小説「チャールズ・ブコウスキーを知った日」

 重たい気分で電車を降りると機関銃のような雨が降りだした。
 改札を出た私は、しばらく降りしきる雨を見つめてからヤケクソな気分で家へと歩きだした。あいにく傘は持っていなかったし、ビニール傘を買うお金もなかった。外はまだ五時前だというのに鉛色の雨雲のせいで真っ暗だった。
 私はゆっくりとした足取りで生暖かい夕立の中を歩いた。満足に目も開けられないほどの雨に一分もしないうちにずぶぬれになった。水を含んだ夏物のセーラー服が肌にピッタリとくっついて気持ち悪かったが、気分はよかった。悪意があるかのような土砂降りが心地よかった。なんだか自分が安っぽい映画のヒロインになれたような気がしたが、事実私はこの日、ありがちなドラマのヒロインだった。
 私は三十分ほど前に一年間つきあった彼にふられていた。原因は同じ高校に通う中学時代の友達が偶然彼の二股を発見したことだった。彼女によると昨日、彼が、他の女と駅前のショッピングセンターにいたということだった。仲むつまじく手をつなぎながら。「ウソだ」と私は祈るような気持ちで言った。「本当だって」と彼女は返した。「なんなら証拠を見せるよ。携帯のムービーで撮ったから」。彼女はその映像を見せてくれた。確かにそこには親しげに女の子と手を繋いでいる彼の姿があった。まるで一億二千万円の宝くじが連続で十二回当たったような笑みを浮かべている彼の姿が。私は顔面が蒼白になった。横にいたのは私のよく知っている華子という小学校からの同級生だった。私に彼を紹介してくれたのも彼女だったし、口癖のように応援していると言っていた。
 当然、私は真相をさぐるべく学校のそばのコンビニの裏に彼を呼び出した。彼は私と同じ中学で今は私の学校から少し離れた場所にある工業高校に通っていた。メールで今日放課後に会いたいと言うと用があるからと言ったが、どうしても会う必要があるからと私は押し切った。彼は十分だけと言ってしぶしぶそれを認めた。私は悲しいような腹立たしいような悔しいような気分でコンビニに向かった。気のふれたように輝く九月の太陽の下を自らの墓場に向かうような気分でテクテクと。
 何も知らない彼はいつも通りの感じで少し遅れて現れた。一足先に到着していた私は彼を見るなり食ってかかった。彼は一瞬ハッとしたがすぐにそれを認めた。そしてただ一言「別れよう」と言って去っていった。理由も何も言わずに。まるでおまえなど惜しくもないと言わんばかりに。私はあまりの彼のそっけなさに呆然とするしかなかった。浴びせる気満々だった悪口雑言はどこかに消えてしまった。ただ自尊心がズタズタになっただけだった。彼は私と同様に本当にどこにでもいそうな十七歳で、これといったものがあるわけでもなかった。だが、ショックであることに変わりはなかった。私は彼が好きだった。女の子が私の中学時代の友達ということがそれに追い討ちをかけた。つまり私は友達と彼の両方に裏切られたのだ。しかも仲のよかった友達に・・・・。

 目の前が光った。一秒遅れて牛が螺旋階段を転げ落ちたような凄まじい音が辺りに響いた。その音に恐怖を感じた私はそばにあったタバコ屋の軒先に飛び込んだ。そこは辺りに立ち並ぶきれいなビルや、おしゃれな店とそぐわない昔ながらのタバコ屋だった。雨足がいっそう強まった。
 私は両手で髪を後ろにかきあげると雨に煙る通りを眺めた。そして背負っていたバックパックに彼からもらったキーホルダーがついていたことを思いだすと、それをひきちぎってゴボゴボと溢れる排水溝に投げ入れた。そのクマのキーホルダーは彼とお揃いのものだった。私は彼も今頃このキーホルダーを外しているのだろうかと考えた。彼はこのキーホルダーをつけて他の女の子、しかも私の友達だった女の子とハンバーガー屋にいったり、エッチをしていたりしたのだろうか。そう考えると腹が立った。ひょっとしたら今だってそうしているのかもしれない。
 また空が光った。さっきよりも大きな雷の音が辺りに響いた。私は一瞬目をつむった。私は小さい頃から雷が怖かった。でもこの日は一人ぼっちになった寂しさからか一層、恐怖感がつのった。彼がそばにいてくれたらいいのにと私は思った。なんで人は裏切るんだろう? 何で私よりもデブでブサイクな子と? 私には魅力がないんだろうか・・・・。
 そんなことを考えていると突然、自販機の陰から男が現れた。その男は私の横に来て腕についた水滴をはらうと唇をひん曲げながら誰に言うでもなく「たまんねぇよな」と洩らした。私と同様にずぶ濡れで、大きく肩で息をしていた。
 私は数秒ほどまじまじと男を見つめてから目をそらした。この人は何なんだろうと思わずにはいられなかった。男はまだ二十代半ばくらいだったが、そのいでたちは普通ではなかった。派手な刺繍の入った黒いシャツからのぞく腕は刺青だらけで、今どき紫色のラバーソールを履いていた。身長は一七五センチくらいで痩せていたが、ガッチリとした強そうな体格をしていて、髪型はあろうことかリーゼントだった。いずれにしてもまともではなかった。
「ちょっとごめんな」男はそう言うとたまらないといった感じの表情を浮かべた。「悪いけど俺も少し雨宿りさせてくれよ。この雨じゃ流されちまいそうだ」
 私は小さくうなずいた。なんとなく軽薄な感じのするしゃべり方だった。でも、見かけに反してあまり危険な感じはしなかった。切れ長だがどこか人なつっこいその目のせいかもしれない。私は男がわりとハンサムなことに気づいた。
 男は「あーあ」と洩らすと手に持っていたビニール袋を床に置いて、さっき私がしたように髪を両手で後ろになでつけた。それと同時に甘いバニラのような匂いが辺りにただよった。その匂いが香水なのか整髪料なのかはわからなかったが嫌な匂いではなかった。どちらかと言うと落ち着く匂いだった。私は眠くなるような悲しくなるような感覚を覚えた。
「タバコ吸ってもいいかな?」と男が言った。
「どうぞ」と私は返した。
「わりぃな」
 男は胸のポケットからタバコを取り出すとマッチをすって火をつけた。そしてマッチを振って火を消すとそれを排水溝に投げ捨てた。私は雨で冷えた空気の中を男の吐き出した煙が漂っていくのを見つめた。雨が止む気配はなかった。
「ついてねぇよ」と男は言った。「初めて来た町でこれだもん」
 私は男を見やった。また空が光って雷の音が辺りを揺るがした。
「この町に来るのは初めてなんだ」と男は続けた。「明日は名古屋で、明後日は大阪さ。割といい町だよな、ここは」
 私はどう返していいのかわからなかったので黙っていた。でも、気さくに話しかけてくれることがうれしかった。誰かに優しくされたい気持ちだった。明日は名古屋で明後日は大阪という言葉が、この人はクスリの売人か何かではないのかと一瞬思わせたがどうでもよかった。
「高校生かい?」と男は聞いた。
「うん」と私は返した。
 男は笑った。「そうだよな。セーラー服着た会社員がいるはずないよな。金で買える女ならわかんねぇけどな」
「私はちがうよ」
「いいことだよ。自分は大切にしねぇとな」
 男は口の端にタバコをくわえて私の横の自販機に歩いていくと、ジーンズの前ポケットから小銭を取り出した。
「何がいい?」
「えっ?」
「コーヒーかコーラーかジュースか?」
「コーヒーを」
 私はよくわからないまま言った。コーヒーと言ったのはそれ以外に言葉が浮かばなかったからだった。
 男は硬貨を自販機に入れると立て続けに二回ボタンを押した。そして取り出し口から缶を二つ取り出して元いた場所にもどるとその中の一つを私に差し出した。
「ミルクと砂糖が足りなくても文句はなしだぜ」
「いいの?」
「ショバ代だよ」
「ありがとう」
 私はそれを受け取るとプルトップを空けて一口飲んだ。普段ならくどいくらいの甘さだったがちょうどよかった。疲れた心と体には。
「なあ」と男はプルトップを空けながら言った。「なんかあったのかい?」
「えっ?」
「誰かの葬式みたいな顔をしてるぜ」
「ちょっとね」
「お気に入りの靴が濡れちまったからってわけではなさそうだな」
 男はおどけた感じでそう言うと私の靴を指差した。確かに私のお気に入りのピンクのコンバースは雨で濡れていた。それは彼がかわいいとよく誉めてくれたもので、選んでくれたのも彼だった。今から二ヶ月前に二人で買いに行ったのだ。学校の帰りに待ち合わせて。
「ちょっとちがう」と私は言った。「お気に入りだけど」
「かわいいもんな。その色」
「彼が選んでくれたの」
「そうかい」男はそう言うと人なつっこい笑みを浮かべた。「よく似合ってるよ」
 その一言が胸に刺さった。それはよく彼が言ってくれた言葉だった。私は急に涙が溢れてくるのを感じた。ねたみ、悔恨、愛おしさ、不条理さといっしょにさっきのことが脳裏によみがえってくる。私は涙を隠そうと右手で目の下を拭った。でも、同時に隠す必要などないような気もした。なぜだかこの男の前では・・・・
 男は驚いた様子で私を見つめた。「どうしたんだ。急に」
「実は、今日ふられたの。三十分くらい前に」
 男は一瞬私を見つめた。そして複雑な笑みを浮かべると言った。「大変な一日だったんだな」
 私は思わずうなずいた。本当にそうだった。少なくとも私にとっては。なぜだか解放されたような感覚を覚えた私はせきをきったように今日あったことを話し始めた。会話に好きという言葉と浴びせたくて浴びせられなかった悪態を交えて。目から涙があふれるにつれて雨足が強くなったような気がした。男は時おりあいづちを打ちながら自販機にもたれかかってそれを聞いた。
 一方的に話し終えた私はノドの乾きを覚えてコーヒーを飲んだ。そして目の下の涙を軽く拭うと言った。「何で男は浮気をするんだろう?」
 男は新しいタバコに火をつけた。「そういう生き物だからかな」
「男って最低だね」
「男から見れば女もそうさ」男はそう言うとニッコリと笑った。「でもなければ生きていけないんだ。やっかいだよな」
「うん」
 たいしたことのない言葉だった。でもその言葉は私の胸に深く染みた。男の低い声には不思議な説得力とどこか私を安心させるものがあった。男には私の知る大人達にないものがあった。それは自信にも似た包容力だった。男の立ち居振る舞いには自分が無敵だと思っているような節があったが、それがイカしていた。
「ありがとうね」と私は言った。「少し楽になったような気がする」
「そいつはよかった」
「でも、何で話したんだろう?」と私は言った。「会ったばかりの人に」
「俺が魅力的だからってことじゃダメかい?」
「いいよ。そうしとく。じゃあ、私が魅力的だから私の話を聞いたってことにしておいて」
「そうしとくよ」
 男は左手を上げて腕時計を見た。三日月のような形をした不思議な時計だった。「そろそろ行かなきゃな」と男は言った。「腹を空かせた猫達が俺の帰りを待ってるんだ」
「猫?」
 男は地面を指した。白いビニール袋越しに弁当の包みがいくつか見えた。「夕飯を買いに行ったんだ。そうしたら弁当屋の前に古本屋やら古着屋やらをみつけちまってな。つい道草を食っちまった」
「猫が弁当を食べるの?」
「ああ。器用に箸を使ってな。ギターも弾くし、ドラムも叩くんだ」
「サーカスの人?」
 男は笑った。「そいつはいいな。そう言われたのは初めてだ」男はそう言うと足元の袋の中から一冊の本を取り出して私に差し出した。「そうだ。君にこいつをあげるよ」
「ありがとう」
 私はそれを受け取った。それは赤いローマ字で『PULP』と書かれた文庫本だった。表紙にはアメリカンコミックに出てきそうな女の人が胸元をはだけている絵と、帽子をかぶった男が銃を片手にイスに座っている絵が描かれている。
「人生を笑い飛ばすための教科書さ」と男は言った。「元気がない時に読むと元気が出るんだ」
「私は本を読まないんだけど」
「そうかい。じゃあ、いつか気が向いたら読みなよ。きっと気に入るから」
 私は本の裏を見てみた。この近くの古本屋の棚から見つけてきたのか元の定価の上に百円のラベルが貼られていた。右上に書かれたあらすじを見たところダメ探偵の物語りのようだった。
「ねぇ」と私は言った。「お兄さんの名前は?」
「君の名前は?」
「私は絵美子」
「へー、俺の彼女の妹と同じ名前だ。ところでペンはあるか?」
「えっ、あるけど」
「ちょっと貸してくれないか」
「えっ、うん」
 私は背負っていたバックパックを下ろすと、筆箱を取り出してその中から青いボールペンを取り出した。何がしたいのかわからなかった。
「はい」
 私はペンを差し出した。男はペンを掴むと「それも」と言って本を指した。私が言われた通りにすると男は本の一番最後のページに手馴れた感じで何やら書き始めた。男は書き終えるとペンの尻を押して芯をしまって本と一緒にそれを差し出した。
「はい」
 私はそれを受け取ると男が開いたページをめくった。ローマ字で何やら書かれていたが読めなかった。キープ・オン・ロックンロールという言葉以外は。
「会えてよかったよ」と男は笑顔で言った。
 私はうなずいた。「私も。ねぇ、ところでなんて読むの? これは名前?」
「名前だよ。クラッカー・サンダーボルトっていうんだ」
「変な名前」
「ありがとよ。本名はむろんちがうけどな。それはステージネームだ」
「ステージネーム? バンドマン?」
「ようやく気づいてくれたか」
「ごめん。バンドマンってもっとカジュアルなカッコウしてるもんだと思ってたから。ジーンズにTシャツとか、短パンに大きめのTシャツとか」
「そういうヤツもいるけど、俺みたいなヤツもいるんだ。最近じゃ少なくなったけどな」
「だったら、もったいぶらずに最初からそう言えばいいのに」
「ああ。でも、今日は彼女のバンドのマネージャー兼、運転手だからな。今夜そこのクラブでやるんだ」
 私は一瞬、見に行くと言いかけて口をつぐんだ。お財布の中には五百円しかなかったし、彼女のバンドという言葉が気がかりだった。きっと私なんかよりずっとキレイな人なんだろう。
「さて、じゃあ、俺は行くよ」
「うん。いろいろとありがとう」
「何もしてないけどな。それと気休めにもならんかもしれんけど」と男は言った。「あんたを振った男はたいしたもんじゃねぇよ」
 私は何も言わなかった。複雑な心境だった。そう思いたい反面、そう思えなかった。
「また会おうぜ」
「うん」
 男は足元の弁当をつかむと弱まり始めた雨の中に飛び出した。そしてバシャバシャと水を跳ね上げながら歩道を進むと、二本目の角を回った。私は男の姿が見えなくなってからもしばらくその方角を見つめていた。なんだか狐につままれたような不思議な気持ちだった。

 翌日私は三十八度近い熱を出して学校を休んだ。昨日、ヒロインを気取ったのが悪かった。私は風邪を引きやすいタチだった。
 午前中は寝ていたのでよかった。しかし、午後になって目を覚ますと気分が重たかった。昨日のことが頭から離れなかった。私はなんとか眠りにもどろうと目を覚ましてからも、しばらくの間ベッドの中にいた。友達に裏切られ、彼に捨てられ、おまけに二日前に自転車を盗まれてしまった自分が我ながらかわいそうで布団の外に出る気になれなかった。私は何も考えないですむ夢の中にいたかった。
 しかし十八時間も眠った後ではムリだった。しばらくして尿意をもよおした私は思いっきり布団を蹴飛ばすとベッドから出た。そして寝すぎか、熱のせいかでフラフラしながらトイレに行って用を足すと台所に行ってテーブルに座った。テーブルの上には母が作っておいてくれたツナサンドが夕飯用の千円札と一緒に置いてあった。
 私はおいしいともまずいとも思わずに暗い台所でそれを食べた。熱があるのにツナサンドというのも変なものだが、忙しい彼女なら仕方がなかった。私の両親は共働きで母はいつも忙しかった。父に関してはこの一週間ほとんど顔を見ていない。多分出張か会社に泊り込みかのどちらかなんだろう。幼い頃からのことだし別にいいのだが。
 食べ終えた私は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して、背の高いコップに注いだ。そして一口飲むとベランダに出て外の景色を眺めた。空は抜けるように青く、眼下には細々とした家々や大小様々なビルが並んでいる。かすかなセミの鳴き声と、行きかう車の音が聞こえ、遠くに見える高速道路はスモッグでかすんでいる。日差しは暑く風はあまりなかった。私の家は十階建てのマンションの最上階だった。
 私は手すりに頬杖をつきながらまた考えた。何で啓太は私じゃなくて華子を選んだんだろうと。私のどこがダメだったんだろうと。私は彼にとって重荷だったんだろうかと。一人っ子ということは関係があるのだろうかと。ガリガリだから色気がないのだろうかと。いくら考えても答えはわからなかった。わかったことはいかに自分が彼に依存していたかということと、いくらなんでもあんな態度はないということだけだった。
 考えているうちに気分が暗くなってきた。部屋の中に戻ると手にしていたコップの中身を空にして自分の部屋に戻った。そして見るでもなくテレビをつけるとまたベッドに横たわって目をつむった。放送されていたのは別れてくっついてを繰り返す芸能人のことで、今度もまた年上の資産家と別れたようだった。その女優だがなんだかはフラッシュを浴びながら記者の質問に涙ながらに答えていた。
 進歩のない人・・・・
 どれだけ同じことを繰り返せば気が済むんだろう?
 でも何で?
 そんなことを考えていると突然、昨日出会った男が言っていた「でもないと生きていけない」という言葉が脳裏に浮かんだ。私はベッドから起き上がると床に転がっていたバックパックから昨日もらった本を取り出した。男が「人生を笑い飛ばす教科書だよ」と言っていたことが気にかかった。少なくとも一読の価値はあるように思えた。
 私は立ったままでパラパラとめくった。それからベッドに寝転んで本格的に読み始めた。字が少ないので活字が嫌いな私でも読みやすそうだった。
 私はすぐに物語に引き込まれた。今までに読んだことのない感じの小説だった。事件を解決していくというよりも勝手に事件が解決されていくような感じがおもしろかったが、それ以上に、普通じゃないユーモアの感覚と端々に見える筆者の思想が私を魅了した。主人公が貧乏でうだつのあがらないダメ探偵という部分にも共感できた。上手いとか下手といったことはわからなかったが、この作品にはまちがいなく力が溢れていた。簡単な言葉でぶっきらぼうに綴られた文章には不思議な高揚感があった。昨日の男が言っていた通りこれは人生の本だった。いかに不幸を笑い飛ばすか、いかに考えるか、いかに逆らうか。強烈な言葉の暴力だった。なんたる興奮! なんたる思想! なんていかした男なんだ、この主人公は!
 私はものの数時間で読み終えた。そして本をベッドに投げ出すと大急ぎで身支度を始めた。本屋に行ってこの作家の他の作品を探すために。気分がひどく高揚していたせいで熱があることはすっかり忘れていた。それどころじゃなかった。この作者の精神を一つでも多く体に叩き込みたかった。読めば読むだけタフになれるような気がした。
 身支度を終えた私は台所のテーブルにあった千円札をつかんでマンションの階段を下りた。階段を使ったのは主人公のニック・ビレーンがよくそうしていたからだった。階段を下りた私は意気揚々と夕焼けに染まる通りを歩いた。ニック・ビレーンそのものといった足取りで。町も人もいつもとちがって見えた。人が知らない物を知っているような、人に見えないものが見えるような気分だった。昨日のことはもう気にならなかった。ペインはまだ少し残っていたが華子と彼がどうしてようと、たいしたことには思えなかった。勝手にやればいい。私にはあんな男よりも大切なものがある。きっとどこかに。そう、『天国と地獄は自分で作るものさ』

 私はそれからの三週間を他に見つけたブコウスキーの作品を読んで過ごした。私はあの後『くそったれ少年時代!』と『ポストオフィス』という長編を読み、今は『オールドパンク哄笑する』という短編集を読んでいた。そのどれもが最高だったのは言うまでもない。全て叩きつけて書いていたし、叫んでいた。私は作品を読めば読むほど自分が変わっていくような感覚を覚えたが、それは周りのみんなも認めていた。学校の友達もバイト先のハンバーガー屋の人も私のことを最近では手強いヤツと思い始めていた。確かに私には人とちがう何かが備わり始めていた。何人かのクラスの男子がそんな私に好意をよせているという話も聞いたがそれはどうでもよかった。クラスの子達もバイト先の大学生も全くの子供に思えた。クラスの女子は私が、男を寝取られたと噂をしていたがそれもどうでもよかった。噂話し以外にすることのない退屈な連中はそこら中にいる。
 かといって男に興味がなくなったわけではない。私は時おり、あのリーゼントの男のことを思い、後悔した。せめて電話番号くらいは聞いておくべきだったと。あの後、男が向かった方角にあったクラブのスケージュール表を見てみたが、どのバンドのことを言っているのかはわからなかった。その日はかなり大きなイベントがあったらしく、出演者のほとんどは県外からだった。しかし、私には一つのことがわかっていた。それはあの男のクールな立ち居振る舞いや、言葉の重みには少なからずブコウスキーが影響を及ぼしているということだった。私は彼のようになりたかった。万国共通のいい女に。痛みも悲しみも笑い飛ばせるような女に。
 そんなある晩、いつものように部屋で本を読んでいると勉強机の上の携帯電話が鳴った。私は読んでいた本を閉じるとベッドから起き上がって机に歩いて行った。液晶に目をやると非通知だった。
 電話は執拗に鳴り続けた。私はジッと液晶を眺めたが出ずにそのままベッドに引き返して再び読書に戻った。読んでいたのは学校の帰りに古本屋で買ったジョン・ファンテの『塵に訊け!』だった。あのブコウスキーが私の神様と呼んだ作家だけあって素晴らしかった。ブコウスキーの敬愛に満ちた序文もよかった。私は今夜中にこれを読破する予定だった。
 私はすぐに本の世界にもどった。それと同時にまた電話が鳴った。私は舌打ちをしてベッドから起き上がると再び机に歩いていって液晶を見た。また非通知だった。私はしつこいセールスだなと思いながらまたベッドに戻った。
 電話は二十秒ほど鳴って切れた。するとまたすぐに電話が鳴った。ここにきてこれはセールスじゃなくて変質者だと私は思った。いくらなんでも異常だった。私は怖くなって立ち上がると机に行って携帯電話の電源を切った。一瞬、この間のリーゼントの男かとも思ったが、そんなはずはなかった。電話番号すら交換していないんだし。それにもし、なんらかの理由で私の電話番号を音が知ったとしても、こんなことをするはずがなかった。まさか私の自転車を盗んだ犯人? いや、あれに電話番号は書かれていない。住所だけだ。だったらなおさら危険なのとちがうか?
 そんなことを考えていると今度は家の電話が鳴った。私は驚いて部屋のドアを見つめた。電話の音が狂ったように廊下にこだましている。まるで逃がしはしないとでも言わないばかりに。私はジッとドアを見続けた。やがて父と母の寝室のドアが開く音が聞こえた。二秒ほどして受話器を取る音と寝起きの母の声が聞こえる。「出ちゃダメ」という言葉が舌の先まででかかっていたが母がどんな反応を示すのかが気になってもいた。「しばらくお待ち下さい」という言葉と母が私の部屋に向かってくる足音が聞こえる。
「絵美子!」ドアの外で母の声が聞こえた。「電話よ!」
 私はドアを開けた。寝ているところを起された母は非常に不機嫌そうだった。白髪交じりの茶色い髪はボサボサで黒地に赤いバラがついたパジャマを着ている。このかっこうではそう思えなかったが母は私とちがって整った顔をしていた。目が大きく鼻が高い。
「誰?」と私は聞いた。
「学校の友達でしょ。田村君って言ってたわ」
「田村? 私にそんな友達はいないんだけど。村田ならいるけど」
「だったらその子よ」
「本当に?」
「知らないわよ。そんなの」母はそう言うと腹立たしそうに私にコードレスタイプの受話器を押し付けた。「その子に言っておきなさい。こんな時間に電話してくるなって。私もお父さんも朝早いんだから。もう十二時半よ」
 私が受話器を受け取ると母は「まったく」と洩らしながら寝室に向かった。私は少し考えてから保留ボタンを押した。一瞬、切ろうかと考えたが、そんなことをしてもすぐにかけてくるだけだと思ったので止めておいた。電話線を切るか電話局を爆破すれば話は別だが。
「もしもし」と私は恐る恐る言った。
「もしもし、絵美子?」
 私は仰天した。彼の声だった。なぜだか哀れっぽい声を出していたがまちがいなかった。
 彼は続けた。「おい、なんで出ないんだよ」
「あんたこそなんで非通知なのよ。おまけになんで偽名なんて使うわけ?」
「えっ? だってそうしたほうが出てくれるかなって」
「あんた時計は見ないわけ?」
「どうしても絵美子の声が聞きたかったんだ」と彼は言った。「なんか変わったな。おまえ」
「人は変わる生き物だから」
 私は彼が華子とうまくいってないことを悟った。それで私に電話してきたんだ。
「元気か?」
「まあね」
「新しい男はできたか?」
 私はあくびをした。やっぱりそういう方向に話を持ってくるか。たいした根性の持ち主だ。こんなことをするにはかなりの恥知らずである必要がある。向こうはドキドキしているようだったが、私はきわめて普通だった。
「できてないのか?」
「できてない」
「離れてわかることってあるよな。例えば・・・・」
「ディズニーランドの魅力とか?」
「おい、俺は本気だぞ」
 私は何も言わなかった。頭の中で言うべき言葉を探した。来るべき時が来た時のために。彼の困惑が手にとるようにわかった。きっと彼は私が喜ぶと思っていたのだろう。予期せぬ彼からの電話に狂喜すると。でも物事はそうそううまくいかない。アーメン。
「俺はバカだったよな」と彼はつぶやいた。「絵美子みたいないい女を捨てて華子みたいな女とつきあって。自分でも何でそんなことをしたのかわからないんだ」
 私はおなかの辺りにできたアセモをかいた。確かに彼の言う通り離れてみてわかることがたくさんある。今の私には彼が映画の見すぎのように思えた。今は彼の色々な部分がよく見える。面白みも深みもまるでない。自分はこんな男に抱かれて喜んでいたのか。バタートストほどの価値もないこの男に。
「人はみんなまちがいを犯すよな」
「犯さない人はいないんじゃない」
「よく最近、絵美子のことを考えるんだ」
「飽きたんじゃない」と私は言った。「身長一五五センチ、体重六十八キロのデブを抱くのに」
 彼は私の言葉を無視して言った。「いっしょにいた時は楽しかったよな」
「そういう時もあったよね」
「二人で靴を選びに行った時のことは覚えてるか? おまえが一時間も迷ってようやく買った時のこと。途中でそばのマックに行って二人で話したよな。ピンクにするか赤にするかって」
「そうだったね」
「華子はダメだ。あの女には何もない。いっしょにいてもときめかない」
「そう」
「一度壊れたものは戻ると思うか」
「思わない」
「俺は思うんだ。人の心は物じゃないんだから」
 沈黙が訪れた。その言葉はひどく空しく響いた。私には彼が混乱しているように思えた。ちょうど深い泥沼に落ちたように、引いていいのか押していいのかわからない状況に陥っているようだった。
「一度しか言わないからよく聞けよ」としばらくして彼が切り出した。私は彼が真剣な表情を浮かべている姿を想像した。大便をガマンしているかのような表情を浮かべていることを。
「もどろうぜ。やっぱり俺はおまえじゃないとダメだ。俺はおまえが好きだ。絵美子」
私は笑った。「はっ、母ちゃんとファックしなよ」
「何?」
「ファックしやがれ!」
 私は電話を切ると受話器をベッドに放り投げた。そしてしばらくの間、ジッと鏡を見つめてからニヤリと笑った。自分の言いたかったことが言えてうれしかった。それは『PULP』の中で私が特に気に入っていたセリフだった。言うべき時、言うべき相手、全てが完璧だった。私はこの三週間で明らかに変わっていた。きっといい女に。
 やがて私は勉強机に歩いて行くと引き出しからトリスの小瓶を取り出して一口飲んだ。そして少し考えてからイスに座ると机の上にあったノートに文章を書き始めた。

 重たい気分で改札を出ると機関銃のような雨が降りだした。
 改札を出た私はしばらく降りしきる雨を見つめてからヤケクソな気分で家へと歩きだした。あいにく傘は持っていなかったがビニール傘を買うお金もなかった。外はまだ五時前だというのに鉛色の雨雲のせいで真っ暗だった・・・・。