となった。そんなわけで、きょうはMと一緒にアピタまで、というわけにはいかなかった。
 それどころか、Mは昼日なたから、裏庭と駐車場の境界辺りに生い茂った雑草を刈り取る重労働の作業をしており、それまで自室で小説を執筆中の私も何やら、ゴソゴソという音やら、玄関を出たり入ったりする物音に、ようやく彼女が一人で鎌やゴミ袋を手に下草刈りなどをしていることに気がついたのだった。
 私は、慌てて日除けの帽子をかぶり、手袋を手に現場に駆けつけたが、時すでに遅しですべてが終わったあとであった。それにしても、あの華奢なからだでよくもまあ~、と毎度ながら思う。それも二度、三度と大病を克服しながらの頑張りには、正直いって頭が下がる。
 私は悪い気がして一日中、シンと静かにしていたのである。

 和田へは歯の診療を終えたその足でマイカーで行ったが、家には誰も居ず、妹に電話して心当たりを聞くと「散歩じゃないかな」とのことだった。

 夜、Mと食事をしていたら、彼女は、こう呟いた。
 「それにしても、(あなたの)お母さんって。スゴイ。おうちの改造を前になんやかやと家財道具を整理整頓したあげくに、それでまだ散歩に出かける余力があるなんて。すごいわ」
 私はMの言葉を聞きながら「うちの女たちは、ボス猫のこすも・ここ、それにシロちゃんも含めて重ね重ね強いな」と思ったのである。ひ弱な自分自身を振り返ると、まさに穴があったら入りたいーとは、このことかと今更ながら痛感した。

 ドラゴンズは四連敗のあと、やっと新潟で横浜に勝った。
七日
 月曜日。白露。
 夜のニュースはどこもかしこも大リーガー、マリナーズのイチロー選手が大リーグでの二千本ヒットを達成した、というものばかりだった。
八日
 きょうは火曜日。Mが夜、フォークダンスの練習に行く日である。帰宅すると、Mはまだフォークダンスから帰っていなかったので、先に入浴。風呂から上がると、ちょうど彼女が玄関先でバタンバタンとドアを開け閉めする音がした。
 こうしたとき、シロちゃんは音を敏感に聞き取り、遅れてはならじ、と玄関先へ出てゆく。やがて、こすも・ここも、どこからか玄関先に出てきて、わが家がパッと、あかるくなる。三男坊は既に私よりもひと足に帰宅しており、先に風呂にも入り終えている。
 入浴上がりの食事は、Mがフォークダンスに出かける前にこしらえておいてくれた、おでんである。Mはフォークダンスの練習がある日は事前に、おでんとかカレーライスを用意しておいてくれる。気分が乗れば、志摩半島で海女さんたちが、作っていたのを見よう見まねで覚えたあの「手こねずし」が一皿に盛られていることもある。こんな時、私は心のなかで「やったあー」と新婚当時そのままの気持ちになり、叫ぶのである。
 私が昔も今も磯の香りがし、一本釣りのカツオの味がする、この手こねずしを大好きであることを、Mは知っているのだ。もしかしたら、M自身も大の好物なので自分で食べたくなって作ってくれているのかもしれない。

 中日は阪神の安藤投手を打ち崩し二勝して再び巨人を追っかける目が出てきた感じがする。巨人はなかなか負けず、きょうも勝った。捕手の阿部がよく打っている。外国人投手も13勝と大活躍だ。

 けさの新聞テレビは、先に三百八議席を取り、圧倒的大勝で政権交代を現実のものとした民主党の鳩山代表が、前日の七日に都内で開かれた環境問題シンポジウムの席で「二〇二〇年までに温室ガス25%削減(一九九〇年比)を目ざす」と表明した、とのニュースが中心である。経済界には反発する声が多い、との論調も目立ったが、ここは鳩山代表の強い信念の方にかけてみたい。
九日
 この日、ドラゴンズ球団広報に「関東に住む落合信者の少年・和也くん(小学四年生)からボールを預かっているが、監督のサインをもらえないものか」とお願いする。「試合の関係もあり、あまり期待されても困りますが。でも、たのんでみましょう」とのことで、こうした対応をうれしく思った。

 夜はナゴヤドームで欽ちゃん劇場が開演。というのは、タレントの萩本欽一さん率いる茨城ゴールデンゴールズと中日の二軍が争うという試みが、中日スポーツ創刊五十五周年を記念して行われたのである。
 欽ちゃんのマイクパフォーマンスはやはり面白く「さあ、名古屋野球物語の始まり、始まりイー」の言葉で舞台は開けた。結局5対1で二軍が勝ったが、岩田投手の公式戦での投球を初めて見るチャンスにも恵まれた。岩田投手は、ナゴヤ球場ですれ違った際など自分から「コンチワ」と礼儀正しくあいさつしてくれ、岐阜の出身でもあるだけに、私は彼に常日ごろから好感を持っている。
 それだけに、彼のマウンドに立つ姿が、まぶしく感じられた。
 ゲームの方は後半のクライマックス、9回表に入り、敵方の中日二軍・辻監督が相手チームのピンチヒッターに女性のアユミさん(片岡安祐美さん)をいきなり指名し、彼女が左前に球を転がし一塁に出塁すると、最後は欽ちゃんが、これまた辻監督の指名で最後のピンチヒッターとしてバッターボックスに立った。試合は、投ゴロとなった打球を岩田投手が捕って、一塁にゆっくり歩くように走りながら投げて終わった。観客も時間がたつに従い、招待客も含めて扇形状に膨れ上がり一万六千二百人が入った。
 この日は、カメラマン席の抽選による開放なども好評だった。公式ファンクラブのマスコットキャラクター・ガブリも、これまでの2番ゲートでの観客出迎えから、初めて1番ゲートで観客のお出迎えをする大役を担う、など歴史的な一日となり、初の試みとしては大成功だったと言ってよい。
十日
 きのうは少しばかり帰りが遅かったが、けさはMともども早く起きて、わが家のゴミ運搬車(愛車)でゴミ出しをした。そういえば、先日、母から預かり、これまで車の後ろに置いたままだった古書類やガラス瓶類もまとめて出した。
 ゴミ集積場でゴミだしをしている人々の表情を見ると、誰も彼もが同じ顔をしていることに改めて気付いた。皆、一刻も早くゴミを出さなければ、ゴミだけは出しておかなければ、といったせっぱつまった顔をして出しているのである。
 けさのゴミ当番さんの中に、妹のだんなさまに背丈と言い、メガネをかけた少し面長な顔と言い、さらには体を少しくねらせる仕草までもがそっくりの初老の男性がいた。この世には、そっくりな人物が三人ほどいる、と誰かに聞いたことがあるが、この日の事件はまさにそれに当たる。

 そっくりさん、と言えば私自身にも思い当たるふしがある。
 長崎大水害の取材で西日本新聞長崎総局をカメラマンと空路訪れた際、西日本新聞に私そっくりの記者がいて現地デスクに「どちらがどうだか判断に苦しんだ」という話を聞いたことがある。後年、七尾支局長のとき、和倉温泉の加賀屋で何かの集まりがあり西日本新聞の大幹部から「イガミさん、イガミさんですよね」と話しかけられてきたので「ええ、イガミですけれど。何ですか」と振り向くと「いや、あのとき私が現地キャップでして。ウチの記者の中にイガミさんそっくりの敏腕記者が居まして、どっちがどっちか分からなくて。いやあー、あの時は取材手配をするのに困りましたよ。中日さんから特派されて来ている記者さんに失礼があってはいけないし」と当時の取材にまつわる本音を聞かされたのだった。
十一日
 八年前のきょう、ニューヨークで9・11同時中枢多発テロが起きた。
 首謀とされたウサマ・ビンラディンさん、あなたは今いったい、どこで、どうしておいでなのでしょうか。
 当時、私は編集局デスク長として東京本社から送られてくる特報部の原稿をチェックしていましたが、あなたに関する洪水のような原稿を読めば読むほどに、あなたの存在が気になるようになってしまったのでした。
 ということで、私はその後、小説家・伊神権太として「懺悔の滴」などアナタに関する作品を書き続けているのです。

 今夜は横笛の稽古日。私は師匠から、いきなり「イガミさん、大切な笛の入ったバッグを地べたに置くことのないように。そしてそのバッグを、そのまま室内に持って上がったのでは、その人物の育ちが分かってしまう。品格が疑われます」とのきつい心得を、稽古の冒頭に教えられた。
 たまたま、この夜、私は師匠宅に着きキャッチホンを押す際に、確かにバッグを地べたに置いたのだった。師匠は、その様子を見ていたのだろう。
 「災害現場の取材など、路面に置かざるをえない場合だってあるのでは」とそれがすべてではない、と思いながらも「よく分かります」と私。本音を言わせてもらえば「だったら、生活形態の違う国の人々はどうしたらよいのか」と考え込んでしまう。
 とはいえ、師匠の指摘は正しく「確かに路上や地べたに置いたバッグを、そのまま室内に持ち込んで置いたのでは、相手に失礼に当たり、無神経だといわれて当然。これから気をつけなければ」と思ったりした。
 この日は、ほかに靴のこととか、三味線の渡し方などについても、あれやこれやと教えられた。師匠が私のためを思って言ってくれたことは十分、私にも分かっている。

 気分を取り直し自省して帰るとMが「Hが、ね。厚生病院に行っている。熱が高くてえらそうだったのでタクシーで行ったところなの」と心配そうに話しかけてきた。
 まもなくHからMに連絡が入り、「迎えに来て」とのこと。Mと一緒に車で迎えに行ったが、胃腸風邪ということで、なんだか肩の荷が下りた気がした。
十二日
 ナゴヤドームで公式ファンクラブ会員のプレゼンターから八月の中スポ月間賞に輝いたチェン投手にトロフィーと賞金が手渡されたが、ドーム職員で台湾に詳しいA子さんも途中から顔を見せた。三重県津市と京都から訪れたプレゼンターによるセレモニーのあとは、A子さんが廊下でひとときを北京語でチェン投手と語りあう、など中身の濃い一日となった。
 この日は、引き続いて公式ファンクラブのマスコット・ガブリが2番ゲートと五階パノラマ席横の通路でお客さまの出迎えや、記念写真を一緒に撮るファンサービスにも一役かったが、結構な人気でファンのみなさまに大いに喜ばれた。
 ドラゴンズは前日の山本昌投手に続き、小笠原投手が勝利投手になり、少しずつだが、調子が出てきている。首位を走る巨人もなかなか負けない。

 夜はテレビで「比島モンテンルパ108人の帰還」を見る。
 歌手で帰還に力を注いだ渡辺はま子さんの偉大さに感銘した。
十三日
 Mを伴って和田へ。実家の改造工事は「日がよい(大安)ので十七日から始める」とのことだった。たまたま兄も来ており、工事費の見積もりを一緒に見せてもらったが、かなりの額になる。税理士の妹が紹介してくれた業者で心配はないと思うが、何よりも無事に早く終わってほしい。私はオール電化にするかどうか、もあらためて確かめたが、「そうする」とのことで安心した。
 母も工事の間は離れで暮らすことになるが、風呂やトイレ、台所、窓ガラス…と、現代科学の粋が凝らされ、バリアフリィーにも細心の心遣いがされた新居同然となるだけに、「おかあちゃん、工事が終わるまで持たないかもしれない」なぞと私たちを脅さないで、無事完成を見届けたうえで、いつまでも長寿を全うしてほしく思うのである。

 中日はきょうもヤクルトに勝ち四連勝。中田投手に勝ち星がついた。巨人は強く、相変わらず、なかなか負けない。プロ野球というもの、勝ったり負けたりで人生劇場と同じである。よい日もあれば、悪い日もある。
十四日
 きょうの夕刊各紙の1面は、またまた、どこもかしこも大リーガー、マリナーズのイチロー一色である。
 「イチロー 9年連続200安打」「108年ぶり大リーグ新」「王さん祝福『まだ通過点』」「ずば抜けた集中力の持続」(毎日)「イチロー9年連続200安打」「128試合目、内野安打で」「日本野球の美徳結実」(中日)というものである。

 このところ私は、通勤途中や昼の休みに村上春樹さんの話題作「1Q84」(BООK1 4月~6月)=新潮社刊=を読み進めている。私の文学とは相いれない部分が多々あるが、なぜ、この本がこれほどまでに話題になったのか、を私なりに知っておきたいからである。

 Mは今日一日、夏物をしまい、代わって冬物のジュウタンやストーブ、布団を出したりするのに大忙しだった。あまり、無理しないでほしいのだが。彼女はやることをしっかりしてくれ、たのもしい。

 たった今、こすも・ここが私の隣に来てニャアーン、ニャアーン…と三声ほど声を出し、部屋から去った。なんだか「私もいる」「アタシだって、いるのだから」と自己主張しているようだ。しばらくすると、再びニャアーン、ニャヤーンと甘えた艶のある声がし、ひたひた、ペタペタと足の音がまるで畳にくっついて残るような音が聞こえ、筆を止め、顔を上げるとホラッ、また、こすも・ここがやってきた。それにしてもシロちゃんは、一体どこにいるのだろう。
十五日
 きょうは一生の不覚を指摘され、心が重い。
 それというのも、“ファンクラブの母”と会員仲間から親しまれている、あの北名古屋市に住む安江都々子さんの年齢を9月発行の会報で「八十一歳」としてしまったことである。本当は、まだ七十八歳なのに、だ。もはや活字となってしまった以上、取り返しがつかない。
 けさ、安江さんご本人から私に電話が入り「イガミさん。みんなが行く先々で会報読んだよ、読んだよ、と言ってくれるのは、うれしいですが。次に出る言葉が『安江さんって。えっ、八十一歳なの。驚いた。お若いので、とてもそんなふうには見えません』と口々に言うので実際は七十八歳なのよ、とイガミさんだけには言っておかなくちゃあ、と思い。電話させてもらいました。いつも、お心遣い、ありがとうございます」というものだった。
 私は、指摘されるそのときまで安江さんはすごく若くみえるが、本当は元日生まれでことし正月に満八十一歳になられたとばかり思っていたことに気付き、あらためて名簿で生年月日を確認したところ、やはり七十八歳が正しく、思い込みミスだと分かったのだった。
 安江さんは笑って、かぜに流してくださっていたが本当に申し訳ないことをしてしまった。それも女性に対して年齢を間違えてしまうとは。反省しきりで、この笛猫茶番の劇の本日付け日記でも、こうしてお詫びをさせていただいた次第です。ああ~、なんてことだ。
十六日
 国会で政権交代に伴う鳩山由紀夫新政権が誕生した。この日、鳩山氏は第九十三代首相に指名された。菅直人副総理兼国家戦略局担当大臣はじめ、国民新党の亀井静香党首、社民党の福島みずき党首も入閣し、なかなか味のある重厚な内閣である。
 そのなかでも私が率直に嬉しく思ったのは、滋賀県選出の川端達夫さんが文部科学省の大臣になられたことである。私は夜遅く、文部科学研究所の主任研究員で一橋大学准教授でもある長男にこう、電話をした。
 「お父さんが、大津主管支局長のときに仲のよかったというか、取材面でもよくしていただいたお方だ。日本のために、やってくれる人物だと思うよ。人間的にも素晴らしいお人だ」と。
 その通りで川端さんは大臣就任の記者会見で「日本の科学技術が世界をリードしていくようにしたい」と抱負を語られていた。こんごに期待したい。
十七日
 大安。私にとっては、満八十九歳の母の家(亡き父の家であり、私たち兄妹三人が育った家でもある)の改造工事が始まる日であることが最大のニュースである。
 幸い、きょうは晴天。工事が順調に進み、その間、天気がずっと良いように、と願った。
 朝。「いよいよだね」と電話をしようとも思ったが、電話の音に走って出ようとしてケガをしたら大変と思い、やめた。そして、わが心のなかで、もう一度、工事が無事に進むように、と天に向かって祈った。こ・こ・ろ、とは。こういう時に言う言葉なのだろう。

 けさの中日本紙朝刊1面見出しは「鳩山内閣が発足」「脱官僚へ民主政権」「3党連立 16年ぶり『非自民』」「官僚会見は原則禁止 官房長官『大臣が責任もち対応』」「核密約 一〇〇日内に調査 岡田外相命令」というものである。
                              (続く)